archives/6---01/07/2002-25/09/2002
古い記事が下方にあります


限界・限度(酒量ばかりではなく)
井の中の蛙はやはり、大海なぞ知らずに居て幸せなのではないだろうか。
自分に関する事物に対して如何なる形であれ存在する明らかな限界とは、
幸せ、つまり、下手に考えることをしてしまう生物にとってはありがたいもの
であると思う。 限界が存在すれば、定義を試みることが出来る。

恣意的にでも限界・限度を設定した方が気(頭)が楽になるという気がする。
やはりどうしても不快を避け、楽をしたくなってしまうものだ。 instinct
とは全く妙なものだとつくづく思う。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2002年9月25日<水>21時25分)


OASIS枯れても山羊は生き生き
誰が、何がオアシスを枯らしたか? 砂漠のなかでの話ではなくロックバンド
の話だ。 フランスでは何を語りかけても反応しない(マンチェスタ語が解せ
ぬのだ)とがっかりしたか、パリでの唯一の仏国内コンサアトがあった。 そ
れに出掛けて観たものは、オアシスのメンバのように見えたが、実は録画され
た姿だったのではないかと思い違うものであった。 自分のために音楽を奏で
ているのでもなければ、演奏することで自己陶酔に浸っていたわけでもなく、
観客に向かって発散するものもなく、むしろ観客の存在を認識したくなさそう
なオアシスの連中であった。 あれでは、客席に人が居ようが居まいが演奏の
様子に差はなかったと思う。

そのような態度になっても無理はない。 彼等のコンサアトは二日に一度は開
かれ、しかもほぼ毎回、国だの州の異なる会場での開催なのである。 人気の
あるグルウプだけに、毎回、千だの万だのの観客を相手にする。 その興行が
何ヶ月か続いては幾ら”あくどい”連中でも疲れるのだろう。

立て続けに、I Muvrini*というコルシカ出身の歌謡バンドのコンサアトにも
出掛けた。 此方はOlympiaという会場で、老若男女(全て仏人だった)が
楽しめた、照明の当たり方もなかなか古風な”歌謡ショウ”であった。
こちらは仏国内演奏旅行中でのパリ公演三日間の初日で、”ショウ”の性質
(コルシカ語で歌うので、歌詞を前もって仏語で朗読して聞かせて呉れる)
からして、観客無くしては成立しない会であった。

オアシスとI Muvrini、双方とも演奏会で商売をしていたわけだが、接客態度
が余りに異なった。 恐らく、あれらのコンサアトに関連して動くカネの額も
大層に異なるのであろう。 経済という仕組みを機能させることに対して人間
が犠牲にしているものは自分自身なのかも知れないと、枯れたオアシスの面々
をみて思った。

*muvriniは、子山羊の意

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2002年9月20日<金>21時12分)


勘違いシリイズ
以前、「碩学」を「硯学」と間違えていた話をココに書いた。 これと同様に
意味有る間違いとでも呼べるものをもう一つ、思い出した。 愚劣な話では
あるが、「碩」と「硯」の如く漢字の格好が似ている以外の理由がこの間違い
に付随しているので、勘違いを披露してみる。

「団塊の世代」を「団魂の世代」と書くのだと、割と最近まで思い込んでいた
のだ。 ダンカイノセダイという音を自分で発することも耳にすることも、ま
して自ら書き記すことも、殆ど無かったのだと思う。 文字で読めばそれは
「団魂」と漢字で書くのだと決めつけていたので、「塊」の文字に気づくには
自分でこの語を使うようになる必要があった。

「団魂の世代」の解釈はこうだ--魂が一団(かたまり)となっている、つま
り、誰もが似たような思考である世代。 人間を一団に括って表現することの
できるような特徴を備えた人々を指して「団魂の世代」と表現するのだと
考えていた。

『広辞苑』に拠れば、「団塊の世代」とは、「(他世代に比し人数が多い
ところからいう)1947〜1949年のベビー・ブーム時代に生まれた世代」
とある。 この説明文からは、多人数が居ることを「団塊」と表現したので
あると読める。 どうも人間に対する敬意に欠ける発想に基づく表現であると
感じる。 それでも、この世代人には何事かにおいて「団」であり「塊」で
あると感じさせる性質があることは明らかなのではないか? 「団塊の世代」
と自分で使うようになって、「魂」への勘違いも意味深いものに感じられる。
先入観の殆ど無い状態での観察結果に基づいた間違いであって、しかも、
不動の?間違いになるだけの理由があったのだなぁと、妙に感心している。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2002年9月17日<火>04時19分)


いろいろ
*Intelligent / instruit
先日、表題にある二語は異なるという話をしていて、大層に盛り上がって
しまった。 後者は、あるものに関して造詣が深いとか豊富な知識を備えて
いるという時に使うが、誉め言葉と感じられる語ではない。 そして、後者を
形容詞として纏っている人物はよく居ても、intelligent といえる者は少な
い。 あることを表現するための漢字に幾つか選択肢があるように、賢いとか
美しいという状況に対する語の選択があるというわけだ。

*才能を露出させるには”チカラ”が必要?
どのような分野であれ、ヒトの才能を広く社会に露出させるには、”チカラ”
が後押しする必要がある。 ”チカラ”はあるときには多勢の支持であり、
またあるときには業界の保持しているカネであり、権力である場合も考えられ
る。 ただし、ヒトの才能において、露出と開花はこれまた異なるものだとも
おもう。

*読んでいるようで読み込めていない
中学生時、当方の”バイブル”といえば、ヘッセの『デミアン』であった。
日本語訳で読んでいた。 同書の内容については語り合わなかったが、それが
ヘッセの作であると知って、彼のドイツ語は美しいのだと教えてくれた人物が
居た。 とりあえず英語でも読んでみたが、ピンと来なかった(何に対する
”ピン”なのかすら不明でもあった)。 仏語でも読んでみたが、どうも重さ
が足りないような気がした。 原語で読んでも居ないのに、これまでに読んだ
内容から、かつて聞かされた「美しい」ということが何を指すのか勝手に想像
しているのだろうなどと、自分のことを弁護していた。

