フランスの、そして、人類の歴史において広範囲かつ多様な影響をフランス
以外にも与えた出来事が、フランス大革命でありました。 革命は一日にして
成らず、fete nationale(直訳では国家の祝日)である7月14日は、少なく
とも10年間に渡った革命的期間に象徴的な事件が起こった日に過ぎません。
(それにしても、検索サイトhttp://www.google.fr/に三色旗が揚がり、
Liberte, Egalite, Fraterniteと書いてあることに、何故に私がグッと来る
のか?)
この日には朝からChamps Elysee大通り(因みに、Champs は特定用途の
為の場所の意で、パリ市内でChamps が付く場所は、練兵場とか軍の行進
が行われた場所だったりするように思う)でdefile militaire(軍隊パレー
ド)があります。 凱旋門の内にはためく巨大三色旗を背に、コンコルド広場
までの行進です。 この行進の先頭はフランス国家運営責任者の大統領です。
昔で言えば近衛兵にあたる共和国警備隊が現在は大統領の周りを囲み、シラク氏は軍用車に乗っていました。 パレード終点に着くと、大統領は車を降りて
楽奏隊と相対し、国家演奏を聴きます。 その後自分の席に行って、国家の軍
装備の様を眺めるという具合で、大統領の目前へと隊列が進行してゆきます。
フランスの国家を象徴するものは人間ではありませんから、国家運営責任者
は、その場面を共有しているどこの誰とも寸分違わず、Liberte, Egalite,
Fraterniteを表す三色旗を仰ぎ、物議を醸しながらも「行け行け!!」と謳
う国歌に対峙するのです。 制服や団体行動はどうにも苦手そうな仏人が、
この日ばかりは軍服と隊列を観にChamps Elysee(当日は当にエリゼ閲兵
場と化している)に集まります。 これはフランス国家の「ハレ」なのだと思
わずには居られませんでした。 テレビでも中継されるこのパレードで、人々
は現行国家の存在と構造を確認するのでしょう。
軍隊パレードのあるこの日は大概薄ら寒く、今年は寒さに加えて雨でした。
雨は「大して気にならないよ!」という観客に軍人に、自分もすぶ濡れで通り
を下ったパレード直後はテレビ局の共同インタビュウで国家運営と自己の醜聞
にコメントする大統領に。 この直前に2008年オリンピック開催地が北京に決
定したとの報を受けたのだけれど、国内でのヤル気が今ひとつなものがパリへ
やって来るわけがない。 この国の人間のヤル気はそんなものではないという
気がします---「ハレ」を知っている人民だから。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年7月15日<日>20時39分)
先に触れたBjorkという歌手が八月の終わり頃にパリでコンサートを開き
ます。 海外からやってくる歌手は、特にこのようなロック・ポップの類の
ものだと、ほんの一日二日の公演しかやらないことが多いのですが、彼女は
会場を換えて二日ずつのコンサートを開くようです。
先に会場となるのは、パリのなかでも古い映画館/劇場であるGrand Rex
ぐらん れっくす です(下記サイト参照)。 ここの舞台の周辺は赤いビロード
(すり減ってきているが)張りで、前時代的で退廃的な雰囲気が漂います。
音楽用にここを使うのは、結構アクのある者ばかりであるような気がします。 そうでないと、会場の重い雰囲気に公演が圧されるのでしょう。
*Le Grand Rex 75002 (AlloCine)
http://www.allocine.fr/salles/detailsallefilm_desc.asp?ARG1=C0065&
建物の外観と客席の様子(サイト下部小写真をクリック)を見られます
もう一カ所のコンサート会場は、Sainte Chapelle さんと しゃぺる という
これまた中世以前の小さく美しい礼拝堂で、セーヌ河の中島にあり、パリの
へそに宝石が埋まっているような存在です。
*26 avril 1248:
Consecration (教会の献堂) de la Sainte Chapelle
http://myweb.worldnet.net/~larane/histoire04262.htm
鮮明な内部写真があります
*La Sainte Chapelle
http://architecture.relig.free.fr/chapelle.htm
タイトル下の怪獣や尖塔をクリックすると、他の写真が見られます
=====
先に、このBjorkを、最近の”スポンヂ”女ではないかと書きました。 その
スポンヂに液体を含ませているのは、Soul II SoulやMassive attackを
売り出した人物なのであると新聞で読みました。 これらの大衆音楽グルウプ
はそれぞれの時代に印象に残る作品を残していると私は思います。 それで、
そんなグルウプを売り出した人物が、Bjork(因みに、ビョークと読む・
この女性はアイスランド出身)をパリで如何に’見世’るかと考えた結果が
先述の二カ所の会場の選択になったのでしょう。
コンサートの値段は大概、日本で外国から来た歌手を観るよりも単純比較では
安いのですが、このBjorkのコンサート、特に礼拝堂での二日間の価格は、
パリのオペラ座での最も価格設定の高い出し物を、舞台かぶりつきで観るに
等しいという程の値段です。 パリの若者はこれでは寄りつけないでしょう。
古めかしくて重厚な会場で、ちょっと攻撃的でいかにも近代的な電子音楽を
奏でようという趣向は、ネオ クラシックならぬ、ネオ モダニズムであると
いう気がします。 しかし、音楽ホールとしても建てられているレックスで
ならまだしも、あの小さな礼拝堂を使うのは如何なものか。 最近は、宗教的
建造物を利用して非宗教的な催しを行うことが多いような気がします。 パリ
の教会も、宗教音楽以外の演奏会に利用されます。 それでも私がBjorkの
礼拝堂公演に否定的なのは、パリの小さくて美しい礼拝堂が、商業興行の成功
を目指す者に利用されることがイヤだからかもしれません。 何を芸術活動と
呼んで何をpopularityによる商業的成功を目指した活動と呼ぶのか、こんな
時に問われるのではないかという気がします。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年7月13日<金>01時16分)
わた坊、書き込みして下さってどうもありがとう。 自作の詩の朗読が螢
チャンのやりかたなのだとしたら、独り芝居みたいな表現方法はよさそうだ
ね。 木琴なんか叩きながら「カゼドケイ、、、」て、やるのはどうだろか?
