蒔絵職人さん、書き込みをして下さってどうもありがとうございます。
総じて自分ががさがさとしている様な気がします。 少し前に新装開館した
東洋芸術作品の美術館、ギメへ出掛けてみようかななどと考えています。
=====
がさがさといえば、明らかに心の平穏さを崩してくれる語に、このところ
毎日遭遇するようになってしまった。 それが表題にある「Kamikaze」だ。
現在のフランスでの新聞でもニュウス番組でも「カミカズ」とフランス語読み
に発音される、それは自爆テロリストを指す。 事件によって自爆テロリスト
自身も死亡というとき、「カミカズも死亡」となる。 この「カミカズ」は、
かつて日本国国民の展開した「神風特攻隊」に由来する。
「あなた方は、学生外交官のようなものなのですよ」などと笑顔で云われた
交換留学生の私が派遣された先は、元戦争捕虜収容所のあった土地で、日本兵
の大規模な脱走・死傷事件のあった土地だった。 法的には酒の一滴すら禁じ
られる年齢のその時、その地で私は、日本の自己弁護ばかりしていたような
記憶がある。
「神風特攻隊」にヒントを得て「カミカズ」などと使ってくれるなと、果たし
て我々はフランスに要求できるものだろうか? はたまた、そう使われても
仕方がないと、放置するか? je ne sais pas, encore.Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年3月31日<日>22時31分)
体調の悪いときは、何か心まで落ち着かずに、いやなものですね。
長期になにか具合が悪いときには悪いなりに、食事面だけには気をつけて、心
あせらずすごしましょう。
“気”を取り戻せるまで、“散歩のコース”を変えて見るのもどうでしょうか。Name : 蒔絵職人 Mail : urusi@nsknet.or.jp
Time : (2002年3月31日<日>14時27分)
いつまでたっても「外出のお知らせ」なぞ掲げる当所をご覧下さって、
どうもありがとうございます。 外出からはとっくに戻ってきたのですが、
不注意にも体調を崩して居りました。 何だかこの一年で身体が弱くなった
のは、ひとえに年齢のなせる技なのでしょうか、、、。
体調が整っていないとものを考えられない、とか、身体具合が良好でないと
ものを為し得ないということはないなと、寝込みつつ考えました。 具合が
悪いならずっと具合が悪い、風邪一つひかぬならずっとひかない、体調の変化
が常に激しいというように、状況は一定(=constant・不変、ではない)で
あるほうが、楽だと感じました。
、、、と、相変わらずぶつぶつ言いながら、復調しました。 今後もどうか
これに懲りずに宜しくお付き合い下さい。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年3月29日<金>14時20分)
当所をご訪問下さり、どうもありがとうございます。
少々の間、留守を致します。 このところ更新が鈍っているうえに留守がち
にて、失礼をしております。 復帰は25日のツモリです。 そのころにまた
お目に掛かります。 やや、もう遅れそうだ(愚)。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年3月16日<土>17時59分)
欧州の味わいは、頑ななことにあるとおもう。 田舎臭くて薄暗くてカビぽく
て、瞬時には解せない味わいでもある。 だがそれが何故か、肝にしみる。
人間が興奮していても、わぁと大声出せるものではなく、炎の先端のように
チロチロとしているようにみえる。 「欧州」と読んで思い浮かぶ様をより
陰気くさくしたら、現実にぴったり来るかも知れない。 しかしそれが、深い
印象を残す欧州の核心であるという気がしてならない。
このごろの世界に出回っている様々なる感動は、この欧州の陰気に比べたら、
とても解りやすいものと云えよう。 如何にも感情の波をうねらせるが如き
ゆったりとした演奏が、感動的なものとして広く世間に認知される。 この手
の”感動モノ”は、あらかじめ、感動した時の状況が判っている頭からひねり
出されるから、確実に、思った通りの感動を呼ぶのだろう。
同じく人間の感情が動く瞬間であっても、どこか前のめりな「あれれ」という
なかから生じる感動もある。 あれもこれも考えて混沌となった人間の興奮が
あるときに位相を変える、そのときに感動的と感じる。 そのときの感動は、
彼岸は驚き、というか、未知が迫る恐怖、に近いかも知れない。
たった一度だけベルリンフィルに向かったときバーンスタインはきっと、自身
も感動しただろうなとおもう。 ところが、世の人が感動の名演と言うほど、
演奏をした当のウィーンフィルとワルターは、興奮こそすれ、感激を覚え
なかったのではないか--- ウィーンで1938年にマーラーを演奏した時のこと
である。
このワルター指揮の演奏を、完璧な出来から少々外れているが故に人間味が
あって感動的なのだとするのは短絡的だ。 ナチスの脅迫云々という伝説めい
た話に煽られてからこの演奏を聴くのも、お薦めできない。 むしろ、既知の
感動を引き出そうとすることに引っかかって感動してしまった経験をしてから
対峙したほうが、自省のネタになってよいような気がする。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年3月15日<金>06時36分)
*浮き雲浮き草極楽蜻蛉
好きこそものの上手なれという時の「なれ」は、逆説的意味を含まぬ已然形
での結びであると信じる。 実に「好き」であるのならば山谷紆余曲折あろう
ともそれが「上手」と云えるのだ、と。そうなれば問題は、どれほど「好き」
かということだ。 格好つけだけで自分をだまし通すことは出来まい。 つまり
ちょっとした興味では「上手」となるまで続かないということだ。 自分は何
を「好き」なのか。 「好き」が見付からぬ者を指して、器用貧乏と云うか。
*デリカシイ
超合金級に堅く、行く手を遮るほどの頭でっかちだった義務教育終盤時に、
「君にはデリカシイが無い!」と、笑顔(それが怖い)で言ってよこした教師
が居た。 雷オヤジの風情で、味のある人物であった。 その人物に拠る観察が
余りに的確だったため、粋がっていた割にはデリカシイの無さなるものが
コッソリ気になっていたら、だいぶ時間が経った頃に「あれはこういう意味
や、、」と、フォローにならないことを言っていた。
その教師の物故から早十年なのだそうだ。 そしてまた、その人の詩画集が
この世に存在するのだという。 眺めてみたい気がする。 しかし私には、そう
いう懐古を拒否する気も、同時に働く。 眺めて懐かしんで、どうなるのだと
考えるからだ。 感傷的な感情の動きは、その後に多くを生まぬ。 詩画集には
手を着けないでいよう---ホラやっぱりデリカシイが無い、と繰り返されそう
である。
*日本紹介計画
歴史と文化を備え、金銭以外においても国際貢献ができる人間の居る国が日本
であり、それを自他共に認識しようと考えるならば、日本国外に向かって日本
のことを宣伝する必要がある。 そして、その宣伝活動に応えられるだけの
ネタが日本にはあると私はおもう。 しかし現実的に、宣伝に耐えなかった
なら、もはや歴史だの文化だの国際貢献は口にせぬことだ。
日本の地にあって/日本語で得られるフランス側の発信によるフランスの情報
の膨大なことに対し、フランスの地にあってフランス語/英語で得られる日本
側から発された日本の情報の何と限られていて少ないことか。 これは、
フランスで公開できる日本情報の’種’が日本無いことを意味しているのでは
ないと信じる。 宣伝・広報活動ができていないのだ。 日本を誇りに思うのな
らば、いざ宣伝をしようではないか、、、。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年3月11日<月>04時17分)
当所をご訪問下さり、どうもありがとうございます。 通常は自分の近況の
ような事柄はもう一つ解説している掲示板に書くのですが、その「らくだ色」
の方がいつまで経っても開かないので、ここに色々書き連ねてしまいます。
=====
*素敵なオンナども
友人が近くまでやって来て呉れ、あれよこれよと話ができた。 人間として
信用できる、と表現すると的確なその人は、可愛らしさ・力強さ・素直さ・
賢さなどなど、あらゆる面がsolideであった。 拙宅付近を歩いていたら、
”フランスに貢献した大人”の遺骸が収められているパンテオンに、「ここ
に眠る愛国の女性達」というような題の下で巨大肖像画が展示されていた。
その素敵な同郷人の友人は、蒼々たる西洋女人の肖像の前を進んだ--さて、
果たして東洋界では、オンナの存在をどのように評価してきたのか? 我々は
これまでに、何を示してきたか? そんなことを考えた。
*のそのそ見聞録もひとつ
写真入り文章を書いてみたくて始めてみた、ド素人企画。 ペイジレイアウト
というものが思ったように手動で組めなくてイライラしている。 手持ちの
レイアウトソフトウエアでは日本語をはめ込めない。 日本語版を買うか?