今読んでいる書物には、気味が悪いくらいに自分好みの著作の引用が多い。
『Demian』からの引用もあった。 その書物における引用も論の展開も
上出来なのだなと感じるのは、引かれているヘッセ作品が、美しくて重いもの
に読めたからだ。 何が”バイブル”だ、、と、苦笑いするしかなかった。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2002年9月16日<月>02時37分)


文句言うだけは易し
学会での発表の通し練習をやるから指導を入れてくれということであった。
「あれこれの試験によって、従来からの実験法は信頼性が低いという結論を
得た」と発表を締めくくるから、では信頼性を失いそうなその手法の代わりに
何を提案するのかと問うたら、答えに詰まった。 またある時に、仲間内で
使うロゴのデザインをしてみたものを披露したら、やれ色が濃いだの線が太い
だのバランスが悪いだのと、間違っても好評という手応えは得られなかった。
この色でどうかこの位置でどうかというような、提案と並べて考えることに
耐える形になった意見は、先の学会発表の件と同様で出なかった。

自分が提案をする立場になると、如何に文句を言うだけが易いかを痛感する。
文句に留まらない反応を引き出す提案というものは、できるのだろうか? 昨今
では、そのような簡単ではない提案に取り組むことより、単なる文句の発生
を未然に防ぐという方針が採用され、世の提案は提案と呼べるものから遠ざか
り、部品を提供することに落ち着いて行く。 名刺の自動作成機を思い浮かべ
れば明白だ。 文字の位置・紙の色・文字の形状は機械の中のデエタベエスか
ら選択する。 機械は選択肢を多く内包しているのであって、名刺のデザイン
を提案しているとはいえない。

創作物には作製者と閲覧者が在るのだから、その両者が創作物の出来上がりを
想像できていないと、創造物は創造物になり得ないと思う。 また、対立意見
(文句とは異なる)の発生を促す提案を諦めていても、創造物は創造物になり
得ない。 やはり重要なのは、デエタベエスの量よりもヒトの質である。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2002年9月11日<水>20時13分)


林檎機と本の背
林檎印のコンピュウタの携帯機(ノオトブック/ラップトップパソコンとも
言う)の最新型は、使用しているところに対面した場合、林檎の商標が登録物
と同じ方向で見える。 旧型機では、この林檎印が逆向きであって、マシンの
使用を止めてフタ(モニタ部分)を閉じると利用者に向かって商標が正位置で
あり、使用中しているところに対面すると商標は上下逆になる。 つまり、
新型機のフタを閉じると、マシン使用者は、逆さ商標を眺めることになる。

英米装丁の書物を平積みにすると、背の部分の書名や著者名は正位置にある。
フランス書籍の場合、この背字は上下逆になっている。 英米装丁本を開こう
と思って表紙を上に置き、そこから背(本の左側面)を眺めると、題名や著者
名は逆さになっているが、フランス本では左から右へと文字列を追うことが
出来る。

一体誰がコンピュウタの使用者で一体誰が書物の読者なのかを意識/配慮する
か否かによって、この商標や書名/著者名の入れ方に差が生じる。

林檎機の商標が逆転したのは、昨今の携帯機の利用環境が聴衆の面前に
なってきて、マシン利用者を眺める聴衆から見た時に商標が逆にならぬ
ように配慮したためであろう。 背の書名著者名が英米装丁のようであるのは
ものの記述が上から下へと流れることや平積みになったときに背の題名が逆に
ならぬ事をよしとした結果であろう。 マシンの利用者や書物の読者は大概の
場合に唯一名で、マシン利用での講演の聴衆や書物を眺める者は多勢だ。
これらは、大人数のことを配慮したマシンと装丁とであるといえる。

私には、フタを閉じると商標が逆向きであるマシンや、自分に向けたときに
背の題名がそっぽを向いている書籍は自分にとって愛らしいモノとは言え
ない。 同時に、講演などで利用中のパソコンのフタにある商標や本の背が、
自分に媚びて欲しいとも思わない。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2002年9月10日<火>22時43分)


sign of life
人名が判っているときには名指しで、そうでなければ部署名”御中”で問い
合わせということをする機会がある。 ところが、それらに対してまともな
反応が返ってくることは、最大限、問い合わせた件数の半分なのだと感じる。
メルでだろうと印刷物でであろうと、宛先は底なし沼であったかと思えて
しまう程、綺麗さっぱり何の反応もない。 "no sign of life" である。 以前
は、メル受信を伝える自動応答の返信は無駄だと感じていたが、こうも綺麗
さっぱりと返答がないと、自分からの送信は到着したのかどうか不安になって
くるから、自動応答があると、この頃では妙に安堵している。

友人知人との連絡という場合、何が何でも生きていなければ何一つできやし
ないとは思わないので、「もしかしたら死んだかもしれないなぁ、何があるか
判らぬからなぁ」などと考えられる。 が、これが取引や社会契約を伴う事柄
についての連絡となると、「忙しいのかもなぁ」などと構えては居られない。
"no sign of life" という状況は、取引や契約の成立する根拠を揺るがすから
である。

生きている時間が蓄積してくると、"no sign of life" の手応え/感覚も輪郭
がハッキリしてきて、記憶に残るまでになってしまう。 この記憶はどうも、
快いものではない。 "sign of life" が無いことは不気味だ。

世のスパマー諸氏は実は、生物が存在することの反応を得たいが為にスパム
を一生懸命繰り返すのだろうか。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2002年9月9日<月>23時59分)


お越し下さり、どうもありがとうございます
この掲示板を置いているサアバのドメイン名が変わって、いや、実はサアバの
云々以前の問題かも知れませんが、とにかくココは盛況さから縁遠いところに
なりました。 そのような状況であるのに当所をご訪問下さって、どうもありが
とうございます。

もうちょっと宣伝しようかなぁなどとも考えるのですが、余り気が進みません
で、ますます”引きこもった”サイトになってきています。 とはいえ、こんな
ことを打ち込んでいる当方には卑屈な感覚がありません。 細々と、好きにやる
サ、、、なんてところです。

