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日本オンナの系譜
中華料理のレストランは世界中どこへ行ってもあるとよく言われると同様に、
昨今では、日本料理屋もやたらにあります。 それだけ日本人は世界中どこに
でも居るということです。 どこにでも居る日本出身者の間で、それもオンナ
の間で、ちょっとおもしろい(面白可笑しいのではない)ことがあると私は
感じています。

歴史と文化の国だけはあって、日本にもこれまでに、できるオンナというか
偉大なオンナというか、そう呼べる人物は居たと思います。 ところがそれら
の人物の存在は、日本国内において薄々認識されているに過ぎないことが
多いのです。 何故だろう?と問われて私は、きっと他のオンナがそのような
できるオンナのことを知覚できなかったり認めなかったりしたからだろうと
返したことがあります。 そこで知覚できなかったり認めなかったりだった
過去には恐らく、オンナ共の能力、そして、そのオンナ共を取り巻く環境が
原因として作用していたことと思います。

日本のこの傾向はしかし、日本オンナの低脳さを顕わしているのではないと
私はおもいます。 というのは、先述の’ちょっとおもしろい’ことが、日本
オンナの堂々たる系譜を日本国外の都市にあって露わにしているからです。

堂々たる系譜などというと如何にもオンナどもが連んでいるかのように読め
ますが、堂々たるというのはその内容であって、系譜の表現型はまさに在って
無いが如し、誓いの杯も免許皆伝もありません。 それでも私がその状態を
系譜と呼びたいのは、そこに列している日本オンナは揃って明確かつ独自に
’佳き日本’を体現して美しく、’佳き日本’に育まれて賢いから、そして
何よりも、それら日本オンナどうしが、お互いの素晴らしさを無言のうちに
認めているようにみえるからです。 そしてそうやって認め合うことで、
しかしそれに依存しないことによって、結果としてお互いを高めることに
なっているようにみえるのです。

ギリシヤ彫刻がごっそりルーヴルにあるように、日本オンナの真髄もまた
日本国外にあって保存されているようだ、と、私は感じています。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2001年9月30日<日>06時15分)


Felicitations, Jerome
ジェローム君という旧知の学生さんが今日、博士論文の審査会に臨み、見事
論文審査委員長の最高の賛辞付きでもって、晴れて博士の学位を取得しまし
た。 これまでにもこの論文審査会のことは少し書いてきましたが、今日の会
はまたココにその様子を書いて、多くの人に「へぇ〜。」なんて知って貰いた
くなる、とても素敵なものでした。

博士論文審査会というのは、書き上げた博士学位取得のための論文をあらかじ
め審査員五名に送り、それから審査員の日程の調整をして、その論文について
口頭で内容を発表する会のことです。 博士論文の仕上げ近くになって審査会
のことを考えはじめ、審査会の開催は審査での発表者が仕切ります。 審査員
との連絡をとり、会場を押さえ、会の後の祝賀会(審査会は、審査を通ると
いう確信がある者が臨む、と考えてよい)の準備、そして勿論自分の発表の
支度もしなくてはいけません。

口頭発表は一時間、そのあと審査員の質問とコメント、審査内容の告知、そし
て祝賀会へなだれ込むというお決まりコースが、この発表会にはあります。
あるのですが、このお決まりコースには、否応なしに発表者の特色が反映され
ます。 発表者の全人格が如実に投影されると言ったなら、もっと的確です。

発表の仕方に人格を垣間見るのは不思議ではないとしても、審査員の人選
(勿論、論文作成指導者と協議して決めるものではある)から、その審査員の
出す質問/コメント、聴衆の態度、祝賀会での雰囲気に至るまで将に、壇上の
発表者がどのような人格なのかを露呈します。 審査員は、発表者が仕切る会
に乗り込んできて質問を出しコメントをせねばならないので、かなり気合いの
入った態度でいることが判ります。 審査会での劣質なコメントは、審査能力
ナシを意味しますから。 そんな大先生方をして、その発表者ならではの発言
をさせたいわけですから、壇上の人の頑張り推して知るべし、です。 頑張る
と言っても、誘導尋問だのあらかじめの打ち合わせや質問内容の協議ができる
わけではありませんから、あの審査会での様々は、発表者の人格と存在に全て
がかかっている、としか私には表現できません。

優等生的学生ほど、実に品よくソツのない審査会を開いてみせます。 悪ガキ
風の学生のちょっと強引な会は痛快で、楽しめます。 そのような中にあって
今日のジェロームの会には、彼の強靱・強引・優雅・真摯・繊細・素朴な性質
が常に漂っていて、優等生的発表に対して自動的に言い渡される賛辞とは重み
の異なる、審査会参加者の満足感を伴う賛辞が贈られました。 全人格を傾け
て開いた会に、参加者が満足して賛辞を口にするのですから、それはそれは
喜ばしい、、いや、本人にも充実したものであったことは想像に易いのです。
若い人が着実に成長し、それを周りの者が本当に支えているという光景が
あの審査会にはあります。 今日の審査会は午前中10h30から始まって13h00
頃まで、昼は14h00を過ぎてもまだ祝賀会(言うまでもなく、シャンパー
ニュをガンガン呑む)での談笑が続きました。 人間が大切にされている、
そう思える半日でした。 よかったね、ジェローム。 どうもありがとう。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2001年9月28日<金>01時28分)


無駄使い
人間・時間・税金などなど、この世には、無駄使いされることや有効活用され
ないことにイライラするものがあります。 昨今はこれらに加えて、発言力と
いうものも、有効活用されていなくてイライラする事物の仲間に入るなとしみ
じみ思うようになりました。

何らかの主張の手段が殺人であってはイケナイとしてテロリスト(=人間)の
殲滅を支持する態度に矛盾があるなどと、今更、論でもって説き伏せられる者
は少なそうです。 世の多くの人間にはそうやって考えることが出来ない時に
可能なことは、何かを思い出すことかもしれないと考えます。 新しいことを
考える(New Warなどといって)よりも、自分の記憶にあることを思い出し
たほうが、物事の理解へは近道かもしれません。

真珠湾に始まり原爆に終わった過去を知るところからの、過去を痛感した者
による意思表示があったことをネット上で伝えた日本の報道機関は、わずかに
二社。 原爆/核に反対する運動の背後に何があって記事を書けないのか、記事
にするに値せぬと判断したか、自国外の通信社/新聞社の報道内容を紹介しは
しても、日本の報道機関や報道人のサイトをみていても、日本での動きを
読むことは出来ません。 これを発言力の無駄使いと呼ばずして何と云いま
しょうか。 広島での座り込みに参加した人々が百人少々で、もしその主張に
論理構成や表現方法の点で説得力が無いと感じるのであったら、日本で発言力
のある者が、論理構成と表現方法のサポートをしたらよいではないか。

罪のない人民を殺さなければ大変結構として、住まいから追い出して難民
生活をさせることと、放射線照射を受けて生きながらにして生体機能の障害
と闘うハメになったこととに、何の違いが在りましょうか? 自国の過去の
痛みを知る国は世界に日本だけではありません。 しかし、その痛みを、単な
る被害者の文句ではなく主張できるだけの力量のある人物が揃っているのは
日本であると思います。 そんな日本にあって発言力を持っている人々は、
高尚な論理を読ませてくれたり、’当たる’ことを狙っている仮説、そして
ワイドショウ顔負けの推論を展開できるとは、今回の一件以前に充分認識
されています。 アメリカが以前下した「手」を思い出させるには、日本の者
が自分の痛みを主張せねばなりません。 あれを繰り返すしか諸君には能が
無いのかと問えるのは、日本の者なのです。 発言力を有効活用されたし。

註・発言力は誰にでも備わっています。 その力のもたらす影響には差が
あると思います。 ですから、大きい影響をもたらさない発言力にもその有効
活用の方法はあるし、大きい影響をもたらす発言力にもその有効な活用方法は
あるります。 日本からの言論が世界に影響をもたらすことを、日本の者は
何も考えていないのか、敢えて避けているのか、真珠湾・原爆・赤軍といった
ところが日本以外で言及されても、それは日本の者の発言の引用ではないの
です。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2001年9月25日<火>23時16分)


renaissance
naissanceは、誕生、の意。 バチカンのシスティナ礼拝堂には、「アテネの
学堂」と日本語では呼ばれる画があって、ラッファエロ作・1512年の完成。
ここには学者/思想家が描き込まれています。 天上のイデアを指すプラトンは
ダ ヴィンチの姿を、地上の万物を指すアリストテレスはミケランジェロの姿
をしているという解説をよく読みます。 ルネサンス期の考えと状況を絵画に
収めたなら、確かにこういうことになりそうな気がします。

幼少の私はかなり素直?で、プラトンとはああいう姿の人物だったのだと
思っていました。 プラトン役を請け負えるその人物は、何だか大した弟子も
持たずに自分を越えたと思える者が居ないと嘆いたとかで、私には大層な
畸人に思えます。 社会が宗教戦争の火に包まれる前に現れた畸人。 モンテー
ニュはこの直後という頃に出てきます。 今後の世の中が混乱するだろうと
思うからか、彼らルネサンス期以降の畸人達はどんな交流をしていただろうと
考えました。

=====
*おまけ
検索中に見つけたペイジ。 フランス人・フランスについて書いています。
読んで頷けること多し。 勿論、一言二言三言と口を出したくなる内容では
あります。 筆者は在日の英国出身者で、英国人にフランスを語らせると、大
体はこんな感じ。 私に可笑しいのは、当のフランス人は自分ではこういう
ものを書かないこと。 日本人は日本人・日本論が、英国人も同様なことが好
きな様子で、その好きが高じて余所の国人論まで展開するように思います。
どうもフランス人の展開するフランス人・フランス論は、日本や英国のものと
は手法が違う--直接的ではなく、フランスを”読みとれる”ようにする--と
感じます。
http://www.mii.kurume-u.ac.jp/~leuers/eu-francenotes.htm

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2001年9月23日<日>06時57分)


曲説/曲解・考える頭の中-2
傍目に、出自の何だかよくワカラナイ学者や思想家が居たとおもう。 出自だ
などときっと、自分でもよく解っていなかったことだろうと想像する。 よく
解らなかったのでは、その者は不快な心境で過ごしていたのだろうなとも
思う。 そんな連中は、学問と、それを記述で表現することで、自分の所属を
唯独り、その表現のなかに見出していたのではないだろうか? だから、学問
とは、世間の調子とどうも響き合えない者の逃げ場なのではないかと思う
ことがある。 しかし、そのような自給自足は生命体において成立し得ない
から、出自のワカラナイ学者や思想家は、どこか狂って没したのかも。

TIME誌最新号表紙に、One Nation, Indivisible とある。 こんなことを
大きく掲げられるなんて、羨ましいような気すらする。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2001年9月22日<土>08時14分)


曲説/曲解・考える頭の中-1
予告したところへなかなか辿り着きません。
=====
フランスの態度が大胆です。 少なくとも私には、昨今のフランスの対国外
態度としては大胆に見えます。 アメリカの言う報復への援助を惜しまない
惜しまないと繰り返した後は、ご丁寧にシラク氏まで派遣しての友好ぶり。

