エジプト・トルコ記ー”君はピラミッドを見たか”
早稲田大学教授の吉村作治氏は「君はピラミッドを見たか」という本を出版している。この言葉は氏の友人(同僚教授)がギザのピラミッドを見て帰国した後、早稲田大学の学生に向かって発した言葉だそうである。
この言葉に触発された訳でもないが、一度、ピラミッドを見てみたいと言う思いはいつも持ち続けていた。それで、エジプト・トルコがセットになったツアーに参加した。
10月23日(月)
エジプト航空機は定刻の午後3時30分の5分前にゲートを離れた。その後、離陸用滑走路に移って、午後3時40分に離陸した。これから14時間に及ぶ長い飛行である。先ず、機は機首を内陸部に向けて上昇し、それから方向を変え、一旦海上に出た。その後、日本列島を横断して日本海上空に達した。
1時間半後には、朝鮮半島に差し掛かっていた。更に、1時間半経つと今度は河北省、邯鄲の上空だった。その後、北京からモンゴル、天山山脈の北を飛行し、離陸後8時間半が経った頃はカザフスタンの上空だった。その後、カスピ海を横断して、イスタンブール上空からマルマラ海を経てカイロ国際空港に着陸した。この間、実に14時間であった。
イスラムの世界では、酒は人間の間に敵意と憎悪をあおり、神を忘れさせ、礼拝を怠らせるサタンの業とされている。従って、酒は全面禁止である。従って、エジプト航空にはアルコール・サービスがない。飲みたい人は自前で、予め成田の免税店などでお酒を仕込み、勝手にセルフ・サービスで飲むことになる。私の場合は、成田でウイスキー(サントリー山崎)を買っていたので、それをコーラで割って飲んだ。
10月24日(火)
今日はラマダン明けの日。ラマダンとは、日中は食い物、飲み物を口にしないイスラムの戒律の日々のことで一ヶ月間続く。それが、今日で終わったのだ。早朝の4時半頃、突然、祈りの大音声が拡声器で流れ、当方としては只びっくりして、眼が醒めた。イスラム教徒は一日に五回、メッカに向かってお祈りをする。第一回目が夜明け前のお祈りであり、私を起こしたのはこれに該当する。
昨日、23日15時半に日本を発って、同日22時20分、14時間飛行して、7時間時差のあるカイロ国際空港には夜中に到着した。そのまま、バスでギザにあるOASISホテルに行き宿し、翌朝、拡声器から流れるイスラムの大音声の祈りで眼が醒めたというわけだ。
昨日の機長の名はムハンマド○○○○だった。○は聞き取れなかった。機内放送はアラビア語、英語、次に日本語である。アラビア人はどちらかと言うと丸顔で、親しみ易く人間味を感じさせる。この点、アングロサクソン系は「知性」とか「意志」がキーワードであろうか。日本人としては、エジプト人には何となく親しみを感じるものがある。
今日はピラミッドを見に行く日である。
午前八時頃、バスに乗ってギザにある三つのピラミッドを見に出かけた。ピラミッドは、車窓からは椰子の木の間や、赤茶けたアパート群の間で見え隠れした。未だ朝靄が立ち込め、ピラミッドの稜線はかすみ勝ちだったが、ピラミッドは凛々しくすっくと聳え立ち、何か威圧感があった。四千五百年の時間経過の中でも、稜線が美しく、崩れていないのが不思議である。
エジプト人ガイドのハーゼム氏(大柄の30歳代の青年)は、ピラミッド見学の予定を急遽変えて、先にモハメッド・アリ・モスクやオールド・カイロに行くことを提案した。ピラミッドは午後になれば、朝靄が晴れてもっと美しく見えると言うのだ。
昼食を終えて、ピラミッドの前に立った感想は、「随分大きなものを作ったものだ」ということだ。一つ一つの石は2,3トンから最大15トンまであり、使用された石の総数は230万個、高さは137メートルある。クフ王が20万人の農民(農閑期に限ったらしい)を使って、20年をかけて作ったとされている。エジプト全土に見つかっているピラミッドは80基以上、その中でこのギザのクフ王のものが最大とのことである。
ピラミッドは宇宙人が作ったとする説もある。しかし、多数築造されたピラミッドの中には、既に崩壊してしまったものや、築造途中のものや、失敗作もあるので、ガイドのハーゼム氏は築造したのは宇宙人でないと説明した。宇宙人ならば失敗する筈はないがその理由である。
ピラミッドは謎に満ちていると云われる。すべて遠い昔のことは、謎に満ちていると言う意味で謎に満ちている。石は堅固で、4千5百年の時を凌駕して眼前に存在し、無言で訴えかけてくる。
カイロでは、東京の様に信号が青に変わって、一斉に道路を横断するということにはなっていない。人々は男も、女も子供も、年寄もみんな必要があれば、道路を横断する。行き交う車の間をくぐり抜け、くぐり抜け道路を渡る。繁華街の十字路では、警官が出て直接交通整理に当たっている。