懲りずに(失礼!)お越し下さる方々に甘えて、今後もボチボチと好き勝手な
ことを書き連ねる所存で居ります。 特に、これまでは「独創性ゼロ」などと
考えて躊躇していた余所からの引用を行って、私がブツブツ書くよりも上手く
スッキリと主張したいことを表現できたらと考えています。

今後ともどうか宜しくお付き合い下さいますよう、お願い申し上げます。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2002年9月7日<土>07時51分)


二題
*accumulation ou assemblage
積み重ねか継ぎ合わせか。 ヒトの知識というものに関しては、積み重ねの
行為が最も重要視されていると感じる。 知識は、未だに、継ぎ合わせを行え
るほど積み重なっていないと考えられているのか。 継ぎ合わせは蓄積に伴っ
て勝手に為されるとでも考えられているのか。 継ぎ合わせの成果を評価する
ことは、積み重ねの成果を評価するよりも困難なのだろう。 ものの量では
なくて質を評価するに等しいからだ。

*opium
Hemingway / A Farewell to Arms (1953) に、次の一節がある。小難
しい説明はよいから、こういうスキッとした説をこうして時々は目にしたい。

Religion is the opium of the people...and now economics is the
opium of the people, along with patriotism.... What about sexual
intercourse, was that an opium of the people?

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2002年9月5日<木>05時28分)


moins de caractere
久しぶりに紙版の新聞や服飾雑誌を買って、驚いた。 双方とも、ウエブの
画面が紙に印刷されているだけのものに見えたからだ。 同じ新聞のウエブ版
では「本紙の紙版と同じものが、モニタ上でも読めます」とオンライン購読を
宣伝しているが、ここは売り文句を「ウエブ版と同じものが印刷物でも読め
ます」と言い換えた方が、精確な事実の描写に基づいた宣伝なると感じる。

ウエブ画面に生き写しの紙面を眺めて、この紙をどうしてくれようかと思う。
そもそも紙版の新聞を買おうと思い立ったのは、靴磨きをするときに床に敷く
新聞紙が無いと気づいたことからの気まぐれであったが、この紙面では、その
失礼な気まぐれ通り、靴磨き用品に直行しそうである。 紙ならではの特徴が
消えかかっている紙新聞だから、こういうことになってしまうのではないか?
ある知人は、切手を貼る郵便物のことをslow mail、電子メルのことをmail
と呼ぶ。 切手郵便は到着までに時間がかかるし、手書きされて時に判読困難
という事態もあるが、この紙をどうしてくれようというものではない。 特徴
とは、何も、快感を催す性質ばかりを指すのではない。

XXXならではの特徴が消えかかっている時、そのものの物質名YYYを挙げて、
このYYYをどうしてくれよう、という気になる、と自分の感情の動きを表現
してみる。 例えば、大量生産の末にウイスキイならではの特徴が消えかかっ
ているのなら、「この液体をどうしてくれよう」と感じる・度重なる交配の
結果トマトならではの特徴が消えかかっているなら「この果実をどうしてくれ
よう」という具合、そして、人間ならではの特徴が消えかかっているのなら
「この細胞塊をどうしてくれよう」・日本語ならではの特徴が消えかかって
いるのなら「この文字や音をどうしてくれよう」か-----。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2002年8月31日<土>23時50分)


trop naif
注文しておいた書籍が届いているので、これから取りに行く。 The outsider
という一冊だ。 outsiderという語をいつ頃認識したか、気が付けば自分の
キイの一つになっているように思う。 敗北・屈辱・卑屈・屈折と、漢字で書
けば「屈」の字の頻出する恐ろしく陰気な語も、このoutsiderという一言に
寄り添っている。

ただし、これは最近になってのことなのだが、ヒトは実に平等に生まれてきて
いるのではないかと感じる。 平等というのは、均質な様子ではなく、全て
異なるから比較しようがない様を指す。 何事かからoutであると思える自分で
さえ、ヒトの比較しようの無さを思い知るのに時間がかかったし、余り簡単な
道程ではなかったと感じている。

天気悪くて体調イマイチにつき、頭中も曇りがち。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2002年8月26日<月>20時13分)


いろいろ
*極言癖
「雲が生きているみたいだ」と思いたくなる心理が人間には備わっている。
生命の擬態を自然界から検出し擬態の様子を解析することによって、結局
人間は、生命とは何かを理解したいのではないか?

*無駄の先に結実はある
人間は働かなくてはイケナイから存在している組織というものがある。 何ら
かの機能を果たすことを期待されて存在しているわけではなく、組織がある
ことが重要という思想のもとに存在できているソレが多い。 無駄である。
が、膨大な無駄の中から”珠”は出る。

*何故と言える環境を
私はこれまで、ものの道理を教え込まれていた・そして、幼少の頃の何事かを
学ぶという行為の多くは権力の下(もと)に為されたという感慨が強い。
何故と他人に尋ねることは勉強不足の顕れであり、自己鍛錬に欠けることを
露呈するのだとばかり思ってきた。 何故と尋ねて大いに結構という環境を
せめて自分の周囲には作り出したい。

*作文
人格を表現するには文章が手っ取り早そうだ。 名文家である必要はない。
言語の達人を自称する者になぞ、作文させてみたい。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2002年8月23日<金>21時03分)


快不快・権力・・・雑感
最近、仏・英・日の新聞報道で、科学研究の成果を伝える記事が軽薄である
ことが気になる。 「この研究は将来、XXXの役に立つとされている」という
記事のオチが軽薄/安易なのだ。 役に立つという記述を鵜呑みにすれば、報道
された科学研究への疑問が削げる。 疑問が存在し続けることは不快である
から、避けたいのだ。

米国人記者は、このオチは、読者の要望があって付しているようなものである
と言っていた。 何の役に立つのか知りたがるから、書いておかねばならない
のだという。 解らないことを解らないと認識して放ってはおけないから、せ
めて不可解ということとオチとを置換して安堵しようという新聞読者の考えを
垣間見る。 不可解であることは不快であるから、避けたいのだ。

