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オサーマ・ビン・ラーデンのつくりかた
オサーマ・ビン・ラーデンは1957年あるいは1958年(イスラーム暦1377年)、サウジアラビアの首都リヤードで生まれた。父親はサウジアラビア最大のゼネコン、ビン・ラーデン・グループの総帥、ムハンマド・ビン・ラーデンである。
生地や生年月日ははっきりしない。サウジアラビアではファハド国王やアブドゥッラー皇太子の生年月日すら資料(公的なものを含む)によりまちまちであり、オサーマの生年が数年ずれているのは当然かもしれない。1377年説はオサーマとインタビューしたアラビア語のニダー誌によるが、米国防総省のファクトシートでは1955年ごろとなっている。また生地ではジェッダ説をとなえる資料も多い。
オサーマの他の兄弟についてはよくわかっていない。バクルが現在、ビン・ラーデン・グループを率いているが、オサーマ自身は20数人の息子のうちの1人(米国務省)とも、また52人の息子のうち17番目(米ABC)ともいわれている。1999年に出たサイモン・リーヴの本によると、17番目となっている。
オサーマの兄弟の1人、ハーリドもオサーマに同調して、そのグループに加わっているともいわれている。
ムハンマドには10人以上の妻がいたとされるが、オサーマの母はパレスチナ人だといわれている(米NBCによる)。ムハンマドの妻としては唯一のパレスチナ人であり、なおかつオサーマには同腹の兄弟がいなかったともいう。こうした点がのちのオサーマの人格形成に何らかの役割を果たした可能性は否定できないだろう。ただし、ニューズウィーク誌によれば、母親はアラビア半島中央部出身だという。また8月29日付AP通信は、かれの母親をシリア人としている。サイモン・リーブは、ビン・ラーデン・グループに近い筋を引用して、オサーマの兄たちがオサーマのことを「奴隷の息子」と呼んでいたことを紹介している。オサーマの生まれたころは、サウジアラビアにはまだ奴隷制度が存在していたので、オサーマの母が奴隷出身であるというのはありうることだが、当時の奴隷の大半は黒人奴隷であり、シリア人の奴隷というのはほとんど知られていない。
母親や兄弟、またかれ自身の家族についてもよくわかっていない。NBCの紹介した母親=パレスチナ人説というのはかれの人格を研究するうえで、興味深いが、米国諜報筋からの情報であり、確証はない。ただし、ニューズウィーク誌やAPの記事と共通する点がひとつある。それはかれの母親が他のムハンマドの妻と異なり、唯一のパレスチナ人であったり、唯一のアラビア半島中央部出身者であったり、唯一のシリア人だったということだ。つまり他の数多くの兄弟たちのなかでかれは明らかに異なる存在だったということである。
父のムハンマドは、ビン・某という名前から想像できるように、イエメン、ハドラマウト出身で、サウジアラビアの近代化のなかで成長してきた立身出世の代表的人物の1人である。ハドラマウトは貧しいイエメンのなかでもとりわけ貧しい地域で、その貧しさゆえに、ハドラマウト出身者は古くから、その土地を離れ、サウジアラビアや東南アジアなど遠い異国の地で活躍する例が少なくなかった。サウジには今でもビン・ザグルとかビン・マフフーズといったハドラマウト系財閥がいくつも存在している。ビン・ラーデンはそのなかでももっとも代表的な財閥の1つである。
ムハンマドは煉瓦積み職人から身を興し、やがて独立して建設会社を設立する。かなり早い時点で当時のアブドゥルアジーズ国王に取り入り、政府の公共事業をつぎつぎと受注して大きくなっていった。そのなかには、オサーマに強い印象を与えたマッカ、マディーナのモスク再建などもあるが、ビン・ラーデンはとくに軍関係の契約に強いことでも知られている。
ムハンマドは非常に敬虔な人物だったといわれている。自家用飛行機を駆使して、朝はエルサレムで礼拝し、昼はマディーナ、夜はマッカで礼拝したという。皮肉なことに、ムハンマドはその莫大な富を象徴する自家用機の事故で1960年代後半、死亡した。オサーマはまだ10歳前後であった。
オサーマはその後、マディーナおよびジェッダで育ち、ジェッダの高校を卒業後、名門アブドゥルアジーズ国王大学に入学、財閥の御曹司らしく経営と経済学を学んだ(またニューズウィーク誌によれば、英国で工学を学んだことになっている)。しかし、高校時代の1973年にはすでにイスラーム系のグループ(実体は不明)との接触を行っていたといわれている。
経営および経済学を学んだというのは前述のニダー誌の記述にもとづいている。しかしAPによれば、オサーマは同大学で土木工学を学んだという。これもまた情報が錯綜しているところのひとつである。
また高校生のころはベイルートあたりで飲んだくれていたとの報道もある。
家族
オサーマと会見した英国インデペンデント紙のロバート・フィスク記者によれば、オサーマには3人の妻がいるという(すくなくとも1996年時点)。しかし、同記者が1993年12月にオサーマとはじめて会見したときには、妻の数は4人としている。また子どもは少なくとも2人いる(オマルとサァドという2人の息子がフィスク記者の会見のときに、同席していたという)。
AP通信によれば、オサーマの妻はシリア人1人、サウジ人2人だそうだ。ちなみに子どもの数は15人程度という。
前述のとおり、父親はかれが子どものときに死亡しているが、少なくとも母親は1996年までは生存しており、反政府活動を行うオサーマを説得するため、スーダンまでかれを訪ねてきている。
そしてどうでもいいことだが、オサーマはスーダンやアフガニスタン初期の西側メディアとの会見ではサウジアラビアの民族衣装であるトーブ、頭巾(シマーグあるいはゴトラ)という格好だったのが、最近のCNNとかABCとのインタビューではなぜか白いターバンを着用している。何か特別の意味でもあるのだろうか。ちなみにサウジアラビアでターバンを巻くのは通常南部出身の人たちである。もちろんアフガニスタンでもターバンを巻く習慣はある。オサーマもアフガニスタン時代のフィルムではシマーグをターバン風に巻いていることがある。
周縁者としてのオサーマ・ビン・ラーデン オサーマが物心ついたころにはビン・ラーデン・グループはすでにサウジアラビアのみならず中東有数の金持ちであった。莫大な資産やサウード家との密接な関係はありながら、実はオサーマそしてビン・ラーデン一族は、どうしてもサウジアラビアの保守本流にはなりえない要素があった。
まず第一にビン・ラーデン一族がイエメン出身であるという点である。これは、イエメン出身だから金持ちになれないという意味ではない。政治的、あるいは宗教的エスタブリシュメントとして立身出世していくのが難しいということである。
さらにオサーマ自身の周縁性がここにくわわってさらに複雑化してくる。たとえばシリア人あるいはパレスチナ人の母親。サウジアラビアの文脈では母親の出自もきわめて重要である。母親あるいはその一族の影響力も(もしあればであるが)重要だし、さらにはみずからのアイデンティティーの一部に豊かな文化を誇るシャームの世界を見ることも可能であろう。かれの徹底したイスラエル嫌いもこうした点と関係があるかもしれない。
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