当所をご訪問下さってどうもありがとうございます。
しばらくの間当所を留守にします。 復活は23日頃の予定です。
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ナニに、ドコに価値を見出すか
私はどうも、アンチ(anti-・抗、という意味)最新鋭テクノロジとでも
呼べる考えがあって、最新鋭の事物をよさそうなものだと思えるまでに、時間
がかかります。 特に、最近の流行になってしまった--その流行は私には予測
できなかった--生命科学・生物科学の分野の関係者であると同時に、その
分野を「流行りもの」に導いた思想の根底に、常に懐疑的なのです。 昨今に
おいては懐疑的を通り越して嫌悪感さえ感じます。 ある文献には、次のよう
な記述があります。
遺伝子研究の究極的な到達点は、分子における相違(遺伝子的相違)と現存の
個体における見かけ上の相違との関係を見つけだすことである。
昨今のこの分野の文献では、「何のために」、つまり、その分野において
ナニに、ドコに価値を見出すかを表現したものといえば、上記くらいの不明瞭
なものがせいぜいです。 上記においては、”関係”の一語に、余りに多くの
内容が含まれすぎているから、不明瞭なのです。 ”関係”という語をサラリ
と使うことで、読み流しが可能で、書かれていることを納得した気にさせる文
章を構築することが出来ます。
生命科学・生物化学・遺伝子研究分野には今や膨大な数の者が関係していて、
その者の間に流通する表現物には、それらの関係者の多くに理解されるもの
であることが要求される場合が多いのです。 それで、現在の「流行」におい
ては、余りに浅い理解が根底にあって、懐疑や検証といった手間を省いて唯
何かしらの変化を起こすことのみが追求されています。 そして、そんな変化
の悉くを進歩とか進展とか表現することで「流行」は続きます。
読み流せないようなもので大いに結構。 「流行」に飲み込まれないように、
私は気を付けて行くつもりです。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年4月13日<金>22時58分)
(((下からの続き)))
私の理解では、le debat=「討論」というのは形式化した論の交換であっ
て、ここでの表現にあるように論を討つことといえ、その場には論駁とか論破
とかいう現象が起こり得ます。 当に学生のディベート大会などといって公開
の論交換をして勝ち負けだの優劣を付けることがあるように、この「討論」に
おいては、如何に自説を論理的に展開するか・論理的に展開して譲らないか、
また、時として対峙する者の論理の穴を衝くことまで要求されます。 この
「討論」において論駁・論破の目に遭わない為には、無矛盾に自説を展開すれ
ばよいのだと思います。 理論の面白さ・独創性・創造性のようなものは二の
次で、とにかく無矛盾さが完璧であれば「討論」は成立し、その続行に事欠き
ません。 その点で日本人にも無矛盾な論を展開できる者は多く、無矛盾かつ
相手の言うことも丸め込んだ論を展開することで、「討論」は成立しているの
だと考えられます。 頑として異説を飲み込まない仏人にあっても、その場で
の話し合いでは「討論」を展開していたと言えるでしょう。 「討論」では、
無矛盾な論を出し合うことが重要で、そこから相互理解を経て何かを生むこと
が期待されていないのです。 世の人が議論と呼ぶものでも、多くは上記の
「討論」が実体であるので、幾ら語り合っても何も生まない、終いには罵倒し
合うなどという結果になってしまうのだと思います。
ところが、la discussion=「議論」は、無矛盾なだけでは成立しません。 「議論」では、論の出し合いである「討論」から何歩か進んで、出し合った論
から・論を出し合ったことから、何かを生むことが期待されます。 ですか
ら、「他人が言ったことに対して異を唱える」だけでは「議論」になりませ
んし、むしろ、異を唱えて論駁・論破する必要などありません。 ある論に異
を唱えたなら、何故に「異」なのか、この意見の相違をどう処理・対処するの
かを提唱し、その差違を越えて何かを生みださせねばなりません。 つまり、
「議論」においては、 理論の面白さ・独創性・創造性といった事柄こそが重
要で、論の展開のしかたが無矛盾的であることは二の次になります。 ですか
ら、「議論」の際の独創的な論に於いては、論の内包する矛盾すらも味わいに
なります。 高飛車な言い方になりますが、充実した「議論」を交わせる人物
というのは、仏人だろうが日本人だろうが、そう、多くはないと感じます。 私が先の拙稿においてactive/positiveな論と言ったのは、論の交換の後に
何かを生む「議論」を成立させることの出来る論の様を指します。
論の内包する矛盾や稚拙さ、知識の不足までもを飲み込んで、まるで全てを
許容した上で成立するかのような論とは恐らく、明らかに独創的・創造的で
あろうなと思います。 無矛盾なことに魅力を感じなくなってきた理由が、
自分ではチラリと見えてきたように思います。
=====
最後に書いては何ですが、ここまで目を通して下さる奇特な方が、ご感想とい
うかご意見というか、、、まとまった文章にする必要もありませんし、一言二
言でも結構ですから、書き込みをして下さると、楽しい(=議論になる?)
