加藤虎之助の
ペルシア湾紀行

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ペルシア湾がようやく日本の養殖真珠の脅威を実感しはじめたころ、日本の真珠業者たちもペルシア湾に目を向けはじめた。

日本の御木本真珠店は1929年9月25日にボンベイに支店を開設した。このとき開設を担当したのが御木本幸吉側近の1人、加藤虎之助という人物であった。加藤はこのインド訪問を利用してペルシア湾の真珠生産に関する調査を行うことになる。1)

加藤は1929年12月1日にボンベイを出発し、カラチを経てまずマスカットに到着する。それからバンダル・アッバース、レンゲを経て12月9日、バハレーンについた。かれは船中で、「バハレンでは一番えらいといふ英国のお役人」パーク大尉と出会う。パーク大尉は父の病気のため英国に帰国する途中だったそうだが、加藤は彼について再三、バハレーンの「支配権をもっている」「バハレン統治の最高責任者」「真珠採集の許可権を持つ人」などと言及しており、結局彼の計らいで無事バハレーンに上陸することができたと述べている。加藤がパーク大尉の地位について誰から教えられたかは不明だが、このパーク大尉(加藤はCapt. L. L. Parkeと綴っている)というのはおそらくCaptain L. S. Parkのことであろう。

パークはたしかにえらいことはえらいが残念ながら一番えらいわけではない。当時のイギリスのバハレーン駐在官Political Agentはチャールズ・ジェフリー・プライヤーCharles Geoffrey Priorであり、パークは、バハレーン政府の副顧問Assistant Advisorであった。

加藤のバハレーン上陸は実質半日しかなく、これではきちんとした調査が行えるわけもない。したがって、自伝における真珠採取に関する記述はきわめて皮相なものになっている。バハレーンを離れたのち、加藤はブーシャフル、クウェート、バスラを経てバグダードに至っているが、ブーシャフル、クウェートについてはほとんど記述を残していない。

この加藤の調査が御木本の真珠政策に影響を与えたかどうかは不明だが、1929年という早い段階で日本の養殖真珠業者がペルシア湾の天然真珠産業に着目していたことは注意をしておいていいだろう。加藤によれば、御木本幸吉は、真珠養殖を日本の専売にしようと考えており、1926年の北米旅行中も米国における養殖の可能性についてわざわざ実地に検分していたという。なお加藤は、御木本が、1927年にイタリアからの帰途、インド洋を航行中、「さあ加藤今からあそこ(ペルシア湾)へ行こうぢゃないか」と勢いたって主張したというエピソードも紹介している。

ところで加藤はペルシア湾における真珠採取の調査という旅行の目的をパーク大尉に打ち明けている。すると、同大尉は「おれはおまへをバハレンに監禁するんだつたのに惜しいことをした」2)と述べたという。

パーク大尉が、加藤との会談についてバハレーンやイギリス政府に報告したという記録は見つからなかった。しかし、加藤のペルシア湾訪問が1929年12月、ペルシア湾駐在官のビスコーがインド政庁に対し、バハレーンにおける養殖真珠流通を禁止する法律の整備を進言3)したのが1930年1月18日であることは、加藤の動きがイギリスの危惧を促進した可能性を示唆している。もし、この仮定が正しいとして、また加藤の訪問の目的が、日本の真珠養殖独占を守るためにペルシア湾における養殖の可能性を調査することにあるのなら、彼の訪問は結果的にイギリスによる養殖真珠流通禁止措置を強化することになり、ペルシア湾における養殖の可能性をつぶすことに貢献したといえるかもしれない。


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  1. 以下の記述は加藤虎之助『御木本主人と私』(昭和38年)という私家版の自伝による。本書は一般には知られておらず、筆者は、御木本真珠島真珠博物館の松月清郎学芸員からその存在を教えられ、同博物館所蔵の本からコピーを取らせていただいた。ここに記して感謝するしだいである。
  2. 前掲書、23頁。
  3. "Memorandum No. 119," Records of the Persian Gulf Pearl Fisheries 1857-1962, vol. 3: 1930-1962, p.549.

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