サウジアラビアの
王位継承問題

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サウジアラビアの王位継承問題

 

王位継承のシステム

サウジアラビアのファハド国王は、1995年11月30日に入院して以来、しばしば入退院、加療のサイクルを繰り返している。その間、実際に王権を委任された期間も含め、アブドゥッラー皇太子が実質的に国政を運営していたといわれている。国王の度重なる入院で当然のことながら、サウジアラビアにおける王位継承の問題が浮上してきた。しかし、サウジアラビアにおいては王位継承に関する明確な基準がなく、国王レースについてさまざまな噂、憶測が流れてきている。サウジアラビアの王位継承に関する唯一の公式の規定は1992年に発表された統治基本法にある短い記述だけである。

第5条

a)サウジアラビア王国における統治制度は君主制である。
b)支配権は、初代国王アブドゥルアジーズ・ビン・アブドゥッラフマーン・アル・ファイサル・アールサウードの息子たちに継承され、さらにその子どもたちへと受け継がれる。かれらのあいだでもっとも高潔な人物が、コーランと預言者の伝承にしたがって王位につく。
c)国王は勅令によってその皇太子を選任し、また解任する。
d)皇太子は、皇太子としての期間、国王がかれに任せた、あらゆる任務を全うするものとする。
e)皇太子は、国王が死亡すれば、忠誠の誓いが行われるまで、国王の権力を引き継ぐ。

第6条

国民は、コーランおよび預言者の伝承にしたがって、安寧のときも困難なときも、幸運なときも逆境でも国王に服従することを誓うものとする。

ここから考えられるのはまず、王位を継承できるのが初代国王アブドゥルアジーズ直系の子孫だけであるという点である。親から子へと王位が継承されるのに慣れたものにとってはあたりまえであるが、アラビア半島やペルシア湾の王制、首長制の国では兄弟、従兄弟間での王系継承はめずらしくない。サウジアラビアにおいてもいわゆるワッハーブ王国時代には王位の流れはしばしば蛇行する。本来であれば、アブドゥルアジーズの王位はその兄弟たちに移譲されても不思議ではなかった。しかし、アブドゥルアジーズはそうしなかった。王位を息子のサウードに譲ったのである。後述する不可逆性の原則にしたがえば、この時点でアブドゥルアジーズの弟たちに王位が移ることはありえなくなった。第5条はこの事実を後追いしたものといえる。そして、同じように重要なのは、これによりサウード家の他の分家が即位する可能性が法的に完全につぶされたことである。
3番目のポイントは、第5条によりアブドゥルアジーズの息子だけでなく、孫たちにも王位継承レースの門戸が公式に開かれたことである。
最後に指摘しておくべきは、皇太子の役割である。第5条によれば、国王は皇太子を任命すると同時に解任もできる。しかも、皇太子は、国王が死ぬとすぐに国王に即位するわけではない。王の死とともに皇太子は王がもつ任務を引き継ぐが、これはあくまで暫定的な措置であり、正式に王位につくには「忠誠の誓い」が必要となるのである。
忠誠の誓いとはアラビア語でバイアあるいはムバーヤアという。預言者ムハンマドが信徒から忠誠の誓いを受けたという歴史的事実があり、これがカリフ時代にも受け継がれた。バイアの語源がアラビア語のバーア(売る)という動詞からきているといわれていることからもわかるとおり、忠誠の誓いは明らかに服従の意思を示す契約行為にほかならない。国王が死んだのち、すぐに皇太子が即位できずに、あいだに忠誠の誓いという手続きを経なければならないのは、預言者の先例があるからである。

継承のパターン

サウジアラビアは比較的新しい国家である。初代国王のアブドゥルアジーズから現国王のファハドまでわずか5人の国王が数えられるだけである。アブドゥルアジーズ以前のワッハーブ王国時代の継承パターンは文字どおり混乱している。王国をとりまく事情が当時と現在ではまったく異なるのでほとんど参考にならないだろうが、いちおう簡単に触れておくと、初代のムハンマド・ビン・サウード(1742-1765)から第15代のアブドゥッラフマーン(1875、1889-1891)まで親から子への継承が5回、兄から弟が4回、弟から兄が1回などのケースがある。そのほか傍流や分家への継承などもある。
なおさらに細かく調べると、これらの継承のうち国王が自然死して、後継者に後を譲ったケースは7件にすぎないことがわかる。それ以外では暗殺と廃位がそれぞれ2件ずつ、処刑されたケースも1件ある。
ではアブドゥルアジーズ以降の王位継承パターンを分析してみよう。

アブドゥルアジーズからサウード

1953年、アブドゥルアジーズは自然死、サウード皇太子が即位、ファイサルが皇太子に選出される。サウードが皇太子に選出されたのは1932年といわれ、そのときすでにサウードが国王に即位した際にはファイサルが皇太子になることも決められていたという。
ちなみにサウードは皇太子選出時にはアブドゥルアジーズの息子のなかでもっとも年長であり、その次がファイサルだった(長男トゥルキーは1919年に死亡、ファイサルの兄、3男ハーリドもすでに死亡していた)。

サウードからファイサル

1964年、サウードは廃位され、ファイサル皇太子が即位。1965年、皇太子にハーリド、1968年、第2副首相(次期皇太子含み)にファハドが選出される。
ファイサルはサウードを除けば、兄弟中最年長だが、ハーリドの上にはハーリドと同腹のムハンマドが存在していた。

ファイサルからハーリド

1975年、ファイサルは暗殺され、ハーリド皇太子が即位、皇太子にファハド、第2副首相にアブドゥッラーが選出される。
ハーリド即位時、ハーリドより年長だったのはハーリドの同腹の兄ムハンマドのみ。またファハドの上にはこのムハンマドのほか、ナーシル、サァドの2人がいた。ファハドとアブドゥッラーのあいだのマンスールは1951年に死亡しており、ファハドとアブドゥッラーは連続しているとみなすことができる。

ハーリドからファハド

1982年、ハーリドは自然死、ファハド皇太子が即位、皇太子にアブドゥッラー、第2副首相にスルターンが選出される。
ファハドとアブドゥッラーの上にはムハンマド、ナーシル、サァドの3人の兄が存在、アブドゥッラーとスルターンとのあいだにはバンダル、ムサーイド、アブドゥルムフシン、ミシュアルの4人の兄弟が存在する。

継承の条件

これらのことから、次のような継承の基本パターンが推定できる。1つは、初代国王アブドゥルアジーズの直系の男子子孫のみが国王の有資格者だということである。これは、国家統治法によって定められたものであり、この点で例外が出ることはまず考えられない。
2つめは年長者優位の原則である。しかし、年齢を重視するといってもかならずしも絶対ではなく、素行の面などで評判が悪い場合は、年長者でもスキップすることができる。サウードからファイサルへの継承で、ハーリドが皇太子に指名されたときに、ムハンマドがスキップされたのはこの原則が適用されたためだ。ムハンマドは「2つの悪」と呼ばれるほど素行面で問題が多く、サウードの悪例もあったため、皇太子の資格なしと見なされた。かれは同腹のハーリドを皇太子にするという条件で、継承権を放棄したといわれる。ファハドの他の兄、ナーシルとサァドも1975年にムハンマドとともに継承権を放棄したとされる。
なおファイサル即位時に第1副首相としてハーリドが皇太子に任命されるとともに、第2副首相としてファハド現国王が指名された。その後、ハーリドが即位すると、ファハドが皇太子に指名されており、第2副首相というポジションは次期皇太子含みということができる。
2番目の原則については成文化されていない。アブドゥルアジーズ国王が年齢順に即位すべきだと述べたという説があるが、確証はない。さらにこの年長者優位の原則およびこれまでの即位の実例から、不可逆性の原則を帰納することもできる。つまり、いったんスキップされれば、その時点で王位継承権は放棄されたものと見なされるということである。一度弟が即位してしまえば、2度と自分の番は回ってこないのだ(ワッハーブ王国時代には例外がある)。
もうひとつアブドゥルアジーズの根拠不確かな伝承として、国王はよきムスリムでなくてはならず、飲酒しないものであるべきで、外国人の息子であってはならないというのがある。よきムスリムと飲酒しないものの2点については、統治基本法にある「もっとも高潔な人物」と対応する原則だが、かならずしも守られているとはいえないだろう。しかし、3番目の外国人の息子であってはならないという原則は少なくとも今のところは遵守されている。したがって、アルメニア系レバノン人の母をもつタラール・ビン・アブドゥルアジーズやナウワーフ・ビン・アブドゥルアジーズ、スーダン人の母をもつバンダル・ビン・スルターン(駐米大使)、レバノン人の母をもつワリード・ビン・タラール(上述のタラールの息子)は王位継承の資格がないことになる。しかし、この点はかならずしも絶対視できないかもしれない。これについてAlexander Blighは、1951年に死亡したマンスールの例を出している。マンスールは1944年に新設の国防相に就任したが、もともとはアルメニア人(あるいはチェルケス人との説も)の妾腹の出であった。しかし、父アブドゥルアジーズの母親に対する寵愛を背景に権力を蓄え、1940年代後半には、多くの人がマンスールを国王候補の1人とみなし、またマンスール自身も国王への野心を明らかにするようになっていた。1945年にアブドゥルアジーズが米国のルーズベルト大統領および英国のチャーチル首相と会談したとき、側近として王の横に控えていたのはこのマンスールである。これには、もちろん本人の才能もあるであろうが、母親に対する国王の寵愛という要素も忘れてはならないだろう。したがって、国王が生存中に母親への寵愛をバックに充分な地位まで出世できれば、さまざまな問題点にもかかわらず、国王候補とみなされることもありうるといえる。マンスールの事例では、サウードおよびファイサルという強力なライバルである兄がいたため、問題は非常に複雑になっている。母親の問題だけでなく、順番を飛び越すという点で、サウード家内に大きな対立が生じる可能性が指摘されたが、1951年にマンスールはパリで客死した。死因は病死ということになっているが、これも詳細は不明である。いずれにせよ、マンスールの死によって、サウードとファイサルにとって王位への最大のライバルが消えたことになる。