と、思います。 このような場所に書き込むことにはチト思い切りが必要なの
ですが、ひとつ、如何ですか? メルで送って下さってもいいですよ。 何と
いうか、「議論」を体現したい、と私は思っているのです。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年4月8日<日>02時02分)
先日の拙投書active/positiveに関するコメントを頂戴しました。 次のよう
な内容でした。
他人の言に対して異を唱えるという行為は簡単なことで、それが個性とか自説
の表現の全てであるとは言えない。 それなのに、その行為をして自説の披
露・個性の発揮だと勘違いしている者は日本人以外にも居るのではないか。
自分の経験におけるフランスの大学での討論では、自分と異なる意見に対して
攻撃的で、「そうか、そういう考え方もある」と言ってくれたことがなかっ
た。 自説を論理的に論駁出来ないように普遍的に唱えることを追求したこと
がdebateの歴史であると私は考えていて、そのようなdebateにおいて、論の
展開を普遍的な方向へと持って行くことに関しては、先例の仏国での例のよう
に他を受け入れない者よりも日本人の方が長けていて、そのような論の展開の
しかたをflexibleであると思う。
=====
先日の、賃金に差を付けてまで求められる能力とは、独創性や創造性を発揮
する能力であろうと私は考えました。 この能力について別の言い方をする
と、何かを生み出す論を展開して「la discussion」を成立させる能力、とも
言えようかと思います。
la discussion、とは、英語で言うところのdiscussion、カタカナ書きでは
ディスカッション、以下では「議論」としたいとおもいます。 これと似ては
いるのだけれども異なるものに、le debat・debate・ディベートを挙げてみ
ます。 le debatを、以下は、「討論」とします。
(((上に続く)))Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年4月8日<日>02時00分)
私の同僚は「技術員」という役職名で、有能なひとです。 彼は自然科学系の
技術者専門学校卒で、昨今の”バイオ”系の実験操作の数々に長けています。
実験操作のために手が動くだけでなく、学術論文を検索・読解し、実験結果を
評価します。 この人が通常に仕事としてこなしている事の数々を考えると、
私には、何故にこの人の賃金が博士学位保持者の2/3なのかと思えてなりませ
んでした。 博士課程を最小年間で終了した同年齢の者よりも彼のほうが遙か
に実験現場の場数を踏んでいて、意義あるまとまった結果を速く出すことが
求められる最近の自然科学研究界で、彼のような技を身につけた人物は即戦力
となりますので、貴重なのです。 それなのに、学位の有無は、賃金という解
りやすい評価形態の上に差を与えている。
学位がナンボのものだ、といって賃金の差を事実無根なものとして捉えるので
はなく、賃金に差を付けてまで評価すべき「チカラ」とは何なのかを考えて
みました。
そうこう考えてみているうちに、一つ、気が付きました。 技術者氏は、ゼロ
から始めることに困難そうだ、ということです。 条件・環境・材料が揃った
時の彼の働きぶりは、それは素晴らしいのです。 ところが、自分で条件・環
境・材料を揃えることを、そういえば、彼はやろうとしない。 仕事の話を
していても、実験結果に対して直接的な懐疑を抱くことはあっても、その実験
の基礎とも言える仮説や前提に対する疑問を呈することが、少なくとも我々の
間での話の中では、見受けられないのです。
技術者氏のこの状況を、何かに比して劣っているとか何かが欠落していると
は思いません。 実に有能な彼と差を持たせた賃金を与えるだけの人材とは、
断じて、ナンボのものか知らぬが学位を持ってま〜す、などという者ではなく
彼の有能さに加えて、懐疑心を抱ける頭を備えた者を指すのだと思うのです。
実に独創的かつ創造性に富んだ能力の要求が、賃金の差には込められていると
考えるべきだなと、私は考えました。 事実、彼と話をしていて、これまでの
仕事をまとめて学位論文を仕上げてみたらどうか、と言ってみたことがありま
す。 彼は、自分でもそういうことを考えたことがあるが、どうも躊躇する、
と言っていました。 彼の躊躇は、その後要に求されるであろう独創性や創造
性の発揮を睨んでのことだったかも知れません。 また、本当にこの辺りの
学位保持者なる者の賃金がその者の独創性・創造性に対して妥当なものか、
そして、学問だの研究に限らず、実に独創的・創造的なものに対して妥当な賃
金が分配されているのかはまだまだ疑問が多く残るところではあります。
この、研究界において求められている独創性・創造性の発揮について気付く
ためには、「議論」をしてみる必要がありました。 ここでの「議論」とは、
我々の仕事に関するもので、「議論」から何かを生むことが期待された話し合
いなのでした。 さて、、やっと「議論」の語が出たところで、続きは後日。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年4月7日<土>05時21分)
自分のことを省みれば明らかなのだけれども、日本で教育を受けた者に論理的
思考が備わっていないというのは、論理的に思考する素質が備わっていたか否
かの問題ではなくて、訓練が欠落しているせいであると思います。 ここで
いう訓練とは記述してみることです。 フランスでの大学入学資格試験には
哲学という項目があって、必須試験科目ではないのだけれど、論述形式の回答
を、4時間だかかけて仕上げるとか。 勿論、4時間かけて回答する能力が受験
者に求められると同時に、その回答を読み込んで、評価できる者が揃っていな
くては成立しない試験でもあります。 私の記憶にある頃からも日本で論述
形式の試験が登場しているようですが、学校のセンセイ方に、その論述回答を
読むチカラがあるのか、甚だ不安です。
日本人の書く学術論文や学会での研究発表、講演会などにある傾向として、
passiveでnegativeな表現なら得意、というものがあります。 昨今のネット
上で日記・つぶやきなどと称して(私も同様)自分の書いた文章を発表して
いる者が多数居る、そこでの傾向も同じです。 passiveでnegative、つまり
被害者的立場からの文句、「こうであったから気に入らない、ああされたこと
に腹が立った、こんなことがあって気分が悪くなった」と、また、禁制事項を
並べて、「こうではいけない、こうあってはならない、これはまずい、あれは
好ましくない」と、否定形で著述されている場合が多い。 これらpassiveで
negativeな記述・論述は、文章を書くのが厭でなければ、大概の者には苦労
なくできることだと思います。 日本で教育を受けた者に欠落している論述の
訓練とは、このようなpassiveでnegativeな文章を書き連ねる訓練ではなく
全く逆、activeでpositiveな記述をする訓練を指します。
「こうであったら気分がよい、あんなであったら落ち着いていられる、こんな
ことがあったらよさそうだ」「こうあるべきだ、こうしたらよかろう、これは
素晴らしい」という記述を理路整然と展開する事が、日本人にもできるようで
あって欲しいと思います。 一日に何百何千のヒットを誇るサイトの筆者諸氏
も、世に多くの読者を持つ著述業者諸氏も、ニュウスの横流しとぼやきのコメ
ントや、既存事実を否定したり批判する論にのみ甘んじていないで、是非とも
activeでpositiveな論述を展開して欲しい。 activeでposotiveな論を展開
することが意外に難しいことが感じられることと思います。 そんな難しさに
自分がブチ当たってみないと、いつまでも我々には論理的思考が備わらない
ままです。 現在自分が書き連ねている事柄は多分にpassiveでnegativeな
傾向があると位置づけて、今以上にactiveでpositiveな表現が出来たら、と
私は思っています。 実に現実の分析ができた上でのactiveでpositiveな表現
