当所をご訪問下さってどうもありがとうございます。 なんだか型どおりの事
しか書けませんが、モニタに向かって(やはりネットの世界はモニタの向こう
にあるような気がする・ケエブル出口ではなく)皆さまの存在に感謝して
おります。
=====
長い引用を先ず。
私は、文学における反俗の詩精神の問題として風狂を考えようとしたので
あるが、社会とか歴史とか文化とか、すべて人間を外側から規制し、そのこと
によって人間を部分化し物化してしまう外在的秩序や価値体系を、アナーキー
に否定する風狂の精神を全体に肯定したわけでもなければ、文学価値の評価
の基準として風狂を考えたわけでもない。 ただ東洋ヒューマニズム思想の
一形態として、もう少し具体的にいうなら、体制秩序に依存することで自己の
存在性を拡大化しようとする立身出世的人間観や、労働・利潤の観点を重視
する功利的人間観の虚妄性をあらわにし、そのような人間観を否定すること
で、本来的な人間、透谷の表現を借りるなら「内部生命」の輝きを取り出そう
とした風狂精神を評価してみたかったのである。 それに、現代のように教育
が普及し、マスコミが発達し、大衆世論をある意図のもとに組織し易い時代に
あっては、体制に依存した権威や価値の相対性と虚妄性をつく思想、もしく
は、人間の虚栄的な側面を強く否定する隠者的思惟の伝統の有効性を再評価
する必要があると考える。
伊藤博之 氏
初出『日本文学』14巻9号(昭和40年9月)
収録『隠遁の文学--妄念と覚醒--』(昭和50年4月、笠間選書37)
私の強く共感する数寄者といえば、明恵(1173-1232)と西行(1118-
1190)だ。 上記引用においては風狂者として、芭蕉が強く意識されている。
これらの人物に出会うまで長くかかった。 長くかかったのは決して、化学
反応の妙に気を取られていたからではないとおもう。 おそらく私にあって
は、教科という形で自然に触れねばいつまで経っても生命を考えず、また、
生命を考えずに居ては、数寄なる生き方をした他人に共感することもなかった
ことだろう。
数寄は探求の対象ではない。 生きるものである。
もうすこし、旅に出たい。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年12月31日<月>22時48分)
ウルサイことをあーでもないこーでもないと書き連ねていたからか、日本語
入力の調子が悪くなりました。 これはテスト書き込み。 大丈夫みたいです。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年12月31日<月>06時29分)
フランスが欧州周辺諸国に遅れて死刑を廃止したのは1981年のことである。
死刑廃止を規定した法が成立したその頃でも最近(1998年)でも、国民の
死刑制度への賛成/反対の声は52-6%/44-6%といった配分から大きく外れる
ことはない。 法案協議員の代表は、廃止法案を成立させることについて、
「これは勇気や熱意による行動ではない。 これは、人間の信条の為す行いで
ある。」と述べた。
同法を成立させた国会で当時の法務大臣は、「独裁者の支配するところ、人間
の権利を軽視しているところにはまだ死刑制度がある。」と演説した。 その
演説における言葉遣いは明確であったが、内容は将に人間の信条の存在を根拠
にしており、この国得意が得意とする隙無く見事な論理によって内容を納得
させるものではなかった。 論理で片づけられる問題ではないのだ。
論理の手堅さや完成度で決着を付けられぬ問題であるとはいえ、基督教会の
者の使う論理を死刑廃止論の根拠にしていた形跡は議事録にはない。 教会も
神も語として発言されたが、国会では、政治的・民主的という二つの観点から
の刑としての死についての言及がなされていた。 人権云々から掘り返さずに
討論が出来ていたように読めるのはやはり、人権についての議論は遙か昔に
行われ、議論の結果が文章化した過去を持つ国ならではであろうか。
とても無礼な物言いではあるが、現代世界では、幾ら本人が寂しい思いや貧し
い気持ちになろうとも、カネ(金銭)さえあればヒトは生存、事業は存続でき
る。 深くものを考えずとも、他人を尊重せずとも、である。 そのような時世
にあって、人間には信条があることを示す行動をすることは、私には、その者
が人間に付随する権利(=人権)を保持・認識している表明であると思われ
る。
死刑が現在も執行される国にあって、死刑に処されることを望んだという動機
のもとで人間の殺傷事件が起こったとする。 自ら死ねないので他殺を望むと
いう考えそのものや、強い願望のために手段を選ばぬ人間の行動は理解できぬ
でもない。 この時、他殺希望者にとっては刑だろうが事故だろうが他殺は同
じく他殺なのであると考えれば、当該事件における刑罰の対象としての死には
償いの意義が薄いような気がする。 それでも法規定上の最も思い刑罰が死刑
であるとして他殺願望者を希望通りの死刑に処すことが、罪の存在を認識し、
罪に償いたと同義と云えようか。
死は刑たり得るかを考えることは、実に人間の信条の為す行いであると思う。
如何だろうか?Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年12月29日<土>09時13分)
クルド系、アフガン系の人民が百の単位で、仏英間のユウロトンネルを通り
抜けようとして失敗した。 故郷や住処における様々な災害を避けて、人民は
英国を目指した。 移民の受け入れにおいて英国はまだ大陸側諸国よりも寛容
であると考えられている。
ポーランドからパリへやってきたその人物は日曜大工だったもので、パリ人
の住まい建築を請け負い、請け負った工事をしている最中の部屋に寝泊まり
した。 「屋根のあるところで寝ていられる。」仕事をしていたのだ。 この間
この人物の弟子とやらに会った。
拙宅建物の公共部分で生活している婦人はどうやら、東洋系の人物の様子で
ある。 ある時、虎印の小さな瓶に入った軟膏を使っていた。 挨拶以上のこと
は、何を言っているのか解らない。 それでも日増しに生活用品が揃ってきて
いる。
仏国での滞在許可証は、警察署でもって取得の申請や交付を行う。 ある時に
待合室中に響いた役人の「きょ・う・だ・い、よ、きょ・う・だ・い!!」
の大声は、母国語以外の何語をも解さぬ中国系の民に向けられていた。 私が
出ていって、紙に漢字と図を描いたら、弟一人、妹一人とのことであった。
知人のギリシヤの青年は、やっと最近になってルーブルのギリシヤ彫刻を
落ち着いて眺められるようになったと云う。 ギリシヤの漁師とこんな話しを
したと話してくれるその彼が外出時持ち歩くのは、米国のパスポオトだ。
喋れば米語は、仏語訛りなのである。
私は、故郷とは地理的土地ではなくて、ヒトを指すのだとおもう。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年12月27日<木>02時02分)
今に通貨がユウロになる。 紙幣は7種類、硬貨は8種類ある。 ユウロ参加国
で発行する硬貨は、裏面に参加国それぞれの図柄が施されている。
(以下デエタは郵便局と銀行発行のパンフレットより拠出)
ドイツ・鷲
1 euro=1,9558 DM
オストリア・モオツァルト
1 euro=13,7603 SCH
ベルギイ・現国王アルベルトI世
1 euro=40,3399 FB
スペイン・現国王カルロスI世
1 euro=166,386 PTA
フィンランド・飛んでいる白鳥
1 euro=5,94573 MF
フランス・六角形のなかに樹木
1 euro=6,55957 FF
ギリシヤ・フクロウ
1 euro=340,750 DR
アイルランド・ケルトのハープ
1 euro=0,787564 LIR
イタリヤ・大の字のヒト(ダ ヴィンチの描いた画)
1 euro=1936,27 LIT
ルクセンブルグ・Grand Ducという人物
1 euro=40,3399 FLUX
オランダ・現女王ベアトリス
1 euro=2,20371 FL
ポルトガル・国家の紋章
1 euro=200,482 ESC
=====
この図柄をみて、symboliser/representer・象徴/代表の違いとか、象徴
する、とは如何なることがらを指すのかというようなことを考えた。 上記の
各種像のそれぞれにおいて、図柄物が持つ性質を説明することがそのまま対象
物をも説明し、かつ、図柄物が直接的に対象物を代表しない
(=symboliser)ことに成功しているのは、樹木(生・自然・ 統合を象徴
しているのだそうだ)だけだ。 鷲やポルトガル紋は、現存/過去の人間の図柄
と近い存在で、図柄物が持つ性質を説明することがそのまま対象物をも説明
しているとは言い切れず、しかし、図柄物は直接的に対象物を代表している
ことになっている(=representer)。
国家や都市は人間によって形成されたものであるが故、人間が集合体として
集まっているためには理念が必要で、先のユウロ硬貨にはそれぞれの統一通貨
採用国という集合体の考える理念が、図案として刻まれているのであろうと
おもう。 そこへきて人間の存在を匂わせる紋章・人物像を持ってきた集合体
は、人間の考える「理念」の何たるかという定義が甘いのではないか?
