来年のラグビイ世界杯大会に向けての、仏国-豪州という様子見試合があっ
た。 シドニイに、七万近い観客を集めていた。 先達ての豪州での五輪競技を
観ていても感じたのだが、あそこは、「いい国」になってきたようだ。 かれ
これ十数年前の豪州には、自己というものがなかったように思う。 勿論、
オオストラリアという国は存在していたが、それは、英国に引っ張られている
と思い込んでいる後ろ髪と米国への嫉妬と羊とで構成されていた。
かつての豪州ラグビイ’ワラビイズ’の選手には、肌の色が「白」の者以外
居なかった。 少なくとも、控えには居たのかも知れないが、競技場に出ては
来なかった。 それが現在では、豪州原住民系ではなかったにせよ、周辺の島
の出身者と見られる者も黒人の肌の者も、緑と金とのジャージを着て試合に
出場する。
「いい国」になってきた、というのは、その国に居る人間にある程度の、
そして様々な意味の混合が生じてきたからであるとおもう。 この混合の割合
が増えることで国が経済的に豊かになって行くことのみを指して「いい国」に
なる、とは違うことは云うまでもない。 ダブリン在住のアイルランド人の
知人も、ダブリンにも外国人が増えてきて、「いい街」になってきた、と言っ
ていた。
=====
ところで、日本人とかサイエンス業者とか学者とか、自分自身への形容と似た
性質の者と議論していても埒が明かない・どうも突破して行かない、と感じる
ことが多い。 幾ら多くを考えさせられる議論をして多くを考えた気がして
も、閉塞感が残る。 この閉塞感対策には、自分と余り似ていない人々と話す
ことが効果的だ。 ワラビイズと同様の混合が、ある程度必要なのだと痛感す
る。
日本のような、周囲を東洋世界と大洋に囲まれた島国では、物事が混合する
ことは難しい。 難しいが、自分のなかに混合の可能性を形成している日本人
は、少数ながら、居る。 酷く乱暴に定量的な話をすれば、この、混合の可能
性を持っているが故に、何でも構わないから自分のなかに混合を生じる瞬間的
機会を捉えられることは、閉じられた環境(混合がない、という意味)にあっ
て十年間くらいの間、ものごとを考えに考え抜いたと同様或いはそれ以上の
効果/結果を人間にもたらすと思う。 一瞬の混合、十年分の思索を凌ぐ、と
いったところだ。
繰り返すが、日本国パスポオトを発行して貰ったことがない人物であろうと
外国語を使えない者であろうと、自身のなかに混合の可能性を持っている日本
人は居る。 居るのだが、稀少である。 日本での人間教育は、十年後に学術賞
を受けることになる人物を育てることよりも、これからの十年間に起こること
を着実に自分に取り込んで自己へ”混合”できる者を育てることを考えた方が
よい。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年6月30日<日>19時40分)
今度は「らくだ色」背景の方の掲示板が開きません。
サイト自体が落ちている様子です。 どうしちゃったかな、、、。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年6月30日<日>04時26分)
「それは人間(生きもの)と何の関係があるか?」
世の中の様々の何が正当で何が不当なのかは、実のところ、判らない。 判ら
ないとはいえ、自省する者に向けられる攻撃であれば明らかに不当であると
判断できる。 逆に、自省なき者が自らの不遇を訴えようと、誰もその訴えを
肯定し得ないのだ。 幾ら、その訴える姿に同情を感じても、だ。
ものごとの正当不当を、形式的に判断して見せることが、この世には多い。
ひょっとしたら物事の表面に見て取れる正当不当の殆どが形式的判断の産物
であって、生きものの存在には無関係であるかも知れない。
生きものと関係のある判断とは、深い自省を前提として下すことが出来ると
私は考える。 自省とは何も、自虐ばかりではない。 俗に言う「魂が離脱」
でもしたかのように、自分を眺めてみることを指す。 「離脱」の不思議な話
とも似て、自省の有無も、わざわざ表明せずとも人間の姿からにじみ出るよう
で不思議である。 よく「白日の下に曝す」対象として正義なぞが挙げられる
が、曝すべきは斯様な理念ではなく、恐らく、生きもの(=人間)そのもの
なのであろう。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年6月26日<水>07時46分)
当掲示板の設置してあるサアバのドメインエラが発生しています。
暫定的に、当所へのアクセスは下記に依っています。
http://210.189.77.247/freebbs/mkboard.cgi?maiban
拙HPトップからの入り方も暫定的に書き換えてあります。
トラブルを越えてまでご訪問下さって、どうもありがとうございます。
http://210.189.77.247/freebbs/mkboard.cgi?maibanName : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年6月23日<日>16時45分)
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Time : (2002年6月23日<日>15時55分)
外向きの国家間外交は、感情論に拠って処理し切れるものではない。 対応策
の最小公倍数的存在にして最も効率よく使えるもので我々人間が知っている
ものといえば、logiqueかゼニだ。 あからさまに買収行為に出られないので
あれば、後はlogiqueを駆使するしかないと違うか?
異国に居る自国民に対し自国内で幾ら弁護してみたところで、弁護の目的は
異国には通じて行かない。 異国に居ようとも現行国家の護るべきは自国民で
あるというのに、このような対岸からの弁護は、自国民の保護として役立た
ないばかりか、異国側の感情を逆撫でし、逆効果なのである。 閣僚の発言も
日本国内向けの報道も、アホである。 必要な時にlogiqueを発動しないこと
が情けない。
温暖湿潤な地の人民に、logiqueで武装した冷徹な人間になれとは言わない。
logiqueをせめて、外交時には使えるようにしておくだけでよいのだ。 これ
を道具として使える者を養成しようとして、これまれ長年に渡って国民の税金
を使って欧米にひとを遣っていたのではないか?Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年6月22日<土>08時09分)
TVニュウスを観ていたら、日本のチイムが蹴球の試合に負けた時の観客が映
されていた。 その様は、1945年8月15日にラジオに向かっていた日本国民の
姿と重なった。 赤衣装で埋まった競技場の様子を観たという友人は、「あれ
は”北”のマスゲエムかと思った。」と言っていた。 何れも、己から湧いた
信条を持たずに、この場合は国家という存在に服従している人間の姿である。
服従という語が適切でないのなら、あれらの人々では、国家という存在に対し
て何の懐疑もなく抱いている幻想が同調している、とでも言えよう。
ある言語(=道具)を使えることと、味わえることとは異なる。 たとえば
英言語の詩を鑑賞したいという時には、自分の土台の上に英語圏の様々を上乗
せして鑑賞に至るというよりも、自分の土台を少し削るような感覚を伴う。
譲歩・受容などという語が似合いの感覚である。 譲歩を経てでなければ、
鑑賞には至らないという気がする。 文字を読んで内容を理解するだけなら、
譲歩の感覚を味わう必要はないとおもう。
よくいう日本人の議論下手(議論嫌い、か)は、上記で云うところの譲歩に
困難を覚えるからではないか。 しかも、何故に譲歩できないかといえば、
そうやって懸命に守っている自分の土台というものが実は、己から湧いた信条
というより、何かに服従することで獲得したもの・何の懐疑もなく抱いている
幻想だから、自分では削りようがないためだろうとおもう。
「己から湧いた信条」といっても、信条など、自然発生するわけがない。