このフランスの態度を真に受けるひとが多いから、その人たちから、フランス
は「フランス人が居なければとっても素敵な所」などと言われるのでしょう。

憎しみが憎しみを生む・報復が報復を呼ぶ、などということをフランスが
知らぬ気付かぬとは、言わせません。 フランスのあの外交態度は、それらの
ことを充分に知って気付いた上でのものなのです。 フランスの惜しみない
支援などときけばアメリカは喜ぶかも知れないし、支援を渋っていた他国も
フランスの態度をみて動き出すかも知れません。 でも、フランスは、そんな
単純で直接的な態度で外交を展開するような国ではありません。

ではフランスは口から出任せを放つ出鱈目べらぼう国家かというと、そう
は言えません。 そうは言えないという根拠は、今後の事態の展開のうちに
明らかになるだろうから、この件でのフランスの外交術は、実に観察するに値
すると思います。 キイワードは依然として、solidarite (solidarity)。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2001年9月20日<木>10時02分)


雑に色々
*どんな手でゆく?
週が明けてみたら、アメリカから、反戦運動らしきうねりが欧州の私のところ
へも伝わってくるようになってきました。 ネット上の動きとしては速い
対応と感じませんが、流石に自国での一件とあって、海を渡るのが遅れたと
いうより、運動がたちあがる事自体に時間がかかったのかも知れません。
また、アメリカが戦意を剥き出しにしないと始まらない類の運動なのかも
知れません。

反対運動といえば先ず、署名。 署名用のウエブサイトがあり、そこへ署名を
残してくれとのこと。 署名がチカラを持った例は過去にあっただろうと思い
ます。 何も考えないより署名運動を展開した方がマシなことも確か。 そこ
で、同じマシなことをするなら、過去の反戦運動をちょいと振り返ってから
効果的にやりたいものだと思います。 戦意が表明された頃に始めたという
ことが、私からは、この運動に署名する気を削いでしまいました。

*自分でやれば?
自国民が沢山死んで、報復に盛り上がっている国民も抱えているU.S.A.では
あります。 その報復について私はふと、そんなにやり返したかったら、やり
返したい人は自分でやれば?と思いました。 何もU.S.A.様がずずいと出てき
てやり返して呉れなくとも、自分で手を下して、やり返した実感でも味わって
仇討ちの満足感を得てはどうかと思います。

仮に、だろうと、自力で報復をしようとなったら、考えることが沢山です。
「無差別大量殺戮は許せない」との考えからの報復なのだろうから、自然、報
復相手を的確に特定する必要を感じるでしょう。 また、それ程に憎いのであ
れば、他人の判断などもってのほか、自分で突き止めて納得できないと、報復
対象としての何ものも設定できないことでしょう。 そして、その報復行為に
は相手違いが断じてあってはならないと認識できるはず---等々。

報復して当然と云う者の何割が、その報復に自分で手を下すという可能性を
考えてみているのか、私には疑問です。 ちょっとした喧嘩にしろ議論にしろ
その陣に直接関わらぬ者は皆、野次馬と同じです。 国家の背後から、報復を
ヤレヤレ!と叫び、国会の自分が特定できないところで、ナニイッテルンダ!
と愚痴る。 勿論、野次馬の存在は悪ではないと思います。 でも、野次馬の
言うことは、かけ声と愚痴の粋を出ないのだと、野次馬は認識すべきです。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2001年9月19日<水>07時28分)


笑顔
イスラム界の人々は、よく知らない相手に対して笑顔を向けることが殆どない
ように思う。 パリ市内でも、その傾向を感じることがよくある。 仲間同士で
は笑顔をみせていても、私なぞには突如として硬い表情を向ける。 ましてや
テレビカメラに向かって微笑む人は皆無にみえる。

もう止めてくれというほどの飲料や食料をNYに運び込んだボランティアの
人々は、フランスのテレビ局の取材カメラに向かって、どうしても微笑して
しまう。カメラの傍に語りかける人物が居るからだろうか。 その反射の笑顔
は、当に「スマイル(も)0円」である。

カメラを向けられた時のことを思い出すと、インタビュウ場面では、聞き手
の人に向かって喋るとき、また、どこでカメラが回っているのかよく判らない
時には妙にテレが出て、笑顔の映像が残ったこととおもう。 が、カメラに向
かっては、笑えなかった。 また、自分で見知らぬヒトの写真を撮ろうとする
と、カメラという機械で彼岸に居る私に向かって、その場で瞬時に笑って貰え
る人とそうでない人の反応の違いを、生々しく感じることができる。

カメラマンの姿は、写真機に余りに接近していて表情が隠れていたりするた
め、カメラに向かって微笑むのは、機械に対して笑いかけていることに他なら
ない。 イスラムびとにとっては、機械は自分が微笑みかける対象ではない
し、見知らぬ私も、生き物とは認識できても、微笑みかける対象ではないとい
う点において、機械と同等の位置についているのだろうなと思う。

NYボランティアの「スマイル(も)0円」においては如何なものか。 取材者
も機械も皆、微笑む対象である。 この姿をfrankと呼んでイスラムびとを
cruelとするか、はたまた、見境ない笑顔には機械を機械と見ぬ
unawarenessを、そして、無愛想なまでに自分の領域を表現する人々に人間
のsolidityをみるか。

カメラはどうしたところで機械である。 それでもそれを実に「愛」用して
いる撮影者にあっては、幾ら機械の背後にいてそれを操作していようと、愛機
と自分との双方に笑顔を向けて貰えるようである。 彼の愛機は彼の一部で
あり、一部であることを知っているイスラムびとはそのとき、笑顔であった。

http://www.asiawave.co.jp/NAGAKURA1.htm
(写真家・長倉洋海氏の作品)

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2001年9月18日<火>05時40分)


曲説/曲解・考える頭の中-0
自分の中の狂気というか魔というか、そんなものが如何に容易く外へ滲み出て
くることか。 この同一題名シリイズでは、
*学問は逃げ場か?
*「自分は受け入れられていない」などという妄想と如何に向き合うか
なんてところを書いてみるつもり。

昨日までの状況から回復するための一枚は、Sly and the Family Stone
のアルバム Stand!(1969年)。 多くの人に聴いて貰いたい盤です。 とり
あえず曲名列挙するだけで、何か伝わらないかな? 強引かな?
1. Stand! / 2. Don't call me nigger, whitey / 3. I want to take you
higher / 4. Somebody's watching you / 5. Sing a simple song / 6.
Everyday people / 7. Sex machine / 8. You can make it if you try
第六曲目を思いついたことから、今日はこの一枚にてリハビリ中。

あと、余所でみつけたものも部分引用。 全く自分に都合のよいように解釈
すれば、先述拙稿でのallianceを支える考えと似たものを、「世界中を
旅する」者は持っている(持つ必要に駆られる?)ような気がします。

----------
やはり世界中を旅する時代になる、のである。
むしろ悲しむなかれ、約束の地など持たないほうがずっといさぎよい。
人間などもとから放浪するしかない罪の動物なのだから。

言葉を覚えるべきだな、旅の時代には。
そして自分の言葉を大切にするべきだな。
----------
ツキモトユタカ氏の癇癪日記 2001年9月15日分からの抜粋
http://www.diary.ne.jp/user/19481/

学問云々はどうとして、妄想と向き合うという辺りは、例の東海岸での事件
もあって、先のSly盤同様、多くの人に関心を持って貰いたい事項と信じてい
ます。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2001年9月15日<土>22時26分)


如何に伝えるか
幾ら自分なりのものであろうと、理詰めで書いた気になったものを読み返す
につけ、理の詰まった様子は自分で納得できるとしても、これは他人のココロ
にしみ込まないなと思うことがあります。 かといって理が詰まっていない論
や構成上に矛盾のある論には説得力がないとも思います。

理詰めだけでは伝わらない---自分に集中力がないからそう思うのかも知れ
ません。 しかし、宗教人の言に触れると、人間の中で理がこなれた後の様子
がそこにあるような気になります。 宗教人のやることですから、自然、
よくこなれていればいるほど、人を魅了することになるのでしょう。

人は一人何役もこなせるものではありませんから、理詰め論が得意な者は
その論を極めていたらよいのかも知れません。 が、私はどうも、理詰めに
走れる者ならば是非とも、詰まったその理を自身に於いて消化した様をみせ
たいものだと考えてしまいます。

余所で見つけた引用を転載しておきます。

"Returning hate for hate multiplies hate, adding deeper darkness to
a night already devoid of stars. Darkness cannot drive out hate;
only light can do that. Hate cannot drive out hate, only love can do
that. Hate multiplies hate, violence multiplies violence, and
toughness multiplies toughness in a descending spiral of
destruction. ... The chain reaction of evil -- hate begetting hate,
wars producing more wars -- must be broken, or we shall be
plunged into the dark abyss of annihilation."
--Dr. Martin Luther King, Jr., Strength to Love, 1963, p. 51.

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2001年9月15日<土>02時21分)


雑にいろいろ
*映像
フランスでのテレビ報道と英米発のそれらとは、かなり表現が異なる。 伝え
ていることの大筋は同じだが、フランスでは、タリバンがコメントを発表
しているときにはタリバンの者の姿が映し出される。 アラブ・イスラム世界
の人々の姿や、米国にいるイスラム教徒の姿も、フランスでなら放映される。
また、イスラム世界の人々の姿と同時に、フランスのニュウスキャスタも
言及していたが、死亡した被災者の姿(袋がかけられているとか)も、勿論、
視聴者の心理的ダメジを考えてのことだろうが、画面に映らない。 建物の
倒壊や飛行機墜落現場近くには限られた報道人しか入っていないとのことを
フランスでは言っていた。

*内部
CNNの画面下には遂にセンソウの文字が。 そんなところを通さないで米国に
居る者が言うことが伝わってくる窓を一つだけ開けておいていると、そこには
沢山の自省する米国人の姿があります。 日本の行為を振り返って怒りを露わ
にするchinese-americainという人物がいて、例えば、こんなやりとりが。

--私は日本の政府が、公的に謝罪をしていないことに憤慨している。 自国の
行った過ちを断固として認めない国のことを、どうして信用できようか?
--仰ることはよくわかります。 我々もそんなところに暮らしていますから。

応答した人物は、そんなところ=米国として、怒れる人を受けたのです。
このような受け答えは、軽々しくできるものではありませんが、サラリと
その人物は投書をしてみせてくれ、私はとても安堵しました。

*表現
日本人の意志を窺えるところはどこだろうと思うと、ネット上の各種掲示板
を思い浮かべますが、やはりこういうときに発言者の特定できない意見が
幾ら沢山出ていても、眺める気にはならないなぁ。 というのも、東洋からの
音沙汰がまるで無いのです。 東洋界からの反応・意志・動きが、気味悪い程
に入ってこない。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2001年9月14日<金>23時04分)


付・突然、余所の紹介
本稿は、別題・孤立を怖れず’連盟’を厭わず(で、よかったかな?)。

当所をご訪問下さってどうもありがとうございます。 アチラからお出での方
のほうが多いことと思いますが、そうではないという方々は、どうぞ、下記
武田徹 氏の掲示板もご覧下さい。 氏の主張には注目すべきものがあります。
http://www.tcup1.com/162/sinopy.html

=====
同じ薦めるなら、自分が書き込みをしていないときに上記を書けばヨカッタ
かな?? まぁとにかく私は私なりに、ものを考えている人々とのalliance
をどう体現するか、ぼちぼち考えて居るつもりなのです。