であれば自然と論理的なものとなるように思います。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年4月3日<火>23時25分)
更新が滞ったことへの言い訳を含めて、以下を続けます。
少し前にも書いたことがあったのですが、ここへ書き込みが出来ない事とは
私には、「物事について考えを巡らせていない」ことに等しいのです。 何故
に今週は「巡らせない」事になったのかと振り返ると、思い浮かぶことはそれ
なりにあるのです。
私は建てられてから随分経った建物に住んでいまして、その住まいのこと、
それも、電気とか水道といった「衣食住」のうちの「住」の項目に列挙されそ
うなことに対してかかりきりになることが多いのです。 工事を依頼したり、
建物の管理人と連絡をしたり、工賃支払いの手配、工期の確認、、、等々と、
唯でさえ要領の悪い私がこれらのことをきちんと片づけようとすると、結構な
労力をつぎ込むことになります。 それで、同時に、住居工事ではない仕事を
こなすとなると、これらの二項目に、かなりの「考えを巡らせ」ることになり
ます。 そうしてみると自然、ここに書き込みをしたくなるような事柄が頭に
上らなくなり、、、、、余裕の無い状況がいとも簡単に出来上がります。
世の中の人々がどれだけ忙しいのか、私には知り得ません。 昔の拙メルマガ
ジンに書いた人物---「私は忙しいんです」と、絶対に言わないという・なぜ
なら、この人物の忙しさ(暇さ)を、この人物以外の者には理解できないから
とのこと---の説にも尤もなところがあって、他人様の余裕の有無は、他人様
それぞれに応じて決まっているわけです。
ところが、そんな余裕の個人差を認識しつつも、今週のような「物事について
考えを巡らせていない」状況があると、昨今の世の中で様々な判断が即時に
下され、「じっくり」とか「ゆっくり」という語が機能していないことは、
世の人々に余りにも余裕がないからなのではないか、と思えてしまうのです。
フランスで紹介される日本の姿は、映画や文化遺産、最近では漫画や技術的
製品が支える素晴らしいものであるか、<<mizu-shobai>><<salary-man>>
といった事物が支える貧しいものであるかのどちらかです(双方を同時に紹介
することはある)。 「物事について考えを巡らせていない」状況は、ほんの
些細なことによって、いとも簡単に出来上がります。 貧しい日本の姿を紹介
しながら当地の新聞やテレビ番組が訴えているもの、qualite de la vie・
生の質、とは、「物事について考えを巡らせ」た結果、つまり、自分の中に
余裕を作り出してこそ、高まるものなのだと、私は思いました。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年3月31日<土>01時29分)
このところ、背の堅い装丁になった教科書類を眺め渡す必要があり、にわかに
勉強をするハメになりました。 それで思ったのですが、やはり、書物を読ん
で納得するような勉強は、後にできる。 後、というのは何も年寄りになって
から、という意味ではなく、何事かの後からでもこの手の文献読みによる勉強
はできる、ということです。 そしてまた、ひょっとしたら文献読み勉強は
積極的に後にしたらかえって、読んだ事が身に付くかもしれないとすら思いま
す。
では、何を先にやるか。
自分の例しか出せませんが、私は所謂「理系」の出です。 「理系」に進んだ
のは、若年の内に実験で手を動かしたり観察の類を多く経験しないと、その
実験や観察を根拠にしている事柄が理解できない、そして、学校という場所が
あって実験や観察に必要な特殊装置や道具を揃えていて使わせてくれるのな
らば、そこへ行って使うしかない、と思ったからでした。 運動会系のクラブ
などでは「理屈を文章に読むより先ずは躰を動かして、運動は体で覚えろ」
などと先輩に言われる事がありました。 私の「理系」選択もそれと同じこと
が頭に上った結果でした。
実験や観察を体当たりで行って体感することとは、自分の中に疑問や発想の種
を取り込むようなものだと思います。 十分に実験や観察(それは、「文系」
においても存在する事柄だと思います)を行って、そこから沸いてくる疑問に
応えるべく勉強し、そこから浮かんでくる発想を固めるべく討論を重ねる。
そうやって自分の「知」を確固たるものにしてゆくのは、悪くないという気が
します。 そういえばその昔教育実習なるものに取りかかっていたとき、血管
のしくみについての授業をすることになっていたので、話を始めるときに、
自分の腕なり手なりを御覧、と言ったらかなりの数の子どもが仰天して、
「腕観なくても、教科書に書いてある」と応えたので此方も仰天したことが
ありました。 実験・観察・追体験から入って居ない者の姿が、そこにあった
のだと、今にして思います。
書を(とりあえず・ひとまず)そこに置いて、顔を上げよう、外へ出よう。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年3月28日<水>05時12分)
市井という語には昔から、如何にも隣から直輸入した語だという感じがありま
した。 巷というよりもヒトの集まりを明らかに指しているようで、しかし、
その語の現代での使われ方においては、如何なるヒトの集まりかという指示が
含まれていないように感じます。 輸入の後に、そもそもは付随していた
「邦」によるヒトの集まりという意が削がれたように思え、そのような指示が
ないように感じられるから、私にはいい響きがあります。 以下は、そんな市
井の二氏について紹介するつもりで、市井とは言っても現実的にはネット上で
見つけた二氏ということなのです。 しかし、ネット上で、とするとこの二方
の味わいを上手く助けていないように思うのです。 以下、上段は各氏サイト
のトップ、次段は私の好きな文章です。
北林達也氏
http://www.coara.or.jp/~baika/index.html
http://www.coara.or.jp/~baika/karasima.html
岩瀬浩太氏
http://www1.odn.ne.jp/cam22440/
http://www1.odn.ne.jp/cam22440/oma-3.htm
恐らく今から数十年前には私のような若輩者の身近にこのような、ヒトの
智慧を備えた方々がいらして、我々は如何に生き物然として存在しようかと
いう疑問を投げて下さっていたのだろうと思います。 これらの「野」人とも
呼ぶべき(その生息場所に土着的であるということと、身近であるということ
そして、気さくであるという点において「天」から頭ごなしにものを語って
いない、という意)智慧者方は、古における「この世の諸物は四元素、即ち、
火・水・風・土から成っている」という説のように(勿論、現代に於ける両氏
の御説は斯様に突拍子もないものではない)、後続の者の興味をかきたてる、
思考の種の如き論を論理的に展開し、ヒトの知を自発的に鍛える役割を担って
いるのだと私は考えます。 ご自身について「自分とは何者か、自分の思考の
根拠とは何か」を追求して、針の先端に向かっているかのような両氏ではあっ
ても、その追求に閉鎖の様はなく、余りに深くご自身を追求するが故にその
論はむしろ、宇宙を形成しているようでもあります。
昨今のキッズ達(註)においては、古来のような物理的生息場所への土着と
いう傾向が無いのであっても、ネットという現代の市井でこれらの先人の
論に触れられる。 自らにまつわる歴史と民俗に関する事柄を、かつては各自
の生息場所にあった共同体の内における追体験で認識していたように、この
電算機網上で追体験することによって同様に認識できそうだというわけです。 学識で肥えた若者は従来のやり方でどうせこれからも大量生産されるだろうか
ら、上記二氏のような人物の心意気を感じ取れる若者の出現を期待、いや、私
は、そのような、智慧者としてこの先生きて行ける若者の現存を確信している
ので、どこかにひょっこりと姿を認識できないものだろうかと願っています。
(註)キッズ達、という語は、'90年代半ばに存在した(今も?)愉快な
喋りバンド・スチャダラパーの1995年発表のアルバム『5th WHEEL 2 the
