archives/8---01/01/2003-31/03/2003
古い記事が下方にあります


履いてみる下駄もないのだけど…
ぼちぼち書き込み。実はこういった掲示板に書き込みするのって初めてだったんで
す。今どき笑われるかもしれないけど点在する人と人とを結び付けて交流させて
しまう文明のチカラに感動せずにはいられないなぁ。加えて音楽が発信したもの
の心境や思いの深浅強弱を伝えるように文章もまた表情や身振りが見えないの
に様々伝えるものなのだと改めて感心しているわ。省みて私は表現は噛み砕く
必要があるどころか砂粒ほどで、寄せ集めるに苦労するほどだわ。まーそれでも
お言葉に甘えてぼちぼち参加させていただきますワ。

今晩はもう布団に入らねばならないので手短に書きます。
ダブリンのオッサン達の様子を描いてまいさんが伝えたかったモノの解釈は
間違っていなかったようです。しかし、それについての私の書き込みは飛躍
しちゃってたなと思い返したので補足。つまり、大きな潮流を前にしても浮き
足立つことなく静かに毎日を過ごす彼らの様子に比べて…○○と書きたかった
んです。
翻って自分の国の現状は?要職にある人の発言は?それを取り巻く人々は?
しかし、また嘆かわしく思う彼らの糸の先に私達がいることを忘れちゃならない
とも思う気持ちがありました。

おっと、いけない、早く寝るんだった。来週末はご紹介にあった映画を見てみよ
うと思ってるのよ。観たことないので。映画や音楽は好きではあるけど詳しくは
ないの。でも、"The Godfather Waltz"は私も名曲だとおもうわ。

おやすみなさい

Name : さくら Mail : momo_y@f5.dion.ne.jp Time : (2003年3月31日<月>23時40分)


ナントカはかき捨て!
うんうん、ナカムラさんが真剣に書いて下さっていたのは判っているつもり
だよ。 ナントカはかき捨てよ、と、お勧めしちゃうよ。 私のようにイイ歳
になってもバカ面して平気な厚顔年増であれ、というのではなく、なるべく
若い内にナントカはかき捨てよ、とね。

=====
書き込み歓迎だの自分のことを表現する場を提供だのとエラソウなことを謳っ
ても、なかなかご訪問下さる方に登場しては貰えないものだと始終、考えて
いたんだ。 掲示板の敷居とか私が書いている内容といった要因以外のものが
恐らくあって、それで色々な方にご登場願えないのだなと思っていた。 それが
このところ、らくだ色板のほうも併せてナカムラさんやさくらサンに書き込み
をして貰えて嬉しくて、何か変わったかな、と、考えていたところ。

私かなりシツコイ者なので、いろいろクドクドと考えちゃうのさ!

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2003年3月31日<月>22時25分)


ありがとうございます
毎度、突っ込み所満載の書き込みをして恐縮です。
さっきのは、一般論に同調したのなら、何故同調したのかを
自分なりに書くべきでした。

このように、自分が考えた・思った事と見聞きしたものが未だ
明確になってないのがよくわかります。

でもまあ、書いてた時は自分なりに真剣に書いてたし、一つ
一つ良くなるようにボチボチやります。
今回指摘してもらった事が、カキンと自分に繋がる瞬間が来
るまで時間かかると思いますが。

この様な指摘をしてもらえる機会が持てるのは幸せな事です
し。

しかし、一般論書くだけやのに、あんなに長い文章書いてた
んか・・・(汗)

そうそう、まいさんはもちろんですが、自分の言いたい事を
きちんと表現できてるさくらさんも尊敬してます。
僕は、論理的な思考も言いたい事を伝えるのも、両方うまく
できません。

Name : ナカムラ Time : (2003年3月31日<月>21時56分)


下駄(aka シークレットシューズ)を脱ぐと、背が低くなるんだ
ナカムラさん、書き込みをして下さってどうもありがとうございます。 半径
2m程度の鏡面の上に立っていた私であれば、「で、貴殿は何を考えているの
か?」とだけ、出るところ。 全く、今以上に、相当イヤぁな奴だったね。

さくらサンが、「私は勉強をちゃんとしなかったから効率的な思考の訓練が
できていない」と書いていらした、ここでの「勉強」とは、知識を蓄積する
ことを指していなくて、時間と手間暇と周囲の人へ迷惑をかけつつ「訓練」を
することなのだろうと思っています。 縄跳びの二重飛びだの逆上がり、折り
紙だとか水泳だとか楽器を奏でることを可能にする「訓練」と、大差ない。

自分の「思考」した内容の表現とは、観察したことを書き並べることとは異な
る。 観察したことを「白壁の前に白人のオッサンが居た」とか「新入社員諸
氏の夢や希望は萎縮してしまった」とか書いて更に「白壁の前に白人のオッサンが居て、紛争のことを気にしていないように見えたことが新鮮だった」とか
「新入社員諸氏の夢や希望は萎縮してしまって、そんな彼等はお人好しに見え
て腹が立った」とか書いて初めて、「思考」した内容が書かれていると読める
のではないかと思う。

先述の「訓練」はまた、自分の知識や観察事項といった下駄を履いて世界を眺
める自分を振り返って、世に既出の言論・知識や単なる観察事項の記述を盛り
込まずにどこまで自分の視界を表現できるかに挑む、つまり、下駄を脱いで
からものを言うことでもあると思う。 私には、頭頂天を突く高下駄を履いて
いた記憶がある。 地に足をつけるとは、実際に下駄だ靴だを脱ぐように容易
ではない、まだまだ地面は遠いと感じる。 まぁ、ぼちぼち、しかし着実に、
参りましょうや。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2003年3月31日<月>20時22分)


ゼニと夢・希望・良心
毎度、板汚しですんません。
ゼニと良心というのは違うカタチで考えた事があるので、ちと書いてみます。

うちの会社は社員にゼニをすごく意識させる会社になったが、「携帯電話」と
いう風呂以外は肌身離さず持ち歩かれるデバイスに対して夢や希望を持って入
社してくる人が多い。
例えば携帯で電車に乗れたら便利とか、買い物できたら便利等。

しかし、面接などでそういう希望を述べ、実現を期待されていざ入社してみる
と、「儲かるのか?」という問いが待っている。
もう少し具体的にいうと、「投資額を回収し、更なる利益が見込めるか?」。
この業界は何かしようと思うと結構でかいゼニが動く。

で、投資額の試算結果や困難すぎる周辺状況を目の当りにして、彼らの夢や希
望は萎縮してしまい、フェードアウトしていく。

一方、友人がデザインの会社を経営しているが、2年程で大手企業を得意先を
持つようになり、今はテレビ番組の制作も請け負うまでになった。
彼らは「でかい企業のデザインをやってみたい」「番組制作をやってみたい」
という気持ちだけでやってきたようなもの。

しかし、その気持ちだけで猛進しているのかというと、そうでもない。
裏では綿密な計算と売り上げの見込み、資金繰りなど、「やりたい事はゼニに
なるのか?」というビジネスとして割り切った目で見ている。
「ゼニになるのか?」というよりは「ゼニに出来るか?」という方が正しいかも。
ゼニに転換できると踏んだら、始めは損が出ると分かっていても突っ込んで行
く。

まがりなりにもビジネスの世界に入るのであれば、幾ら良心を抱えていたとし
てもゼニと真っ向から向き合えなければ失望しか残らないんじゃないかと。
研究成果はビジネスの世界では「商品」であるわけやし、「商品」には企業と
して投資できるコストと市場投入すべき時期があり、これらを前提として研究
できなければビジネスは失敗し、引いては良心を満たせなくなってしまう。

夢、希望、良心、何でも良いが、成果をいかにゼニにするか。
この考え方に良いも悪いも無い。
ビジネスの世界では(良心の)成功も失敗も結局ゼニで語られる。

何か大げさな書き方になってしもたけども、要は、ビジネスの場で良心を貫き
たければ、金儲けの事さえ押さえとけば良いんじゃないかと。

今回はちょっと極論過ぎたかも。(結構当たり前の結論でもあるけど)
あと、まいさんの話からズレてしもたかな・・・(またかよ)

Name : ナカムラ Time : (2003年3月31日<月>15時19分)


漂泊する良心
*さくらサンが言及して下さったことに関しては、今後徐々に書いて行くつも
りで居ます。 どうぞ宜しくお付き合い下さい。

=====
優れた学者になるだろうと私が見ていた学生が大学の助手の仕事に就いたが、
「サイエンスから脱したい。」と言う。 学術研究に取り組んで頭角を顕わし
そうな学生がゴロゴロ居るようには思えないというのに、その少数の者らの
何とも数多くが学術界から去ることを希望している。 確かに現代にあって
は、「教授の言うことを聞いて、そこそこ研究みたいな思考と作業をやって
いれば、とりあえずは喰って行けますから。」と言われたほうが、大学での
仕事によって好奇心を満たせるとか自然の不思議を解明とか世の中に貢献など
と説かれるよりも、その人物の行いに納得がゆく。

大学は恐らく、教員を「とりあえずは喰って行」かせることを可能とする機関
になっているのだろうと思う。 素朴な学術研究に貢献できそうな人物はそれ
で、自分の能力を活かせる場を探す。 バイオテクノロジイ新興企業をそう
いった「場」と判断した者を何人か知っている。 味わいと慈しみのある学者
ばかりだ。 生命科学の分野において他人の役に立つ仕事をしたい、更には知
の探求にのみ没頭していないでカネを回転させるという現代社会の営みにも
参加したい、と、文章に書いて読めば埃臭くて可愛らし過ぎて吹き出しそうな
ことを考えている者が、新興企業での仕事を選んだ。

バイオテクノロジイという分野は、宇宙開発や物理関係の諸事とは異なって
少ない初期投資でソコソコの利潤が比較的短時間のうちに得られ、しかも高い
成功率(投資回収率)をはじき出しそうだと考えられて、少々前から”カネの
成る木”と目論見られてきた。 そのため、投資が潤沢に降ってきた時期が
あった。 それが現在、守銭奴諸氏は持ち前の慎重さを発揮、バイオからカネ
が引いて行ってしまっている。 資金繰りが厳しくなってきたところへそれで
も投資をしているのは、先の興隆期に増資した同業者であったりする。 この
同業者の投資の根拠に私は、先の学生が求めている世界を実現したいという
意志があるように思えてならない。

良心は漂泊する。 世の中のカネは、そうやって漂う良心に必ずしも味方しな
い。 ただし、カネが良心を捉えることもまた、あり得ない。 キレイゴトを
述べつつカネに目が眩んでいる者や、カネのことをあらゆる角度から眺めずに
無邪気に民主だの知の解放だの社会奉仕だのといったお題目を唱える者が多い
内は、ヒトもカネも生きた心地がせぬように思う。 漂泊の良心の行く手には
常に、自身の存在を「何故に?」と問う闘いがある。 そしてその良心も、
思う存分に闘わねば、生きた心地がせぬことだろう。

Name : まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2003年3月31日<月>00時26分)


どうもありがとう
さくらサン、お付き合い下さってどうもありがとうございます。 楽しんでい
ます。 お付き合い下さっているのをいいことに、以下を続けるよ。 さくら
サンも(ストレスにならぬ程度に)、図書館で目に留まった書物の話とか、
オンナの話・オトコの話(そりゃ唐突か)とか、、、読ませて下さいな。

=====
肉声による謡いが先ず音楽としてあって、それから楽器で演奏してみたり踊り
を付けてみたりしているうちにオペラという形式が整って、ヒトの想像の世界
は、楽曲と言葉と演劇による立体的なものに補助されるようなったのではない
かと思う。 現代においては更に、映画によってその想像の世界の補助役を
保存することが可能となっている。

XTCという”ニュウウエイブ”ロック・ポップバンドがロンドンに出てきた
のは1970年代後半で、誰にも真似できないギタアの音と訳の分からない歌詞
が素敵だった。 オッサンになったこのバンドの面子が割と最近に出した新作
について語って、「子供の頃、映画音楽とかポップスをよく聴いていた」と
触れていた。 誰にも真似できないギタア音はその新譜には無く、代わりに、
暖かみのある、語りかけるような歌があった。

後に映画音楽は、ロック・ポップの作品を便利に用いるようになるのだが、
それ以前に、映画音楽として作り込んだものを「聴いていた」ふるい記憶が私
にもある。 Federico Fellini監督作品 "La Strada"の主題曲(Nino Rota作
1954年)、Stanley Kubrick監督作品 "Barry Lyndon"の中のMna na
hEireann (Woman of Ireland; Sean O Riada作 1975年)、やはりRotaの
作であるFrancis Ford Coppola監督作品 "The Godfather"の主題曲(1972
年 The Godfather Waltz)は、多くの映画付随音楽を凌駕する映画音楽の
佳作。 それぞれの映像はこれらを伴うことで、名作と称される出来映えと
なった。

楽曲は最も理解(理解とはこの場合、そのものから沸く考えや感想を複数の者
が共有していると自分が納得できる状態を指す)し易く、故にガキ様は先ず音
だけを聴いていた。 私にとって、"La Strada"の主題曲は土埃の匂い、"Mna
na hEireann"は好きなものへの愛情、"The Godfather Waltz"は、非情さの
必要/需要だ。台詞(言葉)を解するにはもすこし賢くなる必要があったし、
映像を観ながら台詞を味わって更に音楽で動揺するには白髪が出るまでという
程度の時間がかかったが、これらの楽曲の挿入された映画は、やはり土埃の匂
いを放ち、愛憎を描き、非情さを発動する人間を見せていた。 音によって
形成したこのような自分の想像の世界と映画を眺めて受け取る印象に差を生じ
させなかったこれらの楽曲は、余りに見事な表現である。 私は誠に恵まれた
ことに、そういう表現を過去に「聴いていた」。

---というわけで、今日は映画音楽の話。
さくらサン、お越し下さる皆さん、どうもありがとうございます。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2003年3月29日<土>23時03分)


コーヒー1杯
昨晩は週末。カラダに良くなさそうな食事(スナック)とお酒で大満足して
眠ったら、朝すっきりして目が覚めた。体には悪いけどリラックスしちゃった。
そうですかー、ダブリンのビールも旨いんですね。でっかいオジサン達に混じって
わいわいって感じかしらね?