快感を目指すという人間の傾向がやはり、ある。 たとえば幼少時に否応なし
に権力の存在を感じてしまったとする。 その時、権力が不快なものとして
認識されれば、権力を避けるオトナになりそうであるし、逆に、権力の存在
を感じられなかったり権力に従って快と認識されれば、権力に惹き付けられる
オトナになりそうである。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2002年8月19日<月>06時38分)


モダン タイムス
忌野清志郎氏の名作(1980)に、『いい事ばかりはありゃしない』という歌
がある。 「カネが欲しくて働いて眠るだけ(精確には、カネぇがぁー 欲しく
てぇー 働いてぇーー、、、眠る だけぇ)」とキマる一作だ。 全く仰る通りで
あり、私は、労働はモダンタイムス風が一番、と考えている。

何も考えずに作業をすることに対して賃金が貰えたらよいと思うのだ。 現代
において効率化(合理化とは異なる)の対象になったような作業--機械的
作業--に従事する、それを、「カネが欲しくて」行う挙動と考えたい。 私は
どうも、厭なことに従事するからカネという報酬が在るのだと考えているよう
だ。 同じ自分の挙動にしても厭ではないことに対しては、金銭の形で 価値を
表現して貰えなくても構わない。 むしろ、自分がやりたいことに対しては、
金銭報酬で価値が明らかになることを嫌う節があるようにすら感じる。 しか
も、権力を発揮することは、私にとっては厭なことの部類に入る。

チャプリンの作品 『モダン タイムス』(1938)に対して、機械文明に人間
が侵されることへの痛烈な批判、という評の定型がある。 機械とか文明を
批判することとは人間自身を批判しているに等しいと解っての定型文ならば
よい。 私にはこの映画は、「カネが欲しくて働いて眠るだけ」という事実を
忘れた人間への警告にみえる。 折角の厭な機械的仕事を本物の機械に任せて
しまったことを自省しない人間への警告。 天に向かって唾吐きそうな作家
らしい内容と思うが、如何?

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2002年8月15日<木>21時03分)


alternate
何だってこうカネの在る場所では、「最近の科学者にはマネジメント能力も
求められている」なんてことになるのだ。 カネそのものが斯様な状況を求め
ているのであって、生命が同様に欲しているのだとは思えない。

世の流れや傾向(=カネ)にsevereであろうとすると、ココロが急速に硬直して、所謂「heartが無い」姿に変貌するのが自分でわかる。 これは一重に
私が不器用であるのと、頭の回転が遅い為であると思う。 ただし、severeで
あることとhonestであることは異なる。

豪州にその昔、物理の学位を持ったfarmerの知人があった。 毎日羊の世話を
しながら、時々物理の話をしていた。 学者は穀潰しだなどと誰が言ったか?

私は経営学の学校には行かない。

=====
Red Hot Chili Peppers / Under the bridge より(前半部分)1991

Sometimes I feel like I don't have a partner
Sometimes I feel like my only friend
Is the city I live in, the city of angels
Lonely as I am, together we cry

I drive on her streets cause she's my companion
I walk through her hills cause she knows who I am
She sees my good deeds and she kisses me windy
I never worry, now that is a lie.

Well, I don't ever want to feel like I did that day
Take me to the place I love, take me all the way
I don't ever want to feel like I did that day
Take me to the place I love, take me all the way

It's hard to believe that there's nobody out there
It's hard to believe that I'm all alone
At least I have her love, the city she loves me
Lonely as I am, together we cry

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2002年8月15日<木>05時11分)


誰も何も聴いちゃいない
Wendersの"Berlin"だったか、Nick Caveが漆黒の闇に満たされたクラブで
謡うのを眺めている観客の女が、「(Caveは)誰も観ていない、誰にも注意
を払っていない」とか心の内に呟くコマがあった。 そもそも物事の詳細を
覚えないタチであるのにこの場面を覚えているのは、日頃からあの観客の女性
と似たようなことを感じていたからかもしれない。

先日、とある人物と面談した。 あれよあれよと一時間ほど喋ったのだが、
言いたいことを言い合うことに始終した。 話をしているようで居て、実は
何も交換しなかったという感想が当方には残った。 交換しなかったから、人
と会ったというのに手応えがなかった。 いきなり話が大きくなるが、あの
ように手応えがない相手にも人権は存在することになっているのだと思うと、
如何に尊厳とか人権というものが脆いものかと考えた。

歳をとってきたから下手な社交術が身についてしまって、面談をソツなくこな
してしまっている事もあるし人との面談の時間も限られている、それに、当方
は出不精なのに加えてカネも影響力もないから人が寄ってこない等々、色々と
原因は在るとしても、最近、激しい性格とか手応えのある人格に出逢わない。 人間の間での何らかの差異の意識が権力を生むのだとしたら、「誰も観ていな
い、誰にも注意を払っていない」と感じるとは、よほど自分が何も考えていな
いか、他人の側にさっぱり存在感がないかのどちらかか。 件の映画は80年代
の終盤の話だ。 こりゃ酷い。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2002年8月12日<月>04時16分)


権力・組織・自主性* (続き)
(下からの続き)

=====
強力な自主性を備えた友人知人のことは、或いは、自然発生しないものは基本
的に不要という態度が毅然としている、とも表現できるかも知れない。 金銭
の授与がない親しい者の間に権力は発生せず、また、金銭や意識を投入して
発生させる必要もない。 人間関係とは、権力のやりとりの様子を指すのでは
ない。

とはいえ友人知人の間でのちょっとした頼み事や頼まれ事が不要であるとは
云えず、これを実現させる為の、先の定義による権力ではないチカラが自主性
である。 友人知人間の連絡を密にして(=親しくして)、頼みもしないのに
という状況を形成できれば、頼み事頼まれ事の疎通が成立する。