COACH』のタイトル曲の出だし、「ハイハ〜イ注目、キッズ達、、、」と
いうところから引っ張ってきてみました。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年3月25日<日>23時38分)
LEWIN氏の手による先述の教科書で、現在出回っているのは2000年発行の
『GENES_VII』つまり第七版でした。 カッコウよすぎるほどにconceptualな
イントロが、平易単調な教科書の冒頭と化していました。 この手の教科書は
最新の研究成果をも盛り込んだ内容であることを求められるので、1987年
当時のイントロでは概念的・哲学的過ぎて、最近の実用を好む風潮のなかに
あっては格好が付かないとでも考えたか?? やはり、1987年くらいでは、
まだ遺伝子研究は前衛的だったのだろうな、、、、、。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年3月23日<金>04時40分)
自分の理解不足は追々詰めて行くとして、微に入り細に入り「生命科学」の
分野で扱っている事物を捕らえようとすると、どうしても、何だかちっとも
わかっていない・本当は何も理解できていないようだ、という感想を自分に
対して抱きます。 表題の三語を、教科書や最近巷に溢れているであろう用語
集の説明に読むと、それらの説明はこれらの語が指すものを理解させる目的で
付されている訳ですから、その目的通り、「わかったような気」になれます。 この「わかったような気」を土台にして、これらの語が絡む現象を理解しよう
とすると、いかにこの土台が頼りないものであったかに気づきます。 「わ
かったような気」の土台のもろさに気づいていないのか、それとも実に「わ
かっ」ていてるために前進できているのか、これらの語を使っている人々の土
台の様子を覗いてみたい(覗いたからどうだ、というわけでもないが)。
こんな風に「わかったような気」が崩壊すると、とたんにこれまでは気にも
とめなかった教科書の類に目が行きます。 個体においてsystematiqueな
存在である生命に対してsystematiqueな解説を施すのは困難だなぁ、、、
などと(しかしこれまでもが「わかったような気」の引き出した感想である
とも言える)考えつつ、とにかく既刊書物を探しました。 唯一教科書として
頭に上ったのが『GENES』でした。 見つかったのはこれの第三版(1987)
でして、勉強フリイクには周知の事実でしょうが、この古い一冊を見て初めて
それがB. LEWIN氏(先に当所で同氏主宰のサイトwww.ergito.comを紹介
した)であることを発見、しかも、本文開始のところには、
E. SCHRODINGER氏の言葉が、「物理学を根拠にした法則に従い得ない
gene」と触れ、しかしこの書物は「cells obey the laws of physics
and chemistry」という見出しの項から始まっていました。 「わかった
ような気」の崩壊の後に、何かが積み上がる興奮を憶えました。
きっとこの他にも「わかったような気」になっていることは沢山あって、
しかも何だか、本だの文献だのを沢山読んで勉強フリイクをやっていると
「わかったような気」が蓄積しそう、、、などと、最後は不勉強な者の
常套句になってしまいました。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年3月23日<金>01時00分)
ひとの書いたものを読んでは、これは面白い・これは面白くない、とか、
これは独創的である・これには独創のかけらもない、などととにかく感想を
持つものです。 面白いもの、独創的であると読める人物の書くものは次々と
読みたくなるものですが、その他のものには自然と注意が向かなくなります。
また、ある時知人と話していて「日本では、目標は50年間でノーベル賞受賞
者30人輩出とか言うんだよぉぉぉ」と言ったなら、「そういうことをアホ
らしといって無視してはイケナイと思うのだが、いちいち関わっているほど
我々に時間があるとも思えない」などと返ってきました。
上記のような状況で、私達は、「優れたものだけを相手にしたい」気持ちに
基づいて行動・取捨選択をしているのか、と思いました。 「優れたものだけ
を相手にしたい」気持ちといえば私には、被害者めいた学生時代の思い出、
即ち、学校の教師が、当時の成績優秀者ばかり相手にした(質問を投げかける
とか、語りかける、例として言及する、など)様が浮かんできます。 唯でさ
え成績に於いて評価され得ないという現状に教師が追い打ちをかけたら学生は
卑屈になって当然(と、自己弁護しておく)であった、その追い打ちと同様の
根拠に基づいた行動・取捨選択を自分もまた、古の卑屈な精神を忘れて行って
いるのかと、自分のことをおもいました。
成績優秀者好きの教師と現在の自分とは何かが異なるはずだと自分では思いた
く、何が違うだろうかと考えてみました。 思うに、現在の私は確かに一見、
優れたるもの好きなのではありますが、そこで選択しているものは、そのもの
における「傲り」の無さであるようです。 つまり、幾ら理路整然とした正論
(整論、としたほうが適切かな)を述べているようでも、そこに「傲り」の
匂いがすると、私にはその論は魅力的ではない。 また、幾ら矛盾や稚拙な部
分を含んで居ようとも、「傲り」のない論は素朴にして魅力的です。 そこは
勿論、理路整然としていて且つ「傲り」のない、また、稚拙にして大いに
「傲」っているという論も存在します(註・ということは学生時の私は、学業
不振にして傲っていたのかもしれない?!)。
私はここ何年か、ヒトにおける「独自独創」とは如何なる事物を指すのかと
気になって仕方ないのですが、どうやら、「傲り」のないところにその「独自
独創」は見えてきそうである、という気がしてきました。 少し前進。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年3月21日<水>19時30分)
アマチュア、といえばどのような様子を思い浮かべるでしょうか? 日本語で
は、その人物をアマチュアと呼ぶ際の対象事物によって該当人物が給与を得て
居ない場合にをアマチュアとしているように思います。 仏語名詞でamateur
と言えば「愛好家」の意でして、昨今の英米での形容詞的語意とは異なり
ます。 更に、仏語amateurは、先述日本語におけるアマチュアの適用範囲(英米での形容詞的amateurと日本語での場合ではかなり似た意味合いと適
用範囲がある)とは異なり、職業人に対してもその業種のamateurである、
と使えます。 珈琲のamateur、野鳥観察のamateur、科学のamateurと
いうように使い、珈琲店経営者・動物保護団体職員・科学者に対してであって
も、それぞれがそれぞれの「愛好者」たり得ている場合にはそう、呼びます。
私はこのamateurという語が、人物の職業に関わらず「愛好家」として使わ
れるに至っている精神が好きです。 日本語で言うところのアマチュアの精神
なるものとはかなり異なると自分では思っています。 何だか日本のそれは、
断固として金を受け取らない、というような意味合いしかないので。 この
amateurと対照的意味を持つのはprofessionnel(le)ですが、こちらは、報
酬受け取りの絡んだamateur、つまり、対象事物に精通したamateurであり
かつその事物が報酬をもたらす人物を指しています。 そういう意味で、ただ
漠然と科学者をこなしているだけ・団体職員として登録されているだけ・珈琲
店を何となく経営しているだけではprofessionnel(le)とは呼ばれないでしょ
う。 日本語で言うところのプロフェッショナル/プロという語にも、この
ような意味合いはあるようです。
例によってイントロが長いのですが、この新聞記事
http://www.nytimes.com/2001/03/19/business/19MAG.html?searchpv=nytToday?ex=986029414&ei=1&en=1958663ffcf62dd8
