七十歳(古希)
六十九歳が終わると、誰でも七十歳になる。これは自明の理だ。六十九歳と七十歳の間に特別の区切りはない。ところが私にとっては七十歳と六十九歳は大違いだった。突然、もう立派に老人になった気分になった。れっきとした、どこから見てももう「老人」と実感した。そして先に待っているのは病気と死で、それもかなりのリアリテイをもって迫って来る。
最近、TVなどで六十歳代の人が出てくると「若いな」と思ってしまうのはやっぱり立派な老人に違いない。
六十歳代には病気と死は前方にあったが、七十歳になると突然それらは背後に回り込んで後ろから追いかけて来る。七十歳老人の身体機能部品はもう既にどこもここもかなりの老朽化が目立ち、それが機能不全を伴って隋所に顔を出す。即ち、それが病気である。原則的に、老朽化した部品を取り替えることはできない。古くなった部品と何とか上手く折り合いをつけながら生きるのが七十歳以後の生活である。
したがって、七十歳から時間は病院通い・治療生活だけになってしまう可能性がある。病気と闘うだけが生き甲斐となって生涯をおくるのは何とか避けたいものだ。健康維持だけの生活スタイルの行き着く先は、結局不利な展開で終わることが決まっている。
では、どうするのか。 その一つの対策は、「これをやっていると楽しくて仕方がない」(江戸時代はこれを「道楽」と言う)というもの(例えば、三浦雄一郎の様に七十五歳でエベレストに登るとか、或いは絵を描くとかその他、何でも良いのだが日常生活の中に熱中できるものを)持つことである。これを探し当てている人は幸せである。何故なら、七十歳からの時間を病気があっても健康的に楽しく生き、以上に述べた老後の不利な展開の枠外に自分を置くことができるからである。
年齢を重ねた今こそ、その楽しくて仕様がないことが「希望」とか「未来」とか「目標」などのイメージに重なっていると更に良い。
「古希」は中国唐代の詩人・杜甫の「曲江詩」の中にある「人生七十古来稀也」に由来する。先ずはこの歳まで生きて来られたことを有難く感謝するのが神様に対する礼儀というものであろう。