インタネット社会におけるallianceといえば、最近は日本語のサイトで、
特定サイトの冒頭部分や更新箇所を切り出して集めた形のところが出現し、
従来からのリンク集の存在に動的要素を加えたようなものに仕上がっていま
す。 当所にも書き込みをして下さるワタ氏のサイトもそのような動的リンク
集=ヘッドラインサイトに御参加でして、そのうちの一つ(下記)を眺めてい
て、見つけました。
http://www.amezo2000.com/

このようなヘッドラインサイトの出現により、自分のネット上での周回回路
つまり、普段自分が読む・観るウエブサイトを公開する人も多数出てきている
ようです。 蔵書リストや、愛聴盤リストを公開したくなることと似た気持ち
なのでしょうね。 それもまた、自己主張の一形態だなぁ。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2001年9月14日<金>08時05分)


solidarite / globalisation / alliance-3
---下からの続き---

=====
どうやらNATO+ロシアの指導者は、solidarite’連帯’を強めようとして
いるようですが、賢明な方針設定ではないと私は思います。 フランスにある
抗globalisationの動きの根底には、その場しのぎの’連帯’は賢明ではない
という考えがあるように思えます。 生き物が暮らしやすい環境はalliance
’連盟’に基づいていると認識していればこその考えと言えましょう。

さて、東洋界諸国、日本といえば、どうも既に’連盟’に基づいた国家を
形成しているところであるという気がします。 インド然り中国然り。 その
ような国々から、solidarite’連帯’推進論とまともに議論(断じて、
対抗、ではない)できるような alliance’連盟’の重要性を説く論が出せた
らよいなと思います。 先にも書きましたとおり、’連盟’の実体は文章に
書き表し難いものではあります。 ですが、困難だからといって無邪気に同情
心から米国支持に廻っていては、solidariserが進むのみです。

フランスの言論人の一部は、たとえ困難であっても、allianceの実体を表現
し、体現しようとしているように見えます。 東洋諸国の言論人にも、それ
は、できるはずです。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2001年9月13日<木>22時27分)


solidarite / globalisation / alliance-2
ブッシュ大統領はその演説の終わりを、God bless Americaと締めくくり
ました。 これと同じ出だしの歌が彼の国にはあって、国会議員だかが事件の
翌日に集まってこれを合唱していました。 私はオコチャマの時に、この歌は
神が息をするのではなくて祝福するのだと謳う(お約束です)歌だと知った
時、自国を讃える歌を持つ国家アメリカの存在に驚きました。 国家というの
は、そうやって国民自らが褒め讃えて結束して存在するものらしい、と考えま
した。 それで丸善に出掛ければやはり、We, THE people などという題の書
籍がアメリカのことを説明していることを見たのでした。

=====
事件から二日以上経った頃からCNNの画面には常時、星条旗がヒラつくように
なりました。 被災者やその家族が次々と画面に現れ始めれば、それは観る者
の同情心をつつき、この事件に対する哀しみと怒りを盛り立てます。 犯行に
携わった者が明らかになりつつあるという報は、who is the enemy? の問い
に答えを与え、哀しみと怒りを向ける方角を設定します。

しかし、今日の世界に生きるアメリカ人にあっては、どうでしょうか? 自国
を讃える歌と星条旗の下に結束し、設定された方角に向かって哀しみと怒りを
放出しそうには、私には思えません。 ある時訪れた西海岸で、アメリカでは
既に何かが、物理的に混合していると感じました。 その物理的混合が先行し
たが故に、その西海岸の都市に居た人々は、無言の’連盟’のうえに都市生活
を送っているように見えました。 その場には、歌と星条旗が表現している
ものを根拠にした’連帯’は、私には感じられなかったのです。

市民運動や何事かへの抗議行動をともに推進しようというとき、フランスでは
solidarite’連帯’の語が出されます。 ’連帯’は短命で一過的な集合で、
目的を持った集まりとも言えましょう(勿論、短命・一過的・目的ありだから
といって、余計で忌むべき集合形態であるということはない)。 一方、
alliance’連盟’には、明確に設定された目的がある様子も、どのくらい持
続するのかという推測も出さない性質があるように思います。 そして、生き
物が暮らしやすい環境は、’連盟’に基づいているように私には思えます。
然して昨今のアメリカは、先の西海岸の人々に散見できたように、歌と旗の
下での’連帯’から自然に脱してきているのではないかと考えます。

---上に続く---

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2001年9月13日<木>22時24分)


solidarite / globalisation / alliance-1
例のアメリカでの一件に付随するキイワードの一つは、solidarite (solidarity・連帯) であるように感じます。 パウエル氏は、イスラム世界の
国家も、テロ行為に対抗する連帯に参加してくれなどと呼びかけていました。
このsolidarite(以下、連帯)と似たような状況を示す語にalliance
(alliance・同盟と訳されることが多いだろうが、ここでは連盟としておく)
があります。 英米からの発言には、連帯という語は使われても、連盟という
語は殆どあらわれていません。 これらの語が使い分けられることには根拠が
あるはずです。

私は、この二語の違いを、
連帯・・・明確かつ参加者が納得できる理屈を根拠にした集合
連盟・・・根拠となる理屈は実は文章化することが困難であるような集合
このようにとらえています。 ただし、短絡的に、連帯とは理屈根拠の集合・
連盟とは精神根拠の集合とはわけられません。

アメリカが現状で対外的に呼びかけられるのは’連帯’であって、’連盟’
ではないわけです。 それはアメリカという国家が成立するに至った過去を振
り返れば納得が行きます。 出自の異なる者が合衆国にまとまろうというと
き、そこには、神であるとかカネであるとかいう、明確かつ参加者の誰もが
納得できる根拠が必要でした。

ところがフランスは、徒党を組むのに’連帯’である必要はなく、’連盟’を
形成できない集合体には集合体としてのチカラや効果も無いと考えているよう
に思います。 過去の’連帯’形成の試行錯誤と失敗の後に’連盟’という
人間の集合体をつくる可能性(または、’連盟’の根拠となる事柄の存在)に
フランス人は気付きはじめている・気付いていると言えましょう。

=====
面白いことがありました。 事件直後に各国の国家元首が様々な形で意思表示
をしたことを受けて、仏人から、「何故にアジアの国々も日本も、元首が姿を
現して喋るという明確な意思表示をしないのだ?」と詰め寄られました。 私
もそう問われて気が付いたのですが、日本という国からその国家元首級の人物
によって、日本の意志が表示されることを期待していませんでした。 それ
で、日本には実は国家としての意思など無いと言えそうにおもう、と答えて
おきました。

原稿を見やりもせずに力強く喋るブレア氏・実は何の後ろ盾があって喋って
いるのか不明に見えたシュローダ氏・慌てていただけのようだったシラク氏と
ジョスパン氏・「連盟」の薫りがプンプンしていたインドのバジパイ氏(だっ
たと記憶)が私には印象に残りました。 これらの人々の見え方と、画面に
登場しなかった(または、英米仏報道機関にとりあげられなかった)国の
存在が、私にはやはり、「連帯」と「連盟」の違いを考えさせてくれました。

---もすこし続く---

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2001年9月13日<木>19時32分)


手段は選ばれなかった--続
私は、歳をとるにつれ、善悪尊卑の区別が自分の中でつきにくくなってきて
いるように感じます。 しかし、自分では、思考停止の結果としてこれらの判
断が付きにくくなっている訳ではないと思えます。

自分の主張が知れ渡らなかったり受け入れられない現実への苛立ちを表明
するテロ(=何者かを恐怖に陥れるに至る行為)行為において無差別殺人を
行うことも、人間の意志表現の一手段ではあります。 テロ許すまじと言って
は被災者の映像を流す報道機関を内包している国家も、規模こそ違えど、他国
の市街地へ夜間にミサイルを撃ち込むなどというテロ行為を行った過去があり
ます。

無差別殺人という表現手段は、選び取るべきものではありません。 それでも
それを選んでしまう人間が世界中各地に居ることが、現実です。 無差別殺人
許し難しという怒りを自身に感じるとき、自分の外に向かって怒りをぶつける
ばかりでなく、如何にその怒りを自省にも向けられるかが、全地球テロの場と
化した現代に生きる者に求められている、いや、試されているのかも知れぬと
私は思います。

ひとは見たいものしか見ないのが現実なのだとしたら、その自分の傾向を痛感
して、見えていないものにこそ眼をむけようとする努力をしましょう。 字面
の通りの「fondement=基礎・根拠・原理」とは何かを、昨今の人間は見て
いないように思います。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2001年9月12日<水>23時01分)


手段は選ばれなかった
仏国時間18h15現在、AFP/APのサイトが開かず。 Reutersは開きました。
CNNではWTCのことしか喋らないが、仏国テレビ局は全て特別報道(ダイ皇太
子妃事故以来?)で、既に、イスラム世界の関与の可能性・最近の中東情勢と
の関連に言及し、CNNには流れていない映像(WTC以外の、米国政府関連
建物から煙が出ている)を出している。 欧州から米国へ行く航空機は全て
運行取りやめ。 下手な未確認情報を流せないという態度からだろうが、CNNの
報道がいちばん、狭い範囲から出ていないように感じる。

手段は選ばれなかった。 が、人々よ、冷静であれ。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2001年9月12日<水>01時16分)


雑にいろいろ
おらおら、ワタ氏もロシータ母さんも、「嗚呼」なんて言ってら。

*所属
「フランスの国籍にしちゃえば?」なんて、何かの拍子に知人が言った。
それはだいぶ前の話なのだけれど、今だに、その時の何気ない話し始めの様
まで憶えている。 日本の空港で、外国人というところへ並ぶのか、と、何故
か今朝、その国籍話を思い出して、考えた。 何らかの共同体への所属とは、
何の為なのだろう。

*口外
米国人の科学報道人で強い印象が残った人物は、思いの外少ない。 そのうち
の一人は、集まった者のあいだで、何を科学報道の対象としたものか?という
話をしていたときに突然、「そんなこと考えるなら誰か、俺のことを書いて
呉れよ!」と言った。 自分のことを告白する事とは、環境さえ整えば誰でも
おっぱじめそうな行為なのだけれど、自分には、そんな発散的告白願望と同時
に収斂的消滅願望もあるように思う。 あの報道人にも収斂を望む気持ちが
あるかななどと、ふと、気になった。

*混合
近頃、どうしてもアメリカが気になる。 もはや、XXX系アメリカ人という、
XXX系という風貌を根拠にした呼称も無くなるのではないかと思えるような
人々の暮らす国。 どこまで、何が、混合しているのか? 混合したら、どう
なるのか? 今度アメリカへ行ったら、ヒトを撮りたい。

*応酬
真摯かつ感心させられるような議論のやりとりに触れたい。 故人である
言論人どうしの往復書簡でもよい。 ロシータ母さん言及の伊藤氏には、大杉
氏が居て、よかったなぁ---抹殺されようとも歴史上に意を残した好例。 個
は一で成立、族は二から成立し得る。 過去にしか好例が見当たらないような
気がすることがもどかしい。 勿論自分も、もどかしい。

*報告
最近の、思わぬ失言。 私は五十才までなんて生きたくないナと言ったら、目
の前に居た人物が五十一才だった。 その後、幾らあれは自分自身への考えだ
と繰り返しても、その五十一才氏は、「やはり、生きながらえるものじゃない
かな。」と言うようになってしまった。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2001年9月9日<日>00時14分)


