archives/9---24/06/2003-31/08/2003
古い記事が下方にあります
M. Nikolai MAKAROV 投稿者:ばん まい
投稿日: 8月31日(日)20時43分12秒
何だかこのところ、歯磨きをしつつテレを点けるということをしては、ヘンな
ものをそこに観ているようような気がする。 昨晩は、ロシヤの現代絵画家
の、ドイツ制作のドキュメントに出会した。 ソ連の時代に生まれたニコライ
氏のロシヤでのご友人や、氏が多くの時間を過ごしたベルリンでの知り合い、
また、作品を扱うギャラリがあるニュウヨオクでの関係者が次々に登場し、
そのどの人も、いい歳をしてprimitif というか、naif というか、、、和やか
で、落ち着いていて、外れていて、面白かった。
ロシヤのご友人の一人は家の一部屋にクジャクを何羽も飼っていて、「この
前はこいつらのために風呂を作ってやった」と真顔でニコライ氏に伝えて
いた。 クジャクの居る部屋はもうもう、クジャクの家と化していて、とても
ヒトが住める状態ではなかった。 そうは言っても、このご友人の家そのもの
がガラクタ倉庫のようであり、ウオツカを何杯もあおった後、家の主は、柔道
着?を羽織った上にカウボーイ帽、帝国時代のロシヤで使っていた剣を振り回
しては、集まった人々を楽しませていた。
ロシヤには降り立ったことがない。 行ってみたいとも思ったことが無かった
のだが、クジャクと一緒に住んでいるひとの姿を観たら、ロシヤの人も眺めて
みたくなった。 ベルリンは、確かに、ニコライ氏のように思想や表現が
”重め”の人には似合いの場所であったように思う---面白い場所だった。
戦やヒトの野望の末にガタガタになった街には、どうしても傷が残ってしまう
と思う。 が、その地が再び興ってくる時のチカラは、パリのような古都では
感じられない種類のものだ。 旧ソ連から東欧の共産主義の暴走した地域の
人間が、今、面白い。
http://www.mimiferzt.com/makarov/index.html
ニコライ氏の作品を扱うNYのギャラリのサイト・幾つかの作品も眺められる
二題 投稿者:ばん まい
投稿日: 8月29日(金)22時44分52秒
*国家とは何か
猛暑で一万を越す死者を出したフランスで、その遺骸の引き取り手が現れず、
冷蔵室から冷蔵トラックまでフル回転で遺体を保管している。 亡くなった人
の「身元」は判明しており、引き取り手と考えられる者のところへと連絡が
入っているにも関わらず、である。
遺骸の引きとり人が現れないことは「現れない」とだけ伝え、報道では、政治
の非力さ、つまり、緊急時への備えの甘さや対策の不備を指摘することが繰り
返されている。 「民」主を掲げる組織である国家の存在に賛同するのなら、
「民」である自分が先ずは主であれ、とは、近代国家の国民は考えないので
あろうか。 国家組織に頼り切っている人間が、この世には多すぎる。
近代国家。 構造在って倫理無し。
*人でなしとは何か
拙宅の上階の、親の所有する小部屋に住んでいる若者は、何だかどこかが壊れ
ていると感じる。 最近の若者の好むクラブ音楽を大音量で聴くのはまだいい
として、音量がありすぎて音が割れている。 割れた音で奏でられる楽曲も
気の毒なら、音が割れていても気にしない若者も気の毒だ。
また、人の話を聞いていない人、という種類の「大のオトナ」が、どうも、
目立つ。 食事やお茶で一緒に居るととにかくベラベラ喋るもので、何だか
時間だけは過ぎるのだが、その自分が喋った内容についての自分以外の者の
反応も、自分以外の者が自分が喋ったことに対して反応した事実も、認識して
いない。 つまり、これらの人々が語ることに対して同意をしても、そこから
話が発展することはないし、反意を見せると、今度は烈火の如き反撃に遭うが、
そこから話が発展することは、やはり、無いのだ。
現代人。 肉体在って魂無し。
どうもありがとうございます 投稿者:ばん まい
投稿日: 8月23日(土)23時52分49秒
SOMEさん、書き込みをして下さってどうもありがとうございます。
「新解釈」は、なるほどと思いました。 「稚拙」とSOMEさんはお書きになる
ものの、何というか、書いて(表現して)みなくちゃ、稚拙かどうかすら、
判断できませんよね。 「やってみよう」「書き残してみよう」「形にしてみよ
う」として実行してみると、はやり、何事かは判断できますよね。
=====
「やってみよう」として、日本政府がある事業に一億円を投入する、という報道
があったのですが、一億円を投ずる前に「やってみ」たのかどうかが不明です。
「やってみよう」とすることを一億円で焚き付けているのか、「やってみ」たら
一億円を投入する必要が生じてきたのか。 この二つは大きく違う事柄です。
==========
この掲示板(らくだ、でも同様)への書き込みは、自分が投稿したものに限り、
編集をすることができます。 私の投稿に「編集済み」という表示が付随する
のは、この編集を行ったことを示しています。
掲示板に投稿をして下さったあとで編集(修正や追加)を加えたい場合には、
掲示板最下部の「管理者メニュー」のボタンを、何のパスワードも入れずに
クリックします。 そうすると、その時のマシンの状態によって、この掲示板
への投稿で、編集可能な稿の一覧が現れ、編集作業に入ることができます。
朝顔が釣瓶に困惑 投稿者:SOME
投稿日: 8月23日(土)01時54分34秒
朝顔や 釣瓶取(?)られて 貰い水」とは、午前中は勿論の事でありましょうか?
早朝の陽が昇った前後の時間帯と云う背景を思い浮かべます。
暫らく稚拙な表現が続きますがあしからずご容赦を願います。
さて朝顔とは、夏の日照りに強い物です。昼間は、やはり残暑には、
降参の感があります。それは「 萎縮 」して見せるから良く目に映ります。
大概失敗するのは、其処で水をやる事が一般的かもしれません。
がしかし其の事は、百も承知といわれるかもしれません?
再び「朝顔や 釣瓶取(?)られて 貰い水」
皆さんは、この句を如何に解釈されますか?
私の知る限り回答者は、様々ですがふと新たに考えました。
真夏の井戸水は、冷たい事とご承知でしょうが人間にとって
有りがたい対象物として西瓜を冷やす事とは、人間の嗜好とかで継承されて
来ましたが「 萎縮 」した朝顔だったらやはり其の冷たい井戸水では、
困惑する様がImage出来ます。
水やりとは、酸素を送り込む事と聞いています。
植物は、昼間に二酸化炭素+紫外線=光合成に寄って酸素を供給しますが
夜は、逆に酸素が必要で二酸化炭素を排出しているのだと聞きます。
真夏の昼間の酸素は要らないとは=昼間に水は要らないと云う話です。
況してや冷たい井戸水なんぞ論外かもしれないと解釈しました。
其処でけして蔓が「 釣瓶 」に巻きついたのでは、無い?のかもと
特別新しい解釈ではないかもしれませんが?
是から先の冬の季節の水やりは、昼間に限るとは、毛根が凍りつくとか
毛根が冷えるとか聞きます。幼稚園での朝顔のカリキュラムは、
最近は、どうなのだろう。成功は、大きくても小さくても愛嬌でかわし
ますかね。関西人の挨拶に「儲かりますか?」ってCOEに向かって
云々しているのでしょうかね?
失敗は、大きくても小さくてもGlobe感覚ですかね?
やはり稚拙で終わりました。
Centre of Excellence (COE) 投稿者:ばん まい
投稿日: 8月22日(金)00時18分08秒
成功の内容を把握しやすい対象と、簡単には把握できない対象とがある。 た
とえば、利潤追求の成功は利潤にあたるカネが増えることである、と言えても
ヒトが生存することの成功となると、同様には片づけられない。 このように
対象によって答えに違いが出る問いかけではあるが、「そのものの成功、とは
どのような内容を指すか?」とは、「そのもの」に対して問うてみて、なか
なか面白い答えを弾き出しそうではある。
「サイエンスの成功とは、人々に知って貰うことである」と、講演中に語った
人物を一人だけ知っている。 大層面白い問いかけではあるが、こんなことを
語る講演に出会す機会はそもそも少ないし、恐らく、こんなことを語る人物も
少ないのだとおもう。 その時の講演者がその場でこれを語ったのは、演者を
招いた人物と仲が良かったから、だ。 そういう場面が発生するところを私
は、COEと呼ぶ。 そう呼びたくなるという経験は、これまでに数えるほど
しか無い。 あった、ということは当に、”有り難い”ことだった、と思って
いる。
何も国家機関である省庁が指定してくれなくても、誰でもCOEを形成すること
が可能だ。 ただし、努力が必要だ。 少なくとも、自分の成功/満足、とは
どのような内容を指すか?ということくらいは考えて、稚拙であろうとも、
答えを考えついていたい。
七月企画 UTLS「グロバリゼイション」とは何であるか?--まとめ 2-1 投稿者:ばん まい
投稿日: 8月20日(水)11時05分08秒
まとめ 2-1・
ヒトには回復したいものがある/ヒトにはまだ見つけられていないものがある
夏場に、反グロバリゼイションの集会がフランスの田舎で開かれたが、この
”お祭り騒ぎ”に開催地付近の住民が反対・抗議した。 近隣の人々に煙た
がられるような集会なのだ。
=====
猛暑の前でヨカッタUTLSの講義で、しつこくフランス式にものを考えている
講師の場合、次の言葉を使い分けていたと思う。
*もんでぃありざしおん・mondialisation・世界化
*ぐろばりざしおん・globalisation・地球化
*あんてるなしおなりざしおん・internationalisation・国際化
-----
*ゆにふぉるみざしおん・uniformisation・均質/画一化
逆に、今(八月)になってみて思うのは、
*えがりざしおん・egalisation・均等化
の語が、出なかったということだ。
英語でいうところのグロバリゼイションとして括れる事柄を、言葉に拘ること
で、ここまでしつこく分析して考え直すことができる。 地域住民の抗議の
対象になった催事を遂行しようとしていた者らは、上記のウチ、一体何に
「反対」する意志を見せるための集会を開こうとしていたのか。 そこが明ら
かではないから、近所の人々は催事に抗議をしたくなるのではないか?
世界化の対象にはどのようなものが考えられるであろうか? 同様に、地球
だの国際だのの対象も、何であろうかと考える。 私は、
*世界化の対象は思想や意識に関する事柄
*地球化の対象は土地や生命に関する事柄
*国際化の対象は国家や組織に関する事柄
を、それぞれが対象にしているように思う。 そして、これら何らかの要素の
XX化の現象は、各要素が瓜二つと化す画一化とは異なり、各要素に共通な
ものとは何かを見抜く あぶすとらくしおん・abstraction(extraction と
で迷ったが、purificationに近いとは思えないので採用しなかった)に最も
近いものであると感じる。
何のために、という問いを設定することは愚かかも知れないが、設定してみれ
ば、このXX化は、ヒトにはまだ見つけられていないものを見つけたいがため
の活動の結果観察される現象であるようにおもう。 「見つけ」とはいえ、
そもそも備わっていたナニモノかを回復したいがため、であるのかも知れ
ない。
そう考えて、中世ルネサンス期のヒトの様子を思った。
(後日に続く)
Re: 映像としての意志の疎通 投稿者:ばん まい
投稿日: 8月14日(木)00時07分41秒
Pikeさん、書き込みをして下さってどうもありがとうございます。
ヒトとヒトとでは言葉を通じて大方の意志疎通が行われ、そこで使う言葉という
ものはとても便利ではあります。 が、ヒトどうしであっても、映像などのやり
とりによって意識の伝達が起こっていないとは言い切れませんから、そうそう
安心しても居られませんよ〜。 「顔に出ている」から始まって、以心伝心だの
虫が知らせるだの、、、。
この手の”やりとり”は、実は生き物には自分で制御できない性質の(どうし
ても発信/受信してしまう)もので、ある程度/最低限の発信能力や感度は誰に
でも備わっているような気がします。 ところが、言葉の便利さに浸りきって
いると、この”やりとり”への感度が鈍る、ということはないかな?