甘くて悪い、ということではない。 理念が、人間そのものではなく理念たり
得ているフランスとアテネ(ギリシヤ)に---イタリヤという集合体の生んだ
文化的産物を持ってきたところ、イタリヤも甘くはない・close---は人間の
知性の前衛をみる。 勿論その理念は人間と切り離せるものではない。 切り離
せるものではないものを人間以外のもので表現する行為を、象徴と云うのでは
ないか? 人間以外のものでの表現が可能になったとき、理念は理念として
存在でき、思想信条を問わずに人間に浸透できるようになるのではないか?
ヒトの集合体が集合体として存在するときの根拠とされる理念が脱擬人化した
時、その理念はヒトによる集合体形成の根拠として意味を持つのではないか?Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年12月22日<土>01時52分)
*曲説・曲解/考える頭の中-5
<<social-communiste poussiereux: 埃臭い>> などと指摘される原因は、
ヒトが、XXX-ismの虜/徒と化して、化したと同時にXXX的(それは、XXX-
ismとは大概、異なるものである)でなくなるからだろうとおもう。 実際、
XXX-ismの徒は、標語の連呼には長けていても行動が標語と逆行している
ような気がする。 それとも自分に出来ていないことの現実化を目指して殊更
大声で叫ぶ、自分だけで繰り返しておればよいものを他人にも聴かせるものが
標語であったか。
*納得の行かぬ訳語
「はじめに言葉ありき」の、「言葉」は、ギリシヤ語ではlogosと使われ、
ラテン語ではverbe、で、最近のフランス語ではparoleか、などという議論
がある。 ヘブライ語のヘも解らないので訳語でしか知り得ない世界ではある
が、「はじめにYYYありき」のYYYは、logosでよかったのか?と気になる。
高尚なるものと粗野なるものを分けたい者がその分別の基準に持ち出したもの
が「YYY」であろう。 私には分けたい気はないが、「YYY」が何を指している
のかは知りたい。 それが解るまでは、「言葉」を「YYY」の訳語と考えたく
ない。
原語の不明な「YYY」はともかく、原語の解っているもので現在世界に訳語
から独立した単語の風格を備えてしまっている語のなかには、私には使われ
方が納得できないものがある。 理性の導くところに合致している様という
意味で使われているとは考えられない「合理的」、が、納得行かない訳語の
東ヨコヅナ、最近ではscienceに対応させたつもりの「科学」が西ヨコヅナ
かな。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年12月21日<金>08時34分)
こんな数値を見つけた。
科学研究に使ったカネの総額
(1998年度のデエタ、日本政府刊行物より転載)
日本・約16兆1,000億円
アメリカ・約28兆1,000億円
EU・約20兆6,000億円
また、「向こう50年間で30名の受賞者輩出」を日本が計画して行動している
ことについて批判を向けている記事もあった。
www.guardian.co.uk/japan/story/0,7369,619507,00.html
=====
国際協力だの多国籍軍だのと、昨今の世界では、協力なる所作がもっとも尊い
とされている。 実際、人間どうしが協力することは、我々が生き延びる際に
は必要な所作なのだ。 ところが、本音と建て前がどの個人にもあるように、
国家にも同じものが備わっている。 建て前はどうも美しく語られるようだ。
しかし、実に生き物が生存し続けるための協力をしようとしているのなら、
わざわざその必要な所作を美語で演出する必要はあるまい。
上記の英国紙の記事は、大したことのない成金国家が何かやってら、という
内容ではない。 国家の礼儀を問うものであるかもしれないが、これを、
日本への脅威の表れと読む者も居た。 それで科学研究費総額などが私には
気になった。 成る程数だけ観れば、欧米にとっての脅威と言えぬでもない。
しかしそうやって日本が欧米の脅威としての位置を確立することを私は
望まない。 同じ確立するなら、現在美語となっている「協力」を、美しい
修飾の数々を寄せ付けぬものへと確立することを日本が担うべきと考える。
欧米諸国が薄々でも脅威と感じている日本だからこそできる。 自らを護らね
ば確かに協力も貢献もあったものではない。 それでも協力や貢献を叫ぶの
なら、自らに備わっている保身志向と自分がどれだけ闘えるかが問われる。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年12月19日<水>04時53分)
Lenny Kravitzには、破滅を目指す者の匂いがしない。 日本発売盤のタイ
トルに「疾走」なる語が含まれていようと、この人には、周囲を注意せずに
暴走する態度はない。
初作である1989年のアルバム以来、現代的な機器装置を使わずに自作自演
するKravitz作品に対し、単なる懐古趣味とか焼き直しにつき独創性に欠ける
などという評が付いてまわった。 電子楽器電子制御で作品をつくって当然と
なった1990年代初頭におけるKravitzの創作を私は、古物好きの兄さん(私
が古物好きというときは、80年代のストレイキャッツのような連中を指す・
Mr.Setzerは何故にチキンレースに命を懸けなかったか?)とは見ていなかっ
たのだが、どこかで、「このままでやって行けるものならやってみな」くらい
に思っていた。その90年代も半ばのアルバム『Circus』(1995)を私は、
買わなかった。 アルバム中の曲が「あのままでやって、ヤレていない」と聴
こえたからだった。
LKは歌詞によくmamaと謡う。 フランスのロリータ風味な女優も惹き付けた
その男に「Thinking of You」と云われちゃYouとは誰かね、と思って聴いた
アルバム『5』(1998)で、奴が思いを馳せていたのはやはりどうやら、
mamaだったようだ。 このアルバムは、聴き込むに耐える作品だった。 頑な
なアナログ指向に支えられた挙動がなりを潜めた分、世の多くの者にすんなり
理解できる表現が可能となったのだろう。
そしてついこの間、『LENNY』(2001)が世に出た。 アナログとかデヂタ
ルという既成概念を根拠に自分の指向を打ち出すことがきっと、窮屈になっ
たのだろうと思える。 この作品でLKは再び世間に、Are you gonna go my
way? と尋ねているように聴ける。 世間の眼は奴をもはや、時代の流れに
抵抗することで自らの存在を気付かせる者とは見まい。 とすればやはり、今
こそかつて問いたかったその一言を世に問うときなのだろう。 その名を冠し
た作品の次に何を持ってくるか。 私のようなイジワルは次を見極めたい。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年12月16日<日>02時38分)
この前、ふと思いついて、思いついた割には間抜けなメルを『週間金曜日』
という雑誌の編集部宛に出してしまった。 何が間抜けかといえば、私は何か
をああいう雑誌を作っている人と協力してできないかな?と考えた末だった
のだが、「あのーそのー、拙サイトを見て下さーい」ということを書いたの
だ。 これでも、出そうか出すまいかと考えた末ではあった。 考えた割には、
振り返るにつけ、つくづく間抜けであった。
間抜けぽいことには薄々気付いていたが、それでも出してしまったことには
ワケがある。 最近私は、自分の顔が西を向くか東を向くかということをよく
考えるのだ。 これまでは、自分が操れる言語の中では日本語を扱っている
なら手間が少ない(と、後になっては思われる)理由で、この顔は東(パリ
から見て東の方ということ、即ち日本)を向いていたように思う。 それが
この頃は、西を向こうとしているように感じる。 所謂西側諸国を向いて
いるとは限らず、とにかく、尻尾が東を向いているような気がしている。
尻尾を向けているからといって、断絶とか絶交とか否定とか拒絶なわけでは
なく、何かを自分が主張しようとして顔を向ける先として日本を選ばなく
なってきた---尾は東、とはそういうことを指す。
日本に向けた主張をしなくなったとしても私には日本のことは気に掛かる。
それで、先述の雑誌社編集部に、「日本のことを気にするワタシ」の存在を
知って欲しくて、多分、あんな間抜けなことをした。
そうやって間抜けな姿を晒してまで気にするところが東の方ではあるが、私は
西を向きつつある。 東に尾を向けるのはそちらを見捨てるようだと感じる。
胴体は折り畳めやしない。 イヌが西向きゃ、尾は東。 イヌの視野は何度ほど
あるのだろうか?Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年12月13日<木>06時24分)
若い人が、このインタネットの普及を利用して、メイリングリストの一つに
ちゃんと参加する・ちゃんと管理するなどということをしたら、よい経験を
積めるのではないかと私は考える。 実際に人間が顔付き合わせて集まらなく
とも人間の社会様のものが形成できることがインタネットの存在意義のひとつ
であると思うからだ。
というのも、あるメイリングリストがある。 このメイリングリストのことを
思うといつも、国家や会社なども人間の集まりということにおいては何の
違いもなく、メイリングリストにちゃんと参加できていないことはマトモな
国民・会社員ではないと同様だし、メイリングリストをちゃんと運営できて
いないことは、マトモに国家・会社を運営できていないことと同義であると
感じる。 メイリングリストがリストとして機能していないことに心配をして
関心を持って、どうにかしようという意志を表す者も居れば、何一つ言わない
者も居る。 メイリングリストを存在させておくことはしても稼働させること
には気を配らぬ者も居れば、コウルサイことをがなり立てて活発なリストを
運営しようとする者も居る。
日本人は日本論や日本人論が大好きに見えるのだが、実のところはちっとも
日本論や日本人論になっていないと私は感じている。 結構長い間、そう感じ
続けている。 たとえば上記のようなメイリングリストメンバを国家の国民に
投影するような話しができると私が感じる日本人が私には多く見つからない。
それで、「日本人とはこういう話ができないのだよ。」と、日本人とは言い難
い者と議論するのである。 すると、日本人には自我がないのかと尋ねられ
る。 自我がある者だからこそ自分らの話である日本論や日本人論が好きなの
だろうと私は考えていたが、実のところはちっとも日本論や日本人論になって
いないというのは、私の議論相手の疑問通り、自我がないためであろうか?
