――『宇治拾遺物語』の「京」
◆序にかえて ◆『宇治拾遺物語』において「京」を問うこと
卒業論文を制作するにあたり、このテーマを取上げたという事から、まず述べようと思う。
「なぜ、面白いのだろう。」
と思うことはある。
別にそれはいわゆる文学等の読書体験に限った話ではない。映画や芸能など文芸一般にも当てはまるし、絵画や音楽を鑑賞して思うこともある。ただ、「なぜ、面白いのだろう」と発問する頻度はそう多いわけではない。むしろ筆者の場合、平均よりか少ないといっても差し支えないと自分では思っている。つまりそれは筆者にとって「なぜ」が解明されることよりもただ単純に「面白い」ことの方がより重要だったということだと思う。
そういう意味では筆者にとってこの四年間は「面白い」ということを頼りに日本文学を専修する機関に身を置きながら、《学問》としての「日本文学」に自分自身がいかに不向きかを確認する時間でもあったわけだ。学問としての日本文学は「なぜ、面白いのか」を皮切りに「なぜ」を連発することによって研究する対象に向っての理解を深めようとする。日本文学に限らず、およそ学問はそういうふうに成り立っているようだ。そしてその成果たる論文などが続々と量産、発表される。
筆者はこの四年間、その様な経緯のもとに編まれた幾らかの論文に接し、筆者自身の「なぜ」に還元されるよう、努めようとした。しかしながら(あるいは残念ながら、というべきか)そのような経緯のもとに編まれた論文で筆者が興味を持った対象に近付けたと思った例はなく、積もるのはテクストと乖離していく言説に対するフラストレーションばかりであった。つまり、論文を読んで面白かったことは唯の一度もなかった。本当に残念な話だが、これは本当のことなのだ。
「やめやめ。」
これが筆者の四年間という日本文学に対峙した時間が導いた結論だ。
『宇治拾遺物語』は研究書らしきものが単独では存在しないし、先行研究もようやく一九八〇年代に一巡したか、というくらいでその文学史的位置や評価が、たとえば『源氏物語』のようにしっかり定まったものではない。だから、今後の見通しも立てつつ無難に卒業論文を乗り切ろうというのであればもっと研究書の多い分野で折衷案のような論文を制作すればよかったのかもしれなかった。しかし筆者には今後がない。
筆者にとってもっとも面白い説話集とは『宇治拾遺物語』であり、この四年間を展望したときに、やはり避け難い存在としてそれはある。だから筆者が日本文学専修に身を置いてしまったからには『宇治拾遺物語』が「なぜ、面白いのだろう」ということについて幾らかでも筆者自身の意見を述べる責任がある。ただし、それが社会や学会やあるいは筆者自身にとって役に立つものかどうかは解らないし、面白い言説になるだろうという保証はどこにも、ない。
「なぜ、面白いのだろう」
しかしながら『宇治拾遺物語』についてこの問いを発したとき、はたと筆が止まる。
『宇治拾遺物語』を面白く思うひとつの要素に〈雰囲気〉をあげてもよかろうと思う。全体的な白けた雰囲気、またシニカルな雰囲気、スマートな印象等々。たとえば『今昔物語集』で見られるような生真面目でかしこまった印象とは違い、軽くて人をおちょくるようなイメージを描いてしまう。だからといって必ずしも、呆れてすべてを放りなげて突き放してしまうのではなく、楽しむ対象にしていると考えているかのようだ。その楽しみ方が「無意味なのだけれど、楽しい」と言うべきか、何かその現実感の無さ、あるいは希薄さが筆者の嗜好と合うのかもしれない。
そもそもテクストを読む段階で筆者の勝手な思い込みを投影しているに違いはないのだが、それにしてもなぜ『宇治拾遺物語』だけにそのような印象を抱いてしまうのだろうか。
たとえば『宇治拾遺物語』を理解しようとしたとき、よく問題にされるのは「序」である。この「序」は構成としては『宇治拾遺物語』の成立事情を物語るようになっている。が、これは読めば読むほど奇妙な文章で、何を言っているのか解らなくなってくる。その大半は「宇治大納言物語」の説明に費やされているし、『宇治拾遺物語』の編者はその「宇治大納言物語」を確認したのかどうかも定かではないし、『宇治拾遺物語』の命名の由来も二つ三つ示している。言うと期待させたことを言わずに別のことを言うことを俗に「すかし」ということがあるが、まず始め、この本を手にとって筆者始め読者は『宇治拾遺物語』に見事にすかされることになる。
何か手がかりがほしい。そう思いながら、つまりかなり作為的に読むとこんなことに気付く。「京」の話が多くないか。序にはこうある
(本文の引用は 新日本古典文学全集『宇治拾遺物語』より・一九九〇年岩波書店・以下とくに断りがない場合は本文の引用を当該書による)
『宇治拾遺物語』には数多く、その舞台を「京」に求める話が含まれる。ほとんどと言ってもよいくらいだ。たとえば、新編日本古典文学全集『宇治拾遺物語』( 一九九六年小学館)の場合は
新日本古典文学大系(岩波書店)の『宇治拾遺物語・古本説話集』の場合、『宇治拾遺物語』に含まれる説話を一九七話と数え、そのうち説話の内容の出来事が起こった場所が確定的に特定できるものは一八六話ある。さらにそのうちおよそ七割の収録話が「京」を舞台にしていると考えてよかろうと思う。
この数字だけ見ると『宇治拾遺物語』の舞台が「京」であるといってもよい程のようにも言えるし、地方を舞台とする話であったとしてもたとえば登場人物の中に国司とか受領とか中央官僚がいる場合、あるいは地方出身者(「田舎人」と呼ばれる)が「京」へ上る話などはもちろん「京」とは何かが関わり合いになるはずなので、『宇治拾遺物語』のほとんどの話と「京」は密接に繋がっている。そういう意味で『宇治拾遺物語』は極めて《「京」的》な説話集だと言えよう。
一方、一部は先にも触れたが序の中ではこの説話集が宇治と関係の深い、あるいは宇治で作られた「宇治大納言物語」と関係が深いことを高らかに宣言している。
「京」と言えば普通は四角形の条坊のことを思い浮かべてしまうが、『宇治拾遺物語』タイトルは文字どおり『宇治拾遺物語』なのであり、必ずしも《「京」的》とは言い難い。
「京」は「宇治」(もしくは「宇治」は「京」)なのか。この、一見《「京」的》なもの(内容・収録された説話の舞台の配置など)と《非「京」的》なもの(タイトル・序など)の取り合わせは何を意味するのだろう。
というわけで、「京」は『宇治拾遺物語』を読むうえで重要なコードとして機能することが予想されるのである。また、先にも少し触れたが地方(「田舎」と呼ばれる)を舞台に「京」と関わって行く問題や、周辺が中心を作り上げる物であるとすればただ単に地方を舞台とする話も「京」と絡めて読んでいく必要もあるだろう。