http://pws.prserv.net/maiban/nosonoso.html
*intelligence
未知の事項でも、自ら考案した機序に従って短時間のうちに体得できること。
私利私欲を制御できること。
生き物としてのlogiqueが備わっていること。
共存と独立、双方の重要なことを知っていること。
寛容であること。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年3月10日<日>08時43分)
音楽好きの人物から、交響曲のディスクを貰った。 手堅い演奏だと感じた。
手堅いと書いて読むと面白味がないようだし、昨今では手堅さ・精確さが土台
になっていてなおかつ美しいという作品が少ないのも事実であるとおもう。
それがこの演奏は、きっちりしていて、静かで、美しかった。
演奏コンクールの入賞者に対し、「技術が素晴らしいが、それだけである」と
いうコメントが付されることがよくある。 つまり、きっちり手堅く演奏した
だけでは、美しさは響いてこないのだ。 しかし美しさはまた、感情的な演奏
であれば引き出されるというものでもない。 それなのに、生演奏の会に居合
わせてやたらと感動するのか、演奏の終了後直ちに「ブラボオ!」と声を発す
る観客が最近余りに居すぎる。もっと、美しさに対する己の反応を厳しく見極
めねばならない。 美しさは、巷で言われるほど手近に転がっていないと私は
おもう。 ’ノリ’重視のロック・ポップ音楽に至っては、更に美しさへの
判断が困難になる。 変人といわれようが根暗とけなされようが、観客総立ち
で’ノリ’を形成することが強制されるような場にあって尚、そこでの演奏が
groovyであるかどうかは、見極める(感じ極める?)べきである。 groovy
なものは、美しい。
私は嫌いでないのだが、魂と呼べそうなモノを引き合いに出すと、やはり
どうしても話が抽象的になってしまって、濃い話ができないことがある。
そこで「それは美しいか?」という話のしかたを、最近はしてみている。
日本において、愛おしいものや旨いものにも「beau/belle=美しい」として
おかしくなぞない。 「それってカワイイ」ものがそこらじゅうに転がって
いることは想像に易いから、人の感じる「それは美しい」ものとは何かを
訊いてみたい。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年3月7日<木>04時05分)
我が知人であるフランス人と私がアホなのかもしれない。 というのも、連中
も私もよく、「あるときはあんなに誉めてくれたのに、以降梨の礫だ」とか
「誉めてくれたのに、それだけだ」ということで不満の一致することが多い。
そして、その不満の素となる「誉め」を発散したのが、日本人や、所謂’ビジ
ネスマン’(この場合は人種国籍問わず)であることも、苦々しく一致する。
「誉め殺し」なる語が日本語に在るのだが、本来の意ではなく、「誉められ
た者が、その誉められたという事実が実は虚であったことを見出して失望
する」という意味合いの、誉めの目に遭った者の気力を削ぐ「誉め殺し」が
上記不満の原因であるように思う。
誉めるという行為は知人に言わせれば、「ポジティブな」ものなのであって、
報酬を与える・案を採択するという同じく「ポジティブな」展開に結びつく
はずなのだ。 そう説明されて、否定できるものではない。 そのため、誉め
られたというのに報酬は不変・案は不採用ということがあれば、不満を感じる
ようになる。 当然、というか、筋の通った反応である。
評価は、利用するために下すものだ。 評価することそのもので完結できる
というものではない。 利用できない評価、特に、下手に気を利かした「ポジ
ティブな」評価をチラつかせてはならない。 酷評したら嫌われる・不満を
抱かせることを恐れて酷評できないなら、その者には、評価を下すチカラが
無いと同様である。 まして、巧妙に誉めることで気分良くお取り引き願おう
という姑息な方針は、人間の態度として最もタチが悪いものであるとおもう。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年3月5日<火>05時15分)
最近、更新が鈍っておりまして、折角ご訪問下さっても新しい記事をお目に
掛けられず、シツレイしています。 やはりこういうときには船にでも乗って
マダガスカルとかに出掛けるべきかも知れません。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年3月4日<月>06時57分)
intelligence(知性)とconnaissances(知識)は異なる。 人の噂に聞き
入りネット上を彷徨い、昨今の情報誌の一二冊に目を通していれば、知識は
身に付く。 知識で太ることはできる。 知識は膨大でも知性の伴った人物に
出会うことが少ないのは、噂話や情報誌は知性の素にはならないことを示して
いる。
intelligence とは、その語が従来持つ意味合いよりも時間的に幅のある
「気転」であるような気がする。 討論好きのフランスでは、「そのものは、
”水道”であろうか、それとも”洗濯機”であろうか?」という表現のもとで
話が進むことがある--現存の水道が無くなったら、生命は危機により近づく
が、洗濯機が無くなっても、便利さや効率が削げるだけという前提なのだ。
極論を交わすことや懐疑が大の得意という仏国式の論展開については、少々
ご容赦をお願いするとして、intelligence は”水道”、connaissances は
”洗濯機”であると私はおもう。 このことについては、中学生くらいの歳
から考えることができるとも思うし、そうやって討論をすることは、学校の
成績の芳しくない者には独自の生き方を見出すチカラを、受験の連続を目指す
者には打たれ強さを与えそうな気がする。
水道が引けていなければ、多機能洗濯機も働けないのだ。 知識を生かす知性
を、身につけたいものである。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年3月1日<金>07時01分)
*権力闘争
「人間の本質は権力闘争をすることにある」のではないか、という話をして
以来、何だか考えが展開しなくなって、逆に?覇気が失せた。 権力闘争と
書いて読むと決して快くない語ではあるが、権力闘争=自分が何かと優位に
着くためのチカラを得ることの課程、であるから、自分の考えを表現して自分
の存在を世に知って貰うことも権力闘争であると言えてしまう。 半ば言葉
遊びのような気もするものの、「生存者に備わっているものを生命と呼ぶ」と
同じように、「この世の大多数が行っている行為は権力闘争である」として、
なかなか否定できるものではない。 この権力闘争という語について、読んで
快いものではないと書いたように、この否定できない様もまた不快であり、
そのため昨今の自分からは何か”覇気”と呼べそうなものが失せている。
*原典にあたれ
最近、「ストレス」と「フラクタル理論」の定義確立は人類の知性にとって
とても大きな展開をもたらしたのではないかと考えた。 それで、お決まりの
原典にあたることにした。 「ストレス」の語を最も早期に定義したのは、
オオストリア生まれ・カナダの医学校卒業の、Hans Selyeの1936年の論文
であるとされている。 ネズミを使った病理実験の学術論文的形式の一報で
ある様子だ(実際の論文をオンラインで読むには料金を支払う必要があって、
読んでいない)。 その原典は、下記学術雑誌に1998年に再録された。
A Syndrome Produced by Diverse Nocuous Agents (1936)
J Neuropsychiatry Clin Neurosci 1998 10: 230-231.
この原典に行き着くことは、思ったよりも簡単ではなかった。 Selyeのこと
を「医学界のニュウトン(アインシュタインだったか?)」などと称して、
彼が「ストレス」を定義付ける先鞭を付けた(定義を固めたこととは異なる)
ことを高く評価している文章は多数見つかるし、それが科学的論文であった
とも即座に判明するのだが、その割に、原典の詳細(タイトル・発表年)に
言及した文章が少なかった。 Selyeを持ち上げていない評伝・関連文章の
筆者は、記憶に残る位少数であった。
ストレスやフラクタルの話は”覇気”が出た時にでも書くとして、このSelye
の件にしろ他の様々な事柄において、原典にあたるという行為を含む深く掘り
下げた調査法・思考法・考察は思いの外、成されていないと感じる。
*性愛とカネ
「母個体においては子が自分の子であることは、出産行為によって自明なもの
となるが、父個体にとって子が自分の子であるかどうかは、母個体と自分との
関係のうえに間接的に保証されているに過ぎない」という説が印象に残った。
最小数を2とする成人個体の集合は性愛に基づいており、哺乳類動物中に
あっても早産と云える時期に母胎外に生まれてくる子を育てるためには必須
とも呼べるものがその集合であると、フロイト好きなら説きそうなものだ。
先の、父個体が自分の子を認識する際の母個体と自分との関係も、如何なる
性愛関係かということで一通りの解釈はできそうである。
性愛云々は、理屈理論として筋が通っている。 が、現代はカネの時代である
と私はおもう。 世の中ゼニやと言っては先の権力闘争同様、まことに不快な
響きではあるが、現代の人間を考えるとき、もはや性愛の幅を利かせた論は
説得力を持たないとすら思える。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年2月25日<月>06時08分)
冬場にあって特筆すべきは、魚が沢山捕れること--そのような地域へ出掛け
てきた。 テレビは受信機械がないので観ない、毎日の新聞買いは寒さで躊躇
される、ニュウス専門FMラヂオ局の電波もいい具合に届かないという環境に
居た。 今晩の薪はこれで足りるだろうか、明日の食料は十分であろうか等
ということを何よりも先に考えて過ごした。
自宅へ戻ってきて、いつものようにウエブペイジを周回してみたら、どの
ペイジも、セコいものに見えた。 勿論、そのセコいペイジを開いて観ている
自分は、輪を掛けてセコくちっぽけな存在に感じられた。 大海のなかに己の
存在を認める/気づかせるための人間の動きの数々がウエブペイジの存在で
あるが、我々は実は大海の何たるかを頭中に想像しているだけに過ぎず、
自分たちのセコさを体感していないような気がしてならない。
蹴球の世界大会が韓国と日本とで開催されることを、「海を隔てた地域での
移動は大変で、消耗する」と指摘した者が居た。 海という存在が大層な障害
に感じられるらしい。 確かに海上における揺れは、地震のそれよりも多彩で
ある。 多彩であるからこそ、そこを行き来して自らの存在を保った人々には
様々な場面で、対峙する物事への対応における柔軟さを見出す。
古の大人は時に、イナカにあって大作を著した。 彼等がイナカへ出掛けた
のは休暇休息という生易しいものからは遠い理由に因ったのであろうが、
如何に賢人であっても、イナカに存在したことで己のちっぽけさに気づいたが
故に大作を生んだのではないだろうか? 現代人の多くはきっと「Rosebud」
と言って死ぬのだろうが、いつ過疎化してもおかしくないように見える場所で
繁殖し続けた人間は、その痩せた土地に埋まって自分のちっぽけさを全うして
安らかなのだ。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年2月22日<金>09時09分)
bonjour a tous.書き込みてすとName : mai Time : (2002年2月19日<火>23時39分)
当所をにお越し下さり、どうもありがとうございます。
この2月13日から20日のあいだ、留守にします。 で、この間、ネットを使わぬ
ことにしました(というか、例によって使える環境ではない)。 とはいえ
デヂタルおもちゃを幾つか持参、その利用に慣れようと考えています。 この
ような機会でないと、デヂタルおもちゃに構ってはいられませんでした。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年2月13日<水>13時23分)