映像としての意思の疎通 投稿者:Pike
投稿日: 8月13日(水)19時01分37秒
Samantha Khuryさんのサイト覘いてきました。
おもしろいですね・・・・
でもちょっとこれは困ったとも思いました。
でもこれが本当だとすると納得できる出来事がたくさんあります。
あいからわず我が家のインコの話になってしまいますが。。
私の飼ってるオスのインコはいつも私が何かに夢中になっていると必ず邪魔しに来ます。「なになに?何をやってるの?俺にもやらせて?」といわんばかりに。
本を読んでいるとまさに今読んでいる箇所の上に座り込み、
ギターを弾いていると今弾こうとしている音符をつつきまわったり、
木にサンディグペーパーをかけていると自分もサンディングペーパーをくわえてコップや本にペタペタを押し付けてみたり。。人間の目線の先を追うからこうなるのかと
思っていたのですがもしも自分の頭の中にある映像と「これはおもしろい!」と思っている気持ちが彼に読めたのだったら私自身に絡んでくるのではなくその対象物に手を(いやいや口を)出すのはとても自然な事のように納得できます。
ついでに私が機嫌が悪いと一緒に機嫌が悪くなるのも困ったものです。。。
犬と一緒に生活をしているときに寝た振りしてもすぐばれるのは呼吸がかわるからと
聞いていましたが、案外「起きて散歩につれていかなければいけないけれども、もう少しこうしていたいな。。」と思っているときに「散歩」をイメージしてそれを犬に送ってしまっているのかもしれませんね。。
そう思ってみると人間の意思疎通が言葉を通して行われるということに
ちょっと安心してしまいます。
暑いです/ 動物との意志疎通 投稿者:ばん まい
投稿日: 8月12日(火)16時30分06秒
当所にお越し下さる皆さま、どうもありがとうございます。
先月の終わりくらいからもう暑くて暑くて、マトモにものを考えるということが
できません。 幾ら欧州の暑さとはいえ、ある程度の湿気はあるし、夜間の気温
は下がらないし、で、ヤラれています。 今週木曜日辺りから気温は下がるとの
予測にて、マトモな気温になるのが待ち遠しいです。
=====
以前に自所のどこかで触れた、「ヒト以外の生きものと映像をやりとりして意志
の疎通を行う」人物は Samantha Khury 氏でした。 フランスで、この人物が
「意志疎通」を行う様子を撮った記録映画が放映されたため、存在を知りました。
映画に関しては
http://www.filmakers.com/indivs/ITalkAnimals.htm
同氏に関しては
http://home.earthlink.net/~siskpet/HowtoCommunicatewithAnimalsbySamanthaKhury.htm
を、ご覧下さい。
アメリカ発信の話だから、一大ビジネスにでもなっていたら「意志疎通」も
あったものではないと私は思っていましたが、記録映画の印象と同じく素朴
に事業として展開しているようで、何だか安心しました。
Khury氏のこの「生きものの意志疎通」が、私は”好き”です。 それが”良い”
ものだから”善”だから好き、ではなくて、名著の内容と同じく”楽しく”て
”愉快”だから好きなのだと思います。 だから、たとえば街のトリが、暑くて
愚痴や文句を発するのを受信できたとしたら、エヘヘと笑える内容でなくても、
私には愉快です。
どうもありがとうございます 投稿者:ばん まい
投稿日: 8月 5日(火)04時56分31秒
someさん、書き込みをして下さってどうもありがとうございます。
道化/ピエロのネタは、今のところはちょっと、放っておいています。 何だか
このネタとは今のところ縁が無くて。 このネタでものを考えるとよい時には
恐らく、自然と縁ができてきて、関係者と知り合ったり本が目に入ったりする
はずと思っています。
あと、私の言う/書く naif という状況は、日本語にも英語にもできません。
私が日本語にするとしたら、「ナイーブ」ではなくて、「お人好しのアホ」
です。 ですから、道化=naifではないし、この文脈に「=」という記号を使う
ことに私は同意できません。 「=」は、もっと単純に左右の項を繋げるという
役割を持っています。
naif と仏語で書かれてもピンと来ない、という感想を抱く方もお出でのこと
と思います。 naif の語に限らず、そこでそのものに対して「ピン」と来る
まで「ピン」の原因を追求するか否かで、自分の満足の深さが決まるような
気が致します。
道化=ナイーブ? 投稿者:some
投稿日: 8月 4日(月)13時26分18秒
湯布院音楽祭は、28回・29回と今年で2年連続出向いた。特に音楽全般に
ついて大凡ファンでは無く。ましてやクラッシクと云うジャンルは、学校
時代に記憶がより戻り退屈だった時間の流れ事と見事リンクする。しかし
FMラジオより流れるアコーステックなスローなテンポだったり都会的な
ガラスやステンレスや鏡といった無機質な森山威男風なフリ-ジャッズだっ
たりでは、時々悪く無いなと想っている。ここでは、前夜祭なるものが
あって無料で室内楽が聴ける地域住民にサービスをやっていて老若男女に
呼びかけては、居るものの地域の方々には、反応は、今ひとつみたいだ。
バイオリン・ビオラチ・チェロと並んで小林道夫氏のチェンバロは、
ソロでも行われ会場を移して多いに盛り上げって居る感じだった。
特に期間中感じるのは、前夜祭のカジュアルスタイルに対して本番後日の
3日間は、ドレス・アップのスタイルとでは嗜好がわかれるだろう。
前夜祭の好奇心は、カジュアルは勿論の事、私にとって抱腹絶倒がある。
その神山一郎氏のパントマイムらしかぬ動きは現代舞踏家達もおちおちしては
おられないくらいゆとりと余裕を感じる振り付けで存在を充分にアピール
していた。其の特徴は、神山一郎氏の存在そのものに終止するといっても
過言ではない。表情が売りの道化パフォーマンスは、パントマイムにとど
まらずMAGICが加わり一層の厚みとORIGINAL性を生み出した。その動きには、
道化=ナイーブ(同議では、無いかと想う)に尽いて、反応を見ていると
子供達の持つ感性は、純真無垢や素朴性や単純性が感じられ支持の大半が
彼等の歓声だった。今年は、氏もカンヌに何かの縁で出向くらしい?
昨年は、アコースティクでアンサンブルな生音の演奏は心と五感で共鳴しあった。
その音質・音量は、優しいリズムやハーモニーや強弱や陰影はもちろん
感情表現や流れ出るようなメロディーなどは、弦楽4重奏の中でも中心的な
コントラバスのリードする華麗な弓裁きで充分満足できたようなきがする。
しかし手づくり29回音楽祭では、今年は、参加していなかった。
河瀬直美さん 投稿者:ばん まい
投稿日: 8月 3日(日)08時41分36秒
今夏の土曜日から日曜日に日付が変わる頃には、河瀬直美氏の作品をテレで
放映するようだ。 今日は1993年の短い作品を観た。 戸籍にある記述らしき
ものの音読に合わせて、音読される場所・その場所が写った写真、それに、
どうもその戸籍に関係のありそうな人物の写真が次々と現れた。 時々、直美
氏の思いつきなのであろうか、少々場違い/唐突な独白(問いかけや感想)が
入った。
直美氏のカンヌで賞を取った作品がパリでかかった時に小屋へ出掛けたら、
作品を観た仏人が涙を流していたもので、私は驚いた。 緑に覆われた日本の
山並みを観て、涙を流していたように見えた。 この辺りの人間は、筋書き
如何で泣ける/泣いてしまう者ではないからだ。
ひとは naivete(=naif であること)に反応する、と私はおもう。 naivete
という もの/状態を、「世間知らずさ」だの「お人好しのアホさ」以上に的確
に表現したい。
=====
どうも今のところ縁が無くて手を付けられずに居るネタに、clown(英仏語
ともこの綴り・ピエロ/道化のこと)がある。 今生きている者が道化を笑える
か笑えないかに、現在の東西での naivete の扱いの違いを探ることができる
ように思っている。 また、この違いが出てきたのは割と最近のこと(ここ
100年以内)なのではないかと思ってもいる。
河瀬直美氏の作品は、naivete の扱いに実は東西南北で違いがないことを
確信させてくれると同時に、現在の「東」ではclownを笑い飛ばせない様子
であることも感じさせてくれる。 naivete とは何か。 naivete とは何か。
七月企画 UTLS「グロバリゼイション」とは何であるか?--まとめ1 投稿者:ばん まい
投稿日: 8月 1日(金)23時50分10秒
まとめ1・フランス流の考え方
フランス流の考え方と私が言うとき、それは、語の意味にこだわって物事に
ついて考えることを指す。 語の意味とは、語源であったり辞書にある記述で
あったりヒトの頭の中にある像や言い換えであったりする。 たとえば「グロ
バリゼイション」(仏語では「ぐろばりざしおん」という感じの発音)とは何
であるかと考える際に、フランス流には、「グローブ」「グローバル」につい
て先ず考える。
この流儀は、たまたまフランスが、独自な(余所と異なる)存在であろう・
自分らの特徴を持とうと努めた(恐らく意識的にも無意識的にも)結果が
目立っているだけのものであり、フランスにしか築けないものであるとは思わ
ない。 しかし、 流儀を形成するだけの特色がある「知」を備えていることを
もって「知」の充実を測るなら、フランスは「知」の大いに充実したところで
あると言え、世界中に、この点がフランスと同程度に充実しているところは
そう無い気がする。
そうフランスのことを誉めてみたものの、UTLSの各講義を振り返ってみる
と、英語で行っても仏語で行っても講義の内容が変わらなかったであろうと思
うことが多かった。 その場合、「フランス流」が崩壊していたのだと思う。
語の意味にこだわった講義ではなかったと感じた。 英語で喋らせた方が調子
の出る講師も居て、仏語通訳を入れていたが、通訳担当者が「仏語での適語が
見つからない」と何度も困ったことがあった。 この講師の話は、英語で話し
ていようと「フランス流」で、話に使う語の意味に拘っていたのだ。 故に、
言語間の機械的変換が出来なかった。
「フランス流」の講義であるほど、私には印象に残った。 講義対象について
の知識にあたる内容を聞いた場合よりも、講師がその対象(ある語=キイと
して認識できる)の意味にこだわって「グロバリゼイション」なり「人間」
なりを語った場合のほうが、自分なりに多くの考え事をできたからだ。
re: 理科年表 投稿者:ばん まい
投稿日: 7月29日(火)17時45分57秒
jianさん、書き込みして下さってどうもありがとうございます。
理科年表はね、紙、かみ。 「ポケット版 A6 / 1,200円」が、伝統的で、いい。
いい、というか、充分。 ディスク版は因みに、余り使い勝手が良くなかった。
紙背本はドン臭い表紙と相場が決まっていたものの、jianさんの探して下さった
サイト見たら、カッコイイ表紙になっていて、ちょっとビックリ。 幾ら資金が
豊富な方でも、この本ばかりは紙から入ったほうが、面白さを見つけやすいと
思います。” パラパラ見”をできるから。
理科年表 投稿者:jian
投稿日: 7月29日(火)11時27分14秒
調べてみました!(笑) で、こんな体験版なるものを見つけて.....
http://pub.maruzen.co.jp/cd_others/rikadlm.html
> 理科年表CD-ROMは、書籍「理科年表」の創刊版(1925年版)から最新版までのデータを1枚のCD-ROMに収めたものです。
> データの編集(並べ替え、抽出等)、グラフ表示、計算等が簡単に操作できます。またデータへのアクセスとして目次、索引、簡単検索、全文検索、画像目次の5つの入口を用意しています。
ってコトです。だけどWin用なんですね(泣)。
で、他にないのかとさがしてたら「2003年版」を見つけました、が、26,000円(税別)。
ひぇー! 図書館に見に行こ(笑/恥/汗)。
http://pub.maruzen.co.jp/
トンボ便り 投稿者:ばん まい
投稿日: 7月29日(火)06時24分29秒
Pikeさん、ご登場下さってどうもありがとうございます。
確かに「辛い」と書いては心配を誘ってしまいますね。 これは、「とにかく
何をしても考え事をしてしまう」ということと同じなのですよ、、、。 考え事
をしないで済む(済む、というのも他人行儀で妙な書き方ですが)時間、て、
割とエネルギイ投入して作らないと、発生しないです。 (よね?)
ヒトの自殺についてとなると、仰るとおり、考え込んでしまいます。 そこで!
今回は食物ネタではない話題で(笑) 一息ついてみます。
とある伝言をしたことがありました。 封書を届けた訳ではなく、実に「伝言」
でして、幸運にも私はその「言」の内容に触れることができたわけです。 そこ
では、漢字の使い方・尊敬/謙譲の用法・自分の感情の表現のどれもが繊細で
精確・親しみを滲ませつつ礼儀正しく、この「言」なら、受け取る方はさぞ
喜ばれることであろうな、と思いました。 感激しました。 「門前の小僧習わぬ
ナニトカをドウトカ」でして、この「言」の伝達者であった私は、言葉での伝達
かくある(受け手が喜ぶ)べし・ヒトの発する言葉もかくある(礼儀正しい)べし
と勉強させて貰いました。 精進精進。
お気楽トンボで良かった。 投稿者:Pike
投稿日: 7月29日(火)02時39分43秒
まいさんが追求しようとすることは難しいですね。。。
頭がこんがらがりそうです。
でも生も死も辛いと書かれていたので
まいさんは今とても辛いのかしらとちょっと心配だったので良かったです。
最近考えすぎて頭が疲れてきたので
今日はおいしいことでも考えて頭の休養をします。
でもまた考えてしまいそうです。
自殺は人が選択をして死んでいるのかな。。
それとも増えすぎてテリトリー内の人間の数が多すぎるから
種のバランスを保つために減らされているのかな。。。
う〜ん
どうもありがとうございます 投稿者:ばん まい
投稿日: 7月28日(月)09時33分20秒
Pikeさん、書き込みをして下さってどうもありがとうございます。
「感情論」の内容・それを出したくなる根拠は、理解できていると私は自分の
ことを思っています。 それに、Pikeさんが書いて下さったことは、何かから
外れているともズレているとも思えません。 ああ、そうだろうなぁ、と、
読ませて貰いました。
=====
こんな話が、渡辺一夫(フランス文学者・故人)の著作にありました。 欧州
で「ユマニスト=ヒューマニストの王者」とか「ヨーロッパの良心」と呼ばれ
る(そう呼ばれていることを実際、聞いたことがあります)エラスムスの話。
新旧二派のキリスト教がガリガリと対立していた時に、エラスムスは、「キリ
ストの福音を歪曲するものの排除」「真の福音の探求と実践」を行った。
つまり、「お互いに「福音」を叫びつつ、最も「福音」を忘れていた」新旧派
のどちらにも肩入れせずに居た。 ある時エラスムスのところへ、フッテン
というかつての愛弟子であり現在の「激越な新教徒闘士」が、迫害と病気で
ボロボロになって訪ねてきたのだが、かつての師匠は、その新教徒に扉を開け
なかった。 新旧どちらにも肩入れせぬという態度を徹底したのだった。
この話に読めるエラスムスの信念と、Pikeさんの仰る「生と死をカメラに
収める機会があったならどんなに憎まれようとも撮っていただろう」という
ご主人の信念とには、共通するものがあるのではないかと私は思います。
=====
その頭で更に思ったのは、「感情論」は、語ろうと思えば語れる・だからこの
世には「感情論」が多い(「感情論」の是非ではない)・貴重な「感情論」は
私以外の方が語ることが出来る(Pikeさんの書き込みのように)・それでは
私は他のことを担当しよう、ということでした。
我々は、現在認識できること(=生きている・「尊厳」は大切、など)を最も
確実なものとして捉えます。 当然かつ自然なことと思います。 「感情論」は
これらの現在認識できることに基づいているといえます。 さて、では、私が
担当したらよさそうな「他のこと」とは何か、というとき、「生も死も等しく
辛い」などという極楽トンボな言説を垂れることができる「平和で優しい」
状況に居るのが自分だと思いましたので、では、「感情論」の守備範囲外の
ことを眺めてみるかな、と考えました。 それで、最近ではこの守備範囲外
担当がすっかり板についたか、先の稿にあったように、全くもって血も涙も
ないことや、「死んでいる状態」などという妙なことを考えるようになった
ように思います。
=====
あと、「自分で死ぬときを選ぶこともできない」のはむしろ、ヒト以外の者で
あると思います。 確かに、ヒトの身の上にも事故や偶然によって「自分で死
ぬときを選ぶこともできない」状況ができてしまうことがあります。 しか
し、ヒトは、(その是非はここでは問わぬことにして)自殺することができ
ます。 他の動物には、事故と自然死の選択肢しか無いように見えます。
ただ、動物の「謎の集団自殺」とヒトが言う現象は起こっており、これを、
ヒト以外の動物の「ヒトの自殺」同等の行為であると考えることも可能である
とは思います。 同等であるのかどうかは、今の私には判断できません。 ここ
を判断できないとしても、先述のように「可能」であるということは、「自分
で死ぬときを選ぶこともできない」生きものは、もしかしたら、居ないのかも
しれない、とも思います。
、、、というところで、下は、ちっとも「気を張って生きて」いないように
見える、仏国出身極楽トンボのお話、、、。
naif 投稿者:ばん まい
投稿日: 7月28日(月)09時24分29秒
私が人間のことで、naifと表現する状態/様子がある。 このnaifという状態/
様子と似ているかなと思うのは、友人が言う「inexperienced」であった
り、武田徹氏の言う「壊れた」であり、或いは染川さんの書いて下さった
「Sentimental」も、ここに列挙させて貰おうかと思う。 naif な奴は、
もしかしたら、「無様」であるかも知れないとも思う。
=====
サンジェルマンデプレでの連続講義で、私は恐らく目立っていたことと思う。
外見が東洋風な者が会場には殆ど居ないからだ。 全く居ないという訳では
ないが、連日やって来ている物好き東洋風味人は私だけだったようだ。 講義
の常連さんや司会者は、それで、私のことを「あの東洋人らしき者」くらい
は認識していたことと思うが、こういう場には、私が話しかけるとビックリ
する者が多い。 はじめ、ビックリというか、あたふたというか、「が、ガイ
ジン!」という感じの反応を見せる。 幾ら仏語で語ろうとも、表情が直ぐに
崩れるというものではない。 そういう所で、私に話しかけてきた者が居た。
話しかけてきただけで、これは変わり者に違いない、とガイジンは思ってし
まった。 予想は的中、というか、この話しかけてきた人物がどうも私の言う
ところの「naif」に引っかかるような人間であった(と、思って、この稿を
書くことにした)。
naif な連中は、割と小心者のくせに妙に大胆で、怖い者知らずなところが
あるのだ。 権力者や大学者・ガイジンや異風の人も、怖くない。 世間では
こういう者のことを、「世間知らず」とか「お人好しのアホ」とか呼ぶかも
知れない。 呼ぶにふさわしいと思う。 naif な者はまた、チョット青臭かっ
たり熱かったりする。 音楽家であるというその人も、あんな音楽こんな音楽
の話を一生懸命にしてくれた。 山が好きなのだそうで、山へ出掛けて、自分
をスカスカにして生き返るのだという。 こうやってアレだコレだを喋り続け
るかと思うと、人の言うことを怖ろしく素直かつ真面目に聴いているのも、
naif な人間の特徴だ。 「昨日言っていたことね、あれから考えてみたんだ」
などと言い出す。 ひと(私)からもアレだコレだを聞き出そうとする。 講義
への参加者のことをあれこれ観察している。 自分はどうも世間の主流とは
逆行というか外れるというか、そんな位置についていることが多い、などと
自分のことを認識していることも、naif と呼ぶのにふさわしかった。
ひとは誰もが、naif であったのではないか?と私は思う。 それともnaif の
性質は、大層に充分に”お育ち”になってから獲得するものであろうか?