ただの一度でよいから、自分の信条について自分の言葉で考えたかどうかが、
その信条は己から湧いたものか、服従・幻想の産物かを分けている。 近年の
日本には悪しき面倒見の良さが充満しているから、自分の信条を自分の言葉で
考える機会が減っている。
幾ら日本で云うところの「いいひと」であっても、自分と異質のものに対し
譲歩できていない時には犯罪者とされるに至る。 己の根本を削る譲歩とは
十分に自虐的であるから、異文化間での理解なぞに至るよりは、犯罪者を拠出
してしまう事の方が多い。 それでも、何故に「いいひと」が犯罪者呼ばわり
されるのかは、自虐的になってみないと理解できない。 犯罪者呼ばわりが厭
ならば、服従心や幻想を膨らませている場合ではない。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年6月21日<金>02時00分)
エラスムス: Desiderius Erasmus (1466-1536)は、近年においてなお、
「臆病な偏執狂」だの「曖昧主義の王様」だのとも評される。 自らの信条を
貫く余りに、自分を頼りやって来た病苦の弟子に門を閉ざし続けたという。
罵声を浴びつつ、何を目指して己の信条を護ったか。
何はともあれこのエラスムス、自分が生き、考えたことを記録したところが
賢かった。 私が感謝する先人のひとり。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年6月17日<月>09時42分)
ある対象への信仰に疑いが無いほど、その対象へと向けられる信仰者の態度は
素直で純粋で喜ばしく晴れ晴れとしたものになる。 熱心な各種宗教の信者、
蹴球で調子のいい日本の国民、家族に甘える子供、「自分磨き」する者、、。
恐らく人間はそもそも、何事かを信じたいという傾向のある生き物なのだと
思う。 それが好いことなのか好ましくないことなのかは解らないし、判断
を下すべきであるとも思えない。
蹴球の試合など観ていれば、何処が勝っても等しく、ヨカッタねぇと思う。
それと同時に、フランスが勝っても(四年前)日本が勝っても(今年)等し
く、しみじみと嬉しいことがない。 これが好いことなのか好ましくないこと
なのかは解らないし、判断を下すべきであるとも思えない。 ただ、自国の
勝利に歓喜する者も私のように冷えている者もお互いに、世の中には互いの
類の人間が居ることだけは、認識していたい。 互いの存在を肯定も否定も
せぬために。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年6月15日<土>21時11分)
何とも、まとまらないことを考えている。 一個の人間と組織について、で
ある。 こんなことに関してはきっと、名著・名説とでも言えるような表現が
既に出されている事だろうと思うのだが、他人の言うことを取っ掛かりにして
convaincre(=convince)したくない。 先ず、キイワードの一つも自分で
考えつきたい。
=====
人間のbon sensは、現代では、余りに組織のために捧げられすぎていると
おもう。 ここでいう組織とは、現存の国家やculteを指す。 しかし、人間は
独りで居ては自らのbon sensをうまく扱うことができない場合が多く、扱い
に困った場合には、その扱い方を制御するため(うまく扱うため、と同意では
ない)に法律や教義を戴く組織を作ることでbon sensと付き合うことに成功
している。
あるculteに所属して教義を信仰し、自己実現=教義の体現であると考えて
いる人物は、晴れ晴れ・生き生きとしていた。 bon sensの扱い方を教義が
制御してくれている為、自分で扱いに困ることがないのだろう。 また、別の
culteに属して教義の下にbon sensの扱いに取り組んでいる人物が居たが、
自らの苦悩の無さに薄々気が付いていて、組織に依存して自分のbon sensと
付き合おうとしていることに後ろめたを滲ませているように見えたことも
あった。
=====
上記の「bon sens」にあてはめることの出来る/交換することのできる語は
色々あると思う。 どの語で読んで貰っても構わない。
全編に渡って否定形の文章が並ぶ『世界人権宣言』に欠けているものは、
人間のbon sensの取り扱いの最大限は自ら負うべきであるという義務の
規定ではなかろうか。 権利と義務は、併せ持ってこそ実際のものとなる。
己のbon sensの取り扱いを組織が制御してくれる/組織への依存度が強い
(=自ら取り扱う義務が放棄されている)というとき、その組織において
『宣言』の規定する人権もまた、放棄されている。 義務の存在せぬところ
に権利は無いからだ。
=====
『世界人義宣言』には、如何なる要素をどのように盛り込むべきか。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年6月11日<火>07時06分)
きっとどこかで誰かが既に、人間--生き物界において、少なくとも--の存在
は孤独なものであるにも関わらず、実際には孤独に生き延びることが不可能
そうであることは論じているに違いない。 それにしても、その直立二足歩行
の矛盾の存在を痛感できる機会は日常には少ない。 この手の話をするに
あたっては、学者や識者のセンセイ方から拝聴するよりも、誰もの身に沁み入
る議論によって考えるきっかけを得たいものだ。
日本で交わされている他人様の討論を脇で読んでみると、知識が大いに邪魔を
して、歩く矛盾としての人間について話す迄に至っていないという感想を抱く
ことが多い。 また、論理的かつ鋭い視点を伴った各論の部分では署名記事を
出していても、その記事を掲示しているサイト(=組織)の実体について書か
れていないという詰めの甘さも目立つ。 優等生で大ボケばかりという感じ
で、実に歯がゆい。
他人に足を引っ張られた記憶はないが頭を打たれたことはあるように思う等
と偉そうなことを言ったら友人が、叩かれるのが厭なら--たとえ自意識から
くるものだとしても、それは気分よいものではない--「誰も叩けぬ程の高い
杭となるか、出る杭を叩かぬ土壌において頭を出すかだ」と、返してきた。
少し人目に付く必要があるのかしらんと、これまた偉そうに考えたが、今流行
りの「ナノ」級の小心者で、人様の目を愉しませる存在には向いていない。
何も纏まらないな。 さて、さて、さて!Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年6月10日<月>06時52分)
日本国内での不法労働とか不法滞在、と読んで、何を思うだろうか? 法律
というものの存在は、人間の行為は各々の自主性に任せただけでは秩序化でき
ないことを補うものに過ぎず、国家という体裁は法の産物である、という位に
考えつつ、以下を続ける。
再度、問う。 日本国内での外国籍者による闇労働と違法滞在と読んで、何を
思うだろうか? パリには、闇労働を行っている日本人がかなりの数、居住
している。 その人数の内には、三ヶ月間というフランスの法規で規定された
「観光ヴィザ」の滞在期間を越えてパリに留まっている、不法滞在者も居る。
闇労働とは、労働許可を持たぬ者が働くこと/収入申告を伴わぬ報酬をもたら
す労働を指すとしてよかろう。 安い労働力の需要と、ちょっとした小遣い
欲しさが出会えば、闇労働は成立する。 正直なところ、法規外の労働行為を
悪しきものと判断することはできない。 が、労働行為に付随する諸々の責任
が、不法労働の現場においては往々にして放棄されていることが多く、その
責任の放棄は好ましくない。 人間の自主性に任せておいては放棄される傾向
があることを受けて、責任を負担することを、法が規定する。
以下のようなことがあった。 生徒を集めて講習会を開いている所があり、
そこの講師に闇労働者が居た。 ある時に労働監査官の査察があり、これに
捕まると講習会の場所を提供していた者も講師もともにお縄、という状況を
受け、講師を入れ替える事にした。 生徒にしてみれば、ある程度長い(!)