岡本太郎はなかなかの文章を遺したらしい。 実になかなかの言葉遣いで
あった様子は、氏の著作『沖縄文化論』中の、<「なにもないこと」の眩暈>
という語に揺さぶられて感動感動と繰り返す非沖縄人が多いことから、窺え
る。 また、岡本の実直さは、同作品について沖縄人が書いた書評が伝えて
くれる。
http://www.okinawaoh.com/arinkrin/ar011104book4.htm
(「インターネット・タウンマガジン 沖縄王」ありんくりん、の項より)
岡本とは相当に異なる表現型の持ち主だったであろう谷崎潤一郎も、言葉遣い
と実直さという点において岡本と共通するものを読ませる。 随筆作品である
『陰翳礼讃』は、痛快な作品だ。 この中に、漆器と陶器のことに触れる行が
ある。 我々が昨今--谷崎が同作品を著した時代、昭和九年において既に--に
漆器を日常的に用いる機会が減ったのは、「明るさ」と関係があろうと云う。
「「闇」を条件に入れなければ漆器の美しさは考えられない」ことに比して、
確かに、仏国王族の好んだリモオジュ産の白き(谷崎は、「白ちゃけた」と
表現している)磁器は、王族の当時のチカラの象徴、煌々と輝く光源の下に、
目にも豪華な食物を盛ってみせる際に用いられていた。 日本に西洋式のもの
が取り入れられたとき、照明器具や建築の変化で「明るさ」を入手していた場
には、その「白ちゃけた」ものだけが入ってきた。
いつであったかパリに、時代行列だか時代行進だかいう日本の催し物の一行
がやって来たことがあった。 大名行列と打掛の婦人だの姫だのを一緒に
歩かせる催しのようだった。 何の衣装・如何なる仕掛けを持ち込んだかも
知らぬが、昼間の長い頃の催しであったから、いかにも行列はギラギラして
見えたことであろう。 拙所有の根来でさえハロゲン電球の下で寂しそうな様
を家でみていれば、シャンゼリゼにまで連中を見に出かけずも、その場違いな
様子が明らかだ。
シャンゼリゼを練り歩いた悪趣味行列が日本文化か。 ウサギ小屋と呼ばれる
住宅の一角でハンバーグを載せるリモオジュがフランス文化か。 先出の
『沖縄文化論』評には、岡本の著作中の指摘は、余所(=沖縄以外)のことを
知っている著者だからこそできた沖縄と沖縄以外の比較の産物だ、とある。
パリに居た岡本である。 リモオジュの何たるかも了解していたことだろう。
パリの地にあってフランス語も喋らずフランスの文化も知らないでパリ帰りを
強調する日本人に対し岡本は、嘘臭いいかがわしさを感じたと言った。 だが
その嘘臭さは、フランス語を操れないことやリモオジュの何たるかを知らぬ
ところから発散されるのではない。 薄暗いところに暮らした自分の姿に気が
回っていない者から滲み出てしまうのだ。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年2月9日<土>04時27分)
理解が容易であることとは、よいことだとおもう。 現代社会には実は、この
ように「よいことだ」とできる対象が少ないともおもう。 世界人権宣言に
しろ死刑廃止法案の議論にしろ、そこに読める文章は、「〜はいけない」
「〜はやるべきではない」「〜は〜ではない」と、”ない”に溢れている。
理解が容易であることはよいことだと思う者は私の他に勿論居て、次のよう
な明確な文章を掲げる学校に関わっていたりする。
The mission of Harvard Business School is to educate leaders who
make a difference in the world. The Initiative on Social Enterprise
(ISE) is central to that mission.
http://www.hbs.edu/socialenterprise/seoverview.html
この学校の卒業生に限らないが、なるほど自ら謳うように、何らかの変化を
起こす人間をこの手の学校が輩出していることは明らかだ。
Social Enterpriseなどという語が先項に読める。 enterpriseなる存在は
総じてsocialなのではないか、などと引っかかっていてはいけない。 引っか
かった瞬間に、昨今の”ビジネス”界の時代遅れと化す。 先出の学校で、
「Social enterpriseの原型/率先は我が校で1993年に---」と説けば、英国
では「英国並びに欧州各地では1970年半ばから---」と、説明してくれる。
私の好きな学者の一人、白川静は、孔子やソクラテスのように文章を残さな
かった哲人の事業は「ひとえにその人の言行によってのみ示されるとすれば、
伝記こそ、その思想でなければならない」としつつも、伝承者によるその人
の言行の再現である伝記は、「「かくあった」ということのほかに、「かく
あるべき」ものを含んでいるかも知れない。」としている。 哲人自著の文章
を読み解いた(つもりになっている)者の表す、所謂二次文献にしても同様
で、歴史を振り返るときには、「かくあった」と書いたつもりでも「かく
あるべき」の意がそこに込められることとなる。
英米のやりかたの根底には、「述べて作らず」なる考え方が見えない場合が
多い。 social enterpriseは英米にあっては、斬新かつ新規のものなのだ。
あるものを、これは斬新で新規なのだと云って提示する者が居る限り、そこに
確かに変化はある。 が、その変化がどのような変化なのかまでを、斬新な
物事を提示した者が示すとは限らない。 東洋世界における「述べて作ら」ぬ
精神はここで、昨今の”ビジネス”界の時代遅れと化すことを恐れずに居ては
どうか。 social-enterpriser(適当な造語)が引き合いに出す「profit」
の語を徹底的に定義付け、あたらしもの好きに示すのである。 仙人の言の
如き深遠な探求は、orientの地に似合う。
(漢字の使い間違い訂正し、再投稿・mer.06fev02/24h05)Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年2月7日<木>08時02分)
喧しい文句や苦言ばかりをこの頃、下手に連ねている。
何かが違うンだよな。 もっとスカッと書きたいな。
She says,
Daddy you're a fool to cry
You're a fool to cry
You're a fool to cry
And it makes me wonder why
certified foolというのがイイ。
参考・rolling stones / fool to cry (1976)
いえ、アルバムとして好きなのは”便所の落書き”です。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年2月6日<水>05時43分)
たとえ日本に居ようともネットを使って、この月曜日までNYで開催されて
いる通称”ダヴォス”会議(世界経済フォーラム)のことを知るには、新聞の
サイトを見ればよい。 ところが、この会議と同時にブラジルで開かれている
会議「世界社会フォーラム」について新聞・通信・雑誌社の記者によって書か
れた日本語の記事はネット上に殆ど見あたらない。
http://www.forumsocialmundial.org.br/eng/index.asp
(世界社会フォーラムのサイト英語版・見やすいものではない)
http://www.hotwired.co.jp/news/news/20020201206.html
(世界社会フォーラムについての英語記事の日本語訳を出しているところ)
この「社会」フォーラムがどのような会議なのかは上記の日本語訳記事に
ある通りだ。 この会議についての記事は、日本語の大手報道媒体のサイトに
見つからない他、CNNやThe Times(UKの新聞)にも存在しない。 AFP・
AP・Reutersといった通信社は記事を出していて、新聞では、Le Monde・NYTimes (この二紙には沢山の記事があった)・Spiegel・Pravdaには、
各社の記者による記事中にWSF(世界社会フォーラムのこと)とか、Porto
Alegre(ブラジルの、同会議開催地)の語を含んだ独自記事が掲載されて
いた。 英米の新聞でも、通信社の記事を掲載しているものなら、もう少し
あった。
この二つの会議についての扱いが、報道媒体によってこうも違うことを何と
受け取るか。 左に寄っているとか右に寄っているとか、高級とか低俗とかの
問題ではない。 この違いはそれぞれの報道媒体の志の違いであるとおもう。
日本語訳記事にも触れられているCassen氏のように、特定団体の運営責任者
が公共報道媒体の発行責任者も兼ねていることは恐らく、「社会」フォーラム
の記事を出していない媒体においては信じがたいことなのだろう。 ところが
その信じられないことを、如何に困難であろうと、実は成立不可能かも知れず
とも実現してみせようという気のある人物の伝える言葉こそ報道に耐えると
私は思うし、それだけの意志のある人間の言葉をdistributeするものが
我々のための報道媒体なのだと考える。 「世界社会フォーラム」の扱いの
違いに、報道媒体の懐の深さの違いをみた。
(lun.04fev02/23h05)<日付、入れ忘れることの方が多い、、、Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年2月5日<火>07時08分)
米国の若い歌手に、P!nk(綴りはこれで精確・ピンクと読む)という女の子
が居る。 古典的・伝統的不良面、声や動きも不良ぽいもので、好感を持って
いた。 彼女の少し前の音楽ヴィデオ(新曲と一緒に作成する映像)では、
昨今の女性人気(狙い)歌手らしくなく、胸がペッタンコであった。 同国で
のP!nkと同世代の女性歌手は無理なく谷間をつくる胸をしていて、更にスラ
とした手足で視覚的人気を集める。 そうなるとP!nkは、ますます不良らしく
て大変結構と思っていたら、最新作ではいきなり胸だけ太っていた。 そう
せねば、ランキング上位に食い込むような売り上げを得られないのだろう。
もう少し年齢は上がって、Jennifer Lopezという女優が居て、彼女は最近
流行歌を歌って人気である。 黒人ラッパーと競演した一曲の、二人の声の
具合が小気味よかったのでアルバムを買ったら、楽曲的に、駄作であった。
駄作と呼ぶのは私だけで、実際にこのアルバムが、米国ランキングで1位の
売り上げを示した時期もあった。 日本でも売れたようだ。 ロペスはプエル
トリコ系の人間で、先述のアルバムにも、カリブ・ラテン風の曲が入って
いる。 スペイン語で謡われている曲もある。 プエルトリコ系の者の気を惹く
アルバムの作りになっているという訳だ。 無い胸膨らませることよりは、
こちらの売り方の方が理解に苦しまない。
カリブ・ラテン系といえば、Gloria Estefanが居る。 カリブ・ラテン風の
曲も織り交ぜてはいたものの、彼女も売り出した頃は、まるで米語歌詞の
詰まったアルバムを出していた。 ところがこの人は、大衆音楽界において
ひとしきり名を売った(アルバムも相当売った)後は、全曲スペイン語での
作品を発表した。 エステファンには、芸人魂があると思う。
米国でのお粗末な媚びといえば、NYはWTC倒壊現場に消防士が国旗を立てる
姿のブロンズ像だかを設置しようとした一件がある。 下手かつこれみよがし
に様々な人種を共存させることはそれまでの米国では広告写真や漫画でお馴染
みであったのが、NYの事では、媚びが明らかに媚びであると認識できたので
あろう。
本当はこれまでのことを引いて、「癌のオーダーメイド治療を目指した研究」
について書こうと考えていた--媚びのひとつとして--。 けれども、ここまで
媚びの例を沢山挙げたら、打ち込みをしている自分の腹が一杯になってしまっ
た。 NYの件が示しているように、媚びを媚びとして認識できる環境は、現代
社会では、非日常的なものと言える。 現代のその状況をよくよく認識して
おかねば、「オーダーメイド」の仮縫い中に針が我が身に刺さって、痛い思い
をするだろう。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年2月3日<日>04時15分)
レッサーパンダて、白黒パンダよか小さいからlesser???