ゆび指して「世間知らず」さを嗤い、いかに「お人好しのアホ」であるかを
指摘してもまだ不足という真性「naif」は、余り居ない。 いや、沢山居た
ら、困るし、不快だ。
「自分は勘がいい」などと言う。 何の勘だよ!と、私はやや怖ろしくなる。
幾ら優雅でノンビリしたところがあるとはいえ、パリは講義で語られてもいた
通りの大都会であり、マイノリティになぞ構っている暇があったら明日の小遣
いのことを考えておかないと、おまんまを喰い損なう。 それなのに「naif」
はニコニコとガイジンに語りかけて、話ができると感激してしまう。
ああ、駄目だ駄目だ。 naif は鎧でも着込んで、自分も戦えますということを
世間に知らしめなければ。 戦力になるかどうかは、知らぬ。 だが、これだけ
明らかな性質があるということは、「naif」にならできることというものが
世間にはあるような気がする。 たとえば、ガイジンに話しかけるとか。 ガイ
ジンとしては、恐れられるよりは気分が良かったよ。 どうもありがとうね。
生と死 投稿者:Pike
投稿日: 7月28日(月)07時07分21秒
まいさん、こんばんは。
私はまったくまいさんの言おうとしている事を理解せずに書き込みをしているかもしれません。ですが私も大事な人を亡くした事があるのでちょっとだけ書かせてくださいね。
ただ私の意見は感情論です。
そしてその映画を見たことがないのでとってもはずれていることを言っているかもしれません。
奥様が死んでいくご主人の正気でない姿を見て涙したのはもっと単純に愛している人が苦しんでいて、今まさに自分の目の前で先だとうとしているからではないかと思います。
ご主人が正気で無くなったのを見て、ご自分も反射的にがんばって堪えていた何かがはずれて泣かれたのだと思います。
亡くなるまさにその時を写しださなかったのはきっと死者や遺族にとっての気遣いではないでしょうか。。もしくは遺族の方からはずして欲しいとお願いがあったのでは。。
私の夫の葬儀に作家の方がいらしていて夫の遺体の写真を撮っている時に、夫の友人であったその方が夫がいなくなってしまった(このことを尊厳というのでしょうか?)その亡骸を記録として撮っている事実が悲しかったのを覚えています。
でもその時はこの方は作家さんだから仕方がないだろうと自分にいいきかせました。
なぜなら夫もきっと生と死をカメラに収める機会があったならどんなに憎まれようとも撮っていただろうと思ったからです。
戦場に行って戦争の姿を撮っていたカメラマンが自分が泊まっていたキャンプが襲われた時にフイルムを守るために自分の腹をかっきってその中につめて守ったという話を聞いたことがあります。何か事実や真実を伝えようとするときにそうまでしなくてはいけないのだろうかと考えさせられるときがあります。
論点がずれていますよね。。。。(困った)
もう一つこれも私の意見です。死には辛いも喜びもないと思います。
苦しんでいても安らかな死を迎えようとしていてもそれを感じてるその時は生きているんだと思います。
だから辛いと感じるのも嬉しいと思うのも生きているからなんだな。。と思います。
私は今何かに向かって歩いている途中でその事が幸せだと思うから
いつ死んでもいいと思っていますよ。
夫が亡くなったすぐ後に同じ未亡人仲間だった方がご主人が亡くなった5年後に
亡くなったのですがその時に
「後5年だけ私の人生はおまけでついているとしたらせっかくだから楽しもう、
それよりも”もういい加減死んでください。”といわれるくらい長生きしてしまった時のほうが大変だからしっかり生きていこう。」と思いました。
人間っていとも簡単に死んでしまうんですよ。
なのに自分で死ぬときを選ぶこともできないんです。
皆が辛い思いをして気を張って生きていかなければいけない世の中ではなくて
平和で優しい世の中になればいいのにね。。。
その昔は自然の力を恐れそして今は同じ人間を恐れて生きなければいけないなんて
変な世の中ですよね。。。
生命と尊厳(下からの続き) 投稿者:ばん まい
投稿日: 7月27日(日)21時24分08秒
(下からの続き)
=====
話は元へ戻り、河瀬氏の作品は、同一人物における尊厳の有無という様子を
見せてくれたことにおいて評価できる。 生も死も同じく「辛い」かどうかは
この作品からは判断できない。 生存者の涙が、「辛さ」を漂わせたのみで
ある。 コト切れるときを映していたら、ここの判断が下せた。
あと、西井氏の写真評論の仕事は日本で評価されているものであるらしいが、
西井氏の「尊厳」に、写真云々や同氏の仕事云々の影響は何もなかったよう
だと私は観た。 西井氏も、御自分をバカにして「早くくたばりやがれ」と
いう事を自分へ語っていらしたが、これは、御自分の「尊厳」をバカにして
いたわけではないように思う。 「尊厳」以外に自分に絡んでいるものへと
向けられていたか?
そういうわけで、ホスピス病棟で看護婦さんに躰をさすってもらいつつの
臨終と対峙する人間にも、野垂れ死にする人間にも、「尊厳」は、放棄せぬ
うちは、備わっているといえる。
生命と尊厳 投稿者:ばん まい
投稿日: 7月27日(日)21時23分24秒
その時には本を読めないからといって、歯磨きの時にテレを点けるのはもう
止めようかと思う。 昨晩、日付が変わった頃にそうやって歯を磨こうとして
河瀬直美 監督作のドキュメントを観てしまった。 日本での題は『追憶のダン
ス』というようだ(この題は私には適切とは思えない)。 前半は音声を落と
して仏語字幕で観てみたが、後半は日本語の会話とともに観た。
西井一夫という人物の死の直前の様子をホスピス病棟で撮影し続けた何日間か
を65分間にまとめた作品で、2002年の作ということになっている。 西井氏
というのは、写真評論家で、2001年に亡くなったという。
=====
私がもしこれを撮っていたら、西井氏がコト切れる瞬間まで作品として出した
だろうと考えた。 臨終、という場面はあったのだが、その後の葬儀や火葬の
様子を撮して、間接的に、「あの後で西井氏は死亡したのだ」という描写には
どうも納得できなかった。
何故に納得できないのか? 恐らく納得できない理由として以下の二点を挙げ
られる。 先ず、生命に「尊厳」なるものが本当に宿っているのかを判断する
には、生命がコト切れる瞬間、つまり、生命の状態が変わって見えるであろう
瞬間を眺めたかったから。 あと、生きることが、周囲の生存者の信じている
であろうと同様に「喜ばしい」ものなのかを、生存状態に区切りがついた(
物事は、区切りがつかねば評価の対象となり得ない)時に判断してみたかった
から。
=====
西井氏は、病でクタクタになりつつも身なりを正して「尊厳」を自ら保って
お出でで、看病にあたっていた令夫人もにこやかに氏に語りかけていた。
そこには、人間が生きていて「尊厳」を備えていることをよしとする(肯定
する)人間の姿があった。 これが臨終となり、西井氏がこれ以上自ら自身の
「尊厳」を保てなくなった時、夫人が泣き出す。 人間の、「尊厳」は備わっ
ていないが「生」きている姿を観て、生存者が泣く。
「生」きていることのみが喜ばしいことならば、泣くことはなかろう、と私は
思った。 また、「生」きていることのみが喜ばしいのなら、葬式だの火葬へ
と進むにつれ晴れ晴れとすることもなかろう、と思った。 恐らくヒトは、
「尊厳」の存在を喜ばしいものとして捉えており、生命が活動中であること
のみを喜んでいるわけではない(=生命の状態が変わっても動じない)。
患者臨終の際に生存者が見せる涙は、患者が自ら支えられなくなり、元より
他人の誰も支えることが出来ないために消滅した患者の「尊厳」の消滅を認識
したことを示している。 また、生存とは多分、辛いことなのだ。 「尊厳」を
失った患者が生存の辛さを体現してみせるから、そこで初めて生存することの
辛さを認識して、生存者は、認識した証拠に、泣いてしまう。
生命が尊いのではない、と、私は思った。 「尊厳」、つまり、人間の思考・
意識を我々は尊いと捉えている。 また、「生」きていることのみが喜ばしい
わけではない、と思った。 我々は、生存・死亡という二つの「辛い」状態に
「尊厳」という喜ばしいものを被せて、辛さを回避しつつ過ごしている。
=====
私はここ数年の間に、「生きていても死んでいても同じ」であるから、いつ
死んでしまっても構わないと思うようになった。 生存状態も死亡状態も同じ
く「辛い」ように思うので、できれば、輪廻転生の循環から外れて、生でも死
でもない「辛」くない状態になりたい。 まるで、アヤシイ宗教人のようだ。
因みに、これを、普段からお世話になっている定食屋で話したら、ご主人に
大ウケした。 「外れたいンだ?!」と。 ウケて、嬉しかった。
そうかといって「尊厳」という喜ばしいものは放棄していないので、こうして
書き物なぞを行っている。 食事をし、講義にも出掛ける。 本を読む。 死亡
状態においても「尊厳」を備えた人間で居られるのなら、生も死も「辛い」
ものではなくなるかもしれない。 まぁ、しかし、こればかりは現時点では、
私はアヤシイ宗教人ではないので、この点がどうなるかは解らない。
(上へ続く)
どうもありがとうございます 投稿者:ばん まい
投稿日: 7月27日(日)19時42分07秒
染川さん、書き込みをして下さってどうもありがとうございます。
先ずこう書いては申し訳ないような気もしますが、「事実性」「現場性」と
呼べるようなものの描写・伝達、て、難しいナァと、自分で講義録を書いて
みても、染川さんの素描を拝読しても、思います。 数多の文筆家や報道記者
諸氏がきっと、この、事実・現場と感情・感傷の記述の扱いに向けて努力を
しているのだろうなと思いました。 我々がやってみても、勉強になります。
染川さんの書いて下さったものでは、先日の稿には、たまたま通りかかった方
のあたたかさが中心に読め、故に、「呼んで」来て貰った連中はどうしたのか
な?という”雰囲気”がありました。 第二稿では、その「呼んで」来た仕事
人氏が情けない様子であったことが中心に読め、料金を徴収するにしては危機
対策ができていないのだなという感想を抱きました。
第一稿では、お知り合いの方の援助が「エエ話や」という感想が残り(
「合掌」の語が強力であった)、第二稿では、プロ集団を名乗る人々への
文句かと思いきや、「セキュリティ・ホール」以下の部分が、この稿を単なる
文句ではなく、染川さんによって書かれたものと読ませることに成功している
と思います。 内容としては「エエ話」の第一稿の方が好きですが、ものごと
を色々考えさせるには第二稿の方が強力であるという気がします。
=====
プロの曖昧さというものは、連発されては困りますが、「あってはならない」
とは言えない部類のものであると私は思います。 ですから、染川さんのよう
に、プロ(その仕事を行うことで代価を徴収する)とて完璧ではないと認識
して、「立ち向かう」、つまり、プロに頼り切りにならぬように心がけたい
ですね。 ここで言うプロとは、何もJAFの人々ばかりではなく、報道人でも
学者でも料理人でもある、と思います。 そして、他人に頼り切らぬからこそ
少々、「立ち向かう」には体力を要しますよね。
=====
武田さんの掲示板でのことのご指摘について、後日、書こうかと思います。
そのうち、武田さんには、ココで貴掲示板についての感想が出ていますよ、
と、お伝えする気で居ます。
途中のプロセスは端折りの素描 投稿者:染川由紀夫
投稿日: 7月27日(日)10時51分34秒
いつもいつも無頼漢に対してご丁寧なレス有難う御座います。
先の素描に関して事実性や現場性が如何に伝わったかどうかネット上で
その、実験として、改めてプロセスの素描形式で少し云わせてください。
悲しかった愛車の前後二輪の宙吊りの脱輪事件は、JAFと云う全国ネット・
ワ-クの先駆けのシステムを有する優良企業と想っていました。
言うなれば、当然システムの構築がなされているはずと想ったのです。
そこは、プロ意識だの構築だのネット・ワ-クだの優良企業だのと先駆者の
信頼性への誤解や私的な課題評価が有った気がします。
事前に事務所のやり取りの会話では、現状回復が不可能でも現場までの
諸経費等は、0000と提示されました。勿論YESと答えました。
担当の若いスマ-トなJAFMANは、来て繰れましたが判断に困惑を隠せ無い
様子。ただいい訳では、過去に失敗したケ-スを持ち出しここは、出来ない
と言い出しました。過去に失敗が有り、出来ないと云うマニュアルは、
実際には、無いはずとその様に私は、判断しました。本当は、範疇外だと
覇っきり云えば良かった様な気がしてます。その間暫らく問答が続き
こちらサイドの素人による提案を試みましたが彼らには、実は、構築
らしいノウハウは、全く無くて、現場性の仮定や想定の準備が一切素人
だったと云うお粗末なプロ集団と思えました。其れを立証する為にも
安全で且つ確実に出来る素人の立場で回復を試み成功したわけです。
セキュリティ・ホ-ルと云うには、甚だお粗末なプロ集団と云うのは、
それだけでは無い気がするのです。胡坐をかいた対象に寛容は、存在しません。
当然その「補填」「補完」は、自分で実行するしかありませんし、今回の幸いは、
個人的な幸いと云うよりプロの曖昧さに立ち向かう勇気の決断実行に
幸いを感じるわけです。但し多少体力の消耗は、隠せませんが。
武田さんの件は、皆さんが本音を露にし始めました。つまり事実や本音や
真実は基より団扇のセンスへの迎合や同調が多いにマンネリ化していた気が
してなりません。暫らく本音の投稿が続いて何かがわかるきがしています。
そして暫らくお休みされてもいい気がしています。Sentimentalでもないと思います。
(また愚痴) 投稿者:ばん まい
投稿日: 7月26日(土)23時36分25秒
「人の思想がその行動のみによって示されるとき、その人は哲人とよぶのが
ふさわしいであろう」 白川静
"I simply want to tell the story of my numerous experiments with
truth, and as my life consists of nothing but those experiments,
it is true that the story will take the shape of an autobiography"
Mohandas Karamchand Gandhi
=====
フランスでの講義に出席していても、日本での武田さんの掲示板の様子を観て
いても思うことは、沢山の知識を記憶している知識人はこの世に多くても、