付き合いであった講師を突然に失うことになったのであった。 この騒ぎの際
にまず踏みにじられたのは、生徒と講師の間に築かれていたもの、である。
会場側も当の講師も、生徒の気持ちを考え遣ったとは思えぬ態度で、講習会の
体裁を保つことを優先させたように見えた。 この不法労働の一件において
放棄されているものは、労働行為に伴って発生する人間関係の一端を担うと
いう責任である。
また、次のようなこともある。 観光目的という名目の滞在、即ち、三ヶ月毎
にフランスからの出入国を繰り返して不法滞在を回避しつつ、フランスでの
活動に対して日本から受ける報酬は日本の金融機関へ入金して、フランス
における不法労働にもあたらぬ行為を続けている者が居る。 これらの者は、
日本国に対してもフランス国へ対しても所得税にあたる税金を支払っていな
い。 ここで放棄されているものは、法の規定する国家の財源である税金納入
の責任である。 また、先の講習会の例においても、労働災害の類が発生した
場合、雇用関係に伴う諸保証の責任が放棄されているが故に、事故は揉み消さ
れるのである。
皆が皆、国家論・法律論や人間存在に伴う責任について論じよとまでは云わ
ぬ。 しかし、自らの無責任さは必ず自分の首を絞めることになるから、
不法労働・不法滞在はガイジンの問題と片づけずに、これらについて少しでも
考えてみて欲しい。 生徒を放り出したり税金のがれをする同郷人を、どう
思うか。 彼等彼女らを、悪しき存在として一括できるものかどうか。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年6月5日<水>21時12分)
蒔絵職人さん、書き込みをして下さってどうもありがとうございます。
御自身のお仕事に厳しさを持って取り組んでお出での方の言葉にはやはり、
説得力が伴っていると感じます。 自分の作品を世に出す以外は黙して語らぬ
芸術家の姿勢にも理はありますが、書き言葉・話し言葉・点字等を多用して
自身の活動や考えについて語る創作者の存在は殊に貴重であると思います。
その貴重な存在に、ネットという道具を使って接することが出来るのが下記
の蒔絵職人さんのサイトです。 そこで見ることの出来る漆器の逸品は勿論、
コラムや掲示板での受け答え一つまで、ヒトの味わいのあるところです。
http://urushi-net.jp/
漆net
=====
余りネガティフなことは書きたくないと打ち込みつつ続けますが、私は、
現代における「アーティスト」という語が適用される状況の殆どに、一種の
嫌悪を感じます。 既存の語に帰属不能な状況を指して、どちらかといえば
消極的選択の末に使うのではなく、芯や筋のようなものの通っていない存在の
体裁を繕うが如く、むしろ積極的に使われているからです。
「アーティスト」の多くに往々にして欠けているものは、創作に対する厳しさ
と、協調性の無さだと感じます。 これらが欠ける原因は、ヒトどうしの付き
合いが希薄なことであるような気がします。 そして、現代では、このような
「アーティスト」が、美術芸術の世界ばかりでなく、研究者や商人にまで氾濫
しています。
もしかすると、「アーティスト」状態というのは、ヒトが成熟する途中を指す
のかも知れません。 ならば殊更に、我々は、生半可な経験を積んだ気になっ
ていないで、ますます、創作・追求・商いなどにおいて切磋琢磨する(それも
独り修行しさえすればよいのではなく、ヒトどうしの付き合いを念頭に)必要
がありましょう。 そのような切磋琢磨は、蒔絵職人さんの仰るように、報わ
れる---「よいもの」を生むに至る・ヒトの成熟を促す---のだと思います。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年6月4日<火>22時16分)
期待込めて誂えゆえの残念さ、逆の立場ながら理解できます。
ものづくりの一人として、「誂とネット」という事について書いてみます。
「誂」=希望した通り、要求にぴったりのものづくりが、問われます。
私共のような誂職人は、注文主に対して期待通りの物を作る事こそが、もっと
も大切な事なのです。また納めた物が喜ばれる事が、次の仕事の励みになるも
のなのです。そんな一つひとつの経験を重ねてこそ、仕事の幅が持てます。
相手の意図とする事を受け、形にする事は、ある面では自らの創意で制作する
よりも、デザインの幅や技術も伴わなければならないと思います。
期待を込められての注文を受け、それに報いる事は、職人のつくり甲斐を生み
ます。何か格好の良い事を書いていますが、そんな単純なのが職人なのではな
いでしょうか。
誂えが効いた物が生まれる条件に、コミュニケーションが大切になります。
ネットやメールは、コミュニケーションの道具だと思うのですが、ネットで注
文に応じる場合は、発注者からはそれを活かせる期待も、大きいと思わねばな
らないでしょう。
ネットで誂えを受けるつくり手は、それを覚悟で受けるべきで、またその経験
は、必ず報いられるものです。Name : 蒔絵職人 Time : (2002年6月4日<火>02時03分)
件の皮革製品作家氏から、すぐに、「ご意見感謝」というメルが来ました。
私はまた例によって、間違いないことを目指すことも重要だし他にも云々と
うるさいメルを返してしまいました。 今後に、期待しましょう。
皮革製品については、何せパリを始めとする欧州各地で、誇りのカケラも捨て
て店舗の前に列を作ったり販売制限の目に遭って平気な同郷人を見ているもの
で、日本人の誇りを保つためにも日本の良さを見せるためにも、是非とも日本
の作家にがんばって欲しいのです。 自国で為される仕事が素晴らしいものなの
だということをもっと知って貰えれば、おフランス製のブランド鞄ばかりが
皮革製品なのではないと、日本人には理解できるはずです。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年6月3日<月>17時39分)
現代の日本人に嫉妬深さはあっても、執念深さは無いように思う。 何事かを
追求する姿勢が希薄である。 それが好い事なのか憂うべき事なのかは、俄に
は判断すべきではないが、私には自分のことを含め、好ましい傾向ではない。
こんなことがあった。 カメラを持ち歩く際に首や手から提げるためのヒモ
(=ストラップ)を探したが、気に入ったものがなかったので、皮革製品で
注文をしてみることにした。 同じく皮革製品を注文するなら、日本の作家に
頼んでみようと思い、ネットで探し、発注した。 色・長さ・形状・名入れの
位置などををメルで打ち合わせし、完成を待った。 出来てきた特注品は、
メルで打ち合わせをしていた時からの不安が的中、ストラップの輪の作り方
が当方の意図とは異なったことと、不意なことに、名入れの位置が異なって
いた。 (「輪の作り方」について註・紙テエプで、円ではない閉じた輪を
作ろうとすると、二通りがあることを考えてみて欲しい)
輪の作り方については、メルのやりとりだけでは不明瞭そうな様子であったの
だが、完成品見本の画像を送付したこともあって、不明瞭なら確認してくる
かもしれないと思って、やり過ごしていた。 また、この点で意図が伝わらず
とも仕方ない、今回は試みであるという気もあった。 しかし、名入れ位置に
ついては何一つ予想できなかった。 完成品の写真をメル添付で見せて貰って
名入れに関して注意したところ、「消せないので、ご容赦を」とのことで
あった。 輪の作り方に関しては、最初から予想できていたので、申し入れず
においた。 完成品は、そのまま買い入れた(代金後払いではなかった)。
受注してくれた人物は、皮革製品作家として良心的かつ丁寧な、いい仕事を
している様子である。 が、良心的かつ丁寧なだけでは、プロの仕事とは云い
難いのではないか。 勿論、やたらに厳しいことを述べているのかも知れない
とも思う。 丁寧に作った本体であるが故に、名入れ位置の誤りが惜しいので
ある。 丹念に仕事をする人と感じられたが故に、「消せないので云々」と
いう対応が残念なのである。 己の仕事に対する誇りは、メルに「完璧な
出来」と打つことでは伝わらない。
このように考えたことを作家氏に伝えようか、迷った。 日本人にこうやって
直接的にものを問うことで苦い思いをした記憶が、当方にはあるからだ。 伝
えずに・これ以上何も問わずに居ることはできる。 このわだかまりをこの
ように表に出さなければ、作家氏は苦い思いをせずに過ごせるだろう。 しか
し、当方から次の注文が行くことも、無いだろう。
フランス人の作家が相手であれば、迷うことはなかったとおもう。 冒頭にも
述べたとおり、この日仏の違いは、好い事なのか憂うべき事なのか判断でき
ない。 とはいえ、「ご容赦」として互いになぁなぁで済ませていては、いつ
まで経っても容赦を要求する程度のものしか生み出せないだろう。 日本にも
気合いの入った作家が育って欲しく、これを書くことにした。 作家には、
これを書いた由を伝えた。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年6月3日<月>12時44分)
翻訳という仕事は、以前想像していたよりも難しいようだとこの頃おもう。
言語を変換してみせればよいだけではないし、かといって訳者の思い入れを
前面に押し出すわけにも行かない。
今時に没する翻訳者のうち、女性翻訳者の仕事には、絵本の仕事が多い。
この傾向について、文芸界では女性訳者の手による大作・著名作品の訳が
受け入れられることがなかったので、彼女らは絵本に回らざるを得なかった
という解説を読んだことがある。 この解説の如き状況が、ほんの三十年程前