とにかく『宇治拾遺物語』のなかで「京」がどんな機能を果たすのだろうか、さらには「宇治」の立場とは何か、それについて何かそれらしいことを少しでも語ることができれば、筆者は満足なのである。
◆1◆〈都市〉を考える
私はなぜ東京にいるのだろう。
私はなぜ早稲田で学ぼうと思ったのだろう。
私はなぜ一人で暮らしているのだろう。
ここはどこだろう。
ここで筆者の経歴を披露しても仕方がないのだが、筆者は中学までを神戸で過ごし、高校三年間を埼玉県本庄市、大学の四年間を東京の都心で過ごした。神戸よりも前に明石・博多に住んでいたことがあるが、自分の意志で、自分の希望する土地に移ったという意味では神戸から本庄、本庄から東京と二回の引越しをしたことになる。その理由は、他ならぬ通学のためだ。
神戸に住む「田舎」者にとって東京の学校といえば早稲田大学だった。本庄に引っ越したのは、早稲田大学に必ず進学できる学校があったからだ。つまり、筆者がずっと早稲田大学を目指し続けたのであり、それは神戸に住んでいたときから一貫して「東京」を目指していたことになる。
東京とは〈都市〉である。しかも日本で最大かつ地球上で二番目に資本の集まる大〈都市〉である。たとえば新聞のページ数が違う。余談だが日経は他紙を出し抜いてまた増ページを行う。なんと四八ページもの新聞が毎朝配られることになる。ただし、これは東京にかぎられる。神戸の実家で取っている『朝日新聞』は二八ページで終わる日がある。これは東京と神戸で筆者が手にすることの出来る圧倒的な情報量の差を如実に物語っている。あるいは、神戸に住み続けていたら知らずに済んだ嫌なことどもも数多くあったのかもしれない。
そして筆者は「東京」を目指した。『宇治拾遺物語』の中の「京」を見ることは目次以前で述べたようなテクストの中のコードを読み解こうとする作業であることと同時にいままで筆者が目指してきた、そしてこれからもしばらく、当分は住み続けるであろう〈都市〉について自分の中で確認する作業にもなる。
『宇治拾遺物語』では、当時唯一の〈都市〉であると確信している場所、現在の京都のことを「京」と呼んでいる。(ほぼ例外なく)「京」と呼ばれる。「京」の用例は三六例で二三話にわたる。
「京」という言葉は何だろうか。地名である。自明である。だいたいどの辺を指す地名かもわかる。ではどこか。にもかかわらず「京」とは何か、という議論をここでわざわざしてみようというわけだ。「京」とは何か。
その用例すべてを【資料1】にあげた。「ほぼ例外なく」というのは「京」以外の言葉で京都を呼ぶ場合が二例ある。【資料2】はそれだ。
たとえば『今昔物語集』ならば「京」とは条坊の外周の内側、つまり、一条大路、東京極、西京極、九条大路とに囲まれた空間について指すのだという(小峯和明「今昔物語集の形成と構造」三七七ページ一九八五年笠間書店刊)。しかし『宇治拾遺物語』ではそういうわけにはいかない(「今昔物語集」にしても、平安京には羅城などもともとなかったのだし、「今昔物語集」の同時代にはすでに白河に家は建つわ、右京は衰退するわで「京」がどこからどこまでか判らなかったろうし、そもそも〈空間意識〉のようなものが存在したかどうかすら微妙なので、断定的に「京」すなわち「条坊」とするのは早計だろうという感が否めない)。「京」の用例は全部で三七例あるのだが、全てが同じ意味であるとは言えない。
それぞれの用例について検討してみたいと思う。
◆2◆「京」とはどこか (【資料1】・【資料2】参照)
a
広域の用法(周辺も含む)…17
123 161
今風に言い直すとすれば〈京都方面〉になるだろう。あるいは、指し示す本が「京」から遠く離れているのでどの辺をして「京」と呼ばしめるのかは微妙なところではあるが、一二三話の「京に上りて受戒せん」における「京」は比叡山を指して「京」と言っていると理解するのが妥当であろうし、一六一話では「賀茂川尻」という羅城の外を「京」と認識していると見てよいだろう。また一七話の人に語る場合にしても羅城の内側かどうかは本質的な問題になり得ないであろうから用例として〈周辺も含む「京」〉もありうると判断した。
b 狭域の用法 (条坊の四角) …15 57 60 133 193
これらははっきりと羅城を意識して「京」を規定していると思われる用例である。一五話の本文中に「粟田口の鍛冶が居たる程に」とあるのは護られた空間「京」と異界〈東海道〉との境界領域を思わせる(実際は、この話では後に下らないシモネタへと発展する)。五七話は雲林院が「京」ではないというわけでこれも一条通から南を「京」と意識していると見ておきたい。ただし、cの用例と通ずるものがあるようにも思える。六〇話も同様に、 清水寺に居ながらにして「京より御堂へ」と言っているのだから「京」に清水寺は含まれないものと考えてよいだろう。cの用例と通ずるかもしれないのも同様である。一三三話の用例は確定的に「七条の末」を基準に「京」を認識しているかのように見える。この場合西の京極を過ぎて桂川のほとりで「京よりはまさりて(人が多く集まった)」ということになり、「京」は羅城を意識したものになるが、もちろん羅城などなかったし、「七条の末にやりいだしたれば」という表現からは必ずしも条坊の外側にいるという保証はできない。もしかするとcの用例的に解釈するほうが妥当といえるかもしれないが、ほかの用例同様、用例cと互換性を持った条坊・羅城の内側を表す「京」と、とっておく。一九三話では比叡山は「京」でない、ということがはっきりと出ている。比叡山の住人としては比叡山は場所として「京」と一線を隔すというところだろう。しかし、一二三話のように「京」を〈中央〉とみてそこにある比叡山を目指してくるシチュエーションとは噛み合わない用例である。
c 京の中での京 …19 96(2例目)
一九話で「京へいづる道に、西京になぎいとおほく」と、ここに二回「京」が登場する。西京と言えば右京のことだがこれでは右京の中(これは用例bの「京」中あたる)にあるにもかかわらず「京へ」と続く道があるということで、これは「京」の中にさらに「京」があることを想定せねばなるまい。あるいは現代的な表現をすると〈都心〉ということになるだろうが、「京」のもっとも「京」らしい部分としての「京」の中の「京」が存在することを確認しておきたい。九六話の用例はむしろ用例bのところで見た一三三話の用例との近さが感じられる。しかしながらもともと「京」へ向いて移動していた男の話であってこの男の目指していた「京」は〈都心〉なのであって「九条わたり」が「京」かどうかはもはや問題ではなくなっていると言ってよいだろう。つまり「京ざまにのぼ」って「九条わたり」も到着したからといって「京」に到着したというわけではないのだ。