自分の哲学を備えた哲人はとても少ない、ということだ。 上記二名の言に
おける「行動」と「experiments」を、私は、同様のものとして読む。
「行動」を説明したり、「experiments」について語る者が少ない。 少な
過ぎる。 科学者は科学・報道人は報道・商業者は商業・芸術家は芸術につい
て語れるはずであろうと思う。 自分の、科学界での研究仕事・報道界での
執筆仕事・商業界での取り引き仕事・芸術界での創作仕事の内容や成果が、
間接的に科学だの芸術についての自説を辺りに漂わせてくれると考えたら、
それは自己に対する怠惰に過ぎない。 「科学とは何か」「商いとは何か」を
語って初めて、他人に自説(=自分の存在)を伝えられるというものだ。
自分で言葉を駆って書いたり語るに困難すぎるのであれば、代弁できる他人を
捜すことだ。 言葉は、数値や映像や造形物と比してかなり便利なものだ。
私にも、「うじゃうじゃとメモだの手記を書き付けないダ ヴィンチ」こそ
表現者であると考えていたことがある。 つい最近のことだ。 しかし、実際に
ダ ヴィンチは、「あのマリヤの表情は云々、子羊に象徴される運命がうじゃ
うじゃ」と、自作の油彩に関する蘊蓄をダラダラ(しかも、ひどく読みにくい
文字で)書き付けている。 レオナルドは、怠惰ではなかった。 日本にも、
岡本太郎とか棟方志功とかの”語る”諸兄が居た。 彼らもまた、怠惰では
なかった。 ”語らぬ”人間も居ると思う。 怠惰で語らぬのではなく、”語ら
ぬ”ことの意義を示せていたときのみ、”語らぬ”者として認識される。
武田さんが、「無様」という語を使ってお出でだった。 「あのなぁ、社会
つぅものはなァ」と、居酒屋でアルコオルを摂取しては語る社会人を思い出し
みて欲しい。 きっと、「科学とは何か」「報道とは何か」「社会とは何か」
を語ることは「無様」なのだ。 「無様」だからこそ、アルコオルの効果が
出るのを待ってから語られる。
この稿自体が、無様である。 せめてものミットモナサの払拭に、渡辺一夫に
登場して貰うとする。 因みに、カッコ内は私が付した。 渡辺も、無様さを
晒した人間であったと思う。 その人物が心配して護ろうとしたものは、何で
あっただろうか。 ヒトがヒトたる所以・尊厳・アイデンティティ・・・か、
と思う。 自分で見出し、護らねば、誰も譲ったり護ったりしてくれない
もの、である。
「ただ一つ心配なことは、手っとり早く、容易であり、壮烈であり、男らしい
ように見える(自分というものに対する)不寛容のほうが、忍苦を要し、困難
で、卑怯にも見え、女々しく思われる(自分というものに対する)寛容より
も、はるかに魅力があり、「詩的」でもあり、生甲斐を感じさせる場合も多い
ということである。 あたかも戦争のほうが、平和よりも楽であると同じよう
に。」
変なオススメ 投稿者:ばん まい
投稿日: 7月26日(土)17時44分10秒
jianさん、書き込み、どうもありがとうございます。 当方利用のブラウザで
は二重投稿に見えませんが、まぁ、何かの拍子に?ダブって現れたら、整頓
しておきます。
=====
ヘクトパスカル(hPa・現在日本で採用されている気圧の単位)、で思い出し
て、ちょっと変わった資料本を皆様にオススメします。 文部省(文科省、
ですかね)所属 国立天文台 編の『理科年表』(丸善株式会社)です。
暦・天文・気象・物理/化学・地学・生物・附録(主に数学)の大項目によっ
て構成されており、これ一冊を持っていれば、とりあえず、理科系の事柄に関
する知ったかぶりが完璧に近いものとなります。 用語の解説や図も入ってい
て、「序」にあるとおり、「世界でも類のないデータブック」であり、素晴ら
しいのです。 私辺りが偉そうに掲示板に書く生命科学分野の語も、大概は
ここに見つかることと思います。 トリの誕生からの体重変化(平均値)なん
てことも載っています。
で、ヘクトパスカルです。 自然界での出来事を観測した結果を数値にした
場合には単位を付けないと、その数値が何を表現しているのかが不明なまま
です。 それで、通貨単位の如く、世界の諸国が自分の好きな単位を設定して
それを好きに使っていたこともあったのですが、現在では「国際」単位系と
いうものが各国間取り決めで存在しています。 気圧についての「国際」単位
では、地上の気圧は1013.25 hPa ということになっています。 台風は低気圧
状態で観測できる現象(地上の気圧よりも圧力の数値が小さい)でして、
950 hPa という表現から低気圧であるとは判断できます。
ところが、日本での台風の定義は気圧ではなく風力に依存しているので、
950 hPa という数値を観測できた地点に台風が存在しているかどうかは判断
できません。 また、大幅な低気圧状態であることを表現したい場合、数値を
思い切り下げて 8XX hPa と書くと、より低気圧であることが解り、地上との
気圧差が大きいことから、いかにも強い風が吹きそうな感じが伝わります。
サイエンス界では、このように数値を扱って精確な現実・観察の表現をしよう
としています。 言葉や映像を扱って表現をしようとする場合にも、精確な
表現をしようという努力において、上記のような検討が表現者によって為され
ているはずと私は思います。 そして、精確な表現であると、自分以外の人間
に理解して貰い易い、つまり、伝わりやすいのだ、という気がします。
生きた心地 投稿者:jian
投稿日: 7月26日(土)08時36分32秒
とは、いい(表現)ですね♪
そんなんで思い出したのは映画。邦題「レッドオクトーバーを追え」と「レッドコーナー」。
この2つ、テーマが似通ってるような.....主人公たちを取り巻く社会(政治や文化や宗教etc.)が当人たちを翻弄するというもの。
主人公たちはそのあたえられた状況の中、必死になって自分たちの‘生きた心地’を模索する.....
そういえば今読んでいる本の、高村薫さんの「リヴィエラを撃て」も似ているのかなぁ、と。
↓すんません、なぜか二重投稿をしちまったみたいで(笑/恥/汗)。
----------------
うげげぇ..... 投稿者:jian 投稿日: 7月26日(土)08時36分32秒
なぜか二重投稿しちまってます(泣/汗!)。
とりあえず、削除しようとしたけどダメみたいなんで(笑)、こんな言い訳書いてます(颱風汗!×950hPa)。
--------------------
なんかまた書いてしまってからの心配 投稿者:jian 投稿日: 7月26日(土)08時36分32秒
まずは、自分のカキコが空回りしてないかなぁ.....と(恥/大汗!)。
そんで、自分の文才乏しい(激貧)なのは承知ノ助で厚顔バリバリのカキコ、メッチャ恥ずかしいと思いつつも.......
---------------------
.......っていうか、これで三重投稿だ?!(笑)
> 表現らしい表現を披露できる方だと素晴らしいのですが.....
まったくもって駄目ダメです(滝泪)。
そんなダメ表現の実体↓
http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Lynx/9759/
どうもありがとうございます 投稿者:ばん まい
投稿日: 7月26日(土)08時20分50秒
jianさん、書き込みをして下さってどうもありがとうございます。
自分の考えを伝えたい・表現したい、という意志が、言葉になる人も居れば
写真になる人も、顔つきになる人も、態度になる人も居ますよね。 勿論、
jianさんのように御自分で表現らしい表現を披露できる方だと素晴らしいの
ですが、表現は得意じゃないと自分で感じる者でも、まぁ、先ずは意識して
顔つきを変えてみるくらいしてみると、表現とはどういうことかを実感でき
るのかも知れませんね。
余りに青臭くて申し訳ないのですが、自分のことを表現できると、生きた心地
がするような気がします。 jianさんの仰るHappyというものも、多分、生きた
心地というか納得というか、、、そんなものと似ているかなと思います。
ただ、明るい・楽しい・優しい・柔らかい・心地よい・滑らか・麗しい・・・
という表現ばかりがヒトという生きものの「生きた心地」とは限らない、と
いう気もします。 暗い・辛い・苦い・堅い・妙だ・尖っている・ズレている
という生きものもヒトである、ということを忘れないようにしたいです。
言うは易し、なのです、けれどもね。
なんかまた書いてしまってからの心配 投稿者:jian
投稿日: 7月26日(土)03時24分43秒
まずは、自分のカキコが空回りしてないかなぁ.....と(恥/大汗!)。
そんで、自分の文才乏しい(激貧)なのは承知ノ助で厚顔バリバリのカキコ、メッチャ恥ずかしいと思いつつも、伝えたい、話したい、という気持ち。.....そんなんが複雑に絡まった心配(ナイアガラの滝汗!)。
リアル 其の2 投稿者:jian
投稿日: 7月26日(土)03時10分24秒
すんません、なんか「其の1」書いたら勢い付いてしまいました(笑/恥)。
んで、まずは‘言葉’には‘力’の補足説明
某BBsでワタクシメが書いた‘共感’というのは「其の1」で書いた‘痛み’だったりするんじゃないかと思います。
で、‘真実/非真実’について
‘真実’なんてぇのは、人の数だけ、思いの数だけあって善いんじゃないかと思っております。この方が皆んなが幸せになれるかもしれないと。
「‘真実’はこれ一つだ!」などと言って争わずに、互いの‘違い’に‘理解’があれば、その‘在り方’が違っていても、許せたり認められるかもしれないっすね。
そのキッカケとして、‘違うもの’や‘分からないもの’に怖れをなすのではなく、興味を「持つ」「持たれる 」ように出来たらいいなぁ、と。
そんなトコから‘Happy’は始まるかも.....な訳で(笑/恥)、jianはそんなコトをネット(web)で出来たら愉しいなぁ、と思うのです。
で、報道‘ジャーナリズム’なるモノに話を引き戻すと、‘事実’なんて概念もあるわけなんですが、これも難しいっすよね。
某BBsでもチロっと書きましたが、その前提は個人や共同体なりの‘思想・信条etc.’がある訳で、その前提の立つ位置によって見え方が違うんだろうから、ですね(笑)。
でもjianが今思うトコロの結局は、先に述べた‘Happy’になりたい! な訳であります(笑/恥/呆)。
リアルの試み 其の2
http://www.tyo-colle.net/
リアル 其の1(?) 投稿者:jian
投稿日: 7月26日(土)02時45分03秒
ども、jianです。またまたお邪魔しちゃいます、すまそデス。
某BBsでの「re:弱さについて」の御発言、たいへん愉しく拝見しました。
方法論については、たくさんの可能性があるでしょうからあえて別案なりを挙げませんが(ry
「ネットの力」うんぬんについて少しばかり.....(こんなカキコ、唐突な感を否めませんが)
ぼくはガラスの破片を指に突き刺したコトがあります。その詳細を書きはしませんが(笑)。
で、ナニが言いたいかと、この‘ガラスの破片を指に突き刺したコト’を何百何千も見て治してきたお医者さまと、たった一回きりでもそれを経験した怪我をした人が居たとします。
この両者に‘ガラスの破片を指に突き刺したコト’を説明させたのなら、お医者さんにかなわないことでしょう。
しかし、そのコトの‘痛み’や‘辛さ’を語らせたなら、たったの一回きりでもそれを経験した人にかなわないことでしょう。
ここで言いたいのは「怪我人がジャーナリズムを伝えられる!」とかってコトじゃなくて(笑)、その‘痛み’を知らない、もしくは想像もできない人(感覚麻痺/原因は多様)の‘言葉’には‘力’なんてものは無いんじゃないかと思います、ってコトなのです。
余談ですが、お医者さんの‘用語’はその筋のひとたちの中で通じる、いわゆる符丁ですからマスにゃ伝わらないっすね(笑)。
リアルな試み 其の1
http://tokyo-boxers.net/mov.html
どうもありがとうございます 投稿者:ばん まい
投稿日: 7月24日(木)18時26分39秒
someさん、書き込みをして下さってどうもありがとうございます。
大層にビックリなさったことでしょうね。 幸と不幸のバランスが取れていて
よかったですね、、、大きな切り石は或いは、someさんに自分の存在を気付
いて欲しかったのかもしれませんね、、、いやいやとにかく、今後は深夜の
愛車とのお散歩には充分なご注意を。
「失敗から学ぶ」とか「七転び八起き」などというように、地球上での
出来事て、幸福一色ということもなければ不幸一色ということもないように
思います。 そして、この、(最低限)二要素のバランスということは、
幸不幸のみならず、善悪・尊卑・上下・好悪・有無・送受・明暗・・なんて
ことにおいても適用できるという気がしています。
なんともエラソウに達観して書いているようですが、まぁ、実は、上記の
ように考えておけば大概のことは納得できる、というところなんです。
素描 投稿者:some
投稿日: 7月23日(水)22時12分00秒
実は、昨日の深夜だったんですが愛車を水路に落としてしまった。愛車の
左側の前後の両輪は、ほぼ宙ずり状態に見えたがたまたま其処は、救世主がいた。
生活のための水路と云う話は、現代では面影を無く解りづらいかも知れない。
戦前戦後では、水路利用の其処では洗濯や野菜や果物の洗い場として活用していた場所
で其処に大きな切り石が張り出していて車体の底がそのお陰で足場になり横転を
回避できたんです。石の隣には、電柱がありましたから運が悪かったら大破に
近い状態だったみたいです。
悲しい夜が開け、早速JAFロードサービス来て頂いたのですが結論としてNOと言わ
れ唖然としましたが、暫らく考えた末、自分なりに現状を回復するイメージを膨らませ
たところGOの決断が出来て途中のプロセスは端折りますが何と成功し回復しました。
近所の知人がその場を通り掛かり、自主的に川にまで浸かり、協力と格闘の結果
悲しい昨夜より一転して至福の至りでした。感謝を込めてお礼をし、そのまま湯布院
音楽祭の準備の要請が繋っていたので新たな現場に直行した。
不幸と幸福の落差の激しい一日でしたが、合掌とは、久々想った事でした。
どうもありがとうございます 投稿者:ばん まい
投稿日: 7月23日(水)06時43分17秒
Pikeさん、ご意見を下さってどうもありがとうございます。
「考えすぎないで」てところが簡単じゃないのですよねぇぇ。
そこで!(なんだかいつもこのセンへ走ってしまうのですが)
考えすぎ対応策・キュウリで紙に迫る!!