私の書き込み、いちいち考えてくださってるなんてうれしいな。
そう、謙虚さ・謙遜と自虐・卑屈の区別は難しいですよね。
これについて考えたこと過去の戸棚にしまい込んであるけど今は特に頭の働きが
悪くて取り出せそうにないわ。見つけたら書き込みます。
そっか、私がだらだらと書き込んでいることを要点引き出してくださっている
のね。まいさんの頭のなかも相当明快なんでしょうね?私は勉強をちゃんと
しなかったから効率的な思考の訓練ができていないことを時々痛感するわ。

まいさんの都会についての認識を教えてください。私は住んだことがないので
分からないわ。住んでるところは都会と田舎の中間くらいのところ。

私も人がみな均質ということはあり得ないと思うわ。むしろ、人の数だけ違うと
考えるほうが自然なように思う。補いあっている面もあるし、それが素で争いも
起こっている。私自身は風土は気質に影響するだろうし、大きく小さく環境も人
に影響を与えていると考えている。ただ、あまりに安易にカテゴライズして表現
することで、自分達が直視しなければ改善されることがないだろう問題を簡単に
片付けている場面が日常に溢れていて、この国が問題を抱えていても変わること
のできない原因の一つじゃないかと考えている。私はそういう環境に慣れてしま
うことでクサいものに蓋をすることに加担したくないと思っている。かといって
自分に別に何かができるという事もないけど、そこんとこの区別を意識する人が
増えればこの国も変われると信じている。

否定話法について、うんうん、そうそうと思いました。客観的に考えるとちょっ
と面白いですね。ストレス発散の会話をしたいときにはこの傾向が強く出そう。
私自身は他人との会話において、主旨をうまく捉えて合って会話ができればうれ
しいけど、結論が違っているのは大いに結構だな。そういう時の会話は楽しい!

人とのコミュニケーションって誤解が含まれないことなんてあり得ないと思う。
でも、それを意識して会話している人は少ないと思う。意識をもっている同士の
会話はよりシンプルにできるし、誤解によるストレスも最小になるように思う。
私はストレスの少ないほうの人間だと思う。まいさんのお話にもあるように物事を
感情的に考える方ではないからかしら。感情的な思念を排除して物事を捉えると
クリアに見えるし、無駄なストレスは感じない。ただ、そういう面が時々女性か
ら反感を買ってしまうこともあり、男性には時々無理解を感じる。女性を理想化し易い一部の男性には永久に私を理解できないだろうと思われる。

鏡の反射する光を弱めるまでに得た情報をぜひ公開してくださいな。
私は知りたい。

さて、遠慮がちな太陽が顔を出しているので散歩がてら図書館へ行ってきます。





Name : さくら Mail : momo_y@f5.dion.ne.jp Time : (2003年3月29日<土>14時24分)


さくらサン、書き込み、どうもありがとう
旨いウマイ、ダブで呑む一杯は旨いよ。 酒は、そだねぇ、そのものも好き
なら取り巻きも好きだし、それが連れてくる友達連中も好きです。 ちょっと
動きが鈍ってきたものを滑らかにしてくれる酒はイイね。

さくらサンが書いて下さったことの色々について(実は)いちいち考えて
いるンです。 全てが挿入された返事を書こうとしたらそう容易じゃなくて、
かといって一つ一つを別に書いていると返事の出し時を大いに逃す気がして
何だか、暇坊主の無駄説教みたいなものを書いてらァね。

*人間(社会)の成熟
仰るように、謙虚さと気長さが必要なんだね、きっと。 ただし、謙虚・謙遜
と自虐・卑屈の境目は区別し難い。

*コミュニケーション
単純明快かつ精確な(simple and precise)出力ができれば、コミュニケイ
ションはより快豁(滑らか・さっぱり・あっさり)なものになるように思う。

*春夏秋冬
私は、自然のものに囲まれたド田舎のことは心配していないんだ。 人間の集
まる都会の様子が嘆かわしい。 現在の都会人の多くは、自分達の認識や都市
に関する様々な論を大きく外れていて、ド田舎人が自然から切り離されて生き
ているように見える。 ヒトが想像や論にあるような都会人と化すこととは
そう簡単でも喜ばしくないものだと思うので、都会についての認識を改めた
ら、多くの人がもう少し楽に過ごせるように思う。

*気質と風土
確かに、何事かの言い訳に利用されることはある。 でも、逆に、人間みなが
均質と信じることも愚かであると思う。 「均質」という内容を平等とか貴重
と表現していても違和感を感じていない場合もあって、余りに軽薄。

*相手を否定する話法
この話法に対して全肯定で対応しても、否定話法者が納得しないところが可笑
しい。 話者は、自分も同じように否定して欲しい(=自分で自分のことに
ついて納得が行っていない)のだろうナと思う。 否定するに値すると思える
のであれば否定するけれども、否定の代わりの代案を出して「全肯定」する
以上に否定ということがproductiveだとは思えないので、否定は難しい。

*旅の本
若い頃は、自分の居るところ--それは、半径2mくらいの範囲だなぁ--以外の
ことは、何がどうであろうとも構わなかったものだよ! 円形の鏡の上に立っ
ているみたいなもんだね。 今は、その「範囲」を連れて移動しちゃぁ色々と
煩いことを言う。 鏡が光を反射しなくなってきたものかね。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2003年3月28日<金>19時33分)


ダブリンのビールは旨い?
お酒好きでらっしゃるのよね?まいさん?私は好き。ダブリンのお話読んでて
目に浮かぶんだのは褪せたような光と淡々と泳ぐオッサンたちの様子。そうか、
そこにチビのオッサンもいたのかぁ。
人の気質は風土とかにも関係しているとか?
なにかの影響を考えることも役に立つだろうけど安易な言い訳の隠れ蓑にもなる
ような…。私も時には言い訳のお世話になる人間だけど、相手の話を理解する
より前に何か自身を責められているような気になるのか、とにかく相手を否定する
ことに終始する。これにはいい加減参っている。冒さない暗黙の了解と狭い価値
観を共有することに慣れているせいかしら、と考えている。

旅の本、ぜひ作ってくださいな。読んでみたいわ。

Name : さくら Mail : momo_y@f5.dion.ne.jp Time : (2003年3月27日<木>23時04分)


ようこそ、ようこそ
さくらサン、書き込みをして下さってどうもありがとうございます。 ご訪問
下さるだけでも嬉しいところへ、書き込みもして貰えて、喜んでいます。

表現というものには、生きものにとっての抗ストレス作用があるように思う。
なるべく素直に自分のことを表現できると、それこそスッキリするような気が
します。 感情や考えを、なるべくその感情や考えにまつわる二次的なものや
副産物(たとえば、嬉しいから気が緩む、というときの気が緩むことを副産物
と呼んでいる)を排除して表現できると、ストレスは減るように思います。

正直とか素直と書いて読むと、何だか陳腐なもののように感じられるほど、
これらの語と出会す機会は多い、、、のだけれども、「まさか、本気?では
ナイ?」と仰るとおり、半端/未熟な正直さとか素直さが、恐らく、世の中に
氾濫しているのでしょう。 正直とか素直とは、何も、品行方正なことを指す
訳ではないと考えます。 へそ曲がり君が的確にへそ曲がりぶりを表現したら
それを、また、ズル子ちゃんがズルいことを明確に表現したら、それらを指し
て正直とか素直と言えるのだと思います。 なぁんて、打ち込むだけは簡単だ
なァ。 ねぇ。

=====
ダブリンのオッサン方の話はね(ありゃ、「水浴び」じゃァないですぞ、、、
ワシワシと泳いでンのよ、、、しぶきなんぞ立てずに、ネ)、友人にも喜んで
貰えたんだよ。 話をきいた人も面白いと感じるとは、オッサン方の存在は、
やはりチカラのあるものだったのだなぁと思う。

そんなオッサン方だから、写真を撮りたかった。 昼食喰いつつ、こういう
場面、こういった人間の存在を頭に描いていたのだとすら、思ったよ。 機械
の存在に気付いていたか、徐々に潮が引いて砂が露出してきたところで遊んで
いた男児に至っては、私の目の前で大きめの石を拾っては波打ち際に投げて、
投げる度に此方を振り向くんだ。 写真を撮る代わりに「重いねぇ!」と声を
かけると、ますます得意になって拾っちゃァ投げていたよ。 でもね、赤い
屋根は深い色に、白人のオッサン方は「白」とはいえあの白い壁よりも色が
出る、なんて考えて、子供とは遊んでやれなかった。

パブでこの話を聞いていた友人は、「で、一緒に泳いだンだね?」と言った
よ。 泳がなかった、写真も撮らなかったと言ったら、「じゃ、次、水着着込
んで来ればいい。 オッサン方は、大丈夫、居るから。」ということだった。

話は変わって、私の好きな書店には「旅の本」という棚がある。 旅行ガイド
本とは別に、紀行文を集めた本や写真紀行・スケッチ紀行などの美本を置いて
いるんだ。 泳ぎは大得意なことに比して水着姿は険しく貧粗と思うのだけれ
ども、「旅の本」なぞ作ることができてそれがいい出来映えなら、誰かに喜ん
で貰えるかもしれないのだなぁと考えたら、今度は泳ぐ(=写真撮る)か
のぅという気になったよ。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2003年3月27日<木>07時01分)


なぜか書き込む
こんばんは、まいさん。初めまして、さくらです。考えてみれば何の挨拶もな
しの、唐突な客ですね。失礼しました。もう何年もストレスを感じたことはない
のだけど、ここ数日は仕事から帰ると思いのほかグッタリしている。だったら、
さっさと寝ればいいのにやたらと喋りたがる、ように書き込んでいる。
なにをか…
風が少しずつ温かくなって、春が来たといっては喜び、まぶしい緑に、暖かさに
慣れた頃には夏が来るといっては喜び、虫の声に耳を澄ませているうちに少し
もの寂しい気持ちがして秋が来たと思う、冬が近づく風の匂いはまたいい、
そして…
今日はやっぱりくたびれたようだわ。おやすみなさい。

Name : さくら Mail : momo_y@f5.dion.ne.jp Time : (2003年3月26日<水>23時09分)


私はスッキリしちゃったわ
そういえば、私もマンションの下の階に学生が住むようになって1、2週間に一回
の割合で大騒ぎしていてひどい時はは朝の4時までやってる時があり、眠らずに仕事に行った。
なぜだ!なぜ家賃を払ってる私が眠らずに仕事に行かなきゃならない!
でも、「学生か、今日は多めにみてやろう」と出勤時にちょうどぞろぞろ出てきた
学生たちを横目でひと睨みして済ませておいた。でも、その寛容さにも限界がきた。いつか自分達で気づいてくれるだろうとかすかに期待していたがその後も
定期的に大騒ぎ、そして遂に堪忍袋の緒が切れる日がきた。翌朝早いというのに
またも夜11時過ぎても大騒ぎ、その上、大勢で手拍子してどよめいている。
これがまたふすま一枚程度によく聞こえる。エスカレートしてる訳だ。
うだうだと寝床から這い出し服に着替えて階下へ。インターフォンを数回鳴らすが
シカト。一旦引き返したらやっと学生達は引き上げ始めたようなので降りて
行ったらなんとまー10人以上もぞろぞろ出てきやがる。そして記憶がないくらい
に激昂したことのない私はなんとまー怒りにワナワナしている。それでもなんとか
抑えて言いたいことを言い放ち、いざ安眠の床についた次第。

この話を職場の方達に話したら、
「へぇ〜、さくらちゃんってそういう人だったんだ。」と男性が言い
他の方もだいたい同様の反応。つまり、なぜ、管理会社を通さないのか、と
いうのだ。無論、言いたいことは分かる。直接やり取りすることでのトラブル
を避けるためにも。でも、思うに怒りは大切なコミュニケーションのひとつ
じゃないかしら?安易に第三者に任せたり、自分の中に納めていった先に何が
あるのか?何が現れているのか?考えてみたりはしないのだろうか?彼らは
別に化け物ではない。あれから安眠を破られることもなくなった。
因みに私は別に過剰な正義感はないつもり。平気で背中を見せて逃げることも
やってのけるワ。

まいさん、水浴びのオッサンたちのお話、面白かったワ。

Name : さくら Mail : momo_y@f5.dion.ne.jp Time : (2003年3月25日<火>23時53分)


まさか、本気?ではナイ?
こんばんは、おじゃまします。私は難しいことはわかんないけど感じたことを書くわ。最近TVのゴールデンタイムでわりと真面目な内容の番組が始まったみたいでたまたま今日見ていたら、イラク情勢を扱っているらしくブッシュ大統領の人物や日本政府の置かれた立場、私達の首相についても色々…司会者をはじめコメンテーターの方達の話を聞いていて、なんというか、まさか本気で言っているんじゃないよね?と思うことが何度もあった。いつも政府関係の報道を聞くたびある種、憂鬱を通り越した感じを受けるのだけど、今日見た番組での出演者の話もまたオドロキだな、みんな間違いなく、特になんの学歴もない私に比べたら多くの知識を持っているだろう人たちだと思うのだけど「ナンデなんでしょーねー…きっと××してくれることを期待します」そんなような感じの話ばっか。世界から日本がどんな風に映っているのか?これまでの流れを見ていたら素人にでも予想できたことだし、現実にもなってる。今さら驚くことじゃない。日本の常識は何とやらと言われていた時期があったのにね。それさえも戦後、急激に経済成長して世界の仲間入りしたけど社会の成熟には時間が必要なのだと感じてる。飛び越えてはいけないのだと。

Name : さくら Mail : momo_y@f5.dion.ne.jp Time : (2003年3月25日<火>22時54分)