サイモン・ヘンダーソンはこれらのほか経験、叡智、人望、情緒安定性、母方の叔父などの要素をあげている。
経験とはもちろん公的な役職を歴任しているかどうかということである。歴代国王中、皇太子指名までまったく公職についていなかったのはハーリドだけだが、これは逆に公職についていないから国王になれないわけではないことを表している。
叡智についても当たり前といえば、当たり前である。しかし、かならずしもこの優先順位が高くないことは歴代国王の行動を見ていれば、明らかだろう。サウードの途方もない贅沢やハーリドの国政への無関心は国王、あるいは皇太子任命にあたって叡智の占める地位がかなり低いことを象徴している。
人望は、上の2つと比較すれば、非常に重要視される要素かもしれない。ヘンダーソンによれば、サウジアラビアの政策決定においてはコンセンサスが中心的な役割を果たしているため、コンセンサスを得る能力は高く評価されるという。ここで重要なのは、マジュリスの役割である。マジュリスはアラビア語で「集まり」を意味するが、多くのサウジ人はみずからのマジュリスを運営している。つまり、特定の曜日に自宅あるいは事務所で、さまざまな人たちを集めて集会を催す。小は親戚や友人だけの数人のものから、大は百人以上のものまで規模はさまざまである。これはサウジアラビアにおける一種の民意吸収機関になっている。とくに王族のマジュリスで、一般の人たちの参加を許されているものであれば、そこでの会話は庶民の生の声を聞ける貴重な機会になるのである。
またこの場合の人望がかならずしもリーダーシップと結びつかないことも重要である。たとえ人望があってもあまりに精力的に動きすぎると知らず知らずのうちに周囲に敵を作ってしまうこともある。大して人気があるわけでもないが、状況によっては敵が少ないという理由だけで、上り詰めていくこともあるだろう。
情緒安定性は精神的疾患や上述の道徳的問題とかかわってくるので、判断しづらい。しかし、スキップされた王子たちのなかにはこれでひっかかったものが何人かいるといわれているし、1937年生まれのサーミルのように変わった趣味の持ち主もいる。サウード家内の「血の濃さ」が影響しているともいうが、もちろん真相ははっきりしない。ちなみにサーミルは性転換手術を希望したが、果たせず、マイアミで焼身自殺した。
母方の叔父というのは、それを通じてサウード家、サウード家支族、有力家系、部族などの影響力を行使できることを意味している(外国人の母をもった場合はしたがってこの部分を決定的に欠いていることになり、上記のような「慣習法」がなくとも、王位継承争いではかなりのハンディキャップになる)。
これらの要素を総合すると、サウジアラビアの国王選びでもっとも重視されるのは年長者優位の原則だと考えられる。もちろんただ年長者であればいいというわけではなく、他の王族などのコンセンサスが得られるもののなかで最年長のものということである。ただし、どこまでがコンセンサスが得られるのかははっきりしない。スキップできるのが何人なのか、どの程度の悪さまで許容できるのか。しかし、少なくとももっとも優秀だから、国王になれるわけではないことは確かである。

アブドゥッラー

前述の諸条件をまとめてみると、ファハド現国王が死亡すれば、アブドゥッラー皇太子が王位を継承するのは既定事実といえるだろう。しかし、かれの即位にはいろいろ障碍があると予想するものもいる。実際、統治基本法を発表したとき、「国王は勅令によってその皇太子を選任し、また解任する」という条項が、すわアブドゥッラー外しではないかと噂された。前述のように、統治法をそのまま読めば、皇太子はたとえ国王が死んでも、すぐに即位できないことになる。王権を振るえるのはあくまで暫定的な措置で、忠誠の誓いを得られなくては元も子もない。もっともファハド国王はこうした説の出ることを予想してか、先手を打って、同日、アブドゥッラーが引き続き皇太子兼国家警備隊長官であるとの勅令を発布している。いずれにせよ、皇太子の即位にワンクッションおいたことは確実である。

アブドゥッラーのバックグラウンド

アブドゥッラーの国王としての資格について少し検証してみよう。まず第1のアブドゥルアジーズの子どもおよびその子どもという原則は当然のことながら、簡単にクリアしている。
次に年齢であるが、ファハドが1921年生まれ(異説多数)といわれるのに対し、アブドゥッラーは1923年生まれ(同じく異説あり)である。2人のあいだには1922年生まれのマンスールがいたが、1951年に死亡しており、両者のあいだでスキップされる兄弟はいない。したがって、年齢順では申し分ないといえる。しかし、これは逆に大きな問題ともなる。ファハドは1921年説をとれば、2001年で80歳になる。アブドゥッラーも2歳違いだから、78歳。たとえ無事即位したとしても、短命で終わる可能性が高い。むろんこの年齢からいえば、アブドゥッラーがファハドより先に死んでもけっして不思議ではない。またアブドゥッラーは心臓に持病をかかえているともいわれている。
一方、アブドゥッラーの母親はシャンマル族のラシード家のファフダであった。ラシード家は19世紀後半北ナジュドのハーイルを本拠としてナジュドの大半を支配していた名門である。1884年にはリヤードを陥落させ、ライバルであるサウード家のイマームはクウェイトに亡命せざるをえなくなった。1902年にリヤードをラシード家から奪還したのが初代国王アブドゥルアジーズである。その後1920年代にはラシード家の領土は完全にサウジアラビアのなかに統合される。ラシード家はサウード家にとっては宿敵であったが、今ではそうした認識は薄く、むしろ名家という見方のほうが強い。
道徳や叡智の問題ははっきりわからない。しかし、ファハド国王が若いころから、酒や女性などで数多くの武勇伝を残したことに比較すれば、アブドゥッラーはおとなしいといえるだろう。またアブドゥッラーはウラマーによって教育をうけたことと部族的な紐帯からサウジアラビアの伝統的な価値観を代表するものともいわれている。それに、これも重要な資質のひとつだが、父親のアブドゥルアジーズに似たその精悍な風貌や体躯はベドウィン的リーダーとして相応しい。一般にサウード家のメンバーは身長2メートルといわれた父の血をよく受け継ぎ、体の大きなものが多いが、そのなかでもアブドゥッラーはとくに父の偉丈夫さを引き継いでいる。
アブドゥッラーの人望についてはさまざま意見がある。サウジアラビア国内でサウジ人を対象に人気投票をすれば、おそらくアブドゥッラーはファハド以上の票を集めるに違いない。しかし、これは人気であってけっして人望ではない。アブドゥッラーの率直な発言を評価する向きもあるが、逆に寝業が不得手という評もある。ファハド国王が近代化促進、親米派を代表し、アブドゥッラーが伝統派を代表しているというのはしばしばいわれることであり、これ自体はかならずしも正鵠を得ているとはいえないのだが、この通説からアブドゥッラーと宗教勢力は緊密な関係をもっているように予想される。しかし、これには異説がある。ファハド国王は、根回しが得意で、何か重要な決定を行うときには、きわめて慎重に掘割を埋めるようにして、宗教界にアプローチするのを欠かさないという。これに対しアブドゥッラーはこうしたことが不得手なので、どうしても事前の説明が不充分になり、宗教界からしばしば反発を買う。
同じことは他の分野にもいえる。自分の側近や近しいものとは積極的に交わるが、そうでない人たちとの交渉は苦手というわけである。このことはかれの大きな欠点と絡めて説明されることが多い。アブドゥッラーは若いころから相当ひどい吃りで、とくに初対面の人との会談などではその傾向が強いといわれる。したがって、アブドゥッラーの声がテレビやラジオで生で流れることはきわめてまれであった。
雄弁さはアラブ世界ではとりわけ重視される美徳のひとつであるが、それを欠いているというのはアブドゥッラーの重大な短所といえよう。とくに、それが影響して、外交の修羅場で外国要人たちと対等にやりあえるかどうか危惧する向きもある。また率直さはしばしば軽率さにかわることもあり、これもデリケートさが必要とされる政治の舞台ではマイナスになりかねない。最近は吃音もだいぶ直ったといわれている。公的な場での発言が映像メディアで流れることが少ないので、本当に直っているのかどうか判断しかねるが、すくなくともここ数年のアブドゥッラーの姿を見るかぎり、明らかに自信に満ちた様子がうかがえる。