には、現在よりも色濃く存在していたようではある。
ほんの三十年程前の状況を、渋々絵本に回ったと解説するか絵本にはお陰で
素晴らしい訳が付いたと解釈するかで、現代人の態度には違いが出る。 私は
後者を採る。 果たして故人は、バタイユに取りかかれなかったことを歯がゆ
く思っていたかも知れない。 しかし、未練や無念は、何も冥土まで引きずる
よりも、何らかの形で変換してやれば、現世で苦しむ者の糧となる。 「死ん
だものは生きている者にも大なる力を持ちうるものだ。生きているものは死ん
だ者に對してあまりに無力なのを残念に思う。」だけでは武者小路と変わら
ない。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年6月2日<日>20時53分)
「自立している、ということと自活している、ということは異なる」なる
意見を読んだことがある。 自立していても自活できていない場合や、自活
していても自立できていない場合が、人間にはあるとおもう。 自立して自活
していたら、手間がかからなくて(もう少し高尚にこの部分を述べることも
できるような気はする)、喜ばしいと思う。 また、自活即ち己の食い扶持は
自ら集めて来るということも、出来れば尚可、である。 が、自活できない
ことは、人間の尊厳が未熟--やや妙な表現ではある--なことに直結しない。
そこへ来て、自立出来ていないこととは、直ちに、人間が成熟できていない
ことを指すと思う。
かつての専業主婦諸氏は、自活こそせぬものの、自立していたと考える。 ま
た、例えば会社でお茶汲みとコピイ取りだけを担当していた社員で、その会社
組織から独立して、既存の組織に依存せずに「お茶くみ会社」を組織できる者
は、自立できる者と評することができよう。 逆に、社会へ出るだの社会参加
と称して所得を得ている者でも、会社や研究所のような組織に依存しなくては
収入を得られない場合、実質上の自活こそできていようとも、自立した人間で
あるとは言い難い。
日本には起業家が少ない。 起業人(企業人ではない)を育てることのできる
学校も、「世界の百校」のなかに一校もねじ込めていない。 この学校につい
てのデエタには、英米仏等に加え中国・シンガポール・ブラジル・メキシコの
学校を見出すことができる。 日本でも女性の社会進出などという事が云われ
ていることと思うが、注意すべき事がある。 先述のように自立できていない
者のことを、単にどこかに成功裏に雇われて組織仕事をこなしただけで「自立
した女性」と呼んでは、評価が甘い。 甘い評価で舞い上がった者を社会に
飼っていても、社会が、そしてその構成員が成熟することはない。 組織の
一部として働くことで獲物を得ていようが、その実、起業家や自営業者として
も生き延びられる能力を備えているかどうか。 それが可能な者には、自活の
糧は自ずから付随してくると思う。 まだまだ。 これから、である。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年5月29日<水>18時14分)
このところ、日本関係のことで苦々しい思いをすることが続き、やや参って
います。 またか、と思ってやり過ごせるかと思っていたのですが、うまく
切り抜けられていません。 年をとって、抵抗力がなくなってきたのかも。
小気味よく更新できずに、失礼しています。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年5月27日<月>04時55分)
ここ20年くらいの間に、脳天から何ものかが発散して行くかのような音楽が
すっかり消えてしまったように感じる。 白昼堂々の野外コンサアトが似合う
ポップ・ロックが、どこかへ行ってしまった。 取って付けたように懐かしの
ロックバンドが再結成してみせても半ズボン姿が痛々しくて、発散どころか、
燻し銀御達者倶楽部同窓会にて、彼等はもはや生演奏に不向きである。
黒っぽかった肌の色を白くしてみたり、ぺちゃんこの胸を膨らませたりの
歌手が台頭してきた頃から、大衆音楽の発散が消え始めたのではないだろう
か? 躰をいじってはイケナイとか悪だとか云うのではない。 少なくとも
1970年代には実感できていたも発散物は、生身の人間が振りまいていたよう
に思う、のだ。
高度に集中した精神状態とは、ポカーンとして何もない状態と等しいと感じ
る。 電子楽器が精確な拍子を刻んでくれることに頼る結果、演奏者が演奏に
集中できなくなってきているのかもしれない。 村祭りの存在と同様に発散
ポップ・発散ロックが機能していたのも今は昔、現代人は何をもってポカーン
とすればよいだろうか。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年5月24日<金>08時00分)
日本の書籍を船便で送ると、欧州に到着するまでふた月かかる。 先日届いた
お楽しみ包には、岡本太郎著の『沖縄文化論』を入れておいたのだった。 味
のある内容であった。 書名には副題が、-----忘れられた日本、とある。 こ
の添えは、付して正解だ。 著者は、「論」なぞ展開しちゃいない。
タローの云うところの忘れられた日本とは、「ギリギリ」な姿であろうと思
う。 彼の著作において、「ギリギリ」は、純粋・透明・無邪気・明朗・素直
とも置換できるようだ。 現代の純粋・透明・無邪気・明朗・素直からは、
「ギリギリ」というよりもむしろ余裕や高潔というものを感じるが、 岡本
は、「ギリギリ」な場面や状態に純粋・透明・無邪気・明朗・素直を見出した
のだろう。 タローはまた、民衆や人民のことを「ピープル」と書いている。
「ピープル」はそして、純粋・透明・無邪気・明朗・素直、つまり、
「ギリギリ」な場面を生き抜く「ギリギリ」な存在として登場している。
今の世に今の日本に、自らの智や能力は物事の底辺を形作ることに捧げようと
考えている者は居るのか。 学歴を積み上げ肩書きを得るにつれ、底辺の一部
となることを嫌うという傾向がありはしないか。 何かに付け「ギリギリ」な
底辺から遠ざかることに躍起、先端を目指して(逃げて)ばかりいるのでは
ないか。
そこへ来て岡本は、己の智・能力・経歴を「ピープル」たり得ることのために
生かそうとしたように見える。 底辺に生きるヒトが「ピープル」だ。 天災・
疾病・ヒトの差別ゴコロなど物理的に底辺を露わにしてくれるものが緩和や抑
圧の対象である現代にあっては、自ら意識してまみれて行かねば、底辺には馴
染めない。 「ギリギリ」であるからこそ、太郎は「爆発だ!」ったのだろう。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年5月20日<月>07時50分)
この掲示板に自分が書いて出した文章を削除したくて、悩んでいた。 しかし
消したところでスッキリしないことは明らかにて、削除は止めて、こうして
駄々を連ねることにした。
削除の標的になっているその文章においてある対象を「あれはエエ感じであ
る」としたものの、やはり(というのは、投稿した時にも疑問があった)、
時間が経ってみた後に、それをエエ感じとして肯定できないのだ。 勝手に取
り上げた末に、自分の観察が的を射ていなかったといってその対象を打ち捨て
ることは失礼であると思う。 山と積まれたバーゲン商品を抜き取って、ナン
ダコンナモノカと一瞥の後に山にぽいと戻したら、その商品を尊重したとは言
えまい。
エエ感じとは言えないとは、存在の深みが思った/期待したよりも浅かった、
という感じを指す。 投稿したときの疑問とともに、そのものの深さを自分が
体感できていないかも知れぬという疑問も同時にあった。 また、自分の思い
や期待などというものは個人の嗜好という狭い範疇に収まる内容であるから、
そこから外れるものを削除するとは、何と立派な自意識先行思考であろうとも
考えた。
自分の完璧・完成を信じられるのであれば、あの文章を削除することに躊躇は
なかったこととおもう。 ちょっと凝ったものの表層に対して、安易に感動
した。 そうしたら、後に削除したくなるような文章を綴った。 安易な感動は
ヒトにおいてよくある事だと思うが、実は、そうそう頻繁に起こっては困る
ことのように思う。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年5月19日<日>02時20分)
ディスク屋ではR&Bへ分類されるであろう歌手に、Mary J Bligeが居る。
大衆音楽分野の黒人女性歌手にできることは全て、'80年代中盤から'90年代
前半にかけてJanet Jacksonがやってしまったなどとも云われるものの、何
のことはない、Jackson作品の制作責任者がMary J の面倒もみている。 と
はいえ、当時のJacksonが"No more drama!"と謡うことは出来なかった。
曲だけ聴けばこれは、ちょいとヒネたジンセイの味わいを知っているMary J
には似合いという気がする。
この一曲のためのヴィデオを最近に観た。 家庭内暴力あり、麻薬常用者あり
である。 それらに向かって、"No more drama!"と謡われる。 "No more
drama!"の対象はまだある。 ヴィデオも終いの頃にMary Jが、沢山並んだ
モニタに映し出される映像に向かって同様に叫び謡う、その映像には、
America's New Warのテロップ(某ニュウス局のものに酷似)と兵士・
戦火、また、何故か真核細胞の顕微鏡写真が組み合わされていた。
NYでの一件関連のdramaは、確かに、もう沢山である。 それに加えて、あの