=====
欧州の靴文化を持つ国では、靴は衣服の一種のように考えられているよう
です。 実際のこの辺の人々を見ていても、靴を衣服同様に考えている様を
強く感じることはありませんが、自宅へ帰ってきていきなりシャツも下着も
脱いで裸にならないのと同様に室内でも靴を脱がない、という感覚を持って
いることは感じられます。 他人の目の前で靴を脱ぎたがらない者も居ます。
靴下履きであったとしても、それは、下着姿のように感じるのでしょうか?
、、、というような存在である靴の手入れを、専門家に任せるのは一つの
選択です。 私は靴だとか毛編みのものもできるだけ自分で手入れしますが、
街には衣服のための洗濯・クリーニング屋が、そして、靴のための靴磨きの
人々が居ます。 この靴磨きの人々、実はパリには余り居ません、、というか
お目にかかったことがありません。 靴修理店はあります。 ロンドンや、
このあいだ行ったリスボンには居ました。 この靴磨き屋さんのスタイルで、
私にはどうしても好きになれないものがあります。 ロンドンやリスボンの
それなのです。 靴を磨いて貰うお客は、靴を履いたままで居るので、何やら
テニスの審判の席のような高いところへ腰掛けます。 それで、目前の高さに
ある靴を、職人さんが磨きます。
人前で靴を脱がない習慣と、職人さんの働き易さの双方を考慮したなら、そう
いう仕事場の造りになることは理解できます。 でも、高いところへ座って、
手入れが必要な靴を履いている者が新聞を広げ、その靴を職人さんが磨いて
いる光景は、私には決して微笑ましいものではありません。 私が考えすぎ
なのかもしれませんが、その手の靴磨き屋さんがパリにないことを考えると、
ロンドン人やリスボン人の平等感覚はいかなるものなのだろうかと思います。
そして、これまた考えすぎの暴走かも知れませんが、そのような靴磨き屋で
靴を履いた足を差し出していたのは男性ばかりであった事も気になりました。
あの構造がスカアトには向いていないといことも事実として、あります。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年7月10日<火>20時48分)
螢。音楽の質は相当低いですよね。あと、やっぱ今だけ感は
否めないですね。先日螢のライブ(一人芝居みたいだった)に
行ってきたのですが、過去を語るしかできなかった彼女に、
これから期待するのがちょっと難しくなりそうでした。でもすき。
ちなみに、ファンはアイドルマニア的な人が多くてびっくりでした。
ウーン‥
http://members.tripod.co.jp/sinaps/Name : わた Mail : sinaps@geocities.co.jp
Time : (2001年7月10日<火>12時49分)
「螢」が、そのひとの名前でした。 失礼しました。
自分の書きたかった事柄が先に転がってしまって、漢字に気を遣えなかった。
失礼しました「螢」チャン。 御免ね間違えて。
あと、我ながら思うのだけれど、ブロンディ・レベッカ・ユウリズミクスと、
旧いねぇ、例が、、、、、。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年7月8日<日>21時11分)
(下からの続き)
=====
人間の”XXXもの見たさ”を刺激するといえば、ホテルで観ていたMTV。
印象に残ったものを以下、列挙してみます。
*Nikka Costa / Like a feather
Nikkaと先ず画面に出てきたのを観て、先ず、「なんだ日本のウイスキイ
か?」と思わされたのはご愛敬。 露出度の高い衣装でクネクネしながら唄う
割りに、動きがミック ジャガアのようで、つい、見入ってしまいました。
ロックが好きなのだなと思わされる動きがやがて、あの歌唱を爆発させるで
あろうと思いました。 歌唱にはまだ、ロックのドロドロが無かった。 でも、
身体が動くということは魂が備わっていると思えるので、今後に期待。
*U2 / Elevation
これは最近の映画に用いる曲なのか? それにしてもその映画(または、あた
かも映画のようにU2がヴィデオで使っている場面)は、都会で闘うヒロイン
もの、もっと言うと、ゲームの実写もののようでありました。 髪をきっちり
まとめた男顔の、それでもグラマラスな肢体の女が拳銃を撃ちまくったりす
る。 ゲームCGの世界で人気の登場人物がその女なのだろうけれど、ゲームで
は飽き足らなくてやはり生きている人間に似たような格好をさせたのか。 U2
自体はヴィデオの最後で、強烈な向かい風に吹かれながら演奏をしていて、
好感を持った。 やはり彼らには向かい風が似合う。
*クネクネした女ども
当世で人気のある女性セクシー歌手が何人か集まって、Moulin Rougeなる
タイトルの曲のヴィデオを作ったようだった。 中身は古典的girlie show。
露出度の高い衣装でクネクネという表現はいつの時代にも存在するのだろう
けれども、マライア キャリー(こないだまではお高くとまっていたのに)も
元スパイスガールズもジャネット ジャクソンも、そして、男性ラッパーと
共に登場する女共と揃いも揃ってクネクネされると、いい加減に気分が悪く
なる。 しかし女は、そんな類の他人を掴む表現が得意なののかも知れない。
*manga=cool
マツモト レイジ氏の手による作品、そして、その他にもcoolを連発する
ラッパーのヴィデオと、manga的なものが、まるでjudoのように日本国外に
出ていったことを感じさせてくれた。 今月のエールフランス機内誌はアジア
特集なのだけれど、その中でもmangaに関する記事は(磯村尚徳氏の原稿と
同様に)、フランスで日本・アジアのことを紹介するときには欠かせないもの
であるように見えた。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年7月8日<日>20時17分)
