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旅人・「遺跡のトカゲ」の独り言/ジャスミンの香りに癒されて


■ 1970年代の“外国旅行”

  横浜港から津軽海峡を通過するロシア船で2泊3日、氷点下の気温、粉雪が舞う極東シベリア・ナホトカの港へ着いたのは1972年3月であった。
  出航した横浜大桟橋では、父親と出産したばかりの妹を除き、和装の母親や兄弟、叔父や叔母、従兄弟達や友人などが見送りに来てくれ、別れの紙テープを船上の私へ向けて投げた。少し離れた場所では、将来を意識し合っていた女性が涙を拭きながら何時までも手を振っていた。ドラが鳴り、マーチが流れる中、ロシアの船が桟橋から離れるに従って、桟橋と船の甲板との間には別れや激励の言葉が飛び交い、大量の紙テープが途切れ海風に舞った。
  現在と違って、1970年代の初めに「外国へ行く」ということは、まるで映画に似て演出された大げさな「人生の別れのドラマ」のような雰囲気があった。そしてその言葉通り、遠く埼玉の北部から横浜港まで見送りに来てくれた叔母は、この1年後、私が帰国する前に亡くなり、その笑顔に再会することはなかった・・・
  そうして上陸した極東シベリアの港、この華やかな装飾など何一つない寒々とした極東の港の風景が、私にとり初めての「外国」となった。人生最初の外国という感慨はなく、むしろ銃を持ったソビエト軍兵士の厳重な警備のもと、下船とその後の行動の全てを監視される緊張感と今までに経験したことのない違和感が私の全身を覆っていた。
  当時の国際関係は経済より政治と安全保障に比重が置かれ、世界は政治的イデオロギーで大きく二分され、西側のアメリア・西ヨーロッパ・日本など、東側の旧ソビエト・東欧諸国・キューバなどを主軸とした軍拡と東西冷戦の緊迫した時代であった。さらに日本は1960年代に起こった大学紛争や日米安保条約問題を初めとする困難な課題を抱え、国自体が政治的にも経済面でも安定を確保できず、国民は出口の見えない迷路に入り込み、社会には混乱が渦巻いていた。企業のみならずあらゆる組織とその基本思考は第二次大戦以来の古い体質を引きずったままであり、国は極東の小国、経済の三流国から脱皮しようと必死にもがき苦しんでいた。正に日本はまだ国際舞台に立つことの出来ない開発途上にあったと言える。

  従ってこの時代の海外旅行、と言うより “外国旅行” と呼ばれていた海外への旅行を意味する単語は、有るには有ったが社会の中の極めて限定された場所にこっそりと存在していたに過ぎず、一般の人々や若者達が興味を抱く対象ではなく、一握りの恵まれた人だけが手を伸ばして触れることのできる特別な単語であったと言える。
  1970年代初め頃のパスポート取得には、外務省が旅行者の旅行費用の原資を確認する意味、そして海外で万一のアクシデントが起こった場合の経済的な対応の裏付けを確保するためか、銀行預金の残高証明書の提示が義務付けられていた。更に外貨準備高の少ない国の財政状況からして、旅行時の外貨の持ち出しは一人最大US$1,800に制限されていた。
  国の経済を総合的に把握できる統計指標では、古い言葉で言う日本のGNP(国民総生産)、現在で言うGDP(国内総生産)は徐々に増加しつつあった。また1971年に起こった金融の歴史を揺り動かす「ニクソン・ショック(金ドル本位制崩壊)」で、長い間維持されてきた「1US$=¥360」の固定為替レート体制が崩れたにしても、国の経済の強弱を端的に示すはずの対ドル相場では、依然として「1US$=¥300以上」を示していた。
  出発前に必要な基本外貨であるUS$交換にしても、銀行の窓口でパスポートの最終ページに交換した買取US$額がスタンプで裏書される、国の完全許可制が布かれたままであった。例え運良く日本円を無許可で持ち出したとしても、海外では通貨価値を認めてもらえない日本円からの交換はことごとく嫌われた。稀に交換が可能であっても、¥10,000を差し出し¥8,000相当の現地通貨が返ってくるという、悲しいかな我が国の経済力の弱さを至る所でまざまざと見せ付けられる苦しい経済環境であった。