=====
フランスが人間と組織との契約を語るとき、根底には、人間のあいだでの
egalite=平等というものがある。 人間には個体差があっても、存在価値は等
しい、ということだ。 この平等とは、二名以上の個体が集まった状況で適用
できる考えであり、しかも先述での「強力な自主性」に拠って成立しているの
であって、権力の存在を考慮に入れるべきではない。 つまり、強力な自主性
あってこその平等なのであって、それ無しに平等は語れない。

フランスのliberte/egalite/fraterniteは、国家という組織(非生物)に
とっての理想なのである。 人間の全てが強力な自主性を身に付けてもなお
国家という組織は、権力を必要とするものであるのか? 権力無き状況(=
平等である)を国家という組織において現実化できるのか? この馬鹿馬鹿
しい問いを繰り返せる土壌が整っているのは、当世にあってはもはやフランス
くらいしかないであろう。

強力な自主性を体感したことのある者が多いから、上記土壌ができる。 ま
た、権力の存在を必要と感じない者であれば、平等のみならず、自由とか
博愛ということが何を指すのかにまで考えが巡るのかもしれない。

*unwelcomed contravention, organisation, self cousciousness

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2002年8月8日<木>20時42分)


権力・組織・自主性*
少し前に、自己紹介型お遊びメルが廻ってきたことがあって、そこの質問に
'FINISH THE STATEMENT, "IF I HAD LOTS OF MONEY, I WOULD.." .'
という項目があった。 当方の答えは、'work much more.'であった。 実に
商品が欲しいとは考えなかった。

またある時、そうお堅い話をしていたわけではないのだが、「権力とは、自分
の言う通りに他人を動かすチカラを指す」「権力とは、他人を拘束することを
指す」という説をきいた。

上記の定義に従って自分はどのような権力に動かされ、拘束されているかを
考えると同時に、自分はどれほどの権力を行使しているかも考えてみた。
定義に忠実に従えば、当方が遠隔の友人にちょっとした頼み事--飲み屋の所
在を調べるとか、或いは更に他人に「宜しく伝える」ことすら--をすると、
それは友人に対する権力行使である。 意外なところで行使しているものだ。

当方の友人知人には、強力な自主性を身に付けている人物が多い。 強力な
自主性とは何か? 社会構造の中において必要な場合以外には上記のような
権力を行使しない代わりを担うもの、であると考える。

社会構造において必要というのは、労働組織の管理者としての役職に就いて
いる場合、その組織内で管理者として権力を行使することが望まれている訳
で、組織には、行使行為に対して金銭報酬を出して権力を行使して呉れる人物
と組織との契約を取り付ける必要性がある、ということだ。 組織とは、幾ら
人間が構成しているものとはいえ、非生物であるにも関わらず生物のように
振る舞うもの、ということになっている。 あくまでも非生物なのである。

権力の作用は、水の流れの如く、物事における頻度・程度・度合いが「高い」
ところから「低い」ところへと、という方向を持っている。 しかも、自然
発生しない、つまり、生物の意識と知性を離れたところでは発生しないと云え
るのではないだろうか。 物事における高低の判断がなければ、権力は発生
しない。 自然界での生殖や淘汰に原因はあれど、それは、生物自身による
高低の判断、つまり、「自分の言う通りに他人を動かすチカラ」や「他人を
拘束すること」とは相容れぬ性質のものであると考える。

話が逸れた。 当方はどうも、ものを考えるときに、人間にのみ特異的なこと
とだけ考えていては論考が不十分であると思えてならないのだ。

最初のところに戻って、「もしカネが沢山あったなら、もっと働く」という
当方の言い分は、そのカネで、自然発生的には生じない権力を他人から買う
(=自分が組織の立場になる)か、自分に付与する(=組織からの金銭報酬を
受けて、という捉え方をする)か、という内容なのではないか。 自然発生し
ないものを意識と知性によって作り出すことに対する報酬として金銭が付与
される、というのは、金銭の性質(ものごとを定量化する手段)の上手な利用
であるとおもう。

(上に続く)

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2002年8月8日<木>20時39分)


カセットテエプ
恐ろしく久しぶりに他人のためにカセットテエプに音楽を並べ入れた。 余り
に久しぶりのことであった。 ヴィニルのように、面を返して聴き続けるのは
結構いいナなんて思った。 ディスクには色気がない。

side A
01/ space oddity - David Bowie
カセット作成ということになって、出だしにはこれを思いついてしまった。
02/ life on earth - The Divine comedy
こんな風に続くと、ニヤニヤできる。
03/ stay (faraway, so close!) - U2
ご近所産で固めつつ、、、
04/ olympian - Gene
自己陶酔型を後に欧州を抜けて
05/ heaven - Talking heads
新大陸に入って、落とす。
06/ under the bridge - Red Hot Chilli Peppers
新しい国にはこんな人とか
07/ if you want me to stay - Sly and the family stone
こんな人達が居る。

side B
08/ respective street - XTC
なにかと棄てきれないのものが知性とかいうヤツではあり、
09/ you're losing me - Izit
考えた末にこう出るか、
10/ Bonnie and Clyde - Serge Gainsbourg and Brigitte Bardot
「よく考えていたらしい」のにこうなるか。
11/ no woman no cry (live) - Nene's
それを眺めているところもあれば
12/ little by little - Oasis
それを素直に上手に扱っている者も居る。
13/ heart of gold - Neil Young
で、、、
14/ get it while you can (live) - Janis Joplin
、、、、そういうことなんだ。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2002年8月7日<水>21時16分)


立ち読み
パリの本屋や新聞・雑誌店では立ち読みが出来なかったり、出来る雰囲気で
はなかったりする(漫画本の売場にならば割と立ち読み人が居ることは、興味
深い)。 読了・総覧して内容を認識した後に、その内容を含む総体を自分の
ものせず(=購入せず)に立ち去ることが立ち読みであり、買わずに済ませる
ために立ち読むのである。 この習慣のある人間には、対象を印刷物に限らず
似たような態度をとる傾向があるとおもう。 親しみを持って近づいた人間で
も、その内容が認識できた時点になってから関係を切断する。