刹那というのは、一説では、1/75秒間くらいを指すのだそうです。 この世
にはそうも、刹那的、つまり、短命そうであることや継続期間が短そうである
ことが支える価値というものが存在するように感じます。 しつこいのですが
短命そうであることや継続期間が短そうであることとは、過去を振り返ってみ
て短命であったことや継続期間が短かったと認識できるものとは異なります。
将来の予想は現時点で不可能であるのに、その不可能さを踏まえた上で尚も
アレは短命そうだ、永く続かなさそうだと想像してしまうことを指します。
「蛍」チャンも、触れる者に、アレは短命そうだ、永く続かなさそうだと
感じさせるから魅力的であるような気がします。 カゼドケイ(BMGファン
ハウス)という盤を観て、聴く前に思ったのは、bjorkと似てなければよい
が、、、ということでした。 bjorkの塊(本人と、その近辺に居る者の
集団を指す)は、好き嫌いはともかくそれなりに印象的であるので、あれと
似ていると、「蛍」チャンを的確に捉えられない気がしていました。
スポンヂみたいな女(それは男ではなく大概女である)を中核に据え、その
スポンヂに液体を含ませる者や液体の者が集まって塊を形成し、その塊が
聴衆観客を惹き付けるものを作り出した例は、先述Bjorkに限らず存在した
ように思います。 大衆音楽の世界ではそんなカルトな創作手法が時々、大衆
の面前へ浮上することがあります。 ブロンディ(英・デボラ ハリー)だの、
レベッカ(日・ノッコ)などは、その例じゃないかと思います。 それで、こ
れらのスポンヂ中核塊はパルスのような存在で、実際に短命でした。
そんなスポンヂ女が短命そう/永く続かなさそうなことが魅力的に見えて
魅力的なこととは、実に、見世物が見世物として成り立つことと同様の理屈
を共有していると思います。 人間の”XXXもの見たさ”を刺激するのです。
”XXXもの見たさ”に動かされているのは聴衆観客のみではなくて、スポンヂ
塊に荷担している者も、スポンヂ女を通して”XXX”の世界を覗いているのだ
と思います。 聴衆観客もスポンヂの取り巻きも一通り”XXX”の世界を眺め
たらスポンヂ女からは離れて行く---そうしてスポンヂ女は短命に終わる。
スポンヂ女も多分、そんな自分の行く末には薄々気付いているのではないか?
こんなことをツラツラ考えつつ聴いてみた「蛍」チャンは、やはりBjorkと
似た存在のように感じられました。 しかも、付随している音楽の質が低くて
残念。 ただ、スポンヂ女がスポンヂを脱却する例もあるように(スポンヂで
あることが好ましくないとは言えないのに)思います。 やはりメジャーの例
で言えば、ユーリズミックス(英・アニー レノックス)か。 後のレノックス
の単独アルバムがカヴァ曲集であったことが彼女のスポンヂ性質を振り返らせ
てくれたけれども、その時点でのこの人は自主的に乾湿を繰り返すスポンヂの
ように見えて、それはそれで認識に耐える存在でした。 「蛍」チャンは今後
どうなってゆくでしょうか?Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年7月8日<日>20時15分)
(下からの続き)
私は、生命科学の仕事に関わることによって、生命とは何かという疑問に答え
たいと考えています。 生命を如何に説明するか?ということに日々、取り組んでいるつもりです。 その際私に於いて明らかなのは、「ミミズだーって、
オケラだーって、アメンボだーってー、、、みんなみんな、生きて居るんだ」
(友達かどうかはまだ確信できない)ということです。 そして、生きている
ということにおいて違いがないのなら、ミミズ・オケラ・アメンボとヒトの
間には、ヒトの人種間と同様に、尊卑優劣という形容は適用できないのです。
学問なるものを生み出したヒトという生き物の知性は現在、自己評価において
愚かな傲りをヒトに植え付け、ヒトは、ヒト以外の生物と異なる、格段に凄く
て尊い生き物なのだと考え始めているように私には感じられます。 恐らく、
生命科学の分野の研究者の大多数が、ヒトはヒト以外の生物と異なって格段
に凄くて尊い生き物なのだと考えた末に、ヒトの疾病に応用できる研究ばかり
に重点を置き、生命とは何かという疑問に答えるという頭がないからだと
思います。 ヒトの生命ばかりが生命ではないのです。
ヒトという生き物の知性は、ヒトに傲りをもたらす学問を発展させるために備
わっているものではないと私は考えています。 如何にヒトを系統樹の末端に
書き添えるか・書き添えるために我々は何を理解せねばならないかを検討する
ためのものだと思います。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年7月6日<金>19時56分)
学問なるものを考え出したのは確かにヒトという生き物です。 その学問は
生物進化(私は、生物変化と表現した方が適当であると思う)が太古の昔
からどのように起こってきたかを検討し、現在のヒトが現れるに至った
過程を明らかにしようとしています。 この検討とは、この世のありとあらゆ
る生き物の一種であるヒトを何者としてとらえるかという、定義探しの為の
検討でもあります。
=====
生物種が異なれば、その見かけから生活様式から、ありとあらゆる事柄も
異なるものです。 つまり、個体間において何事かが異なることとは、現時点
でヒトが観察できる範囲に於いて明らかなことであるといえます。 生物種
ばかりでなく、ヒトという生物の中においても、人種や性別、老若だの身体の
調子が、個体間の違いとなっています。 学問なるものを生み出したヒトの
知性は、ヒト種のなかでのこれらの個体の違いは、尊卑優劣という形容に結び
つかぬものであると認識しました。
では、生物種が異なる個体間における違いについて、ヒトという生物は
どのように考えているでしょうか?