派閥

これとの関連でいうと、サウード家内でアブドゥッラーの仲間とされる王子が少ないことが指摘される。ファハドが通称スデイリーセブンと呼ばれる同腹の兄弟を多数周りに配しているのと対照的に、アブドゥッラーは同腹の兄弟が1人もいない。政権内では孤高を保っているといえよう。母方の親戚でいうと、シャンマル族とのつながりから、部族勢力との関係が強いといえるが、シャンマルは伝統的にザフィール、フワイタート、ムタイル族と仲が悪い。もちろん、こうした歴史的な敵対関係が現代でも生きているとはいえないが(会津と長州の関係のようなものか)、部族的な紐帯がはたして現代の政治においてどの程度機能するかどうかはわからない。
アブドゥッラーが即位した場合、政治を潤滑に進めるためにも閣内に気心のしれた仲間をもつことは大切であろう。同腹兄弟がいないとなれば、子どもたちとなるが、アブドゥッラーの子どもたちには政府内での要職についているものがいない。長男ハーリドは役職上のトラブルから1992年以降、公職を離れている。次男のミトイブは国家警備隊学校の校長、三男アブドゥルアジーズは皇太子府顧問、四男ファイサルは英サンドハースト士官学校を退学になっている。ミトイブは有能だといわれているが、ビジネスに熱心で、かならずしも政治の舞台が向いているわけではない(かれは米フォード社のエージェントになっている)。アブドゥルアジーズの政治的野心がどの程度かわからないが、ハーリドとファイサルは王位レースから脱落しているとみるものも少なくない。
したがって、よくいわれるのが、現政権内で比較的冷や飯を食わされている感のあるファイサル国王の息子たちとの接近である。ファイサル一族はサウード外相を筆頭にそろって有能であり、かつ政治の経験も豊富であるから、仲間にするには最適といえよう。それ以外、アブドゥッラーが担ぎ上げられる王族としては旧自由プリンス出身のバドルなどがいる。かれはもともと上述のタラールらとともにサウード家本流から外れてしまったが、アブドゥッラーに拾われ、現職(国家防衛隊副長官)につけてもらった経緯がある。

政治的経験

アブドゥッラーに関してもうひとつ触れておかねばならないのはかれの政治的経験である。かれは1964年、ときのファイサル国王により国家警備隊の長官に任命されている。国家警備隊は、ベドウィン部隊と称されるように、部族出身者を中核とする軍事組織である。1982年に皇太子に指名されたとき、長官職を放棄する、しないで一悶着あった。国王になれば、当然国軍の総司令官になるわけだから、国軍および国家警備隊双方を掌握するのは力の均衡を崩すとの懸念があったからである。しかし、結局、アブドゥッラーはこの地位を離さず、現在に至っている。即位に際しては当然長官職を離さざるをえない。そうなった場合、誰を後任につけるかが問題となる。バドルが昇進するか、あるいは国家警備隊に所属している息子のひとりを抜擢するか。
国家警備隊がアブドゥッラーの権力基盤であることはいうまでもないが、かれがこれしか要職を経験していないことは弱点のひとつであろう。もちろん前述のとおり、要職の経験のなさは決定的な要素ではない。しかし、ファハド国王が教育相、内相などを歴任したことと比較すれば、やはり寂しい感じがする。
1995年にファハド国王が入院したとき、アブドゥッラーは国王の権力を一時委任されたが、非常にそつなくこなしたという説とあまりに頼りないので、無理矢理ファハドを病床から引っ張り出して政務に復帰させたという説のふたつがある。

外交

国家警備隊との関係で、外交面にも触れておこう。通説では、ファハドが親米であれば、アブドゥッラーは反米ということになっている。しかし、この構図はあまりに皮相である。アブドゥッラーはけっして反米ではない。むしろ、反米にはなりえないと考えたほうがいいかもしれない。かれの権力基盤である国家警備隊がその装備の多くを米国に頼っているからである。米国からの部品の供給が途絶えれば、みずからの首をしめることになるわけだし、国王になった場合でも、国軍の装備は、国会警備隊以上に米国に依存しているわけだから、軍事面を見るかぎり、アブドゥッラーは米国に首根っこを抑えられたかたちになっている。
ただし、反米でないというのと親米であるというのはまったく違う。反米ではないからといってアブドゥッラーを親米ととると、やはりこれも大きな間違いである。本心はともかく、アブドゥッラーはけっして自分が親米であると見られるような行動をとっていないし、意識的にとるのを避けている。たとえば、ヘンダーソンは、アブドゥッラーが砂漠の嵐作戦で米軍に本当に感謝していたというエピソードを紹介している。また米当局者との会談でも、通常は米側を怒らせることはまずない。しかし、同時に外部への発表においてはかならず、アラブ・イスラーム諸国との連帯を重視していることを示す。
これは単なるポーズではないだろう。かれは、ファハド的な親米政策に対するカウンターバランスとしてもアラブ世界、イスラーム世界との関係を強調するのは当然だと考えているはずである。しかし、重要なのはけっして反米ではないということである。
アラブ世界のなかでは、シリアとの関係が深い。母親の出身であるシャンマル族はサウジアラビア北部からシリア、ヨルダンまで広範囲に広がる大部族であり、シリア国内にも血縁関係を築きやすい。とくにかつてはアサド前大統領の弟、リファアトとの関係の深さが指摘されていたが、リファアト失脚後もシリアとの関係は緊密に保たれている。余談だが、シリアについてはアブドゥッラーの側室の1人がシリア人だといわれている。これも未確認の噂にすぎないが、アブドゥッラーには常時4人の妻がいて、第1、第2夫人は半恒久的な存在であるが、3番、4番は頻繁に入れ替わるともいわれている。
またシリアとの関係かどうか、イランに対する関心も強い。1997年以降のOICサミットにおけるテヘラン訪問やそれにつづくラフサンジャーニー前大統領のサウジ訪問に際してのホスト振りがそれを表わしている。
他のアラブ圏では、モロッコとの関係も深い。王国同士というのもあるが、アブドゥッラーはしばしば私的休暇でモロッコを訪問している。

内政

一方、内政面でのアブドゥッラーの政策を予想することは難しい。これまで、内政の詳細について明確な発言をしたことがほとんどないからである。予想されることは、ファハド時代よりも近代化のペースは遅くなるだろうということぐらいである。しかし、だからといって、かれが近代化に反対していることにはならない。というより、アブドゥッラーは、伝統的な価値観を失わないよう慎重に近代化を進める方法を好んでいるように思える。ベドウィン的なバランス感覚とでもいえるだろうか。

経済

アブドゥッラー皇太子は従来、経済面での発言はほとんどなかったが、ここ数年はこの分野での積極さも目立ってきている。最高石油評議会や石油鉱物問題最高評議会など経済関連機関の会合を主宰したり、米国等の石油企業トップとも頻繁に会談したりしている。とくに1998年9月の訪米では米石油企業の代表多数と会談、サウジアラビアのエネルギー部門への投資についてかなり突っ込んだ話をしている。1999年から2000年にかけての急激な石油価格の上昇などでも「サウジアラビアは世界の石油産業で指導的に位置にあり、石油供給の主要なソースであることから、世界市場の安定を支持するのはわれわれの義務である」と述べるとともに、サウジが「産油国および消費国双方の利益を保証する」ことに関心をもっていると語るなど、国際的に重みのある発言を行っている。また石油後を見据えた「ブームは終わった」という発言にも、力の裏づけを感じられる。