d
その他
…101(奈良のこと)
…41 149(「宮こ」)
一〇一話は、当然といえばあまりにも当然な話だが、要するに平安京以前の話である。「京」と「東大寺」が結びついているのですぐ奈良とわかり、この話の〈現在〉の時間がわかる仕掛けになっている。ただ、奈良は「南京」と呼ばれたり、「奈良」と呼ばれたりさまざまなようだ。ただ六五話に智海法印(伝未詳)の科白で「南北二京にこれほどの学生あらじ物を」という表現が、「白癩人」が法華経を誦するのを聞いて驚く場面で使われている。『宇治拾遺物語』の同時代に政治的な〈俗の世界の〉中心はすべて京都のほうの「京」に集約され、あるいはそれが崩壊しかけ、武士の発言力が強まり、ある種のまたは実質的な権力は鎌倉へ動いたことまで把握していたかもしれなかった。にもかかわらず、仏法の世界の価値観として、興福寺をはじめ強力な寺も数多く存在しつづけた(だから、というのはあまりにも短絡的が)奈良は依然、「京」としての権威を保ち続けていたに違いあるまい。
「宮こ」の用例が用いられる二例はいずれも和歌の中である。四一・一四九各話がそれである。しかもその両者は「紀貫之」や「伯の母」といった和歌の名手であり、いずれも人々になじんだと思しき有名な歌の中である。〈歴史的事実〉とでもいうべき和歌を曲げるわけにはいかなかったし、「京」の和語もしくは雅語的表現としてさすがに和歌の中では取り入れられたようだ。これを見てもわかるとおり、やはり『宇治拾遺物語』では「京」が意識して意図的に使われているし、それは「宮」をめぐる何かではないかと思わせるものも潜んでいるような気がしないではない。
ことほど左様に、『宇治拾遺物語』における「京」は明確な空間意識に根差すものではない。ここからここまでと測ることのできるものではないということが言える。あくまでも《「京」的》なものにむかって「京」は存在するのであって、場所がどこであるからといって、そこが「京」か「京」でないかを判断できる性質のものではないのである。
「京」は概念的に存在する。
◆3◆「御門」のおはしまし所
『宇治拾遺物語』における「京」のイメージを探ろうとしたとき、先行研究として上げられると思われるものに久保田淳〔『宇治拾遺物語』の「都」〕という論文(『説話文学研究』第十二号
一九七七年六月)がある。しかしこれはもう題名が批判の対象である。何度も言うように『宇治拾遺物語』に「都」は登場しない。ただ、その論文の第一節目〈『宇治拾遺』での都人〉で短絡的にも、
「都」の主は御門である。[久保田一九七七]
と天皇に言及していることは注目に値する。『宇治拾遺物語』で本文に登場する天皇(一例を除き「御門」と呼ばれる)で名前が本文中に表記された、または前後関係により特定できるものは八人で一三例になる。
・村上(一九・一二四各話)
・醍醐(二〇・三二・一〇一・一五一各話)
・嵯峨(四九話)
・陽成(一〇六話)
・桓武(一二〇話)
・文徳(一二〇話)
・清和(一一四・一二〇各話)
・天智(一八六話「天智天皇」と)
・天武(一八六話「清見原天皇」と)
である。「天皇」という呼称がついているのは天智と天武の両天皇だけで、つまりこれは平安「京」に在位した、「京」(あるいは「都」か)の主は七人登場する。しかしながらこのうち久保田は第四九話のみを取上げ小野篁とのかけ合いを「君臣和楽」と、『宇治拾遺物語』語り口の「都会的に洗練されたエスプリの一つの現われ」とだけ評している。この点では〈都市〉の主としての「御門」を見たことにはなるまい。
四九話の天皇に触れてみたい。
「御門」は何をしているだろうか。どのように「京」と関わっているだろうか。
確かに嵯峨天皇と小野篁は楽しく和む「和楽」の関係にあるかのようにおもえる。少なくとも表面的にはそのような関係に描かれている。しかしながら嵯峨天皇が落書されたという事実とその謎解きをしたのは小野篁というきわめて霊的な存在であることに注視すればただ古今集的な「君臣和楽」とだけ評するわけにはいかない。むしろもっと積極的に君臣〈逆転〉を見出したくなる。
そもそも天皇は霊的でなければならなかった。聖なる存在である。それに落書の立札が内裏という聖なる天皇の領域に立つこと自体非常に奇妙なことだ。あってはならないことのはずだ。それについて嵯峨天皇は篁を少し疑ってみるが篁の容疑が晴れるとご機嫌に納まってしまう。しかも「無善悪」という言葉遊びがわからない。とんちが利かないときている。
一方、小野篁はどうだろうか。篁のことを紹介する時に必ず引用されるのが例えば「今昔物語集」の巻二〇第四五話である。朝廷に仕えながら、実は地獄の冥官も兼務しており、かつて罪を弁護してくれた藤原良相の命乞いを閻魔に申し出た話である。あるいは篁が地獄へ向う時は六原の六道珍皇寺の井戸から高野槙の枝を伝ったとか、様々に小野篁地獄の冥官説はまことしやかに流布している。
あるいは「無善悪」の札を立てたのは篁だったかもしれなかった(篁が立ててもよかったというだけで篁が立てたと言っているわけではない)。嵯峨天皇といえば薬子の変である。子沢山による財政難もあるし、非難される要素がないわけではない。それに嵯峨天皇が篁に出した〈なぞなぞ〉は極めて幼稚臭いのである。「子子子子子…」は同時代のほかの説話では見出せないのでその真偽は判断のしようがないが、「無善悪」は如何にも漢文的であり「子子子子子…」がいかにも和文的であり、それこそ風刺的な「エスプリ」もなく単なる言葉遊びである点で、二つの言葉遊びをを比べた時に後者は稚拙に感じられてならない。
その稚拙な言葉遊びで嵯峨天皇は小野篁の思うつぼの振る舞いをする。篁は霊的な存在である。君臣が逆転した。
はたしてこのような天皇で「「都」の主」(久保田)としての機能を果たす天皇として認識することができるだろうか。〈都市〉である「京」の主人として機能する「御門」はもっと他に現れるのである。
一九話は「清徳聖」(せいとくのひじり)という僧が主人公になっている錦小路の地名起源譚である。清徳聖が「なぎ」の植わっている状態のものをただ大量にむさぼり食うので不審に思っていたところ、これを聞きつけた「坊城右大臣」(藤原師輔)がこの聖を呼び、大量にものを食わせてみると、