を私が読むと、なるほどここは『Scientific American』誌のamateur度、
つまり、「愛好家」度が世に問われているのだなと思います。 記事中で言及
されているコラム名に使用のamateurという語が仏語でのそれに近いもの
なのであれば(該当コラム未読なので)、記事にあるそのコラム著者氏の
コメントの意味が理解できるような気がします。 同誌が、科学に対して似非
professionnelな記事を掲載し始めませんように!Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年3月21日<水>05時19分)
粥川さん、書き込みをして下さってどうもありがとうございます。 なんだか
奥まったところで卑屈にコソコソ公表していたものに対してご意見下さり、
とても有り難く思っております。
以下、「先ず感覚、加えて知識少々」という題を想定して書きました。
社会的な発言をする者に必要なものは「ものの見方」と「問題意識」である
というご意見、まさにその通りであると思います。 私が拙稿において「人間
性」として指したことと「ものの見方」「問題意識」とは同義です。 つまり
「ものの見方」や「問題意識」は、学識そのものや学識量の多さがもたらす
ものではないと私は考えています。
ある物事を自分の血肉として身につけるには、「先ず感覚、加えて知識少々」
が必要だと私は思います。 「ものの見方」や「問題意識」を自分の身につけ
ることにおいても同様かと思います。 ですから、「先ず感覚、加えて知識
少々」という時の知識とは、言語・音楽・絵画・触感等々、意志疎通のための
手段を知覚・運用する能力が備わっている、としても構いません。
粥川さんが例示して下さった書物の著者二氏は恐らく、「先ず感覚、加えて
知識少々」を全うした上に学識までも備わっているため、粥川さんに例示され
る程の作品を生み出したのでしょう。 私はそのような優れた表現を現実の
ものとしてお出での方々の学識上の背景にも目が行きますが、これらの方々に
あっては現在の学識的背景が無かろうとも、既に「ものの見方」「問題意識」
が備わっていたのだろうと思えますので、「先ず<<如何なる>>感覚を動員し、
加えて<<最小限どのような>>知識少々を基礎にして」それらの「ものの見方」
と「問題意識」を身につけたのだろう、と、考えるわけです。
現時点で既に無批判な宣伝屋であったり無茶苦茶な論理を振りかざしている者
へは、適度に牽制球を投げておくとして、私は「先ず感覚、加えて知識少々」
ということをもっと具体的に表現したいと考えています。 学校で寝ていよう
が如何なる学歴であろうが社会的存在として生存している者に「ものの見方」
や「問題意識」が備わっていないのは、「先ず感覚、加えて知識少々」という
ところ--もしかしたら「先ず感覚」の部分のみかもしれないけれども--それ
らが全く身についていない所へ来て、学識だけが記憶されているからだと思い
ます。
従って、無批判な宣伝屋・無茶苦茶な論理保持者諸氏が社会科学・人文科学的
なものの見方を身につけることとは、科学に対する「感覚」を先ず動員し、
加えて少々の「知識」を動員させることを学ぶことに等しいと考えます(この
時のXXX学、というところは何であっても、どのような組み合わせであっても
構わない)。 ところが、厳しくも、自分に備わっていない「感覚」を「知
識」で肩代わりすることは不可能だとも私は考えていますので、幾ら社会科
学・人文科学的勉学を修めることに努めても、「ものの見方」や「問題意識」
が身に付かない場合もあると思います。 ただし、この世のヒトそれぞれには
それぞれのやり方での「感覚」の動員の仕方があるとも思っていますので、
宣伝屋・無茶苦茶屋諸氏であれ、それぞれが無理なく動員できる「感覚」に準
拠した活動場所が見つかっていれば、きっと、無批判だったり無茶苦茶だった
りすることなく活動できるのではないかなどと想像します。
まだ書きたいのですが、本稿はここまでにしておきます。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年3月19日<月>06時27分)
ばんまい様、3月16日付の書き込み、拝読しました。気づくのが遅れて申し訳ありません。でも
できれば武田さんの掲示板に投稿してほしかった……。
ばんまいさんのおっしゃいたいことはわかります。僕自身のことを述べておくと、最終学歴は法
学部政治学科卒業なので社会科学を修めたといえなくはないのですが、お世辞にもマジメに勉強
したとは言えないので(日本の大学は4年間寝ていても卒業できるのです)、自分のバックグラ
ウンドが政治学かというと、ちょっとあやしいというのが正直なところです。
僕が科学記事を書くという仕事で駆使している自然科学の知識は、すべて本や取材を通じて独学
したものです。その過程でふと気づいたのです。科学技術が私たちの社会にどのような影響をお
よぼすかについて論じるには、社会科学、人文科学的なものの見方が不可欠だと。たとえば、遺
伝子組み換え食品を論じるさいには、それが食品として安全か危険かを論じるだけでは不充分で、
その社会的な意味、たとえばなぜ一般市民が望んだわけでもない遺伝子組み換え食品が突然市場
に出てきたのか、なぜその多くは農薬企業が推進しているのか、などを論じる必要があると考え
ています。
在仏のばんまいさんに説明するのは難しいのですが、日本の科学ジャーナリストのほとんどは、
無批判的に科学技術の宣伝屋になるか、その逆に無茶苦茶な論理で反科学をアジるか、どちらか
なのです。前者に典型なのは新聞の科学部記者で(例外はいます)、校舎に典型なのは、ベスト
セラーになった『買ってはいけない』の著者たちです。僕はそのどちらにもなりたくはないので
す。実際、武田徹さんとか斉藤貴男さんとか、科学技術を主な取材フィールドにしていないジャ
ーナリストが科学について書いたもののほうに、すばらしい作品がいくつかあります。(感染症
をテーマにした武田徹著『「隔離」という病』講談社、優生学の現代的復活をテーマにした斉藤
貴男著『機械不平等』文藝春秋、など。)
確かに僕の記述だと、社会科学や人文科学を修めている者ならば、みんなまともなことを言って
いると理解されかねません。もちろん、そんなことはありません。僕の書き方がまずかったので
すが、必要なのは「知識の量」と言うよりも「ものの見方」です。その結果として、知識も必要
になります。僕の場合、読書はもともと好きだったので、それまで読んで小説やノンフィクショ
ンだけでなく、社会・人文系の本でややアカデミックなものを意識して読むようになり、いまに
至っています。つまり僕の社会・人文系の知識は自然科学と同様、ほぼ独学です。だから非常に
不完全なところがあります。
さらにいうならば、社会科学、人文科学的なものの見方は、科学を取材フィールドとするジャー
ナリストのみならずジャーナリスト一般、社会的な発言をする者一般にとって、必要条件ではあ
っても十分条件ではありません。ばんまいさんは「無批判な者、無茶苦茶な論理を振りかざす者
に欠如しているのは学識や知識量ではなく人間性なのだ」とおっしゃっていますが、僕は本当に
必要なのは「問題意識」ではないかと思います。もちろん「欠如しているものが学識・知識でな
い場合、何であると言えるか」という議論は必要なので大いにしましょう。
今後ともご批判ください。では。Name : 粥川準二 Mail : kayukawa@jca.apc.org
Time : (2001年3月18日<日>18時27分)
私利私欲のみを追求する「私」が、その人においては滅しているという人物
が居ます。 そんな「私」が滅していればいるほど、同時にその人においては
自分はこういう人物ですと主張する「我」はしっかりしていて、会えば勿論、
その人物による文章を読もうものなら、忘れようにも忘れがたいものです。
そんな人物における滅「私」は、社会に於いて「私」とはなるべく主張し過ぎ
ないように自己抑制をかけておくべきものと考えて滅したものではなく、
「我」が大いに主張をすることによって(何故か)自然に滅し得ていると見
え、不思議です。 そして、幾ら滅している様子ではあれど、その人物に