反省
死ぬまでラブれ、という書き込みにおもわずうなってしまった
ロシータことルシアノの母です。
落ち着いた目つきというか、もうろうとした目つきというか。
あたしなんか、もうろうとしてますね、子どもが出現してから。
このごろはほんとやんちゃでもう、あいつが起きてるあいだは
心の平安はないってくらいです。もう、ラブなんてどっか
いっちゃいました。 ちょっと悲しいです。
気持ちだけは、でも、自由でいたいですよね。
伊藤野枝みたいなの、あこがれます。(大正時代のアナキストで
大杉栄と自由恋愛を実践してたひとです。関東大震災のどさくさに
まぎれて殺されました)  
しかし、フリーラブの前に減量が必要かも・・・  嗚呼。

Name : ろしーた Time : (2001年9月7日<金>23時08分)


洒脱・洒落・瀟洒
わた氏、書き込みをして下さってどうもありがとうございます。

結婚・出産して落ち着いた目つきになる様子は、本来なら、喜ばしいことなの
だと思います。 それなのに貴殿にはどうも好ましくないものに見えてしまっ
たということは、何というか、そこに人間の業のようなものが漂っていたから
ではないかなと考えました(坊さんみたいな物言いだ)。

なんのための結婚・出産だ?と考えたときに、貴殿のご指摘の猫をはじめと
する他の動物のつがい作り・出産の場合と何も変わらない理由がそこにある
というのに、人間様においては何やら他の高尚な理由が先ず第一に頭に浮かぶ
ことがあるようです。 それで、実はその高尚さが、死ぬまで(死んでも?)
ラブることを不可能にすることがある。 哀しいことだなぁと思います。 ラブ
る、というのは簡単なことではないのだけれど、自由平等博愛とか平和とかを
スローガンとして繰り返したり憲法に書き込んだりする以前に、懸命になる
べきことだよなぁぁぁと、私も信じています。

=====
わた氏をはじめとして、ニンゲンとして飽和していない・ご満悦に浸っていな
いように見える人は、魅力的です。 私が書くとそれらの人々についても鈍く
さく読めてしまうからこれ以上は説明しませんが、私は、それら魅力的な方々
の洒脱(イマ風に言えば、cool、というところか)具合に触れたいことも
あって、駄文を書いては出しているのかもしれないと自分を思います。

ネット上でそれぞれの駄文を公開することは自慰のようであると誰が言った
か、名言だと思います。 自慰は自慰として行われていて結構。 しかし、自分
であるとか自分相当(相似?)の者によってしか自分を慰められないのだと
したら、生き物として哀しいことであると思います。 そんな哀しさ(先述、
死ぬまでラブれない哀しさも同様)についても高尚に解釈してしまうのが昨今
の人間様なのだけれど、その姿には、洒落も洒脱も見出せない。

本能に忠実なためにちょいと野蛮で、それでいて高尚に考えることのできる
洒落が備わっていたら、さぞかし人間らしいだろうなぁと思います。 人間
らしいだろうとは思うものの、その人間らしい姿を体現しようとして、苦悩
し、志半ばに果てたように見える者の何と多かったことか。 我々もいつ果て
るか知れないので、その果てる時に、志半ばでも意を残しているか、残す意は
なくとも志を遂げているかどちらかではありたいものです。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2001年9月7日<金>16時12分)


リンク
 引用してくださって有り難うございました。たった一文であそこまで
書かれると逆に申し訳ない気分。ぼくはただ、死ぬまでラブれ!って
ことだけ言いたかったのでした。でも、ネコも出産すると落ち着いた
目つきになるそうです。だから本能なのかもしれないですね。いやはや。
何にせよ、考える種をまいてくれた事に感謝してます。リスペクトも。
あと、リンクありがとうございます。ぼくも貼りました。相互ってことで
これからもよろしくです。何だかここで浮いている気がする自分。嗚呼。

http://sinaps.tripod.co.jp/

Name : わた Mail : sinaps@geocities.co.jp Time : (2001年9月7日<金>13時00分)


着実な変化・原動力としての異端
John Gallianoという服飾作家とMarc Veyratという料理作家が、それぞれ
の分野を揺さぶっています。 堅気なマダム服を作っていたDiorという服飾
ブランドは、その創設者の名を残したままでGalliano氏を主任に迎えて傾向
一変、かなり突飛な服を世に送り出すようになりました。 Veyrat氏は、
赤ガイド(当地で「赤ガイド」といえば、仏国タイヤメーカのホテル・レスト
ランガイドのこと)で6っつ星を獲得した---にしては、料理は独習という、
野生人。

ロンドンとパリとで美容・服飾の仕事をした経験者はよく、「パリは保守的・
ロンドンは、パリよりは改革的」などということを言います。 彼らによれ
ば、パリにはとにかく美を追究する頑なな傾向があり、その一語に集約できる
ものを追求するが故に一本気となり、全ては「美」の語の前にひれ伏すという
保守性(保美性?)をみせることになる/かたやロンドンでは、追求すべき
ものが一語に集約できるとは考えられていないため、常にアイデア勝負な
ところがあって、主流となるものの姿が常に見えにくい、のだとか。

何事にも美を追究するが故に業界の動きが遅々として保守的に見えるのが
パリなのかもしれないのですが、遅々としている分、懐の深さは大したもの
だと思います。 Galliano氏の主張満載の作品は当初、「フランス服飾界を
下司にする」などと酷評されたり、顧客から品が悪いなどと文句が出たりして
メーカが謝罪騒ぎを起こしたくらいでした。 それでも同氏は毎季、その主張
を爆発させ続けています。 かなり気取った態度のガイド本である赤ガイドで
も、「料理は自分を表現する手段なんだ!!」などとブチ上げては野草を食卓
へガンガン登らせる数寄者をも、登場させてしまいます。

大きな変化をみせない各業界における異端児もが身動きできることで、結局
は、その異端児のチカラをも、業界全体が変化する際のチカラへと昇華でき
ているのです。 そうやってフランスの様々は、年季を重ねつつも、苔むし朽
ちていってはいないというわけです。 最近フランスは結構な平和平穏が続い
ていて、変化や革新への感心が薄れてきているような気もします。 そのよう
な状況下で、さて、どこかに潜んでいるであろう各界の異端児は、どうやって
その姿を世に現してくるか、、、? やはりここでも鍵となるのは、自分の
主張であって、如何にそれを表現するかに終始するような気がします。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2001年9月6日<木>07時34分)


剛毅女と寅次郎男の島-3
島の人にはちょっと愉快なところがあります。 何と言っても「島」という
土地形態が好きなようなのです。 夏場の稼ぎ時には一生懸命(とはいえ、
何だかのんびりして見える)働き、昼間に海水浴もせず(とはいえ、夏場は
日が長いから、終業後に出掛けられる)働き、冬場にヴァカンスに出掛けま
す。 その時、行き先として選ぶのが大抵、どこか余所の「島」なのです。
幸い、フランスが冬まっただ中であっても、その場所は常夏という「島」は
毎年行き先を変えても大丈夫なくらい存在します。 それで、今に世界中の
島という島は踏破するのではないかという勢い?で、「島」から「島」へと
休暇に出掛けます。

この島人の「島」好き・「海」好き話には落ちがあります。 フランス国内
全国ネットのテレビ局が放映する番組に、人間と海との関係を様々に紹介
する番組があって、あるときは漁師の暮らし、ある時は海辺の生物の紹介、
またある時にはタラソテラピーについて、、などと云った具合。 言うまでも
なくこの番組が、島での最高視聴率を毎週マークしているとか、いないとか。

=====
島、などというとどうしても、私のような者には、閉鎖的いう語が頭に浮かん
だものでしたが、とんでもない。 魚を沢山食べるのは日本の海辺地域や、交
通の便がよくて魚が輸送されてくる地域と同様なもので、白ワインとワイン
ビネガでのしめ鯖なぞは大好評。 そもそも食に対して旺盛な興味を示す者が
多いこの国にあって、パリのインテリさんが「ふむ、食は文化ですからね、、
そして日本文化は深いですからね、、、。」などと蘊蓄垂れつつも、ううっと
詰まって箸が進まなくなるイカの刺身なども、島人にあっては、ふーん、そう
いう食べ方もできるのかぁー、、、などという反応でした。 文化云々以前の
ところで食についての話と現実が展開されるわけです。

何事かを頭で考えることはとても重要で、人間には必要な所作であると私は
思うのですが、それと同時に、脳内も筋肉と言われようとも、体感勝負の
本能的生き方も、忘れちゃいけないなと思います。 海をテーマにした娯楽
施設も結構---でも、幾ら「海」好きであろうと、あの島人達は、そこには
出掛けて行かないだろうな。

---おまけ---とってもウマかった、島の名産いろいろ---
半乾燥プルーンに酒や砂糖で風味を加え、サクサクパイ生地の上に載せて焼い
た菓子・同じくプルーンとバターを混ぜて飴のようにしたもの(フランスの
美味しい飴賞受賞!)・また、そのプルーンが太めの豚肉その他色々入り
ソーセージに入っているもの(こんがり焼き色をつけて食べる)・日持ちの
よい、菓子パン風おやつパン(漁師さんが持参して海に出る)・山羊乳の
非加熱チイズ(パリでは喰えない新鮮なウマサ)・マグロの薫製(サク取り
した身から作る)・同じくマグロ肉でのテリーヌ・・・因みに、天然モノの
タイだのスズキだのは一本釣りされたもので、美しかった!

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2001年9月5日<水>05時50分)


名作アルバムで温故知新
名曲アルバムではなく、名作アルバム。 単曲の名曲は数多く存在するのに、
アルバムとして名作という盤は少ないと私は感じています。 アルバムとして
の完成度の高いと信じているものについて書いてみます。 なんだか、たまに
はこんな頭にしないと。 順不同。

--Carole King / Tapestry (1971)
朗らかで田舎臭い、ジンセイの味わい。

--King Crimson / Red (1974)
墓碑代わりにどうぞ。

--Funkadelic / One Nation Under the Groove (1978)
my ice cream is a reality!!!! ---仰るとおり。

--Miles Davis / On the Corner (1974)
これは鬼であり、性であり。

--Talking Heads / Remain in Light (1980)
青少年の育成に欠かせぬ一枚。

--Rolling Stones / Beggars Banquet (1968)
このアルバムの通りのライブがあったら這ってでも行っただろう。

--Japan / Tin Drum (1981)
同名小説も併せて読めば、混乱間違いなし。

--Neil Young / Harvest (1972)
これも、ヒトの味わい(それにしても何故かZappaはモンタナだ)。

*--Ohio Players / Angel (1977)
これは番外編・ジャケットがよすぎる。

こうして書き出してみると、人間の集中力持続時間はlong playerのヴィニル
盤に収まるくらいがせいぜいなのかもしれないと思います。 いや、恐らく
個人差はあれどもヒトの集中力持続時間は一定範囲に収まるというのに、その
時代時代で主流な記憶媒体の記憶容量(単位はmin.で考えると)が、人間の
集中力を強引に自分の側へと引き寄せているのかもしれません。 lp時代人には、「面を替える」というタイミングまで刷り込まれていることを考えると、
昨今の人間がものを考えていないように見える/感じるのは、cdの容量の内に
集中力が平均的に分散された結果、希薄な集中力を表現型としている者が多い
からかもしれません。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2001年9月3日<月>21時45分)