街全体が埃っぽいのは、雨が降らない所為であろう。すべての水はナイル川から取る。ナイルの水が及ぶ範囲が緑地帯で、其処が人間の生活範囲であがある。それ以外の場所は砂漠である。ピラミッドは広大な砂漠の縁に5千年前から建っている。ナイルの全長は6千7百kmで、上流はビクトリア湖の辺り、其処から延々とアフリカ大陸を流れ、カイロでデルタ地帯を形成しアレキサンドリアで地中海に流れ込んでいる。
因みに、人類はビクトリア湖の辺りに最初、出現した。450万年前、始めて此処に、二本足で直立歩行する猿が出現し、それが人類の元である。この猿人は百万年前に火を使うことを知り、当時としては最高度技術でとして石で斧を作り地球上に君臨する足がかりを得た。我々はその成れの果てである。
エジプトのタクシーの車体の色は白と黒である。メーターはついているが、殆どの場合、料金はドライバーと客の交渉によって決まるそうだ。タクシー、一般車を問わず、車は傷だらけで、タイヤの溝も相当薄くなっているのが日本人としては気になる。


カイロ市街から見るギザのピラミッド 世界最古の階段ピラミッド
10月25日
エジプトの感想。
国民は貧しい人が多いようだ。そして、金持ちは飛び抜けて大金持ちがエジプト流である。これは個人に問題がある訳ではなく、気候に原因がある。従って、貧富によって人を差別することは当を得ていない。人間は自然条件が提示するものを受け入れなければならない運命の下で生きているからである。
今日から一週間は、トルコの旅となる。その為、先ずカイロからイスタンブールに飛ぶ。イスタンブールは昔、コンスタンチノープルと言われ、東西文化の融合する街である。
そこでトプカビ宮殿を訪れる。この宮殿はピリー・レイスの古地図が発見された場所として夙に有名である。ピリー・レイスの古地図とは、現在、南極の氷の下に隠されている地形が細部に至るまで正確に描かれている地図のことである。南極の氷の下に土地があるなどと言うことは19世紀まで、誰も知らなかった。それが、遥か昔、アレクサンダーの時代(四世紀)以前に、既にそのことは知られていて地図に描かれていた。
これは1万5千年以上前、南極が氷に覆われていなかった時代、南極は緑の大地であり、さらに高度な測量技術を持つ文明があったと言う仮説に発展する。即ち、現代文明とは別の起源を有する超古代文明が地球上には存在したのではないか。それはアトランテイス文明ではないかと言うのである。
カイロから2時間の飛行でイスタンブールに着いた。共にイスラムの国だが、雰囲気は一変する。兎に角、活気に満ち溢れた街というのが第一印象だ。古代競馬場跡やブルーモスクに行ったが、道行く人々の多さ、混雑ぶりは東京を遥かに凌駕している。
イスタンブールは町自体が世界遺産である。東西の文明が同居・融合し、街の中にアジアとヨーロッパがある。即ち、金海湾に架かるダコタ橋がトルコの中で、アジアとヨーロッパを分ける。
トルコの人々は日本人に興味を示す。ガイドが日本語で説明をしていると、立ち止まって熱心に耳を傾ける人が多い。日本語が分る筈はないと思えるのだがそれが続くのだ。
「カッパドキアは良いところだから是非行くと良い」トルコの青年が飛行場で、私に英語で話しかけてきた言葉である。
イスタンブール行きの飛行機で前席に座っていた若いトルコ人夫婦の赤ん坊(聞いてみると生後5ヶ月)の泣き声は「オギャーオギャー」と日本語だった。即ち、赤ん坊の泣き声は世界共通である。翌朝午前五時、ホテル(EURO PLAZA)では、鶏の鳴き声も「コケコッコー」と日本語で聞こえて、眼が醒めた。鶏の鳴き声で眼が醒めるなどは久しぶりの経験である。国による文化の違いは、どうも後天的なものらしい。即ち、産まれた時は、人間は皆同じである。
本日訪れる予定だったトプカビ宮殿は、空港と同宮殿を結ぶ道路が混雑し過ぎていて、結局午後4時までと言う入館時間に間に合わなかったので、急遽明日に変更となった。
10月26日
今日はトプカビ宮殿を見学した後、マルマラ海に沿って一路バスは西へ走行し、テキルダー、ケシャンへ行った。さらにゲリボルまで行って、そこでフエリーに乗った。30分でマルマラ海を渡ると、アジア大陸であった。朝鮮半島がアジア大陸の西の果てとすれば、ここトルコはアジア大陸の東の果てである。トルコ人はアジア人である。アジアというだけでアジア人としては不思議に落ち着いた気分になるから不思議だ。トロイの遺跡を見学した後、リゾート地アイワルクへ行って宿泊した。
トロイ戦争は、3,200年前のギリシャとトロイの戦争で10年間も続いた。この戦争のことは、ホメロスの叙事詩「イリアス」に語られており、「トロイの木馬」作戦によりギリシャ軍の勝利に終わった。