  現在では信じられないことであるが、この時代経済的に余裕のない殆ど全ての国民の持っている辞書には、「海外」とか、「外国旅行」という単語はまだ印刷されていないと同意であった。それらは自分達に関係も興味もない別次元の単語であり、一生かけても遠い国への旅行など絶対にできるはずもなく、話題にものらず夢の中でさえも出てくることのない話であったのだ。外務省の海外渡航者の統計数値の殆どは一流企業のビジネス出張か、議員などの公的な視察で占められ、一般人の観光目的の数値は限りなく少なかった時代である。
  当然のことに、海外の地を旅行するのに必要となるガイドブックさえも海外旅行を行う人が潜在的に少ないことから、世界的に有名な一部の都市、ロンドンとか、NYとか、パリとかの説明に限定され発行されていたに過ぎない。しかもそれは実用的というより、社会や歴史の教科書のように、有名な建造物や博物館などの表面的で通り一遍の解説書と言って良い内容であった。
  普通の生活を送る殆どの人の周囲には海外旅行をした経験のある人など皆無であった。そんな状況の中、何としてでもヨーロッパやアフリカ、中東などの生きた情報が欲しかった私は、出発前に海外も含めた航空会社や船会社、在東京の外国大使館、旅行会社、官庁など、考えられるあらゆる機関と組織へ200通以上の問合せの手紙を書いた。現在のようにPC電源をONして、キーボードとマウス操作をするだけで、誰でも世界中のリアルな詳細情報を瞬時にして探し出せるインターネット、電子メール、ファクシミリなどの高度なシステム技術など存在しなかった時代である。当時の通信手段と言えば、¥15切手を貼って赤いポストへ投函する手書きの手紙、そして赤い公衆電話と黒い固定電話だけが頼りの時代である。


■ 初めての海外旅行

  1970年代の初めの頃、個人で海外へ行ける稀なチャンスに恵まれた若い人が、例えばヨーロッパへ向かう時には、料金が天文学的に高かった航空機の利用などまったく不可能であった。通常横浜港からロシアの船で極東シベリアへ渡り、シベリア鉄道かアエロフロート国内便かを選び、外貨を落とす強制的な滞在が条件であったモスクワを経由して、1週間〜10日間もかけヨーロッパの目的地へ到着するのである。日本から見たヨーロッパは、距離的に遠いだけでなく、時間も渡航の手段においても本当に「遠い外国」であった。
  その上東西冷戦と軍事的緊張を背景として、当時の旧ソビエトが厳しい監視体制を強いていたことから、モスクワからヨーロッパへの移動で許されていたのは、ウィーンかヘルシンキへの二つの鉄道ルートだけであった。しかも二つの都市への国際列車は、雄大なロシアの大平原を見ることのできないモスクワ発の夜行列車であった。
  しかしモスクワ市内で一般の市民に道を聞くことさえも避けられ、軍に関係する施設は当然のこと、駅構内や鉄橋を初め列車の車窓から走り去る普通の風景写真を撮ることさえもできない、映画・「007/ロシアより愛をこめて」に似て、監視尽くめのこの緊張のサスペンス・ルートこそが、当時料金と時間的にも最も効率的なヨーロッパへの近道であった。
  若い人がヨーロッパへ行くために唯一選択できたこの緊迫のシベリア・ルートでさえ、給料の3か月分に相当する高額な料金を支払い、それでも片道チケットしか購入できない有様であった。極東の小国日本は国際社会で確実に立ち遅れていた。残念ながら「陽いずる国」の現実の経済は、まだまだ涙が流れるくらい悲しい限りであったと言える。

  私がその頃「ヨーロッパへ行く!」と決めた時、その突拍子もない発想に、中国大陸に軍人として7年間も出兵して“外国”を経験した父親は無言で否定、他の家族を初め周囲の友人達も一部を除き唖然とするばかり。しかも社会へ出て間がなかった私には経済的に余裕などあるはずがなく、当然の事に月給の半年分に相当する高額な往復チケットの購入などできず、勢い船と列車を乗り継ぐシベリア・ルートの「ヨーロッパ行き片道チケット」、そして母親が黙って渡してくれた餞別と少しばかりの貯金をたたき交換した小額US$紙幣だけを握り締めての余裕のない出国となった。
  それは帰国用のチケットを持っていないという、現在では考えられない無鉄砲そのもの、正に一世一代の大ギャンブルにも匹敵する覚悟を伴う、大げさに言えば「人生をかけた旅行」であった。それでも、どうしても先進のヨーロッパ諸国や4000年の歴史が流れる古代文明のギリシアを「実際に自分の目で見たい」とする、前方しか見えない若さだけが取り柄、20代前半の私の「思い詰めたらやるしかない」の強引な行動姿勢が、この不可能とされた海外旅行を実現させたのである。

