ディルムンとは紀元前3000年紀ごろにアラビア半島東部に栄えた古代文明である。中心になるのは現在のバハレーンだが、それだけでなく、クウェート、サウジアラビア東部、カタル、アラブ首長国連邦など広い範囲に分布していたと考えられる。1953年、英国人考古学者ジョフレー・ビビーがバハレーンで直径約1cmの丸い凍石(ステアタイト)製印章を発見したことで、この文明にはじめて研究の光が当てられることになった。ビビーはこの発見について
ジョフレー・ビビー『未知の古代文明ディルムン-アラビア湾にエデンの園を求めて』矢島文夫、二見史郎訳、平凡社、1975年
のなかでくわしく書いている。
重要なのは、ビビーの発見した印章と同じタイプのものがメソポタミアのウルおよびモヘンジョダロで発見されていたことである。これはつまり、メソポタミアとインダス文明のあいだにペルシア湾経由で交易が行われていたことを示している。貿易品目としては金銀銅、ラピスラズリ、紅玉髄のビーズ、象牙、珊瑚などが記録に残っているが、「魚の目」という記述があることが注目される。バハレーンがこののち天然真珠の一大産地として知られていくことを考慮すると、この「魚の目」は「真珠」のことと考えられる。
シュメールの楔形文字粘土板にディルムンに関する記述が多数残されている。たとえば、
キシュの王 シャルルキーン1。彼は34回もの戦闘を勝ち抜き、海の果てに至るまでの城壁を打ち壊した。メルッハ2の船、マガンの船、ディルムンの船をアッカドの港に停泊させた。3
とある。さらに、
ディルムンの地は澄み、ディルムンの地は聖なり
ディルムンでは大鴉は叫び声をあげることなし
野生の雌鳥は野生の雌鳥の声を上げることなし
ライオンは殺すことなし
狼は子羊を連れ去ることなし
肝臓を喰う野生の犬は知られず
穀物を喰う猪は知られず
寡婦が屋根に麦を広げれば
その麦芽を天の鳥は食べることなし
鳩は頭を傾けることなし
目を病むものものが「わたしは目を病むもの」ということなし
頭を病むものがが「わたしは頭を病むもの」ということなし
年取った女が「わたしは年取った女」ということなし
年取った男が「わたしは年取った男」ということなし4
という記述も見られる。これはディルムンの地がシュメールから見ると、一種の聖地であったことをうかがわせる。とくに最後の2行は、ディルムンが不老不死の島であったことを示唆している。
ディルムンがシュメールにとって聖なる場所であったことは紀元前20世紀ごろの洪水神話からもわかる。
ジウスドラは壁のかたわらにあって聞いた
「壁のかたらのわたくしの左側に立ちなさい。…壁のかたわらでわたくしはあなたに語るでありましょう。耳をわたくしの命令に傾けなさい。わたしたちの…によって、大洪水が礼拝の中心部を襲うでありましょう。人類の種を滅ぼすために。…これは神々の会合の決定であり、意志であります。アヌとエンリルの命令によって…かれらの王、かれらの領土は滅ぼされるでしょう。……
大旋風がすさまじい勢いで襲来した。それと同時に大洪水が起こって礼拝の中心部を沈めてしまった。ついで7日7晩のあいだ大洪水は地に流れ込み、大きな船が大海にあって大風にゆられていた。
ウトゥが現れてかれは天地に光をそそいだ。ジウスドラは巨大な船の内部に光を投入した。王ジウスドラはウトゥの前にひれふした。王は牛を屠り、羊を殺した。……
「あなたは天の息、地の息を発しました。まことにかれはあなたの…によって身体を伸ばしました。アヌとエンリルは天の息、地の息を発し、かれらの…にって、身体を伸ばしました。植物は地から伸びました。王ジウスドラはアヌとエンリルのまえにひれふした。アヌとエンリルはジウスドラを愛した。かれらはかれに、かれらと同じ生命を与え、神と同じ永遠の息を、かれらは高き神と同じ永遠の息をかれのところにもってきた。そのとき王ジウスドラを植物の名と人間の保存者たるジウスドラを、かれらは通過の地、ディルムンの国、太陽の昇る土地に住まわせた。…
またシュメールの英雄であるギルガメシュは永遠、不死を求め、冒険に出るという、いわゆるギルガメシュ叙事詩にもディルムンをうかがわせる場所が登場する。ギルガメシュはそこでウトナピシュティムという老人と出会い、不老不死の秘密を教えられる。
ジウスドラの洪水神話、紀元前7世紀のアッシリアのアッシュールバニパルの図書館から出土したギルガメシュ叙事詩はともに旧約聖書に出てくるノアの箱船神話の元になったものといわれている。実際、歴史的事実として紀元前3000年前後に実際に洪水があったことが考古学的に証明されている。
古代シュメール人にとって、南海上にあるディルムンは中継貿易の基地であると同時に、真水の神エンキのいる不老長寿の島でもあった。
真珠に関していうと、ビビーはバハレーンにおける貝塚について指摘している。バハレーン南西の海岸で貝塚が発見される。これは明らかに真珠採取者の定住地か野営地の残骸と思われる。真珠取りたちが獲物を陸揚げし、貝が死んで殻が開くまでひろげて日光にさらしておく場所だった。これは世界の各地で今日に至るまで実際に行われているやり方である…。ただし、ペルシア湾では別の方法がとられていた。ビビーによれば、アラビア湾の潜水夫たちは真珠採取のシーズン中ずっと船上にいて、集めた貝の殻をその場で開けて、殻は船から外へ投げ捨てる。したがって、バハレーンの貝塚は、技術的には現在(1960年代まで)の真珠採取と異なるとも考えられる。しかし、基本的な技術はそれほどかわりがない。5
前述のギルガメシュ叙事詩では、ウトナピシュティムはギルガメシュに不老不死を手に入れる方法を教えている。ウトナピシュティムによれば、海底に薔薇のように棘のある草があり、この草を手に入れ、食べれば、若さを取り戻すことができるという。この草は海床かあるいは海床の下の深淵の真水のなかに生えているといわれる。ギルガメシュはそこで足に重石を結びつけ、海の深みに沈んでいき、ついには草を発見する。
ここでいう海底にある若返りの草とは真珠のことを指しているのかもしれない。足に重石をつけるという記述は現在でも真珠取りが海底に潜るとき用いる方法なのである。もしこの説話が真珠および真珠採取を象徴しているとするならば、真珠採取の技術はシュメール人にすでに知られていたことになる。もしそうならば、真珠採取はきわめて古い職業の1つといえるだろう。
しかし、ディルムンの繁栄はそう長くはつづかなかった。紀元前1800年ごろからアナトリアにヒッタイトが、パレスチナにフェニキア、ニネヴェにアッシリアが勃興していくと、メソポタミア貿易の重心がペルシア湾から地中海に移動する。とくに有名なハンムラビ王の没後その傾向に拍車がかかる。
さらには東でインダス文明が消滅すると、ディルムンは衰退を余儀なくされる。紀元前600年ごろ、ちょうどアッシリアが古代オリエント世界を統一したころに、ディルムンもアッシリアに併合されたと考えられている。
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