何が、て、この暑さでもって自家栽培していたキュウリがウルトラ豊作とやら
で、何本も恵んで貰ったんです。 コレハシメタと料理に使うことにしました。
この料理の際に、こないだ研いだばかりの包丁ですぱすぱと薄切りをやって
みたらもう、考え事なんか吹っ飛びまして、スッキリしちゃいました。 包丁
がよく切れることが重要かな。 「紙」の薄さへの迫り甲斐があるのはやはり
キュウリですね。 ダイコンもまぁまぁ・ニンジンは堅すぎ・ピイマンは切り
にくい・リンゴはしなやかさが不足--- 一体、ナニやってるンだか。
もっと考える 投稿者:Pike
投稿日: 7月23日(水)04時25分29秒
本当にそうですよね。
少し考えたらこんな事はできなかっただろうと思う事が多すぎる。。
どうしてそこからもう少し先を見ようとしなかったのかって聞きたくなるような事柄ばかり。。
自分で理解して納得して行動をとっていれば問題が起こっても何か解決策を生み出すことができるのに、ただ流されてたり、パターン化された行動をどうしてそうなるのか考えないでしているから問題が起こっても解決できないんですよね・・・。
考えること(私は考えすぎないで考えること・・・)
と理想を持つ事を続けていきたいですね。
(休憩して愚痴) 投稿者:ばん まい
投稿日: 7月22日(火)19時07分06秒
ヒトは、現状よりもっと、ものを考えられると私はおもう。 そして、もっと
考えたら、現況よりももう少し、誰もが暮らしやすい状況になりそうな気が
している。 以前にpikeさんが書いて下さった「できるだけ多くの命がプラス
のエネルギーを出せるようになれば」ということと、「もっと考える」という
事が似ているかなぁと思った。
=====
たとえば小学校で、教師が「トリとは、スズメ・カモメ・ペンギンなどを指し
ます。 他にはどのようなトリが居ますか?」と尋ねると、子供はハイハイと
手を挙げて、「ペリカン!」「カラス!」「シギ!」などと例を挙げる。
子供はここで勿論、自分なりに考えた後に例を挙げたが、「もっと考える」
こととは、ここで「では、それらは何故に・どのような理由からトリとして
挙げられたか?」ということまで考えてまとめることを指している。
例示を行いさえすれば充分にものを考えたかのように感じている小学校卒業生
が、この世に多いように感じる。 講師が「金融の活況をもたらす要因として
XXXやYYYが挙げられます」と話せば、質問にハイハイと手を挙げて「貴方は
ZZZの理論に言及しなかった。 アレも効果的なのに、何故言及しないか?」
と、質問形式の例示を行う。 質問者の指す「ZZZ」が、何故に・どのような
理由から金融の活況をもたらす要因として効果的なのかを示さねば、質問に
立ってまで「ZZZ」を提示した理由が、私には理解できない。 小学校卒業生
ならば、「講義にあったXXXよりも納税者への負担が少ないZZZは金融の活況
をもたらす要因として効果的と考えるが、貴方はどう考えるか?」くらいの
提示をして欲しい。
=====
例示をしている、ということは、小学生も小学校卒業生も、「それらは何故に
・どのような理由から」例となるのかを考えているのだ。 しかし、自分で
自分の考えをまとめていないから、教師や講師の解釈に頼ることになる。
「もっと考える」こととは、自分が何かを考えついた根拠を自分のなかに
探すことだ。 そして、「もっと考え」た内容を披露することが、自分のこと
を表現することに他ならない。
誰が誰なのか・その者は何者なのかが互いに明らかになれば、いじめたり
意地悪をしたり踏みにじった対象も、可愛がったり優しくしたり愛でた対象
も「どういうもの」なのかが明らかになる。 「どういうもの」かが明らかな
対象になら、話しかけることが可能となる。 話しかけることが可能であると
は、たとえ相手との間に問題が起こっても解決が可能であることに等しい。
=====
ある疑問があって、それに対する答えが具体例で浮かんだからといって、そこ
で満足しないでいよう。 その具体例は何故にその疑問への答えと判断できる
のかまで考えてまとめてみてから、自分に合格点をあげよう。
「トリにはどのようなものがいますか?」
「貴方は何故に美味しい食物を楽しめますか?」
七月企画 UTLS 「白」板メモ--日曜日・20日 投稿者:ばん まい
投稿日: 7月21日(月)20時16分53秒
武田徹さん(ジャーナリスト)の掲示板でも七月限定議論をやっていて、そこ
ではジャーナリズム(報道の行為そのものを指す・カタカナから抜けていない
のだね、この語は)に的を絞った発言が繰り返されている。
http://162.teacup.com/sinopy/bbs
私はといえば、ここ二日のUTLS講義から、ジャーナリストや学者は人間社会
に対しどのような仕事をしたらよいだろうかと丁度、考えたところであった。
ジャーナリストと学者と分けて仕事のことを考えるとは有意義であるのか、と
も思う。 私はそもそも、自分は何者なのかを表明せねばならない事態下で
自分のことを”XXX屋”です・”YYY家”ですと名乗ることに困難を憶えて
きていた。 そう限定してナニになる?と自分に対しても(そして恐らく他人
に対しても)思っていたからだろう。 それが、今月の講義に出ていて、
”XXX屋・YYY家”という自称は、日本で名刺を差し出す時に言う「ワタクシ
こういう者です」と似て、自分以外の人に対しては便利なものであるようだ、
と思った。 その人物のキイ、という感じなのだ。 そしてこのキイは、例えば
「社会学者です」と名乗って多くの人々が想像する通りの社会学者でなくて
も構わない。 逆に、「地域戦略家です」などと、ナニを指すのか想像し難い
ものを名乗るのなら、それを体現することが重要だ。
学者は現在の世間ウケを気にせず、しかし人間(生きもの)のことを念頭に、
懸命に真摯にものを考えて発表しよう・ジャーナリストは現在の世間ウケに
敏感に、そして学者がちゃんと人間(生きもの)のことを考えているかどうか
を厳しく鋭く検討しよう、などと考えている。 世間ウケを気にしないからと
いって誰にも理解できない論を展開したならジャーナリストがつつく。 世間
ウケを追求するが故に媚びた報道をされれば学者がつつく。 世間ウケせず
とも世のため人のためを考えた論はジャーナリストが評価し、アレだコレだと
散らかった言説を世間ウケを気にしつつ諸説を分析・紹介する仕事は学者が
評価する。 考え抜く学者・整頓してみせる報道人、といったことを考える。
勿論こうスッパリ上手く分担できやしない気もするが、分業は能率を上げる。
能率---ヒトが「知」を蓄積してゆく所作の能率だ。 世の中には学者と報道
人だけが生息しているわけではないから、職業とか仕事として「学者」と
「報道人」を打ち出すのではなく、「学者的・scholastic」「報道人的・
journalistic」という傾向として提示すると、ヒトが理解しやすいかも知れ
ない。
ここまで書いて、これは今更私なぞがエラソウに書くことじゃなかろう・既に
言い古された説である、と思った。 しかし、言い古されているから現実の
ものとしてヒトの間に定着/浸透しているとは限らない---。
オマケ・私の使っている言語辞典には、「scholar」の項には、この語の指す
人が勉強していたり知っていたりする事柄が "especially a subject that
is not scientific" とある。 こうして読むとアタリマエのことと思ってしま
うが、世の学者連が今一度かみしめた方がよさそうな記述である。
拝復: 素材 他 投稿者:ばん まい
投稿日: 7月20日(日)06時34分22秒
pikeさん:
この頃の仏蘭西料理は素材のことを考えて調理するみたいですね。 恐らくこれ
は、「料理といえばフランス、フランス、フランスなのだ」という自覚のある
料理人諸氏が他国(含む日本)の料理を研究したことの成果なのでしょう。
それでも野菜が茹ですぎて出てくることはありますが、この頃は茹で方にも
気を遣うようになってきていると思います。 「野菜の歯ごたえ!」なんていう
ことを売りにしている半調理食品が売られてもいます。 確かにこういう変化
は、食することへの「欲」が推進力になっていると納得できるなぁ。 まぁ、
何せフランスジンはイギリスから見たら「かえるちゃん」だからなぁ。
そうそう、「茹でる」といえば、、、
「あのさあのさ、イギリスでは、このパスタをさ、壁に向かって投げつけるン
だよ。 それで、壁から落ちてこなかったら合格。」と、仏人は言いますが、麺
の茹で具合は、フランスの者にもまだまだ修行して欲しいと私は感じます。
家具の木のお話、これもまたナルホドそうだろなぁと味わい深いのと同時に、
肉囓りつつ体も鍛えて、かつガリガリと勉強に精を出す友人を思い出しました。
精進精進。
=========
みなさま:
私の投稿のなかで綴りが間違っていました。
ルネサンス renaissance / 誕生 naissance が正しいです。
素材 投稿者:Pike
投稿日: 7月20日(日)02時21分10秒
ムムムムッ。
素材を知ってこその調理法ですよね、きっと。
フランスの人は素材の事を良く考えて料理をするのかしら。。。
日本人は素材の味を引き出そうとしますよね。
イギリスの料理はなんでも茹ですぎであんまり美味しくないな。。
なんでも昔は食べることに欲をかくのは行儀が悪いとかで食文化が
発達していないときいたことがある。。。
枝豆のかわりにいんげんをつまみにしようかな。。
家具を作るのも素材を知っていないと長持ちする物が作れないんです。
味がある家具を作る人たちも素材になる木にこだわってる人が多いですよ。
どうもありがとうございます 投稿者:ばん まい
投稿日: 7月19日(土)23時07分09秒
当所にお越し下さる方々・書き込みをして下さる方々、どうもありがとうござい
ます。 何だか詳細にレス付けられなくて失礼しています。
そうそうそう。 夢あり宗教ありサイエンスありアホ話あり、のサイトに出来たら
と思います、、、と、書きつつ、こんなの如何でしょうか、、、。
*アッと驚く(私はかなり驚いた)美味インゲンの調理法
インゲンの可食部分を、茹でる前に塩もみして、表面が深い緑色になるまで
約10分(それ以上放置すると塩辛くなる)置いて、それからさら湯で茹で
ます。 この前処理をしてから茹でると、歯ごたえを残しつつ甘みが出るまで
茹でられます。 茹で上がったインゲンに、塩だの醤油だのソオス不要。 冷
めてもウマい! 仏蘭西料理のプロから教えて貰いました。
いらっしゃいまし / 七月企画 UTLS 「白」板メモ--金曜日・18日 投稿者:ばん まい
投稿日: 7月19日(土)21時44分59秒
"大将、白くつしたがマブシイぜ" jianさん、"きっと珈琲テエブルですよね"
pikeさん、"町屋の半端者"こと染川さん、書き込みをして下さってどうも
ありがとうございます。 昨晩遅くにテレ点けたら、日本の四国地方の様子を
映像に収めた作品を放映していました。 人がよく笑うなぁ、、、割と尖って
見える山を切るようにして幅の狭い川が流れているなぁ、、、などと眺めて
いるうちに、地面に置かれた廃看板に「Bonjour / XXX(経営者?の姓)」と
書いてあるのがじっと映されてね。 何せフランスの者が撮った作品であった
から、可笑しかった。 仏語を四国で見つけて、嬉しかったんだね。
==========
これまでにコレを引き合いに出した講師は居なかったのだけれども、私には
「グロバリゼイション」は、かつての「ルネサンス」の現代版であるような気
がしてきた。 昨日の講師Bauman翁の指摘の通り「人間のありかた(human
condition)を新たに編成(reform)」しつつある、と、現状を表現できる
のなら、「ルネサンス」時と現在との人間・社会・環境・・・をとりあげて
比較する事から「今このようにあることの根拠を問う(これは白川翁の言)」
ことは多くの成果を生みそうだと思う。 ルネサンス(renaissance)とは、
re(=復)neissance(=誕生)の意味を持つ。
=====
「分からないモノたちが‘お互いのコト’を知」る、というときに重要なこと
は「お互い」の一言であると私は思う。 キリスト教圏からはあたかも異種の
哲学が漂ってくるように感じられるかも知れないけれど、所謂「西洋」の連中
は、「東洋」に語りかけることが「お互いのことを知る」ことに繋がるという
認識はあるように感じる。 我々は、”話が通じない”と思われるヤツ(それ
は、ヒトである場合も、時計である場合も、シイタケである場合も、空気で
ある場合も)に語りかける、ということをしない。 さて、では、「東洋」は
「西洋」に向かって何をどのように語りかけてきたか? 「東洋」にとっての
「お互い」は、自分の他に何を指すのだろうか?