師輔が霊的な能力を持っていたとしてもあくまでもそれを命令する立場にあるというのは前出の四九話の嵯峨天皇とは見事に対照的だ。
この場合〈天暦の治〉のような理想的という評価を得ている「御門」は少なくとも「京」をきちんと制圧していたというイメージが読み取れる。ところで、その全く逆を行くのが第一〇六話の陽成天皇である。
一〇六話の冒頭は
話題の中心は一貫して朝廷の使いで陸奥まで赴いた「滝口道則」という男が信濃で非常に怪しげな「術」を修得する経緯である。同じ話が『今昔物語集』の巻二〇第十話にもあり、そこではこの「術」とは
(『今昔物語集(3)』日本古典文学全集一九七四小学館)
また、ここで話を強引に「京」に戻すと、「京」のことなど考えず「信濃」の怪しげな術に心を惹かれた「御門」は「京」の主人としては不適格だった。
《よい御門》と《悪い御門》がいる。
『宇治拾遺物語』の物語世界のなかでは「御門」が絶対的な権力者であるとは限らない。そういう意味では『宇治拾遺物語』は「京」をたてまつるタイプの説話集ではない。「御門」は「京」の主であるにはあっても、その機能を十分に果たし得ていない、だめな権力者がいたという構図も忘れがたいことを示していると読み出したいのだ。
◆4◆もう一方の霊的な存在について
「京」の主人である霊的な存在天皇は「京」の主人でありながら必ずしも絶対ではない。さて、その天皇が〈聖なる〉霊的な存在であるとすれば、〈賎なる〉霊的な存在に目をむけざるを得ない。
『宇治拾遺物語』に登場する「京」との関わりを持った〈賎なる〉霊的な存在というと下等な神仏や賎視された人々がそれに当たると思われる。ここでは、第六五話とさらに冒頭第一話に注目してみたい。
六五話は「白癩人」が登場ずる。
「智海法印」は詳伝未詳とのことであるが、本文中に「有職の時」とある。『宇治拾遺物語』の場合も、のちにもっと昇進した人々がまだ位の低かったときの話が多く(とくに貴族は多いようだが)、「○○の時」という書き方でいつ頃のことかを紹介している。だからこの場合も「智海法印」は延暦寺の僧であり、かなりの高位にまで上ったものと推測される。なお、新日本古典文学大系はその註記で、
まず文を読む声で。ただし、ここは美しい声で誦したというのではないようだ。読んだ経の部分は明示され、問題になるのはそちらであろう。諸注釈書にある通りこれは「法華文句記」の一節である。つまり僧でもないものが〈教理研究〉の書物を「誦」というから暗記していたわけだ。それでまず「たうとき」となる。この段階では、百日参りの帰りであるにもかかわらず、白癩人が何を誦したかすぐに理解できたというわけで智海法印も〈同レベルの尊さ〉と言える。だが、それにしたところでかなりハイレベルの〈尊さ〉である。
次に智海法印は「ほとく云まはされ」た。新潮集成は「ほとんど言いまくられた」と訳を当てているが、「ほとく」のニュアンスはその程度ではなく圧倒的に、コテンパンにやられたと理解するべきだろう。尊い智海法印が、である。
智海法印はこの白癩人が自分よりも勝る、きわめて優れた学生で、中国ではわからないが少なくとも日本では一番なのではないかという意味で言っているのだろうから、「南北二京」が仏法での日本の中心地であり、それはやはり比叡山や奈良のことをもいう広い意味での「京」である。その仏教の中心地にあって異界のものでも僧形でなく白癩人であったことで、仏教の教理研究が僧だけのものではないことの驚きか、また教理研究がそれほど堕してしまったことへ驚きを見出したい。
第一話は道命阿闍梨が和泉式部のもとへ通って明けた後に法花経を読むと、五条西洞院の斎の神がやってきて有り難がって帰って行くという話である。
「斎」とは道祖神がそれに当たると諸注述べているし、それでよいのだろうが、道祖神といえば男根崇拝を思い起こさせる。普段なら「梵天・帝釈」が有り難がるくらい「目出く」読まれる法花経でも、女性との情事の後ならば男根を連想させる「斎」が登場するというのは如何にもおかしい。また、その相手が和泉式部であると、その効果を増幅させよう。そして五条西洞院とは「京」(この場合、「京」とは勿論「京」の中でもとくににぎやかな都心の意味での「京」である)から見て、五条通りを清水寺と反対方面に真っ直ぐ行ったところである。清水寺の霊験は『宇治拾遺物語』の中に著されるし(一三一話がもっとも霊験譚らしい。しかし『宇治拾遺物語』の中では、清水寺が舞台の話はむしろ不思議な話が多いようだ。八六話や九六話などは僧である)、清水寺の本尊が「観音」であることも対極としての「斎」を印象深いものとしている。
話末は道命の兄弟子の恵心が「念仏、読経、四威儀をやぶることなかれ」と戒めに言ったとあり、道命もそうすべきだったというのであろう。しかし「斎」の方に注目しながらみると、道命が和泉式部との情事に及んだ後、「御行水も候は」ず清からぬまま読経をしたことによって、道命の「心をすまして読」んだ経に近付くことができた。これはつまり「斎」は普段から、むしろ「梵天・帝釈」よりも注意深く道命の経に耳を傾けているのかもしれなかった。いくら「斎」とはいえ人に祭られる以上、神仏としての機能は怠られなかった。道命は「御行水」はなくても「心すまして」いたことを「斎」は解っていたというわけだ。
この話が冒頭第一話であるということはとても象徴的である。道命阿闍梨は「斎」が現れたことを忌んだだろうと思われるし、読者も忌むべきものとして「斎」を理解するだろう。話末もそれによって出てきたものだと思われる。ところがよく考えれば「梵天・帝釈」よりも「斎」の方が仏法的にはまじめで正しいかもしれないのだ。ここに、価値観の揺らぎを見出してもよいということにはなるまいか。
第一九話 と第一話の両者を通して言えることは「京」における〈賎なる〉霊的存在も、必ずしも〈賎〉だけでは済まされない。という事であろう。「御門」が〈聖〉だけではすまされないのとちょうど対応し、必ず価値をひっくり返していくのである。
「御門」も、この場合の「白癩人」・「斎」とも「京」ならでは存在である。
『宇治拾遺物語』は「京」が非日常を伴う場であり、次々と日常の価値観をひっくり返し続けてきたことを意識しているといえるだろう。王法・仏法の中心を設定すべく「京」すなわち平安京が建設され、そこやその周囲に人間が多く集まった。そこが非日常の場を抱えていることを『宇治拾遺物語』は見逃さなかった。
◆5◆ 光と影について