スルターン

ファハド国王が病気がちな現在、サウジ政府でもっとも強力な人物はスルターン国防相であるという人は多い。ファハド国王が死んで、アブドゥッラー皇太子が後を継いだ場合、順当にいえば、第2副首相であるスルターン国防相が皇太子に指名される。またアブドゥッラーがファハドよりも先に死亡した場合もおそらくスルターンが皇太子に指名されるだろう。
年齢でいえば、スルターンは1924年生まれで(異説あり)、アブドゥッラーとはほとんど年齢差はない。ファハド、アブドゥッラー、スルターンと順当にいった場合でも、スルターンの治世は短命に終わる可能性がきわめて高い。しかも健康上の不安をいくつも抱えており、アブドゥッラーより先に死ぬ可能性すら否定できない。1997年には膝の手術のため、外国で手術を受け、長期療養を行っている。
なおアブドゥッラーとスルターンのあいだにはムサーイドとバンダルという2人の兄弟が存在する。ムサーイドの息子、ハーリドは、1965年サウジアラビアへのテレビ導入に反対する暴動に参加し、治安部隊により殺害されている。またその弟ファイサルは1975年、同名のファイサル国王を暗殺し、のち斬首刑に処せられている。したがって、ムサーイドは年下のスルターンの即位についてとくに意見を挟める立場にはない。問題はバンダルである。かれはアブドゥッラーと同じ1923年生まれであるが、ファハドが即位した段階で、スルターンにスキップされ、実質的に国王レースから脱落していると見なされている。しかし、年長者としてある程度の発言権があるのと、一般社会を含め、人気があることから、それなりの影響力を行使する可能性もある。バンダルはきわめて宗教的に厳格だといわれ、その敬虔な人柄から宗教界からの支持も強い。スルターンに忠誠を誓うかわりに何らかの代償を求めることも十分ありうる。たとえば、子どもや同腹の兄弟、側近のものを政府内の要職につけるとかである。

悪い噂

ヘンダーソンはかれやスルターンについて面白いジョークを紹介している。サウジアラビアが民主国家であったとしたら、誰が国王になるかという話である。

もし選挙が全国で行なわれるなら、バンダルが勝つ。しかし、王族だけが投票できるとしたら、サルマーン(リヤード州知事)が勝つ。ナーイフ(内相)は1票だけ、つまり自分が入れた票だけ獲得するが、スルターンは、かれが買えるだけの票を獲得できる。

このジョークによく表わされているように、スルターンにはつねに悪い噂がつきまとう。かれは有能であり、政府内での経験も豊富である。農業相、通信相を経て、1962年からは国防航空相に就任している。また1982年からは第2副首相となり、この時点でアブドゥッラーの次というお墨付きを得たことになる。この点では申し分ない。
母親はフッサ・ビント・アフマド・スデイリー、ファハド国王から見れば、同腹の弟であり、この点でも文句のつけようはない。ファハドの同腹の兄弟たち(スデイリーセブン)は現時点で政府内の重要な役職を多数占めており、アブドゥッラーと違って政府内で仲間を探す必要はあまりない(もちろんアブドゥッラーが即位して閣僚を大幅に入れ替えれば話は別である)。
スルターンは渾名をブルブルという。ブルブルとはアラビア語でナイチンゲールをさす言葉である。和名サヨナキドリからもわかるとおり、夜更けまで鳴きつづけることから仕事熱心を意味する。これはかれのエネルギッシュな働きぶりのいい面を現わす名前であるが、もうひとつとくに外国人がかれをさして呼ぶ渾名がある。すなわちMr.5パーセントである。
サウジアラビアは世界でも最大級の軍事費を有する国であり、それをコントロールするのがスルターンである。かれはまた国防航空相として民間航空部門をも統括する。サウジアラビアのナショナル・フラッグ、サウジ航空もスルターンの傘下にある。したがって、サウジ軍の巨額の武器購入費、サウジ航空の航空機購入費は実質かれの意のままになるわけだ。
1960年代から70年代には、悪名高き武器商人、アドナーン・ハーショッギーとの緊密な関係を指摘されていた。当時サウジアラビア軍は、かれのような政商を介して、武器を購入していたからだ。その後は各メーカーと直接交渉するようになったが、依然としてコミッションの噂は消えていない。Mr.5パーセントとはもちろん5パーセントのコミッションをとるという意味である。
ファハド国王の場合ですらそうだが、サウード家メンバーの年齢や家族構成はよくわかっていない。スルターンについては息子が17人、娘が18人いるという説がある。スルターンの息子は父と同様、非常に活動的で、サウジ社会のさまざまな分野で異彩を異彩を放っている。なかでもハーリド、ファイサル、バンダル、ムハンマド、トゥルキー、ファハドなどが有名である。

スルターンの政策

スルターンは同腹の兄、ファハドとは政策的に近いと考えられる。米国に対する近さは、その莫大な利権にもかかわらず、兄ファハドほどではない。米国との距離でいえば、むしろファハドとアブドゥッラーの中間といってもいいだろう。息子のバンダルが駐米大使についており、その意味でも米国との関係の深さを指摘されるが、バンダルはむしろ叔父のファハドと直結しているともいわれている。
スルターンは有能で、エネルギッシュであるが、そのぶん敵も多い。かれに対する誹謗中傷は数え切れない。とうぜん政権内では、同腹の兄弟たちとの関係を緊密にし、また息子や子飼いのテクノクラートを要所に配置する必要がでてくる。かれの息子たちそしてスデイリーセブンの息子たちはすでに内閣、各省庁、州知事等の要職を占めており、政治的な経験を積んでいることも大きいだろう。
即位すれば、そしてそのときアブドゥッラーがスルターンの側近たちを政権から遠ざけていなければ、かれは比較的容易にみずからの欲する政策を実行できるだろう。
内政面、外交面ともにアブドゥッラーの時代に予想される以上に、積極的に施策を打ち出していくにちがいない。そういう意味ではファハド時代に近いとも考えられる。
なおスルターンは、外交においてとくにイエメン問題に深く関わっている。これはかれの専管事項といわれている。サウジアラビアとイエメンはアラビア半島の大国として経済力には巨大な違いあるにしてもライバル関係にある。とくに国境問題はいまだに決着がついておらず、こじれた場合には武力衝突の可能性も考えられることから、スルターンの果たす役割は重大だといえる。またこの問題について、かれはムスタファー・イドリーシーという側近をもっており、かれがとくにイエメンとの交渉でスルターンの右腕として辣腕を振るうことになる。イドリーシーはサウジ人だが、祖先はハドラマウト出身で、その関係でイエメン国内に太いパイプをもっている。

アブドゥッラーとの仲

アブドゥッラーとスルターンの仲はよくないといわれている。もちろんこれはコンファームできる問題ではない(もっともファハドとアブドゥッラー、ファハドとスルターンの関係もそれほどよくないといわれている)。しかし、少なくともサウジアラビアに住んでいる人たちはこのふたりのあいだがけっして蜜月でないと信じている。したがって、アブドゥッラーが即位すれば、スルターンを外し、慣例を破ってスルターン以外のものを皇太子に指名することも考えられる。またアブドゥッラーがファハド時代の色を払拭するため、人事の総入替えを行ない、スルターンの側近たちを政権から追放するということもありうる。
逆に、アブドゥッラーが即位してしまっては、健康状態からいっても自分が国王になるチャンスがなくなるかもしれないと考えて、スルターンが何とかアブドゥッラー外しを考えるかもしれない。アブドゥッラー国王のもとでもスデイリーセブンの力を総動員して、アブドゥッラーの影響力を有名無実化することだって考えられる。
さまざまな可能性が考えられるが、もっとも蓋然性の高いシナリオは、アブドゥッラーもスルターンも国王として短い治世をまっとうするということである。もちろん内外の情勢にもよるだろうが、王権をめぐってふたつの派閥が戦うというのは現時点では想像しづらい。
サウジアラビアはけっして国王による独裁国家ではない。つねに有力王族や宗教界、部族などのコンセンサスのうえで政治が行なわれている。このコンセンサスなしには実質何も動かないのがサウジなのである。したがって、ファハドが国王になったとき、その当時の力からいえば、同腹の弟を皇太子に据えることだってできたはずなのに、結局そうしなかった。それをしては王族内部のバランスがくずれ、全体のコンセンサスを得られないからである。
このバランス感覚はサウード家がとくに気にすることである。有能かつエネルギッシュなファイサル国王がなぜ政治に関心のないハーリドを皇太子として指名したのかは、こうしたバランス感覚から説明できるだろう。国王がアグレッシブであれば、皇太子には保守的なものが指名され、国王が保守的であれば、皇太子はアグレッシブなものが指名されるという図式である。