lesser panda=Ailurus fulgens
giant panda=Ailuropoda melanoleuca
podo--padと、色だけ違うことになっているじゃないか、、、でも、きっと
この学名と実物を並べて、「ちっちゃいほう」なんて呼んだのだよね!
せめてこれからは、「赤っぽいパンダ」「白黒パンダ」にするか。 でももう
レッサーパンダで不動だなぁ、、。 何だか、「劣」等生と音が近くて気の毒。
考え過ぎか。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年2月1日<金>06時12分)
"Lesser" General Public Licenseとは、copyrightならぬ"copyleft"の
ことを指す。 英国の一般向け科学雑誌NewScientistが、"copyleft"によっ
て保護されている記事を、ウエブサイトで読めるようにして、「試み」に
取り組むのだという。
www.newscientist.com/hottopics/copyleft
(記事に対する編集長の注釈・ここから記事本文へ飛ぶことができる)
私には"copyleft"といえばGNUであったのだが(以下は文書の冒頭部分)、
GNU LESSER GENERAL PUBLIC LICENSE
Version 2.1, February 1999
Copyright (C) 1991, 1999 Free Software Foundation, Inc.
www.gnu.org/copyleft/lesser.txt
昨今ではコンピュウタソフトウエアに限らず、様々なものに対する"free"
とか"open" ライセンス(免許・認可)が出現している。 この動きは、自分が
述べたことに沿わせ、ウマいすき焼きをつくる事へ繋がる、と思えるので、
注目している。
ただし、この"copyleft"の動きは、copyrightが先ずあってのことで、
copyrightの不都合・不具合に学んで生じてきた動きであるといえる。
新型爆弾を投下された場所の住人が切実にその爆弾のさらなる製造に反対
したり、過去にイジメの関係者であった者が親身になってイジメ問題に取り組
むことに似ている。 人間の判断には絶対的な揺らがぬ精確さが備わっていな
いことと、更に、幾ら精確を気にした末の判断結果であっても、そこには正
しいと形容できる事柄は存在しないことが、copyleft・爆弾反対・イジメ
根絶の動きから抽出できる。
私はこの頃、様々な場面において思考が停止することがある。 上記の
copyleftについて考えても、その動きの根底にある判断が何を生じるかは
判らないと思うと、素晴らしい傾向だとして賛同できなくなって、結局自分
は何もせぬ者と化してしまう。 また、漢字を選択して文章を書こうとした
ところどの字も意味が強すぎると感じるなどで、全て仮名書きにしてしまう
ことも、思考停止現象のひとつという気がする。 思考停止は、判断行為の
放棄から生じる。
恐らく、理屈/理論に自分が乗っ取られている時に人間は、判断行為が
できなくなるのだろう。 「言葉は総体を切り取って示すから、言葉によって
何事かが伝わることとは、機械をいちいち部品にして手渡すようなもので
ある」などと、言葉を尽くして説明してあることを素直とし、それを読んで、
そうか、全体が全体として伝わって欲しいから、では、何も書くまい言うまい---とすることを素直とするわけには行かない。
George Michael氏は、うまいことを言ったものだ。 好きに考えてよい、
好きに考えたら判断を下せ、ということか。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年2月1日<金>05時36分)
蛋白質の分子とは、一枚のコンニャクではなくて、一掴みのシラタキという
様子をしていようかと想像する。 私はこのシラタキの絡み具合について考え
ることが好きである。 絡み具合とは、どうように巻いているのか、どのよう
に畳まれているのか、どのようにしてシラタキが塊になっているのか、という
事柄を指す。 それで、このシラタキの”巻き”についての論文であるとか、
”巻き”について考察する際に付随して考えねばならないこと--すき焼き鍋
の中での野菜・肉・豆腐の配置や火力・わりしたの量などによって、シラタキ
は簡単に”巻き”がほどけて分散したり、いい具合に調理されたりする--
についてもぼちぼち自分で考え、文献を集めたりしてみていた。 しかし私の
頭の中にはウマそうなすき焼きが出来上がっていなくて、生煮えの材料を、
それでもとにかく並べて、履歴書の「興味をもっていること」という欄に記載
していた。 因みに、履歴書に定型の書き込み欄を設けているのは、私の知る
ところでは日本国と国連くらいで、だいたいは自分の好きな書式・フォント・
サイズ・内容でもって書く。
私のような出来の悪い者の考えることをちゃんと形にする人がこの世には
居て、「シラタキの”巻き”は、NP-completeなのである」などと既に
結論が出されているのではある。 ところが、それらの人々は癌転移の学会
には現れないし、お題は幅広く何でもアリという学会では、癌と”巻き”と
計算機と取り混ぜた話は出来ても、その場限りの感が強かった。 毎回参加
している学会に、「学会の重鎮」がかなり分野違いの人を連れてきたことが
あったが、その講演会場は残念なことにガラガラだったり、先ずは講演自体が
「重鎮」の余生の楽しみのよう、ということまであった。
タラタラと書いて何を云いたいかというと、この世で現在進行中のあらゆる
研究は、各研究者において余りに分散・特化していると思うのだ。 これはと
いうときに、現在の働き蜂諸氏がふと手をつなぐことが出来れば、ウマいすき
焼きがホイと出来るような気がしてならない。 「興味をもっていること」
を、履歴書にコソコソ書いていることに留まらず、多くの人がウマそうなすき
焼きを作ることへのアイデアを出し合う仕組みを設けることができたら、よさ
そうなものだ。 きっとウマいすき焼きが食べられる。 そのような仕組みに
ついて、今は、考えている。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年1月29日<火>06時42分)
辰野隆氏の発言に「漱石のサイエンス」というものがある(下記拙稿『もう
少し--』にて言及した対談の中)。 この「サイエンス」は、第三の千年紀に
ある現在のそれとは意図するところが異なるという気がしてならない。
サイエンス=科学と、昨今であれば直結されるのであろう。 「科」という字
は、穀類(禾)を量器(斗)によって、品定めをする様をあらわす。 それで
「科」には、品等(ようす)・規準(おきて)・箇条(すじ)といった意味が
備わっている。 この字を使った科学という訳語は、サイエンス(science)
の、方法や様式・形式を表現することに成功していると思う。 英和・仏和の
言語変換辞書でscienceと引くと、先ずは科学の語が挙げられている。 先述
のように、科学という語は間違った訳語・見当違いの和語であるとは思えない
のだが、現代に使うこの語では、サイエンス(science)に伴う動き
--動作・作用・状態--が表現できていないことを、私は指摘したい。
ラテン語では、動きを表す語が色々に変化することで、時間ばかりでなく、
それが誰の動きであるのかをも伝える。 日本語では、「誰」にあたる語に
変化を付けることによってその動きの主を伝え、動きを表す語の変化は、時間
にのみ対応している。 これを考えると、日本語では語における動きの要素を
重要視しないためか、と、scienceの訳語に動きが感じられないことに、ある
面において納得できる。 しかし、サイエンス(science)という語が表現し
ている物事の、動き、にあたる部分が、そもそも日本には存在しないのだとは
思えない。
先出辰野氏の、いかにも当時のインテリ風な発言「漱石のサイエンス」から
は、「漱石の科学」としては読めぬものが漂って来やしないだろうか? その
漂流してくるものを私は、動き・生命・魂などと表現したい。
「学問では喰ってゆけぬ」と言う時の「学問」は、サイエンス(science)に
近い意味があるように思う。 昨今にあっても「学問」だのサイエンスでは
確かに喰ってゆけないという気がするが、「科学」では、喰ってゆけるようで
ある。 この”喰ってゆけない”営みはつまり、金銭との等価交換ができない
ものなのである。 それで、唐突ではあるが、生命を金銭で置換できないと
ヒトが考える時の「生命」と”喰ってゆけない”営みとには、それらの存在を
我々が納得/認識している際の根拠において、相似のもの/相似性があると
感じる。
科学という訳語が語ることのできなかった動きを、現代人--科学の語を使う
者も、更に最近ではscienceの語を使う者ですら--は忘れつつあると私は