細胞写真に関連したdrama---生命科学のもたらす幻想---の広がりも、いい
加減にしたい。 今や誰もが、世の最先端に夢中である。 我先に最先端に
位置したり触れたりしたがる。 お陰で、世の基盤とか基礎とか底辺は、ボロ
ボロでグラグラである。 "No more (最先端連のもたらす)drama!"と叫ぶ
のは売春婦であり不良野郎であり、涙で眼の曇りが拭えている者だからこそ
そう、主張できるのかも知れない。 No more drama.Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年5月16日<木>21時48分)
携帯通信機器にて文字情報を受け取る仕組みは、絵文字利用の土地にこそ浸透
すれども、音文字しか持たぬ所では普及しないと私は見ている。 当地では、
メルを携帯電話で受け取るにも、文字で見る従来の方法に加え、メルの文面を
音声に変換して電話機で聞かせてくれる方法を採ることができる。 音文字で
表記されているものをツラツラと読むのは、その文章が音響的に調子よいもの
でない限り、結構辛いものだ。
音文字語を絵文字的に捉えた形跡を感じるのは、ASAPとかBRB・SVP(仏語
s'il vous plait しるぶぷれ)のような語で、これらは頭文字を取ることで
構成する略語とは性質が異なる。 小型携帯機器でのメルは、これらを駆使
せねば読むに耐えぬものとなるので、若い人の編み出した絵文字的語は多い。
携帯電話商売の先行きを占いたいのではない。 先日文章を書く際に、漢文の
見かけで書いて書き下し文の調子で読んで欲しいと考えたのだが、書き下し文
は読めても、白文は書けないと思い知った。 高校での漢文の時間は最も退屈
であったにも関わらず、日本語におけるあの漢文書き下し文というものは、
漢字の映像要素(瞬時に理解できる)と文章のもたらす音響要素(心地よく
理解できる)の双方を備えていて、実に美しい。 しかし、書けない。 例の
退屈な授業時に漢文法を会得しなかったからだろうか。
手許にある月刊誌『言語』四月号「文法の誕生、文法の探求」という特集の
なかで、逸身喜一郎氏は「知性が崩れると文法は崩壊する」としている。
仏人若者の編み出す絵文字的語は、仏語文法の土台に乗って生き生きしている
ように見える。 そこへ来て、書き下し文風の表現を音響の点で模倣できても
漢文を構成できないところに、己が東洋的知性の崩れをみる。
白川静氏の大著『字通』の序は、「EcoRVでダイジェストの後にゲル濾過、
Et沈、phクロ、ペレットを回収」などと書いていた私には、叱咤であった。
ようやく今頃になっての、出師だ。 そう、アイスランドの歌手Bjork氏も、
「army of me」と謡っていたではないか。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年5月13日<月>21時22分)
*ヒゲとボイン
ユニコーンというバンドの「ヒゲとボイン」(1991)は、ちょっといい歌詞
だったなと思い出した。 「女にうつつを抜かすと私のようになれないよ」と
放つヒゲ面社長に、「あなたはいつも仕事でしょ」とつれないボインちゃん。
生き物らしく喰って寝て飲んで生殖でもしていればよいのだろうが、大して
使いものにならぬと知りつつも頭をつかってみたくなる愚か。 同じ使うので
あれば、太古の昔に使いたかった。
*人間の標識の利用について
生体中の蛋白質のなかのただ一種類を検出したいというとき、その蛋白質に
何らかの標識が付いていればよい。 このとき、標識はあくまで標識なので
あって、蛋白質の性質や働きを語りはしない。
人間における標識とも呼ぶべきものは、学位や資格であろう。 世界人口は
増える一方にて、現代人は自らの身にこの標識を立て、何かに検出されること
に備えている。 ところが、標識が人を表現していると勘違いしている御仁が
多いのではないか? 学位持とうがアホはアホ、資格在ろうがエセはエセだ。
人間の場合、実存が標識を裏切っているくらいが、愉快である。 いや、抗体
に裏切って貰っては、困る。 、、、都合のよい主張也。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年5月11日<土>22時53分)
今やカタカナ語になっているであろう、consortiumという語がヒトDNA配列
の解読に取り組む国家単位で参加する共同体の名称に使われた。 連合、と
いう語感に拠って採用されたのであろう。 ある土地に建築物を伴って存在
する大学の代わりに、intellectual consortiumなどと名乗り、’我が道’
を歩む個人が参加する共同体が、特定テーマに対して人間が知恵を持ち寄る
様を体現してみせる、というのはどうだろう? クルマのF1レースよろしく、
全世界を転々としつつ、ヒトがものを考えている現場を見せて歩く。
学派・宗派・専門・好みといった自分の傾向はそのままに、しかし学閥・派閥
の考え(最小公約数的事項を建前として集まる人間で集団を形成して利益を
得ようとすること)はなるべく排除して’我が道’を摺り合わせて何事かを
見抜こうとする共同体には、個人参加が似合いとおもう。 もはや、集団単位
で参加するconsortiumから母集団への見返りである利益を期待しないで居る
ことは難しいからだ。
既にパリには、日替わりみんなの大学(定位置にハコ在り・有料)とでも呼べ
る連続講義が毎日一講義ずつ行われるという試みがあった。 少し前にはcafe
philoと呼ばれる哲学(風)談義が一部のカフェで盛んだった(場所不定=
ハコ無し・参加有料の場合もあった)し、東京には「トークライブ」ハウスが
あるという(行きそびれている)。 講演・講義・トークショウ・対談という
よりも私は、公開ディスカッション、を想像している。 何も、扱うテーマが
学術的なものである必要はない。 位相の異なる事柄を手持ちのものから抽出
してくる作業を体感できるようなcircusを、展開できないかな。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年5月8日<水>06時34分)
さて、現代語「七掛け」以前における「七」はやはり、豊か・多いという含み
を持つと考えてよさそうだ。 しかし、先日書いたような、厳密に七「回」等
という数値を表しているわけではない。 あくまでも、七「回」といえばやや
多い感じがする、ということである。
先に紹介したサイトの著述管理者である名護さんが、琉球神歌にある「五」と
「七」を対句に用いる典型的表現法について教えて下さった。 曰く、対象の
全体を十とみなし、その半分である「五」と、全体を目指す途上である「七」
を組にすることで(全体に近づいて行き)、「多数」とか「幾度も」という
感じを表現しているようだ、と。 <海岸の波が何度も押し寄せることを、
「五の波寄せて、七の波寄せて」と謡います。>という様は、まことに美しい
ものだ。
=====
咄嗟の計算が苦手などと広げてしまったフランス人にも、こういう東洋の話に
深く納得する者が居る。 美しく、論理的であり、生きものに自然であるから
納得できるのだと私は考える。 深く納得している者ほど、「東洋文化は素晴
らしい!」などと下手に感心することがない。 うまく表現できないが、実に
深く納得して、喜ばしい表情を見せる(それを見ると、私も納得して喜ぶ)。
globalとは、そういう瞬間に頭に浮かぶ語なのである。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年5月1日<水>19時53分)
(下からの続きです)
=====
フランス人には、引き算が苦手という傾向があるとおもう。 商店でも釣り銭
は、商品金額と釣り銭額を合算した結果が手渡した金額になるようにと渡す。
つまり、3euroのものを買って10euro渡すと、先ず商品をくれ、次に釣り銭
を「4-5-6---」というように、10になるまで手渡している、というように
出してくる。 また、100-28=? というような計算も苦手で、何度か説明して
貰ったことによると、どうも100+(-28)=72というような考え方をして、
引く・欠くという考え方から逃れた後に回答を出してきているようだった。
この、引く・欠くという思考は、ヒトには苦手なものなのだろうかと思う。
先の「七掛け」においても、「掛け」の意味を生かして同じ事を表現するなら
「三欠け」なのである。 そこへきて日本人には「七」が馴染み深く、しかも
同じ計算処理なら「引く・欠く」よりも「掛ける」ほうが、どうも心地よい。
また、数値の持つ意味合いとして「三」は熊野や神器、天下や坊主など、余り
「欠け」さすに爽快ではないから、やはり「七」が好まれるのかも知れない。
といううちに福沢翁のような西洋事情を知る者が「0,7」なる概念をもたら
し、たちまち「七掛け」は「三割引」の代名詞になった。 全体から三割程度
を指し引いてもなお「七」程度残れば依然として豊かで多い感じがするという
わけか。 愉しき哉。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年4月30日<火>22時52分)
「七掛け・なながけ」という言葉がある。 現代に於いては圧倒的に、全体を
100%(10割)ととしたところから30%(3割)を引いた残りの様子を指す。
ところが以前、とある商業流通関係者相手に「XXXを、なながけ で買った」
と言ったら、「そんなに安くしているところがあるのか」と言われてハテと
思った事がある。 その商業者は、なながけ=七欠けと考えていたようで、