犯罪もまた〈都市〉特有の人間の活動である。『宇治拾遺物語』にも「盗人」が登場する。更にその「盗人」をも凌駕する存在として「武者(むさ)」というのが出てくる(三三話)が、ここでは「京」ととくに関わりの深い「藤原」の姓をもつ盗人「藤原保輔」に注目したい。
一二五話は、保輔自信が大悪党の「盗人の長」であり、言い値で買い取ると言いながら商人を呼び付けては「太刀、鞍、鎧、兜、絹、布など」を奪い取った挙げ句、蔵の中に掘った穴の中に落し込んで殺してしまう、また保輔のところへ物を売りに行って帰ってきた商人がいないというあからさまで悪辣な犯罪の話である。おまけに「とらへからめられるゝ事もなくてぞ過にける。」ということになっている。
保輔に関わる話は他書にもいくつか見られるが、一二五話と同じ物はない。
新日本古典文学大系の付録、「関連話一覧表」に「同話」は示されないし、その最下段には「類話・関連話(記事)」という項目があるのだが、そこにも本話と同じ構成の物はない。関連話としてあげられる各書の様子は大体次のような感じだ。「小右記」・「日本紀略」とも寛和二年に保輔は罪状を問われ散位、3年後の永延二年に逮捕のち自害とある。「百錬抄」には永延二年の逮捕記事および翌日の自害による死去に記事のみがあっただけだった。「江談抄」は保輔逮捕後、獄中を見舞った父致忠とのやり取りについて。続古事談は、保輔に嫌疑がかけられてから自害に至るまでの様子を述べるものとなっている。保輔が捕まらないことになっているのは『宇治拾遺物語』のみである。
それではこの話の肝心な部分である〈蔵の中に穴があって、その中に落し込まれて殺される〉ことを誰が確認したのだろう、という疑問が残るがそれは仕方がないのでさて置くことにして、『宇治拾遺物語』を第一話から順々に読み進めてきた時ここであることに気付くのである。この話は読んだことがあるようなないような、といった感じである。
つまり、保輔の兄である保昌が「袴垂」というこれまた「盗人の大将軍」(第二八話)と相対したときの話である。
二八話は、襲い掛かろうとした袴垂に保昌が一切隙を見せなかったという話である。思い出してまた二八話に帰ってみるとやはりそうだと気付く。これら両話が逐一対応して逆転しているのである。詳細を検討すると以下の通りになる。
まず、先にも述べたが保昌は「盗人の大将軍」と出会う。保輔は自分自身が「盗人の長」であり、一般人の商人を「呼び入」れる。これはもう一人の対象が(勝手に)〈やってくる〉と(意図して)〈呼ぶ〉という逆の関係である。
次に時刻である。二八話の方は夜も「夜中」である。一二五話では保輔は「万の売る物を呼び入」れなければならないのだから、昼の日中でなければならない。
そして場所。保昌と袴垂は路上というきわめてオープンな場で出会い、そののち保昌の家へと向う。保輔は象徴的な殺人が「家の奥に蔵を作て、下を深う井のやうに堀て」と、きわめて閉鎖的な場所で行われ、「京中押しありきて盗みをして過ぎけり」と書かれるのは話末の段落、終わりから二文目になる。
さらに結末、袴垂は「捕へられてのち、かたりける」とあるが、保輔は先にも述べたように「とらへからめるゝ事もな」かったのである。
有名な保昌はその人物像として〈武勇に優れている〉という側面と〈風流である〉という側面を両方持ちあわせた人物である。「尊卑分脈」にも「哥人 勇士武略之長名人也」とあるから『宇治拾遺物語』でも第二八話で人につけられているのに顔色一つかえず袴垂に対応したのはそういうイメージ基づいて語られたのだろうし、優雅に笛など吹きながら歩いているのは風流な人だということを表わしているのだろうと思われる。
一方、『宇治拾遺物語』において保輔の人となりは一切描かれない。第一二五話は保昌に保輔という弟がいたという説明からはじまる。しかしそれはただ
「尊卑分脈」によれば保昌の兄弟は兄一人・弟二人・妹一人ということになっている。保昌は次男であり、保輔は四男である。順に、斎光・保昌・維光・保輔・女子となっており、保昌が長男というわけでも保輔とは同じ母親であると断定できるわけではない。だがここで、保昌と保輔の関係は「保」の字が共通しているという点で注目したい。
そして筆者は保輔・保昌を重ねあわせて読みたいと思う。
保輔はもう一人の保昌なのだ。
如何にも唐突な意見のように思われるが、これは「京」に居を構える人々の栄光の光と影のように思われてならない。背中合わせになった兄弟はその隠喩である。貴族だからといって必ずしも才能に恵まれるわけでもなく、財産に恵まれるわけでもない。朝廷に仕事があればよいが必ずしも仕事があるとは限らない。「御門」に使えるのが仕事だとはいえ、その「御門」も必ずしも〈聖なる存在〉ではないようだ。すると、晴れ舞台を得た貴族たちはよいが、そうでなかった者達〈負け組〉は反社会的行為に生きるしかない。そしてそれは「京」という場では許容される。なぜなら、その正反対の者達も居るのだから。
筆者が比較した二八話と一二五話の項目は凡そそのことを表わしているとして理解せられるべきだと思う。
まず、人との関わりである。
持てるもの/持たざるもの、という構図をここで用意した。人々は〈光〉にあこがれ〈影〉を遠ざけようとする。持てるもの‐〈光〉は人々が近付こうとし、あやかろうとし、たかろうとする。しかし、持たざるもの‐〈影〉はそれをいかに隠して人を近づけるか、人に近づくかに腐心する。
つぎに時刻である。
保昌が〈光〉であることを見出すためには、まわりが暗くなければならない。〈光〉が明るいところにいたのでは、昼行灯になってしまう。逆に、保輔に〈影〉を見るためにはまわりが明るい必要がある。その明るさと蔵の中の暗さの落差が保輔の〈影〉なるところをビジブルにする。
そして場所。
二八話の主舞台、路上は公共の場である。オープンである。パレードにも使われる道とは晴れやかなものである。公であり、公とは「御門」である。「御門」は聖なる〈光〉である。
一二五話の事件現場となる蔵はもちろん私邸に建築したものである。しかも蔵は普通、めったに開けない、あるいは中に入るのに資格を要するとか、中身を知るものはかぎられるような、きわめて私的な場である。超プライベートである。さらにその中は「井のやうに」掘られている。これは水のでない井戸と考えてよいだろう。小野篁が井戸を経由して地獄と行き来していた話(古事談など)はあまりにも有名だ。そして、その中に入った人は皆、闇の中で無になって行く。まわりが暗ければ存在しない〈影〉の場がつくられる。
さらに結末。