思う。 マシンに候補を並べさせてそこから選択しているばかりでは漢字を
手書きできなくなることとこの忘却とは、似ている。 漢字については、手書
きが出来ずとも、存在を知っていて、選択して使えるのならばよいではないか
という意見があった。 サイエンス(science)の動き・生命・魂についても
また同じように、その存在を認識/体感していて、躍動させることができるの
であれば、人間、それでよいかも知れぬとも考える。 できるのであれば、で
ある。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年1月28日<月>03時08分)
日夏耿之介の訳による『サロメ』を読んでみたい。 『サロメ』は私には
先ず、Aubrey Beardsleyの挿絵のことであった。 文字から筋書きを知る前
に画によって、どういう話なのか了解していたような気がする。 ところが、
仏語を読むことがそう億劫でなくなった時にWildeの本を自分に買ったとこ
ろ、「なんだ、絵によく似合いの文章じゃないか!」などと思った。 それを
ある時、日夏氏の訳があるのだと言ってその一節を諳んじてみせた者がいて、
どうもその訳も絵に似合いのようだったから、読んでみたくて仕方ない。
ネットで読めるものを漁ったら、面白い対談が見つかった。 辰野隆(ゆた
か)とは、「俺達は、東大の教師だということになっているから、何とか
やってゆけるんだぜ。 そうでなかったら、世間からはなもひっかけられねえ
よ。」「大学教師と乞食とは、三日やったらやめられねえ。」(渡辺一夫に
よる)などと放つ、イカした江戸人であったようだ。
http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/TATSUNO/wasureenu1.html
辰野氏の訳と言えば、ボオマルシェ『フィガロの結婚』だ。 あの調子を生ん
だ人物が、『サロメ』の日夏氏と対談なぞしたのだ、と思うと、奇妙な興奮を
覚える。 この奇妙な興奮にはさほど種類がなく、同時に、味わえる機会も
限られている。 自分が手塩にかけて?樹立した培養細胞のひと株が、予想
した挙動を(実験的に)示した時にも、似たような興奮があった。
『サロメ』にまつわる事柄では、福田恆存もこの作品を日本語訳していた、
ということも知った。 私には、演劇の台本は不思議な存在だ。 難しく言う
ところのゲンブンイッチタイだのコウゴヒョウゲンだののが火花を散らして
見せそうなものに思える。 S. Beckettも、昨年ノーベル賞を受けた
G. Xingjianも、自分の文章表現を演劇台本に反映させている。
とはいえ私には文章の芸術作品としての完成度の高さを追求する気は余り
なくて、著作業者の表現へのこだわりを垣間見たいから、こうやって演劇台本
のことを気にする。 それで、そうして気にした末に覚えた興奮を、私以外の
人にも体感して欲しいなどと滅多なことも考える。 何だか今日は似非日記、
おかしな告白話になってしまった。
(jeu.24jan02/22h00)Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年1月25日<金>05時59分)
最近の自然科学分野の学術論文は、凄まじくつまらない。 実験データに
面白みがないとは違う。 論述部分がつまらなさを極めつつある。 いっその
こと学術雑誌は、学会でのポスターやスライドの如き、図画を多用した表現を
もって学術研究報告書としたらどうだろうかと思う。 文で納得させられる
報告は、数年のあいだに三本、あるかないかと私は感じる。
研究報告書(=学術論文)は、自分で書いていて、つまらぬと思う事が多い。
特定の言い回しや用語があって、それを盛り込んだほうが素直な表現になる
から論文ではそれらを使うのだが、出来上がりがつまらないものになるのは、
その定型言語部品のせいではない。
学校でセンセイの言ってらした事のうち、鮮明に憶えていてしかも私も共感
していることに、「そもそも’もの’が綴れない者に’論文’を書かせても、
下手なことに変わりはない」というものがある。 ’もの’を日本語に、’論
文’を日本語以外の言語、に入れ替えても、この言説は意味を為す。 私が
このように文をまた綴り始めたのは、あのおもしろ可笑しくない学術論文を
的確かつ鮮烈に書きたいと思ったからでもあった---先は長そう、なのだ
けれども。
先日、朝日新聞のウエブサイトにあったヒトのクローン(それにしても、この
カタカナ語を置換する漢字交じりの語はないものか)記述で、
「胚はふつう卵子と精子が一緒になってでき、」
という部分があった。 「ふつう」。 この記事を、クローン技術のことを知ろ
うと考えて読んだ人々が気の毒だ。 続く内容を考えたら、この部分は、「精
子と卵子が一緒になってできた胚では、」と書くこともできる。 「ふつう」
の一語は、挿入されるだけでひとつの判断を下し、また、その判断は読む人
なかにひとつの傾向を作り出す。 それを考えての記述であったのか甚だ疑問
である。
読み応えのない学術論文といい緊張のない新聞記事といい、知識の無さや
文章修行の機会の少なさがそれらを生み出す主因だとは思えない。 語・字・
「、/,」「。/.」などに対する自分の信念があれば、気の抜けた文章は生まれ
ないと私は思っている。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年1月24日<木>06時20分)
「Phep vua thua le lang-王の掟は街の掟に敗れる(ベトナムの古い諺)」
と、武田徹氏の著書『流行人類学クロニクル』の表紙にある。 この書物を
読んでいて、次のようなことを考えた。
=====
かなり以前に私は一度だけ、日本の出版社の出す女性雑誌に登場してしまった
ことがある(雑誌名まで失念した)。 その時に、写真と一緒に幾つかの質問
に答えた内容が記事となっていたのだが、そこで私は「パリでは・当地では」
のことを「こっちでは」などと喋った事になっている。 生涯に一度たりとも
「こっち」と発言したことがないとは流石に言い張らないが、現住所と日本
とを表現するのに今まで、口頭ででも「こっち」「あっち」と言った記憶は、
殆どない。 「こっち」「あっち」は、私の好まない言いまわしの一つでも
ある。 そう思って他の記事でも注意して読めば、その特集での登場人物の
悉くが「こっち」と発言したことになっていた。
著述業者は恐らく、取材時には音声記録を取り、発言内容を文字にして文章
中に埋め込むのだろうとはおもう(私が関係した雑誌の時は音声記録は取って
いなかったようだった)。 発言した語の一字一句を精確に文字に転写したと
しても、転写作業を行っている者もものを喋る以上、その人物の喋り調子と
転写物に読める喋り調子が似ることもあろう。 しかも昨今では、著述業者が
どのような喋り方をするかが世間に知れている事のほうが多い。 それでも
その似た調子の発言は、取材対象者の発言として読める文章へと転写しなくて
は、人物の取材記録として発言内容を記載することの醸し出す生々しさが文章
から損なわれる。 他人の発言を文字にして読ませることは難しそうだ。
=====
また、やはり最近読んだ谷崎潤一郎氏の随筆にあった世の東西の相違点に
関する考察は、これまでに随所で読んだ学術的・論文風な記述に比して格段の
説得力があった。 ひとつは『懶惰(らんだ)の説』、怠けるという視点から
のもの、もうひとつは『恋愛および色情』である。 統計や調査を基にした説
がこれらではなく、既出文章の引用を多様して自説が構築されている。
学術論文においても引用の的確さは重要であるにしろ、この谷崎構成には
驚いた。 論理的整合性で納得を導く学術論文の味気なさがかえって意識され
て、可笑しかった。 学術論文では世の人々に納得して貰えるはずがない。
冒頭「掟」の諺に戻り、小説や随筆の持つ力と学術論文(並びに、類似の
硬い文章)の役割とに私はこの頃、やっと気付くようになってきた。 何とも
高尚にみえる(みえるだけの)学術研究は、谷崎氏の随筆並みに説得力のある
表現を身につけていないと、今に、「王の掟」の如くに意味のないものと化
すのであろう。 文章表現は簡単ではない。 実に味わい深い。
(dim.20jan02/21h45)Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年1月21日<月>05時48分)
これはこれは わた氏、ご登場下さってどうもありがとうございます。 喜んで
貰えたと調子に乗って、Internet Archive.orgにあったファイルを書庫に
入れてしまいました。 書庫入り口であるテーブルからどうぞ。
http://pws.prserv.net/maiban/bl_arch.html
アーカイヴ等の力業はやはり、米国の十八番ですなぁ。 DNA塩基配列の解読
とか(以下略)。 走っている車が無駄にデカかったもの。 アメリカ。
なのに!