後継者候補たち

サウジアラビアの王位継承で、はっきりラインができているのはスルターンまでである。その後は皆目わからない。おそらくアブドゥッラーが即位した時点で、スルターンを皇太子兼第一副首相に指名し、誰かを第2副首相に任命する。この第2副首相に次の皇太子の含みがあり、順調にいけば、スルターンの即位で皇太子になり、その後国王に就任する。
ではそれは誰か。順番からいえば、アブドゥッラー、スルターンの弟、つまりアブドゥルアジーズ初代国王の息子のひとりが選ばれることになる。アブドゥルアジーズには40人以上の子どもがおり、スルターンにしても実はその40数人のなかでは前半に属している。アブドゥルアジーズの子どもたちのなかでもっとも若いのは1947年生まれのハムードである。これはファハド現国王の長男よりも年下ということになる(つまり甥のほうが叔父よりも年上ということだ)。どのようなかたちになるかわからないが、いずれ第2世代の残りをスキップして、一気に第3世代にいかざるをえないだろう。それが誰のときになるのか。またどういう形式で行なわれるのか誰にもわからない。しかし、第2世代でこのまま王位を継承していけば、ほとんどが数年しか在位できない短命に終わってしまう確立が高い。長期的な視野にたった政策が必要とされるときに、頻繁に頭がかわっては計画も立てられないのである。

第2世代

第2世代のなかで有力な国王候補となるのは例によってスデイリーセブンである。スデイリーセブンとはファハド国王を筆頭とする、フッサ・ビント・アフマド・スデイリーを母にもつ同腹の兄弟たち7人のことで、ファハド以下スルターン(国防相)、アブドゥッラフマーン(国防次官)、トゥルキー、ナーイフ(内相)、サルマーン(リヤード州知事)、アフマド(内務次官)とつづく。ただし、このスデイリーセブンという語はすでに実情にあわなくなってきている。なぜならすでにスデイリーセブンの子どもたち、さらには孫たちが表舞台で活躍をはじめているからである。アラビア語ではふつうスデイリーセブンという語は使わない。むしろ子どもや孫の代まであわせて、アール・ファハド(「ファハド一族」の意)という言いかたをする。したがって、ここでは今後はアール・ファハドという言葉を使うことにする。

サルマーン・ビン・アブドゥルアジーズ

アール・ファハドのうちスルターン以下でもっとも評判の高いのはサルマーンである。1938年生まれのサルマーンはリヤード州知事という要職にあるだけでなく、王族のあいだの調停役を果たしているといわれている。王族同士で何か揉め事があったときは、あいだにサルマーンが入れば、何とかなる、あるいは丸く収まるという。一種の駆け込み寺のような存在だろうか。これはかれが能力だけでなく、人望もあることを示している。また外国人とくに外交団からも高い評価を得ていることは特筆される。実は外国人がらみの揉め事でもしばしばサルマーンが登場し、解決してくれることが多い。外交団のあるリヤードという地理的な条件もあるが、それだけではないだろう。かれもまた非常に背が高く、その精悍な風貌は数ある兄弟中、もっともアブドゥルアジーズに似ているといわれている。またかれの場合、サウード家には珍しく不正、醜聞の噂がほとんどない(ヘンダーソンによれば、BCCIの株主リストにサルマーンの名前も出ているという)。さらに、かれの子どもたちにも優秀なものが多いといわれる。
サルマーンの関係で指摘しておかねばならないのは、イスラーム系グループとの関係である。かれは国内外のイスラーム勢力と密接な関係を保っている。そのなかにはテロリストと見なされるグループも少なくない。ハマースやFIS、ナフダ、ムスリム同胞団といったグループに資金を提供する場合、しばしばサルマーンが関与しているといわれている。
アール・ファハドの他のメンバーは、トゥルキーを除いてみな自分は国王になる資格があると考えているという。だが、外部からの評価はサルマーンに遠くおよばない。なおトゥルキーは、反サウジアラビアのムハンマド・ファーシー一族の娘と結婚したことで、完全に王位継承レースからは脱落した。トゥルキーは現在ではカイロを拠点にしているが、ほとんどスキャンダル以外で名前が報じられることはない。

ナーイフ・ビン・アブドゥルアジーズ

人気があっても、人望があっても、また能力があっても時が会わなければ、国王にはなれない。外野からみてサルマーン以上に国王に近いといわれるのがナーイフである。かれの場合、ポイントになるのは野心である。かれは1975年以来、内相としてサウジアラビア国内の治安を一手に引き受けてきた。王族保護の目的とする親衛隊や国内諜報活動を専門とするマバーヒスはいずれも内務省の所轄であり、王族を含めサウジ国内のさまざまな極秘情報を利用できる立場にある。また内務省は同時に地方自治を管理する立場にあり、州政府(政府と呼べるほどの自治はないが)および州評議会はともに内務省の下部組織となる。つまり、ナーイフは軍に匹敵する武力とあらゆる治安情報を掌握する立場にいることになる。
力の点ではナーイフは国王に十分相応しい。しかし、問題もある。ナーイフはきわめてピューリタン的な性格といわれており、これ自体はワッハーブの文脈では悪くない。問題のひとつは人気、人望のなさである。ただ、これ自体はそれほど重要ではない。大きいのはむしろスルターンとナーイフのあいだに約9人も兄弟がいることのほうである(うち2人はすでに死亡している。なお「約」というのは資料によって兄弟の順番が異なっているからである)。この数はスキップするにはあまりに多すぎる。しかも、そのなかにはかなりの有力者が含まれている。
まずスルターンのすぐあとのアブドゥルムフシンはすでに死んでいるので、計算から外す。その次はミシュアルである。かれは1925年生まれで、1951年から1956年まで国防相、1963年から1971年までマッカ州知事という要職を歴任している。かれは傲慢かつ反動という風評があり、道徳的な理由ではねられる可能性が高い。また母親はアルメニア人である。
ミシュアルの次にくるのがミトイブ。かれは1928年生まれの現職の公共事業住宅相であるが、かれはミシュアルから見れば、同腹の弟、つまりアルメニア人の母親の子ということになる。

アブドゥッラフマーン・ビン・アブドゥルアジーズ

その次がアブドゥッラフマーン。かれはスデイリーセブンのひとりであり、ナーイフやサルマーンの同腹の兄ということになる。かれは1931年生まれで、スデイリーセブンのなかでははじめて海外留学(カリフォルニア大学卒業)し、1983年以来、国防次官(副大臣)の職にある。ナーイフにとってはもっともスキップしづらい相手であろう。
さて、アブドゥッラフマーンのあとはタラールである。1931年生まれのタラールについてはすでに触れておいた。若くして頭角を現わすが、アルメニア人の母親をもつことと、自由プリンスのリーダーだったことで、国王レースからは完全に脱落している。今でもいろいろ民主化に向けた発言は行っているが、国内でほとんど影響力はなくなっている。
次のミシャーリーは2000年5月に死亡しているが、1951年11月にジェッダで英国領事を銃で撃ち殺しており、もともと論外であった。そしてスデイリーセブンのひとり、トゥルキーは前述のとおり、軌道を外れている。最後はバドルである。かれについてもすでに触れた。1933年生まれ、サウード時代に通信相に就いたが、のちタラールに合流、自由プリンスとしてしばらく亡命生活を送る。許されて帰国後は国家警備隊の副長官に就任した。したがって、かれも国王の資格はないと見るべきだろう。
こう考えると、スルターンとナーイフのあいだにはずいぶんとたくさんいるように見えるが、実際国王の有資格者はほとんどいない。ナーイフにとって最大の障碍は同腹の兄弟アブドゥッラフマーンということになる。
むしろナーイフにとって問題なのは9人抜きではなく、同系統の国王がつづくということのほうであるかもしれない。スルターン、ナーイフとスデイリーセブンが連続することはサウード家のバランスを大幅に崩すことになる。あいだにアブドゥッラフマーンが入ったときは、バランス的には最悪であろう。これではコンセンサスを得ることは不可能である。となると、アブドゥッラフマーンあるいはナーイフが即位するためにはスルターンとのあいだにスデイリーセブン以外、とくに伝統主義、保守派といわれる人物を挟まねばならないことになる。ところが2人のうえにはそれが見当たらない。