ヒトは、ブタやハエとは異なる生物です。 異なるのですが、私は、ヒトと
ブタやハエの違いは、尊卑優劣という形容に結びつかぬものであると考えて
います。 確かに現在のヒトの知性はヒト自身によって貴重なものとして位置
づけられていますが、自分らで自分らを評価している以上、その、ヒトの知性
は高度で貴重で尊いものなのであるという評価は、「尊大な自尊心(中島敦
著『山月記』参照)」の産物であることを忘れてはなりません。
ヒトの自己評価は時に、自分らの知性を高度で貴重で尊いものとしてとらえた
為に、ヒトの存在を反自然的、つまり、現存するあらゆる生き物が構成する
世界に妙な流れを起こすものとして位置づけることがあります。 が、生き物
の間の違いは尊卑優劣という形容に結びつかぬものであると考えれば、幾ら
高尚な知性が備わっているように自己評価できても、ヒトの存在は何ら自然界
から浮いたものではなく、浮いたものではないと考えられているが故に、
生物進化(生物変化)の系統樹の枝の末端にヒトを書き添えるのでしょう。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年7月6日<金>19時55分)
リスボン市内を歩いていると、あれもこれも、何だかフランスでみたことの
あるようなものばかりです。 会議で親しくなったドイツ人は、あれもこれも
ドイツでみたことのあるものばかりだと言っていました。 それもそのハズ、
ポルトガルにはEUから巨額の援助金が注ぎ込まれているらしい。 その援助金
を使えば、近未来的路面電車やガラスとタイルを多用したカッコイイ造りの
巨大地下鉄駅は出来上がるし、テージョ河にかかるもの凄い吊り橋(米国は
サンフランシスコの有名な橋と似ている)も架けられましょう。 外国資本
企業の集まった新鋭ファッションビルもあります。 ところが、そんな最新型
ビルのある高台から少し坂を下りた所、SF映画に出て来そうな路面電車が走
り抜ける地域には、日射で外壁が灼けて傷んで崩れそうになった建物が並んで
います。 崩れそうな所に人々が住んでいるのは、建物を見上げると洗濯物が
何列にもなってはためいていることで判ります。
ヨルダンに行った知人は、立派すぎる高速道路が走る国土に暮らす人民は
決して豊かには見えなかった、と、また、アフリカへの”援助”の実際に
関わる仕事をしている知人は、立派な病院が建っても、点滴をする針がない、
と言っていました。 ここリスボンでも、そんな話ばかりが思い出されます。
EUの”援助”による物事の数々は大層立派、でも、ここに暮らす人々に笑顔
はなく、疲れたような埃っぽい表情ばかりが目に付きます。 国家の自活力が
弱いことが窺えます。 これから一層の統合を目指す欧州連合にあって、国家
の勢いがないところは連合体の勢いを削ぐと考えての援助なのだろうけれど、
最新式電車に乗る人々の顔が曇っていては、連合も協力もあったものじゃない
という気がします。
ヨルダンの高速道路にモーリタニアの小学校や病院、リスボンの交通機関
からテーマパークの乗り物、大学院の学位論文、流行の形の服や靴、、、。
みてくれのよさが中身のよさを表していると思い込まれていることの、何と
多いことか。 何のための”援助”か。 何のために外面を整えるのか。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年7月5日<木>06時07分)
粥川さん、わた坊、書き込みをして下さってどうもありがとう!
リスボンついで?に、喋り書きで参りましょう。
いやはや、シツコイ性格というのはどうにも、イヌ君も喰ってくれませんな。
イヌ君が喰ってくれなくても、私は、「おお、居る居る」と認識しているよ。
>しつこい方々(苦笑)
今回の同伴ディスクは、
*Carol King / Tapestry
*Miles Davis / On the corner
で、蛍ちゃん(堪らぬエエ女なのか?むむむ)は未だ聴いていません。 実は
あんなに連れて帰った東洋語語歌唱のディスクも、オキナワ語ネーネーズしか
聴いていないのでした。 何故かなぁ、、、何となくね、、、。 また、同伴の
書籍はMarie Curie著 Pierre Curie (Editions Odile Jacob)です。 この
男女、ノーベル賞ゲットで凄いやスゴイやなどという日本のコドモ向け伝記書
が甘チョロく感じるような人物であったように私は感じています。
いやはや、とにかく書き込みをして下さってどうもありがとうございます。
確かに、多くを望みすぎなのかも知れないけれども、こんな具合でぼちぼち
参りましょう。
=====
ぼちぼちといえばリスボンです。 会議への出席が目的で来ているのですが、
その会議の合間に、私がよほど暇そうに見えるのか、建築家みたいなドイツ人
が寄って来て、仕事話はそっちのけでブンカ談義をしてしまいました。 自分
のことは棚にあげておいて、世界にはシツコイひとがまだまだ居るよ、、、
と、思いました。 リスボンに来ておいて、会議場と宿屋を往復しているので
先ずはドイツ人のご報告。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年7月2日<月>07時36分)
どうも。わた坊です。螢はどうでしたでしょうか。正直なところ、未熟な面もあるでしょうが、
それよりも本人の魅力がたまらないです。それ故正当な評価をしづらいのですが。
意志疎通についてはぼくもいい加減疲れてしまい、自虐的になったほうが楽なのではと
思うことが多くなってきました。毒舌と言われ、近い人程傷つけてしまうこの性格
じゃ、多くを望みすぎなのかもしれませんし。
ダンサーインザダークについては同感すぎてもはや書くこともないのですが、
悲しいことで感動する人間が正しいという周りの風潮がとても嫌でした。ここを見て
ほっとしました。では、また。
http://sinaps.tripod.co.jp/Name : わた坊 Mail : sinaps@geocities.co.jp
Time : (2001年7月1日<日>22時18分)
(1)忙しさにかまけて、感想や意見についてのお返事等が大幅に遅れてしまったこと、(2)よくサイトをチェックもせずに勝手な推測をしてしまい、そのうえで勝手な意見を述べてしまったこと、についてはお詫びします。申し訳ありませんでした。
「ヒト個体間の意志疎通の限界」を感じることは僕もよくあります。僕も「インターネットでは仕方ないな」とか、「職業や世代が違うから仕方ないから」とすぐ諦めてしまいがちなのですが、それでもお互いに忌憚のない議論をすることで何かを生み出せないだろうか、といつも考えております。ソクラテスや中島義道氏(『日本のうるさい私』など)に負けぬ、ばんまいさんのねばり強さには敬服いたします。
「日本も、ヒトの意志が通う、愛のある処になればよいのにね」(6月12日)など、日本社会批判(?)ははずれてもいないと思いますが、日本なりの議論の文化が育つ土壌はあるのではと思います。今度日本に来たときには、新宿のライブハウス「ロフトプラスワン」(ご存じですか?)など覗いてみられたらいかがでしょう?
