ライン

 聖書に聴く
        


命の御言葉
    
平尾 輝明



 人間が生きていくのに必要なものは沢山あります。食べ物や水は、それがなければ生命を維持することができません。イスラエルの人々は、神様の偉大な力によって、モーセをリーダーとしてエジプトから救い出されましたが、しばらくすると喉が乾いただの、腹が減ったなどと文句をいい、エジプトで暮らしていたほうがよかったとまで言う始末でした。イスラエルの民が困難にあうたびに、神様はいつも必要を満たしてくださいましたが、一つ満たされても別のものが不足すれば、また文句を言うことの繰り返しでした。
 
 私達人間の欲求は、次から次と沸いてきて満足することはないようです。
たとえ今欲しいものが、自分の思い通りに希望したものが得られても、一旦それを手にしてしまえば次のものが欲しくなります。どんなに物質的な豊かさが増しても、それだけでは満たされて生きることはできません。与えられる感謝と生きるための希望がなければ満たされないのです。その希望は自分の中から湧き出てくるものではなく、与えられるものです。自分を信じることが大切だという人がいますが、はたして限界のある自分の中に希望が見つけられるのでしょうか?私達はどんなに思い悩んでも、命を一秒たりとも自分で永らえることはできないのです。自分自身をただ見つめるだけでは生きる希望は湧いてきません。人間は弱いものです。人は、自分自身も含め人間に頼ろうとするとき、裏切られ、失望し、いきいきと生きることができなくなるのです。私達はどうすれば希望をもって生きることができるのでしょうか?
 

 旧約聖書の申命記32章47節に、聖書の御言葉は「あなたたちにとって決してむなしい言葉ではなく、あなたたちの命である。」とあります。神様によって救い出された私達が何をすればよいかを自分の中に見つけようとするのではなく、御言葉に聴き、神様にたずね求めるのです。苦しい時、悲しいとき、疲れたとき、人は希望を見失いがちになります。何のために生きているのか?と、人生の指針がほしいと切に願うことがあります。私達は生き方がわからなくなったからこそ、御言葉に立ち返るのです。私達には神様から命の御言葉が与えられているのです。聖書の御言葉を思い起こすことによって、神様から希望が与えられていることを知るのです。すべてを神様にゆだねてから自分を見つめるときに、生きる具体的な希望が与えられるのです。神様の言葉には私達が生きるために必要なことが含まれているのです。人の言葉はむなしく終わるかもしれませんが、神様の言葉は私達の命なのです。 

 


 




ライン