ムグリン・ビン・アブドゥルアジーズ

したがって、スルターンの後、適当な人材がいないことに加え、安定した長期政権をつくるためにも、一気に若返る可能性が出てくる。その場合、前評判の高いのはアブドゥルアジーズの子どものなかで下から2番目のムグリンである。かれは1943年生まれとまだ若く、充分長期政権をになうことができる。かれはもともとサウジ空軍のパイロットであったが、1980年からハーイル州知事に就いている。その後、さらに聖地のひとつ、マディーナの州知事に就任し、順調に政治的経験を積んでいる。マディーナ州知事は、聖地を訪問する要人との会見などをこなさねばならず、要職といえる。ただし、かれの母親はイエメン人である。
そのほか自由プリンス以外で公職についている若手第2世代としては1940年生まれのアブドゥルマジード(マディーナ州知事)とサッターム(リヤード州副知事)、アフマド(内務次官、アール・ファハド)などがいる。アフマドはレドランド大学を卒業しており、英語が堪能といわれている。

第3世代

第2世代の最後まで国王が回ってくれば、当然次は第3世代にくる。もちろん第2世代に適当な人材がいないとなると、その時期はもっと早まるだろう。しかし、第3世代の人数となると数千人はいるはずだ。正確な数はわからないが、アブドゥルアジーズが少なくとも45人の息子を作ったとすれば、そのそれぞれが5人の息子を残したとすると、これだけですでに225人になる。それがまたそれぞれ3人の息子を残せば、第3世代の王位継承の可能性があるものは675人となる(ちなみにここでは女子は員数外である。その系統や分家なども含めると、サウード家の全人数は10万人近くいくかもしれない)。
このなかから誰が国王になるかは、第2世代と比較するときわめて複雑になる。第2世代が一番上の兄から下までの一直線を見ればいいのだが、今度は直線は一本ではない。40本以上の直線を一度に見ていかねばならないのである。
数は多いが第3世代のなかで、国王に比較的近いのはむろん限定される。たとえば、国王や閣僚などの息子がそうである。かれらは親の威光で若いころから要職につけられたりして、政治的な経験を積んでおり、マスメディアにも比較的登場するので、研究者の目に触れやすい。
また第3世代のなかで、注目すべき王子として、スキップされた第2世代の王子たちの子どもの名前が挙げられよう。スキップされた王子たちは、国王への道を放棄し、弟に忠誠を誓う屈辱の代償として、自分の肉親を引き立てるという交換条件を持ち出してくることが考えられるからである。もちろんこの場合の肉親とは同腹の弟か子どもをさす。ムハンマドが国王への道を閉ざされたとき、同腹の弟、ハーリドが国王につくのならという条件で、引き下がったといわれている。

サウード国王の子

第2代国王サウードには40人以上の息子がいた。一部の王子は父親が国王時代に閣僚に登用されたが、多くは父の失脚とともに表舞台から消えていった。しかし、アブドゥッラーが即位した場合、ファイサル家とともに、アブドゥッラーを支援する一角を担う可能性もある。その場合、バーハ州知事のムハンマド、国家防衛隊のミシャーリーなどの名前が挙がるだろう。

ファイサル国王の子

第3代国王ファイサルの息子は知られているかぎり9人いる。アブドゥッラー、ムハンマド、ハーリド、サウード、アブドゥッラフマーン、サァド、バンダル、トゥルキーの9人である。ファイサルの子らはサウード・アル・ファイサルのように、なぜかアラビア語の定冠詞をつけアル・ファイサルの名前を使う。ファイサル家のメンバーはいずれも優秀だと評判だが、とくにサウード、トゥルキー、ハーリドの3人は評価が高い。
サウードは1940年生まれ、米プリンストン大学で経済学を学んだのち、石油省を経て、1975年外相に就任した。経験のうえでも年齢的にも円熟期を迎えている。外交団からの評判もいい。しかし、問題はある。それはけっしてかれ自身の能力の問題ではない。まったく外部的な要素が介在しているのである。サウジアラビアでは、いろいろな王子たちがそれぞれの権威と権益でもって外交を行っている。前述のとおり、サウジ外交の重要な柱であるイエメン関係はスルターン国防相の担当であり、外務省の出る幕はほとんどない。またもっとも重要な対米関係ではスルターンの息子、バンダル・ビン・スルターンがいる。バンダルは駐米大使として、建前上は当然外相のしたにいなければならないのだが、バンダルと、とくにブッシュ時代の米政権の交渉は外務省を通さずダイレクトでファハドに伝えられたといわれている。湾岸危機、湾岸戦争という極限状態ではこちらのほうが効率がいいのだろうが、外務省としては面子がない。シリア問題はアブドゥッラーとアサド大統領の個人的な関係が幅を利かす。レバノンにはファハドとハリーリー首相の関係がある(ハリーリーはサウジ国籍ももっている)。サウジが積極的にかかわっているアフガニスタン問題は弟のトゥルキーの担当であり、国王の意を受けて、特使として各地に派遣されるのは国王側近たち。
こうなると、サウードの出る幕はない。要人がサウジを訪問したときに、空港に出迎えたり、国王や皇太子などとの会見に同席したりするだけの役目ではただのお飾りにすぎない。
サウードが肩身の狭い思いをしているのには、かれ自身の責任も若干ある。かれは自分の能力に自信があるのか、あるいは若いころの米国留学のせいか、サウジアラビア伝統のマジュリスで人の話に耳を傾けたり、根回ししたりすることができないといわれている(かれは王族のなかでマジュリスを開かない数少ない1人だそうだ)。
しかし、アブドゥッラーが国王に即位すれば、その役割もかわってきそうである。前述のとおり、アブドゥッラーも閣内に仲間をもっていない。当然、冷や飯を食っているサウードやその弟のトゥルキーが重用される可能性は高い。トゥルキーは総合情報局GIDの長官としてサウジアラビアの対外諜報活動を担当している。この部局も内務省のマバーヒスとの住わけがむずかしく、しかもかれの下にはファハド国王の息子、サウードが副長官としてつかえている。少なくともアブドゥッラー時代にはファイサル家のメンバーは上昇気流に乗るであろうが、そこでしっかり風に乗らないと、次のスルターン時代でまた転落することになりかねない。
サウードにとって問題は年齢かもしれない。若いとはいってもすでに還暦であり、かれよりも若い叔父たちも少なくない。有力な国王候補といわれるサルマーン・リヤード州知事は1938年生まれだから、わずか2歳しか違わないのである。

ファハド国王の息子たち

現在のサウジアラビアでもっともアクティブな第3世代は、おそらくファハド国王の息子たちかスルターン国防相の息子たちであろう。
ファハドの長男はファイサルで、現在青年福祉庁長官をつとめ、主にサウジのスポーツを統括していた。ファイサルはきわめて評判が悪い王族のひとりであり、同性愛の噂もあったが、1999年8月、心臓発作のため死亡した。これを受けて同腹の弟、スルターン・ビン・ファハドが副長官から長官に昇進している。なおファイサル死亡時、ファハド国王は海外で療養中であったが、結局長男の葬儀には出席しなかった。このことでファハドの様態がかなり悪いのではないかとの憶測も流れた。
もうひとりの兄弟サウードはGIDの副長官をつとめている。いずれにせよ、この3人はあまり評判がよくない。
ファハドの息子のうち唯一評価が高いのはムハンマドである。かれは1985年以来、東部州の知事をつとめている。東部州は石油の産地であると同時に、シーア派が多数を占める地域であり、これまで治安上しばしば大きな問題をおこしてきた。その地域をまがりなりにも統治している手腕はやはり評価してもいいだろう。東部州の開発が急ピッチで進められてきたのはかれの統治があればこそであり、1993年には東部州シーア派とサウード家のあいだで手打ちができたともいわれている。
ムハンマドはある意味毀誉褒貶の激しい人で、こうした高い評価があると同時に、とくに州知事就任以前は、サウード家内でももっともアグレッシブなビジネスマンとして知られていた。ある本によれば、ムハンマドは、オランダのフィリプスとスウェーデンのエリクソンの電話網敷設契約で5億ドルのキャッシュをコミッションとして手に入れたという。ただ、これは過去の話であり、その後の評判は地元を含め、そう悪くはない。
またファハド国王のお気に入りといわれるのが一番若いアブドゥルアジーズである。数年前、リヤードのサウード国王大学を卒業したばかりだが、すぐに王宮府の顧問となり、さらに無任所国務相に就任している。かれの能力その他については依然として未知数である。しかし、かつてフォーブス誌で、世界一富裕なティーンエージャーとして紹介されたこともあるとおり、すでに莫大な富を所有しているといわれている。たとえばロンドンのMBC(アラビア語衛星放送の会社、アラブのCNNといわれる)はかれが所有しているとされる。またかれの母親の関係で、イブラーヒーム家がファハド国王に相当食い込んでいると噂されている。
ジェフリー・サイモンズはこのアブドゥルアジーズについて面白い逸話を紹介している。それによると、ある占い師がファハド国王に対し、すくなくとも週に1度はアブドゥルアジーズの顔を見ないと死んでしまうと警告したというのである。ファハドはそのためどこにいくにもアブドゥルアジーズを連れ歩くということになったそうだ。