図録や写真集のような書籍には内容見本が用意されている場合がある。 見本
を眺めてから購入を決め、持ち帰ってまた眺める。 人間でも同じように内容
見本となる事柄を発散している。 見本部分が気に入ったら、そこから少し
ずつ総体の把握を始め、その把握作業を進めながら、その先も付き合って行く
相手かどうかを検討する。 人と知り合ってからの時間は蓄積されるのみだ。
立ち読みを習慣としない人間には、その蓄積を切断することに躊躇がある。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2002年8月5日<月>21時24分)


ワタシハダレココハドコ
オオカミの乳を飲んで育ったヒトの子供が、また、視覚を獲得した瞬間にヒト
を観たカラスの雛が自分を何者と捉えているのか? そして、「歌」付き音楽
といえばどうも英国原産ロック音楽だったニホンジンは時々、自分にも還る土
や水があるのだとしたらそれが何処にあるものなのだか、判らなくなる。 盛
りも峠も曲がり角も過ぎ去った年齢になっても判らないことというのはある
ものだ。

フランスは、多少無理をしてでも「人間は平等」と考えることにしているから
住んで居られる場所なのだとおもう。 このスロオガン無しで人間が物事の
効率を上げることに躍起になったら、とてもじゃないが窮屈な社会になること
だろう。 色々、楽じゃァない。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2002年8月1日<木>07時13分)


時に邪魔な知識
これは自分が怠け者であるから云うのであるが、どうも、知識というものを
身に付けていることで人間の発想の届く範囲が限定されるような気がする。

仮に、フロイトのフの字くらいしか知らぬ者の主張することがフロイトの説に
かなり近いものであったとしよう。 その主張者を、歴史的なgeantであると
されている人物と近い考えを持つとして評価するか、フロイトの二番煎じと
して一笑に付すか? 自分で考えるよりも先に万巻の書物を読破してしまった
が故に「君きみ、それはフロイトが既に説いていたよ」と解説してくれる脳
よりも、私は”フ”の字しか知らずに自分の主張をする者に注目する。

自然科学研究界では、実験・解析・分析の結果に考察を付して報告することで
自説を主張したことを既成事実とする。 そして、その過去を知らずに変化
(前進・展開・発見としてもよい)は無いことになっている。 しかし、この
思想で物事の変化を推し進めると、ヒトは、自省の機会を失いがちである。
自省即ち、過去の報告をも疑うこと、である。 この自省が出来ないと、疑う
べき対象を失っているに等しいから、過去の報告を有り難がってとにかく自分
のうちに蓄積し、自分は、自動的に、その知識に閉ざされることになる。
人間の発想の届く範囲が限定されるとは、こういうことだ。

過去のgeantsはgeantsとしておいて結構だ。 彼等と比して現代人を評価
する際に見抜くべきは、spontnementにgeantsと並んでいるかどうかで
あり、consciemmentにgeantsに追いついているかどうかではない。 この
点において、人類の歴史が蓄積されるに連れ、geantsの器が小振りになる
(ように見える)ことは仕方ないのかも知れない。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2002年7月29日<月>18時49分)


「あくどい」人々-4
オンナ喋りも野郎語もおねえ言葉も少なく、視覚に訴える絵文字も無い、確か
に韻音の美しさはあっても、所詮アルファベの組み合わせであって、気が利か
ない---英語仏語のことをこのように片づけてしまうこともできる。 また、
この性質のお陰で英国仏国は「あくどい」処であり続けていると云えよう。

oasisというイングランドのロックバンドが、アルバムの新作を発表した。
昨今の音楽界には、容姿というよりも楽曲・作品そのものが男とも女とも形容
し難いというバンドが溢れている中で、oasisは「男」であると感じる。 そ
う感じる根拠の一つは歌詞にある。 単純で、何事かを狙った形跡が感じられ
ない歌詞。 歌詞が説教臭いものであったり、幾ら狙っていなくても歌い手が
若い場合、それは「男」ではなくて「人間」になってきてしまう。 男臭さを
前面に押し出している同年代の者といえば、Lenny Kravitsを思い付くが、
この人の歌詞には狙いが読める。 従って彼からは、演出された男、という
印象を受ける。

言語の気が利かないものだから、埋め合わせは個人が行う---つまり、男らし
さ女らしさは、表現されるのだとしたら、個体の存在上で表現されることに
なる。 個体によって表現、とはいっても、「あくどい」人々にあっては、
視覚に訴えるだけが能ではない。 能でないというより、言葉と視覚に頼って
性質を表現することほど人間の未熟さを曝しているものはないとでも考えて
いるようにすら、見える。 かといって、伝えようとせねば伝わらない。 それ
で、伝えようとして表現に取り組む余り、人々は益々「あくど」くなる。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2002年7月24日<水>02時10分)


「あくどい」人々-3
他人には期待しない、ということを「あくどい」人々は自戒として抱いて居る
ように見える。 その強い自戒の結果、お互いが下手に期待し合わないという
冷徹にして爽やかな人間関係が築かれる。 このような人間関係の許で必要と
なるのは、自分の意志を露わにすることだ。 勿論、その発露に対する反応に
ついては何一つ期待--特に、自分にとってfavorableなものであると--でき
ないという自覚を下敷きにして、だ。

伝えようとせねば伝わらない、のだ。 書くと当たり前として読めてしまう。
阿吽の呼吸とは「あくどい」土壌においては、複数の意志の発露が実際に重な
りあったその重複部分を指すのであって、以心伝心とか無言の了承という状況
は極力、その”呼吸”から除外されている。 心境・状況・体感できぬ事を察
するという所作もこなしながら、「あくどい」人々は、「俺はこうだ・貴殿は
どうだ」ということを明らかにし続けるジンセイを送るのだ。

「あくどく」生きるか否かは人間の快不快に依存した選択であると考える。
そのうえで、時に不快も運んでくるというのに、「あくどい」人々と共にある
と、生きた心地がするのは何故だろうか。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2002年7月22日<月>08時50分)