ヴェンダーズが描いた美しい街の報告も楽しみにしております。
http://www.jca.apc.org/~kayukawa/Name : 粥川準二 Mail : kayukawa@jca.apc.org
Time : (2001年7月1日<日>12時04分)
粥川さん、書き込みをして下さってどうもありがとうございます。
私はこのところ、ヒト個体間の意志疎通の限界のようなものを感じては
落ち込んでいます。 粥川さんの書き込みが私を落胆させているのではありま
せんよ、、。 インタネットでのやりとりに限らず、逢って話そうが抱き合お
うが、どうしたところで所詮意志など通じないと感じています。 勿論、私が
結構短気であることはそれなりに自覚したつもりでの「所詮」なのです。 ど
うしても何があっても譲れぬ自分を半分に、残りの半分は他者に開放した者で
ありたいと私は思うのですが、そういう理想を抱いていることからして頭が
おかしいのではないかと思うこともあります。
見苦しいことを並べるのはこれくらいにして、明日からはマシン持参でポルト
ガルはリスボンに参りますので、現地の様子など書いて冷却するとします。
ご意見下さってどうもありがとうございました。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年6月30日<土>05時19分)
さて、困りました。どうお答えしたらよいやら……。
まずは、正直なところ「やりにくい」と申しておきます。というは、私見では、言葉というものは、言葉そのものだけではなくて、その言葉とそれを発した主体との距離を測ることができて、初めて、それを聞く(読む)者にとって意味を持ってくるものだと思います。たとえば、「人は貧乏であっても幸せでいられる」という言葉は、大金持ちが言うのと、貧しい人が言うのとでは、意味がまったく違ってきます。(余談ですが、日本の新聞記事の大部分には署名がありません。それが原因で大小さまざまな問題が起こっていますが、これは単に記事内容の「責任」だけの問題ではありません。)
つまり僕は、ばんまいさんがどんな方なのかよくはわかっていません。在仏の生物系研究者で、たぶん女性で、僕よりは年上で、読書家で、音楽好きで、平均的な日本人ネットワーカーよりかなり誠実で、日本語には堪能だが、外来語の表記からすると母語は日本語ではないかも……と、勝手に想像するしかありません。実際、いつもいつもきちんと書き込んで下さる誠実さはわかるのですが、お書きになっていることの意味が非常にわかりにくいことがあります。それは文章の上手下手の問題では全くなく、お書きになった言葉とそれを発した主体(=ばんまいさん)との距離を測れないからです。誤解していないかどうか、非常に慎重にならざるを得ません。だから、軽い意見交換とか情報交換とかならば歓迎なのですが、それ以上の議論はやりにくい、と正直に申しておきます。(あとそれから、武田徹さんもお書きになっていたことですが、インターネットでの議論は、入退出が自由という最大の欠点を持っていることも付け足しておきます。)
でも距離を測れないのはばんまいさんも同じでしょう。カユカワがどんな人間なのかは、ホームページに書かれていることだけでは、わからないでしょうから。
「他者に反応しないことや、出された意見に頷くだけというのは、自分は自分だからいいじゃんとして他者をきれいサッパリ自分から切り離していることの表れ」というのは、たぶん、いま日本中(世界中?)、とくに若者層に蔓延しつつある「悪しき個人主義」の反映でしょう。僕もこれには憂慮しています。(いろんな事情があって、「自己決定権」や「個人主義」についていつも考えています。)議論が必要だということはわかるのですが、上記の理由で、「自分のことを丁寧に説明しようと試み」、「実りのある議論」をインターネット上で行なうのは不可能に近いことではないでしょうか。インターネットを始めてから4、5年の経験で、そう思うのですが。
しかし……まったく不可能だとも言い切れません。それを可能にするための方法を探りたいと思います。気長におつきあいいただければ幸いです。今日はここまでにします。
http://www.jca.apc.org/~kayukawa/Name : 粥川準二 Mail : kayukawa@jca.apc.org
Time : (2001年6月29日<金>22時56分)
「 『ダンサー イン ザ ダーク』は、そんな多段仕掛けを機能させる程の軽薄
さを追求できていなかったのだけれども、(中略)、逆説的な表現を評価しき
れない者らの中途半端な評に支えられて、ある程度の話題作となり得たのだと
思います」
-->(粥川氏)同感であります。
というところだけ。
私は粥川さんの同作品へのご意見を読みまして、<<その構造の悪意>>に着目
されていたように感じました。 <<その構造の悪意>>とは、死刑や差別につい
て同作品が<<卑劣な>>描き方(=メロドラマ風の仕立て)をしたことであろう
と私は読みとりました。 つまり、同作品でのメロドラマ風仕立て=卑劣とい
う考えを持ってお出でなのだなと読みました。
私は同作品の表現に対しては、軽薄とするにも半端だし、卑劣というほど明確
でなかったと感じています。 そのため、軽薄さを追求できていなかった、と
書きました。 もっと完成されたメロドラマ風仕立て・もっと激しいお涙頂戴
的表現ができただろうに、、、と、私は思っているのです。 あの作品で取り
上げられた題材(死刑・差別)をメロドラマ風に表現することを私は卑劣と
思いません。 ただ、そのような題材の表現にお涙頂戴の手法を用いるなら、
徹底的にお涙頂戴の世界を追求できていないと、逆説的表現として成立しない
と考えています。 同作品に限らず、死刑や差別を取り扱う際のメロドラマ風
仕立てそのものが高度な逆説的表現として成立していれば、死刑や差別につい
て観客が考えるきっかけになったろうに、と思います。このように、粥川さん
とは私は<<同感>>を抱いていないと自分では思っていました。
私としては、実に明確に<<卑劣な>>描き方の作品であると思えなかったので、
表現の中途半端な様に対しては批判を加えるべきとは思いますが、あの程度の
あやふやな表現から死刑や差別を論ずるには、叩き台(同作品のこと)がもろ
すぎると考えています。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年6月29日<金>16時53分)