スルターン国防相の息子たち

ファハド国王の子ども以上にサウジ国内のみならず国際的に活躍しているのがスルターン国防相の子どもたちである。とりわけ有名なのがバンダル・ビン・スルターン在ワシントン大使であろう。湾岸危機、湾岸戦争時の活躍は大きな話題になった。これはファハド国王がかれに全幅の信頼を置いていた証拠であろう。能力があり、しかも、かれはファイサル国王の娘と結婚しており、その点ではファイサル家との関係も深い。サウード外相とは兄弟同然に育ったともいわれている。
しかし、前述のとおり、かれが国王になるには大きな障碍が横たわる。かれの母親はスーダン出身の奴隷だったからである。父であるスルターンとの関係はかならずしもよくないといわれる。父がバンダルの認知を拒否したという噂もある。また、その活躍振りから年長の王子たちのやっかみを買い、多くの敵がいることでも知られている。しかし、サウード外相後の外相候補のひとりであることはいうまでもない(ただしかれはワシントンから離れたがらないともいわれているし、しばしばスキャンダルめいた噂が聞こえてくる)。
もうひとりスルターンの息子で特筆すべきは、ハーリド・ビン・スルターンである。かれもまた湾岸危機、湾岸戦争で多いに名を売ったひとりである。かれはもともとサウジ空軍の司令官であったが、湾岸危機発生後は「アラブ軍総司令官」としてほとんど毎日のようにテレビに登場した。
戦後、かれはその功績を背景に昇進をファハド国王に直訴したが、拒否され、辞任したといわれている。実質的には解任であり、かれは現在ロンドンでなかば亡命生活を送っている。
ハーリド・ビン・スルターンは湾岸危機、湾岸戦争中の金儲けに関してもいろいろ悪い噂があった。危機的状況をいいことに、国防省に莫大な数の契約を行わせ、そのコミッションをとったというのである。その額は数億ドルから70億ドルまでかなり幅がある。コミッションをとること自体、サウジアラビアでは一般的で、サウジ的文脈ではかならずしも悪いことではないが、限度があるということであろう。Mr.5%といわれた父スルターンを困惑させるほどのすごさだったといわれている。
ハーリドのもうひとつの問題は女性関係である。米国の俳優シルベスタ・スタローンの元妻で女優のブリジッタ・ニールセンとの関係は週刊誌などでもときおり報じられていた。サウード家のなかで最強の腕力を誇るスルターンでも息子を救うことができなかったということはよっぽどすごかったのだろう。
またハーリドはロンドンで発行されているアラビア語の日刊紙ハヤートの大株主でもある。ハヤートはもともとレバノンの新聞だが、保守派ということもあり、早くからサウジが接近していた。ハヤートは、おそらくアラブ世界ではもっとも信頼できる新聞であろう。しかし、ときおり株主の関係で、ハーリド・ビン・スルターン独占手記のような記事を掲載している。
スルターン国防相の息子のうち有力なものはもうひとりいる。現タブーク州知事のファハドである。前知事マムドゥーフ・ビン・アブドゥルアジーズの辞任を受けて、任命された。

その他の第3世代

このほか、サルマーン・リヤード州知事の息子たちも有力であろう。スルターンは宇宙飛行士として米国のスペースシャトル、ディスカバリー号にのった。かれは世界で最初のムスリムでアラブ人の宇宙飛行士である。
またアフマドは、ハヤートと同様ロンドンで発行されているアラビア語日刊紙シャルクルアウサトを発行している会社のオーナーである。現代アラブを研究している多くの研究者たちが実はハヤートやシャルクルアウサトを情報源として利用している。このふたつの新聞がもっとも信頼でき、なおかつ質が高い記事を掲載しているからである。しかし、この両紙ともにサウジ王族の所有物であるということはある程度考慮しておかねばならないだろう。
最後にアブドゥルアジーズを挙げておこう。かれは現在、石油省の次官(副大臣)としてナイーミー石油相の下で働いているが、多くの石油関係者は、かれこそが実質的な石油相だと考えている。前石油相のナーゼルは、アブドゥルアジーズの石油のイロハを仕込んだテクノクラートだが、結局、アブドゥルアジーズの前に破れ、石油省を去ることになった。アブドゥルアジーズは日本のアラビア石油の利権交渉でサウジ側の窓口となっており、日本でもよく知られている王族の一人である。

結語

アブドゥルアジーズの孫であるサウード外相は第3世代、若手といわれていても、もう還暦が近く、かれ自身すでに孫をもっている。つまりサウード家は第4世代、第5世代を迎えているのである。王族の数は鼠算式に増えていく。しかし、国王の座はいまだ第2世代の前半をうろついている。
大量の王族を国家で維持するのは限界がある。ただでさえ、サウード家は繁殖率が高く、複数の妻をもつことも珍しくないため、王族内の人口増加率はおそらく一般のサウジ人よりもかなり高いはずである。
もしサウジ政府が王族すべてに対し年金を支払っているとの噂が本当なら、サウード家の繁栄そのものが逆に国家の首を絞めることになる。かれらはいずれ自分たちの才覚で生きていかねばならないだろう。そうした時期は目前にきているのかもしれない。次々と死んでいく国王のかわりとなる候補者を数千人、数万人、あるいはさらに世代が進めば数十万人(理論的にいえば数百万人もありうる)のなかから短期間で選び、王冠をかぶせなければならないのである。現在のシステムがこれほど大量の王子たちを前提にして作られていないことは明らかであろう。早急に何らかの対策を立てねばならない。そして、それをできるのは強力な王だけである。アブドゥッラーやスルターンにそれができるだろうか。あるいはこの作業は次の世代に委ねられるのであろうか。

追記--王族会議

アブドゥッラー皇太子は2000年6月4日、ジェッダで王族会議(アラビア語ではMajlis al-'A'ila、正確には家族会議あるいは一族会議と訳すべき)を主宰した。アブドゥッラー皇太子が議長、スルターン国防相が副議長である。SPAによれば、同会議メンバーは、アブドゥッラー皇太子からサウジアラビアのファハド国王の指示を伝えられたほか、王族問題にかかわる同皇太子の指示も傾聴したという。またその後、王族会議は、王族システムの草案および必要な作業手順について検討し、適切な決定を行った。
なおSPAのいう「指示」「作業手順」「決定」等が具体的に何を指すのかは不明だが、王位継承に関するものである可能性も排除できない。こうしたかたちの王族会議がサウジアラビアで報道されるのはまれである。なお皇太子および国防相以外で参加した王族は以下のとおり。

ムハンマド・ビン・アブドゥッラー・ビン・ジルウィー
ファハド・ビン・ムハンマド・ビン・アブドゥルアジーズ
タラール・ビン・アブドゥルアジーズ
バンダル・ビン・ムハンマド・ビン・アブドゥッラフマーン
アブドゥッラー・ビン・ムハンマド・ビン・アブドゥルアジーズ
バドル・ビン・アブドゥルアジーズ(国家警備隊副長官)
アブドゥッラフマーン・ビン・アブドゥッラー・ビン・アブドゥッラフマーン
サルマーン・ビン・アブドウゥルアジーズ(リヤード州知事)
ファイサル・ビン・トゥルキー・ビン・アブドゥルアジーズ・ビン・トゥルキー
バンダル・ビン・ハーリド・ビン・アブドゥルアジーズ
ハーリド・ファイサル(アシール州知事)
ムハンマド・ビン・サウード・ビン・アブドゥルアジーズ(バーハ州知事)=ミシュアル・ビン・サウード・ビン・アブドゥルアジーズ(ナジュラーン州知事)が代理出席
ムハンマド・ビン・ファハド・ビン・アブドゥルアジーズ(東部州知事)
アブドゥッラー・ビン・ムハンマド・ビン・ムグリン・ビン・ミシャーリー
アブドゥッラー・ビン・ファハド・ビン・ファイサル・ビン・ファルハーン
サウード・ビン・アブドゥッラー・ビン・スネイヤーン(都市村落省次官、ジュベイル・ヤンブゥ王立委員会理事長代理)
(順番はSPAによる)
王族会議の意味