メイリングリストの小さくて狭い世界と格闘していても、私はそんな、ヒト
の自我の有無を考える。 西洋のいうところの自我などとは実は屁なのかも
知れぬともおもう。 が、否定してその先に代替え案の無い時には、否定する
対象の者を屁とは呼べないとも思うので、私は何だか悔しい思いをする。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年12月12日<水>10時13分)
(下欄-2・1からの続き)
上記「精神分析」の語を「新興宗教」として、何の違和感も無いことは、私
には不思議ではない。 如何なる理論だろうが理屈だろうが、如何に医療の
現場において実践されていようが、私には上記精神分析法は、私の考える
「学問」ではないからだ。 当該精神分析法の鍵となる質問事項を無料で公開
することで、如何にも知的財産を広く人類の間に金銭のやりとりナシで公開
しているように装っていても、である。 「自分で勉強する」ための書籍を
リストで表示しようと、である。 その理論の伝達(同時的な複数人間への
伝達と、継時的な限定された数の人間への伝達の双方を指す)のために先ず
カネを必要とするものを私は、「学問」の範疇に捉えない。
例えば生け花のXXX流の師範免許を得るにも、先に触れた精神分析実践者と
なる際のように毎月の稽古代や師範検定試験料がかかる。 このような花の
道を「学問」と呼ぶ者は少ない。 精神分析のような世界に於いては、その
「道」とでも呼ぶべき理論体系が「学問」であるかのように見えてしまって
いることが問題であると私は考える。 「学問」は、その適用において、
「知」以外の一切の見返りを必要とせぬ、期待もせぬものであるとおもう。
新興宗教で修行を積んだ人物の説法に対し、最近の人間の中には、何か疑問を
抱いて警戒する者も居ることとおもう。 それは、目に見える形で新興宗教の
理論が暴走したことが明らかになったからだ。 それに対し、精神分析セミナ
で勉強を重ねた人物のカウンセリングに対して警戒する者はまだ、殆ど居ない
こととおもう。 ここでこの精神分析法に対して警戒する者が少ないのは、
その分析法の理論が暴走したことを多くの者が目の当たりにしていないから
に過ぎない。 私はここで、何事でも暴走する可能性があると説くのではなく、
痛みを知ってからではないと現状を認識できぬのが我々の特徴であることに
言及したい。 「貴方の心を癒すカウンセリング」を鵜呑みにできぬのが現代
なのである。 「貴方の心を癒す・・」に対して信頼を寄せ、安心して過ごす
には、「学問」が「学問」として成立し、様々な「道」「宗教」と一線を画す
るものであると広く我々が認識する必要があると考える。
(今日以降に続編掲載予定)Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年12月10日<月>04時20分)
ある時日本の雑誌に、暴力と呼べるものの三種類とは即ち、言葉・物理的力・
金銭があろうという説を読んだ。 金銭は現代社会の事物の価値を解りやすく
表現する手段であることから、その暴力性についての考察は困難を伴うもの
だ。 しかし、その困難を克服しつつカネのチカラについて認識を新たにせね
ば、今に、学問と呼び得る人間の知的活動が死に絶える。
=====
人間の精神・心の動きを理解しようとする際の手法が精神分析で、この
精神分析の方法を体系化したというある人物が居た。 体系化されたその方法
は勉強会・学会・セミナと呼ばれる集会に参加者を集め、そこで披露された
という。 その精神分析方法を支持する/共感する者は、その方法の根拠である
理論を学びとり、学んだ後にはその方法を実行・利用する者となる。
勉強会・学会・セミナへの参加にはカネを払う必要がある。 また、当該理論
の実践者となるには、その理論を支持する者で形成される集団への所属が
必要で、集団員となるには、実践者と認められるまでの訓練が必要で、その
訓練にも、集団員となってからも、会費・参加費なるカネの支払いが必要だ。
私が見聞したその精神分析法においては先ず、被験者に対して質問を出す。
その質問への答えを基に被験者の精神活動・精神構造を分析しようというため
の質問は、無料で公開されている。 では自問自答で精神分析も悪くなかろう
と考えるが、その質問への答えを如何に分析するかの部分は公開していない。
「自分で勉強して下さい」などと書いてある。 恐らく、朝10時から夕4時迄
の一日で1万円以上の参加費を要求するセミナにおいて、少しは「勉強」でき
るようになっているのだろう。
(上欄-2・2へ続く)Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年12月10日<月>04時15分)
高校時代の知り合いに、ヒロユキという名の人物が居て、当時はサラサラ髪
の坊ちゃん刈りで’あの’性質なので、「ヒロの宮」と呼ばれているよ、と、
本人の同級生が教えてくれた。
このヒロ(友人の間での通称はこれだった)君の言で今も忘れられないのは、
将来はどんなことをやりたいかという話をしていた時の一言で、当時経済学部
への進学を希望していた彼は、「僕は、他人様からたとえ楊枝の一本でもとり
あげるようなことはやりたくない。」と言った。 こういうことを真顔で、
いつもの温厚な顔を強ばらせてまで言う’この’性質が、「宮」あだ名を呼ん
だかなと思えたのと同時に、当時から意地悪な性格だった私は、楊枝の一本
たりともとりあげないで生き抜くなんて不可能であると言った。
ヒロ君は今頃どうしているだろうと思って、彼は現在、誰/何から楊枝をとり
あげて、彼が楊枝をとりあげることをしていないのは誰/何だろうと考えた。
社会的弱者などという高尚且つ曖昧な言葉を当時の彼は使わなかった。 私
は、自分が何事かを思考することに対して他人から楊枝をとり、その思考の
内容を他者に伝えることにおいてその者から楊枝を取り上げることをしないで
済めば好いかななどと最近、考えた。 しかし、私が考え事をした形跡は、
他人に伝達されることで明らかになる。 ということは、伝達を受けた者が
私に思考の形跡を認めることになるので、結果、やはり、他者から楊枝をとり
あげないで生存することは不可能か?Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年12月8日<土>23時48分)
私には、酒を呑みすぎてどうしようもなくなって点滴を打った記憶がある。
砂糖水の注入と人間をごっちゃにしては失礼ではあるのだけれど、人間どうし
というものの点滴と被点滴者の関係のように感じる。
ある者がどうも傷んで具合が悪いというとき、その周囲でavailableな者が
具合の悪い者の点滴となる。 具合の悪い者の傍に「点滴パック」が居れば、
酒呑みに施すと同様の「点滴」となるだろう。 そうではない、つまり、「点
滴パック」が具合の悪い者と離れている場合はどうなのだろう? まして、
離れていて連絡が取り難い場合、そこには点滴針やチュウブが存在しないわけ
で、それでも「点滴」はどこかに存在するとして、具合の悪い者は、点滴を受
けたような気になるのだろうか?
そんな見えない点滴針だのチュウブのことをヒトは「絆」であると、また、
遠隔の「点滴パック」への思い入れを「信仰」などと呼ぶのだろう。
先日来の武田徹氏の掲示板での話で、非生命物への生命を想っての思い入れは
「生命への思い入れを何か窮屈な器の中に閉じこめてしまう」作用がある
ので、むしろ意識的に断ち切って、生命を想っての思い入れは生命を対象と
して為すことを選ぶ、というような(できれば同氏の掲示板を読んで下さい・
ここは私の理解で書いてしまっているので)意見が出た。 成る程と思った。
というのは、「生命への思い入れを何か窮屈な器の中に閉じこめてしまう」
効果の例を幾つか思いついたからだ。
では、先述ヒトの「絆」だの点滴パック的存在の人間への「信仰」はどうだ?
非生命物への思い入れではないことは確かだ。 しかし、直ぐ傍にいて触る
こともできぬ・声ひとつ聴けない・手紙もメルも行き交えぬ状況となると、
点滴パック的存在の人間は、点滴を受けたい/必要な者にとって、生命である
と言えるのか?