  1300年の昔、奈良時代に制定された「大宝律令」に記述をみる歴史的な地名ながらも、今では片田舎に過ぎない埼玉の「男衾(おぶすま)」で生まれ育ち、世間からかなり遅れていた私にとっての最初の海外旅行は、1972年の春先、船で渡った旧ソビエトに始まり、ヨーロッパ全域を回り、サハラ(砂漠)を含む北アフリカ、陸路での中東イスラム諸国からアジア地域へと至る、世界白地図のかなりの地域を埋めることになる1年以上の長く本当に厳しい旅行となった。
  実用的な旅行情報を得られない中で、寝る間も惜しみ読み漁ったヨーロッパと中東諸国についての数百冊の歴史書籍から得た内容を中心に、4年近くかけて作成した750ページから成る膨大な手書きの計画書は、出発直後からことごとく乱れ放しで軌道に乗ることはなかった。情報もなく世間知らずの上に、「何とかなるさ」の若さで押し切ろうとした私の楽観主義は完全に覆され、現実の旅行は大雨が降りしきる泥沼で途方にくれるほどの試練の連続で、余りに辛く厳しく若かった私はあらゆる局面で徹底的に打ちのめされた。
  私はこの1972年〜73年の旅行を通じ、今まで子供の頃から徐々につくり上げてきた日本的な思考チャンネルも価値観も、何もかも一気に大きく変えざるを得なかった。1年以上の長い旅行を続ける間に、私は田舎育ちで世間知らずから、多くの人が誰も見聞したことのない広い「世界」を一気に知ることになった。自分の目の前に現れる新しい対象や初めて遭遇する状況に対応するため、次から次へとシナリオを書き直す必要に迫られ、私の身体と脳細胞にはアドレナリンが放出され、意識と神経は高速フル回転をしていた。
  厳しい旅行を別の観点から眺めた時、「毎日が人生ドラマ」と言える長期に渡る海外での旅行が、金では買えない大いなる意義と人の深さを与えてくれたと思う。ドイツでの病院への強制入院を初め、サハラ(砂漠)での軍による拘留、北アフリカで遭遇した生命の危機のシーン、インド奥地での日本人コレラ感染者の救出、カメラと多量の撮影済フィルムを含む何回も受けた盗難など、結果として辛く失ったものも多々あった。しかし時の経過に比例して確信が増してきたことは、事前の予想を遥かに超え、たくさんの信頼できる人達との出会いを通じて人として必要なものを学び、想定外の出来事や日本に居たなら金を出しても経験できない異文化への対応と経験を重ねることで、得られるものが数限りなく多かったという自信である。

  サハラ(砂漠)からヨーロッパへ戻った私は、1年を越えた長い旅行の最終段階で、更に1か月半かけて陸路で独り中東イスラム世界からアフガニスタンやパキスタンを経由してアジアへ移動した。手持ちの現金が完全に底を打つ直前、「幸運の女神」が背後から私へ救いの手を差しのべたのであろうか、40℃の炎天下のインド・オールドデリーを歩き回り、やっとのことで4回乗り継いで東京まで飛ぶ割引フライトを探し出した。それでもサラリーマンの月給の2か月半分に相当する高額なチケットであった。
  そうしてタイ・バンコクに立ち寄り、香港から東京羽田空港(当時成田空港はまだ存在しない)にようやく帰ることのできた1973年4月、私のポケットにはたったUS$5(¥1,500)しか残っていなかった。その上に月給の5か月分に相当する家族からの借金が残るという、それは出国から帰国するまで波乱多き、ボロボロになっても休む暇もない、正に試練と苦悩の絶えない旅行であった。