二題
*露出の後
自宅階上に、今どきのご多分に漏れず、もの凄い大音量で流行歌をかけたがる
若者が住んでいるので、音量を下げろと時々抗議に行く。 この時の自分の
態度には自分でも驚くものがある。 この時ほど私が自信に溢れた姿はないと
思う。 大音量の音楽は否定されるべきものであるという自分の主張に何の
疑いも無いので、のしのしと抗議に出掛けて行けるのだ。 Nietzscheの言
"We praise or blame according to whether the one or the other
offers a greater opportunity for our power of judgment to shine
out (Human, All Too Human, 1878)" の通りだ。

「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容たるべきではない」と、渡辺
一夫は説いた。 これはヒトにおける矛盾を言い表したものではない。 上階で
ひと主張した後でスッキリせぬ者はこの言を味わうことだろうとおもう。

*稀少なものとは
理解することに喜びが伴う人格の持ち主とは、誠に希有だが、居る。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2003年3月25日<火>22時07分)


Swimmers of Sandycove
名護さん、拙所へ書き込みをして下さってどうもありがとうございます。
以下、少々遠い位置からの呼応ではありますが、続けます。

=====
またダブリンへ出掛けてきた。 今回は、河辺ではなく海辺に居てみた。 その
海辺も南の方へ行けば行くほど田舎になってきて、楽しいのだ。 海岸線は
緩い曲線なので、歩き始めにはボンヤリと見えていた行く手が一歩進む毎に
鮮明になってくる。 Sandycoveと呼ばれる場所を目指していて、そこには
赤屋根白壁の建物があることはかなり手前から解っていた。 しかし、壁の前
にタプタプしたニンゲンが水泳の装備のまま日光浴していることは、そこに
近づくまで見えなかった。

日差しの明るい平日の午前にその建物の前を通り過ぎた。 赤屋根の下には、
タプタプゆるゆるの体をしたオッサンが腹の肉の間から水着をチラつかせつつ
10人ほど横一列に並んでいた。 うち何人かはタオルで体を拭いていた。 その
場での余所者といえば私独りだと妙に意識してしまい、早足に通り過ぎた。
そのまま海岸沿いに歩き、赤屋根建物のある岬を振り返って眺められるような
場所まで行ってから、同じ道を引き返した。 引き返す際に、赤屋根建物の
ちょうど裏側にあたる険しい岩場から海中に飛び込む者を目撃した。 飛び込
み地点へ近づくに連れ、岩場の陰でタイを解いている人やズボンを今当に
穿こうとしている人がそこに居ることがわかった。 こりゃ泳いでいるのだと
理解できたところへ、頭髪の様子に比して引き締まった体のオジさんが海の
方から坂を上ってきて、東洋人の前に来たときに「今日はいいよ、とても
いい。 素晴らしい!」と笑顔で語った。 多分私は、アナタ泳いでいたの?と
いう顔をしていたのだろう。

そして先にそこを通り過ぎてから3時間ほどの後、また赤屋根のところへと
戻って来た。 壁の前のオッサンの位置は変わっていなかった。 今度は先刻と
は違う人がタオルで体を拭いていた。 ちょうど昼時であったので、その小さ
な湾へ向かって私も足を投げ出して、持参した昼食を摂ることにした。 食べ
ている間に海からはタプタプのオッサンが幾らでも上陸してくるのだった。
どうも岬の南北で思想の異なる人がそれぞれに泳ぎを楽しんでいるようであっ
た。 南側は鍛錬型、北側はタプタプ型。 鍛錬型の人々は岩場に留まること
なく、ひと泳ぎの後にはその場を去っていったようだったが、タプタプ側は、
日差しと赤屋根建物を伴った湾のお陰で、泳ぐ人達の社交場を形成している
のであった。

(下へ続く)

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2003年3月21日<金>21時43分)


Swimmers of Sandycove (上からの続き)
その日は、この日イラクで戦闘開始かという日であった。 テレビを点けると
出演者の皆が皆興奮していた。 新聞はどれもがタブロイド紙のような紙面を
作ってみせていた。 立ち話をしている者も、宿の人々も皆が皆、興奮して
戦争の話をしていた。 ところが、Sandycoveの人々は泳いでいた。 彼等の傍
らには新聞もラジオも無かった。 Sandycoveの海泳は、「伝統」なのだそう
だ。 彼等は、年がら年中あそこで泳いでいるのだ。 近年にあっては久々に
観た、重みがる光景であった。 オッサン方と一緒に湾を囲んで食べた貧粗な
昼食は異様に美味であった。

「あれらの人々は戦争に対してimmunisedである(免疫がある)」のだ、と
「伝統」について教えてくれた人物は続けた。 慣れている、ウンザリである
とは違う。 泳ぎに来ていたオッサン達は、慣れたりウンザリするほど戦争を
体験した世代の者ではなかった。 テレビや新聞に見つかる興奮は、戦争へ
の免疫のついていない者の発するものだ。 歴史上に戦争は幾らでもあった。
実体験せずとも、何らかの形で戦争類似のことを追体験し、歴史を振り返って
みることで抗力を自分の中に形成するという機会は幾らでもあった。 しか
し、パリでもダブリンでもインタネット上でも、"immunised"な人間は驚く
ほど少ない。

"No More War"と書いたプラカアドを持っていた手でテレビを点けて戦争
報道を眺めれば、多いに戦争に参加しているのであると私は思う。 動物の、
怖いもの見たさという止められぬ習性は理解できる。 クローン人間作成に
反対を唱えつつもいざ生まれたと報じられればその新生児が如何なる怪物か
観てみたいと考える、また、戦争反対と繰り返しつつ開戦の瞬間をモニタに
かぶりついて捉えるというものがその習性の一端だ。 怖いもの見たさ程度の
衝動を制御できる生物がヒトであるかと思っていたが、現実では、細胞生物学
的な意味での免疫系の他は自己を外界の変化に対応させる術を持たないヒトが
多いと感じる。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2003年3月21日<金>21時41分)


革命と独裁
 まいさん、お留守中お邪魔します。

 先日はご訪問いただいようで、ありがとう。
 ここ一両日は、9.11と共に人類史においても長く記憶される節目の時になりそうな予感がします。ご指摘のように「ヒトの正義はとても厄介なもの」のようです。その正義感の起源が、長い苦しみの末に生まれた信念であればあるほど、その厄介さは増大するものでしょう。たとえば個人の問題としては、苦難の末に出会った宗教・宗派、あるいは宗祖・教祖に対する信仰は多くの場合、狂信のレベルに達します。それは社会改革、革命という集団の場合においても同じでしょう。
 北朝鮮の金日成親子に対する、あるいはイラクにおけるフセインに対するかなりの数の国民の崇拝がその例です。彼らの政権の起源はいずれも「世直し(革命)」でした。
 「悪」を滅ぼすための革命が成功し、ある程度うまくいき、年月が経過すると、実績に裏打ちされた「正義感」を背景にして多くの場合、英雄が発生し、独裁者が出てきます。
 アメリカの場合は分かりにくいですが、今の独善的な態度は、同じ文脈で解釈可能ではないでしょうか。イギリスの植民地であったアメリカは、フランスの援助で独立を勝ち取ります。しかしその後のアメリカ国家の帝国主義的な膨張は、「自由」を旗印にしているとは云え、その態度はフランス革命くずれの独裁者ナポレオンのそれです。
 ここ1〜2週間のアメリカでは反フランス感情が高まっているそうで、フレンチ何とかのメニューを廃止したとか、アメリカ兵は「第二次大戦の恩を忘れたか」などと怒っているとの報道もありました。
 しかし、それをいうなら、自由の女神をフランスに返却した上で、別の独裁者の像をニューヨークの空高く掲げた後であれば、説得力もありますけど・・・。その「新しい独裁者像」には、やはりフランス生まれのナポレオンが似合っているのでは、と思いますが・・。というわけで、フランスにおいて「自由の女神返還運動」をアメリカに対して起すのも、面白いのではと・・・、少し毒がきついでしょうか・・・。(以下へ続く)

http://www.setouchi.ac.jp/~dnagoh/

Name : 名護 Mail : d-nagoh@setouchi.ac.jp Time : (2003年3月18日<火>17時25分)


・・・(上の欄からの続き・・)
・・・(上の欄からの続き・・)

 「数百年続いた赤椀の世直しは、人々の忍耐の成果というよりも賢明さ、自らの弱さや愚かさを知っていた人々だからこそ備えていた賢さの体現」というご指摘。同感です。さあ、それを制度的に保証する仕組みがまさに現代の「民主主義」かと思うのですが、さらに云えばそれをどう強化して不動のものにしていくのか、それが問われる点だと思います。今までの戦争の時代と違う点は、インターネットの普及でしょうが、人々のネットワークがどこまで機能するか、さらにどう使っていくか、試される時ではないでしょうか。

 革命と独裁(専制)が表裏の関係にある、という点は日本古代史にも適用できる重要な観点であるらしいことはまだ気付かれていないと思います。古代の日本と朝鮮半島の関係は、これでうまく説明できそうです。沖縄の神歌にいう世直しの赤椀が、北部九州弥生中期の代表的な土器である赤い「須玖(すぐ)式土器」のことだとすると、この赤椀は沖縄産ゴホウラと共に朝鮮半島南部にも分布するのです。まさに日本の文献に云うところの任那の地からです。このことは、後の時代の日本からの朝鮮侵略は、前時代の世直しの時代がその土台になっているということを意味します。とは云っても、赤椀の世直しは、渡来人たちの本拠地であった北部九州から起こりましたから・・・このことは赤椀と沖縄のゴホウラの分布から明らかです・・・、侵略とか被侵略とかの表現が必ずしも適当でないかも知れませんが・・・。
 明治維新の「革命」も、ほとんど同じ轍を踏んで朝鮮への侵略・進出が行われています。この大陸・朝鮮選出をどう見るか、歴史観が問われているわけです。対立する二つの歴史観、と云えば、その代表として西尾幹二氏の「国民の歴史」(産経新聞社)と、片やその対極にある網野善彦氏の「日本とは何か」(講談社)をあげるのが適当でしょう。
 この2週間ばかり、その両者を比較して読んでみました。それぞれに特徴があり欠陥があります。私から見て両者共通する点は、0世紀から4〜5世紀頃までの歴史を欠落しているという点です。言い換えれば、ヤマトすなわち後の日本という国の成り立ちにおける沖縄の果たした役割を欠落させていることです。ミッシングリンクとしての沖縄の挿入なくして真実(に近い)歴史観を確立することが困難はことが明らかになってきたと思っています。「赤椀の世直し」の解明の欠落にほかなりません。
 両者の欠陥を埋め、国内でも、またアジア規模においても、共有可能な歴史観を確立し、普及していく努力が求められていると思います。でも、まあ、ご指摘のように、急いでやれることではありませんので、倦まずたゆまず、こつこつやっていくしかありませんね。

http://www.setouchi.ac.jp/~dnagoh/

Name : 名護 Mail : d-nagoh@setouchi.ac.jp Time : (2003年3月18日<火>17時22分)


外出のお知らせ
当所をご訪問下さり、どうもありがとうございます。

さて、数日間の脱フランスに出掛けてきます。 どうも外へ出たかった。
人々がどのような顔をしているか? 空港の警備も厳重か? いやいや、
本当は何も考えない時間を過ごしたいです。 復帰は木曜日以降のつもり
で居ります。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2003年3月17日<月>06時53分)


雑感が続く
*豊かとはどのような状況を指すのか
比較をせぬ/比較を知らぬ者の表情には豊かさがあるとおもう。

*やはり動詞が決め手
文章に書かれていることの内容を短時間のうちに把握することが得意、とか
自分の感覚を他人に伝わるようにかたちにすることが得意、とか、状況説明が
得意であるなどというように、対象を選ばぬ(=transitif/transitiveで
ある)動詞で表現することによって、ヒトの特徴(胡散臭く言えば、個性)を
捉えた、と考えるのはどうであろうか。 とにかくヒトは無目的であること
(=intransitif/intransitive)を嫌う。 この傾向は、目的を設けることを
好む、ということとは異なる。

*隷従は楽
考えに考え抜いて計画した実験を、計画書やその時の環境にのみ従って実行
することは楽である。 考え事をしなくて済むから、楽なのだ。

*停止するには
止めることを可能にするにはそれ以前に徹底的にやってみる必要があるのか
と考える。 動かぬものは止まりもしない。 知ろうとせぬ者に理解は無い。
動いているものは止まることができる。 知っているものは知らぬとはどの
ようなことを指すのか理解している。 「完全な人間になりたい」と放つ者は
切実に、完全であれば様々を止めることができそうだと考えて居るように感
じる。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2003年3月15日<土>04時36分)


またまた雑感
自他共に人間という存在を尊重するという立場にあると認める人物が居て、
「アラブ世界は歴史が云々で人々は誇り高く云々」ということを今最も人々
の間で話題の”攻撃”話と絡めて喋りたがる。 ”攻撃”話にも”平和”話に
も私はウンザリであるので、その主張を「そういうこと(=先述のアラブ世界
は云々)をちっとも判っていない」アメリカ人だの日本人に対して説いたら
如何と進言した。すると、「経験がない者らに何を言っても理解できるわけが
ないからそんな主張をする気にならない」と言う。 同一もしくは類似の経験
が無い者には共通の「皮膚感覚」が無いから、ということであった。 冒頭に
書いたことを繰り返すと、この人物は普段からかなり人間を尊重する--人間
の良心を信用する・どの者も大切な存在と主張する--立場からの発言をする
人物なのである。