「土人」の国に愛はあるのか(後)
(下からの続き)

結婚しバリバリ働きもし、というためには夫婦別姓を認めるべきという人々の
欲張りな気持ちは理解できます。 しかしそこで、その欲張りは自分だけの
ためであって、他人のためも考えているようには、とてもじゃないけれど見え
ないよと言うと、それらの人々は怒るだろうか? 怒るのであればやはり日本
は、自省なき「土人の国」なのかもしれない。 そして、結婚や出産をした
人々が、爽快な目つきをしなくなるようなところなのかも知れません。 こん
な事を書いたら、何だか落ち込んで来たぞ。 音楽を変えるか。
Heaven, heaven is a place...a place where nothing... nothing ever
happens...なんて背後で謡われちゃ、参るね(参るけれど、世に出てきた頃
のヘッヅをCBGB'sで観てみたかったな!!!)。

欧州ではかつて、審判者の目前で、「土人」と犬だったかとを同じように叩い
たりして、これら両者の違いはなにかと検討した時代があった。 その時の
判断の一部には、確かに「土人」は我々欧州人と同じく人間であるというもの
も存在しました。 しかしそのような判断を下した者は、その判断を下すに
至った根源であるところの意が世の中に広まらない事から、「永遠に迫害され
る少数者」(渡辺一夫氏の言葉)であるとも言えます。 自分たちが考える
「土人」の様を自分達の姿としている者がdominantなことは、今に始まった
ことではないようです。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2001年9月2日<日>00時47分)


「土人」の国に愛はあるのか(前)
何でこういうことを書こうと思うと、ストーンズではだめで、腐れインテリ
トーキングヘッヅ(ここはひとつ70年代の・好き)に落ち着くのだろうね?

=====
少し前に、当所に登場して下さった ワタ氏の、こんな言葉を読みました。

どうでもいいが、結婚や出産後の人の落ち着いた無防備な目つきが嫌いだ。
性を捨てたからだろうか。 (同氏の八月分日記サイト・
http://members.tripod.co.jp/sinaps/diary/008.html)

選択式であったかマークシイト式であったか記述式であったか、昨今の日本で
は、夫婦別姓を現実化する法律を、そういえば、制定しようとしていました。
それで思ったのだけれど、結婚してもバリバリ働きたい、という日本婦女子
(法制定支持者は女に限らないだろうけれど)でこの法の成立を支持する者ら
は、姓を変えずに社会参加していたいのあれば、何故に同棲支援法の制定を考
えないのだろう? 税金の軽減や社会的認知と逃げ出したくなった夫/妻の拘束
を結婚制度の法律によって確約しつつ、自分の旧来の姓から来る対社会的個人
識別の不変をも法で確立しようと云うやや欲張りなものが、夫婦別姓法を支持
する考えのように私には思えます。

別姓論者には、フランスのPACS法を知っている方もお出と思います。 私には、当地でこのような法の背後には、連れ合って居たい者どうしが一緒にいる
ためにはどのような仕組み・法が必要かと考えた形跡が窺えます。 PACS法
の恩恵にあずかる者は、結婚制度の恩恵を二重に受けることはないし、結婚を
選ぶ者にPACS法が邪魔をすることもない。 このような法を制定することに
より、従来の結婚制度で納得できなかった者もが法制度を利用した議論に参加
できるようになりました。 現在検討されているらしい日本での別姓案では、
社会的認知を自らの態度で得、互いに逃げ出す拘束力の無いなかで人間の絆と
でも言えるようなものに基づいた関係を築き、また、自分の旧姓から来る対
社会的個人識別を重要視するが故に税金の軽減には無縁で過ごしている人々は
蚊帳の外に置かれています。 姓を決めるのに、選択式にしようがマークシイ
ト式にしようが記述式にしようが、連れ合っていたい者どうしが一緒にいるに
は結婚!という大前提を見直していない限り、蚊帳の外に居る人間の数は減り
ません。

大前提を見直さず、大前提を信じて疑わない(=自己批判に欠ける・自省の
気持ちのない)頭でもって何かを検討しようという傾向は、この夫婦別姓の件
に限ったことではないように感じます。

(上に続く)

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2001年9月2日<日>00時45分)


剛毅女と寅次郎男の島-2
世界中何処へ行っても、柴又の車寅次郎みたいな男がどうも、居るようです。
自分にこなせることの様々を仕事として持っていて、ある時は船に乗って魚
を釣り上げていたかと思ったら、ある時には大工工事をやっていて、そうかと
思えば山羊の世話でも任せられそう。 でも、どうも連中を眺めるに、せっせ
と働いている様子は皆無で、昼寝をしていたり自転車で忽然とどこかへ消えた
りしてばかりに映ります。 そうやって狭い島の周囲をほっつき歩いているの
が島男なのですが、この寅次郎諸氏の漁の腕前は年中漁師氏の助けになるし、
大工仕事にあっては、修行をいつやった?と問いたくなる程、そしてそして、
料理が上手い。 手荒な男の料理などと言っては失礼な寅次郎スペシャルの
数々。 片づけまで何だか知らぬ間に終わらせてしまいます。

料理が美味しいという一言で、大のオトナの寅次郎男が食卓をひっくり返し
そうになって喜ぶのをほらほらとたしなめるのが、島女。 「ウチの人ったら
ぶーらぶらしているだけでねぇ!」などと言いたげに、夏場の土産店を切り盛
りしていたり。 酒を求めに来たとある寅次郎老人は1フラン所持金が不足で
近所の家まで取りに行き、店主の島女曰く「この人たち(支払いの順番を待っ
ていた我々、他の客)にこの後用事がなさそうで、よかったわねー。」と。
島のことや島人の話をひっきりなしに喋るのも、女ども。 寅次郎男の自転車
にパラソルから食料からタオルからを積み込んで、自分は綺麗な水着で優雅
に海水浴。 海外留学に夢中な娘さんのことを心配しつつも、彼女も島の女だ
から、、、なんて言う。 で、寅のダンナにちょいとウインクしたりもする。

狭いところで複数の人間がお互いに気分好く過ごそうとすれば、自ずからその
場で大切な事柄は何なのかと、人々に認識できるのでしょうか。 島でも勿論
金銭が仲介する価値の取引が行われるのだけれど、島でのカネは、真に価値の
仲介であって、守って貯めて増やしてニヤリと笑う対象ではないのです。 ま
た、この国の首都にあっては何か事ある毎に連呼される「自由・平等・博愛」
のスローガンも、島では連呼する必要が無いように感じました。 都市部の
人間が大革命でこのスローガンを仕入れる以前に、彼の小さな島では、その
精神が、無言のうちに人民の間に浸透していたのではないかと思えたからで
す。 スローガンを唱えるより先に、自分たちを取り巻く環境を察知して、
うまく生き延びることが先決だったのではないでしょうか?

首都では最近見かけない光景、日曜日の教会の賑わいは島に於いては健在で
した。 しかしそうやって毎日曜日に教会へ通う老島女は、幾ら神に祈っても
荒れ狂った海が漁師を島に帰さない事があるのを知っているし、教会に出掛け
ない島男も、沖で外国船が事故に遭った時の救助で亡くなった知人の冥福を
祈ります。 自分たちが無批判に受け入れられる物事とは、人間の思考範囲を
越えたものであって、宗教はしばしば人民の疑問を浴び、ムラの掟もまた、
ムラびとによって改訂され続けたのだろうなと思います。 ここでもまた、
現実を直視せずに人為的なココロの拠り所をあてにする以前に、自分たちを
取り巻く環境とうまく共存して、どうにか生き延びることが優先されたのでは
なかったでしょうか?

(懲りずにもう少し続く・続行は気にせずに投書して下さいね)

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2001年9月1日<土>19時59分)


剛毅女と寅次郎男の島-1
ゆきのじょうさん、書き込みをして下さってどうもありがとうございます。
貴投書『科学という宗教』へ対応させるには強引すぎるような気もしますが、
先に過ごした休暇のことを書いておきます。

=====
休暇には、仏国大陸部分からさほど遠くはないものの架橋されていない、
大西洋上の離島に出掛けていました。 車も詰み込める連絡船では、一時間以
上かかって渡るようなところです。 夏場には人口が夏以外の時期の5倍に
膨らむというこの場で島民が金銭的収入を得る術には、島周囲で漁をして売る
か野菜をつくって売るか夏場の観光関係(運輸・案内・食事・宿泊)に携わる
か、島内の手入れ(建築工事)を行うか、といったところが挙げられます。
それで、これらの術は殆ど自営に立脚しており、島内には会社と名の付く組織
が存在していないように見えました(それで私は、「会社」の定義を考え直し
た程です)。 島には高校が無く、学生は大陸側で島に近いところにある学校
での寄宿生活を送り、週末に、島民特別料金の連絡船で島に戻ってきます。

大陸からの遠隔地ということで、電話利用契約の基本料金が高かったりする
などと聞き及び、また、大陸側にはパリのような魅力的な都会がある事から、
この島は人口の過疎化に悩んでいるのだろうと私は思いこんでいました。 確
かに老人の島内人口に占める割合は高かったように見受けましたが、それでも
過疎化しつつある島とは言えなさそうでした。 島で生まれて島に育った者が
島から少しの間離れても戻ってきている様子でしたし、島育ちでなくても移住
してくる者や、大陸と島を頻繁に往復する生活をする者が居るようなのです。

私には、この島での人々は、離島という事実からくる物理的な限定と共存して
いて、しかもその限定が人間にとって好ましいものと言わしめるような生き様
をしているように見えました。 人間文明の中心地である都会からの遠隔地・
地理的に閉鎖された地域という語からはどうも、知的活動の低迷とか思想的閉
塞などという事柄を連想しがちです。 ところがあそこの人々に於いては、島
に生きる人間の知性(この場合、知恵ではない)と思想が備わっていて、低迷
(=何かに比して低い、ということ)であるとか閉塞(=何かに比して閉じて
いる、ということ)という物言いが無効なのでした。 私は、パリ(大陸)と
島とを比較することをどうも行っていて、行っているはよくても、行った末
に、高低とか開閉などという結論を、その比較の先に予測していたのでした。
比較という所作は、その先に違いを見出しても、違いを形容するためのもので
はないと、私はまたしても思い知りました。

(明日以降に続く)

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2001年8月31日<金>04時06分)


科学という宗教
まいさん、こんにちは。

少し古い話題になりますが、科学という世界で巷を賑わしたニュースとして、
代理母との契約上のトラブル、そしてクローン人間研究計画への批判がありま
した。

これらのニュースと、その解説らしき記事を国内外読んでいますと、私たちの
行動規範というか、倫理というか、そういった基準がいかに曖昧となっている
か、という事実と、その曖昧さについて思考停止したあげくに科学に対する信
仰という視点が用意されてしまっているということが共通していると感じます。

私たちの行動規範というものは、以前は「ムラ社会の掟」であったり、宗教の
戒律であったりしたわけですが、そういうものは無批判的に存在し、誰もが疑
いを持たぬように存在していたと思います。

しかし、世界観が広がり、いろいろな「無批判に存在する決まりごと」がある
ことで、私たちは何か共通な規範めいたものを、一方において求めだしたのか
もしません。実際のところ、私たちに求められていることは「多様性への理
解」であったと思うのですが、発想は「多様性からの共通なものの抽出」に向
かったと考えるのです。科学はその究極の形態(というか方法論)であると思
います。

