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マケドニアのアレクサンドロス大王は紀元前325年、インダス川まで進出する。かれはクレタ人のネアルコス提督に100隻、1万2000人からなる艦隊を編制させ、ペルシア湾を航行してイランに向かうよう指示した。ペルシア湾岸地域は、この後しばらくのあいだヘレニズム文化の影響下に入る。たとえばクウェートのファイラカ島やバハレーンなどからは古代ギリシアの銀貨ドラクマが発見されている。
ギリシア・ヘレニズム時代のペルシア湾の情勢を描いた著作に『エリュトゥラー海案内記』1がある。これは、幸いにも村川堅太郎によって戦後まもなく日本語に訳された2。『エリュトゥラー海案内記』にはペルシア湾およびインド洋の真珠についてかなり詳しい記述が残されている。日本語訳を利用しながら、紀元前後のペルシア湾の様子を見ていくことにしよう。まず第35節には次のような記述がある。
カライウー諸島の一番端の頭のところに所謂カロン山があり、そしてやがてペルシア海の入口がつゞき、また真珠貝の採取場が非常に沢山にある。[中略]此の湾(ペルシア湾)の一番奥まった部分にアポログーと呼ばれる法定の商業地があり、パシヌー・カラックスとエウプラテース河のところに位して居る。
この記述だけからでもヘレニズム時代にペルシア湾が真珠採取と商業で栄えていたことがよくわかるであろう。ちなみにアポログーとは、後漢書西域伝安息国條の干羅Ubullaとも考えられ、現在のクウェート近郊であるという説もある。3
第36節はオマーンに関する記述である。ここでは、
オマナにはまたカネーから乳香が送られ、オマナからアラビアに向けてはマダラテと呼ばれる、此の土地特有の縫ひ合せて造った小船が送られる。両商業地からバリュガザやアラビアには多量ではあるが、印度のよりも劣等な真珠とパープル染料と此の土地特有の衣服と葡萄酒と多量の棗椰子と金と奴隷とが輸入される。
とある。ここで興味深いのはマダラテに関する記述である。マダラテは当然、アラビア語のمُدَرَّعَةである。現代アラビア語では、武装船、武装車両を意味する。釘を使わない、いわゆる縫合船はペルシア湾の船の特徴として多くの歴史家や旅行家たちがとりあげている。すでに紀元前後ごろからヘレニズム世界にも知れ渡っていたわけだ。なおこれについては後述する。真珠に関する記述としてはそのほか次のようなものがある。
第56節
また此処には多量の優秀な真珠や象牙や絹織物やガンゲース産のナルドスや内地産のマラバトゥロンや様様の透明石や金剛石やヒュアキントスや「黄金島」産の亀や此のリミュリケー地方の前面の島々で捕へられた亀が運ばれる。人々はエジプトからよい季節であるユーリオスの月即ちエピーピの頃に出発して此処に向け航海を行ふ。
第59節
コマレイから南にコルコイ迄延びて居る地帯には真珠の採取場があり、罪人たちがその仕事に当って居る。
第61節
此の島(タブロバネー)
には真珠と透明な石と上質綿布と鼈甲とを産する。
第63節
其処には河と同名の商業地ガンゲースがあり、此処を通ってマラバトゥロンとガンゲース産ナルドスと真珠とガンゲース織と呼ばれる最優秀綿布とが運ばれる。
これらはいずれもインドやスリランカに関する記述である。ガンゲースとはガンジス川であり、第59節はインド洋のマナール湾、タブロバネーとはスリランカのことといわれている。これらの地域は、ペルシア湾と並ぶ有名な真珠採取の地として知られている。
なお『案内記』には「ヒッパロスの風」という記述がある。これは現代でいうところの貿易風、季節風のことである。季節風とは大陸と海洋の温度差を原因とした、季節によって風向きをかえる風を指す。インド洋では夏には南西風、冬には北東風が吹き、これを利用すれば、インド洋沿岸を航行するようりも早く目的地に到着することができることをすでに当時の商人たちは知っていたのである。紀元1世紀の大プリニウスによれば、アラビア南部のオケリスからヒッパロスの風を利用してインド南西部海岸のムジリスにいたる航路があり、片道40日間を要するという。英語で季節風を意味するmonsoonはアラビア語で季節を意味するmawsimからきている。季節風が貿易風とも呼ばれるのはもちろんこれが貿易にもっとも利用されるからである。
この地域で活動するアラブ人やイラン人の船乗り、商人たちは『「毎年、何月何日にはどこに向けて船が出る、どこの港からの船が来る」というように、インド洋の主要な港ごとに、モンスーン航海の緻密なダイアグラムが古くから知られていた。しかも、彼らはモンスーン航海に適した縫合型構造船と三角帆を考案し、航海技術を発達させた。このようにして、モンスーンの方向性・季節性・風力と吹送流を航海活動に最大限に利用し、大陸間を安全・確実・定期に、したがって廉価に人、物や文化・情報を運ぶ海運と貿易活動のネットワークがインド洋海域の交易港を結んで張りめぐらされていったのである。』4
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