例によって『Dancer--』の拙投書一本目は保存されていませんでした。 で、
もうこの際、恥ずかしげもなく再掲載することにしました。 それにしても
やはり、書庫に納められなかった投書を下さった方々、私のズボラをお許し
下さい。 なんだか書庫が整うほど、手抜きを反省しています。
(ven.18jan02/14h35)
=====
文書作成・2001年5月6日
軽薄さの不徹底---『ダンサー イン ザ ダーク』
von Trier氏の作品は、観る者に、どれだけお前さんは裸心になれるかと問う
ようであると私は感じていました。 作品中の様々な仕掛けに対して安直な
反応を示す自分を疑い、疑った先に観客は何を見出したか---実際、そこまで
語り合わないと、これまでの同氏監督作品について話したところで、楽しく
ありませんでした。
『ダンサー イン ザ ダーク』が賞を取った頃のTIME誌には、この作品は
それらしい物事を「愛」だの「感動」の為のネタとして用いており、安易に涙
を誘う、軽薄な作品であるというような評がありました。 私は同氏作品には
軽薄という語がふさわしくないと思っていたので、何でも批判的に書けば格好
がつくと思ってのことだろう、TIME誌の文章なんて読めたものじゃないなど
と感じたものでした。 ところが、その後に読んだル モンド紙の評や作家自身
の言にメロドラマという語が頻出していて、成る程この作品を語るときの鍵
は、軽薄、であるかと思えたのでした。
同作品中で「舞台装置」の数々の描き方は確かに軽薄であると言え、軽薄に
描かれているが故に、その「装置」ひとつひとつについて真剣に考えた際に
わき起こるはずがなかろう類の感動を誘うことがあったかもしれません。 私
には、この描き方では感動のカの字も軽薄さに対する憤慨のフの字もなく、当
に、観賞後に何を考えるにも至らない作品という感想が残りました。 つまり
この作品には軽薄さが不足していたのだと私は思っています。
遺伝病であるとか死刑について徹底的に軽薄な調子で描いてみせ、その表現
の余りの軽薄さ故にそれらの事項について立ち止まって考えてみることすら
しなかった自分の姿を観客が顧みたとき、自らの余りの思慮の浅さに気付く。
または、メロドラマ風仕立てにまんまと乗って感動の涙を流す、その涙の
浅はかさに観客がどこかで気付く。 『ダンサー イン ザ ダーク』は、そんな
多段仕掛けを機能させる程の軽薄さを追求できていなかったのだけれども、
安直な感動の涙を流す自分を顧みない観客に支えられて、また、逆説的な表現
を評価しきれない者らの中途半端な評に支えられて、ある程度の話題作となり
得たのだと思います。 笑いを誘いつつも風刺の効いたユウモアを世に送り出
すことが困難である事を、この作品を観て思い返しました。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年1月18日<金>22時46分)
待望の過去ログが!嬉しいです。以前の過去ログですが、
http://www.archive.org/
に、urlを打ち込むと見られますよ。ここのurlで確認してみたら
2000年の書き込みも出てきました。どういう仕組みなんだろう。
キャッシュを保存しているのかなあ。というわけで、もう少し前の
過去ログも期待しております。Dancer in the darkの文章、凄く
よかったので。言ってほしいことを言ってくれた人がいたことの衝撃。
http://dlm.cside5.jp/dName : わた Time : (2002年1月18日<金>10時40分)
(下からの続き)
Bjorkは、彼女の動物/野生的・本能的・無垢な表情を活かせていて、
『Dancer--』での役に適していたと思います。 それにも関わらず、私には、
あの作品と他二作でのトリア作品が放っていた無垢さとは少し、質が違うと
いう気がしました。 あの映画が製作された時点でのBjorkからは、彼女の
音楽分野での活動にまつわる営業方針や販売戦略のようなものがどうしても
匂ってしまっていたからと、自分では思っています。
恐らくトリア氏にあっては、あの匂いを計算に入れたBjork氏の採用だったの
でしょう--無垢な様を商売道具にしていようとも、それがつくりものの無垢
でないのだろうから、これまでのトリア作品にあった無垢さと同じ輝きを放つ
はずである、と。 そして、演出による(=つくりものの)無垢さで高利益は
得られようが、その利益を拝みたくなる人々の気持ちを根底から揺るがす作用
を、自作によって世間に示そうではないか、と。
=====
何事でも知ってしまったが最期、後戻りはできないのだと私は感じます。
教育とか学習とかいうものはどちらかといえば、我々に垢を蓄積するものの、
すり落としてくれるものではないように思います。 つまり、我々の無垢さと
は、何がなんでも自分に垢が無い状態ではなく、腐った垢を身に積もらせて
いない状態を指すのだとおもいます。 明治生まれの「碩学」の、想像を絶す
る勉強量をこなしてますます人格が柔らかくある様には、無垢の語が似合い
です。
渡辺一夫氏は、過去の朝日新聞の連載「ほんとうの教育者はと問われて」へ
の執筆(1964)において、次のように述べています(要約)。
今の世に、「教えられ育てられたい」と思っている者がどのくらい居ようか。
「教えられ育てられたい」と思っている者にこそ「真の教育者」は必要なの
であって、そう思っていれば、見聞するあらゆるものや自身の経験もがその
人を教育してくれるに違いない。 「真の教育者」は、「教えられ育てられ
たい」と熱望する人々の前にのみ、現れるだろう。
我々の垢を腐らせる原因は幾らでもあります。 それらに対する防腐剤となる
ものが教育だの学習ならば、「教えられ育てられたい」つまり、「無垢で
ありたい」と熱望した者には恐らく、世の多くの人もが納得できるかたちの
無垢さが備わるのでしょう。 余計な垢擦りも勉強も、自らやらねばイカン
のですねきっと。 自省自省。
(jeu.17jan02/20h15)Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年1月18日<金>04時18分)
先ずは過去ログ書庫設置のお知らせです。
通りすがりの愛読者さんに、拙文のうち『Dancer--』に関するものとBjork
のパリ公演に触れたものを読んで頂こう、それも、「ここ(URL)に過去
ログがありますので、そちらをご覧下さい」などと格好良くキメてみたいと
思い、過去ログが読めるようにしましたよ! ところが、ところが、、
http://pws.prserv.net/maiban/bl_arch.html
ところが!ちっともキマらぬことに、『Dancer--』のものも、Bjorkのもの
も、もはやこの掲示板の保存ファイルにはありませんでした。 掲示板下方に
ある’次のページ’ボタンにて過去ログも読め、その場合は投稿数にして50
件まで出るところを、書庫には約70件が入っています。 少し古いところも
読める、ということです。
何せ掲示板設置サアバ任せで自分ではログを保存していなかったために、自分
の投書以外の記事を過去ログ中に掲載できないのです。 そのため、2001年
8月11日以前の記事は過去ログとして公表できなくなってしまいました。
欠落期間に投書をして下さった皆さま、過去ログ書庫など今になって作りまし
たのにご投書を掲載できず、申し訳在りません。
=====
というところで、本題です。
無垢な表情の出せる女優は、ご指摘の通り、トリア氏の作品には必須という
気がします。 『Dancer--』の前作『The Idiots』(1998)においても同様
でした。 『Idiots』は、ここで言及している三作のなかでは、無垢という
ことを考える取っ掛かりにしやすい作品であると思います。 日本では劇場で
これを公開したのかな? ダメが出そうな作品ではあります。
(上に続く)Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年1月18日<金>04時15分)
なるほど、、そういう表現方法は気づきませんでした。
うまいですね。
ところで、主人公のセルマをビョークに選んだ理由として
空港でビョークが自分の息子を守るために、マイクを向けるジャーナリストを殴ってしまったニュースを聞いて決めたようです。
口説き落とすまでに1年以上もかかったようですが。
セルマ=ビョークそのもので、ある種、動物的な、本能的な部分が色濃くにじみ出ているように思いました。
また、奇跡の海の主演女優さんも、ビョークも笑顔が、、なんというか
無垢なものと感じました。Name : 通りすがりの愛読者 Time : (2002年1月17日<木>22時43分)
通りすがりの愛読者さん、書き込みをして下さってどうもありがとうござい
ます。 当所でも、『Dancer in the dark』が話題になった時がありました。
何せここに表示できる投書数が限られているのがイケていませんね、、、ちゃ
んと過去ログを閲覧できるようにしたほうがよいですね、、と思って先ほど
まで手を着けて始めてみましたが、気が遠くなってきたので退却。
=====
『奇跡の海(=Breaking the waves)』も、ご指摘の通り、『Dancer--』
とは対象の表現手法が異なるだけで、表現しているものは同一であったと私
も感じました。
最近納得した考えた方で、魂とか気持ちとかの様子を表現/理解しようという
とき、「透きとおった・荒ぶれる・優しい・トゲトゲした」のような語を引い
てくるよりも、(なにごとかの)濃度/密度が濃い/高いと考えたら、明解か
というものがあります。 ご指摘下さったトリア監督の、特に『奇跡の海』
ではキリスト教の様々が全編に現れますが、作品に込められている魂/気が
「濃い」ため、特定宗教に関する知識が無くても感慨深く鑑賞できたのだと
今になって思います。
変な言い方ですが、ある程度の「濃さ」を醸し出せるのなら、その表現作品
で取り扱う主題は、宗教だろうが恋愛だろうが科学だろうが芸術だろうが、
何でも構わないのだと思います。 何でも構わない、というのは、人間の表現
活動として広く表現者以外の者にその作品(=作者)のことが伝達されるに
あたって、主題は何でも構わないということです。
そしてまた更に変な方向へ深入りして行きそうですが、その「濃さ」は、
何かを行う際の集中力に似ていて、自分の中に「濃さ」のモトを凝集できて
いるかいないかが、人によって異なって見えるのだという気もします。
(16jan02/22h30・今日からテキスト部に日付を入れてみる)Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年1月17日<木>06時28分)
映画「Dancer in the dark」を見ました。
主演はアイスランド人のアーティストであるビョーク。
監督は、「奇跡の海」を手がけたデンマーク人。
どちらも生と死、究極の愛についてを追求したものだと思いました。
今は、ビョークのサントラ盤を聞きながら映画のワンシーンを思い浮かべ
自分なりに考えています。
また、ビョークの魂の入った歌も心に響きました。Name : 通りすがりの愛読者 Time : (2002年1月16日<水>21時05分)
通りすがりの愛読者さん、お出まし下さってどうもありがとうございます。
いえ、あの、書き込みは、長さとか形式とか話題をお気になさらずにどうぞ!