もともと〈影〉の世界の存在であった袴垂は〈光〉の保昌に挑戦しようとしたために、最後には〈光〉の力(警察権でも・検非違使でもなんでもよい、とにかく国家権力的なもの)に押え込まれてしまった。〈影〉は〈光〉なくして存在し得ない。この場合は〈にわとりとたまご〉ではなく、〈光〉あっての〈影〉なのである。
翻って保輔は、〈光〉の存在を意識しつつ〈影〉の世界から一歩も踏み出さない限りにおいて、永遠に生き続けることができただろう。また、それがもっとも「京」らしい氏「藤原」の人物だというのは実に象徴的ではあるまいか。
「もっと光を」
と言い遺して息を引き取ったのはゲーテだった。実際はカーテンを開けて部屋を明るくしてほしい、とただそれだけの意味のないものだったという話をどこかで聞いたことがあるが、後世の我々はそれをいろんな意味に解釈したがっている。それくらい人は〈光〉を好むらしい。夏の夜の街灯に集う小さな虫を思い起こさせる。
そのゲーテが生涯もっとも大切にした著作は「ファウスト」でもなく「若きウェルテルの悩み」でもなく〈色とは光と闇の結婚である〉という非常にユニークな解釈の上に独自の物理学を模索した『色彩論』であったという。
〈光〉があれば、それに対置される〈影〉もしくは〈闇〉など、何らかの形で二項対立が必至となる。〈光〉がなければ〈影〉はない。そういう意味で「京」は〈都市〉として精彩な〈光〉をを放っていたのだろう。
そして〈影〉ができた。
『宇治拾遺物語』では二十八番目という前の方にこの〈光〉を配置し、忘れかけた頃に、その〈光〉でできた〈影〉を配置する。〈影〉の印象はより強固なものとして読者に語りかけてくるだろう。筆者はものすごく時間を隔ててはいても、一読者としてその伏線的な〈光〉の配置を思うたびに「上手い」と膝を叩きたくなるのである。
◆6◆「田舎」について
ところで、『宇治拾遺物語』の読者が「京」の放つ意味ある〈光〉を見ることができるのだとしたら、それはまわりが暗闇に取り囲まれていることをも読むことができるからである。その暗闇とはもちろん「田舎」だ。
「京」の話が多いことがこの卒業論文のテーマの動機に深く関わっているわけで、筆者はその読後感から、「京」の話以外の話、つまりインド・中国・日本の京都以外の話はもっと少ないだろうという印象を持っていた。
『宇治拾遺物語』で、「京」以外の場所は「田舎」もしくは「ゐなか」・「ゐ中」などと表記されるのだけれども(詳しくは後述)、その数を実際に数えてみると「以外と多いな」と感じた。
では、それらについて見ていこうと思う。全部で四一プラス判断しがたいもの七話である。以下、「京」以外の日本国内の話と思しきそれらを分析してみたい。
イ、田舎が舞台の話の分類
・はっきりと地名が掲げられるもの
2 3 4 7 16 18 36 41 45 46 52 54 56 89 93 96 106
108 110 111 119 123 128 134 135 136 140 148 149 165 166 180 185 186 192
・地名は出ないが、京ではないと解るもの
3 40 44 48 87 147 189
・判断し難いもの
8 53 67 68 79 113
150 177
「はっきりと地名が掲げられる」とは、「若狭」であるとか「佐渡」であるとかの地名が話の舞台を示す文脈の中に出てくることを言う。また「地名は出てこないが京ではないと解るもの」とは「山」が舞台であるとわかるとか、登場人物の文脈上「京」ではありえないけれど、それがどこであるか特定できないものである。
イ、用例について
「田舎」(「ゐなか」・「ゐ中」)の全用例を取り上げた(【資料3】)。用例は全部で八話一一例に用いられている。また、「田舎人」という用例も見られ、こちらは三話四例が見られる。
「田舎」とはどこか、ということに関しては、「京」でなければどこでもよいようだ。「田舎」は〈「京」ではないどこか〉を表わすと言ってもよいと思われる。これらの用例の中で、その「田舎」がどこを指しているか確認できるものは一〇一話の信濃だけで、他は文脈上地名が特定できないようになっている。また、興味深いのは一六七話「ゐ中」は中国に適用されているが、それは首都から見て地方のことであり、官僚は中央から下るものと決っているようである。
さらに「田舎人」という用例に注目すれば端的に理解できるわけだが、「田舎人」とは田舎に住む人、田舎出身である人、であると同時に無作法で、無遠慮で、洗練されていない人、つまり〈いなかもの〉のことをいうのであって、『宇治拾遺物語』で「田舎」とはそういう所であると理解されている。逆にいえば、洗練されているのは「京」という場、または「京」に住む人だけなのである。だから四一話では、意外にも常陸国に住みながらきちんと和歌が詠めて、容姿も美しかったりすると感じ入ったりしているのだ。
ロ、『宇治拾遺物語』の田舎の分布
→【資料4 】表〈国名比較〉
それによると、日本中の各地域へのばらつきは『宇治拾遺物語』も『今昔物語集』も大差はないものと考えてよいだろうと思われる。敢えていうなら、『宇治拾遺物語』のほうが、圧倒的に話数が少ない。もともとの数も違うし、そのうち「京」以外の(すなわち「田舎」の)話が占める割合も『今昔物語集』に比べれば圧倒的に少ないことを思い知らされる。ただ、ここでは西に偏るとか、東に偏るとかいうことは認められないということを確認しておきたいと思う。
ハ、田舎と京の関係について
関係ということを考えれば、「田舎」の人が「京」へ上る場合と「京」の人が「田舎」へ下る場合とに、その人たちが何をしたかということで考えられる。
〈上り〉の典型例として、伴大納言を指摘しておきたい。第一一四話の主人公となり応天門を焼いてしまった伴善男である。
一一四話は第四話と絡めて荒木浩氏に詳しい論がある(「国文学」一九九五年七月)が、ここではとくに「京」・「田舎」ということに注目して読み進めたとき、伴善男が〈いなかもの〉として描かれていることがわかる。『古事談』では消え、『宇治拾遺物語』ではまた復活する最後の二行に注目すると、伴善男が「京」に上らなかった可能性も排斥できないことになる。一介の「郡司が従者」が、たまたま「縁」によって「京」に上った。それも「京」の「京」であることの中心である、〈王権〉に食い込んでいき、挙げ句の果てに大納言にまでなってしまうのだ。そして、伴善男は応天門を焼くことになる。
〈下り〉の典型例は第九三話の「京よりうかれて、人にすかされて来たりける女房」と、第一八九話の「門部の府生」のそれぞれに見ておきたい。