ばんまいさま。
「何に最近イヤな気がするかといえば、ヒトの間に意志の行き来が無いことです。 ご意見・ご感想を聴かせて下さいという要請に応じて、意見感想を書き送っても、「ああそうですか。」の一言も返ってこない。 まして、私が述べた意見感想に対しての意見感想が返ってこない」(6月7日)
申し訳ありません。僕のことですね。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』について書いてくださったのに、それについてちゃんとした返事をしていませんでした。ごめんなさい。せっかく日本に来ていらしたのに、声をかけていただけなかったのは、そんな僕の対応から不誠実さを感じたのでしょう。すいません。もしお会いできたら、日本の出版事情について、いろいろと説明できたのですが……。
* * *
もう遅いかもしれませんが----。
「TIME誌には、この作品はそれらしい物事を「愛」だの「感動」の為のネタとして用いており、安易に涙を誘う、軽薄な作品であるというような評がありました」(5月6日)
『タイム』はアメリカの雑誌ではありますが、僕の考えに近いかもしれませんね。ただし、僕は「軽薄な」という表現は使いませんけど。あえて言えば「卑劣な」でしょうか。
「遺伝病であるとか死刑について徹底的に軽薄な調子で描いてみせ、その表現の余りの軽薄さ故にそれらの事項について立ち止まって考えてみることすらしなかった自分の姿を観客が顧みたとき、自らの余りの思慮の浅さに気付く。または、メロドラマ風仕立てにまんまと乗って感動の涙を流す、その涙の浅はかさに観客がどこかで気付く」
私が観たときも泣いている人がいました。日本でも(たぶんフランスでも?)「思慮の浅さに気付く」人はきわめて少ないようです。私の友人・知人のなかで、死刑問題や差別論をやっている同業者は、ほぼ全員、この映画を批判しました。
「 『ダンサー イン ザ ダーク』は、そんな多段仕掛けを機能させる程の軽薄さを追求できていなかったのだけれども、安直な感動の涙を流す自分を顧みない観客に支えられて、また、逆説的な表現を評価しきれない者らの中途半端な評に支えられて、ある程度の話題作となり得たのだと思います」
同感であります。デビッド・リンチの『エレファントマン』も、同じような構造を持つ映画であると思います。ジョン・メリックが健常者として死のうとする最後のシーンに泣いた人は多いと思いますが、その構造の悪意を僕は見逃しません。
とりあえず----。
http://www.jca.apc.org/~kayukawa/Name : 粥川準二 Mail : kayukawa@jca.apc.org
Time : (2001年6月29日<金>08時08分)
粥川さん、書き込みをして下さってどうもありがとうございます。 私は
どうもかなりシツコイ手合いなので、もう少し、議論について書いてみよう
とおもいます。
=====
その昔に豪州に住んでいた時、学校で、米国産の赤い布地でできたバスケット
ボール靴を運動時に履いていました。 同級生も同様の靴を愛用していました
が、その色は総じて白または生成色でした。 今思い出すと可笑しい屁理屈
なのですが、当時、私は「あの赤い靴の、気に入らない奴」なのでした。
あれは子どもの考えることであったと現代に於いて様々を差し引いて考えて
みても、赤い靴を根拠にした一連の非難に私は、他者を自分と関係のある者と
思わぬかの如き豪州人の特徴を感じました。 発された非難が、自分の身とは
何ら関係ないというような無邪気な非難が、そこにはありました。
他者とは自分とは別個体なのですが、この辺り---欧州の大陸側---に居り
ますと、他者とは、決して混じり合わない別個体であると同時に自分を映す鏡
・自分から切り離せない存在、として位置づけているように感じます。 そう
位置づけられている他者と自己との関係は、豪州での非自己はどうでもよいと
いう態度よりも粘度の高いもので、非自己である他者を自分において位置づけ
ることが各人において闘いであるかのように見えます。 このような個人における闘いの様は豪州人や日本人には殆ど感じられません。 他者とは自分と
別個体でありながらも自分から切り離せない存在であるという認識があれば
こその、他者認識のための自己の内なる闘いとでも言えましょうか。
議論の末に何かを産む議論を展開したいと私は常々考えています。 そして、
そのような議論を展開するためには、他者を、自分とは別個体でありながら自
分から切り離せない存在であると認識していることから確認し合う必要がある
と思います。 以前の書き込みで「わた」氏が書いて下さったような、自分は
自分なのだからいいじゃんという態度を持った者の間では、将来への展望を産
む議論は期待できないということです。
他者に反応しないことや、出された意見に頷くだけというのは、自分は自分
だからいいじゃんとして他者をきれいサッパリ自分から切り離していることの
表れのように私は感じます。 同意ですと表明するだけでは、世の他者は、
その発言者が如何なる人物なのか掴めません。 何せ他者を自己に於いて位置
づけることが闘いとでも言えそうな者にあっては、その位置づけの追求が肩
すかしを喰らったような手応えの無さを感じます。 自分のことを丁寧に説明し
ようと試みてこそ、自分とは切り離せない存在である(と、私は信じておりま
す)他者の輪郭もハッキリしてくるのではないでしょうか? そうやって議論
の相手の姿が見えてこそ議論が生きてくるのだと思います。 意見の出し合い
にのみ終始したならそれは議論ではありませんし、何をも産みません。 意見
を論者同士が絡ませ合ったなら、きっと実りのある議論となるでしょう。
人口が増えて何から何までが多種多様になった現代において、別個体・非自己
である他者を自分と切り離せない者とする認識は、多くのヒトの間で確認され
るべき事柄ではないかと私は考えています。 そこでヒトに必要なのは学識や
知識量ではなく、最低限の、自分を表現する能力なのだと思います。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年6月29日<金>08時00分)
ばんまいさま。
「何に最近イヤな気がするかといえば、ヒトの間に意志の行き来が無いことです。 ご意見・ご感想を聴かせて下さいという要請に応じて、意見感想を書き送っても、「ああそうですか。」の一言も返ってこない。 まして、私が述べた意見感想に対しての意見感想が返ってこない」(6月7日)