しかも、商業流通関係者が通常店頭小売価格ではなく卸値に近い金額で品物
を買える機会があった場合、「七欠け」な値段であったことなど披露して
呉れた。
「七掛け」はネット検索で幾らでも見付かるものの、「七欠け」なる語の
使用は見付からなかった。 確かに、全体から幾分かを差し引いた残りが
「七」の数になった様のほうが、日本には馴染み深いような気もする。 草も
道具も不思議も光も「七」である。 しかしどうも、「七」の使われ方は、
豊かとか多いとかの状況を表現しているようであり、「七掛け」には不似合
いな気がする。 むしろ、大幅な割引という意味の「七欠け」が自然であると
さえ思えてくる。
「七掛け」という語は、沖縄歌謡のなかに出現していた(下記サイト左メニュ
の、沖縄の君が代の項、歌詞の35並びに37行目)。 どうもこれは神歌である
様子。
http://www.setouchi.ac.jp/~dnagoh/
(名護博・なご ひろし 氏のサイト)
また、湯立神楽/三宅島の湯立御湯立七掛けの歌、という民俗歌謡があるよう
で、これは字の如く煮立った湯に笹の葉を浸してから湯滴を振りかけるという
神事に関連した歌であろう。
http://www.pioneer.co.jp/onkan/materials/shinki0109_2.html
(パイオニア社 音鑑資料室のサイト中の記事)
上記歌謡の中での「七掛け」はどうも、七の掛け算を指しているのではないと
いう気がする。 七「架け」とか七「懸け」に近い感じ、つまり、七「回」で
あり、1*7を指している印象がある。
ところが、学問のすすめ 十一編・名分をもって偽君子を生ずるの論に
おいて、「三割を減じて七掛けにすれば」と、福沢翁は「三歳の童子にも勘定
は出来る」と、「七掛け」を、0,7の掛け算の意味として使っている。 この人
物辺りから、現在の「七掛け=三割引」の使用が始まったような気がするでは
ないか。
(上へ続く)Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年4月30日<火>22時50分)
ヒトのDNAの並び方を読む仕事を終わったら、途端にその仕事を応用する
仕事とやらに就くということで組織の責任者から外されたVenterであった。
「隠居させられてからどうしているかな」と思って検索なぞしてみようと
思っていたら、米国の新聞に登場していた。 面倒見のいい男である。 友人が
至近で姿を眺め喋りを聴いたことには「落ち着いた感じだった」とか。 この
ところ最も喋ってみたいと考えていた人物の一人である。
遺伝子と呼べるのは、ダラダラと続くDNAの並びの中の特定配列部分を、
何らかの形・方法でDNAがただ並んでいる以外のものであると特定できた
場合であると解釈できる。 つまり、並び方に意味を持たせる仕事をしたら、
それの意味を発見と定義する。 Venterは、その発見に対して特許を申請でき
ると主張し始めた男でもある。 「科学的発見を公のものとしない」として奴
は一躍、悪人と化した。 ヒトの全’並び’解読においても、国家間での協力
で目標を達成しようとしているところをカネの力で出し抜いた者、という形容
を与えられた。
彼が読んだ’並び’は彼のDNAのものだったと公表したら、「Craigらしい」
などとコメントしたり「驚くことではない」と発言した学者諸氏は、この解読
企画の際に何度か討論された、遺伝情報の個人への帰属とか個人情報の非公開
などという事柄はVenterには適用されないと考えているようにみえる。 我が
社は20名から提供されたDNAのなかから誰のものか判らぬように選別し、
という説明が真実を言い表していなかったことが露呈して動揺するほうが、
Venterの個人情報が世間に流れていることに対する考えよりも先に出た。
人権とか個人情報とかの美辞麗句は、実に実に、美辞麗句なのだ。
人権ならぬネズミ権なぞ無いことになっているネズミにおいては、実験室で
人類に貢献すべく遺伝情報を散々にいじられ、ネズミと呼べない形のものまで
生まれている。 人権があると考えられているヒトで動揺の操作を行うと、
やれ倫理だ危険だ見切り発進だと、世辞にも芳しいとは言えない形容の雨に
打たれる。 Venterは恐らく、人権の何たるかネズミ権の何たるかを心得て
いる。 その意味で、米国という組織が育んだ学者として最も良質なのでは
ないか。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年4月28日<日>03時43分)
TLCという女性三人組のうちの一人が交通事故で亡くなった。 彼女らは最近
の歌謡曲界に、女の子パワア基調とでも呼ぶべき傾向をもたらした、業界の
先達だった。 CBSの記者が考えつく限りの「気まぐれ・反抗・決裂」類似語
を並べ立てた事故報道から窺えるような人物が事故死したのだが、どうも、
ここはホトケに同情してしまう。
女の子パワア基調というのは、歌手を世に売り出すときの方針で、彼女らが
単に肌を露出してクネクネと謡い踊るだけではなく、厭なものを突っぱね、
社会の侮蔑的な眼差しに抗する意志を備えた存在である、とする内容を指す。
事故死したロペスがその方針を打ち出したか、ロペスを見た音楽関係者がそれ
を思いついたか、ディスクに収まっている彼女の喋りは若い人に印象的で
あったようだった。 TLCはじめ、似たような方針を打ち出した歌手は、何枚
もの売り上げを記録した。
ディスクが売れれば、製作会社は儲かる。 恋人の豪邸に放火したら全焼して
しまったという不良女に不良の主張をして貰っての稼ぎだ。 カネが後押し
すれば、不良でも抗エイズのメッセイジを歌に込めて、社会との親和性高き
スタアです!というわけだ。 ロペスに魔が寄ってきてしまったのは、折角の
不良根性がカネで曲がったからという気がする。
それにしても彼女は、住まいから焼け出された彼氏と一緒になれたのだろう
か。 法廷が放火に有罪判決を下そうと連中は、結婚するなどと言っていた。
真に素直に不良であろうとするには、思いの外にエネルギイを必要とするの
かも知れない。 家を燃やすことにそれを、使ってしまったか。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年4月27日<土>23時28分)
欲張りは神を目指し、お調子者は支配者として立つことを目指す。 頑固者は
聖人を至高とし、変人は指導者としての自らを夢見る。 しかし人類の歴史が
積み重なるほどに、神はもはやヒトに寄り添わなく、支配者は欲されること
なく聖人は出づることなく、指導者は指導に至らなくなってきた。
=====
「フーコーの」「エンゲルスが」「ニイチェの」と並べる知識人に感心して
いる場合ではない。 評論は借り物競走ではないのだ。 観察された現象に自分
の読書記録を塗して、誰よりも的確に文章を構築したことで満足していても、
今に計算機が同じだけのことをやってくれる。 やはり日本人にはあくどさ
が無いように感じる。
=====
カネは何故もこう、大人気であり続けるのか。「 銭・賎」の旁部分「戔」
(部首名では、さん・読みは、そこなう すくない セン サン)は、「戈」
(同じく、かのほこ・読みは、ほこ カ)が上下に重なって、相戦うことを示
す。 因みに「戦」の字は、盾を示す「単」と「戈・ほこ」の組み合わせ。
「戔」を音に持つ字は概ね、薄いものや薄いものを重ねる意である。
あらぬ(はずの)理由を根拠に生悪(的)な存在を規定し、幾ら賎としてみた
ところで、それらが不要な訳はない。 が、銭こそ生悪なのではないかと考え
ることがあるが、浅はかだろうか。
=====
必要に駆られない限り、勉強なぞせずとも構わぬとおもう。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年4月24日<水>10時06分)
西暦で云うところの第一の千年紀を「実行」の、続く千年紀を「検証」の
時期と考え、現在、第三の千年紀は、「実行」と「検証」を踏まえた「展開」
の千年紀を刻んで行きたいと、過去(31/12/00・過去ログには未格納)に
書いた。 手前味噌も甚だしいが、やはりこれからはalternatifの時代で
あろうとおもう。 「これもあるが、あれもある」ということである。 どれ
くらいの選択肢が表面化して来るであろうか? ヒトには「2」という数字が
親しみ深いものであるならば、alterという動きは一見、二大巨頭とでも呼ぶ
べき者らによって現実化されるかも知れない。
この度の仏国大統領選挙を機に全世界的に名前が知られるようになるであろう
仏人政治家が、ル ペンである。 彼が率いる政党の宣伝物は、中身が見えない
ゴミ袋のようなビニイルに収められた上で、拙宅のポストに入っていた。
すぐにそれとは判らぬ政治広告チラシを受け取ったのは初めてであった。ま
た、有料TV局の人気番組Les Guignolsは本物ソックリの人形芝居で、政治家
の風刺も得意なところへ来て、ル ペンの政見放送を茶化すには、黒いでっぷ
りとした猛犬を出して、呻り続けさせるだけであった。 他の候補者はヒト型
人形で、ヒト語を喋っていた。
ル ペンの得票率には確かに驚いた。 驚いたと同時に、こうして「これもある
が、あれもある」のうちの「あれ」にあたる選択肢が鮮やかに表面化してきた
ことには納得した。 FN党表面化を推進した原動力は、連中の主張内容が右翼
的であることでも極端と評されるようなものであることでもないと考える。
このフランスの現実を、国家が愛国・右翼化する一例として捉えていては洞察
に欠ける。 FNが浮上したのは、彼等の存在が、現代における選択肢の一つと