おいて「私」は完全消滅しているわけではなく、「我」がまた、自分は片や
自己内部に抱えた「私」と闘うことしばしばである、と、主張しているように
も見えます。
ある人物が、そのように自然な滅「私」状態を見せ、そして自己矛盾をも主張
する「我」を備えている様は、とても美しいと感じます。 仕事でクッタリし
ていようともお腹を空かせて情けない表情をしていようとも、美しいです。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年3月17日<土>11時26分)
昨今の学術論文は図書館へ行かなくても.pdf形式のファイルをネット上から
落としてきて読めてしまいます。 印刷技術も向上して、写真を含む図表でも
細部まで見られます。 ネット上に見つからない学術雑誌に掲載された論文で
あれば図書館へ出向いて複写しますが、.pdfファイルを用意している雑誌は
日増しに増えるばかりです。 そのため、ネット上で見つからない論文の掲載
雑誌は従って図書館にも置いていなかったりして、特定の論文の複写を司書氏
に依頼します。 そうすると複写された論文がやがて届きますから、ますます
図書館へ行かなくなります。 そんな状況の中にあって(前置きとしてはかな
り長かったかな)、ヒトDNA塩基配列の解読に関する論文を載せた雑誌を、
雑誌の形で見てみました。
先に述べた、図書館不在の論文閲覧をしていると、自分が必要な論文や報道
しか入手しようとしませんので、彼の「ヒトゲノム」騒ぎの騒ぎようも、
遂にあの論文が出る!という雑誌社からの宣伝メルやネット上の動きから
部分的感知していたのでした。 それが、ここへ来て印刷された雑誌一冊を
手に取って開いてみると、その一冊に凝縮されていた騒ぎがペイジ毎に流出
してくるように感じました。 私には、この’ヒトゲノム解読’関係の報道
は、はしゃぎ過ぎだと感じます。 DNAの塩基配列を読んだということでは、
材料がハエでもペンペン草でもヒトでも同じ行為なのに、ヒトでの結果の
発表での大騒ぎは、私には白々しいくらいです。
このはしゃぎ様に代表されるように、ヒトがヒトの存在を有り難がり過ぎて
いると感じることが私にはあります。 この件を「はしゃいでいた」とは思え
ませんが、何のために何度も予告や宣告をしたのか、先頃、岸壁に彫られた古
い大仏像が破壊されるということがありました。 この破壊は残念だとも思い
ますが、仕方がないのだとも思います。 この爆破破壊とは対照的に、古い絵
画や建築物を、現代の様々な悪影響による崩壊から、最新の技術を持って救う
という行為もあります。 この、破壊と救済の様を並べてみると、一体何が
「よい」ことなのか、私には判断できなくなります。 ヒトの手による過去の
遺産を有り難がるか、気にもとめないか。 ヒトのDNA塩基配列をどのように
扱うか。
因みに、先に読んだ’はしゃいでいる’雑誌での特集記事冒頭は、
UNIVERSAL DECLARATION ON THE HUMAN GENOME AND HUMAN RIGHTS(下記サイト参照)のarticle 1で始まっています(チト情けない始
まり方だ)。
http://www.unesco.org/human_rights/hrcontent.htm
この項目で述べているように、ヒトDNA塩基配列をheritage of humanity
と見なして、それだけを主張する者には、大仏を破壊した者の気持ちは理解
できないだろうなぁ、、と、思います。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年3月16日<金>00時22分)
私の同僚も私も、「基礎研究」と呼べるような仕事をこれまではやっていまし
た。 ここでいう「基礎研究」とは、恐ろしく大雑把に言えば、目的に対する
解析を、遠回しな位置から行っている、とでき、それに対して「応用研究」
は、目的に対する解析を直接的に行っている、としてしまってよいように
最近、思っています。 「基礎」においては、XXXという蛋白質が疾病には
”重要な役割”を担っているとして、その蛋白質の性質を詳細に解析し、片や
「応用」においてはYYYという化合物が疾病状態の変化を引き起こす、その
効果発揮の様を解析している、という具合です。
上記「基礎」と「応用」の考え方には賛否両論あるのでしょうが、先の
同僚と私とでの話では、上記のように考えていた、、、ということで、以下
を続けます。
同僚曰く、目的(例えばが、疾病とは何かを理解すること)に対して遠回しな
解析を続けるのはもう沢山である・自分の仕事の内容が目に見えて用いられる
状況というのを味わってみたい、と。 それで、この人物は、”重要な役割”
の蛋白質などといって分子を崇めるのはもう止めたのだと言います。 勿論、
詳細な分子の解析を無駄だとか役立たずだとか主張しているわけではなく、
とにかく、自分は「基礎研究」は辞めるのだということでした。
そのむかし、建築材料の物性を研究対象としている人が居て、当に「応用研
究」(その人は、「実学」と呼んでいた)を行っているのだなぁと思えるよう
な仕事の話を聞かせて下さいました。 その人物曰く、自分の仕事が明らかに
現存する物質に反映されるので、仕事をやった手応えがある・研究などとは
称しても、この研究は思想哲学に裏打ちされたものという感じがしない、と。
これだけ書いてナニを言いたいのか、、、。
魅力的な事柄とは、実に移ろいやすいものなのだなぁ、、、と、思う訳です。
移ろいやすくても、その時々で自分にとって魅力的な事柄は確実に存在する
ハズ(または、存在して欲しい・存在した方がよい・存在するべき?)で、
その魅力的なことを如何に自分が魅力的と納得して現実のものとするか、が
その人のチカラに懸かっているのだなぁとも、思うわけです。 私は何を目指
しているかなぁ、、、、、考えると、結構、書き表せないものだったりする。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年3月14日<水>07時35分)
以下は、武田徹さんの掲示板(下記)にあった書き込みに対して書いたもの
です。 武田氏のところへ投書すればよいのですが、、、、何となく、拙所に
出しておきます。
http://www.tcup1.com/162/sinopy.html
===================================
武田さま、粥川さま、当所を御覧の皆様、こんにちは
私には最近殊に、「学問」「学術的知識」が人間に与える効用や影響には好ま
しいものばかりではないと思えて仕方ないのです。 それで、以下の部分の
粥川さんのご意見(11/3投書分)に対しても、
=====
僕と同じように科学技術を取材フィールドにしている書き手は何人かいます
が、社会科学や人文科学のバックグラウンドがない人は、無批判に科学技術の
“紹介屋さん”になってしまうか、その逆に、無茶苦茶な論理で反科学をアジ
るかになっているようです。
=====
何のバックグラウンドがあろうとなかろうと、「イケている奴はイケている、
ダメな者はダメ」と、言いたくなります。 つまり、社会科学や人文科学の
知識が豊富で、多くの書物を読破していて、「学問」に造詣の深い人物であっ
ても、その人物の思想とそれを表現したものが論理的で筋が通っているのかと
いえば、そうはいえない、と思うのです。
「XXX学やXXX学のバックグラウンドがない人は無批判的だったり無茶苦茶
な論理を備えている」としては、仮に私が年齢的思想的に将来性のある(=
柔軟な)若者であったなら、ナンダ、やっぱり学がないとイカンのかなぁ
などと思ってしまいます。 学識は、そんな風に人間を理論的に、また、思想
的に深みのあるものにする助けにはなっても、直接の原因にはなり得ないと
私は考えています。 むしろ学識豊富であって思想的人間的味わいの無い輩が
多い、と、私は感じています。 無批判な者、無茶苦茶な論理を振りかざす者
に欠如しているのは学識や知識量ではなく人間性なのだ(または、欠如してい
るものが学識・知識でない場合、何であると言えるか)という論の展開は、
我々には困難でしょうか?