足長オジサンだったか、正体不明の「点滴」が女の子(だったか?)に届く
という話があった。 金銭的(かつ心情的?)親ということで、援助を受けて
いる対象の子どもと手紙で交流するという事業を推進している団体もあった。
この時、足長オジサンや金銭的親が交信や援助を止めたら、彼ら彼女らは、
それまで援助を受けていた女の子や子どもにとって、生命でなくなるのか?
生命物には非生命物に越えられない何かがあるというなら、生命への思い入れ
は非生命物には背負いきれないものであると言える。 が、対象が生命ならば
如何なる状態・状況の生命に対してでも、そのものへの思いこみは、非生命物
には背負い切れぬほどのものであると言えるか? 言えないという場合、
では、生命とは、reelな(=今私が傍らに触れ、直ぐに電話をかけたら会話
が出来る・反応がある)ものだけを指すか? 言えるという場合、では、生命
においてreelという語は、如何なる内容を指すか? 非生命物には背負いきれ
ない程の思い入れの対象となる生命とは、一体どのような状況にあれば生命と
呼べるのか?Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年12月5日<水>18時04分)
以下は、とある人物へ出したメルの再録です。 解りにくい表現を言い換え
たり書き足したり、一部は削ったりなどしてあります。
=====
当所にて時々触れていた武田徹氏の掲示板での『カメラを売る他』での最後の
一言「ぼくは空元気であってもノスタルジーやセンチメンタリズムを断ち
切りたい」。 それは、物事をより的確に捉えて表現し直したいという意志の
表れのようにも読め、事実、そうやって断ち切ることによって自分の思い描く
ような的確さに自分の表現が近づくのかも知れません。
http://www.tcup1.com/162/sinopy.html
(武田徹氏の掲示板)
が、空元気から絞り出した何事が他者に伝達されるというのでしょう?
確かに感情を廃した末に表現の精度や議論の密度は上がるようにも思います。
そうは思いつつ私は最近、精度や密度が上がったところで何になる?(何に
なる?とは、他者が何事かを考えることを導き出すことができるようになろう
か?ということと同義)と考えています。
例えば、自動翻訳装置を通過して出てきた出力結果は誠に味気ない。 出力者
(=表現者)においてノスタルジアとセンチメントは断ち切られていたいと
願った場合、その味気なさは当然の結果と思います。 味気なくとも高精度・
高密度な意思の伝達を担っていて素晴らしい、と我々は、彼の翻訳装置を評価
できましょうか。 もし評価できるのだとしても、その役割を生身の人間が担
うことは、生命の能力を行使していると言えましょうか?
最近私が無謀にも考えていることは、概念なるものを人間が、形式・存在様式
を換えて現実のものとすることの限界を見極めたいということです。 そこで
の概念とは、現在に至るまでの生命科学史のうちに確立・確認されたことに
なっている「生命観」と呼べるような表現で、かたや実現物には「計算機」を
据えてみようかと思っています。 現在格闘中の書籍は、計算機屋さんに言わ
せると必読名著とかの、(これはと思った計算機屋さんの下さった助言を、
現在は鵜呑み状態・理由付き根拠ありの参考書の推薦歓迎です)
John L. Hennssy & David A Patterson
1/Computer architecture
a quantitative approach
2/Computer organization and design
: the hardware/software interface
Morgan Kaufmann
です。
などと、偉そうなことを述べるに至りました。 私にはどうも、ノスタルジア
やセンチメントとは生命の能力の現れであると思えるので、それらをうまく
使った表現こそが生き物による表現であるという気がしてしまいます。 そし
て、生き物による表現ならば、他者が何事かを考えることを導き出すことが
できる・生き物に影響を与えるであろうと考えています。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年12月3日<月>21時01分)
人間の表現(output; outcome; 出力; presentation)が、的確にその人物
を表している場合は少ない、極めて少ないと私は感じている。 絵画の模写は
模写を越えないのと同じで、的確な表現など不可能なのかもしれないが。
「くまチャンがね、ただギタアを弾くんだ。 ただ、くまチャンがギタアを
弾くヴィデオなんだよ。」 それがGeorge Harrison氏の表現だったらしい。
そのくまチャン証言をした人物が焼いてくれたディスクにはHarrison氏の曲
が入っていて、それはくまチャンの曲ではなかったのだけれど、私はそれを
聴きながら、そうだろうなぁ、これならくまチャンがギタアを弾くだけのヴィ
デオで自然であると思った。
死因はやはり、報道されていた。 ねずみチャンの脳内で分化しやがったり、
こうやってHarrison氏に巣くったりするのが生細胞だ。 あいつらもみんな、
生きている。 生命とは何だ。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年12月1日<土>20時25分)
やはり日本には、「人権・公共・人道」の訳語と同等の意味を持つ考えが元
から備わっていないようだ、と私は感じる。 備わっていないから悪い・
備わっているから佳いのではない(牽制のつもり)。 その人権・公共・人道
の欠落を日本にあって埋めているものは人情であるように思う。 表記表現
されてこそ実在となる・実存するものだけが我々の認識の世界を形成している
とされる現世にあっても、人情で切り盛りできていた時代も恐らくあったの
だ。 しかし今は、カネという表現物をよりどころとする私利私欲が、人情の
世界を蹂躙している。 実存事物の圧制である。
ヒトの誠意をも利用すべき道具とみなす私利私欲の力の前に、人情は効力の
限界を見ていると私は思いたくない。 限界を与えるのは、中途半端な実存
事物への信仰心や、かと思えばカネに平伏して情けへの信仰を放棄する態度
であろう。 「人権・公共・人道」なる考えと重なる明確なものが存在せず
ともよいと私はおもう。 ただし、よい、と云うとき、そこには日本的義理
人情のちゃらんぽらんなものが、ちゃらんぽらんさにおいて徹底されている
ことという条件が付く。 下手な人権信仰は西洋かぶれの最たる表現型だ。
私は日本で、「さよなら、フランスかぶれ!」というキャッチコピのついた
雑誌(中身はパリ特集)を貰った。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年11月25日<日>02時10分)
ご訪問下さってどうもありがとうございます。
このところ当所の更新が鈍っていて、自分ではすごく気になっています。
ものを考えている時の心境・感覚は、長いくて刻みの細かい階段を駆け下りて
いるよう(その階段は螺旋状ではない)に記憶しているのだけれど、最近は
ちっともそのような階段を駆け下りる感覚がありません。 ものを考えられる
時間のある生活がしたいなぁ。 こんなふうにあれこれを経験して、自分の生活
態度の嗜好は固まってくるのかもしれません。 経験至上なのかなぁ。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年11月23日<金>15時54分)
日本には、様々な物事に対する模範とか基準が具体的かつ
明確に表現されているような気がする。「ごく普通の一般的
家庭、一男(35歳)、由美子(32歳)、一郎(小学生)」とか。
国民人口が多いとヒトの都合の一般化もよりやりやすいのか
も知れない---この先を続けようといううちに、この「ごく
普通」が気になるのは今に始まったことじゃないと思い出した。
最近の若い人は携帯電話を親指で操作するものだから、電車の
切符販売機のボタンを親指で押すのだと、一緒に居合わせた方
に教えてもらった。で、その若い人に、「何を恥と思うか?」
と尋ねると、路上ですっころぶとか服装が乱れるとかいった
事柄を挙げずに、携帯電話が鳴らない事と答えるのだそうだ。
皆に好かれたいとか誰にも嫌われたくないという者がかなり
居ることも今に始まったことではない、と思った。
何とも頭が回らなくてうまい良い方ができないけれど、遺伝型
は不変なのに表現型が変わっているような、「今に始まった
ことではない」事柄の数々。巴里に長期在住の日本人は結構
居て、彼等は、表現型を変えざるを得ない路を人間に選択させ
た何ものかの影響を受けずにいる。私がここから引き揚げると
入れ替わりくらいで巴里をたたんで”帰国”する人物が居る
という。どんな”帰”国になることだろう。
=====
外出すると書いてあげたくなる、
現在一緒に居るディスク:
Miles Davis / Live at the Fillmore East (1970)
Sly and the Family Stone / Dance to the Music (1968)
King Crimson / Lizard (1970)
連れてきた書物:
Gilles Haeri et Bruno Roche /
Introduction a la philosophie des sciences / pufName : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年11月17日<土>01時21分)
今の日本人には、かつてあった欧米の様々への憧れや卑屈さがなくなってきている
ように感じる。欧州と聞いて意味も無く反射で「スゴイ!」などと言いそうなの
は、第二次世界大戦時に戦闘要員に届かないくらいの年齢だった人物とその子の
世代人くらいであるようだ。日本国外で暮らすことや、国外で学術的仕事をして
まとまった時間を過ごすことは、もはや日本人にとってハクではなくなったように
見える。