して明確であったからだろう。 明確であったが故に、差別的と受け取れる
方針を打ち出す政党FNの支持率はなかなか上昇せずとも、FNの主張は理解
できるという者は、数年前から、調査数の半分程度は居た。
「展開」の動きは、選択肢が複数表面化してくることから始まる。 選択肢が
見えてはじめて、ヒトはものを考えるだろうから。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年4月22日<月>08時19分)
仏国産オレンジ風味炭酸飲料「orangina」の日本発売名は「オレンジーナ」
らしいが、当地では「オランジーナ」である。 仏国にあって「オレンジー
ナ」呼ばわりをしているのは仏語のできない英米人と、外国語といえば英語と
いう者であり、日本での発売分においても、英語orangeはオレンジと発音
することを、登録商標の発音だというのに引きずっているというわけだ。
私がこの飲料の日本での発売元であったなら、迷うことなくこれは「オラン
ジーナ」である。 仏国産の製品であり、仏語orangeはオランジュに近い音
であればそこに英語の迷い込んでくる隙間はない。 何も、英語訛の仏語では
嫌がられるとか小馬鹿にされることは無い。 英語を交えて話をしようと
顰蹙を買うことはない。 しかし、この飲料の発音には、どうも聞き流せぬ
ものがある。
ある語があったときその語の役割を、「オランジーナ」の国では、純粋に捉え
ている・またはそうしたいと願う傾向が強いと感じる。 語に対してinnocent
である、とでも云えようか。 周囲の環境によって語には多彩な意味が生じる
ことは確かであるが、一語の指すものが的確であることが肝要なのである。
人々の間で、言葉とはそうやって的確な伝達を担える手段なのだ、と、どこか
で確認しあえている。 的確さを追求するから理屈臭いと評され、的確である
ことは大切と確認し合いたがるから、仏語使いはお高くとまって、と、見える
のかもしれない。
おまけ・最近気になって仕方ない、Odilon Redonの初期の作品
(晩年の彩色画には気を惹くものがない)
http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/redon/charcoals/redon.spirit-forest.jpg
それなりに名の知られた反(非?)主流人(B級・二流とは異なる)の一例。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年4月17日<水>05時49分)
セーヌ右岸にあったあか抜けないデパートを、フランス随一の巨大資本が
買収した。 実に前時代的な店で、カテゴリマネジメントとかそういう語には
無縁の店だったのが、盛んに店内を改装し、商品を入れ替え、外装を改め、瞬
く間に最近のパリにありがちなカッコイイ店になった。 カッコイイことは
悪くないのだが、この資本の手が入ると、すぐにそうと判る。 能がない。
直訳して「躰店」の、英国を本拠地に全世界に展開していた化粧品店が
やはり大きな資本を持つ組織に買収された。 環境とか自然との共存とか、
そういう、ちょっと小うるさいことを唱えていた店であったような気がして
いたが、経営不振を理由に身売りしたその後は、何の思想も面白味も無い店
と化していた。 この変化が完了するまでも、早かった。
日本で国民の何人に一人が観たというほどの観客動員数を数えたアニメ映画
が、フランスでも公開されることになった。 この映画を撮った監督の作品は
当地でも評価が高く、これまでに市内で何作品かが上映された。 ところが
今度は、街中の広告塔に大ポスターが貼られ、テレビでも上映の広告が展開、
驚いていたら、米国の巨大資本が上映権を持つ配給会社と結託しており、関連
商品を扱う権利も獲得したのだいうことだった。
これらがカネのチカラだ。 硬直していたものを瞬時に変化させる。 しかし、
これは、何のための変化なのだろう。 経済学部で唱えられている教義はこう
して確実に実行されているが、人間には、これ以外の選択肢が無いのであろう
か?Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年4月16日<火>01時20分)
公正だったか公平だったか、そういう語が好きな日本の大手報道媒体の伝える
ところだけを受信していては、やはり、井の中の蛙と化しそうだ。 日本は
鎖国をしているわけではないのだから、この時代にあって蛙化はそうそう
起こるものではないと思っていたのは、読みが甘かった。
日本では、alternative の紹介つまり、ある事柄における一つの意見ともう
一つの異なる意見そしてそれ以外の意見、というように、選択肢の多項を並列
して紹介する報道がなされていない。 報道を受け取る者が何らかの判断を
下すなり吟味をする必要がある、素材のような形で情報が提供されていないと
いうことだ。 日本の大手報道媒体が伝える情報は、それを鵜呑みにできる
形になっており、鵜呑みにさせるためにその形になっているとでも考えて
おいたほうがよさそうな気がする。
例えば拙投書の2月5日付けのもので書いたような、大手報道機関の懐の深さ
の違いに、日本の人々は従わざるを得ない。 それでもその時に、大手媒体の
国民蛙化傾向を軽減するようなものが存在すればよいのだ。 不思議なことに
日本では報道されないことを伝えるものが存在すればよい。
私は報道人ではないのだが、物理的に蛙化を免れる環境にあるので、せめて
こんな掲示板をご覧下さる方々には、日本蛙と化さぬような情報をお届け
したいと思う。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年4月15日<月>10時04分)
フランスが好きだった日本人、ということで澁澤龍彦のことをイメエジ検索
していて、イカしたサイトを見つけた。 澁澤龍彦はオウム貝と一緒に居た。
そのサイトは、「本人に似ている似ていないを越えた、私の人物像が出来上が
れば良い」という人形作家/ピクトリアリスト石塚公昭氏のもの。
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このところ、日本国外に向けて宣伝すべき日本の様々を探している。 日本は
これまで、自国の特殊なことばかりを宣伝し、その宣伝も、人間には何かに
付け印象というものが刻まれるということに依存して行われてきた。 その
ため、日本の特殊性が日常的でなくなり、かつ、人々の印象が薄れるに付け、
日本の存在は影の薄いものになってしまう。
もっと説明を加えて宣伝すべき、ヒトの心に肉薄した表現が日本にはある。
「これは私が想い、私がすべて造った作品であり、これは私なのだという事
を、物凄く云いたい私」を懇切丁寧つまり説明的に宣伝することが、日本を
国外に向けて紹介することなのである。 否応なしに国家や組織の特殊性が
薄れつつある昨今に、それでも全ては均質でないことを示すには、殊更に特殊
性を示すのではなく、どこまでが似ているのかを示せばよい。 石塚氏のよう
に、「いずれにしても、テーマが、生と死だろうが黒人だろうが男や女だろう
が、人の形ほどおもしろいものはなく、人間に対する興味はつきない」その
思いこそ、一個の日本人の考えとして広めるべきなのだと考える。
http://www.hf.rim.or.jp/~kiamiki/index.htm
人形作家/ピクトリアリスト石塚公昭氏のサイトName : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年4月14日<日>05時35分)
当地のケエブルTVで深夜に、The Ed Sullivan Showを放映するというから
観ていた。 The Ed Sullivan Showは、米国で1950-60年代に放映された
大衆娯楽音楽番組だ。 そのころ発生し出したロック音楽や、まだ’歌唱’色
の濃かったポップス、手品やミュウジカルのサビ場面、踊りもあり、、、の、
大人気番組であった。 私にとっては’伝説の’米国テレビ番組といった
ところ。
そうしたら、日本人グルウプのブルーコメッツという四人組が出演し、
「Ga-ga-ku」なる一曲と、彼等の大ヒット曲「ブルーシャトウ」を
演奏していた。 赤いシャツに白いジャケット(これが日の丸を連想させ
る)、黒のズボン姿の黒髪東洋人が先ずは、和音階で謡い無しの一曲。 その
後、米国人歌手など挟んで二曲目が「ブルーシャトウ」で、琴なぞ取り入れ
て、謡いも英語。 観客の米国白人はちょっとした東洋の味わいに大喜び。
と、思っていたら二番は日本語で謡っていた。 その時の四人の開放された
ような、嬉しそうな謡いっぷりもよかったし、日本語の一語一語が実にハッキ
リと謡われるのがよかった。
きっとあなたは 赤いバラの
バラの香りが 苦しくて
涙をそっと 流すでしょう
夜霧のガウンにつつまれて
静かに眠る
ブルーブルーブルーシャトー
ブルーブルーブルーブルーブルーブルーシャトー
(橋本淳 作詞・ジャッキー吉川とブルーコメッツ「ブルー・シャトウ」)
観客の白人の誰も解さなかったであろう日本語の歌詞、嬉しそうに謡う歌手、
、、、と思ったら、不覚にも落涙。 やはり、ドイツが攻めてきて仏語禁止の
目に遭ったら、口をついて出るのはvive la France、なのだ。 日本語は、
いい。 日本もいい所だ。 でも、今の日本人には、あのブルーコメッツの連中
のように嬉しそうに日本語を繰る者は少ないのだろうな。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年4月13日<土>08時07分)
