今日が何曜日であるかということを意識しないで暮らす。退職後の日々とはそういうことのようだ。社会との関係も当方から求めない限りは何もない。旅行に行くと、旅は道ずれの仲間が出来る。だが、永く続くという性質のものではない。
老人は次第に孤独になるように仕掛けがしてある。これは、多分全般に体力が衰え、意欲も衰えがちになるのが一般だからだ。金があると、やや社会参加は容易かも知れない。金がある所に人は集るからだ。金が無いと、働くという形以外では、次第に社会から弾き飛ばされるような環境が整備されている。日本は現役中心の社会であり、老人は枠外に置かれる傾向がある。
ならば何故、此処まで辱しめを受けながら、なお長生きする必要があるのかという問題が次に登場してくる。その答えは無理に長生きする必要はないということに落ち着くのではなかろうか。自然がままに生き、運命を全うすれば、それで良いのだ。
六十歳の定年になり、我が同胞は如何暮らしているのであろうか。再び小さな会社に勤務する友もあれば、大きな会社で嘱託やら顧問やらで勤務している友もいる。悠々自適で自由な毎日を送っている者もあれば、テニス、ゴルフ、あるいは旅行三昧で日を送っている者たちもいる。それぞれにそれぞれである。多くの場合、経済的基盤が一つの選択肢の要素となっているようだ。
世に、「生き甲斐」という議論が多く為されている。毎日の生活に「張りまたは緊張感」を維持するにはどうすれば良いのか、ということのようである。
しかし、その為に現役に執心して、若い連中と張り合っていくには、先ず体力がものを言う。第一は通勤地獄をこなさなければならない。背広・ネクタイで窮屈な思いをしながら毎朝満員電車に乗るという非生産的な時間を容認出来るか、絶えざる学習、新しい技術を学ぶ意欲も維持しなければならない。更に学ぶ速度も水準は保持したいものである。老眼では字が読みにくい。一々老眼鏡を掛けたり、はずしたりも煩わしい。そのような障害を乗り越えて、尚仕事を選択するか、ということだ。いまさら、その様なことを継続して意味があるのだろうか、もっと他に大事なことがあるのでは、という思いもするのが当然というものだ。
例外的存在としては、功なり、名を遂げ、既に大会社の社長、重役の地位にいる者たちである。彼らには、先に延べた障害のいくつかは存在しない。先ずは、通勤地獄は無い、黒塗りの車が朝、玄関前に停まってくれるであろうし、実務の学習はしなくて済む。すなわち、優秀な部下が何人もいて、すべて資料は作成してくれるであろうし、自分としては判断をしていれば良いのであるから。判断が例え間違ったとしても、それを指摘出来る勇気ある部下は少ないであろう。六十歳で大会社のトップに近い地位にいれば、定年後の生活は、それまでとシイムレスに繋がっていることが多そうだ。ただ、最近の激しい企業間競争に六十歳以上の経営陣の頭脳と体力で勝ち抜いて行けるのであろうかという疑問は残る。
六十歳を過ぎた時、この人生をどう定義付け、どのようなスタンスで生きていくのかが各個人の課題となっている。