"klein bottle"で画像検索をして、そこにあるガラスで作られた物体を眺め、
"bottle"とか「壺」とか云うくらいなのだから、そこに何か、水でも砂でも
入れたらどうなるか想像してみるのは如何? ここが想像できたら、同じ検索
で引っかかってきた多色でのCGだのイラストを用いて行われている「哲学」
談義がどの程度に面白い/つまらないものかの判断が付く。
西洋でワァワァやっている哲学は、(現在での)キリスト教圏や特定言語圏の
特徴を衣装として着込んではいるものの、ヒト種のための勉強、つまり、
「どれが生きていてどれが生きていないというのか」を探っている行いなの
だと感じる。 「ルネサンス」に先駆けて西洋人は、「野蛮人はヒトか否か」
という検討を行って、野蛮人氏(西洋人が探検に行った先に居住していた人
を連れてきた)と犬君を同じように打ったりなぞした。
「我々が打たれた場合と同じように哀しそうな様子をしています!」
「ナニ? では、野蛮人は我々と似ているのか? 犬も我々と似ているのか?」
生き物を打つ代わりに言葉を用いて様々を検討できるのが現代であるのなら、
たとえば東洋から、「言語で(人間のこと・生命のこと・なにが「分かった」
のか・・・)素描」したらよいと私は思っている。 ただし、この言葉には、
生き物を打った過去が沁みていることを忘れないようにしたい。
言語で素描 投稿者:町屋の半端者
投稿日: 7月19日(土)15時50分37秒
絵画で云うDrawingと云う素描は、昨今では、フランス絵画の
解釈では、一種のTableauと云う完結したと云う意味で確立され
ている。恐らく美術の範疇のContemporary Artとして自立して
いる世界だと想われる。例えば画面の中央に横線が4B程度の鉛筆や
硯で墨を磨って竹筆[毛筆の様で全体が竹で出来ている情趣な能登
の筆]で流した様な「無心にさらり」とか、またその線のプロロ-グ
からエピロ-グを一極集中的に息を止め精神を打ち込めるエッチング
とかは、多様で限り無く世界は、広がる物があるみたいだ。
開高健のScriptの千歳一隅な出来事には、原稿用紙に万年筆に
寄って加筆校正された事物が一つの作品として存在し、
フレ-ムに修まった姿には、実に晴天の霹靂と云った文学的
ショック事件を思い出す。そこには「いつか是が役に立つ時期が
きたら是を使ってください」とは、多様で意味深な解釈に受け
取れる数行は今日於いて文学の際立つ芸術性への想いを新たにした瞬間だった。
以前にも開高建の、抱腹絶倒なパフォ-マンスは、蝶鮫と外科医の
云々では、有名無実と思った事が有ったが、直筆の原稿用紙の一枚が、
見事なスクリプト芸術と成りうるとは、私にとって意外な個人年表の
歴史でも有った気がする。
人々の言語解釈や人生の持つ遍歴などは、更に人々に影響が加わったり
価値そのものが大きく影響したり実に楽しくもあり意義も有るタイムリ-な
場に遭遇する事多々ある。輪廻転生と括ってみても何か物足りない
リアリティは、MachineやCreativeな世界にその経験や未知なる
遭遇など様々な想いを馳せながらも行くところに行くのだろうと
最近想ったりもした。
今日と云う虚構の無いDocumentaryとは、個々には、存在するかも
しれないが明日には、そう有りたいと願うのが尋常な気持ちだと思う。
生命 投稿者:Pike
投稿日: 7月19日(土)06時33分21秒
初めて掲示板にはお邪魔します。
本を読むのも苦手な上に勉強不足ですがなんだか私も自分が考えていたことを話てみたくなったのでお邪魔します。
今はイギリスで家具づくりなんかを30代後半にさしかかりながらもヒーヒー言いながら学んでいますが
学生の頃はまいさんと同じように動物実験などをしていました。小学生の頃にとっていた子供の科学に
”牛に音楽を聞かせると良い乳”がでるとか、”畑で鶏を放し飼いにするとミミズを食べてくれてそして糞が肥料になるしかも自由に歩き回って育った鶏は
おいしい”とかいうそんな酪農にあこがれて大学に入ったのですが入って実際の日本の酪農の実情にがっかり
そして”じゃ酪農じゃなくてその生産物を加工する勉強を”と思って乳利用研究室にてやったのが乳製品で癌の抑制ができるかどうかと
いう研究で以前から進められていた実験の引継ぎをやっていました。
私が卒業するころに妹が大学受験。妹は同じ農学の中でも農芸科学を専攻しました。その理由の一つに
「一匹の動物を殺して百匹助けられるなら勉強するけど、経験のためだけにたくさんの動物実験をするのことはしたくない。」
ということで、そういわれてパンチをくらったような思いをしたのを覚えています。
動物実験に携わっていたからだけではなくて夫が山男でたくさんの友人が亡くなった事、
その夫が生と死をとても意識していたことから生と死とか有機物と無機物とか意識する事が多かったのです。
どこからが生といってどこからを死というのだろうとか、どれが生きていてどれが生きてないというのかとか。。
たとえばこの石が生きてないとすれば地球は生きているというのかな。とかじゃ川はどうだろうとか。。。
そして自分なりになんとなくぼんやりとイメージし始めたのが”エネルギー”
どんな小さな命でもその命が一生懸命燃えて出したエネルギーが他の物に作用してそのものを生かすんだな。
ということ。だから動かない水だけでは生きているとはいわなくてもいろんな生命をかかえた川は生きていると思うし、
私達の体の中でだって毎日小さなバクテリアやなんかが生まれては死んだりしている、一つの命は決して一つだけでの命のエネルギーからは
できてないんだなって・・・。だからできるだけ多くの命がマイナスのエネルギーではなくプラスのエネルギーをだせるようになれば
地球も生き生きするのでは。。。
う〜んなんとも表現が幼稚ですがまじめにそう思っています。
それで夫が亡くなった時は亡くなっても生物の循環の中に生きていて欲しかったので、彼がこの世に生み出された日に地球に返してきました。
ゆっくりゆっくり戻っていくように。最後に亡くなったアラスカの氷河のに散骨しました。
ああ。。また何を話したかったのかまとまらなくなってしまいました。
感情ばかりが前にでて頭がついてこないので困ります。
でもそろそろいろんな事を言葉とか形でまとめられるようにならないと
私が作る家具が人に心地よさを与えられるようにはなれないと思うのでこのサイトに出会えたことを機会に
少しずつお勉強をと思っております。。。
夢の話とか宗教の話とか生命科学の話とか実はとっても興味があるんですよ〜。
其の3.....(後半) 投稿者:jian
投稿日: 7月19日(土)03時07分49秒
---- 続 き ----
ば ん さんのいらっしゃるフランスでも、比較的昔から‘日本の絵’その他は、リスペクトの対象になっているものと理解しています。
言語に頼らず視覚という人間にとって分りやすい知覚気管を.....(はしょります)
しかしながら宗教や哲学というのは、言語の理解のみならず.....だと思います。
宗教や哲学を人様に語れるようなモノは持ち合わせていないので御容赦いただきますが、それらの‘分からないモノ、コト’に対して興味を持ってもらえるようなキッカケは、作れたり提案できたりするんじゃなかろうか? なんて思っております。
ちょっと、つーかカナリ余談かも、なのですが(恥/汗!)、
「七月企画 UTLS 「白」板メモ--月曜日・14日/ 火曜日・15日」にあります、
>「世の中、そう単純に二分できるものじゃァない」.....
についてのjian的な私見を申し述べさせて戴きます。
(ちょっとまた前フリの長い言い回し.....スマソ!)
十年も前のコト、とあるデザイナーさんに言われました。
「jianちゃんの‘白・黒’はっきりしたい! という気持ち(スタイル)は理解できるけど、それじゃツマラナイんじゃない。世の中ってさぁ、白もあるし黒もあるし、その中間の灰色もある。それも無限に灰色が存在するのは分かるよね?! でね、わたしがデザイナーだからなのかもしれないけど、白・黒・灰色でデザインするとカッコイイ仕事は出来る、けど飽きちゃう(笑)。だってもっと違ったたくさんのキレイな色あるでしょ!」
てな感じのお言葉を戴いてガーン! って後頭部に一撃くらって目からウロコ、というより眼球トビ出そうでした(笑/恥/呆)。
んで、ナニが言いたいかというと、
>「世の中、そう単純に二分できるものじゃァない」
なのですが、二分しなくていいんじゃないかと思うのです。
もう5年くらい前にですが中国ご出身の方と知合いまして、その方の影響で‘ 陰 陽 ’なるモノを知りました。
日本でも陰陽士・安倍清明ブームでにわかに流行ってましたが、基本の哲学(と言っていいのかな?)や宗旨(?)みたいなものは一緒だと思います。
で、この‘ 陰 陽 ’ですが、最初にカキコしました『ひきよせて.....』(色即是空 空即是色)と多分に重複する哲学かと理解しています。(※あくまで書いてるコトすべては素人考えですので!)
そんでそんで、この‘陰 陽’、適切な表現かどうか‘?’なのですが、ミニマムな呼称として「陰陽」です。でレギュラー(サイズ?)な言い方ですと‘陰陽五行’であります。
ワタクシメのようなモノが説明するのもなんなんですが、‘陰陽五行’てぇのは、この世の在り方を(東洋的)哲学で解説するための原基であるとjianは理解しています。
実証ありき! な人たちからすれば「陰と陽と、五つの行(エレメント?)だけで解説するだと?!」と思われるかもしれませんね。
jianもまだまだ勉強不足で、かといって積極的に勉強している訳でもなく.....(恥/汗)。とりあえず風水盤(方位盤)を思い出してもらえると、その理解の一助になるかと思います。‘12の干支’があり‘48の宿’があり.....果ては曼陀羅図、みたいな(笑)。
日本(東洋)人だからカモ、なのですが、基督教圏発祥の哲学よりも、jianの日常生活の諸々全般を(たまに)省みる時、そんな東洋的な哲学が妙にココロに沁みたりします(恥/笑)。
‘クラインの壷’も東洋的な哲学だと悩まずに理解できそう.....デス?!?!。
えぇっ.....なんだか書きちらしの板汚しをしちまいまして、ごめんなさい。自ら進んで掃除をしたい気持ちはイッパイなのですが.....どうしたものやら? デス(笑/恥/呆/汗)。
そんでもって結びのナニガシは、と考えてみたものの、適当なコトバも浮かばず.....というコト(?)で、
↓ 暑中お見舞い.....
http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Lynx/9759/
其の3.....(前半) 投稿者:jian
投稿日: 7月19日(土)01時59分54秒
ばん まい さま、いつもあたたかい心遣いのお言葉を戴きたいへん恐縮です。
さて、あまりダラダラとカキコしてますと、書いてる本人が何をカキコしようと思ってたのか忘れてしまいかねません。
ココラでヒト区切り! と、頑張ってみます.....が?!(笑/恥/汗)
ステレオタイプの.....件ですが、
> 自分達は人間視されていないと感じるのでしたら、
> そのイマイチ気に入らない「ヒューマニティー」は遠巻きに眺めつつ、
> 自分から「人間とはどのような存在か」を提案したらよさそうです。
と、ありまして、なんか莫迦jianは、ば ん さんの手の中で.....といった感じになってしまっているようです(笑/恥)。
まさに「提案」というかなんちゅーか、、、、
人間にとって(は特に?)‘分からないモノに対する恐怖’は、めっちゃネガティブに大きく作用するもののようです。
そんな分からないモノに対する反動からか、意識を‘する・しない’にかかわらず‘分かったようなフリ’が恐怖をやわらげる行為としてあるように思えてなりません。
でも分かったようなフリをしても分からないコトって多いですよね。そんなもあってjianは恐いコト、メッチャたくさんあります。
じゃ‘どうしたらいいのかな?’とjianが考え思ってるのは「分かればいいんだ!」っちゅー感じです。
そうまさに「分かればいいんだ!」を裏返せば、ば ん さんのおっしゃる‘提案’なんでしょうね。
「人間とはどのような存在か」なんて、どデカイ提案はできないのですけれど、先のカキコで入れたリンクはそんな意思表示も含んだサイトなんです。
日本のココ1〜2年の流行り言葉で「リスペクト(尊敬)」なるモノがあります。既に死語になりつつありますが.....(笑)。
英語がたいへん不得手なんでリスペクト(英語ですよね?/笑/汗)の意味するところが本来持つ意味と違っちゃうカモなのですが、
分からないモノたちが‘お互いのコト’を知り、リスペクトできるくらいになれたらいいなぁ.....と思うのです。
↓トウキョウ・コレクション
http://www.tyo-colle.net/
七月企画 UTLS 「白」板メモ--月曜日・14日/ 火曜日・15日 投稿者:ばん まい
投稿日: 7月18日(金)21時07分38秒
ヒトと生命科学・ヒト社会と生物科学といった話題に触れる際には、自分が
普段に考えていることの成果というか真骨頂・真面目というか、、、を書き
たいと思ってしまい、「後日」と書きつつなかなか手を付けられないで居る。
=====
同一ではない、最低限で二種類のものを比較するというものの考え方は、多く
の成果を生む。 たとえば性を理解しようというときに雌雄の二種類を想定
することを我々は行うが、「世の中、そう単純に二分できるものじゃァない」
とは、ここで今更詳細に説くまでもない現状である。 その現況を踏まえた
つもりで尚もこの最低限二種類のものを絞り込むことから、この稿を始めて
みる。
ここで扱う最低限二種類のものは、心身・無形有形、だ。 そして、これらを
比較して考えたことの成果は、生命とは何であるのかを理解するためのもので
ある。 人類の祖先や言語の源流を探る際にも、生物の変遷(進化という言葉
をここでは使わないことにする)の原因を追及する際にも、心(ココロ)に
諸事の原因を負わせた説と身(モノ)に諸事の原因を負わせた説とが、並立
したまま触れ合うことなく展開されているように見える。 心も身も生命の
構成要素であるという基本合意が思索者の間にあるにしろ、だ。
私にとっての学者とは、本当にどうしようもない穀潰しだ。 さっと躰を撫で
たり、ホイと食物を提供することでヒトは瞬く間に笑顔を見せるというのに、
学者は、躰を撫でたり料理をしたりせずに言葉を連ねてコウルサイことを説
く。 ただし、撫でられてヒトが笑う場合、撫でてくる者は自分に危害を加え
ないと信じているから笑えるのであるし、料理を提供されて笑う場合、その
料理は喰えるものであると信じているから笑えるのだ。 人々の笑いを瞬時に
誘いやしない学者にとって、信じるという事柄と対を為すのは”信じられ
ない”ではなく、”わからない”である。
生命科学・生物科学の研究では、自分(ら)が立てた仮説を先ず信じること
によって仕事が始まる。 特定方向へと進展する性質を持った仮説を堅く信じ
ているほど仕事がはかどるような気さえする。 この世界での仮説に登場する
ものは「身」であって、「細胞は、蛋白質Aの機能によって分裂を繰り返す」
とは言っても、「細胞は、幸せを求めて分裂を繰り返す」という仮説は排除
されている。 ところが、研究のことを世の中に公表する時には、「分裂を繰
り返した後にヒトを病に到らせる細胞を、蛋白質Aの機能を制御することで
沈静化してヒトを病から救い、幸せをもたらす」ことを目指している、などと
言う。
自分らの仮説に含まれない要素をも盛り込んで対社会的な対面を繕っていて
は、いつまで経ってもヒトに笑顔をもたらすことはできまい。 私は、生命は
心身から成っていることを納得して、笑いたい。
(やはり先が長くなりそうであったので、今は、ハショりました)
どうもありがとうございます 投稿者:ばん まい
投稿日: 7月15日(火)23時58分44秒
jianさん、書き込み、どうもありがとうございます。 この数日間の西欧は
暴力的に暑く、ついつい、犬諸君のように大理石の上にべたーと転がりたく
なります。 書き込みして頂きまして、ノビてる場合じゃないと教えて貰って
いるようです。
実はこの続きに日本/日本人云々のセンでものを書いて一旦は出したのです
が、この件ばかりは、ゴタゴタ言っていないでサッサと動け、と自分で自分を
思いますので、引っ込めました。
=====
他人様からの評価を自己認識のための最強/最大の要因とすることは確かに
「セコイ」し、能がないなぁと思います。 自分達は人間視されていないと
感じるのでしたら、そのイマイチ気に入らない「ヒューマニティー」は遠巻き
に眺めつつ、自分から「人間とはどのような存在か」を提案したらよさそう
です。
.....其の弐 投稿者:jian
投稿日: 7月15日(火)21時38分27秒
ばん まい さま、‘ステレオタイプ’のコトを先にカキコさせてもらいましたら、その中身をカキコする前に思っているコトをかなり御指摘戴いてしまったようで、ありがとうございます(笑/恥)。
ずいぶんと書く手間が随分省けてしまいましたが、チコッと補足を.....。
世界各地の人々が日本に対する(を見た)ステレオタイプですぐ思いつくのは、ちょんまげ、富士山、てんぷら、芸者ガール、ソニーetc.と、まぁこんなトコが定番なのでしょうか?(笑)。
しかし日本人が自国‘日本のステレオタイプ’を語る時、自身の共同体を卑下して、自らが属す日本という共同体に在っても「俺さまはちょっと違うぜ!」的な自身・個人のためのアイデンティティ(?)の確立と(はカタチ)ばかりにアゲツラウのはなんともセコイやり口と感じたりもします(笑/恥/自戒含む)。
なんかまたまたカキコしようと思っていたコト柄からソレテきてしまってますんで、もとに戻して‘ステレオタイプ’のことを.....