申し訳ありません。僕のことですね。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』について書いてくださったのに、それについてちゃんとした返事をしていませんでした。ごめんなさい。せっかく日本に来ていらしたのに、声をかけていただけなかったのは、そんな僕の対応から不誠実さを感じたのでしょう。すいません。もしお会いできたら、日本の出版事情について、いろいろと説明できたのですが……。
* * *
もう遅いかもしれませんが----。
「TIME誌には、この作品はそれらしい物事を「愛」だの「感動」の為のネタとして用いており、安易に涙を誘う、軽薄な作品であるというような評がありました」(5月6日)
『タイム』はアメリカの雑誌ではありますが、僕の考えに近いかもしれませんね。ただし、僕は「軽薄な」という表現は使いませんけど。あえて言えば「卑劣な」でしょうか。
「遺伝病であるとか死刑について徹底的に軽薄な調子で描いてみせ、その表現の余りの軽薄さ故にそれらの事項について立ち止まって考えてみることすらしなかった自分の姿を観客が顧みたとき、自らの余りの思慮の浅さに気付く。または、メロドラマ風仕立てにまんまと乗って感動の涙を流す、その涙の浅はかさに観客がどこかで気付く」
私が観たときも泣いている人がいました。日本でも(たぶんフランスでも?)「思慮の浅さに気付く」人はきわめて少ないようです。私の友人・知人のなかで、死刑問題や差別論をやっている同業者は、ほぼ全員、この映画を批判しました。
「 『ダンサー イン ザ ダーク』は、そんな多段仕掛けを機能させる程の軽薄さを追求できていなかったのだけれども、安直な感動の涙を流す自分を顧みない観客に支えられて、また、逆説的な表現を評価しきれない者らの中途半端な評に支えられて、ある程度の話題作となり得たのだと思います」
同感であります。デビッド・リンチの『エレファントマン』も、同じような構造を持つ映画であると思います。ジョン・メリックが健常者として死のうとする最後のシーンに泣いた人は多いと思いますが、その構造の悪意を僕は見逃しません。
とりあえず----。
http://www.jca.apc.org/~kayukawa/Name : 粥川準二 Mail : kayukawa@jca.apc.org
Time : (2001年6月29日<金>00時20分)
私は二十歳になる以前から三十路の者に観られていたので、その年寄りぶり
を有効活用?して、なけなしの資金をはたいてウマイものを食べるのが好き
でした。 勿論、今でも好きです。 それで、幾ら年寄りに間違えられるとは
いっても風格が全然備わっていないことに気付かないまま、鮨屋や一杯飲み
屋の職人かぶりつき席(カウンタのこと)を愚かにも目指したものでした。
今回は何せ日本ですから、鮨屋と天ぷら屋に出掛けました。
=====
その鮨屋のかぶりつき席には既に若いお嬢さんが居て、目の前に様々な食器
と食物、酒を並べて、職人さんと喋っていました。 私はそのお嬢さんから
二席離れた、かぶりつき席ではもっとも上等な席と私が睨んでいる位置に案内
されました。 よく知った店でもなし、私は鮨に専念、昼時を過ぎていたので
お客は少なく、いい調子で次から次に平らげました。 品よく握られた鮨でし
た。 喰った喰ったというところで隣のお嬢さんを見やれば、一揃いの握り鮨
を目の前に放ったまま、携帯電話の操作。 鮨が気の毒でした。 帰りしなには
会計のところで、鮨屋にはよく行くのか、旨かったかと尋ねられました。
夜の21h30がオーダーストップであると聞いて、慌てて席を押さえに入った
天ぷら屋は、テーブル席にだけお客がいました。 天ぷらを揚げる職人さんは
きっちりと白衣を着込んで、’お客を大切にすることこそ信念’のような漢語
だかの色紙書の前に立っていました。 何を揚げるかと尋ねられたので、何か
らというわけではないのだけれど、穴子は外せないと言いましたら、「穴子は
最後だよ。」と切り返され、穴子を食べたがる客も珍しいということから
職人さんの主張が始まりました。
バブル期には社用族でもって経営の心配をせずに済んでいた。 それが、ここ
何年かでその族が来なくなって、細々とやらざるを得ない。 細々とは言って
もお好み(かぶりつき席で食べること)の注文に冷凍食材は使いたくはなし、
それでは苦しいのだが、’族’あがりではあっても自分の処へ来てくれる50
歳代のお客と仲良くやっているのだが、、、とにかく昨今に若い人は天ぷら
屋になぞ来ない。 横浜の天ぷら屋も潰れ行くばかりである、、、云々。
確かに、街には得体の知れぬフランス料理屋だのイタリヤ料理屋が目立ちまし
た。 それはそれで、よいのだとおもいます。 そうだとしても、あのきっちり
とした仕事をこなす職人さんの店がひっそりとやっているのは如何なもので
しょうか。 否、そもそもがあのような手堅い店ではひっそりとしていておかしくはないのかも知れません。 私には、バブル、つまりカネが、日本の大切
なものをいたぶった痕が天ぷら屋にあるように感じました。 鮨屋も同様に、
注文したものに支払いさえすれば、ネタがくったりするまで放って置いても
構わないなどとは、やはり、カネが食の態度を荒らしたかのようであると
思いました。 天ぷらは、とても美味しかった。 鮨は、シャリがざらざらで、
いまひとつでした。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年6月25日<月>00時22分)
書き込みをして下さってどうもありがとうございます。 そうだろうね、熱心
な店員サンの居る書店なら、充実した書店になるだろうなぁ。 最近になって、
ロンドンの書店は雑誌と書籍を同一店舗に置くようになってきたとか。 横浜
の書店では、その雑誌の売り場面積がやたらに広く、しかも、その店舗の最も
近づきやすい場所に位置していて、印刷物といえば雑誌という世の中なのか
なぁと思いました。 少し前に自分の蔵書の類を整理して、雑誌は十年単位の
保存には不向きだと感じた(紙質の劣化が原因ではない)ので、雑誌が現在の
印刷物の主流と考えると、世間には、永く世間に残らなくとも構わない内容が
溢れているように思えて、複雑な気持ちになったのでした。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年6月22日<金>23時54分)