この囚われ方においては、科学も、それを批判するアンチ科学という立場も、
同列であり続けるのでしょう。代理母出産を批判し、クローン人間をただただ
倫理上問題があると騒いだところで、所詮は代理母の必要性を主張したり、ク
ローン人間を推進する人間と発想の根元は変わらないように思います。

まず科学という宗教、客観性という迷信、共通なものがあるという幻から、離
れてみることが必要なのではないでしょうか。


Name : ゆきのじょう Mail : yukinojou@clubaa.com Time : (2001年8月30日<木>20時53分)


再々再々再々度、議論について
このままいきなり休暇での事など書きますと、締まりがないように感じます
ので、毎度のネタにて恐縮ですが、以下を続けます。

=====
顔突き合わせて、電話で、往復書簡で、ネット上で、、、等々、手段を選ばず
に議論が出来るようであれば、人間の知性は発展するのだと私は考えます。

議論を成立させる要因のうち、logique(=論理、としておく)は、とても
重要なものです。 感情の動きを極力排除した、物事の筋道を見定めるという
試みの後に、それは筋道が整っていると判断できるものが、論理的である(
logiqueである)と判断されます。

こう書くと、論理的という判断を下すのは、感情に動きのない理屈処理が得意
な者であるかのように読めますが、感情に動きのない理屈処理が得意な存在
であるコンピュウタのlogiqueは、ヒトのlogiqueとは異なります。 ヒトの
logiqueにおいては、理屈処理に於いて感情の動きを極力排除することが求め
られると同時に、物事の筋道という、理屈では説明しきれずに感情の動きを
必要とする対象についての判断が求められるのです。

つまり、実りのある議論を現実のものとするには、豊かな感情の動きと冷静な
理屈処理が必要だということになるのです。 顔を突き合わせていようと、気
心が知れた者どうしの間であろうと、豊かな感情の動きと冷徹な理屈処理の
やりとりである議論は、簡単なものではありません。 議論にならないという
場面にはよく出会います。 議論にならない/議論が進まないという場合、それ
は、その議論の参加者が議論が出来ない者であるからだと私は感じます。 飛
び箱が跳べるか跳べないかと同じ事で、議論/跳び箱ができないから、先へ進
まぬだけです。

この手段では議論が困難であるなどと危惧する以前に、自分は議論をヤル気で
いるのか、振り返ってみましょう。 議論に対するヤル気があれば、その場に
は豊かな感情の動きと冷静な理屈処理が必要なことは自ずから実感できること
と思います。 妙な話、故人の著作とでも、議論は可能なのではないかと私は
考えることがあります。 故人の書き残した文章との議論の末に生み出された
ものが自分が書物から学んだ何事かである、と言えるような気がするのです。

大いに議論しましょう、皆様。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2001年8月29日<水>07時03分)


**休暇のお知らせ 他**
当所をご訪問下さってどうもありがとうございます。 ついこの間まで体調が
云々などと言っては更新が鈍っておりましたところへ来て、今度は休暇に出ま
す。 愛機はこの度は留守番なので、その間ネットとは無縁の生活をします。
さて、今回の友は以下の通り。 帰巴里は27/8です。
書籍
白州正子 著 『西行』(1988)
木村雄吉 著 『ギリシアの生化学』(1975)
ディスク
ネーネーズ 『オキナワ』(2000)
Bill Evans 『Alone』(1970)
George Clinton and the P-Funk All Stars
『Live...and Kickin'』(1997)

=====
現代社会には、人間が人間をなかなか信用しないて居て当然という風潮がある
ようです。 そのようなことを感じながら開いた渡辺一夫氏の著作の前書き
は、その著作を世に送り出す際の著者を含む中心人物にしか解らぬことを書い
た結びとなっていました。 仰せの通り、確かに私には解らないと思っていた
ら、直ぐ後に、その結びの事情を解っている人物の註が小さめの活字でもって
添えてありました。 その頁の活字が占拠していない白い部分に、優しさとい
うか暖かみというか、決してホンワカしたものではないのだけれど、とても
繊細で美しいものをみました。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2001年8月18日<土>06時16分)


Re: 書評拝読(5)
粥川さんの「思想」を、ばんまいが推測して書き、批判したことについて。

御著書に書いても居ないことを推測して書かれては違和感がある、というお気
持ちは解ります。 解りますが、私はヒトの書いた書物に、常に書き手の思想
を読みたいのです。 自分が書く文章にあらわすものは、自分の思想であると
私は思うからです。 確かに粥川さんは、私はこういう主義思想であるとして
明確に、また、分量的にもご自分の主義思想を先の御著書に書いてお出ででは
ありません。 明確に書かれていなくても粥川さんの御著書は粥川さんの主義
思想を語っているはずと私は思いますので、著者に対する敬意を表せる書評
を、と自分で思ったとき、その力作に著者氏の主義思想まで読みとろうと努力
した、ということを読みとって頂ける書評にしようと思いました。

私の読みとった内容が、粥川さんご自身の考える内容とは大きくかけ離れてい
たのかもしれないのですが、私如きの者の読みとり結果としての書評にも存在
意義はあるだろうと、先述のように自分では納得し、依頼を受けました。
「なぜか」推測された、という書き方をなさっていますが、著作を読んで、
その著者の主義思想を汲み取ろうとしない読み方こそ、私にしてみれば著者に
対して失礼です。 その点で、署名のない記事や、投稿者が特定できない投書
とは、読みとるべき主義思想の発信者が不明確となってしまっているので、
残念な存在です。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2001年8月17日<金>09時59分)


Re: 書評拝読(4)
「専門外書籍」について。

科学論と呼ぶべき書物には含まれる、との御主張ですが、「論」とは、「自分
の考えらしきこと」を指すと私は考えます。 従って、御投書(5)で仰るよ
うに、ご自分の考えらしきことをあまり書き込めなかった文章であるならば、
私は、その文章を「論」とは捉えません。

==========
「精確」さについて私が不満に感じた、と書いたことについて。

私が拙稿にて「正確」と使わずに「精確」と使った背景には、専門用語や表現
の用法の基になる定義にあっては、生命科学者どうしでもその内容が異なって
くる、つまり、「正しい」定義は存在せず、「なるべく観察できる事柄に大し
て適切な語を用いた=精確な」定義ならやろうと思えばできるだろう、という
考えがあります。

この背景をもった頭で貴著書を読みますと、私には、もっと適切な語を用いる
ことも可能であると読める部分が見出されました。 それで、「不満が残る」
という、極めて感情的な書き方をしてみました。 感情的な書き方をすること
によって、この不満は評者である私に特異的なものであって、書評を御覧にな
る方々に対して、御著書にあることがらが間違いであると指摘した書評である
と読まれないように配慮したつもりでした。

==========
「断定的」について。

粥川さんの批判的姿勢は、私如きにも読みとれます。 しかし、何度も書き
ますが、先の御著書からは、粥川さんのお考えがいまひとつ読めないので、
批判的立場にご自身を置いてお出でであるとは解りますが、何を見据えての
御批判なのかが読みとれませんでした。 とはいえ、粥川さんのお考えとして
書かれている文章は随所に見出せ、その文章中に、「究極」「無限」の語が
使ってあったことから、著者の言が往々にして断定的、と書きました。 理論
書・推論を表現した書・仮説や仮定を表現する文章でないならば、私は、
「究極」や「無限」は、使うべき語ではないと考えています。 「究極」や
「無限」は、現実のものではないと考えているからです。 ものの喩えとし
て、無限的に増殖する細胞、とか、究極的技術、という表現はできても、やは
り、究極の技術や無限に増殖する細胞、という書き方は断定的であり、精確で
はないと私には読めます。


Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2001年8月17日<金>09時58分)


Re: 書評拝読(3)
自らを他生物と違って高尚な存在であるとみなしている人間と机上論と私が表
現したものが何を指すのかということについて。

粥川さんの御著書の終盤のふたつの章(新聞掲載分では、「ふた章」ではなく
「ふたつの章」になっている)から私が読んだことは、日本の当該問題関係者
が、人間以外の動物に対して現在行っているような生命の資源化を、人間には
適用しないようにと法律を整えているつもりになっている、ということです。
従って、拙稿における「自らを他生物と違って高尚な存在であるとみなしてい
る人間」は法律を整えて居るつもりになっている当該問題の関係者です。
また、「机上の空論」とは、人体の資源化に歯止めをかける目的があるという
のに、先に述べたように人間至上の考えを自覚しようという自省の気持ち無し
に、法律によって目的を達成しようとしていることが机上論であり、そして
粥川さんの御著書にあるように整えて居るつもりの法律が穴ぼこだらけなまま
であることがその机上論を空論としている、という意味で書きました。

=====
粥川さんの御投書(3)にて私が残念なのは、よって僕は「人間至上」主義者
ではない、というご主張です。 人間至上なだけではない、と読んでいたら、
私は少し安心したことでしょう。 先に述べましたとおり、私は、自分の持つ
人間至上の考えを痛感していないように見えた(感じた)者に対して、それら
の者においては人間至上の考え以外に非自己に対して気遣う姿勢が感じられな
い、という意味で、彼らの思想には人間至上の考えが読める、と、書きまし
た。 何故に残念かといえば、粥川さんの御投書にある最後の主張が、私が
「人間至上の考えが読める」として指摘したつもりであった人々、つまり、
自分の持つ人間至上の考えに対して充分な自覚と痛感が無い人々の主張のよう
に読めてしまうからです。

生命科学者のなかにあって、私が自己批判の必要性を説いても大して賛同を得
られないと同様に、自分の中に必ずある人間至上の考えを痛感せよと私が説い
たところで、やはり賛同の声は大してあがらないのかもしれません。 しか
し、私は、人間の存在には自己批判が必要であると考えていますので、その
ことを説きたく、先の書評にもその気持ちを込めたつもりでした。

また、私は、現行勢力や現時点で主流な考えに大して批判的であるだけでは、
その批判を高く評価しません。 何をその批判の先に見据えているのか・如何
なる主義主張に基づく批判なのかが読める批判でないと、絶賛できません(何
度も書きますが、私如きの読解力は、読解力の最低程度の基準になります・
ものを書く場合、私であれば、読解力の最低程度の基準にある者にも解るよう
に書きたいです)。 もしかしたら私の態度は、かなり高い理想に基づいたも
のであると言え、また、世に出回っている言論に対しては厳しい見方なのかも
しれません。 しかし私は、自分のこの基準を基に、このような場や、ありが
たくも与えられた先の書評の機会を通じて、高い理想や厳しい見方の大切さを
主張したいし、自分にできることとはその類の主張である、と、今は感じて
います。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2001年8月17日<金>09時08分)


Re: 書評拝読(2)-2
(すぐ下からの続き)


自分における人間至上の考えを自覚/痛感しているということは、粥川さんも
書いていらしたように、現時点に於いて他生物よりも人間を優先的に扱うのは
やむを得ない・そして私は更に、そのやむを得ない様は、暫定的に、などと
言ってはいられない状態である(どの生き物も知らぬ間に自分優先にするよう
だから)ことまで認識していることを指すと考えています。 その自覚/痛感が
あれば、人間は、自分たちに対して自虐的になることなく、地球上の生態系の
一部としてうまく存在する路を考え出させる・実行できることと考えます。
うまく存在するための路、という点では、粥川さんの挙げていらした科学に
おける生き物の利用も、先進国における食料摂取の現状も、森林伐採も、海洋
上での船の航海や事故も、、、考えを巡らす対象になると私は思います。