まぁ、そんな世界の人たちが日本を見た場合と同じように、jianも‘キリスト教圏のひとたち’に対して感じるのは、
その「キリスト教圏のひとたち」は「キリスト教圏のひとたち以外」を‘人間’とは思っていない、と思うのです。
また「ヒューマニティー」なんつぅのも、キリスト教によって生み出されたモノみたいですが(不勉強を開き直ってしまってスマソ/恥/汗)、
やっぱりソコはそれ「キリスト教圏のひとたち」の生み出した‘モノ’(みたい)ですから、当然のこと「キリスト教圏のひとたち」に‘しか’摘要され(てい)ないモノに思えてしまうのです。
.....すんません、今回は其の2をここらで括らせてもらいます(笑/恥/汗)。
http://tokyo-boxers.net/mov.html
どうもありがとうございます 投稿者:ばん まい
投稿日: 7月14日(月)05時44分58秒
jianさん、書き込みをして下さってどうもありがとうございます。 がさつな
講義録も読んで下さり、ありがとうございます。 板汚し云々などということ
はどうかご心配なさらないで下さい。 そしてまた、御自分のペエスで当所に
ご登場下さること、歓迎です。
=====
「人間の観察は欧州に端を発する」という態度には、<<まァ、なんて大した自信
ですこと!>>なんてイジワルに対応することもできると思います。 しかし、
欧州人は、「欧州とは、人道の考えの発祥地」と捉えることで自分達が如何なる
者なのかを認識しているような気がします。 この認識方法をホイホイとは変更
しませんから、そこから欧州人や欧州的なものへの偏見や固定した見解が生じ
るのかもしれません(生じて当然、という気もします)。 このような欧州人・
欧州が頑固な態度を固持できるのは、何故に頑固なのか・自分達の自己認識は
いかなるものなのかを宣伝し続けているからだと思います。 偏見にも、連中は
対応してきているように見えます。 それで、この宣伝や対応は、そう簡単・
お手軽なことではあるまいと思いますので、私は、欧州人に感心したり、
ハタマタ頑固さに苦笑したり、、、といったところです。
ステレオ・タイプ他 其の壱(と、しておこう?) 投稿者:jian
投稿日: 7月14日(月)01時42分32秒
ばん まい さま、どもどもこんばんはデス。なんか‘板汚し’にならんかと心配で.....(笑/恥/汗)。
レス戴いて恐縮デス。なんかイロイロ難しいのは苦手なので(大汗!)、幾つかを思い付くままに私見をカキコさせてもらいます。
で、カキコするその前に、先にカキコしました「ひきよせて.....」の慈円さんの句がありましたが、‘jian’のハンドルネームとはじぇんじぇん関係ないです!
どっちかっつーと、「莫迦jian(じゃん)」とか「デブjian」と使われる方が正しいようであります。(笑/恥/呆) いきなり噺がソレテしまいました、すんません(笑/恥)。
Gerard LECLERCさんの「欧州発祥の”人道”の考えが「世界化」してゆく.....」でありますが、
Gerard LECLERCさんのおっしやいますように、昨今のヒトの移動やメディアの発達に比例して、前時代に比べれば遥かに量・質ともに交流が増えたように思います。
が、しかし‘量・質’が増えても、その‘質’が本当に‘ヒト’に対しての‘モノ’なのかjianは疑問に感じてしまいます。
その疑問=違和感は、jianが持つ‘キリスト教圏のヒト’に対する‘ステレオ・タイプ’な私見(偏見?)だと思っています。
まずは其の壱をここらで括り.....と、「こんな中途半端な括り方をするな!」とお叱りを受けそうですが、
なにぶん難しいコトを考えるのは不得手でありまして、ましてや人様に読んでいただく私見を作文するなど恐れ多く.....
チコっとづつ慎重にカキコさせて戴ければ有り難く思います。
‘板汚し’になっちまってるようでしたら、それとなくお伝えいただければ引っ込みますんでよろしくお願いします(笑/呆/恥/汗)。
既に御覧戴いた方もいらっしゃるようなのですが、諸々の手間を省くためにリンク入れさせてもらいます(笑/恥)。
なんかはじめてお邪魔したサイトで自分のトコを晒すのって恥ずかしかったので.....スマソ!(笑/恥/大汗!)
http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Lynx/9759/
七月企画 UTLS 「白」板メモ--土曜日・12日 / 「もとの野原」の件 投稿者:ばん まい
投稿日: 7月13日(日)21時25分15秒
今、パリの地下鉄の駅構内には、「理想的な世界には、l'Humanite は存在
せぬだろう」という一文が入った刺激的な広告が出されている。 柱に目隠し
をして縛り付けられている男性に向けて、兵士衣装の者が銃を構えるように
トロンボーンを突きつけている姿や、戦闘機からクマチャンのぬいぐるみが
兵士の如く次々と地上に向かっているところが白黒画として添えられている。
それらの風刺画と文章の内容(humaniteとは、humanity・人間性のこと)
に頷いていて、一体何の広告か、直ぐに認識できなかった。 広告では、
l'humanite とは表記せずに l'Humanite と書き、そこだけが赤字になって
おり、それで、フランス共産党の発行している新聞"l'Humanite"が出して
いるものだと判った。
昨日のUTLSのLeclerc氏の講義で、教室に居た者らに”一体感”をもたらし
たものは、同氏が結論の頃になって発した"humanite" の一言であったと私は
思う。 これまでの講義でも、質問者の発言(質問の形であったり、演説の形
であったりした)からしばしば、「何故にアレ(=humanite)に言及せぬの
だ?」という考えが感じられた。
Leclerc氏は、社会学の研究者は「真面目で、また幾分か狂信的で、更に寛容
を備え、批判的であるべき」と言っていた。 「最初にヒトを観察した」欧州
の「知」が東洋にも広がっていっていることとは "humanite" が「世界化」
していっていることであると言える、という認識は、氏の「狂信」の内容で
あり、また、「批判」の対象でもあると感じた。 その「知」を扱う欧州側に
立つ社会科学研究者は、欧州の「知」に対抗するのではなく、それを取り込む
ことを通じて形成された東洋側の文化と欧州とが交流する際の仲介/発端と
なり得る、と氏は主張した。 できるだけ自分の感激を削いだとしても、私に
は、Leclerc氏には、欧州の良心が備わっていると見えた。
=====
学説や主張は、”新しい(=目新しい)”ほど注目される。 UTLS の各講義
を聴いていても、判りやすい”新しさ”が感じられない講義は退屈である。
退屈であるのはしかし、”新しさ”のない説を話者が展開しているからでは
なく、「故」を「温」めていないが故に「新」しきを「知」るに到っていない
からであると思う。 (少々誉めすぎなのかもしれないが)昨日のLeclerc氏
は、"humanite" というものを「温故」していたので、目新しい説を展開せず
とも、聴衆を惹き付ける講義をすることに成功したのではないか?
"humanite" のひとことには、慈円の句と似て、関連する事柄の多くを瞬時に
納得させる力がある。 様々な事柄が語句のなかに凝縮されているのだ。 凝縮
したのは、humaniste (ユマニスト・ニンゲン主義者、"humanite" の存在
を信じている者、とも言える)や慈円の功績であり、凝縮されたものを味わっ
ているだけでは、我々はhumanisteや慈円の功績を味わっているのみであり
"humanite"や「無」を味わっている訳ではない。
「温故知新」は、他人の業績を味わって実現されるものではないと私は思う。
「人の思想がその行動のみによって示されるとき、その人は哲人とよぶのが
ふさわしいであろう」「哲人は、新しい思想の宣布者ではない。 むしろ伝統
のもつ意味を追求し、発見し、そこから今このようにあることの根拠を問う」
「伝統は追体験によって個に内在するものとなるとき、はじめて伝統となる」
と白川翁(白川静 氏)の『孔子伝』で、また、「思想は一つの実行である。
私はそれを忘れてはいない」と『惜みなく愛は奪う』で有島武郎の書いたよう
に、「温故」は、今の自分(の考えていること)を知りつつ生きることで
ある。
欧州人は、今の自分が考えていることを、一語で "humanite" と提示したと
同時に、それが何を指すのかを詳細に説明しようとした。 ダ ヴィンチの油彩
についても、「描かれている者の心情がカレコレの如くに滲む絵を目指した
云々」とこうるさいことが手記に記されている。 東洋のnothingnessなどと
呼ばれる「無」は、nothing とは異なる。 簡潔であることとも異なる。 その
「無」の内容を詳細に説明してはじめて、欧州産物の取り込み以外の手法に
よって、東洋が自身の何者かを認識できるだろうと私は考えている。
どうもありがとうございます 投稿者:ばん まい
投稿日: 7月11日(金)09時52分03秒
jianさん、書き込みをして下さってどうもありがとうございます。 ナルホド慈円と
来ましたか。 いいですね。 しかーし!「いいですね」だけでは済まないのが私の
シツコイところでして、、、後日続きを書きます。 いや、おフランスっ気づいて
いたところへ、心地よい響きですね。どうもありがとうございます。
引っぱり出して下さった拙稿の終いの方には、「不快を避けるためには云々」と
ありますが、そこのところ、今は、「不快と共生するためには」なんて思ってい
ます。
‘無’についての私見 (ただの受売りか?!/笑/恥) 投稿者:jian
投稿日: 7月10日(木)13時26分45秒
はじめまして、jianといいます。こんにちは。
ちょっとお邪魔してカキコを.....
S_H_I_R_O_I_T_A・過去ログ / ばん まい (2003年1月15日<水>23時32分)投稿分、「夢の話・続々(これで一段落)・下からの続き」
> 日本語圏の「無」という状況を記述できたなら、ヒトにとっての発見になるのではないかと考えている。
.......の、‘無’についての私見。
「ひきよせて むすべば柴の 庵にて とくればもとの 野はらなりけり」
オソマツ様でゴザイぃ.....(恥/汗/呆)。
七月企画 UTLS 「白」板メモ--火曜日・8日 投稿者:ばん まい
投稿日: 7月 9日(水)19時51分06秒
講義出席録をとりあえず一週間分くらい続けてみてから書こうと思っていた
ことを、そう勿体ぶっていないで今書いたほうが好さそうと思うきっかけに
なるようなことがあった。
=====
自分の精進?のためにUTLSの講義録を書き付けようと思っていたのだが、
いざ書き始めるとなるとアレやコレやの効果をもたらせたらと、欲が出た。
武田徹 氏の掲示板で氏が、(ニュウス報道の)『「現場」性の拡大・補完』
にネットを使うことに期待していると書いていらした(6月24日付け『サクラ
ンボ他』)ことを受けて、「現場」性の拡大・補完を、この講義シリイズを
対象にやってみることができそうだと考えた。
先に紹介したとおり、この講義は、要旨から話者の紹介・実際の教室の様子を
ネット上で眺めることが出来て(中継・記録)、ラジオでは半日遅れのダイ
ジェストが放送され、ケエブルテレビでも放送される、と、伝達できるだけの
ものは伝達し尽くそうとしているものでもある。 それでも講義録なぞ書き付
けるというとき、それが既に伝達されている内容を拡大・補完するものであれ
ば、私のやることにチラリ程度の意義が見出せるような気がした。
それで、その「現場」性の拡大・補完を、「ネットを使ってできる(しかも
systematic に)」という状態を真面目に用意したほうがよさそうだ、と
思うに到った出来事が先日の講義で起こった。
ネットでの中継とケエブルテレビでの放送がなかったのだ。 放送に携わる
技術者達がストライキを決行したからであった。 フランスでは、色々な職種
について失業・退職に際しての手当て支給に関する法改正を政府が行おうと
していて、この改正内容に抗議する労働者のストライキが続いている。 夏場
に催される演劇祭やパリ市内でのオペラなども、このストのあおりで中止に
なっている。
講義録は後日に出版されるし、有料の記録ヴィデオも発売される。 しかし、
ネットでの中継を当日その時間に待っていた者にとっては、昨日は休講日に
なってしまった。 何も自前のデヂタル録画機材を持ち込むべきとは言わな
い、しかし、技術者の不在や例えばが機材の不調を「補完」する手段が、
催事への開催者ではなく参加者によって提供されていてもよい。 講義を伝達
するという目的のためには、「補完」が好ましいものであることは確かだ。
=====
今月になって書き付けている講義出席記録が、この講義シリイズの「現場」性
を拡大・補完するものという性質を併せ持つことに成功しているのだとしたら
それは、
--何の「現場」性を
--どのように
--如何なる内容で
拡大・補完すればよいかが明らかであるためだ、と思う。 ネットを使って
ニュウス報道の「現場」性を拡大・補完できたらと考えるものの現実にネット
はそのような使われ方をしていないという場合、やはり、上記でいうところの
「何を・如何なる内容で」というガイドを整えることを考えたらよさそう、と
思う。
また、そのような「何を・如何なる内容で」について整えるには、拡大・補完
に携わる者以外の、受信オンリーという立場の者からの要望や質問が欲しい。
「自分の精進のために」などと言いつつ、私の講義録書き実験についても、
読んでくれている方からの要望や質問が出たら、面白いことになると思う
(小規模でやっている実験だからこういうことを言える)。 要望・質問は、
「どのように」の部分がきっちりと構築されているところへ出てくるものでは
ある。
Universite de tous les savoirs--パリの「何でも大学」 投稿者:ばん まい
投稿日: 7月 7日(月)20時08分23秒
この七月は、「白」「らくだ」連動企画?!として、パリで展開されている
「何でも大学」の様子を書いて行こうと思っている。
Universite de tous les savoirs (UTLS・直訳で、全ての知識の大学)と
いう講義シリイズは、パリで、2000年に始まった。 その2000年には、366
日間日替わりで「生とは何か?」「人間とは何か?」といった”お題”のもと
に生命科学・哲学・社会学・経済学・報道・執筆・教育・・・といったことに
従事している者が壇上に出てくる日々が展開された。 近年では、一年中毎日
ではなく夏と冬の一二ヶ月間に開催することに落ち着いている。
現在では、大学(Paris V Rene Descartes)が場所を提供、教育省と保険
会社の中心的支援と、ケエブルテレビ局(講演記録と放送)・ラジオ局(放
送)・出版社(講演記録)・新聞社・雑誌社・コンピュウタ会社(IBM)・
パリ市の後援で運営されている。 講義は、ネット・新聞/雑誌/書籍・ヴィデ
オ/ディスク・ラジオを通じて公開されていて、サンジェルマンデプレの第五
大学へ出掛けて行けば1000人収容の大教室での生講義に無料で参加できる。
Universite Rene Descartes-Paris 5
amphitheatre Binet (建物に入ってすぐ左手)
45, rue des saint-peres 75006
これまでには、「中国」「平等--不平等」「地政学と世界化」といった”お
題”での講義が続いてきており、今月は「グロバリゼイション」だ。 講師は
殆どがフランスの大学や研究機関の職員で、アメリカやスイスの大学からやっ
て来る人も新聞社の人も文筆家も登場する。 質疑応答を含めると大体、一回
の講義は1時間半程度。
誰が登場するのか、何を喋るのかは後に記すサイトで見ることが出来る。 仏
語でしか書いていないだろうが、詳細にまで興味がある場合はウエブ翻訳も
可能なので、人物と講義内容の理解については各自に任せることにして、私は
講義の様子を、話者の態度や聴講者のこと・当日の状況などという、割とどう
でもよさそうな(=その場に居るから解る)ことを書いてみることにする。
講義内容が私の趣味に引っかかった場合はそれについて「白」に、それ以外の
講義の様子は「らくだ」に書き込むつもり。
以下はこの講義のことをウエブで調べる時に役立つサイト(全て仏語)
www.canal-u.education.fr
上記サイトで、毎日の講義の様子を動画ファイルから眺めることができる
下記サイトではプログラムや演者紹介や講義要旨を見ることができる
www.lemonde.fr/utls
(ル モンド紙のサイト)
www.tous-les-savoirs.com
(要旨集版元のサイト)
www.utls.orientation.fr
(この講義シリイズのためのサイト)
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拙「らくだ」板は下記
http://8124.teacup.com/maiban_r/bbs
"Big Brother"番組/weblog/日記/掲示板・・・ 投稿者:ばん まい
投稿日: 7月 6日(日)22時10分28秒
史実とは「歴史上の事実」と国語辞典にある。 では、歴史上の事実
(historical fact)とはどのような内容であって、如何なる表現によって
記録されてきているのだろうか。
=====
たとえば第二次世界大戦時にカラーフィルムで撮影された映像を解説など入れ
ずに再生すれば、そこに事実を眺めることができた。 御婦人のスカアトが
赤かったとかパリの住民が荷車を押して地方へ逃げていった、という具合に
そこで眺めたものを言葉で表現することもできる。 この映像のなかに、ヒト
の人格(判断・思考)は記録されていない。 赤いスカアトの御婦人が嬉しそ
うな顔をしているから「パリ解放を喜んでいる」とか、荷車を押す人々の姿が
疲れ切っているようだから「パリに独軍がやってきて打ちひしがれている」と
判断・思考できても、それは事実であるとは限らない。
愛読している渡辺一夫の評論集の冒頭は『「テレームの僧院」のこと』、続い
て(テレームの僧院に)『やはり台所があったのか?』であり、渡辺が恐らく
その人格に触れたかったであろうラブレーという人物の残した記述について
チクチクと、記述から事実を読みとる作業を行ったことについて書いている。
ラブレーの人格に触れたいという著者の気持ちが滲む文章ではあるが、書かれ
ていることは、やはり台所があったのか否かの、事実についての検討である。
=====
ヒトという生き物には、事実の記述から人格を想像することができても、人格
の記述から事実を想像することはできない。 古人の「日記」は、雨が降って
気分が悪いとあるよりも、何月何日某地方に雹を伴った降雨が三時間続いた、
などと事実の記述があるものほど後世において過去の記録として重宝される。
少し前に欧州のテレビで「覗き見」番組が大人気となり、いまだに似たものが
作られている。 オランダだかで「Big Brother」として放送が始まり、フラ
ンスでの「Loft Story」「Nice People」などと英語題名の、数名の男女が
共同生活を行う様子を逐一カメラで追って放映する、というものだ。
この番組は、或いは”哲学的”なのではないかと私は思う。 画面に登場する
男女の生活の様子、つまり、ヒトの事実を撮影してゆくこの番組が人気を博す
るのは、そこで生放送される人格(判断・思考)に視聴者が見入るからである
ようだからだ。 事実よりも人格を受信したいという欲求がヒトにはあって、
過去の記録として事実の列挙が貴重とされるのも、事実から人格を想像できる
からではないか?