数年前くらいでしたら何というか、食らいつく’論破型’応答が得意?だった
のですが、最近はもう少しおとなしくなったツモリなので、、、皆さま、
どうぞよろしくオツキアイ下さい(と、いきなりお願いに出るも不気味か)。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年1月16日<水>07時47分)
いや、あんまりみじかくてすいません。
時間のあるときにゆっくり書き込みたいと思います。Name : 通りすがりの愛読者 Time : (2002年1月15日<火>13時28分)
まいさん、はじめまして。
ここでの書きこみは初めてです。
とりあえず挨拶まで。Name : 通りすがりの愛読者 Time : (2002年1月15日<火>12時41分)
白川静との対談において江藤淳は1997年に、自分が云いたいことを語り始め
るにあたり、「道」の字を持ってきた。 この字が古代、何を指していたのか
を知った途端に折口信夫の文章が思い出され、ぞくぞくした、とあった。
江藤は更に、「ある漢字がなぜこのような形になったのか、知識としては知ら
ないけれど、それを感じる能力」が、夏目・芥川・幸田には「皆あるに違い
なく」、谷崎にも「あったに違いないと思」うと続けていた。
志賀・谷崎といえば、先の対談での江藤のいう、「明治十年代終わりの坪内
逍遙・二葉亭四迷から二十〜二十五年後」に「もう」在る、という文体を
読ませていた。 志賀の文章について芥川と夏目は、こんなことを言い合った
とか。
「どうしたらああいふ文章が書けるんでせうね。」
「文章を書かうと思はずに、思ふままで書くからだろう。 おれもああいふの
は書けない。」
この会話の存在を教えてくれたのは、清水幾太郎 著『私の文章作法』に付さ
れた、「狐」氏の解説であった。 清水のあとがきには昭和46年とあり、先の
江藤も、「昭和四十年代の半ばか、その少し後まで」は、「近代日本の文学語
というものが、そのまま連続体として文壇の共通語になっていた」時期である
としていた。 同じような年代を見つけたのは、偶然ではあるまい。
=====
行間が開きすぎていると感じる以外、中公文庫の清水幾太郎著作は、読めた。
ところが、これと同時に買い込んだ現代コラムニストのコラム集は、読めな
かった。 文章が下手/難解/回りくどいとも、視点が不定/浮いているとも思
わなかったし、コラムの内容は、堕落した世間を斬るというようなものと読め
たにも関わらず、文章が腐っているように感じた。 熟成や発酵を目的とせず
に生体を屠ったまま放って置いたら、あのようなものが出来そうだ。
先に引用した江藤の言にあるように、漢字だの歴史だのを「知識としては知ら
ないけれど、それを感じる能力」が、文章を、「人の思想を外に現したもの」
に仕上げる。 同じく江藤が「道」の例で挙げた坂口を「直観的・詩人的」で
あるとして、白川のように厳密な実証を必ずしも用いなかったとしていること
にも注目したい。
「道」を逸れたとき、ヒトは腐り始めるのではないか?Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年1月13日<日>02時40分)
*青白赤
青・白・赤の三色を国旗に採用している国のうち、仏国・英国・米国における
この色は、異なる色である。 きっと、国旗に使う色はナントカいって実際に
異なる規格に基づいているのだろう。これら三カ国において使われている三色
やその場所で作られた製品の三色を比べてみると、結構異なる色合いをして
いて、こうやって私が下手に連ねる言葉を寄せ付けない違いが見いだせる。
色彩の明るさは、米の三色が最も明るく、次いで仏、英であり、これはどうも
日照時間の長さ=住人のお気楽さを反映しているようでならない。 また、色
の醸し出す気品は、仏・英・米の順に薄れて行くように感じる。 仏国の三色
は人間が自然成分から高度に精製したもののようで滑らかであり、英国のそれ
はより粗い精製度を保っていて濃厚かつ比重の重い感じがする。 そこへきて
米国の青・白・赤は、化学合成によって得られた物質の匂いがして来そうだ。
*廃棄
少し前に私は、日本に残してきた自所有物を廃棄したことがある。 日本滞在
中の短期間に所有物の片づけを皆自分の手で終わらせたくて、結局殆どを廃棄
することになった。 そのとき、今はなかなか必要を感じないものではあるが
有機合成化学という分野の参考書を沢山、やはり棄ててしまった。 物品を
回収するトラックがやってきて、有機合成の本をドカドカと後方に投げ込んで
持っていった。
主に米国滞在中・在住の日本国籍人を対象にして、海外在住日本人が集まる
ウエブサイトがあった。 日本の出版社から派遣留学していた人物が、大学で
見せる課題として最初はつくってみたとかいうそのサイトは、数万という
利用登録者を集め、とても賑わっていた。 それで、サイト運営のために出資
をしていた出版社の名称が利用者の目に幾度も触れるようになった頃から、
その会社の特色がサイト内容や運営の仕方に色濃く反映されるようになった。 そうしているうちにこのサイトが少し前に、日本の親会社である出版社の既存
サイトに吸収され、利用者は、出版社サイトへ登録先を移行された。 この吸
収に伴ってそれまでの海外在住者向け内容も一緒に移行されたのだが、最近に
なって、その内容も消すことにしたという通達が来た。
この海外在住者向けサイトの内容が親出版社に扱われる様は、先述のトラック
荷台に散らばった参考書の姿に重なる。 あの参考書を同じく手放す/棄てるに
しろ、もっと手篤く、大切に扱う事はできたなと私は今でも思うのである。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年1月11日<金>20時28分)
村上淳一氏という在日のドイツ法学者が、ドイツの理屈は「尺取虫型」で、
日本の理屈は「犬の散歩型」であると表現したという。 「尺取り虫が細い枝
の上を前へ前へと進んでいく」ことと、「鎖をはずした犬を散歩に連れていく
ようなもの・絶えず行ったり戻ったりを繰り返しながら・いわば絵を描き、
一つのイメージを印象づける、そのイメージによって感覚的なコミュニケー
ションをはかろうとする」(以上引用部分は、石川敏行氏の『”犬の散歩”か
”尺取虫”か?』月刊 「言語」12月号 Vol.30 No.13/2001より)ことで
あるという。
http://www.kclc.or.jp/humboldt/murakamj.htm
(上記サイトにて、村上氏の元講演の内容が読める)
画像・絵画的印象によって意志の疎通を行うことは、漢字使い(上記村上氏
も漢字のことに触れている)のことを思い浮かべればよいだろう。
表題にある、業田良家氏作の連作四コママンガ 『自虐の詩』は、1985年から
1990年の間、日本の週刊誌に連載されていた。 私はその再構成単行本を入手
した。 この作品の存在を知ったきっかけは、当所に時々ご登場下さる
「わた」氏の、2001年7月の日記(下記サイト)であった。
http://sinaps.tripod.co.jp/diary/007.html
この作品が「尺取虫型」な展開を見せていないことは明らかなのだが、幾ら
読者の抱く印象を根拠にして「感覚的コミュニケーションをはかろうと」して
いるとはいえ、涙・貧乏・苦労・薄幸・美人などの語で表せるものを読者の
印象を支える要因に持ってきていない---これらの語が象徴するものが作品中
には暗示されていない---ことによって、この作品は、読者に、説明的な印象
を抱かせることに成功していると思える。 だからこそ、涙・貧乏・苦労・
薄幸・美人という状態・現象・存在が、笑えるものと化している。
この作品で、読者の感想や印象を引き出すものは、作者の画であり、登場人物
のセリフなのである。 画とセリフが直接的に、読む者に問いかける。 画と
セリフに託された涙・貧乏・苦労・薄幸・美人が問いかけてくるのではない。
私がもっともマンガを読みたかった時代、私の周りにいた大人は「マンガを
読むとバカになる」と言っていた。 私は実にバカなもので、子供心にバカは
厭で、マンガに興味がないフリをしてみせたりなぞした。 マンガを読まずに
生きながらえてもちっとも賢くならなかった私が言うのも何ではあるが、この
業田作品のような訴え方のマンガをもバカの素と呼ぶ者が今も居るなら、彼等
の言うことこそ、興味がないフリをする対象であるとおもう。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年1月10日<木>07時46分)
染川さん、書き込みをして下さってどうもありがとうございます。
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眠りから覚めるなり、自室から外へ出るなり、マシンを立ち上げるなりすれば
否応なしに別の個体が感じられる人間の世界では、他者との接触は、自分が
望まなくとも得られるものとなっています。 自分が望まなくても得られる
ものに対しては自然、ありがたみが薄れるようで、昨今の人間は他者との接触
はあって当然と考えて、その考えを根底にして私見を言い放っているように私
には感じられます。
実際、気候的条件がよほど厳しかったり広大であったりする土地を除き、ヒト
種の生き物の存在密度は、他のヒト種の生き物の存在を貴重と思わなくさせる
ほど高いと言えるのだとおもいます。 きっと、他個体と接することが貴重で
あると感じる程度の存在密度の生物はまだ、地球上に居ると思いますが、ヒト
は、その限りでないとおもいます。
となれば、もはやヒトにおいては、他者を尊重するという態度をとることには
無理があるのかも知れません。 何というか、この場所(掲示板)は、色々な
ヒト種生き物の存在が感じられるところであればよいかなと、最近になって
考えるようになりました。
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*業務?連絡*
このところ、拙ラクダ板が調子ワルイように感じるのですが、どうしたかな。
サアバの場所? 畸人の怒り?