そのような論を展開できぬうちは、学識や知識は、限られた者のみが入手してたのしむ「嗜好品」の域を出ず、出ないということは、ヒトに必須のものとは
言えなということになりませんか? それとも実に学問は「嗜好品」にとどま
るべきものなのでしょうか?Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年3月12日<月>05時47分)
何故にまた共同体などというものに考えが行ったかといえば、子どもを育てる
ことについて考えみたからでした*。
-----
*先の稿では「である」調で書いてみたのだけれど、何とも間抜けな感じに
仕上がったので「ですます」調にしてみます。 昔々は文章といえば反省文
から読書感想文まで「である」調でしか書けなかったくらいに思えるのに、
一体どういうことなんだ?
-----
誰が考え出したか「核家族」という存在は、ある時ある場所に生存する人間が
家族という種類の共同体(これが、自然的に形成されたものか人為的に形成
されたものかについてはここで議論しない)を形成していようとも、家族同士
の交流が無いものを指すのであったでしょうか。 隣近所に住んでいようとも
同じ高層建築物内に住んでいようとも、町内会会合で顔をあわせようとも、
学校の保護者会合で会おうとも、公園に子供を連れていって談笑する時間を
過ごそうとも、学校で同窓生と長い時間をともに過ごそうとも、それぞれの場
にはバラバラの生き物が群れているだけなのがこの社会の現状なのだろうと思
います。
他人の子どもや余所の若者、とにかく、自分の血族親戚以外の人間であっても
何らかの共同体を形作っている要員は、互いに社会の宝として気にする、と
いうことは、現代人に出来ない芸当なのでしょうか? この時の共同体とは
町内会でもいいし、学校や趣味のサークル、職場、、、そんな、ヒトの集合体
なら、規模や種類は何でも構わないハズです。
他人の存在を尊重しあう共同体のなかで子どもが育てば、子どもは自ずから、
自己とは何か他者とは何かということと集団生活で必要なことを学び取れる
だろうと私は考えます。 子ども学力低下や若者の倫理観・常識の類の欠如を
根拠に将来を憂う者は、そんな連中を育んだのは自分のような者を典型的な
構成員としている「ヒトの群」だったのだと気付くべきです。 こんなことに
早めも手遅れもありません、今の時点からとにかく、自分の周囲の生き物を
尊重する共同体の構築を意識して過ごすことにしましょうよ!Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年3月12日<月>05時02分)
1/ ハダカが溢れている
このところ、広告だとか服飾雑誌、単行本の装丁のような印刷物に男女の
裸体写真が溢れているように思います。 これが十年少々前の話では、服を着
る女性モデルは胸部を露出することを嫌い、広告写真などで胸の見えるものを
作りたいという場合、仕事の内容に同意するモデルに通常よりも高い賃金を
支払っていたと聞いたことがありました。
フランスの大手服飾メーカは数年前から男女が絡み合って写っている写真を
広告に用いていて、今では「絡み写真採用の先駆け」のような存在として服飾
雑誌や市街地に、シリイズ化した広告を出しています。 テュイルリにある
美術館では、ピカソによる’エロチックな’作品を集めた展覧会が開かれ、
その昔には収集家の愛蔵品だったであろう、官能的動きを裏面に見せる仕掛け
時計は誰の目にもとまりそうなところで展覧会に晒されています。
これらのハダカ関連表現物は、ヒトの感覚に訴えて性的興奮を呼び起こそうと
考えた末のものというより、「見失ってはイケナイもの」が見失われそうに
なったことへの反発のようにも見えます。 ただ、これらのハダカ写真が、
高性能のコンピュウタで加工などした後で世に出てきているとしたら、何だか
もの悲しいというか、情けないというか、、、そんな気がします。
2/「トイレットペーパー」は、深い
ふと思ったのだけれど、「トイレットペーパー」という語は、日本語を学ぶ者
が日本語の性質を垣間見るのに格好、つまり、誠に日本的な語ですよ。 先ず
は「toilet」と書いてあっても「トイレ」と呼ぶくせに、「toilet paper」
は「トイレットペーパー」であって「トイレペーパー」ではないところから
して、日本語初心者の混乱を招きそうです。 また、「トイレットペーパー」
は広く使われている仏語英語をカタカナ置換した語ではないから、それらしき
外来語を利用して該当単語を合成したものです。 同じtoiletという語を含む
仏語、例えばがeau de toiletの日本語版では、「オー ド トワレ」などとい
うように仏語の発音になるべく近くカタカナ変換が為されています。
多分、「日本語学」とかいって、このような言葉遣いをする日本のことを分析
している人が、どこかにいるのだろうなと思います。 漢字の数多さに「漢字
は苦手」という日本語初心者が居ますが、とりあえず絵のように覚えれば使え
る漢字はともかく、カタカナ語迄使いこなすのは難しいだろうなと思います。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年3月11日<日>08時00分)
生きものが二個以上集まったら、そこには共同体が存在すると言える。 存在
するという考え方にヒトが気付いて後現在に至っては、共同体は、生きものが
あつまる前からあたかもそこに存在するもののように捉えられている。 そこ
では共同体があって当たり前、共同体について考え遣ることが前提になって
しまっている。 しかし、生きものが二個以上集まった結果に否応なしに形成
される共同体は、昨今の扱いにあるような前提的存在ではない。
愛犬家が二人以上集まったら、愛犬家の共同体を形成し得る。 その時、各々
の愛犬家が犬を首輪と手綱で繋いで集まった様---昨今のヒト社会を図にしてみ
ると、そんなものであろう。 それは共同体というよりも、愛犬家の群と呼ぶに
相ふさわしい。 私の考える、「否応なしに形成される」ことを意識した共同
体にあっては、その場に集まった愛犬家は犬を繋いでおく綱を手にとりあって
大きく囲いを作り、首輪をしていようと、犬をその囲いの中に放っている、と
いう具合である。
巷では「個性」ばかりを人々は有り難がり、昨今の流行は「個人主義」で
ある。 けれども、孤高を恐れず孤高を目指す個人ばかりを育成してそれで
社会は「個人主義」に傾いていくと思ったら、大間違いなのだ。 孤高を
恐れないだけの人民は、先の愛犬家の例よろしく、生きもの共同体のように
見える群を形成しているだけだ。 これだけ生きものの数が増えてきた今、
孤高ばかりを目指すのではなく、連帯や提携・協力を厭わずに、否応無しの
共同体形成を受け入れなければならない。
「これこれこんなことを信条としている共同体を作りますから、共感するひと
は集まって下さい」と呼びかけるのではなく、最初は群で構わないから、群の
構成員が群からの脱出を意識したなら、共同体は自然に形成できるであろう。
ウエブ上に日記を書いても主張を展開しても構わないのである。 ただ、自分
のことと同じくらいに他人のことも気にしてやってこそ、群から脱出できるの
だと、私は思っている。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年3月8日<木>07時04分)
「オヤジの新鞄」ソウルキングJ. B.ではなくて、ジェーン バーキンです。