さて、ヒトにおける遺伝子型の同一な個体の発生である。 これについて何か
書かねばなどと考えている内に、事態は見る見る進んでいってしまう。
遺伝子型の同一な個体を発生させること、所謂クローン化について、是か非か
と問うことは止めた方がよい。 ヒトのクローン化について何と思うか?と
でも尋ねるべきである。 是か非かと問うことと同時に、是である非である
との反応を得て満足していることも避けるべきである。 現状で出される是非
の意見は、自分の抱く感情並びに考え得る範囲で最大限の論理を吟味すること
によって出された結論ではないからだ。
ヒト種のクローン化について考える時、次の二点に注目することを提案する。
特に、最初の一点について。
* 人権とは何かということ
--ヒト種の間における統一規格が人権である
--ところが、自然界におけるヒトの位置・存在については未確認である
*利益・利権が絡むことで研究開発は稼働を停止できなくなるということ
--医療に役立つ、とは金持ちの大義名分ではないか
--素直に科学を信仰している裏ではやはりカネが動くものだ
現状では、原爆が炸裂しようと化合物で土壌が汚染されようと、科学技術は
我々に恩恵をもたらすと、未だに信じる傾向が強い。 信じるチカラは、恩恵
にあずかりたいという願いから発生するものだ。 倫理云々を叫んでクローン
化反対が唱えられつつも、羊のドリーのヒト版誕生となれば、その報は多くの
興味を集めるに違いない。
自分の欲望に対して無神経・無感覚になってはならないのだ。 自分で自分の
首を絞めないようにするためには、あわよくば恩恵という恩恵にこそあずかり
たいと心の底で思ってしまうその欲望を直視してから、人権だの利益だのと
いうものについて考えてみる必要がある。 因みに、当事者の科学者には、
こんなことをツラツラ考えている余裕は無いものだ。
(続く)Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年4月12日<金>07時03分)
人類の敵は貧困であるなどと聞くことがある。 国連職員なぞが好んで主張
しそうな一言だ。貧困が人類の敵と言えるのであれば、金満も同じく敵である
とおもう。 こうやって、何が敵かを挙げているとキリが無い。 それなのに
何が人類の味方であり自らの身へたぐりよせるべきものであるか?と考える
と、これが意外に浮かばぬものである。 理想と空想は違う。 理想とは、実現
することを信じ目指して自分の内に抱くものだ。 人類の味方がなかなか思い
浮かばないとは、その者における理想の不在を表している。
かつての日本に「人は阿留辺幾夜宇和(あるべきやうわ)の七文字を持
(たも)つべきなり」と主張した僧が居た。 それぞれの者には’そうある
べき様子’があるのだということだ。 ここでもまた、あるべきよう、と、
あるがまま、とは、互いに異なるものである。 あるがままを見ると卑屈さが
目立つイングランドでも、あるべきよう、に考えが行っている時には、
なかなかいい言葉を繰り出すものだ。 strength, dignity, laughterという
三語が、皇太后の葬儀で出された。 貧困や金満を目の敵にしているよりも、
strength, dignity, laughterを誰もが保てる世界を目指す---これは悪く
ない。
あるべきよう、を追い求めるヒトはそこに、人類の味方を見つける。 仏国
が国のあるべきようを追求したときには、liberte, egalite, fraterniteの
三語を見出した。 見出しておいて何もしなくては、言葉の指すものを空想
しているに過ぎない。 strength, dignity, laughter/liberte, egalite,
fraternite---これらを現に人類の味方にしてゆこう。 さて私には、貴方
には、何が出来るか。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年4月10日<水>00時36分)
これより一つ前にあった書き込みを削除しました。 こんな掲示板にまでご出張
とはマメだなぁと思いつつも、ここには不要の書き込み内容でしたので、消し
てしまいました。
適当な人名を使い、見たくないようなサイトへ繋がった転送ウエブアドレスを
使っての書き込みがあります。 何のサイトだろう?という興味は沸くものです
が、大概は、二度と訪れないようなサイトへ飛びます。 ということで、この
ようなサイトを開けずに過ごすのは、自分の興味を押さえているのではなくて
露出する必要のない我欲を鎮めることなのだという気がします。 「面白い
サイトなら見たい」という欲を、ね。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年4月7日<日>19時04分)
「狐」と名乗る書評者が居る。 何やら得体の知れぬ他人の感想や解説には
興味がないので、日本発売の音楽盤や文庫本の解説、雑誌や新聞の書評の類
は殆ど読まないのだが、清水幾太郎『私の文章作法』(中公文庫)の解説は
本文の勢いのまま読み進んだところ、とてもよく書けていた。 その解説の
書き手が「狐」だった。
「狐」の著作紹介は、実に著作を紹介している。 紹介者から出てきた言葉が
文章になっているのだが、著作を紹介する形をとった「狐」の自己紹介には
なっていないところがよい。 最近、こういう物書きは少ない。 最近の文筆家
の作品は、文章として売っているようでいて、しかし、その内容を表現する
手段は文章でなければという特異性が感じられない。 著者連は、最終的には
画像と肉声を伴って自己主張をしたいのだろう。自己主張には手段を選ばず、
といったところだ。
幾ら「狐」が書評・解説という領域から出てこなくて、しかも自己主張に溢れ
ていない文章を書き続けていても、そこには「狐」が居る。 「狐」が滲んで
来る、としたほうが的確か。 その滲み方は、人間の自己主張として丁度よい
加減であるとおもう。 というのは、一個の人間は、本人が主張したいほどに
大した存在ではないと考えるからだ。
一般向けに沢山の記事を書いていると、下司な学問界ではその人を「総説屋」
と呼んで揶揄し、小馬鹿にすることがある。 小馬鹿にする必要はないのだが
「総説屋」呼ばわりされるには一理あると最近思うようになった。 自然科学
の徒が下手に直接的な自己主張をしてどうする、という疑問が、「総説屋」の
語には込められているのではないだろうか。
たれもが自分可愛さに自己主張をしたくなる傾向は理解できる。 しかし、
同じヤルにしても自己主張は、書物や実験結果の物陰から行うくらいで丁度
よいと近頃感じている。
「狐」の書評を読めるサイト
http://homepage2.nifty.com/bookbookbook/foxlist.htmName : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年4月5日<金>20時05分)
味わいのある文章を読みたい。
この世の中には、豊かな情報量に裏打ちされて政治問題や国家間情勢を的確に
分析・解説してくれる人物は多い。 緻密で地道な学術研究の成果を詳細かつ
丁寧に教示してくれる人物も、かなり居ると感じる。 そして、全ての努力に
は価値がある。
それでも味わいのある文章が少ない。 勿論、自分が過去に書いたものを読ん
でみても、味わいの不足は同様である。
他人に媚びるから、書き手の味わいが削げるのではないか?
今後はここに書くにも、少し気分を変えたものにしてみようとおもう。
何だか、ちいちゃく纏まってしまったらつまらない、のだ。
実体のよく解らない釈迦の掌のなかで転がるならまだしも、北米国の誰かが
作ったテストのスコアに「語学能力」を測定される、なんてのはどうだろう?
やだやだやだ。
魅力的なものを見つけたい。 身の丈を知りたい。 存在を喜びたい。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年4月5日<金>02時02分)
このまえ日本を往復したとき、カアド式の携帯電話を購入しようとしたら、
日本国の居住者ではないということで、買えなかった。 この、購入ができ
ないことの理由が、論理的に理由として成立しているものならば、私はこうも
気にしなかったことだろうとおもう。 パスポオトを眺めて「居住証明ができ
ない」由を言い張ることには、かなり呆れた。
身分証明・人物証明は、簡単ではない。 完璧に証明することは、恐らく無理
なのだろう。 しかし、国家が存在して機能しているのであれば、現状に存在
する手段を用いて最も精確な証明をする方法を規定していて然るべきだ、と
私は考える。 日常的な人物証明に用いることが出来そうな書類その他は、
国民であることを証明するものと、居住者であることを証明するものとに大き
く分けられる。 もはや、居住者=国民とは限らぬ時代なのである。
異国民の居住者が自国に居るということがまだ、日本国民の間には認識されて
いないのであろう。 日本での人物証明は大層に甘かった。 国民の証と居住の
証を混同している場合ばかりであった。 人物証明を必要とする作業にあたっ
ていた者が、何のための人物証明か、何によって証明されたとするのかを
判っていなかった。 犯罪者だろうが、政治犯だろうが、訳ありの人間が潜む
のに、日本は絶好の地であるという感じがした。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2002年4月3日<水>02時43分)