復旧なって接続できましたら、書き込みしておきます。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年1月9日<水>19時45分)
実は私論点が最初から善く解かって無い。
座邊師友としての展開の中に要るつもりでも、
貴方様の事を何も知らないし、こちらも何も伝えていない訳です。
何時の間にかこちらのhakubanにお邪魔しながら
何をお話して善いのか?。彫塑として彫刻や塑像があり
その中で彫刻は取り払う快感であり、塑像は加えて足して行く快感
で有る、その過程で情緒的には感情の起伏は当然でしょう。
事や物の感じ方は、個人の過去性により五感性として現れ、
当然違うでしょうし其処に人との出会いとして一期一会的
面白さの中で個人的志向や思考そして嗜好のギャップは
論破には値しないでしょうし、是は論定する事でもないでしょう。
特に現代用語には、多義に及ぶ解釈は必然ですし独り歩き
であり又新たに創られたりで面白さや楽しさのなかで
METAPHORとして削ぐ事には、CONSENSUSとしては
困難でしょうし、其れにIRONYとして拍車がかかれば
お互いに楽しくないが楽しい。気障りでしょうが私は
自分自身に着くような気持ちです...?。色即是空 空即是色
今そこで銀世界の中にオシドリの夫婦2羽が川面で遊んでいます。
又鴨たちが真一文字に空たかく飛翔しながファインダーを横切り。
その銀世界そして銀ねずみ色した雲、そして川の周りには葦が絡み合い
何と素敵なアングルなのでしょう。あのオムニバスで見た
スピルバーグと黒澤明のコラボレーション「夢」にも似た
風景です。このことは全体がモノトーンであると言う其処には
色が削ぎ落とされたシンプルな世界、この感動を誰が否定
できましょうか。前衛は形でもなく主義でもないし、感じるものだ。Name : 染川由紀夫 Time : (2002年1月9日<水>15時07分)
染川さん、書き込みをして下さってどうもありがとうございます。
私の「語彙」における前衛というものを「削ぐ」という語に絡ませて語れば、
自身から何事かが削げている状態を指す、と言える気がします。 鴨居氏に
しろノグチ氏にしろ、世の批評で「前衛とされる」事実は、私にとって彼等
を理解する際の参考になりますが、その参考事項と私の認識が一致するとは
限りません。
ご指摘であった晩年の鴨居氏やノグチ氏のような、既にご自身から何事かを
削ぐことに成功しているかのように見える人々---私の場合は最近では明恵に
西行です---に触れると、確かに私も、何事かが削げた人間の姿が<生々しく
・美しく・暖かく・厳しく・素直で>あるが故に、感動を覚えます。 ところ
が、サテいざ己から何事かを削ごうとすると、これは感動どころの話では
ありません。 何事かを自身から削ぐことは、苦痛であると感じます。
自分の感動というものは確かに、常に自分に寄り添ってい(=味方である)
ます。 が、自分の感動とはまた一方で、事物の擬似的・仮想的体験でもあ
る。 ですから、何事かを削いだ人間に接した自分の感動のみに留まっていて
は、「自身から何事かを削ぐ」という行為は自分において為されて居ないのだ
と私はおもいます。
大変にウルサイことを書きますが、自分から何事かを削いだ姿とは、たとえ
ば、鴨居氏の作品についての描写を他者に頼らない姿、かも知れません
(<そして彼の最後の作品、1985年作「肖像」。くだんのジャケットとズボ
ン姿の彼は横向きに背をそらしている。右手はズボンのポケット、胸元の左手
には、 彼自身の「顔」を仮面のように持っている。彼の上半身は上にのぼる
にしたがっ て白くなり、首の上には真っ白いのっぺらぼうが載っている。>
以上は、メルマガジン『[本]のメルマガ』 2000年10月25日発行号
「五月(ごがつ)」氏による連載「現代思想の最前線」第15回 崩壊する自画
像:鴨居玲とOdd Nerdrum より転載・www.aguni.com/hon/top.htm)。
前衛の人からは何事かが削げている、と言えるのなら、自身から様々が削げて
いない者はまさに、彼等前衛の後塵を拝しているのだ、と私はおもいます。
自分が「何処にも着けぬ」とは私は感じません。 少なくとも今は、私が前衛
と感じる人間の姿が先の方に感じられる。 司馬遼太郎氏の「 遼」の字が
苛立たしく思えるときもあります。 「鳥肌が立つくらい興奮」と似たような
感覚が私にもあるとすれば、それは、実際には苦痛であること、即ち、自身
から何事かを削ごうとすることに対峙したときの<恍惚・恐怖>であるような
気が致します。
=====
そういえば朝顔は、竹籠に絡ませた’行灯づくり’をしますね。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年1月7日<月>21時31分)
画家鴨居玲、最後の作品1985年作「肖像」は、ジャケットとズボン姿の彼は横向きに背をそらしている。右手はズボンのポケット胸元の左手には彼自身の「顔」を仮面のように持っている。これとよく似た絵がもう一つ在る。其れはイサム・ノグチについての気憶の中、1989年にこの世をから永遠に去る前の最後に近い作品。その彼の作品は、丸くて細長い自然石で出来た彼自信の為の墓であった。この作品から伺えるのは、主題が自己の空しさの表現に思えてなりません。画家鴨居玲は、何故自分の仮面を取ろうとするのか又本来彫刻家であるイサム・ノグチは表現として自然石を選択したのかが興味として又面白い。其れは職業としての「業」GOUを紐解いた。芸術として削ぎ執る方法が明確に成された立証として、私は過去に感動を覚えた。そして今思えば鳥肌が立つぐらい興奮する。「私は何処に着くかと申しますと」その削ぎ執る感動を見方にしながら進みたい。軽快は美しいしCAMOUFLAGEは、兎や雷鳥に必要な生存世界観であり、其れは人には無用と二人からの芸術感性を通して感じた。そして今は、何処にも着いてない自分がいる。「朝顔や つるべとられて もらい水」これ如何に..?。失礼しますが過去の「前衛とされる人」の最後の素顔です。Name : 染川由紀夫 Time : (2002年1月7日<月>14時12分)
染川さん、初めまして。 御投書下さり、どうもありがとうございます。
vocabulaire/vocabulary/語彙 については、私もいつか書こうと思って居り
ました。
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語彙とは現在、「単語」と同意であるように使われている。 そのため、語彙
数が少ないと云えば、知識が豊富でない・思考が浅い・表現が下手ということ
を意味しているようだ。 私は、語彙といえば「用語」と言い換えた方が落ち
着く。 それで、生命科学の語彙においては、とか、この人の語彙からは、
などと使う。 つまり、「語彙」とは、如何にある語を用いるかという動的な
内容や、構成要素から抽出できる事柄が共通な語の集合体(先例で行けば、
抽出できる事柄とは、「生命科学」や「この人」である)を指すと私は考えて
いる。
私の考えに則れば、「語彙」という語に対して、多少・深浅・上手下手という
形容は適用できない。 コジツケ気味ではあるが、「語彙」に対して現代日本
人が、如何に・どのようなという形容を付与せずに量や度合いの形容を付して
いる現状は、それらの人々の心の貧しさを露わにしている気がしてならない。
「語彙」に限らず、恐らく書物を読むことにおいても、何冊を読破したかと
いうことが人物評価の対象として適用され、どのように内容を解釈したかを
着目・評価することは、昨今では希なのではないか。
何かの語について語ろうと思うとき、言語学の書物や論文を多く読んでいない
ことで、語ることに躊躇を感じることがある。 同様に、様々な哲学書や古の
宗教教典から特定作家の書簡文書に至るまで、とにかく多くを読破してさえ居
さえすれば、他者に主張するに足りるものが書けるような気になることは多々
ある。 しかしやはり「語彙」は、数で質があがるものではないのだと私は
おもう。 おもう理由は単純に、使い回しかたを覚えた言語(外国語や専門語
や仲間内での俗語を思い浮かべるとよい)なら使えると実感したことだ。
語の用い方の稚拙さは、語をよくよく使うことによってきっと、解消できる。
自分流の言葉遣い=用語を確立したいものだ。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年1月6日<日>09時05分)
私蔵の持つ語彙或いは言語体系に付いて多くの同調と共感と喝采
を感受を求道すべく性をボンヤリト単線のローカリティ宜しくと
言う気持ちでしょうか?。「前衛」とは歴史的背景には、額装の
或いは、仮面を身につけ物理上は梃入れ的言語の性質を持ってしまった。
其れは随分と時代が遡り現在に於いて私蔵語であって自己顕示の忘却
化した完了づけられたもの、過去に於いて個人のシンボルであり革命で
あった。其れは今世紀に措いては地平線の彼方に風化し微物に対し
ても額面割れした徒花に親近感化或いは近親憎悪化でしょうか。
何れにしろVOCABULARYとは、一体何なんでしょう?。Name : 染川由紀夫 Time : (2002年1月5日<土>18時15分)
当千年紀のことを私は、「実行」「検証」に続く「展開」の時間になるだろう
と書いた。 それは自分にある閉塞感を感じ取った後の言い分であった。 閉塞
感を打開するものを、alternative/counter-/sub-なものと我々は呼んで
きたような気がする。 ロンドンに出回りはじめた『i-D』は、一種変人趣味
であったが、今やかつてのi-D風な雑誌がカッコイイものの王道を行って
いる。 汚い貧乏学生街であったセーヌ左岸の地区は、ご立派な社会人に
なった元貧乏野郎共が戻ってきたお陰で、大層にカッコイイ場所になってし
まった。
前衛とは今カッコイイものではなくて、衆人の目には触れぬところにあって
ごそごそとくすぶっているものを指すのだろう。 そして、そのような前衛の
なかに、閉塞感を解く原動力があるという気がしてならない。 発生は老化の
始まりである。 そして更に、望月の欠けたることなしと思った時、我々は
もう前衛の後塵を拝しているのだ。
私は、貴方は、今どこに着けているだろうか。
本年もどうぞ宜しくおつきあい下さいますよう、お願い申し上げます。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年1月5日<土>08時39分)