セルジュ ゲンズブウルの死後十年が経った現在、レコオド会社はゲンズブウ
ル全集を出すし、ル モンド紙でも何と四紙面に展開する特集記事を掲載しま
した。
バーキンはこのところ、頻繁に歌ディスクを発表したりしています。 ある
ときこの人が、テレビに出ていたのを観たことがあります。 長い髪がぐしゃ
ぐしゃで、よたよたのシャツ・これまたよたよたのズボン・ズック履きにそば
かすだらけの顔でヒラヒラした動きをし、忘れようにも忘れ難い姿でした。
私が気付いたときには既に故人だったゲンズブウルは、「俺だって禁煙する
ことはあるよ、、、5分くらいな」とか、こちらがズッコケそうなことを平気
で言わせておける芸人で、フランスみたいな国にしか生かせてはおけないよう
に私は思うのですが、知人の中には正面切って「嫌い」という者がいて、それ
でも彼の詩(詞)の素晴らしさは認める、などと言われていました。
演劇界のルノーとバロー、音楽界のヨーコとレノン、そしてこのバーキンと
ゲンズブウルといった話は当地では「神話の域」に達する(ル モンドもそう
書いている)まで語られ、ひとの脳裏に居座り続けます。 居座り続けるので
はあるけれども、それはバーキンとゲンズブウルのような二人を目指すから
でも、何かしら「よき」ものの典型としてまつりあげたいからでもなく、
いい話に触れれば、「そりゃ、よかったねぇ、、、」と、自分の気分もよくな
ることを知っているから、いい話を語り継ぐことでいい気分を自分の頭に
常駐させるようなものだという気がします。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年3月6日<火>08時54分)
C. Lemaireという服飾作家がパリを中心に活躍しているのだけれど、この人
は「音楽通」としても知られています。 夜はクラブで音楽担当に回ったり、
自作品の発表会での音楽は自分で選ぶとか。 そんなクリストフ氏は、大量の
音楽作品から何か特定のものを選択する時には選択者の感覚がその選択を可能
とするのだけれど、その「感覚」に加えて少しだけ、知識や情報といったもの
が必要かもしれない、などと言っていました。 私にも、このことは同感でき
ます。 音楽に限らず。
「先ず感覚、加えて知識少々」という序列はここで非常に重要で、厳しくも、
自分に備わっていない感覚を知識で肩代わりすることは不可能なのだと私は
思っています。 序列に加えて、「感覚と知識」が常に組になっていることも
ある対象を楽しむ・自分の血肉とする(上記Lemaire氏の話では、選択、と
していた)には重要な条件であるような気がします。
先週から近所の映画館でFetisch film festival 2001という特集をやっていて、これに付随して宴会も開催されます。 冗談かもしれないけれども宴会へ
の参加者には服装に指定があったりします。 ここに自分の「感覚」を認識し
ている者がどのくらい集まるのかは解らないのだけれども、「知識」を根底に
この場へ出掛けても自分が愉しめないように思います。 特定の対象への性愛
傾向を持った人々を特殊事物嗜好者などと言って「変」人扱いする前に、
自分の「感覚」に気付いていないで全てを「知識」で乗り越えていることの
貧しさを、私達は先ず感じてみるべきでしょう。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年3月4日<日>21時00分)
自分のことをどこまで世に公表するかは、自分できっちりと決める、また、
きっちり決めるなどという荒技には出られない場合には、個人には個人特有の
境界があると普段から認識しておくべきなのでしょう。 こうして書いてみる
と当たり前のことのようなのですが、私たちは、「プライバシィ!」などと
連呼する割には自他個人の領域について無神経であるように思います。
最近思ったことに、死亡記事での死因記載はいかがなものか、ということが
あります。 ヒトのDNA塩基配列が解読されて、個体識別にその解読結果を
利用できることから、配列情報の保護=「プライバシ」の保護が必須となる
とは、「解読」の記事には決まり文句のように書いてあります。 ところが、
死亡記事には往々にして死因が書き込まれてあり、実は書く必要が無い場合
が殆どだ(記載の必要がある場合もあるでしょう・公害病とか労災とか、、)
と思えるのに、死因がもたらす個人情報については余り考慮されていないよう
に感じます。
たとえば、ある人物の死因が遺伝病であるとか、極秘旅行中の交通事故など
といった場合は、記者氏の頭に「プライバシ」の保護という考えがよぎるの
かもしれませんが、それ以外の死因を書いて、故人の生活ぶりが窺えてしまう
こともあります。 それで、肺癌で亡くなった人が大の愛煙家だったという
ようなことから始まって、、、ヒトを死に至らしめる諸現象の原因解明が
進むにつれ、死因を公表することが、個人情報を大々的に世に知らせること
と同義になってくるのだと思います。
死後に死因を公表すべきかどうかまで指示して死ねるという者も少ない、と
思います。 死者にはそうやって自分の領域を指定できませんから、生存者が
配慮をして、死者の領域を守らなければならない。 「プライバシ」について
自分の領域を主張したり守ったりするのなら、そんなふうに、他人のことに
ついても考えてみたいものです。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年3月3日<土>01時35分)
波長が合う、という状況を体感した覚えのある人はどのくらい居るだろうか?
話をしていて、「そうそうそうそうそうそう」と頷ける時というのはしばしば
あると思うのだけれど、「こういうことを、波長が合っているというのだ」と
思える瞬間は、私にはそう常々あるわけではないのです。
この間観たゴダール作品で、黒人蜂起をアジる演説からストーンズの演奏風景
に画面がパッと切り替わるところがあって、切り替わってみたところで私なら
双方の音(アジ演説と、ストーンズの'sympathy for the devil'という曲・
因みにこの曲はBeggars Banquetという1968年発売のアルバムに収録され
ている)を交互に、一方の音量を上げたかと思ったら途端にもう一方が大きく聞こえてきて、、という音声にするな、と思っていたら、実際に思ったとおり
の音声が続いて、びっくりしました。
書いている内容や着眼点に好感を持てる文筆家は幾らか居ても、文章の格好
つまり、長さや構成が小気味よいという文章は、読んでみたくても余り出会え
ていませんでした。 どうも私には読点の位置が気になるもので、日本語文章
では、司馬遼太郎氏の読点の位置が好きでした。 それでこの間、Samuel
Beckett氏の作品を読んでいたら、司馬作品の読点位置以上に私の好みに近い
読点がその作品中に打ってあったので、これにもかなり驚きました。
波長が、などと私が偉そうに言っているのは、私がゴダール氏やベケット氏
の感覚を追体験しているに過ぎず、自分の好みを映像や文章の形に表現した
両氏にこそ独自性が備わっていたわけです。 私にも漠然とした「好み」は
あったのに、私は(まだ?)それらを表現し切れていない、、そんなことを、
波長が合ったと思える体験が示してくれました。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年3月2日<金>06時14分)