前者は、播磨守に仕える「させる事もなき侍」であるところの「さた」とやり取りをする。「さた」の出自は不明であるが、播磨国に土着的に描かれてはいると思われる。いわゆる「地方官の下僚」(新大系の注)である。その「さた」が「もとより見馴れなどしたらんにてだに、うとからん程は、さやはあるべき」(草子地になっている)というくらいの無礼、非常識な行動に出たところ、「京の女房」は歌を詠みそれを非難する。
それが播磨の国司(為家)の耳に入り「さた」は結局追い出され、「京の女房」は褒美などをもらっている。
一八九話は、矢が好きで家族さえも困らせていた「門部府生」という男のはなしである。その矢の鍛練はは天皇の認めるところとなり、地方へ遣わされたとき、海上で海賊に襲われても大丈夫だったという話である。矢は洗練されたものとなったということだ。
簡単なことのようだが、「京」の人は「田舎」で圧倒的に優位な立場に立つことが多い(一八〇は例外的で、相手の唐人に京の人が呪われてしまう)。逆に、「田舎」の人は「京」でおもわぬ失策、失態を演ずる事が多い。紋切り的といってもよいくらいである。このあたりも『宇治拾遺物語』が見せる「京」への偏りのひとつであると思われる。
◆7◆呼びかけについて
百鬼夜行が〈都市〉的な事件である、と述べたのは田中貴子である(『百鬼夜行の見える都市』一九九四年新曜社)。そしてそれはその通りである。およそ「百鬼夜行」と称されるものは京都の一条とか二条とかその辺に出てくるから、「京」(など〈都市〉的なもの)とか〈王権〉などと関連付けて考えなかった田中以前の研究者は怠慢であった。
『宇治拾遺物語』には鬼の出てくる話が三つと鬼のようなものが出てくる話が一つある。百の鬼が出てくるのは第三話(鬼ニ瘤被レ取事)と第一七話(修行者、逢二百鬼夜行一事)である。第一六〇話には大きな鬼が一人(一匹か?)。第一五八話には「浦島の子のおとゝ」を名乗る化け物 ― 人を一口で食べる ― が現われる。しかしこのうち二例までが「京」とは別の場所に現われる。三話と一七話とである。
これらについて田中は「百鬼」ではあるけれど、誰かに見られることを意識して徘徊する「夜行」ではない、とする。確かにそうだ。それも正しい。
また一五八話については、その化け物は、「いにしへより此所へ住みて千二百余年」と今から八〇〇年前に言っている。数年前に平安建都一二〇〇年という観光キャンペーンがあったくらいだから、平安京のつくられる八〇〇年前からそこにいたということになる。これは「京」以前の問題、もしくはその(一五八話の化け物が住んでいる)家の主であった、陽成院の問題と考えられる。陽成院といえば〈気違い〉ということで天皇を辞めさせられたといえば、もう説明は十分かと思われる。
残るは一六〇話である。
一読すると、一応「伊勢物語」の第六段の鬼に女が食われる場面とおなじパターンであることが認められる。誰もいないところへ女を連れて入り、外はものすごい雷雨で、鬼が来た。という構図である。まもなく女が食われるはずだった。しかし女は食われなかった。「馬の頭なる鬼」は「よくく御覧ぜよ」と言いのこして行ってしまうのである。この話については、田中は次のように言う。
二つ前の第一五八話は陽成院の池の化け物に人が一口で食われる話である。一つ前の第一五九話は古びたむささびが出てくる。むささびがもしも「かわいい」ものなら、一六〇話の「馬の頭なる鬼」も「ユーモラス」だったかもしれない。しかしこのむささびはいささか妖怪じみている。
もっと素直に怖がってもよいだろう。
そして次の第一六一話は「上緒の主」が手に入れた金で西の京に土地を買って一儲けする話である。笑いの要素が中心になっているわけではあるまい。
そもそも「鬼」はなぜこわいのか。
それは、「鬼」が何かわからないからである。何者かわからないのに確かににそれはいる。理解できないということが、非常な恐怖を誘うのである。
鬼というものは普通、人の目に見えるものではない。とすれば名前も出てこないような「或男」に鬼が見えたことも問題である。しかも「馬の頭なる」と、この男ははっきり見ている。そして鬼に呼びかけられる。「しっかりご覧なさい」と。
第一九話で、一般人に見えないものが見えたのは師輔だった。
清徳聖が連れていたのは「餓鬼、畜生、とら、おほかみ、犬、からす、万の鳥獣共」だった。普通の鳥獣を連れていたのではない。普通の人間の目には見えない、霊的な鳥獣を連れ、餓鬼も連れていた。
本文中には一切そうと書かれないが、これこそまさに「百鬼」の「行」ではないか。ただし昼間。
「結縁のために」と呼びかけたのは「坊城右大臣」の師輔である。そして清徳聖はそれに応じた。そののち、糞を垂れながら行進した場所に「錦小路」という名を「御門」は与えた。天皇の土地である路上に糞を撒き散らすことはケガレを撒き散らしているのだから、早い話が天皇への挑戦であり〈呼びかけ〉である。その呼びかけに「御門」は「錦」をもって応えた。
お互いに呼びかけて、お互いに応え合った。
お互いとは女人である母親を成仏させた清徳聖と、師輔の時代、天暦の治の村上天皇である。お互いをみずからのイデオロギー装置の中にとり込み合うことが可能だった時代・人物たちの話なのである。ここにはどこにも「鬼」など存在しない。存在するわけがないのである。
話を一六〇話に戻す。
「或男」は一条桟敷屋で女と寝ていた。
何かよくわからない馬の頭を持ったしたおおきなものが、はっきりと見えた。
何かよくわからない〈それ〉が理解不能なまま「或男」に呼びかけたのが一六〇話である。
本文中には「傾城」とあるが、一条桟敷屋で共に寝る女、といえば誰だろうか。やはりここは〈王権〉が暗示されていると見ておきたい。証拠には困るが、一条といえば内裏であり、内裏といえば(平安時代の末にはもう空疎になっていたとはいえ)王権である。あるいは象徴としての〈王権〉とでもいうべきか。また、一条の桟敷屋は天皇が賀茂の祭の行列を観るのに使っていたものはずである。また、次の一六一話は「京」の土地問題を扱ったものであるので、化け物話の前話・前々話との連想の転換としての役割も必要だろう。というわけで、「或男」は象徴として〈王権〉と懇ろになっていたのである。
すると訳のわからないものがやってきた。恐い。「蔀をかけ」たのは、もちろん〈それ〉との関係を絶とうとしたからである。にもかかわらず〈それ〉は蔀という断絶を乗越えて近付いてきた。恐い。「或男」は刀を抜く、すなわちポーズとしての魔除けをするしかなかった。「伊勢物語」でも刀を抜いていたところで女は鬼に食べられたのだ。でもとにかく、切ってやろうと待ち構えるが、意外にも〈それ〉は、
「よくく御覧ぜよ」
