「普通の人々」米 ('80) [Ordinary People]
 監督:ロバート・レッドフォード 出演:ティモシー・ハットン、ドナルド・サザーランド、メアリー・タイラー・ムーア

 精神病というのは,人と人との関係性の中で生まれる病だということを強く考えさせられた映画だった。特に,この映画を通して「家族」の抱える病について考えさせられた。家族関係の中で存在する「虚構」による「ひずみ」が,家族の構成員に精神症状,身体症状として現れるということ,そしてその病に対して,精神科医(セラピスト)は症状を治そうとするのではなく,その原因を見つけていく作業を対象者とともにしていく。そして,見つけ出された「原因」を対象者が見つめて,受け入れ,それとともに生きていく作業を根気よく支持していく。

 コンラッドのように優等生で感情を表にあらわさず,人に迷惑を掛けないように気を使っているような少年や少女は,私の周りでも時々見かける。摩擦を避け,主張せず,感情を静めていく。更にはそのような感情が無いように振舞うことに留まらず,そのような感情があることさえ否定してしまう。行き場を失った感情は幻覚や悪夢,震えや発汗といった精神,身体症状として現れて,そのことに苦しめられながらもどうすることもできない。映画の中で,コンラッドがバーガー博士との対話の中で,戸惑いや怒り,悲しみや不安を表現していく過程が描かれていた。少年は長い間そのような感情そのものを否定して生きてきて,対話の中でそのような感情を覚え,表出していく。友人のカレンを自殺で失ったとき,コンラッドがバーガー博士に対して,孤独感の中であらゆる感情を表出し,その上で博士に「友人だ」という言葉とともに,受け入れられる。この時,コンラッドは感情を表出しても否定されないこと,自分自身を肯定していくことを覚えることができたのだろう。感動的な場面だった。

 コンラッドは,兄を自分と一緒にヨットに乗っていたときに亡くしたことに対して,自分自身を責め続けていた。「あなたは悪くない」と言う役割である母親に避けられてきたことが,コンラッドの自責の念を強めてきたのではないだろうか。母親はコンラッドを愛せない。このことがこの映画を貫くテーマの一つだとも思う。何故,子どもを愛せないのか。

 先日,『イグアナの娘』(萩尾望都作)という作品を読んだ。母親にとって自分の最初の娘は生まれたときからイグアナに見え,どうしても可愛がることができない。妹は愛せるのに,イグアナである姉は憎んでしまう。姉は結婚し,家を離れるが,母の死去の報を聞いて帰郷する。姉が横たわる母の顔に被せられた白い布をとって,母の死に顔を見たとき,彼女はその顔が自分と同じイグアナであることに驚愕するのだ。そして,姉はイグアナであった母の悲しみを思い,追憶の中でゆっくりと母を受け入れ,許していく。

「自分と似ているから,子どもをどうしても愛せなかった」。この言葉は,最近問題が表面化してきた児童虐待問題を取り上げたニュース番組で,虐待をしていた母親から時々発せられる言葉だ。その母親はかつて自分も親から虐待を受けていて,自分に似ている子どもを見ると,気が付けば虐待をしているということだった。それは,自分自身の否定したい面を子どもが思い出させることへの憎しみである。

コンラッドと母親はとても似ていた。感情を押し殺していること,優等生であろうとすること。母親が兄を愛したのは,自分とは違い,兄が感情を正直に表現できる人間だったからかもしれない。もしも,兄を事故で亡くすことがなければ,一家は何もなく,普通に日々過ごしていっただろうか。きっと,日々は普通に過ぎていっても,コンラッドは自分の感情を見つけることができず,母親と同じような親になって,自分と似ている子どもが生まれたら愛すことができないのではないかと思う。

父親もまた,妻が自分を愛していないという事実をゆっくりと受け入れていく。そして,息子の症状の原因と向き合おうとする。問題が家族自身にあるということ,このことを受け入れることはとても難しい作業だ。しかし,彼は自分と向き合い,妻と向き合う。最後に妻が出て行った後,コンラッドに「無関心だった」と気持ちを表現する。そしてそのような正直な感情を向けた後,息子と抱擁する。

父親とコンラッドの抱擁の場面を見て,人と人とのコミュニケーションとは,たとえ家族でも奇跡のようなものだと思った。自分を殺すことなく,相手と関わること,このことによって人は人と関係を持つことができるのだと映画を見て思った。最終的に,母親は家を出たが,私が後味の悪さを感じなかったのは,それが彼女の正直な感情の結果だからだ。表向きのハッピーエンドが必ずしも幸せなのではない。虚構の幸せに縛られている家族というものの内面を,この映画は静かに教えてくれた。そして,将来,医療者として,私がもしできることがあるならば,対象者を縛っている糸を,その人自身が見つけ,解いていく作業を肯定し続けることのように思う。

2001年1月