欧米の振り撒いていた憧れの素が現在の日本には備わっているため、欧米への憧れ
が日本人から消えたのだろうか?ねだりつづけていたものを得たため、もはや心に
憧れなどという気が棲まなくなったのか?国外に頼ってきたハクづけを、自国内で
請け負えるようにでもなったのか?、、、、、どうもそうとは思えない。
仏国へ日本からやってくる若い人はよく「日本のほうがカッコイイ。」「日本の方
が進んでいる。」と言う。仏国の服飾雑誌で紹介される日本関係の事物といえば、
小型軽量の写真機や柔らかな色合いのプラスチク製品、それに最近では、すっかり
小ぎれいにしている温泉だの和風旅館、そして禅寺だ。欧州人もカッコイイとして
取り上げるこれらが、欧州にて生産される癖のある写真機や伝統的な刃物、観光名
所や重厚なホテル、そして教会の類よりもカッコイイと見ているのだろう。古い
家具を手入れして使っているよりも新しいものを買い揃えることを、そして、
古そうな見かけに生産したものを新調することを、進んでいると感じるのだろう。
比するものなくしてあるものの存在は掴めないなどという。ここで、比較とは、
事物の優劣尊卑上下高低を定める行為ばかりを指すのではない。「日本の方が」と
どうしても言ってしまう現代日本人に、“まだ”であるという感覚を抱くのは私
だけではあるまい。反射の「スゴイ!」も格好悪いが、「日本の方が」も、かなり
イカしていないと、そのような者は意見するべきなのだと思う。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年11月12日<月>01時09分)
「信号停止中にアイドリングをしないバス」とやらに乗った。そうしたら、エンジ
ンが停止するその間、妙な音質のクラシック音楽がかかった。バスのエンジン回転
音と妙な音楽が入れ替わりで車内に流れてきた。小奇麗な鮨屋には小さなテレビが
置いてあり、ウマイものを食べている最中に「空爆」「攻撃」「陥落」などという
語を聞かせてくれた。日本人デザイナの服を求めに店舗へ出掛けた。店員嬢が
ボディガアドよろしく周囲を付いて回って来、頼みもしないのにコオトを持って
きて見せてくれ、手を伸ばす先の商品に手が触れる前に、その品物に解説を付して
くれた。運行時間が三分遅れていることに対して詫びのアナウンスが、運行時間に
ついて知らせるよりも長々と流れた。
ここには静寂がない。私は静寂の中にあって自分の領域を確認しているような気
がする。自分へ向かってくる情報入力量が少ない環境で、自問自答や自己批判
に明け暮れる。よって、静寂が無いとは自他の境がないことを意味する。自分の
領域を引き連れて歩いているつもりが、どの方向からも他人がドカドカ入り込んで
くる。静寂がないというよりも、むしろ静寂を嫌っているかのように押し寄せる
雑然とした騒音は、自分と向き合うことを不可能にするに十分効果的である。
そうかと思えば、店舗や各種施設の受付嬢は、所定の衣装を着けて所定の
位置につけているものの、私の質問を受けては、自分で応えずにすべて隣席の
同僚に伝えていた。それで、私の質問にはその同僚嬢が答え、私の質問を受け
た人はその答えを繰り返していた。車掌氏も、「で、その分の料金がかかるのか
・かからないのか?」という類の質問に、「すぐに乗り換えてください。」と返答
してきた。
自分が見えていない者に、他人の姿など見えようはずが無い。受付嬢の目前に
いた私も、車掌氏に切符を差し出していた私も、恐らく、人間ではなかったのだ。
私は一体どのような気で、このような無遠慮でトンチンカンなところに住んでいた
だろうと不思議になる。きっと自分も現在よりトンチンカンだったのだろう。
、、、などと私の改めて書くに及ばぬことなのだろうけれども、書かずに居ると
ストレスが溜まる。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年11月9日<金>20時22分)
ひょんなことから、人生初名刺なぞ刷ってしまいました。 御存知「ワタク
シ、こういう者です。」の名刺。 そうは云うものの、実際、名刺の表記で
「こういう者」がどういう者なのか解りやしないから、名刺の機能は、それを
差し出す人間の名前と連絡先を提供することなのだろうと思います。
名刺交換時の決まり文句が「ワタクシ、こういう者です。」などと浮かぶと
いうことは、その小さな紙切れを差し出す人物のことを、名刺上の幾つかの
語はさぞかし的確に表現しているのだろうと考えてしまいます。 そこの表現
が的確なら、名刺を差し出した人物はその的確さの助力を得て、他人の脳裏に
自分の存在する印象を残すのでしょう。
起業コンサルタントなる人物と知り合いました。 彼に、「ナニをしている人
ですか?」というような質問をすれば、この人は「起業コンサルタントで
す。」と答えました。 更に、「ナニモノですか?」「どんなヒトですか?」
と尋ねると、「数学者です。」と返ってきます。 然れば、多くの名刺に見受
けられる肩書き表記は、「ドコでナニをしている人ですか?」という質問には
答えているものの、やはり、「こういう者」を伝えているとは思えません。
職業名以外で自分を「こういう者」と公表してみよという時に、一体どれほど
の人間が「ワタクシ、こういう者です。」と言えるでしょうか? その実際の
需要に関わらず、名刺を刷ることになったとして、その時自分をどういう者
として形容するかを考えてみるのは、悪くないことだと思います。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年11月4日<日>09時27分)
当所をご訪問下さってどうもありがとうございます。
このところ身辺が騒々しくなりまして、考え事をできずに居ります。 更新が
鈍って失礼いたしております。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年11月2日<金>06時32分)
(下欄1・2からの続き)
キノコ抽出物や有用微生物群の生体(個体・細胞)に対する効果(影響・
活性)は否定される/すべき現象であるとは私は考えない。 だけれども、例え
ば有用生物群では、その抗ガン作用や土壌改良作用は、’なにものか’の副産
物的位置/’なにものか’を成立させるための手段という位置に付いていると
思える。 そのような位置に付いているからこそ、これらの作用は、「非トン
デモ」自然科学の範疇に入らないと判断する。
’なにものか’とは何か。 カネの回収行為であろうと私は思う。 有用微生物
群は、先ず、市販の”原液”を購入する。 購入後一度の微生物群の増殖は
可能とされているけれども、二度目の継代(つまり、購入したものを希釈/増
殖したものを再びタネとして希釈/増殖すること)は出来ないと説明されてい
る。 有用微生物群の販売元が、このように継代の困難な微生物群を如何に
して培養し続けているのかは不明だが、彼らは、二度目の微生物群の継代は
できないとして、次なる”原液”微生物群の売り上げ金を回収する。
こうやって回収されたカネは、微生物群販売機構のために働く者の賃金に
なり、また、もしかしたら新たな微生物群の生理活性検出のための研究資金
となり、また、熱海に展示する絵画の購入資金になっているかもしれない。
労働者の賃金・研究者の研究費・公開展示する絵画の購入資金の回収は、
悪しき行為であるとは言えない。 しかし、この回収行為の効率を上げること
を期待するが故に有用微生物群の生理活性を明らかにしようという態度は
「好ましくない」ものであるとここでは考えてみる。 つまり、有用微生物群
の生理活性がXXXに効くという科学研究による裏付けを、カネ回収行為の効率
を上げるために利用することを私は「好ましくない」と考える。 キノコ抽出
物の生理活性について説いた書籍がカネを回収する、、という例においても
同様である。
自然科学研究の研究成果は、その成果の利用に伴う副産物が如何なるものと
なろうかという期待を寄せ付けず、生体の快をもたらすようにと直接的に利用
されるべきであると考える。 キノコ抽出物や有用微生物の持つ生体への効果
は、生体の快の為に解析対照とされるべきであって、カネのもたらす懐の快
を期待するが故に、生体への快を与えることが大義名分となってしまっては
ならない。 これは、キノコだの菌だのだけの話ではない。 世界の市場を押さ
えている種子会社の提供する種から生えた作物は、作物を生む種を作れない
ものとなるように操作されている。 作物の収穫の後には必ずまた、種子会社
から種を買う必要がある。 種子をつくらぬ作物作りとは、果たして、生体に
快を与えることを目的として成された研究の成果であると言えるか?
(今日以降に続編掲載予定)Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年10月27日<土>19時01分)
(下欄1・1からの続き)
自然科学の研究者が実験活動を行うことで生計を立てて行くには、その研究
者の生活を支える給料と、実験活動を支える研究費が必要である。 研究者は
給料で自分の衣服食料を買い、研究費で(例えば)白衣や細胞のエサを買う。
ヒト細胞株を担保に要求した資金の利用目的が何であったか、新聞報道からは
不明であるけれども、有用微生物群の話と同様に、そのカネは、研究費として
差し出されたのではないかと思う。 研究費の拠出に何故に担保が必要だった
のかもよく解らないが、研究費は、その研究によって明らかになる結果/成果
に対して拠出されるカネであって、未知なるモノへの、拠出相当分が回収でき
るかどうか(如何なる形に回収とするかを問わず)の確約が無いカネである。
研究者は、研究費が欲しい。 実験活動を行いたいからである。 ヒト細胞株を
担保に差し出した人物にも、まとまった額の研究費は魅力的に見えたことで
あろうと思う。 何でもよいから実験活動を行いたい者には、有用微生物群の
生理的活性を測定するための研究費の申し出は魅力的に聞こえるだろう。
しかし、である。
担保を要求するような類のカネ、そして、生理活性のデエタを入り用として
いる大元が何者かが見えているカネに手を出すか?