自分の内面のことすら明確・的確に判らないというのに、他人のことをどの
程度まで理解できるのか、私には判らない。 また、人間という存在を尊重
するというとき、どのような態度を指して尊重と表現できるのかも、明確には
判っていない。 中野重治が、漱石を読むと「自分もまたいい人間になろう、
自分もまたまっすぐな人間になろう、どうしてもなろう」という気持ちになる
と書いたという。 その漱石は、どのような人間になりたいかと問われれば
「完全な人間になりたい」と答えたという。 迷いや曇りのない”人間尊重”
を私は疑問に思う。 探求・自問自答・切磋琢磨・闘い・・・そういうものを
背後に感じない人間賛歌や平和推進の傾向が昨今では特に、強い。 美しい
ものに酔うことは心地がよい。 そして同時に、みっともない。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2003年3月8日<土>19時58分)


志は高く持とう
フランスとドイツが人材と資金とを出し合って運営されているテレビ局は今月
後半、キュウブリク監督の作品を日替わりで放映している。 今日は1957年
公開(フランスでの公開はもっと後)の、"Paths of Glory" であった。

つい前日に「キミ、今後もどしどしとドイツ兵を倒すだろう?」と激励した
兵隊を、翌日に展開したが失敗した作戦は彼等の敵前逃亡のせいだとして軍事
裁判にかけ、銃殺する将軍。 罪人扱いされる者も塹壕に隠れている兵士も、
「誰が死にたいものか!」と訴える。 汚い酒場で兵隊連中に散々晒されつつ
ドイツ人の若い女性が歌を歌えば、それは、ドイツ語が解らずともフランス語
圏の者にも何の曲か知られている歌であり、兵達は涙せずには居られない。

明日がキュウブリクの命日ではある。 それにしても、まさにこの作品を再上
映すべき時に実に放映したテレビ局の主張も感じる時間であった。 遂に
ル モンド紙の醜態がにじみ出てきてしまったフランスはあるが、この局の
関係者の持っているような志が表に出てくることができるうちは、この国の
基盤(思想)が腐ることはなかろうと思えた。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2003年3月7日<金>09時58分)


また雑感
*どうも、ヒトが興奮してきているね
人口密度の高いところほど、個体どうしの干渉(影響し合うこと)が容易なの
で、そこに居るヒトが総じて興奮している。 人口密度の高いところとは、
都市や人気のあるウエブサイト、信仰の対象のあるところなどを指す。 各自
脱興奮してからものを考えるとよいと思う。

*そろそろ既存のまとまり方や結束状態を見直す時期か
組織というものには必ず機能が備わっている。 生き物とは、そのような機能
に、どうしても、やがて飽き足らなくなってくる--私は今のところ、何故に
飽き足らなくなってきているのかという疑問への答えを考えないことにして
いる--存在であるように思う。 もの好きの間でちょっとした話題の、Hardt
& Negri "Empire" のような著作が世に出て、いかなるものにも飽き足らない
生き物の姿は益々明瞭だ。

羊のドリー追悼(?)の稿で書いたように、「XXXのsuccessとは、XXXに
ついて(他者に)知って貰えること」なのだと思う(米国人学者の言った
successの語を私は他の言語に訳し切れていない)。 それ故に、XXX(ここ
は何であっても構わない)について他者に知らせる機能を持つ組織は、
successをもたらす存在であるとも言えるので、重宝がられる。 しかし、
「ペンは剣よりも強い」という時のペンはむしろ、この、重宝がられる場所に
ある以外のペンを指すと私は思う。

いかなるものにも飽き足らない生き物の姿を観ていれば、そのペンはどこに
在るのかが解る。 いや、これだけの数のヒトが興奮すると、箱の中に砂と
少量の小石やガラス玉を入れてカサカサと振ると小石や玉が砂から綺麗に分離
してしまうように、そのペンの姿も露わにならざるを得ないという気がする。
この例での物理的大きさ(砂粒よりも小石やガラス玉のほうが大きいと想定
している)は、欲の多さ、と考えてよいかもしれない。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2003年2月28日<金>23時26分)


雑感
日本語による論に、ある事物に対する説明・解説や感想を明確に(ズバリと)
読めるものはある。 ところが、ある事物の提示や事物の定義がその論全体を
通読することであぶり出されてくるものはあっても、提示や定義を明確に書け
ているものは少ないと感じる。 この感じは、日本語の言語としての特徴が
原因のものというよりも、論者が考え抜けていないことが醸し出しているもの
であると考えている。 仏語や英語による論であろうとも、提示や定義を書き
表せていないものはゴロゴロしているが、一方で、提示や定義が明確な論の数
は、日本語のものよりも(絶対数ではなく、より ou 可能な限り 相対的に、
しかも、私が読んだ書物の中で)多い。

ヒトが物事を考え抜いたなら、提示や定義に至るであろうということが私の
予想なのだ。 哲学という分野で様々な論が異なる語(言語ではない)に
よって展開されているが、そこでの疑問は似たり寄ったりであることを見て
も、そこに読める異なる語を使った様々な論とは、ヒトの各自が考え抜いて
自分なりの提示や定義に至った成果が色々に有ることなのだと感じる。 勿論
ここでの「提示や定義」が、言葉によるものでなくて絵画や音でも構わない
が、今は論というものをとりあげることにする。

=====
提示や定義は、それを世に出した者以外のヒトへ、容易に伝えることができ、
また、伝わった先(=他人)で様々な変化を起こす可能性に富んだものである
と思う。 こう書くと、生体における核酸(DNAも、こう呼べる物質のうちの
ひとつ)の挙動をどうしても思い浮かべてしまうが、ことばでの提示や定義は
核酸よりも物理の支配が少ない。 何も提示や定義ができなくて食いはぐれる
ことは無かろうと思うし、世の中に変化が起きなくなって滞るということも
無いと思う。 しかし、提示や定義を生じる環境を私は、喜ばしい環境、と
呼びたい。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2003年2月28日<金>00時11分)


質の高いものを読んでいるか
Jean GUEHENNO氏(故人)の自宅には、『Europe』や『Vendredi』が廊下
にずらずらと並んでいる。 双方とも、彼が創刊に関わった雑誌だ。 本や雑誌
の中に人の居場所があるという状況下にあるゲエノ邸は、文章で自分の考えを
表現すること、そしてそれを複数の人間と一緒に取り組むことに挑戦し続けた
人間の気持ち--執念と書いた方がだ妥当かも知れない--が壁(壁面では
なく、本と雑誌)から迫ってくるところであった。

「(文章の書き方や語の綴り方といった)技術的なことよりも、内容が面白
ければイイんです。」と、ある雑誌の作り手が言う。 その雑誌は、小説や
エッセイを読ませるわけではなく、あるものを紹介したり説明したりの記事が
掲載されているものであり、この作り手の言う「面白」いということは、読ん
で笑えたり考え事の種になるというよりも、紹介や説明の対象が斬新・新鮮・
奇妙・希有・深淵というように、興味深いものであることを指している、そし
て同時に、興味深いという段に止まっていると、感じた。 情報誌・ニュウス
報道という場合は、人を考え込ませる内容を提供するよりも、興味深いという
程度で立ち止まれるようにしておくべきなのかも知れない。

興味深い物事を文章で紹介したり説明したりする場合、「これは小説やエッセ
イという類のものではないので」読点の位置や語の使い方に拘ることは止めよ
という意見が出る。 確かに、美辞麗句や比喩、特殊な綴り方(ラジオ、の
代わりにラヂオとする、というような)といった文章の装飾は不要であると
思う。 しかし、読点の位置や語の使い方に工夫の無い小説やエッセイ以外の
文章では、表現に表情・多彩さがないので、結局、その文章で紹介したり説明
したりする対象のことを読者に伝達することに成功しない。 学術論文には
殊に表情や色彩の無い文章が多く、あれなら文章にせずに箇条書きと図だけ
にしてくれた方が余程効率よく報告内容を知ることが出来ると常々考える。

=====
英国の人(ロンドン人)の服の着こなしがどうしてもパッとしない(パリ人
に時々居る、鋭利な刃物のような緊張感を漂わせる姿のことを「パッと」して
いると考える・落ち着いた雰囲気とは別)のは、学校の制服というものが存在
するせいだよ、という主張をする人が居た。 各要素の体裁を均質にすること
によってそれらの要素をまとめることは可能だ。 学生に制服を着せることで
学校の存在を表現でき、書き手のクセが大して反映されていない文章を集めて
雑誌を作ることもできる。

しかし今後は、そのものの均質さに価値があると考えられてきたモノにおいて
その中に異質なモノを埋め込んだり見出したりすることで、また、異質のもの
が集まったことに価値があると認め続けられてきたものでは逆に均質さを追求
して、それぞれから未知の価値を引き出す努力をして行きたい。 いや、「今
後は」などとは今さらの言だ。 ゲエノ邸の壁面には、先述したような努力の
形跡が並んでいたのだ。 世の著作物を観賞する態度としては、「(文章の書
き方や語の綴り方といった)技術的なことよりも、内容が面白ければイイ」と
いう軽薄な(「面白い」とそれは何を生むのか、実はこの段階では認識できて
いないから軽薄なのだ)を棄てようと私は思う。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2003年2月21日<金>23時05分)


日本案内
今村昌平氏監督作品の『うなぎ』を観た。 カンヌでの賞受賞年以来の観賞。
奈良原一高氏の作品展にも出掛けた。 それらを眺めながら、そうだったそう
だった、日本とはこういう所であった、とばかり考えた。

なににつけ、カビ臭く、カッコワルイ、のである。 ただし、カビ臭くない
環境というものは記憶にあるが、カッコイイとは具体的にどのようなもの・
状態を指すのか、私には解っていない。 カビ臭いことを人情味がある、と、
そしてまたカッコワルイことを、生き物の体温のような暖かみがある、と言い
換えることもできる。

蹴球世界杯が開催されていた頃、試合を観戦しに日本を訪れた人々が日本の
様子をとにかくアレコレと観てきて欲しいなどと勝手なことを考えていた。
勝手、というのは、手引きや案内無しで「観てこい」という態度であったこと
を今になって思い返して宇感が語である。 やはり、下手に観光誘致だけして
いても日本のことを他人に知って貰うには不親切なのだと思う。 どのように
カビ臭いのか・人情味があるとはどのような状況を指すのか、カッコワイイ
ものが定まっていないというのにカッコイワルイと見えるのは何故か・暖かい
とはどのような感覚かを説明せねばならなるまい。 感覚ということが可能な
ヒトであれば、理解可能な言語を用いて、これらを説明することは可能だ。
『日本案内』なんて、どうかな。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2003年2月21日<金>09時31分)


Dolly the sheep
羊の、と言われてその後に「ドリー」と続ける人は多いのではないか? その
ドリーが死亡した。 動物年齢で11-12迄は生きるのが羊の成個体ということ
だが、ドリーは6歳であった。

生き延びてくれても死んでしまっても、この個体に付随する様々な可能性は
存在し続ける。 個体複製(クローン)の技術についての研究の対象である
ことは勿論、研究室という閉じられた場所で行われているこの技術の研究と
開発に関心を持って貰うためにドリーの存在そのものが果たす役割が大きい。
羊の「ドリー」と聞くだけで、おぼろげながらでも、研究室産動物というもの
を我々が想像できるのだから。

サイエンスの成功とは、そのことについて”知って貰えた”場合を指すと主張
して疑うことも怯むこともなかった米国人学者の姿をまた思い出した。 この
人の講演を聴いていたとき、一体どのサイエンスが「成功」例と言えるだろう
かと考え続けていた。 死亡記事なぞ出て、ドリーは成る程、あの学者の言う
ところの「成功」であったと思った。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2003年2月15日<土>09時45分)


先生二題
*夢の話
これまでの実験・研究の成果を発表しあう機会である学会の年会というもの
は、場合によって、教授・主任・部長などという肩書きの人物が進行役を担当
するものの、講演・発表者である学生の学芸会と化すことがある。 この時、
「どうせ学生のシドロモドロ発表だ」という態度の”センセイ”方(この人達
の気持ちも解る・本当にシドロモドロなのだ)をこれまでに何人も観た。

=====
今朝の夢で私は、この学芸会に居合わせていた。 理論物理学であったか、
コムズカシイ分野の発表会場である演者の発表が終わると、その指導教官と思
しき取り巻き付きの”センセイ”が、次の話者の紹介が始まっていて話者も
壇上に出てきているというのに取り巻き連中共々、会場を出て行こうとした
(こういう場面は実際にある)。

そこへ後方で立ち上がったのがちょっと妙な風貌の”先生”で、会場を取り仕
切る力の無い進行役(これも、実際に居る)を差し置いて、「自分の学生の
口頭発表が終わりさえすればよいのか?」で始まる、学や知への情熱を見事に
短時間に語った。 ”センセイ”一群は結局出て行ってしまったが、その後で
壇上を見遣ると、先刻までは情けない顔つきだった発表者--外国人だった--
が、晴れ晴れとした様子を見せていた。 ”先生”は、どこかで見た変人風の
言語学者にも似ていたし、架空の妙齢の女性でもあった。 美しい笑顔を見せ
ていた。

*先生
「まぁ、君もしっかりやり給え」というところが先生と呼ばれそうな人物の
常套句であるかと思えば、そうでもない。 私のようなアホのことを気にして
下さる人々のなかで先生と呼ばれている人物は、「私も一生懸命だよ!」など
と言う。 本当に、言う。

コレだよ、と、私はおもう。 私がその人々にまとわりつく気になることは
この、「(これほどの人でも)一生懸命」である、という、本人の告白が根拠
になっている、ということだ。 「頑張って」ではなくて「頑張ろう」という
これら諸先生方の態度には異様なほど、ひとを鼓舞する力がある。 勿論その
力は、御自分を鼓舞しつつ日々を過ごしている人々からこそ発されるものだ。

オコサマの頃に貰った(喰らった)成績表には、「さんすう・がんばろう」と
書いてあったではないか。 「さんすう・がんばれ」ではないのだ。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2003年2月14日<金>23時13分)


島に手紙出す坊さんのはなし
自分が修行に出掛けていた先の島に宛てて手紙を書いた僧といえば、京都栂尾
(とがのお)の高山寺に居た明恵(1173〜1232)というひとだ。 ほんの少し
だけこの人物のことを調べてみたところ、どうも仏教者でありながら教義や
宗派に囚われていなかった人物である印象があった。 異色というか特異と
いうか、変人というか独自というか。