現在は、ただびょうびょうたる草原の中、やや小高い丘がトロイの遺跡である。青々と元気良く伸びる青草の間に、折れた円柱や礎石のかけらが只あちこちに転がっていた。周囲はオリーブ畑が多い。トロイの木馬を引っ張り上げた石畳の坂跡もあった。此処こ立って、眺めれば遥か遠くにキラキラと輝くエーゲ海が見えるが、当時は海はもっとトロイの市街の傍まで迫っていた。
芭蕉ならさしずめ、「夏草や つわものどもが 夢の跡」と一句をものしたであろう。



エフェソスの遺跡に行った。アジアの東端にあり、クレオパトラもこの地を訪れた。想像していたよりも大規模な遺跡だった。ローマ時代(紀元一世紀頃)、エーゲ海沿岸で最も栄えた古代都市はエフェソスであった。元来、交易は物々交換であったが、このエフェソスで始めてお金(本当の金でできていた)と言うものが使用された。
現在、エーゲ海は遺跡から5kmも離れているが、当時、エーゲ海はエフェソスに接し、エフェソスに船着場もあった。商人たちは品物をここで陸揚げし、アゴラ(市場)に行って、商品をお金に替えて、公衆浴場(トルコ風呂)で旅の疲れを流した。それから、通りを図書館の方向に歩いた。それは本を読むためではなく、図書館の前に遊郭があったからである。道路脇の石面に彫られた遊郭への道案内図が、今も残っている。男の左足と女性の片足が並んでいて、その左上にハートのマークと、ハートのマークの中には数多くの点々(お金)が描かれているのだ。この石面広告の読み方は、「この先、行くと左側に女性のいる場所(遊郭)がある。彼女のハートを射止めるにはお金が要る」である。女性の歓心を得るには今も、昔もお金が要る。 尚、図書館と遊郭は道を隔てて地下道でも繋がっていた。当時も遊郭通いは、余り褒められたことではなく、人目をしのんで密かに行うものであったようだ。


エフェソスの後、トルコの温泉地パムッカレに行った。
10月29日
コンヤはトルコ第三番目の都市で、人口は76万人である。
私たちの乗ったバスは、コンヤからカッパドキアに向かう道(往時のシルクロード)を東に向かって走行した。車窓に見えるのは、ただ広大な麦畑と時々出現する禿山である。この地方の山には緑が少ない。岩石の塊で山ができている。行けども、行けどもシルクロードは真直ぐで、両側には延々と小麦畑が続く。
真直ぐコンヤに向かって続くシルクロード
途中、スルタンハンというところにシルクロードの隊商宿(キャラバンサライ)跡があった。大きな石造建物で、内部に宿泊や入浴に使われた部屋跡があった。ローマから、遥か日本の奈良に来た文物もこの道を通ったわけだ。当時は、商人たちは駱駝に荷物を載せて、この道を往来した。駱駝の一日の行程は40kmであった。
カッパドキアでは奇岩を見た。これは比較的柔らかい岩石が長時間、風雨に晒され、柔らかい部分から岩石が削り取られて、奇形岩が作られたものである。きのこの形をしているものが多い。

ローマ時代から、人々は岩の内部を削り取って住居としても使用した。特に、敵の襲来があった時に、この岩窟住居に逃げ込んで、1ヶ月も、3ヶ月も、場合によっては半年も生活した。従って、内部には生活するためのあらゆる設備―台所、食堂、倉庫、空気取り入れ窓などが整っている。入り口は狭いが、内部は広く迷路のようになっている。所々には大きな円形の石の扉があり、子供でも簡単に閉められる仕掛けになっていた。
トルコ人の人生観
コンヤには、トルコ人の人生観を代表すると言われるナスレッデイン・ホジャという人物が13世紀にいた。名前からしてユーモラスな感じだ。彼は高等教育を受けた後、コンヤで裁判官の補佐役を努め、神学校で教鞭を取っていた人物である。父は村のイマーム(回教の説教師)だった。
ホジャの墓は三方が開いているにも関わらず、正面の扉にには頑丈な錠前がかかっている。墓には386年と書かれているが、本当は享年は638年(イスラム暦)で西暦1284年である。
ホジャの小話集は哲学的であり、人間の弱い面、喜びや悲しみを溢れる知識で鏡写しにしてすべて人々に見せてしまう。ホジャの楽しい人柄や美しい心がトルコのみならず、世界の人々の心を打ち、この小話集は長く読み継がれている。
次にその中の三つの小話を紹介する。
「裏口から出たらしい}
或る日、近所の人が、ホジャの家におしゃべりにやって来た。ところがホジャはあまり喋りたくない様子。そこで妻に、
”いないと云え”と居留守を使おうとしたが、これが近所の人に分ってしまった。
”でもさっき家に入って行くのを見ましたけれど”と近所の人は言った。
窓際に座って、これを聞いたホジャは、近所の人が信じないことに腹を立てて、窓からつい怒鳴ってしまった。
”ちょっとあんた!これは家の玄関だよ。裏口からわしが出てったということは考えられんのかね!?”