=====
(上欄1・3へ続く)Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年10月27日<土>18時58分)
「研究者のモラルが問われ」ると新聞記事に読んだ。 どのような内容を問う
つもりなのか此方が問うてみたいところだが、問われる前に発言しておこうと
考える。 自然科学の知は、何のために如何にして利用されたら好ましいかと
いうことを自分で考え直すため/自分以外の人々に問うために。
以下、会社名・物質名・個人名の固有名詞を使うべき文章ではあるのだが、
この文章によって当該人物・物質・団体の宣伝をする気がないので、言い換え
や、間接的な表現をした。 参考にしたウエブサイトについても表記しない
ことにした。
=====
先頃、ヒト由来の培養細胞を借金の担保に入れていた人物のことが明るみに
出た。 担保が担保として機能することになったからだ。 この人物の活動内容
を調べてみると、ナニトカいうキノコの抽出物の抗ガン作用を説く著書など
著していることがわかった。 このキノコ抽出物の製造元には、理学/医学博士
だの教授だのという人物が評議員の如く名を連ねていた。 実際の抗ガン作用
の詳細や抽出物の作用機序については不勉強なので、私はこのような話を直ぐ
に「トンデモ」自然科学とは判断できない。 しかし、不勉強如何に関わらず
「非トンデモ」自然科学の範疇に含まれるとも思えない。
これと似ていると私が感じる話がひとつある。 類似例として挙げ、そこから
考えられることを、その例示の後に書くつもり。
有用微生物群と呼ばれるモノの「すべて安全で有用な微生物を80余種共生さ
せた液状の微生物資材」(参照サイトに掲載の原文のまま)を利用した活動に
関する事柄である。 この活動の関係者が私のところへ、その「微生物資材」
の抗ガン作用を実験によって裏付けたいという話を持ってきた。 研究資金を
拠出するという。 この人物は、日本では静岡県熱海市に美術館を持つ宗教
団体の関係者であった。 私にはこの有用微生物群についても、先のキノコ
抽出物での話と同様に、「トンデモ」自然科学とは判断できない。 そして
また、「非トンデモ」自然科学の範疇に含まれるとも思えない。
=====
(上欄1・2へ続く)Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年10月27日<土>18時55分)
きっちりとした論理の構築・論理的思考の後に、物事の責任の所在を人間の上
に明らかにすることが苦手そうに見える日本国にあって、こう云うときだけ
「研究者のモラルが問われる」などと、渦中にある者に対する個人攻撃をする
(個人攻撃をしているようでいて、研究者、と職名を書くという不明瞭な記事
の書きっぷりはしかし、中途半端で切れ味がない)。
http://www.mainichi.co.jp/news/selection/20011025k0000m040153000c.html
個人の精神レヴェルが問われるなどと今更に再度の確認をせねばならないのも
情けないような気がするが、そんな情けない確認と一緒に忘れてはならない
のは、「私が理事長である!」と名乗っただけで、この学会理事長氏が同職に
就いていたわけではないということだ。 この報道にあるようなことに手を染
めている人物が、周囲の了承と支持を得て何某かの学会の要職に就いて、それ
でのうのうとしていたことが現実であったのだ。 同氏を「権威」と書く者
や、この人物が要職にあることを認めていた者の精神レヴェルも問いたい。
何が「権威」だ。 全く、酷い話だ。 「権威」連中とそのトリマキ御仁がこう
やって、科学研究の信用を削いでくれている。 酷すぎる話だ。 今頃京都に集
まっている者、それらをとりまいている者、こういう報道をする者は少し、
真面目に考えよ!Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年10月25日<木>08時20分)
閉じた場所にて触れたことをここにも再録。
ある時私が喋っているのを聴いていた方が、あなたのものの考え方は、正に
メートル法推進者のそれであって、ヤード・フット法支持者のものじゃない
な、と仰いました。 長さの基準がメートルを示す原器に基づくか、ヒトの
足の長さに基づくかという違いは確かにあります。 俗な言い方をすれば、
理屈でものを考えるか/肉体でものを考えるかといったところです。
生き物らしく・生き物ならではの・生き物として、などと私は常々ガタガタ
言うくせに、そうか中身はメートル原器基準か、と思い、かなり愕然とし
ました。
何故に私が原器基準を信仰するようになったのか、にわかには解りません
が、肉感基準でものを言えるような経験が少なかったのだろうなとは
(自分を保護する意味でも?)思います。 肉感・体感・実感としてものを
語れるほどの体験による歴史が、私の中には築けていないのだと思います。
年数だけは長くかけて築いた学歴歴史の過程で私は常に落ちこぼれひねくれ
に位置していたような気がするので、優秀でソツない者らへの羨ましさもあっ
て、「頭で考えたダケじゃ甘チャンなのだ!」などと偉そうに繰り返したもの
でした。 そんな私でさえ中身はメートル原器原理主義?!だったわけです。
ソツのなさが羨ましく見えた諸氏は果たして、肉感基準のおかげでソツが
なかったのだろうか? そうだとしたら、ますます羨ましいのだけれど、そう
でなく、半端な原器基準と半端な肉感基準がソツのなさを生んでいるのだとし
たら、余り羨ましくはないな。
どうです? 原器基準/肉感基準。
そんな指摘をして下さる方・私の原器基準に率直に不快感を表して下さる方
がお出であることに、感謝、デス。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年10月24日<水>09時38分)
*曲説・曲解/考える頭の中-4
脱トリマキを目指そう--過去の偉大な人々のトリマキをも脱する
*a fond=深く・徹底的に
fond=深淵を知っている人は、冷静で謙虚で、熱い という気がする
「能力の限界を知っている」と書くと、自分に見切りをつけているように読め
るけれど、実際は「何かの限界が近い」味わいを知っている という感じじゃ
ないか? 頭がいいだけの物言いや、自信過剰な態度からは決して匂ってこな
い感じ。
*映画
Dr. Strangelove の終わりはそういえば、明るかった
*最近の人
文章書きがうまいとおもう--メルを頻繁に打つからかな
「ココロの平安を求めて」将来は仏門に入ると宣言していた若い人の話
--剃髪せぬ宗派を採用、瀬戸内寂聴氏のような生活をするのだと・で、
仏門に入る前に必ず子どもを生んで、将来的には孫の顔まで拝むのだとName : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年10月23日<火>06時45分)
今日から始まったルーヴル美術館での企画展覧会は、
La peiture comme crime
ou la part maudite de la modernite
というものです(会期19/10/2001-14/01/2002)。
www.louvre.fr--->(左メニュ)Activite/Expositions temporaires
www.louvre.or.jp--->(左メニュ)文化活動/特別展
仏語サイトにはパンフレットに刷ってあることと同じ事が、日本語サイトには
これの要約版の展示解説が読めます。
この企画の会期前閲覧というのに出掛けてきました。 およそルーヴルの大理
石に似合わないヴィデオ作品が流れ続ける展示室入り口から、もう、その重々
しい力は漏れてきていました。 真ッ黒な展示室には、絵画・ヴィデオ・写真
の作品と一緒に、あれやこれやを述べる文章がどこへ行っても付いてまわりま
した。 この文章は、単に作家とその時代背景を解説しているのではなく、そ
の作品をこの展示会に出して何を見出そうとしているのかについてが綴られて
います。 ですから、逆に、作家自身のことや時代背景・制作過程などのデエ
タは、そのコウルサイ文章を読んだところで、解ったものではありません。
展示の仕方や順路の設定、更には先述の蘊蓄を付すといった見せ方にはコレと
いった斬新さはないのです。 それなのにこの展示室を一通り巡った後には、
恐らく企画者に憑いてまわっているであろう疑問を私にも吹っ掛けられたよう
な気になりました。
何が理解できていないのか、何を解ろうとしているのかをこの企画は明らかに
しているのであって、見つけた答えを提示しているのではありません。 確か
に、どこの壁にも読める蘊蓄は、大学や研究所の美術史・芸術哲学・哲学諸科
での議論をそのまま壁に書き付けたような物言いではあります。 それに、
会期前閲覧会に来ていた連中なんて、背を叩いたら埃が舞い上がりそうな腐れ
インテリ風な者が多かった。 それでもこの展覧会が問いかける疑問は、それ
を観る如何なる人間にも届く/沸くと信じているのだろうし、届いて欲しい
からこそ言い回しに媚や気遣いや遠慮は無いし、俺はワカランのだという態度
をああやって全面に押し出した展示になったのだろうなと私は思います。
ワカランことをワカランと、きっちり表現する力。 その路を踏みしめ続けて
いるオタク企画員諸氏の意志と力のよく出た展覧会だと思います。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年10月19日<金>19時36分)
*曲説・曲解/考える頭の中-4
社会科学者の威勢がいい--では生命科学者とは何者か--・そんな学者の、
気のよさそう気だての優しそうなトリマキの人々・それで何なのだ--否定を
根拠にするのはもう止めよう--
*パリの日本人
あれらの人々のことをひとりずつ書いて紹介して、この社会のことを外国に
フランス国内に紹介せねばならないという気がしてきた
*映画に描かれていること=諸事の現実化の限界/到達点か?