往生者がホトケと一体となることによって、極楽往生が一瞬のうちに成就する
という考えが明恵の時代の一部の仏教僧にあったらしく、往生ひとつにも
阿弥陀仏による極楽往生、弥勒菩薩による兜率天往生、観音菩薩による補陀落
往生、薬師如来による浄瑠璃往生などという具合で、どなたに世話になるかに
よって色々あるようだ。 下に挙げてある文献は、明恵さんが弥勒菩薩を信仰
していたことを一体の弥勒菩薩像を挙げて論じようとしたもので、その弥勒像
を、下記文献冒頭の「原色図版1」からのリンク先に眺めることができる。
http://www.kyohaku.go.jp/gakuso/gakuso04/gs4a01j.htm

この像と、像を収める器とで構成する物体の姿の、何と並み外れであり且つ
落ち着いていることか。 文献の著者はこの弥勒像を明恵の「臨終仏」である
と指摘している。 「臨終仏」とは、学術的にはもっとマシな記述ができよう
が、自己流に解釈して、死に際に自分の念を集中させる対象なのだと思う。
この「臨終仏」の並外れた姿と落ち着いた雰囲気、更には誠に俗なことに弥勒
の顔は、明恵さんそのものなのではないかと私は感じた。

無だの解脱だのを目指す宗教の諸行の限界ということについて、このような時
に想う。 この程度の限界が無だの解脱の手前にあるからこそ、宗教はひとを
惹き付けるのだと思う。 ヒトが理解できていないことは多い。 だが昨今で
は、解りきっていることを何度も循環させることのために多くのエネルギが注
がれている。 恐らく、ヒトが傲慢になってきているというのは精確な現状の
表現といえよう。 今の時代では、島に手紙を出すような人間は、かなり生き
づらい。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2003年2月11日<火>06時10分)


いらっしゃいませ!
名護さん、拙所へ書き込みをして下さってどうもありがとうございます。

=====
「オジ」話しを先ず、他の方のためにチョット解説しておきます。

名護さんは、御著書『赤椀(あかわん)の世直し』の中に登場する沖縄の神歌
に見出せる「五・七」という表現のことを、拙駄文の「七かけ」(ここに出し
た)に呼応して教えて下さった方です。 その名護さんの現在のお住まいへ
「沖縄」の脈を辿ってやって来た人物が、「日本一周ライブドキュメンタ
リー」展開中の長田一(ナガタハジメ)さん、、、、で、初対面であったこの
お二人が、ご自身のことを話してみると、義理のオジさまと甥っ子サンという
ことが判明したのだそうです。

http://www.setouchi.ac.jp/~dnagoh/
ここは名護さんのサイトで、
http://www.tabinosusume.com
これがハジメさんのサイト(NSの場合、6.X以上で閲覧のこと)。

=====
このオジ上と甥っ子サンのお話に触れまして、名護さんが下記の投書でご指摘
の、「教える」ことについて考えることができました。

現代での我々の「教え」あうことからは、人間どうしの間で為されていると
いう性質が弱まりつつあると感じています。 人間と人間の関わりが希薄な
ことが都市というものの特徴であるという気もしますし、こう言っては偉そう
なのですが、私には、若い頃は特に「教え」られたという記憶がありません。
このことは、私の愚かな尊大振りを表しているとともに、私が他の人に「教
え」た形跡も無いことを示しているのだと思います。 近頃になってやっと、
名護さんの仰るような「教える」ことがどのようなことを指すのかボンヤリと
見えてきた気がする有様です。

書物や絵画、音楽、そして学術論文や実験結果のようなものまで含めた表現物
を介して「教え」あうことは大切です。 自分の生存期間や自分ひとりでの
伝達が可能な範囲を越えて「教える」ことができるからです。 私も表現物の
完成には興味がありますが、自分が生存という状態にあってしかも幾らかの
伝達行為を担えるのですから、人間どうしの間で「教え」あうことをしたいと
考えています。 いえいえ、こう考えていたのだ、と、名護オジ上とハジメ氏
のご様子に触れて、気が付きました。 表現物を介した「教え」よりも、人間
の接触による「教え」は、効き目・味わい・衝撃・・・があって、ヒトの
血肉になりやすいという気がします。

敢えて極端な言い方をしますと、日本出身の高学歴者には、開拓力というか
生命力というか、自分の我が儘な希望を現実化するチカラが欠如している者
(私自身も、この部類)が多いと感じます。 日本人にこのチカラが欠如して
いる、とは異なります。 芸ならぬ学が「身を助けて」いないこの状態は、
人間どうしが「教え」あうことで変化させることができると私は考えます。
日本人が「書を捨て」て「街へ出」た時、その街にも、書物とせめて同様の
ことを体現している人間が居る社会を想像しています。 もしかしたらこの逆
つまり、人間の存在が「書」物以外の世界へと人々を誘う、と考えた方が自然
かもしれません。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2003年2月5日<水>03時01分)


オジという立場は・・・
 まいさん、今晩は。

 私のサイトに、パリからのご訪問、書き込み。そして激励までいただきありがとうございます。
 どうもこの甥っ子http://www.tabinosusume.com/ は、少しは(かなりの?)何者かになりそうなので、応援しつつ見守りたいと思っています。オジという立場は教育上、なんらかの役目があるように思います。たとえば吉田松蔭はオジ玉木文之進がいなければあそこまでの思想家に成り得たかどうか。
 少し気負って云えば、「教える」ことは、自分を律しつつ、いわば自己教育することでもあるわけです。
 そこで今、気負いつつ考えていることは、彼のサイトの片隅に私の部屋を作ってもらって、そこをいわば私の「松下村塾」に見立てて、何事かやれないか・・・何かをやってみたいものだと思っているところです。
 というわけ・・・今後もよろしく。ブッシュのアメリカ軍国主義(・・・この言葉が政治マンガJoel Andreas著「戦争中毒」などによって、表へ出て、はやりそうです)の行動によって、パリも騒がしくなるでしょうが、寒さ厳しい季節でもありますので、ご自愛なさいますよう・・・

http://www.setouchi.ac.jp/~dnagoh/

Name : 名護 博 Mail : d-nagoh@setouchi.ac.jp Time : (2003年2月4日<火>22時19分)


「しるし」を持つ人々
「しるし」を持つ人々、といえば、"Zeichen auf Kains Stirn (Hermann
Hesse / Demian; 1917)" である。 この語に出会ってしまったのが13とか
14歳という時であったことを考えると、こういうことについて考えるくらい
が自分にできることなのではと思う。

白紙上の相対する一辺からもう一方へと直線を引くと、その線が紙上に二つの
区画を作る。 「しるし」は、この線のようなものだ。 区画を明確にする存在
は何も紙上の線だけではない。 人間のあらゆる特徴も、社会の区画や価値の
境界を明らかにするものとして捉えられてきた。 人種/血統、見かけ/表現型
(phenotype)、技能/芸能、そして、出力された考えや好み(思想・信仰・
嗜好)がヒトにおける「しるし」である。

近頃のフランスでは罰金を取り立てる行為の対象に見直しがあり、市中で自身
の特徴ある部分を露出させて金銭を乞う行為も懲罰の対象となった。 この
ように法を整備することで、地下鉄駅構内の雑踏中に居て物乞いをしている
「しるし」を持つ人々が今までよりも明確に認識できるようになる。 ここで
の法の内容はこれらの人々の「保護」ではなくて「懲罰」であるが、どちらに
せよ、法によって「しるし」が以前よりも色濃くなることに変わりはない。

物事の変化には原動力があると私には思えてならない。 そして、ヒト社会で
の変化の原動力はヒト由来のものである場合が多く、そのような原動力となる
ヒトには「しるし」があるのだと考えている。 ただし、考えてもみよ、この
世の誰もが、某かの人種/血統であり某かの見かけ/表現型をしており、某か
の技能/芸能を持ち、某かの考えや好みを表明している。 誰にでも「しるし」
が在るのだ。 しかし、その場その時に対応して何かの拍子でより鮮明になる
特定かつ稀少な「しるし」が歴史上に入れ替わり立ち替わり現れ続けていて、
その特定かつ稀少なものこそが変化の一因、いち原動力なのであると思う。

私には、emigre(出て行くもの: ヒトという生きものにおける移民を考える
場合でも、流入してくる移民であるimmigreとは異なる)という存在が気に
なる。 どうも、emigrer(移動)している連中は「しるし」が鮮明であり、
その「しるし」故に自分の望む望まぬに関わらず動くしかないように見える。
ヘッセも、ここまでは小説に書き込むことが出来ていたとおもう。 私は、
emigreの連中が自分らを肯定する時の役に立てればよいなと思っている。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2003年1月31日<金>08時48分)


雑に色々
*大見得・大風呂敷、はたまた大法螺 その2
作品という存在を、「私有物ではないもので、その扱いに関して自分の意向を
反映できるもの」と定義したならば、私が樹立した”株”(品種のような
もの)の培養細胞は、文筆業者の文章と同様に、私の作品、と呼べるかも知れ
ないと考えている。 それで、その「作品」に関連して考えていることが
あり、以下簡単に挙げておく。 研究所創って、探り仕事したいなぁ(風呂敷
風呂敷)!
--転移して生き延びる細胞とヒト社会での移民の挙動
--病原として捉えられている細胞とヒトの考える「悪しきもの」の内容
--局部的未分化組織を形作る細胞と計算機網(コンピュウタネットワアク)

*タイトル
ものを書いたりつくったりして、題(タイトル)に気に入るものを思い浮かべ
られる場合、その題名の下に表現されているもののことを作者/表現者が充分
に納得しているのだ、という気がする。

*日本語を書くときに気にしている「的」
あやふやな内容を避けたくて、XX的、とは書かないように努めてみている。
創作的・好意的・局地的・普遍的などなど。 書かないようにと気にすること
で、自分が考えさせられる。 より詳細な説明を伴った文章を書かざるを得な
くなる。 悪くない。 自分でも驚くほど、これまで多用してきていた。

*女性
この頃は自他共に「強い女性」などと称しているようだが、私には、この人間
社会において(より直接の作用として)他者の役に立つという内容の「強い」
女性の心当たりが少ない。 「強い」とは如何なる状況・事柄を指せばよいの
かという議論をavoidするために、これまでに何度も出している有島武郎の言
をまた、引いておく。

それにも増して私が女性に望む所は、女性が力を合わせて女性の中から女性
的天才を生み出さんことだ。 『惜みなく愛は奪う』 (1920)

自らの不満が解消されずして他人様のお役になど立てやしない。 嫉妬(envie)
とは、自分の不満を自分で解消することを放棄している者に見出せるoutcome
だ。 自分のことを評価・批判できていない者も、嫉妬を発散しているように
見える。

スウェーデン出身の知人は、先の有島の言に加担できそうな人物だと感じる。
このひとの性愛の対象は男でも女でも構わないのだということはつい最近に
知った。 "Male Homosocial Desire"という、書物の副題を想う--why not
(female)? と思う者は、男にも女にも、どれだけ居ることだろうか。 とに
かく、女はまだ限界をチラとも見ていないように思えてならない。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2003年1月29日<水>00時26分)


Let us not then speak ill of our generation
Reflecting on the prospects for further advance, one may tempted to
take an attitude of romantic pessimism: all that remains is either
application or epistemological disquisition. Such was the mood in
physics around 1900---after Maxwell and Boltzmann, and just before
Curie, Planck, Rutherford, Einstein and Bohr entered the picture. And
so there is hope for the young biologists who dream of discovery.

Salvador Luria, 1986

from "GENES" Third edition, page 717;
Benjamin Lewin; John Wiley & Sons (1987)

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2003年1月28日<火>09時11分)


表現
自分が考えていると似たことを、既出のものに探すことがある。 自分の考え
とはいえ、それはもう既に誰か他の者が考えたことがあると判るものについて
は、こうして過去の蓄積の中から探し出そうとしてしまう。 この世に美しい
ココロなど無い、と考えて、黒沢の『白痴』をまた観たいと思ったのだ。
勿論、ドストエフスキイでもよいかもしれない。

膨大な文献と隙のない理論構成の論文ではうまく伝えられない内容、という
ものはある。 「この世に(ヒトの)美しいココロと呼べるようなものは存在
するのか?」などという内容は、演劇や映画や小説、漫画で問うてこそ人々の
頭に入る。 表現手段を絞る/選択することも、表現者の能力のうちであると
いう気がする。 「これの他にはあり得ない」という表現手段を選択できて
いる者は見事であるし、幼少からの教育なり無知なり物理的な困難なりが原因
で表現手段を選択できてしまっている場合は運がいい、と思う。

過去の蓄積の存在を知れば知るほど、独自だの独創という語のもたらす印象が
薄れる。 過去の蓄積に何一つ注意を払わずに世に送り出される表現物の存在
も、(余りにお目出度くて)独自だの独創だのとは形容しがたい。

”新しい”もの・”別物”とは何か。 それらがこの世に在るのなら、恐らく
美しいココロも同様に、存在する。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2003年1月27日<月>00時28分)


休息
"steal my records" というところがいい。

このひと(Ryan)は早死にしなけりゃいいが、、、などと思ったが、何が
「いい」かはやはり解らない。 夭逝の匂いを放つお年頃なのだとおもう。

=====
Ryan Adms
Come pick me up (部分) /album: heartbreaker; 2000

I wish you would

When you're walking downtown
Do you wish I was there
Do you wish it was me

With the windows clear and the mannequins eyes
Do they all look like mine

You know you could
I wish you would

Come pick me up
Take me out
Fuck me up
Steal my records
Screw all my friends behind my back
With a smile on your face
And then do it again

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2003年1月25日<土>01時28分)


頭の部分
色々考え事をしてみているなかで最も「自分の興味を根拠に据え」ることから
遠いと判断する(自分には甘い)ことを以下に出してみる。 これは迷惑を顧み
ずにコレハと思う方に出してしまったメルの一部で、改行位置のみ調整した。

