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オサーマの聖戦
オサーマの人生が激変するのは1979年である。大学を卒業するかどうかというときだ。この年はイスラームの歴史上もっとも重要な年の1つである。イランではイスラーム革命が起き、サウジアラビアではネオ・イフワーンと呼ばれる狂信的な若者たちによるマッカ占拠事件があり、そしてアフガニスタンにソ連軍が侵攻した。1979年12月もあと数日を残すばかりになったとき、オサーマはソ連軍と戦い、同じイスラーム教徒を解放するため、実家からもってきた数台のブルドーザーとともにアフガニスタンの地に立っていた。オサーマは異教徒からムスリムを守るムジャーヒディーン(聖戦士)となったのである。マッカを占拠していた若者たちが政府軍によって鎮圧され、処刑されてから、ほんの数週間しか経っていない。
その当時のオサーマのアフガニスタンに関する知識は頼りないものである。同じムスリムの国であるということと、いい馬がいるということぐらいだったといわれている。いずれにせよ、オサーマにとってアフガニスタン時代はもっとも重要な時期だといえる。のちにかれは、アフガニスタンでの1日はモスクでの礼拝の千日分にあたると述懐している。
アフガニスタン時代については1996年に出された米国務省のファクトシートがくわしい。それによれば、オサーマはアフガン戦争中、とくにアラブ義勇兵のリクルート、輸送、訓練への資金提供で重要な役割を果たしていたという。1985年までは、その資金は、彼の一族の富および湾岸の富裕な財閥たちからの寄付でまかなわれていた。かれはこのためにイスラーム救国基金
Islamic Salvation Foundation (カーイダ al-Qaida)を設立する。
カーイダのリクルート・センター、宿泊施設のネットワークはエジプト、サウジアラビア、パキスタンにあり、数千人のアラブ義勇兵を登録、庇護しており、また、エジプトの原理主義グループ、ガマーア・イスラーミーヤなどと協力して、アフガニスタンやパキスタンに軍事キャンプを組織、軍事訓練を提供していた。
カーイダのもと、オサーマはブルドーザーなどを購入して、道路、トンネル、病院などを建設した。かれがリクルートしてアフガニスタンに送ったアラブ人の数は数千人にのぼる。
別の資料によると、オサーマは、パレスチナ生まれのアブドゥッラー・アッザーム師とともに、ペシャワールにムジャーヒディーン事務所(「奉仕事務所」)を設置、さらにシッダSiddaキャンプを作ったとされる。またムサーアダートゥルアンサールという基地を建設したともいわれている。
アブドゥッラー・アッザームとオサーマの関係は複雑である。当初は緊密な協力体制を築いていたが、1980年代後半から両者のあいだはぎくしゃくしはじめる。路線をめぐる対立ともいわれ、オサーマが運動を世界規模に拡張する路線を主張したのに対しアブドゥッラーが聖戦を実行するムスリムに限定すべきであるという立場であったとされる。なおアブドゥッラーはムスリム同胞団のメンバーであり、ソ連軍のアフガン侵攻時にはオサーマが学んでいたアブドゥルアジーズ国王大学で教えていた。オサーマが直接れの教えを受けていた可能性は高い(したがってかれがワッハーブではなくムスリム同胞団である可能性もある)。ムスリム同胞団は中東各地を追放されたのち、かなりの数がサウジや湾岸に入り、教師や宗教関係の仕事についている。現在サウジ国内で投獄されている宗教指導者の1人で、オサーマもその釈放を要求しているサルマーン・オウダも同胞団だといわれている。
カーイダは、オサーマが1988年にアブドゥッラーと決別後、設立した組織である。1989年、アブドゥッラーが2人の子どもとともに暗殺されると、奉仕事務所も分裂、過激なグループはオサーマ側にくわわったとされる。なお8月19日付の米ワシントン・ポスト紙は、大使館爆破事件の容疑者が、アブドゥッラー・アッザーム暗殺はオサーマが命令したものだと自供していると報じた。オサーマはアブドゥッラーが米中央情報局CIAと関係していると疑っていたという。
さらに、1986年と1989年にはジャラーラーバードでアラブ義勇兵とともに戦闘に参加した。とくに後者はアラブ義勇兵の参加した戦闘のなかでは最大のものとされる。アフガニスタン解放においてアラブ義勇兵がどの程度の役割を果たしたかはわからないが、少なくとも大半のアラブ義勇兵たちが、かれらの活躍はソ連軍の撤退に大いに貢献したと考えているのは間違いないだろう。
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