人間に表現できているということは、それだけで、その表現内容は現実化する
可能性を持っているものなのであると示しているName : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年10月19日<金>10時56分)
こう言っては手前味噌気味なのですが、私はマリとピエールのキュリ夫妻の
姿は素敵だなと思っています。 あの二人が協力して、それでまとまった成果
を残せたということがとても人間業らしいと感じるからです。
個人主義だの自己責任だのと云いながらも、人が独りで隔離されていては、
ただ生き延びることに持てるチカラを使うことになりそうです。 他人と協力
することによって生き延びる以外に何かを為せるわけで、協力することは大切
などという美しい結論に達します。
ところが、この協力という行為は、簡単なものではありませんね。 職場/仕事
での様々とか学校の実習などでの協力はともかく、自分が生きる・その自分と
関わる者も生きるという現実のための協力となると、先の美しい結論にあった
ような語感での協力としていては表現しきれぬものとなるような気がします。
即ち、関わる人物の好ましい面も嫌な面も認識し合い、明らかに別個体である
というのにお互いが渾然一体となれる者らが、キュリ夫妻のような人間業の
協力をみせるに至るのではないかと私は思うわけです。
渾然一体の協力など無くとも、人間の歴史に貢献する偉業を遺した人間は過去
に居ました。 同様に人間の歴史に貢献する業績のなかでも、人間に特異的な
手法と呼べそうな協力の産物を私は高く評価しています。 その人の持つ善も
悪も好も嫌も受け入れ合って、その状態から何をか成す---そんな理想を体現
するようでありたいと考えています。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年10月17日<水>06時15分)
世界各地で人殺しが続く中パリでは、服飾界の一大催事のパリコレクション
が繰り広げられたのですが、文化だとか美を楽しむ余裕は、いつどこで何が
バラまかれるか知れぬという恐怖や不安にかき消されています。 恐怖に押さ
れることなく美しいものを鑑賞しようと心がけることは、抗テロリズムばかり
か、真っ当なひとごころを失わぬための一手段であると思いますが、現実では
どうも街中に漂う重たい空気が、美しいものの輝きを拒絶しているように
感じられ、パリコレクションの鑑賞も楽では無さそうだと感じます。
そんな中、十月の週末にロック音楽特集を組んでいたのは、音楽番組専門の
テレビ局でした。 新旧のロックの音楽ヴィデオを流し続けています。 この局
で最近流れていたヴィデオといえば、若くて体格の良い男女が見事に踊りまく
るハツラツとしたものとか、だーらだーら喋るラッパーのものとか、かつての
アイドル歌手の祝美容整形/痩身して復活ものとか、斬新デザインのCGものの
ような、”pop”なものばかりでした。 そこへ来て、歌い込み・弾き聴か
せ・打ち揚げるというロックのヴィデオの数々は、如何にもイケていない感じ
でした。 汗とか魂とか心とか熱(とか愛)といったロックに必須の事柄は、
映画のような事件が起こる現代にあっては、ダサくて臭いものであるように見
えました。
先のアルバム『POP』にて、どうも創作が飽和しているような印象を振りまい
たのが、アイルランド出身者のバンドU2でありました。 ところが、「ロック
の週末」にご多分に漏れず登場していた彼らは、自身の飽和を苦々しく味わっ
た後にゆるゆると無駄を棄てつつあるようでした。 伸び悩むことの辛さや
時代の要求に応えきれずに焦る様子を露呈するのも、ロック界に居る者の得意
技ではありますから、ここはひとつU2辺りには、如何にもIN/ONではない感じ
を徹底して貰い、汗と魂と心と熱(と愛)の世界を蘇らせて欲しいものです。
そして、連中が幾ら気張ったところで、アフガン空爆認識しつつもクネクネ
踊る兄さん姉さんに見とれていては、ロックはダサいままです。 我々も
自身の中の汗と魂と心と熱(と愛)の世界を呼び覚ますとしましょう。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年10月15日<月>06時11分)
文化交流とか癌研究とか人権の確立とかにおいて、交流したら/研究したら/
確立したら、何がどうなって何が明らかになるから、これらは何なのだ?どの
ような事柄であると言えるのか?とは実は、考えてはイケナイ質問なのかも
しれません。
数年前に公開されたアメリカ映画で、この世に存在するdataの大方全てから
個人情報が抹殺されたらどうなるかというような内容の作品がありました
(未見)。 もしこの映画と同様に、国家機関が定めた形式の身分証明など持
たず、知人が幾らその人物は自分の知人であると言い張ったところで、その
記憶を人間の存在証明として適用する根拠にならないとしたら、どんな気持ち
になることでしょう? 「我思う、故に我在」ることは確かと思えるはよいと
しても、如何にして他人は、「ああそうですか、貴方が”何かを思う我”さん
ですね!」と認識できるのだろう?
人間の存在を互いに認識するために文化交流だの癌研究や人権確立運動がある
のだとしたら、文化の破壊行為や癌や疾病の蔓延や人権の踏み倒しといった
行為もまた、人間の存在を互いに認識するための行為と言えるように考えま
す(作用力もチカラなら、反作用力もチカラなのだろうから)。 それでも
我々は文化は保護して交流することを好み、疾病は根絶したくなり、人権は
守りたいと考えます。 何故、そう考えるのか? そして、現在のその根拠に
拠って何をか考える、その先には何があるのか?
考える、だから、なんなんだ?
なんて書きながら、自分で何を言っているのか、かなり不可解。
最近、解らんことばかり。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年10月13日<土>21時48分)
*ぽ〜る な〜す
ノオベル賞を受賞した彼について、私は、”弟子”にあたる人物を通してしか
知りません。 それでも、ややコチョコチョした人物であるという印象と共
に、何故かこの人に関しては、generousという形容が頭に浮かびました。
表現型はどうであれ、とにもかくにも筋の一本通った人間なことは想像でき
ます。 私も流石にボケッとしていても歳だけは取り、この賞を取る人物が、
自分にとって印象の生々しい人々になってきているなと感じます。
そんなことをかつての同僚と話していたら、「対社会的にこういう賞に存在
価値があることは認めるが、自分としては賞の授与を好ましく思わない。」と
言います。 成果として記述できる事柄を確立したのは受賞者独りの仕業では
ないなどと誰もが判っている(註・誰もが判っていると、この人物は希望して
いる)というのに、代表者を表彰するのは短絡的であると思うそうです。 当
地で言うところの”68年世代”(1968年に、五月革命と呼ばれる出来事が
あった、それを推進した人々の考えに共鳴していそうな人物のことを指す)
の温厚派といった感じのこの発言者は、あくまでも高く高く理想的な、崇高
とも言えそうな自由・平等・博愛の精神を、常に真面目にそして柔らかかつ
気軽に提示するもので、驚かされます。 ノオベル賞、スゴイナーとか言って
いる段ではないのです。
*芸であり学であり美である
腐れインテリの好きな、などと冠されようと、私はLe Monde紙とCahiers du Cinema誌が好きです。 新聞が夕方に出ては、”速報”ができないネとか、
映画は”斜陽”だね、とか言いたい者には言わせておくとして、Le Mondeで
は、WTCに突っ込んだと目されている者の残した文章をただ訳して掲載する
ことなどしません。 「あの一件はまるで映画のようだった」と言われるだけ
の根拠を、映画を扱う雑誌として、出来る限り書いてみせます。
そんな二者を批判できる者がこの国には居ます。 そんな者らが居て、この
言論伝達媒体は存続しています。 路を外していない前衛。 Cahiersは最近、
使用活字体に毒気が無くなってきたのだけれど、どうしたのだろう。
これらを如何に好きか、如何に素晴らしいと思うかを書けなくて、私はとり
あえず、まだまだまだまだ、といったところ。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年10月11日<木>08時45分)
土曜日昼のテレビニュウスを観ていたら、そのニュウスの後の30分間で、
ちょっとした討論の番組を放映していました。 どうもこの討論の時間は毎週
土曜日、ニュウスの後に設けられているもののようでした。 私が観たその日
の話題になっていたのは、週日中の夜8時という当地でのテレビ’ゴールデン
タイム’の、海外の話題を紹介した番組でした。
アフガニスタンで女性が公開処刑?された映像(私は未見)について、特に
言及されていました。 その映像を流した番組の制作責任者にあたる女性が
二名スタジオに居て、視聴者側の者は電話で喋っているような音声のみで
番組に参加して、司会の者と、コメントを付す者とが他に、居ました。 視聴
者の彼は、テレビであんな残酷な映像を流すことは余りに衝撃的・刺激的なの
で止めて欲しい・もう少し放送内容について考えて欲しいと主張、放送した側
は、現実を知らせるためにあのような映像は流すべきと判断したとの主張を
展開していました。 この話題の他、火を噴き倒壊しそうなWTCから虚空へと
飛び出した人物の映像についても同様の意見が交わされ、それに関連して、
NYの様子には人間の死体が映像中に移らないように”フィルタ”がかけられ
ているようだ、ということにも少し、司会者が触れました。
=====
死体を映させないという事については別の機会に書くとして、処刑映像に
ついて話していたとき、それを放映するべきと主張した女性関係者は、
アフガニスタンの女性はこうやって虐げられているのだが、彼女らにも生きる
意志や主張はあって云々ということも語っていました。 欧州のこの辺りで
アフガニスタンの女性の彼の地での処遇について批判的な人々が活動的である
のは今に始まった事ではありません。 頭から布を被った姿の写真をポスタ
にして「こんなことが許されるのか?」というようなセリフとともに張って
みたり、私はビラを受け取ったこともあったし、時事雑誌だったかに展開され
る主張を読んだこともありました。
それは、たった30分の討論番組でした。その場に居た番組制作責任者は、
自分達はかくかくしかじかの考えもあるのだが、それは西洋的見解の押しつけ
であるとも言えよう、というようなことも言っていました。 そこにその時、
迷いながらも表現を続ける者の姿を観たような気がしました。 或いは、斯様
な迷いと受け取られる発言を大規模情報伝達媒体に自分の表現を乗せる者が
することは、発言者の頼りなさを露呈したでしょうか? 否、彼女/彼らが
迷う姿を見せられなくて、世の多くの者に何を考えろというのでしょうか?