「あくどい」人々-2
連中は、肉を喰う。 生存することにエネルギイを要する生き物をまた喰って
自分が生き延びる。 スポオツの類も、「腹が出ないように」「尻が弛まぬ
ように」などという可愛らしい願いの元で取り組んでいるわけには行かない。
息の切れない体力と、事物を着実に掴む筋力を備えようとして精を出す。

諸君のジンセイはゲエムか?と、彼等を観て居て思う。 肉を喰らって身体を
鍛えて、それを糧に日常の瞬間瞬間に己を賭けているように見えるからだ。
その賭け方は恐ろしいほどに真剣--大胆、とは少々異なる--で、また、瀬戸
際にいるわけではないのに、その思想は鋭利で危機感に溢れている。 しかも
現状を楽しめなくてはツマランと知っているから、自然、生き急ぐような態度
になる。

若年層の人口が増えれば、連中は外へ撃って出ることを始める。 フランス
は、勿論自分達もぽちぽち肉を喰いながら、海の向こうを眺めている。 欧州
とはそんな処だ。 ここの人間にもうすこし考えさせねば、東洋はいつまで
経っても西洋のエサ場だ。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2002年7月20日<土>19時52分)


「あくどい」人々-1
谷崎潤一郎は、「西洋」の人や事物を指して「あくどい」と表現した。 実に
欧州は「あくどい」。 自分の欲しいものを明らかに欲しがる。 懺悔を繰り返
しながらinstantに自己浄化する人間が、我欲をぷんぷんさせつつ生きては後
に腐葉土となっている。

恐らく、物質を拝んだことのある人間は、existenceとは何事なのか、どの
ような感覚を自分にもたらすのかを承知しているのだ。 それで、自分の欲し
いものを感覚できるまで追い求める。 感覚出来なければ納得できないので、
自然、「あくどい」存在となる。

ダブリンへ出掛けてきた。 現在、ちょっとしたITバブル期の直中にある街。
経済的「バブル」という現象は人間にとってregeneration/innovationの
好機と云えるのかも知れないと思う。 カネという怪しく美しい衣をまとっ
て、世界各地を舐めて歩く。 ところが大概は、カネ(というより、
conceits/vaniteか)に己が麻痺して、人は、その好機を逃す。 機を逃さぬ
為にはやはり「あくど」く行くしかないような気がする。 当方の貴重な友人
は(straight/direct/rigidだから)「人は、俺にはheartが無いと云う」
とかの実にsweetな、そして明らかに「あくどい」人物で、日本語の
「活躍」という語がピッタリだった。

先の千年間は、人間の「あくど」さが変化の原動力であったと思う。
ダブリンは、ちょっと面白いように集まってくるカネを得て、「あくど」さ
による万物流転を総括できるだろうか?

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2002年7月18日<木>22時42分)


*外出のお知らせ*
当所をご訪問下さって、どうもありがとうございます。

このところ更新頻度が落ちていたというのにまたも「英気を養う」と称し、
来る金曜日12日から次週16日まで、当所を留守にします。 復帰は16日の
予定です。 この日は何と、朝方5h55迄にチェックインしなくてはいけない便
で帰ってくるンです。

外国久しぶりで、嬉しいな。 今度はワインの栓抜き(普段は常備)家に置い
て行かねば、空港で没収されてしまう、、、。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2002年7月12日<金>05時14分)


お上品
日本のニュウスはネットを通じて読んでいる。 そうすると、殺傷とか人身
事故の報道がやたらに為されているように感じる。

国家の生ける象徴とか国教があると人民がものを考えなくなりそうなので、
これらは不要だと思う、という人物と話をした。 その時私は、日本の人々が
ものを考えないように見えるのは、様々な点で国が豊かであるため、何も考え
ずとも生き延びられることが原因かなぁと言った。 別の人物は、象徴があっ
ても素直に戴いているわけでもないので、日本でものを考えない人が多い理由
を考える際には、日本が豊かであるという設定から疑ってしまう、と言った。

歴史とか文化や自然条件・技術や生産に着目して、日本は豊かと考えがちでは
ある。 一方、殺傷沙汰を報じなくても--むしろ、報じないで居た方が--発行
を続けられる報道媒体を有する根拠といえる豊かさというものもある。

島国であると、「隣の芝は青い」ことが、島国内部で循環せざるを得ないので
あろうか。 貪欲に芝の青さを欲しがったフランスと違いイングランドの態度
は”お上品”だったのだとエンゲルスが書いたという。 うまいこと云った。

Name : まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2002年7月10日<水>07時07分)


勇ましい人
勇ましそうに見える人が居た。 自らの”義”に忠実かつ逆風を恐れぬその弁
は魅力的で、多くの人間を惹き付けた。 惹き付けられる者はその人の論に深
く頷き、また、その人が何を発言するかに日々注目し続けた。 自らは多くを
考えない人間の集まりを静かな水面と考えると、この勇ましそうに見える人
は、そこへ落ちて波紋をつくる水滴や、水に色を付けるインクの一滴のように
見えた。

とはいえ、水面を揺らしたり水に色を付けたことだけで満足した、つまり、
「水」を煽動したことに留まった人物は、これまでの人類の歴史上に無数に
居たこととおもう。 勇ましい人と煽動者を私は区別したい。 誰も区別なぞ
して呉れないから、人々に自論を放っている者は、「水」が、揺れたようにも
色が付いたようにも見えるのに自分は何とも寂寞としているとは、勇ましい人
のつもりが煽動者に近いのだ、と自省することだ。 この自省がなかなか為されないからこの世に勇ましい人がなかなか現れない、という気がしている。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2002年7月7日<日>05時03分)


言語のこと
パリのディスク屋で、日本限定発売品がうやうやしく”輸入盤”として並んで
いるところは、ソウル・ファンク・クラシックの売場だ。 アフリカ的なもの
を目指しつつも埃にまみれ切れない、彷徨う魂の奏でるアメリカ黒人音楽が
日本で人気を博すことは、不思議な気がしていた。 していた、というのは
ごく最近迄のことで、最近の音楽界で幅を利かせている歌謡曲のことを考えた
ら、不思議さが無くなってきた。