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■ ギリシアへの旅行

  1970年代初めの厳しい日本の国内事情と国際環境を背景として強引にスタートしたのが、私の初めての海外への旅行である。
特に私は今日まで人類史上飛び抜けた高度な文明を創ったとされる現在のギリシアを囲んでいるエーゲ海の人々の長い歴史、そしてその圧倒される規模と内容に強い魅力と憧れを抱き続けてきた。それが海外へ心奪われた理由の一つでもあり、とうとう自分の目でそれを確認しようと海外への旅行を実行に移したのである。
  1972年以来、私の今までのギリシア滞在は累計で1年間以上になり、ギリシア国内に点在するクレタ・ミノア文明とミケーネ文明に関係する遺跡、そして遺構が殆ど確認できない名もない小さなサイトを含めると200か所以上の遺跡を、そして関係する各地の考古学博物館を訪ね回ってきた。ギリシア本土ではペロポネソス半島を中心に、エーゲ海ではクレタ島とその周辺の島々を、更に遠く東地中海の要衝キプロス島やトルコ西海岸地方へ足を延ばし、3000年以上前の古代エーゲ海文明の驚くべき中身を少しでも理解したいと希望してきた。

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■ ギシリアの遺跡のトカゲ

  企業勤務という身分と条件から、多くの場合、私は比較的長い休みが取得できる真夏の時期を選んでギリシアを訪ねた。真夏のギリシア、それは植物の生命活動を一時的に停止させる極度の乾燥と容赦なく照り付けるエーゲ海の眩しい陽光など、結構厳しい自然環境と同居する旅行の季節でもある。
  そんな中、陽光の眩しさに目を細め、独り交通不便な地方の町や村々、或いは本土やエーゲ海の島々にひっそりと存在し、人々の記憶から忘れ去られた3000年以上も以前に造られた輝かしき古代文明の遺構や墳墓、そして夥しい数量の出土品を公開する考古学博物館を訪ねて回るのは、それほど楽しい作業とは言えない。
  微かな専門的な発掘情報を頼りに、乾燥とまどろみを誘う強い陽光で夏枯れした草むらの中にぽつんと露出した大理石や石灰岩の遺構を探し当て、安堵と一種の感動を覚えつつ近づく。ギリシアではUNESCO登録の世界遺産であるアテネ・アクロポリスの丘やデルフィの神域、ペロポネソス地方のコリントス遺跡やミケーネ遺跡など、観光化され世界的に有名になった幾らかの大型遺跡を除き、残りの殆どの忘れ去られた小規模な遺跡では、研究者や考古学を専攻する学生達以外にまったく訪れる人もいないと言っても、答えが大きく外れてはいない。
  そんな時、一般のツーリストの知らない古代エーゲ海文明の小さな遺跡では、最初に出会うのは間違いなく遺構の石柱や墓石の上で静かに佇んでいるトカゲ達である。彼らはその遺跡を根城とする“主”の如く、大きな眼をキョロキョロさせ、外来の私を冷たく一瞥した後、サッと夏枯れの草むらに一斉に身を隠す。


■ ギリシアの遺跡での時間

  私は遺跡のサイトで独り黙々と自身の目的作業をこなし、その後、先ほどまで彼らトカゲ達が佇んでいた遺構の石材の上を借用して座り、眩しい陽光に眼を閉じ思考のタイムトンネルを一気に通過して、思いを遥か3000年以上前の古代へと浮遊させて行く。それは古代遺跡に“生”が息づいていた時への研ぎ澄まされた自由発想と言うか、精神の陶酔された境地と言えるか、私の夢想の時間である。かつて遺跡の場所には間違いなく命があったのであり、そこには文明の人々が会話し、大勢の家族が集まり、生きるための日常があり、食事や狩りを行ない、争いや涙も喜びもあったはずである。
  色々な情景を夢想の中で描き、私は独りささやかな喜びと感動に酔いしれていく。そして遺跡周辺に無数に散在する陶器断片を手に取り、かつて破断される以前、容器として確実な形が存在したはずのその陶器片を、誰かは分からないが古代の人が何かの用途に使っていたことをイメージする。
  そんな時、3000年以上の長い時間が急速に圧縮され、今自分の手の中に存在する陶器断片をまじまじと眺め覚える時空のタイムトンネルを越えた静かな興奮が私には堪らない。そして将来数百年、或いは数千年が過ぎたある日、私のような古代の文明にこだわった人間が、この忘れ去られた文明遺跡に佇み、私と同じような思索と陶酔を行なうのであろうかと・・・ その時、この遺跡にやって来た時、初めに出会ったもの言わぬトカゲの子孫達が、おそらく遺構の同じ石柱や墓石の上で静かに佇んでいるのであろうかと・・・ そして彼ら遺跡のトカゲの子孫達は、たとえ途方もない時間の経過があろうとも、相変わらず自分達が“主”の如く、かたくなに遺跡を見守り続けて行くのであろうと、思ったりして・・・