哲学書には、事実の記述が無い。 いや、事実について触れずにヒトの人格
(判断・思考)のみを述べた書物を哲学書と呼ぶのかも知れない。 あるヒト
の判断と思考の形跡を記した当時の状況にその判断と思考とが左右されない
内容である場合、その記述内容を哲学的と呼べるような気がする。
=====
以上のことは、こうして掲示板を借りてものを書いたりメルマガジンを出し始
めた頃から考えていたことではあるように思う。 が、こうして考えた内容を
書き出せるまで考え抜いていなかったようだ。 よくお邪魔している掲示板が
荒れているように思えて、本稿を書いた。 事実と人格、ふたつの記述につい
て考えの足りないヒトが、場(=機会)を荒らすのだと思う。
映画--M*A*S*H 投稿者:ばん まい
投稿日: 7月 5日(土)18時55分37秒
先週に発行したメルマガジンで「M*A*S*H」のことに触れたら、何と先日、
テレで1970年作のカンヌ映画祭受賞作品「M*A*S*H」が放映された。 後年
にTVでの連続ドラマのネタになっただけのことはあって、かなり楽しめる
内容であった。 ただ、映画小屋へ出掛けて行ってそこのスクリンで観る
存在、つまり、二時間程度の非日常というか独立した時間帯を築くことを要求
される”映画”という形態に似合いの内容であったとは思えない(この辺り
の感想は、Monty Python の”映画”を観て抱くものと同じだ)。 スケッチ
集とかオムニバスと呼ばれる形式の映画作品は現在でも作られていて、この
ことは、映像表現の場では、映画小屋のスクリンと自宅でのテレビモニタの違
いを、今も尚明確にしようとし続けられていることを表している。 映画が映
画たり得るには、大規模大仕掛けの作品を連発するのではなく、ここ(少なく
とも、個人蔵のモニタで観る作品との違い)を明確にしておく必要があろう。
この映画の主題歌"Suicide is Painless"も、映画音楽の傑作だと再度確認
した。 この歌は、映画と共にある時最も味わい深い。 映画が始まるときに
「素人謡い」で挿入される他、性的な悩みから戦争の前線に近いところにある
医療施設勤務の者が自殺を試みる場面では、ゴスペルよろしく繊細な歌い方を
される(因みに、素晴らしい引き際を心がける自殺当事者は、ダ ヴィンチ作
最後の晩餐ソックリの送別会の後に服”毒”し棺のなかに横たわり、そこへ
この歌とともに、同僚がウイスキイや聖書・家族の写真・ポルノ雑誌を次々に
”手”渡す)。 この映画から10年も経つと、映画と一緒に流す音楽を画像が
伴わなくても聴けるものとして売って二兎を得る試みが連発されることにな
る。 画像が主か楽曲が主かという葛藤を経て現在は、楽曲のほうは映画に
依存せずに映像(ヴィデオクリップ・プロモオションヴィデオ)を伴うことに
成功した。 ここでもまた、映画というものへの課題が残った。 "Painless"
では、"The only way to win is cheat"と謡う。 さて、どうする、映画。
Human Condition 投稿者:ばん まい
投稿日: 7月 4日(金)18時23分14秒
何だかこの頃、今読むしかない、という書物が目の前に音もなく(音を伴わ
ないのは当たり前か)現れ出ることが続いているように感じる。 「読むしか
ない」と思うのは、その書物に、自分が考えたと似た内容が著されているよう
だからであり、「今」と思うのは、現在の自分はその著者の境遇を慮ることが
できる状況にある、という気がするからだ。 ここで目の前に出てきてくれる
書物を蔑ろにすることをこそ”怠け”というのだと戒め、ありがたく読んで
いる。
武田徹氏が掲示板に「備忘」していらした言葉は味わい深かった(6月11日
付け書き込み『備忘録』)。
「どの世代にも二種類の人がいる。<個人としての魂を持つ人>と<自分独自
のではなく、集団的な魂を持って生まれる人>だ。(後者の)一部は殻を破っ
て個人としての考えを形成する。だが、努力がいる。残りの人は引き続き、
権威や手段への帰属を切望する」
ありがたく読んでいる著作は、上記でいうところの、努力の後に「個人として
の考えを形成」し得た「個人としての魂を持つ人」、の作であると読める。
ところが、ここで私がこれらの著作に心酔することに留まるのなら、それは、
私の「権威や手段への帰属」に他ならない。
くにを追われる破目に陥りながら放つ自説が人間の公共性についてであるなど
という芸当は、個人としての魂からしか生じ得ない。 さて、自分を如何なる
者として捉え、どのように表現して行こうか。 渡辺一夫は、「不可思議な
こと、判らぬことは、判るように納得できるように努むべきであり、一切は
美しく良き生のためにある」と書いた。 私は今のところ、「納得できるよう
に努むしかなく、」「一切はアトクサレのない生のためにある」と感じて
いる。
拝復: 林檎・世代四 投稿者:ばん まい
投稿日: 7月 2日(水)23時24分37秒
いしかわサン、書き込みをして下さってどうもありがとうございます。 何は
ともあれ、羨ましや新 力本。 音・画・通信を一手に引き受けて尚の余裕を誇
る機械が「書かせる」とは頼もしい! (いいなー、私も欲しいなー)。
近頃に「インタネットで遊びたい」人々のマシンの設定だの接続諸々を引き
受けて思うのは、そのマシンのキイボオドは一体、使われるのだろうか?と
いうことです。 「メールをやりとりしたい」ということならまだしも、この
頃に出荷される機械は、キイボオドの代わりにテンキイ(ネット買い物などの
際にカアド番号を入力する)だとか、利用者を認識するための用件(たとえ
ば、声とか網膜パタンとか)を入力/再生/送信するためのボタン類が揃って
いればよいのではないかと思ってしまいます。 もはや機械頼みで漢字を書い
ている私なぞは、キイボオド必須です。 そういやDOS(笑)でも、、、。
林檎・世代四 投稿者:いしかわ@林檎
投稿日: 7月 1日(火)21時02分03秒
お邪魔します。
林檎・力本・世代四・十二、買いました。
無線網挿入して快適です。
なんか、「書かせる機械」ですぞこれは。
”系”は交わるか 投稿者:まい
投稿日: 7月 1日(火)19時44分52秒
「見えてきた気になっている行く手」などと偉そうなことを書いた途端、ドブ
(そういえば、下水道の整備されていない地域て、日本にまだ多いのだろか)
にハマって、一風呂浴びて出直したいという気になっている。
=====
インタネット上の匿名掲示板でのやりとりと学者が集まって話すことの内容
や、サラリイマン雑誌と学術雑誌が対応しようとしている状況には、それらを
記述してみた場合に”違い”はあっても優劣尊卑・面白い面白くないという
性質の”差”は無いと感じる。
”違い”を生じる根拠の存在はヒトの活動がもたらす結果なので、「そういう
ことになっている」と、ここでは片づけるとする。 「そういうことになって
いる」状況を放っておけずに手を入れてみたくなるのがニンゲン根性なのかも
知れず、私は、匿名掲示板における秩序や学者の口の悪さをお互いが知った
ら、ネットオタクのバカ者だの学者センセイといった下らない符号をニンゲン
から取り去ることができるように思う。 ただし、取り去るのは符号だけで
あって、ニンゲンの棲み分け状況を均一にしたらよかろうとは思わない。
マルクスからまだ200年も経っていないから、画期的な説というものがあと
百年くらいの間に出れば、ニンゲンも上出来、なのかもしれない。
そのカール君も、貧乏生活をしたというじゃないか!
掲示板引っ越しに関して 投稿者:ばん まい
投稿日: 6月27日(金)17時36分41秒
予告も告知もできなかった掲示板移転の後も当所をご訪問下さり、どうも
ありがとうございます。
余所のサアバ上に借りていた掲示板二つのうち、「しろ板」のほうは、ほぼ丸
三年間、先の場所で続きました。 私が手を出しているもののうち、チャット
は、何度も突然のサアバ運転停止の目に遭いまして、かなり頻繁に場所を移転
しましたが、掲示板サアバは意外と安定していました。
こうして利用サアバを移る羽目になることは、まるで自然災害に遭ったかの
ようです。 予想が困難で抗しがたい他力が自分に働いていると同様な訳でし
て、頼んでまで実現したい環境ではありませんが、有っても悪くないものだ、
という気がします。
今回、こうして利用サアバの移転を行ったことはまた、現在の自分の身の上に
起こるべくして起こった事態であるようにも思えます。 この辺り、ニンゲン
は自然災害が起こる場合にもそこに自分らの意識が影響していると考えがちで
あることと似ています。 自分にとって抗しがたい事態に自分が対応している
ことを納得するための思考が、ヒトには備わっているのでしょう。
ほんの少しだけ霧が薄くなった気がするまで、三年かかった・三年間考え事を
していたら、少しだけ行く手が見えた気になった、というのがこれまでこの
「しろ板」をタラタラと使ってきた後の感想です。 思いも寄らなかった・
結構動揺させられた・でも実は願ってもないことだったのかも?という移転を
しまして、今後は、「見えてきた気になっている行く手」を表現できたら、と
考えております。 お集まり下さる皆様、コレに懲りずに以後もどうか宜しく
お付き合い下さいますよう、お願い申し上げます。
限界の設定 投稿者:ばん まい
投稿日: 6月24日(火)21時41分27秒
先にネタとして挙げた著作「落語『死神』の世界」は、「グチャグチャ細かい
ことを調べてある」という著者の言通り、「落語『死神』のルーツを探(オビ
文より)」ることにおける調査結果の記述が大層に緻密であり、ここまで緻密
であると、読んで快感を覚える。 快感をもたらすのは調査の緻密さだけでは
ない。 題材・調査結果・関連する諸事への理解と納得の深さが明快かつ整然
と表現されていて、恍惚としてくる。
著者は、イタリヤ・フランス文学/言語やルネサンスを専攻としている人物で
ある。 この著作を読んで、対象の限界を認識できている場合、これほどまで
に物事を”理解”したことを味わえるのだ、と、感じた。 「限界の認識」と
は、この著作が対象としている、文学・史実・言語・芸能といった分野におい
ては何が「意味あること」なのであるかが認識されている、ということと同義
だ。 「限界」や「意味あること」がナニモノなのかが認識されていると、探
求や調査は、どこまでが可能であるのか、また、如何なる内容であれば意義が
あるのかを判断できる。
生命科学・自然科学の分野においては、未だ、「限界」が認識されていないの
で、従って、何が「意味あること」なのかも、納得されていない。 どのよう
にして「限界」を見出すのかという方法についても、あちこちであれこれと
騒いでいる状態にある。
生命科学における「限界」を示すには、倫理と称される内容を整備することが
有効であると考えている。 こう考えているのは私だけではあるまい--日本で
も、医療を対象とした倫理(恐らく、それは、倫理というよりも政策と呼んだ
ほうが適切なものを指しているのだろうと思う)について考える人材を育成
する環境を整えようという動きがあるようだ。 政策は、生命科学における
「限界」を設定しやしない。 整備すべき倫理とはむしろ、現在考えられてい
る人道とか人権についての考えに同化・合流ではなく拮抗すると受け取れる
ものであるように感じる。 それほど険しい道を行かねば「限界」は見えない
と予想している。
文学・史実・言語・芸能において、ヒトは、「限界」を見定める険しい道を
歩んできたといえる。 生命科学においても、同様の道を行くことは避けられ
ない。 「生き物の幸福や安全のための生命科学・自然科学」を目指すので
あれば、尚更である。
SHIROITA_archives/9ここまで