人間至上を確認して自虐的になるのではなくてこの先「どうしたらよいか」と
いうことへの私の考えは、当所への拙投書『書評を書いた』に、書きました。
それにしても、こう書いては私が卑屈になっていると読まれそうですが、今回
の書評を、私のような不勉強で読解力・表現力の無い者が担当してよいもの
だろうかと、私は私なりに考えました。 考えた結果、私程度の者が読んで感
じることを書評として世に公開する事には、しっかりした方々による書評の存
在と対照的な点が出るだろうから、それなら私が書評を書く意味はあるだろう
と自分では納得しました。 ただ、幾ら稚拙で読解力に欠けた上のものであろ
うと、自分の読後の感想と意見は明確に表現したいと強く願い、努力したつも
りではありました。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2001年8月17日<金>09時07分)


Re: 書評拝読(2)-1
私が粥川さんの御著書に人間至上という考えを見出した、その根拠について。

私には、貴著書からは、「ほかの生物よりも人間を少し優先的に扱うのはやむ
を得ない、と現段階で暫定的に考えている」という粥川さんのお考えが読めま
せんでした。 下さった投書中でご指摘だったp. 62の最後の3行では、仰せの
通り、ご自身のお考えを読ませるのに、少なくとも私程度の人間には不充分で
あると考えます。

=====
人間至上という考えは、私にもあります。 人間ばかりではなく、他の生き物
においても、豚至上だろうし、蠅至上なのだろうと私は想像します。 生物が
自分の種を保存しようとするtendency(=意識した結果としての傾向、では
なく、知らぬ間に・無意識に形成される傾向)は、全ての生き物に備わって
いると私は考えているからです。 このように生物学的に表現せずとも、人間
至上=自分可愛さ、とも言えます。 ですから、もし私がどなたかから、ばん
まい は人間至上の考えを持っている、と指摘されても、私は当惑しません。
当惑はしませんが、私は人間至上と同時に、他の考えも持っている、と主張し
ます。 粥川さんも、他の考えも持っている、と拙所への御投書で主張した際
のお気持ちは、同様だったかもしれませんね。

非自己のことを気遣う気持ちが、せめて自分の気遣いの総量のうち半分を占め
るようでありたい、と、私は常々考えています。 難しいですが。 ですから私
達人間は、先ず自分たちの人間至上の考えを確認するところから始めないと、
非自己のことを気遣うなどという芸当はでき得ないと私は考えます。 それ
で、先の書評においては、自分の持つ人間至上の考えを痛感していないように
見えた(感じた)者に対して、それらの者においては人間至上の考え以外に非
自己に対して気遣う姿勢が感じられない、という意味で、彼らの思想には人間
至上の考えが読める、と、書きました。

(すぐ上に続く)

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2001年8月17日<金>09時06分)


Re: 書評拝読(1)
粥川さん、書き込みをして下さってどうもありがとうございます。

金森修氏 著の『サイエンス ウォーズ』にまつわる論争と同様の科学者 対
科学論者との論争という図式が、貴著書に対する評価にもあてはまるのかも
しれない、という点について。

私は、ジャーナリストである粥川準二さん・科学史家である金森修さん・生命
科学者であるばんまい、という表現を、自分では使いません。 粥川準二さん
(ジャーナリスト)・金森修さん(科学史家)・ばんまい(生命科学者)と、
したいです。 このような表現をひねり出す頭を持った私には、金森さんの
絶賛評とばんまいの辛口評とは、金森さんと私の感想の差違であるに過ぎず、
科学者 対 科学論者という図式に拡大・adapt(=対応)させて欲しくはない
と感じます。

科学者稼業の者のほぼ100パーセントは貴著書を批判/罵倒するであろうと推
測なさる根拠が如何なるものなのか、頂戴した投書からは読めません。 読め
ていないうえで私の考えを書いてしまいます。 私と似たような書評を貴著書
に対して書く生命科学者は少ないだろうなと、私は予測します。 そう思う
根拠は、金森さんが評価なさった(貴HPで読んだことを根拠に書いていま
す・金森さんの書評は読んでいません)ように、貴著書は、昨今の生命科学界
の動向に対して批判的なものであると読め、その批判対象である動向を形作っ
ている生命科学者にしてみれば、自分たちの目指すものに対して批判的である
と読めるだろうと私は思うからです。

生命科学者を全員ひとからげにすれば私もその中に含まれます。 それで、
そのからげたものに見出せる顕著な動向を書き出せば、粥川さんの御著書での
批判対象と同一のものとなるでしょう。 私は、そのひとからげの中にあって
も、自分たちの動向に対する批判はありがたいとして受け止めます。 むし
ろ、自分らで自分たちの研究の方向や傾向に批判的でいられなくてどうする、
と、私は考えています。 私のような、自己批判の必要性を説く科学者には、
私は余り出逢ったことがありません(自己批判の必要性において意見が一致す
る人には科学者に限らず余り出逢わない)。 余り出逢わないという経験も
また、他の生命科学者は私が書いたような書評を書かないだろう、という私の
予測を支持しています。

=====
過去の拙投書『くろなーじゅ』を書く発端となった議論においても、その場に
いた者のなかに、私の発する意見は科学者の意見であるとしてかみついてくる
者がいました。 それは ばんまい の意見、そしてその ばんまい は(たまた
ま)科学者、という順番で人の話を聴けないのです。 「科学者はさ、ヒトの
複製をやってみたいんでしょ?」と、何度も訊かれました。 せめて、「ばん
まい はさ、科学者としてはヒトの複製をやってみたいんでしょ?」とでも尋
ねて欲しかった。 私は世の科学者諸氏の意見を代弁する者ではないし、代弁
なぞできないし、する気もないのです。

=====
日本の政治家の「公人/私人」論争と似て、私の発言を、科学者だから・科学
者ならでは、として捉えることは、何も生まぬ議論であると考えます。 先の
書評を書く頭を持った者が科学者をやっていることは、好ましいと言えるかど
うか、ならば議論に耐えると思います。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2001年8月17日<金>08時59分)


書評拝読(4)
(3)「幾ら専門外書籍とはいえ、また間違いではなくとも、専門用語や表現の用法上での精確さに不満が残ることや、生命科学に馴染みのない読者に対して親切であるとは言えないことが気になる」
「専門外書籍」とありますね。拙著は生命科学の専門書ではありませんが、科学論(科学社会学、科学政策論、生命倫理学、科学ジャーナリズム .etc)の専門書には含まれるでしょう。
 僕は過去に何度か科学者などから「非科学的だ」と罵られたことがあります。それは判断の根拠を「自然科学」にのみ求めているから、彼らにはそう見えるのでしょう。生命科学に門外者が口を出すのは、ご不満ですか。
 事実関係に大きな間違いがあったら具体的にご指摘下さい。小さな間違いはすでに何人かの方から指摘されています(「ドーパミン神経」は「ドーパミン産生細胞」のほうがいい、など)。また、「表現の用法上での精確さに不満が残る」とありますが、そのレベルになると、生命科学者どうしでも定義が異なってくるよう。専門用語や表現の用法の間違いを多少ご指摘いただいたとしても、それは次の版で訂正すればいいことだし、科学者と科学論者との立場の違いが鮮明になるだけですよ。
「生命科学に馴染みのない読者に対して親切であるとは言えない」というのはその通りです。何人もの人に指摘されました。反省し、今後の課題とします。
(4)「また、記事に添えられた著者の言が往々にして断定的なことが、生命の存在自体が不可思議であやふやな部分を多く持っていることに対してしっくりとしない」
「生命の存在自体が不可思議であやふやな部分を多く持っている」というのは僕もその通りだと思っており、だからこそ、技術面及び倫理面のマイナス面(リスク)を表に出さすに推進しようとする研究者や政府、産業界を批判したのですが。「断定的」なのはむしろ彼らで、僕はむしろ迷いながら書いています。僕が「断定的」であるというのは、どの部分で、どういう意味なのかがまったく不明です。
http://www.jca.apc.org/~kayukawa/

Name : 粥川準二 Mail : kayukawa@jca.apc.org Time : (2001年8月17日<金>08時01分)


書評拝読(5)
 ……といいつつも、8月13日付のばんまいさんの書き込み、つまりばんまいさんのお考えの大枠については、僕はそれほどの異論があるわけではありません、不思議なことに。(ちょっと聞きたいことはありますけど……。)
「他の生物に対する資源化の過程での生命軽視を自認しよう」ということは、たとえば集約的な農業や畜産、林業を反省しなければならないということであり、「緩めた結果の弱者だけが苦しまないように気をつけよう・苦しんでいたら、その苦しみを理解するよう努めよう(苦しむ者は必ず出る)」というのは、たとえば食料生産効率が落ちたとしてもそのツケが社会的弱者にしわ寄せされることは絶対に許されないし、そのさいにはなんらかの対策が必要であるということでしょう。
 僕が、ばんまいさんの拙著への書評に違和感を感じたいちばんの理由は、僕が書いてもいないし、表明してもいないこと、つまり僕個人の「思想」を、ばんまいさんがなぜか推測して書き、批判したからではないでしょうか。僕は、拙著では自分の考えらしきことをあまり書いておらず(書けなかった)、むしろそのことが拙著の欠点なのですが。
 とりあえず、ここで切ります。
http://www.jca.apc.org/~kayukawa/

Name : 粥川準二 Mail : kayukawa@jca.apc.org Time : (2001年8月17日<金>08時00分)


書評拝読(1)
 ばんまいさま。『ACT』における書評、拝読いたしました。ありがとうございます。同紙がばんまいさんに書評を依頼したことを知った時点で、ホメられることは期待していませんでした。『週刊読書人』では科学史家である金森修さんに絶賛され、こちらでは生命科学者であるばんまいさんに辛口で評されたのは、ある意味で、整合性がとれているなと思いました。この本が何人の生命科学者に読まれているかは知りませんが、もし読んだとしたら、彼らのほぼ100パーセントは拙著を批判(罵倒?)するでしょう。一方、生命倫理や科学論をやっている人たちからは、かなり好意的に評価していただいています(こちらは推測ではありません)。ばんまいさんは、「サイエンス・ウォーズ」と呼ばれる論争をご存じですか? 一言でいえば、科学者 vs 科学論者との論争なのですが、拙著に対する評価もこの図式にあてはまるのかもしれません。
 さて、ネット上でお互いの本意をどこまで理解し合えるか(伝えられるか)、あるいはそもそもネット上で有意義な議論が可能なのかどうか、非常に心許ないのですが……。
 以下、書評に対する反論などみっともないのでしないほうがいいかもしれませんが、ばんまいさんには当方の意見をお伝えしたいと思っておりますので、あえて書かせていただきます。(もちろん、書評していただいたことは感謝おります。蛇足か)

http://www.jca.apc.org/~kayukawa/

Name : 粥川準二 Mail : kayukawa@jca.apc.org Time : (2001年8月16日<木>22時52分)