有隣堂というかなり充実した書店があるのですが、
横浜駅周辺ではね。
場所がないのと、どーでもいーけど並べておけば売れる本
に場所をとられてる。
とはいうもんの、デパート、駅ビルでも熱心な書店員さんの
いるところは違うよ・・・(それとももう変わったかな)Name : 出版社営業あがり Time : (2001年6月21日<木>20時43分)
音楽ディスクの他に書籍も買い込んでは、日本の内需拡大(なんだそれ)に
貢献してきました。 著者であるとか内容についてのキイワードは思いつき
次第手帳に記していたので、いざ予定が狂って暢気な買い物が出来るとなった
際にも、そのメモを見つつ、書店内を彷徨うことにしました。 なるべく大型
の店へ行けばあるものないものが揃っているだろうと踏んで、売り場面積の
広いところへ出かけました。
私は、殊に書物に関しては他所から借りるのではなくて自分のものを揃えたい
という欲求があります。 とにかく一度でも自分で頁をめくって読んでしまう
と、一種の念のようなものが書物に染み渡るようだと感じるからかなと自分で
は思います。 それで、この種の書物はこんな装丁や活字が似合いなどと、
世間に出回っている書物の実際にはお構いなしに、全く勝手に自分の中で決め
ている事柄まであります。 日本の書店へも勿論、そんな考えとともに出かけ
たのでした。
=====
欲しくなる本がない。
かなり大型と思われる書店を二軒回って、そう感じました。 そもそも、私の
記しておいたキイワードと少しでも一致する書籍が店頭に無い。 訪れた書店
は、とにかく浅く広くくまなく様々な分野の書籍を取り揃えていたから、自分
の目指すような書籍が無くても当然だったのかもしれません。 また、これが
横浜ではなくて東京であったら、大型ならぬ巨大書店があって、イカした書物
を棚に並べているのかもしれません。
それにしても、都市に住む人口をその都市の書店が面倒を見ていると考える
と、この横浜の書店の貧祖さは嘆かわしいものであると思います。 首都であ
る東京には、品揃えの幅広さに加えて奥深さを持った書店があるとしても、
東京から電車で30分も走らない範囲の土地で日常的に通える書店の品揃え
に、広さはあっても深さがないのです。 地域の図書館はもっと深い蔵書
を揃えているのでしょうか。 その土地の書店に深みがないのは、その地の
人々(書物を提供する側も購入する側も)に深みがないことを示しているよう
に、私は思います。 首都には、深み云々以前に店舗規模が大きな書店がある
ことは自然だと考えると、日本では、人々は、欲しい書物をどうやって入手し
ているのだろうかと疑問です。 注文して購入するとは判るのですが、手に
取って、装丁や活字の具合を眺めて欲しくなる本の類は、書店に並んでいない
と探せません。 あらかじめ決まった書籍の注文なら今や、自宅のコンピュタ
でこなせます。
無料で本を借りられる図書館と違って、書店というものは、お金を払わないと
自分のものに出来ない商品である書物が棚に並んで、魅力的な場所でした。
あの本が欲しい!とギリギリするような書物が、さぁ私に大枚をはたけと主張
しているような場所でした。 ここでパリの話を引き出しては意地が悪いの
ですが、パリの書店の書物は、私を読まない気? この装丁はどうよ? この活
字は? 部屋代なんてどうにでもなるよ! と語りかけてきて、悪魔のようなの
です。 大型書店でも、そんな雰囲気があります。 かなり鼻息荒く乗り込んだ
日本の書店でしたが、連れ帰ってきた書物は数冊でした。 今回は場所が悪
かったのかも知れないです。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年6月20日<水>19時18分)
日本(殆ど横浜駅西口)を往復してきました。 当初は目的があって行ったの
ですが、その予定は狂い、思わぬところで日本観察?となりました。 暢気に
観察などと決め込んでいないで連絡を取ってみようと思う在日の方を何人も思
いついたのですが、何だかコソコソと活動してしまいました。
帰ってきたらここに何か書こうと思ってはいたものの、いざ日本の印象など書
こうと思うと緊張します。 日本の内需拡大(なんだそれ)に貢献しても来ま
したので、緊張してアホなことをずらずら連ねるよりも、ここは先ず、そんな
貢献の話から始めます。 日本往復をするからには日本の特色を堪能してやれ
と思った末に、音楽ディスクを買い込むことを考えつきました。 成果は次の
通り。 日本で買うことに意義があると自分で納得できる選択をしたつもり。
*蛍 / カゼドケイ・・・某(坊)氏が薦めていたのを鵜呑みにした
*はっぴいえんど / はっぴいえんど live on stage・・・ライブ盤好き
*ネーネーズ / オキナワ・・・棚を眺めていて見つけ、買う気に
*ただいま。/ 矢野顕子・・・ヴィニル所持盤のバックアップ
*美輪明宏 / 喝采 銀巴里ライブ・・・黒蜥蜴
*SMAP / 013 Birdman・・・後学のため
*サザンオールスターズ / バラッド3・・・山ほど買って得た割引券利用の為
*あがた森男 / 20世紀漂流記・・・そういえば持っていなかった
*Frank Zappa / strictly commercial・・・日本盤の付け足し曲が目的
*D'Angelo / Live at the jazz cafe, London +1・・・日本限定盤である
Frank ZappaをZの棚位置に探したり、配列がアルファベ順であると思いこん
でいたことで当初、やや混乱がありました。 その他には店内が異様に明るく
て落ち着かなかった事くらいで、ディスク店については、書くべき事なし。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年6月19日<火>07時25分)
何事かが重なるときというのは、何とも、大盤振る舞いにて様々が一挙に
押し寄せるようでして、私のような暇人にも、たまには頭を使わねばならぬ
時があるのが有り難いような困るような。 というわけで、例によって少々
当所を留守にします。 復活は当地時間の月曜日以降のつもりでいます。
ご訪問下さった方々、どうもありがとうございます。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年6月14日<木>05時16分)