何かを言い切って疑いのないことは、人間にとって清々しいものなのだろう
けれど、その清々しさに自分が浸りきっている者の清々しさこそが自分の至ら
なさの産物であると、我々は考え遣る必要が在るように思います。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年10月8日<月>06時53分)
この語を最初に目にしたのはどこであったか? 何に、であったか? 一個の
人間が生存しているうちに、何もかにもを体験することは不可能だ。 自分に
とって未知の事柄を体験することはおろか、自分に既知である事についても、
知識として自分の内に蓄えることは可能でも、その知識を追体験することは
簡単なことではない。
昨今の人間においては、知識として自分に認識された事柄は、あたかも同時に
それを追体験したかのように処理されているように思う。 それとも、現代に
おいては、追体験という語そのものが、ある事柄を認識した程度の脳神経活動
を指すというところまで堕落しているのかも知れない。 かくいう私が追体験という語を読んで何と重みのある活動だろうかと思ったのは、ついこの前で
あった。
世の各人が追体験というものをどのように認識しているかはともかく、そして
語の重さに対して私如きのへの認識な者からみても、追体験の伴っていない
主張・表現にはチカラがないと感じる。 どれほど文章が整っていようと、
いかに隙無く無矛盾に組み立てられた論であろうと、追体験の無さは、不思議
と直ぐに判ってしまう。 いや、追体験の味?を知っている者は匂う、とでも
したほうが適切か。
犯罪者の心理であるとか宗教人の考え、他国の事情に政府の動向、、、、とに
かく非自己のことを書き込むときには、それらに伴う追体験が、その表現の
比重を増す。 誰もが教育を受けたのち、追体験無くしては表現し得なかった
物事であってもソレナリに表現できるという技術を、世の多くの者が身に付け
た。 そしてまた、追体験の伴わないがためチカラに欠ける主張であっても
表面的に読んで評価してしまうという身軽さ・軽薄さも同時にもたらされた。
そんな現代であるからこそ、追体験の匂いを放つ表現を評価して行こうと
私はおもう。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年10月6日<土>09時21分)
日本で所謂市民運動に関わっている人々の中には、「日本にも緑の党のよう
なものを作ろう/作れたら」という考えを持った方もお出でのようです。 こう
いう主張に触れると、完成品を見れば欲しがるけれども、箱入りの未完成プラ
モデルキットには関心を示さないオコチャマの姿を見ているように感じます。
確かに欧州では緑の党が組織として機能していますから、それを手本にしたく
なる気も、その機能の様を羨ましく思えるのも自然なことではあります。
XXXは一日にして成らず。 完成品にばかり憧れる傾向からは、未完成品が
組み立つに至るまでの行程を、政党に限らず何か他の事柄で体験できていない
ことも窺えます。 作りましょうやりましょうとかけ声をかけなくてもできる
組織は出来上がり、機能してくるものだという気が私にはします。
日本の緑の党好きの人々は知って居るであろう仏国緑の党関係者は、来春の
大統領選挙候補に挙げられているのですが、その”頭”を、コルシカの民族
運動を推進する組織にも提供したとかで、ちょっとした物議を醸しました。
人間の”頭”はそうやって使えるものであるし、人間の組織とはその程度の
拘束力があるのみなのだと私は思いました。
組織は鉄鋼の壁で囲まれているものではないとか組織を支える人間の”頭”の
使い方とはいかなるものか、未だに学び(ou 視察/観察/体感??)足りない
日本人が多すぎるとおもいます。 過去の数々の国家論・組織論・人間論を
読破した者は多かったろうに(目で活字を追って、字句の意味を了解しただけ
だったのか?)。 国外留学だって、膨大な国費を注ぎ込んでいまだに続け
られているというのに(自分のハクを付けるために一生懸命になっていただけ
たったのか?)。 かたや、書物から縁遠く居ようが邦から一歩も外に出た
ことがなくとも、ものを判っている人はお出でです。 そのような人々が
もう少し対外的に発言をできるとよいと思います。 その点で、学問が、
渡辺一夫氏の言うところの「永遠に迫害される少数者」の逃げ場になっては
いけないと考えます。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年10月4日<木>19時14分)
*ethics IS bullsh*t
武田徹 氏の掲示板への2/10の書き込みで、氏は、転載した主張について、
「その指摘から先にどうやって実効性をもたせてゆけばいいかは悩ましい」
としています。 実に悩ましいことだと私も思います。
http://www.tcup1.com/162/sinopy.html
本節に付した口汚い表題は、以前にMLで、生命に対する遺伝要素の操作に
ついて話をしていた時のものです。 本当はハッキリ書くべきなのでしょうし
私も心の中では伏せ字でなくハッキリ考えているのですが、どうも表記する
気にはなれません。 表記はともかく、この表題が出てきたのは、武田氏の
指摘にあったとおり、倫理学が「その指摘から先にどうやって実効性をもたせ
てゆけばいいか」を開拓しないからであると思います。
「ゲルニカを忘れないで」「報復攻撃は止めて」等々という主張は結構。
結構なのだけれど、なぜ「ゲルニカを忘れない」で居たいのかというところ
まで明確でないと、その主張にチカラはありません。 まして法的な正当性
のみを根拠にして報復攻撃の不当を主張するのみでは、より論述技巧に長けた
者の主張が優勢となるとは明らかで、やはり主張にチカラがありません。
いや、かといって、私のように報復攻撃に反対であっても、自分が納得できる
主張まで自分の思考が至らないから何も語らないのでは、時流に流されている
だけのようにも感じます。 どのみち、自分に満足の行く答えを与えそうに
ないことから、やはり、ethics is ・・・なのかもしれません。
*国家に歓迎されるには
”国家”に歓迎される人間というのは、その”国家”を形成している人間の
諸性質においてdominantなものを有している者であるとつくづく思います。
その諸性質とは、精神構造や思想信条・過去の記憶や現住所を指し、国に
よってはここに、容姿も含まれます。
太古の昔から”国家”は、近場に住む人間によって形作られてきているのだと
しても、近代にあっては、国土という物理的結束力は、国家を支えるものの
なかから消滅することはなくとも、精神や思想信条のもたらす結束力が肩代
わりできる性質のものになってきていると感じます。
現住所による物理的拘束力が優勢のものを”国家”と呼んで、精神性の拘束力
を根拠にした人間集団は”カルト”と呼ばれます。 その双方に批判を加える
ことができるのは、国土に住まわず信仰心の無い者だけなのでしょうか?
そういえば、そんな者が思想家には多かったような気もします。Name : ばん まい Mail : ima19@bigfoot.com
Time : (2001年10月2日<火>23時54分)