と「或男」に呼びかけただけで去っていった。
〈それ〉は、歩きながら「諸行無常」と詠じていた。別に高尚な趣味でもなんでもない。ここから読み取れるのは、〈何かが変わろうとしている〉ということを〈それ〉が言いたかったということだ。「或男」は何をどのように「よくく御覧」ずればよかったのだろうか。
「今は昔」と言うけれど、「昔」とはいつなのだろう。
本当にやってきたのは、《中世》だった。
◆「京」という舞台
もしくは 宇治から観る「京」――
結語に変えて◆
「都市とは何かという議論を、ここでわざわざしてみるつもりはもちろんない」という書き出しで始まる都市論の文章を見たことがある。渡辺豊和著『芸能としての建築』(一九八三年昌文社刊)所収の「4舞台と劇場」だ。
都市を劇場にたとえるのは常套的だとしても、なぜそれが可能なのかを論じてみせたものとして読むこともできた。いわく、
『宇治拾遺物語』にはまさしくそれが当てはまるような気がする。
「都市舞台」(渡辺)。
〈都市〉としての「京」を舞台に見立てよう。もちろん「京」は空間的・実在的に存在するわけではなく、概念的・想像物的に存在するから、舞台もそのように存在する。必ずしも舞台は仕切られた〈空間〉であるとは限らない。場とか、座とか、あたりの雰囲気のようなものが、概念としての舞台を形成する。
舞台があれば、役者が必要である。彼等こそ『宇治拾遺物語』という〈物語り〉の登場人物である。興味深いのは本文の中に登場する天皇までが、役者として扱われることだろう。役者であるという点においては、「御門」も「大太郎」も「保輔」も「法師陰陽師」も等価である。ここでは「京」の主人も含めて、あらゆるものがカリカチュアライズされ、リアリティを失い、擬似的なものとして鑑賞の対象となる。
鑑賞者、つまり(劇場に擬えつづけよう)客も、もちろんいる。『宇治拾遺物語』という〈物語り〉の作者であり、読者である。
小峯和明は『宇治拾遺物語』はその表現方法として「猿楽」、すなわち現代風にいうなら「諸芸一般」(小峯)を巧みに取り込んでいると論じた(「宇治拾遺物語と〈猿楽〉」『伝承の古層』所収一九九一年桜楓社刊)。ではその「京」という概念的な場を舞台とする、テクスト上での「猿楽」を楽しむのにもっとも相応しい場所とはどこか。
それが「宇治」ではないのだろうか。
劇場の舞台が南を向いていれば正面は宇治だ。擬似的な劇場という場を鑑賞する、擬似的な観客席として「宇治」を想定し、私たち読者が「宇治」から「京」を眺めることを想像したとき、私たち読者もまた疑似的に(パロディーとして、私たち読者自身もカリカチュアライズされて)存在することになり、それによって、物語世界という名の劇場に加担する。そういう意味でも「京」であって「京」でない「宇治」という場所柄は『宇治拾遺物語』の理想的な読者を想定する場所として相応しい。
「京」は都市だから、いろんな人がいた。この多様性こそが、誇り高い「宮こ」をつくった。その辺が『宇治拾遺物語』の「京」に贔屓をする理由だろうと思う。しかし『宇治拾遺物語』の同時代、世の中は混沌としていた。予断を許さなかった。価値が転倒していた。一方で、「京」だけではどうにも立ち行かなくなった現実を見ていたに違いないのである。
第一八〇話に「博多といふ所」が登場するというのは、おそらく重要なことである。『宇治拾遺物語』のなかで「京」以外の場所が〈都市〉として機能していることを意味している。それに対し、『宇治拾遺物語』としては何も不自然には思っていないかのようだ。
第一九三話で『宇治拾遺物語』は相応和尚に「京は人を賤うする所なり」と言わせてこの話を終える。その次の話(一九四)では舞台は「南京」すなわち奈良へと移り、最後の三話(一九五〜一九七)は「唐」の話をする。
五条西洞院の「斎」にはじまり、全話数の七割近くで「京」の話をしておきながら、「京」の話で終わることをせず、一度奈良へ行ってから、中国の話を三つしてこの〈物語り〉を終えるのだ。
『宇治拾遺物語』は「京」への帰着を見ない。それはおそらく『平家物語』をはじめとし、戦乱の世を「物語」として享受するのではなく、実体験として自らの目で見た実感なのだろうと思う。そして、それら、時代の空気としての〈動揺〉にはまっている自らをも戯画化して、楽しんでしまおう。そんな姿勢を『宇治拾遺物語』から感じ取ってもよいのではないのだろうか。つまり時代の空気=〈動揺〉の象徴として「京」はある。そこで人々は、私たちは生きていたのだ。
近年、地方分権とか首都機能移転について議論される機会が以前にも増して多くなった。もし、「象徴として」の天皇ごと移転するようなことがあれば、家康から大政奉還までを「江戸時代」と呼ぶのに習い、明治・大正・昭和・平成を〈東京時代〉と呼ぶことであろう。それは多分、いままで〈近代〉と呼んでいたものに終止符を打つことになろうかと思う。
現在、近代的な価値観・システムともにがらがらと音を立てて崩れているし、経済は混乱をきわめ、筆者も含め人々は将来に対する不安でいっぱいである。私たちはどこへ行くのだろうか、そんな不安を客観的に眺めては、そんなことで怯えている、一方で夢や希望を捨てずにいる自分(達)をわらってみたりもする。それを『宇治拾遺物語』の中に見出してはいけないだろうか。
筆者はこれからも、しばらく、当分東京に住み続ける。そして生活レベルで息苦しいと感じ続けるだろう。あるいは、「ここはどこだろう、私は何をやってるんだろう」と悩み続けるに違いない。しかしそれは私に始まったことではなくて、それを別のエネルギーの代えてしまう力が既にはるか昔からあって、実際それに触れることができた。それに納得できれば筆者の早稲田大学第一文学部での四年間は充実したものであったと言わざるを得ないであろう。
書き始めてみると、当初に予定していたものと全く違うものができてしまったことに自分でも驚いている。さもあらん、夏休みから一〇月半ばまで卒論のことを忘れたかのように他事にいそしんでいたのだから。しかも、論文というよりかは、雑文集みたいになってしまった。しかしそれも実力のうちだからあきらめなくてはいけないのだと思うし、筆者自身が本当に求めていた形式は案外こういうラフなものだったのかもしれない。
それにしても、これで卒業できるとなればひと安心である(というか、ぜひ単位は下さい)。
最後に、卒論執筆を前に完全にサボっていた筆者を一喝してくださった「今昔の会」のみなさんに謝辞を述べたい。それから、これを読むだけに留まらず、評価までしてくださる竹本幹夫先生に大いに感謝しつつ筆を擱きたい。