osama bin laden

オサーマ・ビン・ラーデン

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アフガン後

米国務省によれば、1989年のソ連の撤退後、オサーマは家業に復帰したといわれている。オサーマ自身の言葉によれば、「わたしのムジャーヒディーンが勝利し、ロシア人を駆逐すると、ゲリラ運動の内部での対立が表面化したため、ターイフ、アブハーなどサウジ南部で道路建設に復帰した」という。

しかし、別の資料によれば、オサーマは80年代初頭からアフガニスタンと並行してイエメンでも活動を行っていることになっている。すなわち南イエメンの共産政権に対する戦いである。こちらは90年代まで継続したという。

国務省の資料によると、オサーマはその後もイスラーム過激派の支援を継続している。サウジ当局は1989年から1991年のあいだ、オサーマの旅券をとりあげ、過激派との接触を禁止しようとしている。この期間は湾岸危機、湾岸戦争があり、サウジアラビアが政治的に揺れ動いた時期である。このときのオサーマの動向は残念ながらはっきりしない。だが、いろいろな民主化運動、米軍駐留に反対する運動などと関わっていた可能性は否定できないだろう。事実かれは湾岸危機、湾岸戦争前後にサウジアラビア国内で出されたいくつもの建白書を非常に高く評価している。またかれ自身、スルターン国防相に建白書を送り、かれおよびかれの仲間でサウジ人を訓練し、イラクの脅威からサウジを防衛できることを説明しているという。

1991年、サウジアラビアでの活動が困難になったため、オサーマはスーダンにいく。かれはすでに1983年からスーダンでビジネス、農業投資の機会を調査しており、1990年にはいくつものプロジェクトを動かしていた。国民イスラーム戦線NIFのハサン・トラービーの庇護もあり、1991年のスーダン移住後はNIFと協力しながら、土木インフラ開発プロジェクトを推進していく。

国務省によれば、オサーマの会社、al-Hijra for Construction and Development, Ltd.はハルトゥームとポート・スーダンを結ぶタハッディー街道を建設したほか、ポート・スーダン近郊に近代的な空港も建設している。またオサーマは、貿易会社、Wadi al-Aqiq Company, Ltd.をもっており、スーダンのゴム、トウモロコシ、ヒマワリ、ゴマなどの輸出をほぼ独占していた。農業という意味では、かれはal-Themar al-Mubaraka Agriculture Company, Ltd.という会社ももっており、ハルトゥーム近郊およびスーダン東部に大規模な農地を所有していた。

金融面では、NIFとともに、al-Shamal Islamic Bankをハルトゥームに設立し、5000万ドルを投資した。

オサーマの企業は多くのアフガン義勇兵を吸収している。1993年3月にパキスタン政府が国内の過激派一掃をおこなったとき、オサーマは300人から480人の元義勇兵をパキスタンからスーダンに移送している。

かれの資金量については憶測しかない。1996年の米タイム誌の記事では、オサーマはおそらく3億ドルの資産をコントロールできるとしている。この金額がほぼ定説になっているが、はっきりとした数字はわからない。かれはこれを英国などを経由して配下に配っているともいわれるが、8月26日のロイターによると、オサーマのために数百万ドルの資金洗浄を行っていたという女性の話を紹介している。同女性は、1983年から1990年までオサーマを助けていたと述べており、検察当局によれば、約15年前、オサーマによってスイスから仏、モナコに3000万ドル送金するよう要請され、大部分は成功したという。ただし、オサーマとの接触は9年前に途切れたとされる。

かれがスーダンを離れるとき、自分がスーダンを出ることは自分よりもスーダン経済にとって打撃であると豪語している。

その後、1994年2月20日、ビン・ラーデン・グループの会長であるバクル・ムハンマド・ビン・ラーデンはサウジの各紙にファックス・メッセージを送付、同会長およびビン・ラーデン一族はオサーマのこれまでの行動を遺憾とし非難するとともに同人を許すべからざる人物として一族から追放することに決したことを明らかにした。さらに、同年4月6日、サウジアラビア内務省は「サウジアラビアの国益に反し兄弟国との関係を害しているオサーマ・ビン・ラーデンの驚くべき無責任な行動ならびに同人に対するこれまでの命令に同人が耳を傾けようとしないため、サウジアラビア国籍法第9条の規定によりオーサマのサウジ国籍を剥奪することに決した」との声明を発表する。

オサーマはこうした事態を受け、「忠言と改革委員会」Advice and Reform Committee (ARC)というグループを設立した。同委員会は1994年7月11日、諮問評議会を開催(議長はオサーマ)、ロンドンに事務所を開き、ハーリド・ビン・アブドゥッラフマーン・ファウワーズを所長に任命することを決めた(なおファッワーズは別のインタビューで、同グループの起源が、西側の軍隊が駐留してきた湾岸戦争にまで遡れると語っている)。同委員会はロンドンを拠点に反サウジ政府のキャンペーンを展開、米国務省にによれば、1995年7月までに350以上の反サウジ・パンフレットを発出したという。ただし、オサーマ自身が英国に入っていたかどうかはわからない。なおファウワーズは9月23日、ロンドンで英MI5およびスコットランドヤードによって、逮捕されている。しかし、すぐに釈放され、裁判をうけることになっている。

法的権利擁護委員会CDLRのムハンマド・マスアリーによれば、ファウワーズは忠言と改革委員会で、報道のモニターおよび声明の配布の役割を果たしていたという。ファウワーズは、逮捕の前日、維持の余裕がないとして、忠言と改革委員会のロンドン事務所を閉鎖すると発表している。9月27日付の英タイムズ紙によると、ファウワーズは、オサーマが米国に対する宣戦布告をした2年前から、オサーマとは一線を画していたという。

なお9月26日付米ニューヨーク・タイムズ紙は、ニューヨークの米連邦地裁で公開された検察側の資料を引用、オサーマ率いるカーイダが、1993年に核兵器の開発に乗り出そうとしていたと報じた。また同紙は、独で逮捕されたマムドーフ・マフムード・サーリム容疑者が計画の中心的な役割を果たしており、オサーマンの組織が少なくとも1回、濃縮ウランを購入しようとした証拠書類があるとも報じている。

さらに同紙は、オサーマの組織はイラン、スーダン両国との間で、米国、イスラエル、西側に対する共闘で合意していたとも伝えた。報道によれば、サリーム容疑者は、テヘランとハルトゥームでイラン当局者と会っており、オサーマの配下のものたちがレバノンでヒズブッラーから爆発物の訓練を受けられるようアレンジしたという。

もちろん、イランはこれを否定している。9月29日に出されたイラン国連代表部の声明によれば、イラン政府は、イランがオサーマおよびその仲間といかなる目的でも関係、協力、合意があることを断固否定した。


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