=====
現在当方の目前で起こっている派手なことといえば、「バイオ」研究と「ビジ
ネス」の合体です。 この合体劇が起こる時に(少なくとも当事者によって)
考えられねばならない事柄があり、その事柄についての議論を展開し、当事者
以外の人々に対しては考えられたことの内容を知らせたいと考えています。
バイオとビジネスの合体のみならず、現代社会では、学術研究・学識探求と
いう行為を商売(経済活動)として行わざるをえなくなりつつあると当方は
みています。 そこで、本当に「行わざるを得ない」のか、「行」うという
場合、学者がどのように何を対象として働けば社会にとってより有用となるの
でしょうか。

学問を極めること(=即時的な実用には向かない知識を蓄積すること)を重要
と考えることをAcademicismとしてよいのか、そもそも知識の実用/非実用と
いう考え方を捨てたほうがよいのか、また、Intellectualismという語を
Academyの存在に関わらない、しかしやはり学問を極めることを重要と考える
こと、と捉えてよいのか判りませんが、次のような事柄について考えていま
す。 何をAcademicism/Intellectualismを体現している事例とするのかは、
まだ選びきれておりません。 もう少々、観察が必要と感じます。

-Academicism/Intellectualism under the rule of contemporary
business/management principles
-Decline of (modern) Academicism/Intellectualism
-'Non-practical'/'Non-pragmatic' knowledge management

人類の知はより多くの者による共有が可能となるように整頓されるべきである
と私は考えております。 この整頓によって、知の暴走(知ろうとし過ぎるため
かえって知る結果へと到達しないこと)をも防げるのではないかなどと考え
ます。 それで、より多くの者によって共有されるためには、「ビジネス」の
制御下にこの知を入れてみた方がよいのか、入れずにおく方がよいのか、
また、入れずにおく、とはどのような状況を指すのか、それが可能なの
か、、、。

(参考文献・ビジネスが絡むと米国ものに偏るのと、チョット上に書いたこと
への文献と言うには内容が外れていることは気になりますが、、、)
Richard Hofstadter
"Anti-Intellectualism in American Life"
Random House Trade; ISBN : 0394703170; fevrier 1966

Donald N. Wood
"Post-Intellectualism and the Decline of Democracy"
Praeger Paperback; ISBN : 027595661X; novembre 1997

Richard A. Posner
"Public Intellectuals: A Study of Decline"
Harvard University Press; ISBN : 067400633X; janvier 2002

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2003年1月23日<木>12時02分)


頭と尻
このところ毎日今更連ねるまでもない事ばかり打ち込んでいるところへ来て、
今日は、この世のもの(総体・全体)から最低二つの項目を抽出できると
(全体を二分することとは異なる)こうも明確にものを考えている気になれる
ものかと感激している様子を書こうとおもう。

ものごとを表現する際の各人の立場/状況として、脱sentiment と、
半sentiment という二つを考えている。 高性能の計算機が働くが如き
前者と、どうも計算機に徹することが困難な後者であり、これらの人々が自分
の頭(思考)とと尻(肉体)のことをどのように扱っているか、また、これら
の人々が経済(経済学、ではなく、むしろ実行されている経済活動を指す)と
どのように向き合っているかを考えている。

脱sentimentに成功している人が自分の尻にまつわる話をしないのは容易に
理解できる。 半sentiment つまり、出しゃばりな自分を表出(この際、露出
と書いた方が臨場感が在るように思う)させている者にあっては、肉の話も
得意であって好さそうなものだ。

自分の興味を根拠に据えた脱sentimentな表現を表沙汰にしないで欲しいと
私は思う。 せいぜいが学位論文までならば、自分の興味に基づいて
脱sentiment な記述を目指していても、許容できる。 また、自分の肉体を
晒さぬ半sentimentな表現も、未熟であると判断する。

Dinu Lipatti というピアノの弾き手が居た。 気取っていて冷たい雰囲気を
好むフランス人の好みに見事応えることのできた弾き手であったと思う。 彼
の演奏は脱sentiment型であり、Lipatti氏が如何なる人物であったのか、
何を考えていたのかをこの人の演奏から聴き取るのは至難の業である。 この
演奏をする定めになっていた弾き手が、定め通りに弾かざるを得なかった、と
いう音であると感じる。 半sentiment型の、自分の頭も尻も露出している
クラシック音楽家には心当たりが無い。 居るのは、他人に媚びて
脱sentimentのようなフリをしている者や、ここでも尻を隠した
半sentiment途上の者ばかりである。

頭も尻も露出した半sentimentsの殆どは安らかに死ななかったように思う。
恐らく、半sentimentという状況を自らの身の上に体現することとは人間の
機能の出力として最大限のものなのであろう。 これは余談。

今日はここまで。 後は、学問と経済活動(経済学ではない)について考え
ようとしている。 難しそう。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2003年1月21日<火>23時12分)


projet-plan-programme
個人の尊重などと偉そうなことを言う割に、私には、人間は”何か”のための
部品と思える。 ヒト一人の能力はヒトが想像する程に大したものではないと
感じているくせに、ヒトが想像するようなことを現実化できたらよさそうだと
考えているのだ。 私自身のことも部品として捉えている。 自分が何かを行う
というとき、私は、「自分がこの仕事を自分のために行うことで自分に対して
カクカクシカジカの影響を与える」と同時に、「自分がこの仕事を(自分以外
の存在である)XXXのために行うことで(自分以外の存在である)YYYに対し
てカクカクシカジカの影響を与える」と、自分の行動のうち幾らかのものに
対して、考える。 これが、部品の気持ちである。 XXXとYYYが同一であった
り、XXXまたはYYYを自分自身に限定していては、部品人間とはいえない。

経済活動の活動結果は数値化が可能なものであるので、経済界においては、
人間の部品化即ち分業という考えを適用できた。 芸能活動や学問探究の結果
は数値化が困難なものであるため、 人間を部品化して活動/作業の効率を高
め、自分達が想像することの真否や可能性をより速く確かめたり想像を現実化
させたりすることが為されていない。 学問界での分業は、試みられてすらい
ないのではないだろうか?

米国のラップ音楽界では、学問界でできていない分業が出来ている、と思う。
ラップ音楽を世に送り出す事を、芸能活動というよりもむしろ経済活動と
して捉えることに、当事者が成功しているからであろう。 このラップ音楽界
での分業を眺めていて面白いのは、自分達の仕事を経済活動として捉えて成功
した場合、ラップ音楽の放つ芸能という要素もあたかも分業可能な対象として
捉えられたかのような結果を生じていることだ。 ラップを題材にした自分達
の仕事の世間への芸術的・感傷的な影響についても複数の者の協力(分業)で
発生させることに成功した結果になっているのだ。

さてここまで書いて、やはり生命科学研究のことが気になり出してしまった。
生命科学研究で「喰おう」とする時、実験結果を追試して検討することは重要
であると認識する頭があるのならば、ラップ音楽界における成功への到達方法
を模してみるくらいの気が当事者には備わっていることと思う。 備わって
いないのなら、生命科学研究と経済活動を切り離すことを考えるべきである。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2003年1月21日<火>01時38分)


充実を目指す・下からの続き
下からの続き。
今後は、ここに収まる文字数で書き上げることにも務めるとする。

=====

冒頭、充実した’もの語り’とは知識に依存した根拠と経験に依存した根拠
との双方が同程度に存在しているものと書いたが、ここまで書き進んで、
それが可能かどうかは解らないが、知識に全面的に、或いは経験に全面的に
依存した’もの語り’も、充実していると判断できるように思えてきた。
しかし、私のように総sentimentでものを語りたがる不勉強の怠け者でも、
幾らかの知識が自分に備わってしまっている。 つまり、先述の無謀さと尊大
さを味方に、全面的に自分の経験に依存してものを語ることは、この世に誕生
して他者に接触してしまった以上、私には不可能なのだ。 表現の充実を目指
すとき、何も脱sentimentのみが手段ではあるまい。 ただ、知識と
sentimentを混同しては、充実した表現は遠い。 私は、自分のsentimentを
引っ込めることに困難を覚える者なので(出しゃばりなのだ)、sentiment/
経験を的確に解析することに務めようとおもう。 または、知識を根拠にした
出力の得意な人の言説の検証役として役に立てるような気もする。 その点で
脱sentimentの徹底していない知識出力を批判することもできようが、充実
していないものを指摘するよりも、充実したものを生むことを目指して働き
たい。 life is short.

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2003年1月19日<日>17時25分)


充実を目指す
人間には、知識を蓄積させた結果を基にものを語ることも、経験の観察と解析
との結果を基にものを語ることもできる。 充実した’もの語り’とは、知識
から来る出力と経験から来る出力を同程度にその’語り’の中に混在させる
ことに成功しているものを指す。

この世の中には圧倒的に、知識の蓄積結果を燃料/根拠にした出力をその殆ど
として成立している表現物が多い。 特に、文字での表現物において、この
傾向が殊に強い。 知識を蓄積した場合、経験を蓄積することを待つまでも
なく、またその観察と解析に労力を消費することなく、表現の燃料/根拠と
して蓄積した知識を使いたくなる(出力したくなる)からであろうとおもう。 効率最優先、とはこのような状況を指すのかも知れない。 現代社会の状況
は、実に、効率最優先と言える。

自分以外の者の言説を自分の知識の一部であると捉えると、その知識でもって
自分の’もの語り’を埋めている者の、しかも、そこに自分の経験が垣間見え
ないことの不安(もしくは、自分の’もの語り’が充実していないことに薄々
気が付いていることの現れ)から自分のsentimentをチラチラと挿入して
ものを語る者の何と多いことか。 試しに、過去に誰かが自分と同じことを
既に語ったことを恐れず、引用を一切せずにものを語ってみるとよい。 これ
まで知識でものを語ってきた人間は何も出力/表現できなくなるだろう。

自分の経験の観察と解析の結果を基にものを語ることは簡単ではない。 先述
のように、先ず、語れるまでに時間が掛かる。 ひとりの人間がものを語る
ことを可能にする経験を自分のなかに蓄積するまでにはかなりの時間がかか
る。 更に、自分の経験を基にものを語ろうとする場合ただ長時間を生きて
経験を積めば’もの語り’が可能になる訳ではないことも、経験を燃料/根拠
にした出力/表現が少ないことの原因であろう。 経験は、観察され解析されね
ば、ものを語る際の燃料/根拠にならないのだ。

自分の経験を解析する、その解析法は訓練次第で身に付きそうな気がするが、
さて、他人に勧められたり知識の蓄積が迫って呉れるわけでもないその解析を
他ならぬ自分が始めるには、自分が無謀かつやや尊大な必要があるように思
う。 無謀というのは、これも先述のように、過去に誰かが自分と同じことを
既に語ったことを恐れない無謀さである。 また、ここでいう尊大とは、ヒト
はひとりひとりが互いに異なる存在であることを疑いなく信じているという
ことを指す。 先ずこの尊大さが在れば、上記の無謀が成立するだろうか。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2003年1月19日<日>17時22分)


(下からの続き)
またしても文字数多すぎて付け足し投書・下からの続き。 間抜けで厭やだ。

=====
今になって思うと、これまでの私は、除sentimentということを行う頭を
持っていなかった。 しかも、持っていなかった(自分では気づいていなかっ
た)くせに、試みていた形跡がある。 ただ、有り難いことに、除sentiment
できている生身の人物に心当たりがあり、昨晩読み直した書籍は、読み直した
ところどうも除sentimentに成功しているものであった。 その書籍(解説本
である)を読み直したのは、前に読んだときに感じた冷徹さが気になっていた
からであり、今朝になって除sentimentなどということを考えついたのは、
この著者による当該書籍の序章を読んだためである。

私が以前に書いた「I have no heart」が、除sentimentできている状況と
同じものを指している(これも、今になって気づいた)。 そして、先述の
著作に感じた冷徹さは、除sentimentに成功したものに感じられるものなの
である。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2003年1月17日<金>21時41分)


除sentiment
邦書の巻末解説とか、洋書のpreface、レコオドやディスクに同封されている
解説だのというものを私は大概、すっ飛ばす。 伝えたい内容は本文や音楽に
込められている、また、著作や楽曲にまつわる周辺情報は、自分でそれらを
味わった後に湧く疑問を基にして自分で探さねば、周辺情報を著作や楽曲へと
付随させることが出来ない(=周辺情報が直接に自分の知識になってしまう)
と考えているからだ。

本の類は、小中学生・大学一二年生の頃は、視界に入る題名が面白そう・どう
も人間の教養として押さえておくべき、などという判断の下に読んでいた。
気が付けばこのような読み方はもはや止めており、しかも、こうして読んだ
ものは自分の血肉になっていなかった。 首ならぬ気が据わってからの読み方
とは誠に高飛車で、自分の考え事を補助すると思える場合に読む、というもの
である。 スピノザも荘子もロックも、私が考えた事柄をより的確に定義して
いる場合があり、その定義(言い換えると、表現・言葉遣い)を拾いたくて
読む。

このような読み方をしているため、世に言う解説本・読本・二次文献・訳本
(訳本はここでは少々毛色が違うが)には、気に入るものがなかった。 それ
らの存在を軽視すら(ここでも、訳本には対象外のものがある)していた。
これらの著作が気に入らなかった理由が今朝、解ったように思う。 書き手の
sentimentである。 著者のsentimentの有無によって、解説本の味わいと
価値が大きく左右される。

解説本に求められることは、主題となるものにまつわる膨大な文献を読破
して、主題について解説する事である。 だから、その解説中に著者の思い入
れが読みとれてしまう(書き込んであっては論外)と、解説本として参照する
に値しないと私は判断していたようだ。 解説本の著者は高性能の計算機の
如く、自分のsentimentを判断の基準から外して、主題を解説して欲しいの
だ。 勿論、解説の主題が小説や人間、哲学や生命であると、除sentimentが
より困難になる。 計算機の構造やプロトコルを解説した本にあっては著者の
sentimentが著作中に入り込むことが簡単ではないから、適当な解説本が
難なく見つかる(同じ計算機本でも、物理的構造から外れてくると話は別)。