Grateful deadやLeonard Cohen、新しいところではTalking headsなぞは
日本では受けないだろう。 これらの人々の歌では、言葉=歌詞が理解でき
て初めてクククと同意できるものが多いようだ。 対して、最近の”ポップ”
音楽や”ストレート”なロックの歌詞は単純で、解りやすい。 また、たとえ
ナニが歌われているか解らなくとも楽しめる楽曲になっている。 あと、
Frank Zappaのようにどうしようもない歌詞が続いても内容を理解せずに
楽しめるとか、Robert Frippの試みのように、言葉だの概念を越えてギタア
で勝負ということならば益々受け入れやすくなる。 先に挙げた黒人音楽に
しても、歌詞の役割は、言葉の深淵で迫るというより、楽曲を補助したり盛り
上げたり説明したりというところの方が近い。

それこそCohenやGainsbourg、Dylan、Reed、が仏英米で幅を利かせていた
時、日本はこの世界の傾向にどのように呼応していたのだろうか? 仏英米の
演歌はやはり日本人には理解しがたいものがあっただろうから、外国で売れて
いるということに俄には賛同できなかっただろうとおもう。 それで、邦楽に
勢いがあったということはなかったか? それとも、当時は音楽産業が現在
ほど易々と国境を跨いではいなかったから、余所のことはそもそも認識でき
ない状況であっただろうか。

=====
前置きのつもりがやたらに長くなった。 言語を操るのは簡単ではない、と、
云いたい。 会話する際に困難のない言語でならば詩を鑑賞できるかという
と、そうは問屋が卸さない。 やはり言葉は集団を特徴付けるしるしである。
あちらの言い分もこちらの言い分も聞き入れることは簡単ではない。

表面的・機械的に複数の言語を使うことは、鉛筆でも万年筆でもマウスを使っ
てでも文字を書くことが出来るようなもので、余り自分の姿を評価・判断することにおける葛藤がない。 特技、とでも呼べるか。 ところが、詩を鑑賞する
ために必要な理解は、技からは得られないと感じる。 心情的に幾ら同情して
も、いまひとつ理解できない。 つくづく、人間の能力には限界があると思
う。 自分を削ってから招き入れないと身に付いて呉れない強引さが、言語に
はある。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2002年7月5日<金>09時02分)


こういうとき、、、
仏人は「天気が悪いからさぁ!」と言い訳しそう。
(本当に最近、天気が悪くて寒い)
日本は鬼門か?!

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2002年7月3日<水>02時07分)


I think you had enough of "Japan"
先日、日本人の考える「個人主義」の特徴が、男性の恋愛観として上手く表現
されている文章を読んだ。 曰く、

「女性は恋愛が好きなのであり、その女性にとっての恋愛とは当事者と、それ
をとりまく状態を指す。 一方、男性にはこのような恋愛が大変面倒くさい対
象である。 男性が好きなのは当事者どうしの関係であるので、男性において
は、恋愛(という状態が欲しい)、ではなく、彼女(という関係)が欲しい、
ということになる。 (男性は、)彼氏と彼女、というはっきりした関係に
なった上で、恋愛などという面倒なものに心煩わせずに安心して、仕事なり
趣味なりもっと自分の大切なものに打ち込みたい。」(*)

=====
「面倒なものに心煩わせずに安心して、仕事なり趣味なりもっと自分の大切
なものに打ち込みたい」という考えは、日本男性の恋愛観のみならず、近年に
なって”解放”された日本女性も抱いているように見えるし、日本人にのみ
特徴的なものというわけではない。 しかし日本ではこの考えがあたかも「個
人を尊重する主義」として、そして、人間の態度として歓迎すべきものとして
幅を利かせていると感じる。

この考えはより精確に、「個人の快楽を追求する主義」であると云えよう。

「個人を尊重する主義」と「個人の快楽を追求する主義」は異なる。 幾ら
仕事が辛かろうと、趣味の実現が困難であろうと、それらのもたらす自己満足
や自己実現を「快楽」と表現した「個人”快楽”主義」では、「社会や集団も
個人の集合」という事実が深く認識されていないからだ。

=====

私はこの「個人”快楽”主義」に対し、何とも言い難い虚しさを覚える。
「個人”快楽”主義」の傾向は、自己満足や自己実現をもたらそうとも、
暮らしやすい社会を形作ることには寄与しないように思うからだ。 自分は
歴然とした”社会”人なのだと主張するであろう者こそ、自分の”社会”
性は実は、自己満足や自己実現の追求に貢献するだけに終わっていないか
と自省してみてはどうかと思う。 自分が活躍することを喜んでくれる者が、
自分の他にどれだけ居るか?と、自身に問うてみるのだ。

この際、自分も社会の一部であるから、自分の満足は社会の満足へと繋がる
などという単純すぎる論調では困る。 重要な点は、自分の満足が自分以外
の者と響き合うかどうか、である。 「仕事なり趣味なりもっと自分の大切
なものに打ち込」んだからどうなのだ?どうなるのだ?というところを我々
は問われている。 願わくば「どうなるのだ?」の直接的答えは、金銭では
なくて人間であってほしい。 つまり、自分が「仕事なり趣味なりもっと自
分の大切なものに打ち込」んだら、自分の身近な他人も満足した、という
状況であって欲しいと私は願う。 他人と響き合う、とは、そういうことだ
と考えている。 「面倒なものに心煩わ」せずしてこの響きは得られないと
いう気もする。 とまれ、他人と響き合ってこそ、自分にとっても充実して
暮らしやすい社会になると信じる。

(*)
http://www.netcity.or.jp/OTAKU/okada/nikki/o2002/o0205a.html
日本の、オタクな評論家・作家・実業家の岡田斗司夫氏のサイトからの要約
()内は当方の付け足し

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2002年7月2日<火>20時40分)


*らくだ板再開*
らくだ色背景の掲示板の機能が復帰したようです。
今後ともどうか宜しくお付き合い下さい。
ご訪問下さり、どうもありがとうございます。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2002年7月1日<月>15時38分)


SHIROITA_archives/6ここまで