マウカム・カウリ─

老人の快楽の中には、若者にはほとんど理解し難いものもある。例えば、日に温められた石の上に寝そべっている蛇のように、ただじっと座っていること。このときの、えも言われぬ怠惰の味は、老年以前には滅多に味わえないものである。一枚の木の葉がひらひらと舞い落ちる。雲が地平をゆったりと移動してゆく。このような一時、年老いた男は身も心もくつろぎの極致にあり、自然の一部と化している。しかもこの自然の一部は紛れもなく生きていて、血管には血が流れているのだ。男にとって、未来というものは存在しない。考えるともなく男が考えるのは、たとえ若者の人生が自分・対・万人のバトル・ロワイヤルであろうとも、年老いた今、男にはもう勝ち取るべきものも失うものもありはしなということ。まるで小さな中立国、リヒテンシュタインかアンドラあたりの衣装でもまとっているかのように、男は人生の戦いを超越している、というよりは戦いの局外に立っている。遠くからは戦っている男たち女たちの競い合う気配が伝わってくるが、どうしてあんなに戦うのだろう、勝ったところで死亡記事が少し長めになるのが関の山だというのに。男のいる場所からは挑発や搾取の光景がはっきり見えるし、勝利の歓声や瀕死の呻きもよく聞こえるのだが、それらとは無関係に、男は自分の安全を確信している。もうだれも男を待ち伏せたり、奇襲したりしないだろう。

        マウカム・カウリ─「八十路から眺めれば(The view from 80 by Malcolm Cowley)」


ただし、マウカム・カウリーは「老人」と言えるのは八十歳になってからで、五十代後半、六十代はテ
プレコや統計資料を持って老人を「明るく、楽観的に」を語りたがるが、彼らは「老人」から見れば「少年少女」に過ぎないと言っている。