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■ ジャスミンの香り

  クレタ島などエーゲ海の島々や西部ギリシア・ペロポネソス地方などでは、民家の垣根や建物の壁面近くに乾燥に強く白い清楚な5弁の花を付けるツル性のジャスミンを植えてあることが多い。
  気だるい夏の午後など、微かに吹くまどろみの地中海の風に乗って時折このジャスミンの花の香りが漂ってくる。そんな時思わず足を止め、香りを出している元木を探し出しより元木へ近づき、目を閉じ思い切り深呼吸をしてしまう。販売されている濃縮加工のオーディコロンの香りではなく、芳しいというか自然のジャスミンの香りは本物のリフレッシュメントであり、忘れかけていたメンタルな和みを蘇らせてくれる。
  穏やかにして心に活気を与えてくれる自然との語らい、こんな時人は心豊かで優しくなれるのかも知れない。遺跡廻りの途中の他愛のない自然とのハプニングな接触であり、多忙極まりない日本の日常生活の中では殆ど経験できないこんな貴重な時間のみならず、忘れかけていた心の繊細な襞(ひだ)への優しく働きかけができることも、古代文明遺跡のあるギリシアの辺地への旅行が、私に与えてくれる大きな魅力の一つである。


■ 世界紀行が教えてくれるもの

  無数にあるギリシアの考古学遺跡以外にも、私はヨーロッパを中心に共産主義時代の旧ソビエト(ロシア)や社会主義体制であった東欧諸国、北アフリカ・サハラ(砂漠)、中東のイスラム諸国、アジア地域など多くの国々を訪ね歩いてきた。それらは決して多額の予算で実現できる優雅な旅行の形ではなく、楽しい笑いの時間もそれ程多くない旅行であった。正確に数えたことはないが、恐らくは累計で40か国1000か所を越える世界の多くの村や町や地域を訪ね、それらを遠くから或いは近くから眺めてきたのである。
  私にとって、古代エーゲ海文明遺跡や考古学博物館を回る旅行は、夢想を伴った古代へのある種のアクセス手段であり、一方世界各地への旅行は印象的な町や村を広角レンズ的に眺め、有機的な街自体を含む、そこに住む人々の生活や思想を遠方から眺め確認することであろうか。
  それは海外へ出かける現代の多くの日本人の旅行が、あたかも日常生活の延長線上にあるかのように、潤沢な手持ち外貨を湯水の如く使って、ガイドブックに掲載された有名な場所を訪ね、ハイグレードのホテルに宿泊し、グルメレストランで地元料理と説明された豪華なディナーを取り、名の知れたショップでの買物に精を出す単純で忙しいツアーツーリストとは一線を画す、誇大に言ってしまえば自身内部への静かな問いかけを含めた「人生の旅路」と言えるのかも知れない。


■ 海外旅行の精神

  今でこそ日本は世界の先進国となり、経済面では超一流の国となった。それ故にある意味では豊かさの象徴としての海外旅行は、誰でも何時でも何回でも実現できる極一般的な楽しみの一つになっている。
  私はかつて人生を左右する程の押さえ込めない憧憬を抱き、結果強いカルチャショックを受けた1970年代初め、日本がまだ三流国で本当に貧しかった頃に、事後に必ずややって来る人生の犠牲を承知の上に実行した海外への長い旅行の意味と精神を、今でも決して忘れようとは思わない。
  何故なら、それは私にとって、海外へ向けられた視点というか世界観の基本であると同時に、私自身の紛れもない人生の軌跡でもあるから。そしてその訪れた世界各地の数知れぬ場所は時空を越えた遥かなる「時」であり、コツコツと確実に私に働きかけ、その美しい色彩とそこでの感動の全てを私の心に刻み込ませてきたのである。これらはいつまでも輝きを失うことのない心の宝石として、私の脳裏にプリントされ続けると確信する。
  そうなのだ、海外への旅行は、私にとって、正に「人生の師」であると思うから・・・
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