「生死」
おしゃべりの一人がホジャにこう質問した。
”ホジャ、人間はいつまでこうして、生まれたり死んだりを続けるのですか?”
ホジャは答えた。
”天国と地獄が完全にいっぱいになるまでじゃよ”
「泥棒はだれ?」
夜、ホジャの家に泥棒が入った。ホジャは泥棒に気付かれずに起き出して、泥棒の靴を隠した。泥棒は家中あちこち探したが、何も盗むようなものを見つけられなかった。あきらめて帰ろうとすると、自分の靴が見つからない。しかたがないので、そのまま外へ逃げた。その時、ホジャは家の戸口で”泥棒だ!つかまえろ!”と叫んだ。近所の人々が急いでやって来て、この哀れな泥棒を捕まえた。
泥棒は自分を捕まえた人々を、悲しそうに眺めて言った。
”見逃してくれ!”と、ホジャを指差して、”泥棒に入ったのは確かだが、私の靴をとったのはこの人だよ!”

上は、コンヤ近くのドライブインで15米ドルで買ったホジャの小話集の表紙。
「ロバになぜ反対に乗るか」
ホジャは或る日、ロバに後ろ向きに乗り、歩かせていた。それを見た人々は口々にたずねた。
”ホジャ、どうしてロバに反対に乗っているのかい?”
すると、ホジャはこのように答えた。
”わしが反対に乗っているんじゃなくて、ロバが反対に歩いているんだよ”
奇岩で有名なカッパドキアを見て、それからトルコの首都アンカラに行った。夜、10時発のイスタンブール行きの寝台列車―アンカラエクスプレスに乗った。私は寝台列車でもよく眠れる。ゴットンゴットンと言うレールの音を聞いていると自然に眠くなってしまうのである。朝、8時にイスタンブールに着き、フエリーでボスポラス海峡を渡ってヨーロッパ側に行った。ちょうど、通勤時間にあたりフエリーは仕事で職場に向かう人たちで満員であった。背広姿は滅多に見かけない。オフイス・ワークが少ないと言うことか。それとも、職場に着いてから背広に着替えるのか。或いは、カジュアル・ウエアで仕事をするのだろうか。
11月1日
再びトルコからエジプトに戻って来た。両国は僅か2時間の飛行で行き来できる近さだが全く別の国である。人々の表情が違う。気候も違う。
イスタンブールでは小雨が降り、風も強かった。人々はセーターを着込み、その上からジャンパーを着て、襟を立て寒そうな顔をして歩いている。ところが、同じ日、2時間南に飛行してエジプト・カイロに至ると、人々は太陽が燦燦と降り注ぐ暑い街路をTシャツ姿で闊歩している。両国の人々は、共にイスラム教を信じる人が多いが、互いに他国の言語を知らない。
エジプトでは住居・自動車などを見ると、貧富の差が激しいようだ。トルコで見られた観光客に対する親しみを込めた視線も少ない。街には警官の姿が多く見られる。それだけ治安が良くないと言うことである。ホテルや大きな建物には、必ずゲートがあり警護の制服を来た係員が眼を光らせている。ホテルの玄関には、セキュリテイ・ゲートがあって、出入りする人間は誰でもそのゲートをくぐることが要求される。此処に来ると、安全は努力し勝ち取るものである。
ハンハリー市場に行ったが、ここは安物の店が犇めいている市場(バザー)である。何でも「1ドル」と通行人に声をかける。私はピラミッドのクリスタルを三個買った。値段は6米ドルだった。安くて、偽物が多いとは、ガイド氏の言だが安い・高いが土産の価値を左右するものではない。買いたい物を買うのが基本である。
エジプトでは一歩、路地に足を踏み入れると、道路は暗く、埃っぽく舗装されていない。住居はレンガ積みで、二階、三階と順次居住者が増える毎に上(天)に向かって、継ぎ足したものである。地震が少ないので、何とかもっている。暗い路地に二三人、人が歩いていたり、立ち話をしているのがバスの窓から見えた。