また、これは書籍に限ったことではなく、ウエブ上の様々な文章においても、
書き手がsentimentをどのように処理しているかを基準に私は、文章を読ん
での面白さを判断しているようだ。 半端な除sentimentにしか成功していな
い場合は面白くない。 除sentimentと格闘していたり、除sentimentなぞ
まるで頭に無い場合は面白い。 除sentimentに成功している文章は、媒体を
問わず、この世に少ない。 除sentimentということが頭に無く、無邪気に
sentimentを押し出せているものも案外少ない(著者の気づかぬところで
半端に除sentimentを行ってしまっている)。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2003年1月17日<金>21時40分)


stay mad
他人様というのは厳しいもので、調子外れの者が調子を取り戻しても、また、
生真面目な者が調子を外しても気に入らないらしい。 Richard Ashcroftが
結婚して子を授かった後にソロアルバムを出せば「"mad" Richard に向かっ
て後ろ向きに歩むべき」と評されるし、U2の連中が女装するやいなや「魂が
失われた」ということにされる。

パリでは変人に対する定義が存在しないように感じるが、ロンドンにはそれが
どうも、無言のうちに在るようだ。 宗教の影響がこの差を生んでいることと
は思う。 それにしても、ロンドンにおいて変人が変人を脱したと判断された
時にその者へと向けられる罵りや落胆は、どうにかならないか。 落胆してみ
せる者は、変人のことを変であるとしつつも賞賛しているのだ。

"cast no shadow" という程の疑変人がオンナを見つけて父親になり、その
立場からジンセイを語ったところで、聴衆が落胆する理由はない。 語らせて
おけばよいではないか。 自分の落胆を表明するための労力を、よかったネ
くらい言ってやる落ち着きへと、人間、変換できてもよさそうなものだ。 私
は、ロンドンで言うところの変人なぞ変人の範疇に入らないと考えている。
そもそも、変人なぞ居るのだろうかと思っている。

=====
Oasis / Cast No Shadow
Album: (What's The Story) Morning Glory? (1995)

Here's a thought for every man who tries to understand
What is in his hands
He walks along the open road of love and life
To find it if he can

Bound with all the weight of all the words he tried to say
Chained to all the places that he never wished to stay
Bound with all the weight of all the words he tried to say
As he faced the sun he cast no shadow

As they took his soul they stole his pride
As he faced the sun he cast no shadow

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2003年1月17日<金>02時04分)


夢の話・続々(これで一段落)・下からの続き
文字数多すぎて一本の投書にならず、下からの続きを付け足し。

=====
英語圏人の友人における「無」は、この世のあらゆるものにおいて共通なもの
であるように感じる。 珈琲が「無」いことも優しさが「無」いことも、同じ
状況として判断されている(「無」が繋がっている)ように見える。 日本語
圏での「無」は、言葉で表現できるものそれぞれにおいて固有(「無」が繋
がっていない)であるように思う。 珈琲の「無」さと優しさの「無」さは
異なるものであるとして処理しているように見える。 そのため、日本語圏の
「無」という状況を記述できたなら、ヒトにとっての発見になるのではないか
と考えている。

これで一段落。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2003年1月15日<水>23時32分)


夢の話・続々(これで一段落)
個体の大きさが大きければ大きいほど、その個体の殺生に対して感傷的になる
かも知れない。 だからといっていきなり大腸菌もどうかと思うが、実験に使
おうと思って大量に増やした/増えて貰った菌を使うことなく殺す(捨てる)
と、不思議かつやはり、不快なものであった。

=====
この頃は、次のようなことを前提/仮定として物事を考えている。

*時間が経つことを根拠として、ヒトが観察/認識できる全てのものは変化
しているといえる。
*恐らく、ヒトが観察/認識できるもののなかには、そのものの存在する根拠
を問うても答えが無い、と断定すべき・断定するに値する事物がある。
*ヒトはまだ、「無い」という語の示す内容を十分に検討できていない。
*ヒトには何でも知りたがるという傾向がある。 「知る」ことで、自分の
存在を認識できるからかもしれない。

=====
時間が経つことを根拠に据えることができれば、この世の全ては時間のお陰で
変化を起こしていると考えることが出来る。 しかし、時間任せの変化の中に
自分が位置するだけではヒトは自分の存在を認識できないので、自分から他に
働きかけて他に変化を起こし、その変化に自分が加担したことを根拠に自分の
存在を認識しようとする。

自分の存在を認識しようとする過程で、自分が起こした変化を把握する際に、
その変化の内容と何か他事とを置換できると、自分は、「快」とか「納得」と
いう結果を得る。 その変化の内容と置換できる他事が見つからないと、
「不快」や「十分に納得できない」という結果を得る。 「快」の信号は、
存在を認識しようとした自分の姿を気分良いもの・認識できるものとして
眺めることであり、「不快」はまた、自分の姿を気分の悪いもの・認識し難い
ものとして眺めることであるといえる。

ヒトが何でも知りたがるという傾向はこのように、「快」も「不快」も生み、
「快」も「不快」も生む環境を指してヒトは「自然」とか「世界」とか呼ん
で、この「自然」や「世界」を、足りないもののない環境として捉えている
ように思う。 ゲエムという環境での殺生が「快」ばかり、動物実験という
操作での殺生が「不快」ばかりを生じたのだとしたら、これらは、「自然」や
「世界」と比して不足のある環境といえるのかもしれない。 大腸菌を使う
実験は、「快」も「不快」ももたらしたので、もう少し「世界」や「自然」に
近いと考えられるかもしれない。

ヒトが自分の存在を認識したくて起こす変化の他事への置換という作業は、
常に成功するわけではない。 失敗の原因は、置換作業のために用いられる
他事(自分以外のもの)のなかに、そのものの存在する根拠を問うても答えが
無いものも混在していることだと考える。 答えのない事物を他事として選択
すると、置換作業が成功しないのだ。 「答えがない」という状況をヒトは
まだ十分に記述できていないために置換作業が成功しない、とも言い換えられ
る。

ヒトが「不快」を避けるには、何でも知りたがる=自分を認識したがる傾向を
軽減するか、または、「無」という状況を今までよりもしつこく記述・説明
する努力をするか、という路があるように思う。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2003年1月15日<水>23時30分)


大見得・大風呂敷、はたまた大法螺
こんなことをやりたい、ということがひとつ、みえてきた。 「みえてきた」
ことは、何時でもぼけーとしてのそーとしている私にとって、かなり画期的な
状況なのだ。

=====
ある人が日本のことを知ろうとしたり考えようとした時に、参考となる書物
を著したい。 日本のことをよく知らない人に日本のことを知って貰いたいと
思う。 そうやって外部の人に知って貰うことによって、日本もまた、自らの
世界における位置や性質を認識し直せると考えている。

書物で論を展開する際の鍵は、笑いという人間の反応にしてみようかと思う。
笑いという反応は、感覚・認識可能な事物に対する人間の様々な反応の内で、
何故にその反応が起こったかを解析することが最も容易なものだという気が
する。 その笑いにまつわる考察を重ね、そこから日本の姿を読み手が抽出し
想像することを可能とする構成の著作にできないかと考える。

論考を著作にまとめることは自分の仕事であるとしても、できることならば、
何名かの論考の混合が一つの章(論)になったものに仕上げたい。 論毎に著
者が違うのではなく、ウエブ上での文章の単語にリンクが張られている様子に
むしろ近い。 リンク先にしたい人物の心当たりもある。 共著、とは違う。
今までに自分が接してきたよりも見事な文献の引用をしたいという色気か?

最低限(それにしては膨大なことになるだろうが)この著作に用いる日本語の
引用・参考文献が、この著作と同じ言語へと翻訳されていることが望ましい。
現時点で予想される利用文献の日本語のものは、まだ日本語以外へと訳されて
いない。

原著での使用言語は英語か仏語。 多分英語。 書いてある内容を検討する際に
日本語へと翻訳する必要がない、ということが選択の理由。 ここにアラビヤ
語やイタリヤ語も追加できるのであれば、この節の冒頭は「英・仏・伊語圏の
人々ならびにアラビヤ語圏の人々が」となるだけのことである。

=====
この著作を書き進めることによって、この世に存在する権力や、この世で猛威
を振るっている経済の動きに対応する自分の位置を認識したい。 また、この
著作のための論考を進めることで、日本と自分のことを今よりも理解した気に
なれないかと考えている。 認識できるかどうか、理解できるかどうかは判ら
ない。 死ぬまでにどこまで進められるのかも判らない。 そのような内容に
ついてこうして書くことは、この仕事における最初の一歩のつもり。

上記における「笑い」の部分は可変である。 可変だが、これまで私はここの
部分に何を使ったらよいのかを考え続けていたように思う。 著作云々とこう
して愚を晒す気になったのは、可変・未知の部分に「笑い」を持ってきては
どうかと考えついたからだ。 「食事」や「文学」などがこの部分にこれまで
は当てはめられて来ていたように思うが、これら人間の個体と分離した事物
ではなく人間の反応を中心に論考を進めたならば、著作において主張したい
内容を読者には自分の身の上のことのように味わって貰えるのではないかと
考えている。

=====
このような仕事と、あとひとつ(こちらの構成要素はまだ十分に思い描けて
いない)くらいをこなすと、「・・とは何か?」(これまでにも始終唱えて
きた大疑問・余りに話が大きくなるのでここには書かない)という問いに答え
るための鍵くらいは思いつけると予想している。 甘いかも(予防線)。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2003年1月15日<水>07時40分)


道化
さて、道化である。 人間を笑わせてくれるものを、もっと探してみようと思
っているのだ。

この数年の欧州でのサアカス競技会には、美しさもしくは技術の高さを追求
している参加者を多く見かける。 舞踏・新体操・劇場での喜劇・手品が曲芸
(サアカス)へと随分取り入れられ、区別が付かない場合もあった。 パリで
は、オペラと曲馬(サアカス)を組み合わせた公演の試みもあり、競技会同様
に美しいものを眺められる。 そのような状況下、サアカスの一部である笑い
を誘うものものは、それが伴っていると手品ではなくサアカスなのだと認識
させるための標識の如き役割でこそあれ、演目上で欠くことの出来ない存在と
は言い難いものになりつつあると感じる。 笑いとは、気に留めておかねば
すぐに忘れてしまうものなのだろうか。

チャプリンの1921年公開作品 "The Kid" の冒頭、画面には、"A picture
with a smile and perhaps a tear" と読める。 道化の持つ笑いと涙とは、
人間の手に負える範囲内の分量や強度に収まりつつ、観客の日常的な笑いと涙
の分量や強度を超えたものであるから、接する者の笑いと涙を誘う。 しか
も、道化に接する観客の満足に最も近いのは笑いと涙のない交ぜになった反応
であって、笑うだけであるとか涙するだけのものではない。 大きな頭や鼻、
靴といったものが、道化は観客の常を超越したものであることを示している。
笑いとは、何事かにおいて平均値から外れて行かねば得られない反応なのだ
ろうか。

余裕と異常が、笑いをもたらす。
(簡単に続かないので、とりあえずここまで)

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2003年1月12日<日>04時05分)


(下記への付け足し)
下記に付け足し。

快感・満足感を否定する方が、不快感・不満足感を否定するよりも容易で
あり、また、不快感を持つ自分を肯定するほうが、快感を持つ自分を肯定する
よりも容易だ。

他者を殺して「快」か「不快」か、結局は二者のバランスの問題、などとこの
次に書きたくなるものだ。 バランスの問題なのだとしたら、快・不快の釣り
合い/傾きは、何が支配しているのか? 私が不快から脱せなかったのは、何故
なのか? 戦闘ゲエムで得る快感について疑うことをさせない原因は何か?
何度看取っても「慣れない」・何匹使っても「慣れない」のは何故か(慣れる
可能性は大いにありそうなのに)?

(やはり)報酬・見返り・成功・自分の安全/安定、か?

実現がより困難な不満足感の否定であろうと報酬や見返りが存在すれば挑む、
快感を持つ自分を肯定することに報酬や見返りを見出せれば、納得する?
不快感を持つ自分を肯定したところで明らかな報酬・見返りには気づかない
から、ヒトは、不快感を抱いたままなのか?

不快感の納得は簡単ではない。 似て非なるものをもって不快感の代理をさせ
て満足感に変換したように処理せねば、納得されない。 食わず嫌いは存在する
が、食って嫌いだったものが好きへと転じることはない?