2000年6月5日付の英国のミッドイースト・ミラー紙は、ロンドン在住のサウジ反体制派、サァド・ファキーフ(アラビア半島イスラーム改革運動)の発言を引用、同会議がファハド国王を退位させ、アブドゥッラー皇太子を即位させるためのメカニズムを構築するためにつくられた可能性があると報じている。またリヤード発ロイターも専門家筋、外交筋を引用、会議が王族内の主要ブランチを代表しており、かれらをサウジの国事により緊密にインボルブし、権力の継承をよりスムーズに行うためのものであると報じている。
ファハド国王は1995年に病気で倒れて以来、しばしば公式のかたちで国事をアブドゥッラー皇太子に委任しており、皇太子は過去5年間、実質的に国家運営にあたってきたといえる。ファハド国王が死亡した場合、アブドゥッラーが王位を継承、スルターン国防相が皇太子に指名されるというのが規定路線とされるが、アブドゥッラーとスルターンの関係がかならずしもよくないという噂は根強く、アブドゥッラーが皇太子にスルターンではなく、バンダルを指名するのではという説も流れている。ちなみにバンダルは、年齢順ではアブドゥッラーとスルターンのあいだに入り、信仰心の厚いことで知られ、一般サウジ国民にも非常に人気がある(しかし、会議メンバーには選ばれていない)。
またメンバーの1人であるタラール王子は6月5日のカタルのジャジーラ・テレビとの電話会見で、この会議が「完全に家族会議であり、国政とは一切無関係である」と言明している。同テレビのインタビュワーは、残念ながらそれ以上つっこまなかったが、王位継承問題が同会議の議題になっているのかどうかぜひ聞いてもらいたかった。王位継承はサウード家のなかでは家族問題であると同時に、サウジアラビア王国の国政問題だからである。さらに同王子は、王族会議が暫定的なものではなく、「あらゆる家族問題について検討する」恒久的な会議であり、規則が定められ、いくつかの委員会も設置されていることを明らかにしている。

参加した王族たち

王族会議に出席した王子たちの顔ぶれは非常に興味深い。まず議長と副議長役の皇太子、国防相だが、これはプロトコール上当然であろう。皇太子は第1副首相、国防相は第2副首相であり、国政上は首相たるファハド国王につぐ地位にあり、かれら3人のみが閣議を主宰できる。意外なのは、アブドゥルアジーズ初代国王直系ではない王族が含まれていることである。報道では、Sahib al-Sumu al-Malakiという敬称と単なるSahib al-Sumuという敬称で明確に区別してある。具体的にいうと、

ムハンマド・ビン・アブドゥッラー・ビン・ジルウィー
バンダル・ビン・ムハンマド・ビン・アブドゥッラフマーン
アブドゥッラー・ビン・ムハンマド・ビン・アブドゥルアジーズ
アブドゥッラフマーン・ビン・アブドゥッラー・ビン・アブドゥッラフマーン
ファイサル・ビン・トゥルキー・ビン・アブドゥルアジーズ・ビン・トゥルキー
アブドゥッラー・ビン・ムハンマド・ビン・ムグリン・ビン・ミシャーリー
アブドゥッラー・ビン・ファハド・ビン・ファイサル・ビン・ファルハーン
サウード・ビン・アブドゥッラー・ビン・スネイヤーン

これら8人がSahib al-Sumuの称号をつけられている。かれらはジルウィー家、ファルハーン家、スネイヤーン家、トゥルキー家などの準王族やアブドゥルアジーズ初代国王の兄弟の子孫と考えられる。
もうひとつ重要な点は、この会議のなかに何人かの有力な王族が欠けていることである。ファハド国王が入っていないのはいうまでもないが、ファハド一族のなかでこの会議に参加しているのは副議長のスルターンを除くと、リヤード州知事のサルマーン、東部州知事、ムハンマド・ビン・ファハドだけである。王族内の調停役として人望のあるサルマーンが選ばれたのは自然であるし、ムハンマドにしてもファハドの息子としては4番目であるが、その力量からいえば、当然といえよう。一方、国王候補の1人、ナーイフ内相などはメンバーになっていない。
第2代国王サウードの一族からはバーハ州知事のムハンマド・ビン・サウードが選出されている(ナジュラーン州知事のミシュアル・ビン・サウードが代理出席)。サウード元国王の一族のなかではムハンマドは長老の1人であり、この選出は順当であろう。
第3代国王ファイサルの一族からはアシール州知事のハーリドが入り、サウード外相が外れた。ハーリドの上にはアブドゥッラーやムハンマドといった有力な王子がいるが、いずれも現在は公的な職務についておらず、またサウード外相は知名度からいえば、ハーリド以上であるが、年齢的にはハーリドのひとつ下であることから、これもまた妥当な任命ということになるかもしれない。ハーリドはまた詩人としても知られている。
第4代国王ハーリドの息子からはバンダルが選ばれている。かれについては多くは知られていないが、ビジネスを中心に活躍しているともいわれている。そして第5代国王ファハドの息子からは前述のようにムハンマドが入った。
初代国王アブドゥルアジーズの息子たちのなかではアブドゥッラー、スルターン、サルマーンのほか、タラール、バドルが入っている。この2人が会議に入ったのは意外かもしれない。2人ともいわゆる自由プリンスに属しており、とくにタラールはそのリーダーだったからである。かれらは一時期亡命状態にあったが、その後和解している。バドルは国家警備隊副長官に任命されたが、タラールはその後、重要な地位につくことはなかった。タラールは現在、Arab Gulf Program for UN Developmentの理事長をしている。世界有数の富豪として有名なワリード・ビン・タラールはこのタラールの息子である。タラールの母親はレバノン系アルメニア人だが、バドルの母親はスデイリー一族である。バドルの上司はむろん国家警備隊長官のアブドゥッラー皇太子である。
一方、アブドゥルアジーズの孫の世代では、前述のムハンマド(東部州知事)、ハーリド(アシール州知事)のほか、ファハド・ビン・ムハンマド・ビン・アブドゥルアジーズが選ばれた。初代国王アブドゥルアジーズから見ると、会議の構成は次のようになる。

  ファハド一族 非ファハド一族
息子 2 3 5
1 4 5
傍系   8 8
合計     18

血縁だけからみれば、ファハド一族は18人中3人である。これを多いと考えるか、少ないと考えるか、判断は難しい。しかし、全体的にみると、非常にバランスのとれた構成であることがわかるだろう。孫の世代は、第2代から第5代国王の息子がそれぞれ1人ずつ選出されており、それ以外ではムハンマドの息子だけが入っている。ムハンマドは年齢からいえば、ファイサルの次の国王になれるはずであったが、さまざまな理由でスキップされてしまった。かわりに国王になったのはムハンマドの同腹の弟、ハーリドである。したがって、ムハンマドの息子、ファハドとハーリドの息子、バンダルは広い意味では同族と考えてもいいかもしれない。息子が会議メンバーに選ばれているのは、結局3人の元国王と1人の現国王、それに第2世代で国王を経験していないもののなかではもっとも大きな力をもっていたとされるムハンマドの5人だけとなる。つまり自分の子どもが選出された父のなかではファハド現国王が最年少で、しかも唯一現存しているということになる。アブドゥッラー皇太子の息子も非常にアグレッシブなスルターンやサルマーンの息子たちも入っていないのである。

第2世代 第3世代
アブドゥッラー ムハンマド・ビン・サウード
スルターン○ ハーリド・ファイサル
タラール ファハド・ビン・ムハンマド
バドル バンダル・ビン・ハーリド
サルマーン○ ムハンマド・ビン・ファハド○

 ○はファハド一族

第2世代と第3世代はそれぞれ5人ずつできちんと均衡しており、アブドゥルアジーズ直系10人のなかもファハド一族の数を3人に抑えることによってバランスを保っているといえよう。また直系10人は、傍系の8人ともバランスをとっている。こうした点を考慮すると、この王族会議メンバーがサウード家全体をバランスよく代表するようきわめて慎重に選出されたことがわかる。この会議が今後、どれほど重要な役割を果たすかは現時点では不明だが、王位継承問題を含め、王族内に何らかの変化が現れてきていることはたしかであろう。

参考文献

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