朝、通勤時間には乗合自動車を待って、多くの人々が一方向を見て路上に立っている。カイロでは電車、地下鉄など大量輸送システムが無い。兎に角、乗り物をつかまえて、会社に行かねばならないのである。背広姿の人はほとんど見かけない。乗合自動車は15,6人が乗れる大きさだが老朽化が激しく、動いているのが不思議でさえある。乗客はほとんど満員状態で、狭い座席に寿司詰めになって肩を寄せ合って職場に向かっている。
この日の夕食はナイル川に浮かぶ船上のレストランで、肉中心のアラビア料理を食べた。
11月2日
5千年前、エジプトで作られた王・王妃の石像は、現在も形が崩れることなく光り輝いている。いずれも表情は豊かで、唇が厚く、目元がくっきりしている。全般に顔は小さく、体型は美しい。体型については、写実的と言うよりも王が意図し、理想的な体型に作らせたということらしい。彩色も鮮やかに残っている。王の使用していた寝台や身につけた飾り物や刀など、多くは金製でデザイン的にみても、現代人の感覚に十分通じるものを持っているのが不思議である。 鉄も既に5千年前からあったのか。船にも農具にも鉄器が使用されている。
科学技術の世界は別としても、芸術・人間の感覚に関わる分野では5千年などは勘定の内に入らない短さと言うべきか。
日本で5千年前と言えば縄文時代、人々は竪穴住居で暮らしていた。石器を使用し、簡単な衣服を身にまとい、山野で狩猟を行い海・川で魚を取っていた時代である。5千年前のエジプトと日本の生活落差は大きいものがある。これは、人類の出現がナイルの上流で始まったということに関係しているのであろう。
今日はアレクサンドリアに行った。
ラムゼスU世中央駅から列車に乗って、アレクサンドリアに行った。ラムゼスU世中央駅は建物の内部は撮影禁止である。警官の姿が多い。
一等車両の指定席に座ったが、車両の横幅が広くてゆったりしているものの、私の座った席の車窓はブルーのペンキの線が何本も斜めに走っており、視界の邪魔をする。これは何かペンキ塗装中に、誤って滴が刷毛から垂落ちたものと思われる。それが放置されている。椅子など車内の設備も相当に老朽化していた。トイレも半分壊れていた。
車体はほこり・汚れが積み重なって元の色が何色だったのか不明である。どうもこれはエジプトには雨が降らないのが原因のようだ。即ち、エジプトと言う国はナイル川の水で成り立っている国で、飲み水も、畑への灌漑の水もナイルの水を利用しているのである。エジプトはナイルの水が及ぶ範囲でのみ緑がある。それ以外の地域はサハラ砂漠である。従って、貴重な水で車体を洗うなどという発想がないのであろう。線路脇にはあらゆる種類のゴミも散乱していた。
地中海の真珠と言われるアレクサンドリアに行く一等列車の実態が以上の如くであった。カイローアレクサンドリア間には、のんびりした田園風景が広がっており、農作業をする人々(野菜畑の手入れや、綿花を摘んでいる)の姿も見かけられた。この国では、ロバが良く働いている。ロバは小柄な体躯ながら、元気一杯で荷車を引き一生懸命、速歩するのが健気である。

凡そ1週間のエジプト滞在で見たのは、町中に見られる厳重な警戒態勢である。赤い服を着た陸軍警察(MP)や、警察官(ポリス)や民間の警護官があらゆる場所に機関銃をもって待機しており、常に何事が起こっても対応する態勢になっている。ピラミッドなど有名な観光地には機動隊のチームが出動用のトラックと共に、何十人もの兵士たちが待機している。日本人の泊まるホテルも警護人が銃を構え警戒している。レストランも同様である。正に、治安は武力で守られている。
この様な状況を見ると、日本は緑豊かで清潔で、治安が良く素晴らしい国に見える。エジプトの国民平均所得は4,5万円/月で、1ドルの有り難味は日本人の想像を超えて貴重なものである。