書評拝読(2)
(1)「著者の生き物の生命についての考え方には、著作中に登場する諸バイオテクノロジー関係者と共通のもの---人間至上という考え---を感じる。」
 いきなり著者である僕自身の思想への言及がなされています。僕が、ほかの生物よりも人間を少し優先的に扱うのはやむを得ない、と現段階で暫定的に考えていることは事実です。ただし「暫定的に」です。僕は、生命操作について考えるうえでは「動物福祉」という概念が重要なポイントの一つになると考えています。つまり、他の生き物、とりわけ動物の立場をどれだけ想像することができるか。とりわけ欧米でも泥仕合となっている動物実験をめぐる論争は示唆的でしょう。僕はいまのところ肉食者で、動物実験の全廃論者でもありませんので、アニマル・アクティビストからは甘いとみなされるでしょうが、人間の都合のみで繰り返される(生命軽視のみを助長する)無駄な動物実験はできる限り減らすべきと考えており、また、過剰な動物実験を必要とするような科学技術(タバコ、軍事はいうまでもなく、食品、化粧品、医薬品、医療技術の一部)への批判的視点も重要だと考えています。
 だから「人間至上」といわれてしまったことには当惑しました。以上のことは、拙著ではp62に、わずか3行でまとめて書いただけなので、不充分だとは思いますが。
http://www.jca.apc.org/~kayukawa/

Name : 粥川準二 Mail : kayukawa@jca.apc.org Time : (2001年8月16日<木>22時51分)


書評拝読(3)
(2)「自らを他生物と違って高尚な存在であるとみなしている人間」
 とありますが、この「人間」は、「著者(=粥川準二)」それとも「人間一般」を意味するのでしょうか。
「机上論によって他生物に対すると同様の扱いを自分らに適用せぬようもがいている様が、本書終盤のふた章に明らかである」
 と続く文中、「机上論によって」とは何のことでしょう。「本書終盤のふた章」というのは拙著7章と8章、つまりゲノム解析研究やクローン技術への国家の規制体制を批判した章で、僕が最も力を入れて書いた章のことですね。僕はこの章のみならず、本書を書くに当たって行なったことは、研究者へのインタビューであり、論文や公文書など資料の分析であり、審議会や国会の傍聴ですが、それらのフィールドワークを除外すれば、僕の考察はただの「机上論」でしょう。僕は科学者ではなく、実験には従事していないので、それ以外のことはできません。そうしたフィールドワークや考察に意味がないとすれば、実験に従事する科学者(当事者)のみが、机上論ではない有益な議論をすることができる、ということなのでしょうか。そうとは思えないのですが。
「他生物に対すると同様の扱いを自分らに適用せぬよう」
 と僕が考えているとのことですが、これも半分ぐらいしか当たっていません。あえていえば、「石油や石炭に対すると同様の扱い(=資源とすること)を自分らに適用せぬよう」考えています。というのは、食品供給は事実上すべて産業化されているので、われわれが口に入れている植物も動物もすべて産業資源化されています。有機農業とか自然食品とか菜食主義などには重要な視点があると思い、多くを学びつつも、僕はそれらの思想をいくつかの理由で全肯定はできません。また、食品などの産業化のあり方に対する批判はできても、自給自足に戻れとは主張できません。僕自身がベジタリアンでないことは前述の通り。
 また、特許だけについていえば、僕は人間のみならず、すべての生命特許に批判的です。
 よって僕は「人間至上」主義者ではないし、「自らを他生物と違って高尚な存在であるとみなしている」わけではありません。(蛇足ですが、僕は環境問題についての記事も数多く発表しています。ばんまいさんがご存じないのは仕方がないのですが。)
http://www.jca.apc.org/~kayukawa/

Name : 粥川準二 Mail : kayukawa@jca.apc.org Time : (2001年8月16日<木>22時50分)


書評が世に出た
先日書いた書評が世に出ました。 掲載されているのは、『ACT』という
新聞の8月13日発行・第151/152合併号です(アクト新聞社 発行)。 この
新聞のウエブサイトは次の通り。 ウエブ上では新聞記事の抜粋が読めます。
http://www.jca.apc.org/act/
提出した原稿には書評のタイトルを下記にあるように付したのですが、掲載
されたものにはタイトルが添えられていませんでした。 段落の組み方と、
言葉遣いの一部が原稿と異なって掲載されています。 以下は新聞社に送った
原稿です。

=====
書評・粥川準二 著『人体バイオテクノロジー』 宝島社新書
「自分の持つ生命観と向き合うきっかけに」

ヒトという生き物は、この世に存在するヒト以外の生き物
よりも複雑な心身の働きを備えていると言えるかもしれない。
しかしその複雑さは、他の生き物よりもヒトが高級で優秀で
尊い生き物であることと直結できない。が、現代の人間は、
そこを直結して疑わない。本書は昨今の生命科学界の動向に
対し疑問を呈するものではあるが、著者の生き物の生命につ
いての考え方には、著作中に登場する諸バイオテクノロジー
関係者と共通のもの---人間至上という考え---を感じる。
本書にあるような人体資源化への危惧の根底が人間至上とい
う考えでは、その危惧は今に現実の恐怖となるであろう。

自らを他生物と違って高尚な存在であるとみなしている人
間が、机上論によって他生物に対すると同様の扱いを自分ら
に適用せぬようもがいている様が、本書終盤のふた章に明ら
かである。これらの章に頻出する語を理解する補助になるの
がこれら以外の章であろう。しかし、その補助的章における
記述では、幾ら専門外書籍とはいえ、また間違いではなくと
も、専門用語や表現の用法上での精確さに不満が残ることや、
生命科学に馴染みのない読者に対して親切であるとは言えな
いことが気になる。また、記事に添えられた著者の言が往々
にして断定的なことが、生命の存在自体が不可思議であやふ
やな部分を多く持っていることに対してしっくりとしない。

本書に興味を持って手に取ったのなら、人間のおごりを暫
し冷却した後で、生命とは、ヒトとは一体何であるかという
ところから自分の考えを膨らませてみて欲しい。その自分の
考えと本書の丁寧な取材結果が絡み合ったとき、私達にはやっ
と、昨今のバイオテクノロジー旋風に自らが吹き荒らされる
がままにしない為の準備ができたと言えるだろう。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2001年8月15日<水>04時04分)


書評を書いた
とある書物に対する書評を書きました。 そろそろ掲載かなと思うのですが確
認できていないので、その評はまだ掲載しないでおきます。 補足のように書
きたいことを、今日はここに書いておきます。

多分、以下に書くようなことを理論的かつ過去の論や文献の支えを付けながら
書けば「実践的理論書」になるのかな?などと偉そうにも思います。 そう
いう類の文章は政治家や学者の間に流通させるとして、私は、多くの人に理解
できる平易な言葉で、これから我々はどうしたらよいだろうという方針を打ち
出したくなりました。 その方針にあっても、知識を先ず取り込むことを必要
としない(知識が備わっていることは歓迎するとしても)で、多くの人が考え
られそうなこと・実行できそうなことであった方がよいように感じます。

書評をしたこと・ヒトの複製の話が頻繁に流れるようになってきたことを受け
て、何だかごじょごじょ言ってばかり居られないなという気がしてきました。

以下は(フライングか?)書評に際して私の中にあった考えです。
=====
我々が人間以外の生物を資源として扱い、その生命を軽視する態度をとり続け
る以上は、幾ら人間至上を掲げようとも、同じ生き物に対する扱いとしての
人体の資源化は免れ得ないと私は考えています。 しかし、免れ得ないからと
放っておくのも情けない。 かといって、ここまでエネルギーを消費しないと
維持できない存在になった人間を、人間以外の生き物をエネルギーとせずに
存続させることも困難です。

では、どうするか。

我々は、
*先ず、他の生物に対する資源化の過程での生命軽視を自認しよう
*その自認は、我々への自虐に発展させるのではなく、他の生命を尊重する
チカラにしてゆこう
*次に、我々自身の持つ人間至上の考えを緩めよう
*緩めた結果の弱者だけが苦しまないように気をつけよう・苦しんでいたら、
その苦しみを理解するよう努めよう(苦しむ者は必ず出る)
*そして、その時点で自分が「大切だ」と思えるものを二つ、挙げてみよう
(一つに絞らないところがミソ)
*挙がったら、それを自分以外のところへ表明しよう

その表明が、今後どうするとよいか、の指針を打ち出すことでしょう。 どの
ような指針になるかは現時点で私には判りません。 しかし、こうでもしなけ
れば、何かがどこかで知らぬ間に決まって知らぬ間に展開するだけです。

私は、このような「どうするか」を打ち出す以上は、自分以外の方がこの
「どうするか」を実行するお手伝いはします。 お手伝い、というのは、私が
何かを入れ知恵するのではなく、議論によってご自分の考えを固める際に議論
の相手が出来る、ということです。 勿論、自分でもこれらの実行は簡単では
ありません。 しかし、何もしないではいられませんよね、もう。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2001年8月13日<月>06時11分)


伝わる先を見据えているか
職人 さん、書き込みをして下さってどうもありがとうございます。 議論につ
いては職人 さんの仰せの通りで、世の多くの人が仰るように考えていたら、
内閣支持率が10%以下から85%へ移行なんてことにならんだろうと思えます。
私はこのような個人の趣味の範囲を超えない場所で議論の必要性を説いてい
て、説いていることが現実化してきているので、自分の行動が世に議論を起こ
す事に対して効果的だ、と感じるにはチト遠いかなという気がしています。
かといって、不特定大多数の者を相手に想定した意志の伝達手段によって伝達
されている気になっている事柄が、世に議論を巻き起こしているかと言えば、
そちらもまた同様に、効果的と言うにはチト遠いかなという気がしています。

=====
英国はオックスフォードという土地のオックスフォード大学地区を訪れて感じ
たのは、これだけの規模でこれだけの教育を提供しておきながら、その場から
その教育が目指した結果と言えるような人材は恐ろしく少数しか育っていない
ということです。 「下手な鉄砲でも数を打ちゃとにかく的には当たるだろう」
ではなくて、「幾ら上手な鉄砲でも数を打つからいつか的を射る」なのです。
オックスフォードへ集まる者におけるヤル気がそれぞれ異なる事は百も承知
で、それでもオックスフォードという場では、ヤル気の無い者に対しても、
ヤル気満々の者に対すると同様の教育を提供していたように私には見えまし
た。 それで、実際にその教育が期待するものは、その教育がヤル気を引き出す
ことに成功した者が育つこと、なのです。 つまり、ヤル気のない者へも提供す
る教育の一見しての無駄は、無駄のまま脈々と続けられているのです。

先述の対大衆意志伝達法とオックスフォードの教育に於いて際だって異なる点
は、そこで伝えたい意志や教育が伝わる先を想定しているか否かであると思い
ます。 つまり、昨今のマスメディアで伝達される意思や思想は、その先にその
意思や思想の受け手を見出していない。 一方、オックスフォードでの教育は、
必ずしやその先にヤル気を刺激される者が表れると信じて続けられているよう
に見えました。

=====
世に向かって発表される主義主張は沢山あります。 その中でも、その主義主張
を発表することによって、こんな世の中になって欲しい・人々がこんなことを
考えるようになって欲しいという願いの込められた主義主張は、その主義主張
の伝わる先を見据えているが故に、その他大多数とはひと味違います。 ひと味
違うそのような主義主張が効果的に伝達できるような場を創れたらな、と思い
ます。

Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com Time : (2001年8月11日<土>21時19分)


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