ヒトの行動は、「不快を避け、快を求める」。 どちらかだけ、ではない。
敗者は戦時の殺人を肯定できず、勝者は「何人もなぎ倒した」と自慢話、か。
やたらに月並みな話になった。 そんなものなのだとおもう。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2003年1月11日<土>20時19分)


夢の話・続
近頃、仕事やちょっとした話しででも私は相手をやっつけると形容できる
(またはそう感じる)ことを好めないことにやっと気づき、何故にこれほど
naif(実に、アホ莫迦間抜けの意味であり、日本語でいうナイーブ=繊細と
いう美しい解釈ではない)なのかと考えた。 それが先日、実験動物だの動物
実験施設の登場する夢を見て、成る程自分のこの間抜けの原因は動物実験に
あるのかもしれない、と思った。 自分は少し、楽になった。

動物実験はキツかった。 ヒトの死を多く看取ったいう医師が、何度接した
ところで死というものは「慣れるものではない」と主張していたが、病んだり
傷ついたりして治療目的でやってきて自分と出逢った末の期待されない死に接
したわけではなく、そこで出逢う場合は殺す将来が決まっている実験動物を決
まっていた通りにやはり殺したということは、キツかった。 飼っているとき
から、キツかった。 あれほど一生懸命に動物を使っても、キツかった。 罪悪
感、と自分が感じるものは、このキツいという感じとは異なる。 酷いことを
したとも、動物実験は止めよとも思わない。 ただ、もう、やりたくない。

戦闘ゲエムをやっていると画面上で相手を倒したときに快感を覚えるという
ことから、「事情さえ許せば他人を殺戮することで満足を得る本能が深く刻
まれている」のではという主張がある。 しかし私は、自分のことを参照する
と、この主張には同意できない。 私は、戦闘型ゲエムで他人を倒すことに達
成感・快感を感じない。

実際の戦闘で敵を殺した兵隊が後に精神のバランスを崩すこととは、戦時には
「事情さえ許せば他人を殺戮することで満足を得る本能が深く刻まれている」
と自分が思い込んだことのしわ寄せが後にやってくることなのだ、とさえ私に
は思える。 それで、出逢った相手(私の場合は実験動物・兵士の場合は敵)
は殺すと決まっている状況で決まっているとおりに相手を殺すと不快、という
不快感もまた本能的であると感じる。

戦闘ゲエムで相手を倒すことで得られる快感とは、先述の実戦兵士の思い込み
とは違って、より本能的と感じられる類のものであることは想像できる。
が、この「本能」感は疑う余地なく本能的なのであろうか? この手の快感を
本能的と信じるからこそ実戦兵士の思い込みが成立したのであって、実にヒト
は他人を殺すことで満足を得るのであれば、戦地から引き揚げてきた者は爽快
な様を見せるのではないか? 戦の手柄を大いに吹くことが可能なのは、実戦
兵士の思い込みが破綻していないから、つまり、疑「本能」感を信じ続けて
いるからこそ、とは考えられまいか。 我々はもう少し、自分の本能的なもの
について(妄想でなくて)実感(もしくは、痛感)する、それが難しければ
自分の下している判断を疑ってみる必要があるようにおもう。

http://med-legend.com/history/history19.html
(上記サイト『医学都市伝説』の2002年12月18日分日記が、「やはり人間
の(少なくとも私の)脳には、事情さえ許せば他人を殺戮することで満足を
える本能が、深く刻み込まれていることは間違いない。」という主張の出元)

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2003年1月11日<土>11時21分)


夢の話
先日に続き、夢の話を残しておく。 故人のことを思い出すことは供養になる
ようだと勝手に思っていることとは、ヒトばかりでなくて他の動物にも適用
できるような気がするからだ。

私は大学の一室に設けられた狭いところで、実験動物として白いウサギを何羽
も飼っていたことがある。 当初、この部屋の環境は劣悪であったのだが、
せっせと手を入れて、ウサギ諸君には「食物を呉れるひと」として認識して貰
えるようになっていた。

=====
夢には、そのウサギ部屋が出てきた。 自分の手入れのお陰で、かなりきれい
な部屋であった(記憶にある実際のものよりもきれいだった)。 ああそう
だ、ここでウサ君を飼っていたのだと思い出し、ではエサをあげようと思った
瞬間、ウサギだと思っていた動物が白いマルチイズ犬であったことに気づい
た。 ウサギでは高いところから飛び降りることはないだろうに(現実世界で
はウサギこそ飛び降りるかもしれない)、犬では楽に降りていってしまう、と
思った時はもう遅く、白い犬はオリから出て行ってしまった。 去るところを
見るまでもなかった。

ウサギならぬマルチイズ部屋があったのは自分の記憶にある大学ではなく、
とにかくもっと整っていて清潔で明るい施設であった。 それで、飼っていた
動物が逃げたと上司らしき人物に告げると、これから建物の出入り口を塞ぐ
という。 全館自動電化されていて、慌てて複数の扉を閉めようとするのだが
何故か私は犬(犬であったとは思いつつも、どうもウサギであったことを
諦められずにいたが)はもう、研究施設の外へ出て行っていることを知って
いた。 感染源になるようなものを与えていなかったし、繁殖して妙な生き物
を出現させそうな連中ではなかったが、実験動物が施設の外へ出たとなっては
「食物をくれるひと」であった自分は、現状維持というわけには行くまいと
思ってやや焦った。 が、ウサギ(犬)対してには、よかったネと言いたい気
でいた。

=====
いやいや、念のため書いておくと、私が関連した現実世界での動物の利用に
おいて、実験動物がオリから逃げたことはない。 とはいえ、生命科学の研究
施設で、動物を外に逃がしてしまったことのあるところは存在する。 新聞で
の報道もあった、と記憶している。

ウサギはやはり、外へ出たかったのだろうとおもう。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2003年1月11日<土>03時54分)


道化(意味合い調査・考察編)
風呂に入っていて突然、道化というもののことを思いついた。 何かに対して
笑えることは人間にとって快い(恐らく、快いから笑う、とは言えない)、と
考えていたからだろう。

=====
ふざけることを「おどける」とも言う。 最近では字引代わりになった日本語
入力ソフトウエアでは「戯ける」と変換する。 「戯ける」は、『広辞苑』に
も見つかる。 ところが私は「おどける」は「お道化る」と書くのだと思って
いた。

『広辞苑』は、便利に使える書物だが、そこに書かれていることを発端とし
て考えを巡らせる出発点の役割を果たさない(なるほど編者は冒頭の自序で
自らの学歴から話を切りだしている)。 考えさせられるものはと言えば
白川静氏の著作で、道化について調べようと思ったときに開いたのは
『字訓』だ。 どうけを道化と書くのは当て字だと感じたからだった。

白川「字書」三部作のうち、『字訓』は和語を解説した書であるとも言える。
「戯ける・おどける」という項目は、この書には無い。 「たはぶる・戯」
とある。 ふざけることを「たわむれる・戯れる」ともいう。 『広辞苑』に
よれば、「おどける」は「おどく」から来ており、「おどく」は「オホドク」
からの「転」であるという。 広辞苑で行き着けるのはここまでである。
「オホドク」とは何のことであるのか解らぬ。 「おどく」の項に説明文が
あり、「おおうようにかまえる」「常識はずれ」などとある。 この説明をも
考慮すれば、『字訓』に見つかるところの「おほふ・覆」「おほ・大」が
「おどく 」の源であるように思えてならない。 ふざけることを指して
「おどける」という時に「戯」の字を使うのは、「たはぶる・戯」という
状況と、常識外れという意味合いの「おどく=おほ(大)どく」が、どこか
で混合したのであると考える。 よって、「おどける・おどく」は、「お道化
る・お道(化)く」と表記した方がよさそうなものだ(因みに、「おほ・大」
は広大・尊貴の含意があるため、ふざけることを指すのに使うことが躊躇われ
たのではないかと思う)。

=====
どうけることを「道化」ると書くことに深い意味は無いと思われる。 「道」
という字が、神聖なものに付ける「み」と方向を表す「ち」を指すことから、
ふざけることを指して「道」の字を使ったとは思えないからだ。 そこで、
今後は、ふざける「おどけ」のことを、ケタ外れ・常識外れ(「おほ・大」)
なものという面から考えてみる。

==========
先に「『字訓』は和語を解説した書」と書いた。 日本人である自分がこの
書から語を検索する際に、訓から探せないで漢字の音読みから目当ての語を
探す様の間抜けさを、ちょっと、他の人にも実感して貰いたいと思う。 この
書物を使うことで、自分の出自とは何を指せばよいのか、考えさせられる。

Name : ばん まい Mail : ima19@usa.net Time : (2003年1月9日<木>23時58分)


人集めを担当したい
粘土細工のような人形を使って撮られた短編映画を観た。 そうしたら、その
後で、その映画に影響を受けた夢をみた。

=====
高層住宅に住む黒縁眼鏡に七三分けの無表情で冴えない男が居て、家では卓球
のラケットにゴムでボオルを繋げたオモチャで、ゴムをびよんびよんさせなが
ら独り遊びなぞしている。 この男が隣家のグラマアな女性に恋をして、ある
時、意を決して、ピザとプレゼントを持って彼女の家を訪ねて行く。 扉の前
で呼び鈴を鳴らすかならすまいかともじもじしている内に女性は家から出て
きてしまうのだが、不気味な沈黙の後、場面は男の家でピザを食べ終わった
ところへと移っていた。 自宅にやってきてくれた女性を接待しようと男は
あれこれ手を尽くすも裏目に出て、困った末にトイレで気力の回復を図る。
グラマアな彼女は、男がトイレに入って出てこない時、びよんびよんの卓球
ラケットを発見、何度か独り、びよんびよんさせてみる。 男は出てこようと
したトイレの扉の隙間からその瞬間を見たが、直ぐに彼女はそのラケットを
つまらなそうに放って、赤いハアトがくるくる回るというその男からの贈り物
のオルゴオルを部屋に残したまま、去ってしまう。 男は落胆と共にトイレ
から出てくるが、少しして彼女は、新品の卓球のラケットを手に戻って来た。
かくしてトイレの扉は卓球台となり、男は自分のラケットからびよんびよんを
取り外し、外したボオルで彼女と夜遅くまで卓球を楽しむ。

=====
夢では、どうも自分が映画を作っていたようであった。 とはいえ、演技力
も芸術的才能も乏しいと自覚できているとみえ、制作責任者というものか、
総指揮とでも呼ぼうか、自分は、役者や監督、舞台装置、台本、機械回りなど
それぞれの担当者をその映画製作のために連れてくる役割を果たしていた。

世の人に笑って貰えるような映画を作ろうとしていて、ちょうど予定していた
撮影が全て終わって、撮ったものをざざと流して観ていた。 観ていて、自分
で笑えた(多分、本当に笑ったとおもう)。 笑えるものを作りたいと考えて
役者はアメリカ人を使ったのだった。 自分で笑えたから、これはまずまずの
出来ではないかと思った。 「やはり、笑えるものはアメリカ人に協力して
貰うとできるねぇ。」などと(何語で喋ったか不明)撮影スタッフと話した。

=====
短編映画では、他人事?ながら、冴えぬ男のことが心配でならなかった。 彼
の大好きなびよんびよんを彼女が床に放った時には、かなり落胆した。 その
結末が笑えるものであったので、笑える映画はよいと思ったのだろう。 自分
では、重くて堅い映画ばかり見に出掛けているのだが。

ある物事の創造のために人を連れてくる/集めるという役割を、担ってみたい
と思っている。 億万のカネが手に入ったら「すごく働く」という考えは、
この頃にあっても変わっていない。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2003年1月8日<水>08時11分)


精確に書く/描くということ
欧米の物事のアルファベ綴りで、LなのかRなのかを確認したくなることは
多い。 間違って覚えている場合もある。 しかし、ちょっとした蘊蓄を語って
いる中で、その蘊蓄の対象の表記におけるLとRが間違っていたら、その蘊蓄
は、間違いを含んだもの、ではなく間抜けなものに読めてしまう。 また、
将来の新しい商売/取引/流通の形態を把握しようとして綴られた文章の中で
七千部製造された品物を販売する場合を考えている際に、店舗数を一万件と
想定して販売店一件当たりの利益を試算してみせてあれば(品数を販売店数が
上回るという仮定が計算を無意味にしている)、その筆者一人に目指す把握
作業を任せておいて大丈夫なのだろうかと感じてしまう。 なかなかの蘊蓄に
読めるからこそ、また、狙いどころの面白い文章と思えるだけに、これらの
間違いは残念なのだ。

間違いは誰にでも、何についても、在る。 しかし、その間違いが邪魔を
して、伝えたいことが伝わらないことがある。 また、間違いと認識して貰え
ればまだしも、間違いのお陰で主張全体・主張者そのものが「なんだ、そんな
程度か」と軽視されかねない。 勿論、軽視されようとも主張したいことが
そううまく伝わらなくとも構わないという場合もあるだろうし、軽視や不通を
後に解消する機会もある。 それでも、折角何かを主張するのならうまく
伝わったほうが気分も効率もよいし、不必要に人間のことを軽視などしないで
済む方が快適である。

独りで働いていて他人との協力・協調を土台として主張を表明することを避け
ていると、主張内容の質を下げる要因に気づくことが出来ない。 表現物には
生命体ほどの自浄作用が備わっていないのだ。 残念な間違いを見つけてしま
うと、またしても、ヒトの能力とは自分達が想像しているよりも低いものなの
だと思えて仕方ない。 そうではなくて、能力が低いのはこの私くらいなので
あるとしたら、精確さに欠けることが残念と感じる表現物は、表現に対する
気合いというか思い入れというか執念というか、、、そういうものが不足して
いるのではないだろうか?

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2003年1月7日<火>04時47分)


wanderer
写真を撮る旅をしたい。 旅に出掛けて写真を撮る、とは違う。 写真を撮りに
出掛けるのだ。

voyagerという語もまた、verbe intransitif ということになっている。
これらの動詞には何故か(必要以上に)”あて=object”を見つけたく
なる。 intransitif な状態を放置したくないという傾向が我々にはある。
この傾向は、transitif な状況をより好む、と言い換えられるのかどうか。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2003年1月2日<木>02時05分)


どうもありがとうございます
当所をご覧下さって、どうもありがとうございます。

私は詩人ではないので、ここは他力に頼っておくとします。 同世代の呻き、
"mad Richard" の新作から(前半部分)。 、、、こういう調子で引き続き
お送りします。 今後もご覧頂けますと、嬉しいです。

=====
Richard Ashcroft / God In The Numbers
Album: Human Conditions (2002)

Sometimes you hold the world in your hands
Sometimes the world it baffles you with plans
Some days you drift oh so easy and free
Some nights you sleep in blissful harmony

How do we leave the wreckage of our lives?
How do you leave the past out in the night?
Don't throw away the pictures that give you a smile
Don't throw away the memories that make you cry

I saw God in the numbers
I saw God in the numbers
I saw God in the numbers
I saw God in the numbers

I know that I could learn a little harder
There's so much that I want to read and know
But maybe I'm a little lazy
Maybe I don't really want to know

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2003年1月1日<水>02時20分)


SHIROITA_archives/8ここまで