アンジェラ(モルドヴァ)
昔からの幼なじみではない。そんなに頻繁に会っているわけでもない。自分の生い立ちやバックグラウンドについて深く詳しく話したわけでもない。仲は良いけれど親友と言うには歴史が浅すぎる。それでも何故か、会えばぴったりと息が合う。お互いの考えていることが何となく分かるし、口に出さなくても相手の心理状態が手に取るように分かり、自分の感情もまたそれに影響される…。
アンジェラとMethaはそんな不思議な関係の友達です。
二人は生まれた国はもちろん、生い立ちも勉強してきたことも体験してきたことも、どれひとつとして重なるところはありません。それでも不思議と彼女とMethaはどんな話題でも「共通の言語」で語ることができるのです。また言葉だけでなく、お互いの精神状態や感情の動きがシンクロしている感じなのです。「波長が合っている」としか表現しようのないことなのですが、具体的に言うと、お互い相手が何を考えているのか、次に何を言おうとしているのか、どんな行動に出るのかが、何となくわかってしまうのです。自分とこういう不思議な関係にある人を、Methaは他に知りません。
アンジェラはMethaがこれまで出会った人の中で、最も聡明で強い人間の一人です。「強い」と言っても、それはともすれば強引さや激しさと紙一重になるような、そんな強さではありません。内に秘めた芯のしなやかな強さとでも言えば良いでしょうか。普段表には決して出てこない、体の奥底で密かに燃えているような静かな情熱を持つ人です。
アンジェラはモルドヴァ人の女の子です。
モルドヴァ。一体この地球上の何%の人が、この国の存在を知っているでしょうか。もしかしたら両手で数えられるほどの人数しかいないかもしれません(ちょっとオーバーでしょうか?)。モルドヴァという国は、ソ連を構成していた15ヵ国の共和国のうちの一つです。他の共和国と同じように、1991年、ソ連の崩壊とともに事実上の独立を果たしました。ウクライナとルーマニアの間に挟まれた、小さな小さな内陸国です。
何年か前のことになりますが、Methaはこの国に3ヶ月程住んでいました。しかし実は1ヶ月を過ぎる頃、Methaは瀕死の状態でした。
いえ、別に治安が良くないだとか生活環境が劣悪だとか、そういうわけではないのです。モルドヴァの人達もとっても気さくでのんびりとした良い人達でした。…ただ、「何もない」のです。端的に言うと、首都を含めて「国全体が寂れた農村」とでも言った風情なのです。めぼしい観光スポットもエンターテイメントもほとんどありません。仕事で知り合ったモルドヴァに数年住むというアメリカ人のおじさんなど、初対面でまずMethaにした質問が「土日、どうやって時間潰してるの?」でした。仕事の話をしに行ったというのに、そんな質問はないだろう!(その後、Methaをあまりに不憫に思った彼は、わざわざ日曜日のランチに招待してくれました。モルドヴァにひとりぼっちで3ヶ月も住むということはそれぐらい哀れだったようです)。
そんなモルドヴァで地味な生活が続いていたある日、あまりの退屈さに記憶喪失寸前になっているMethaの前にまさにその名の通り天使(Angel)のごとく舞い降りたのが、アンジェラでした。
アンジェラは科学者です。モルドヴァの首都キシナウにあるフランス系の学校を卒業した後、大学に進み環境分野の研究をしていました。卒業後は父親が学部長を務めるその大学で研究者としての道を極めるはずでしたが、ソ連崩壊の影響で国は大混乱、とても「研究で食べて行きます」と言えるような状態ではなくなってしまいました。それでも何とか大学で細々と教えたり、政府から委託される調査に携わったりしていましたが、しかしいずれにしたってほとんどお金にはなりません。
しかしそのうちに科学者としての資質と流暢なフランス語と英語が重宝されて、時々外国からやってくる調査チームや国際機関のプロジェクトに一定期間雇われたりするようになりました。
Methaが仕事で別の人を訪ねた時に、たまたま一緒の部屋に座っていて好奇心一杯でこちらを見つめていたのがアンジェラでした。そして次の日、アンジェラは突然Methaの家に電話をかけてきたのです。これがアンジェラとMethaの出会いでした。
「Methaを見た時、私『この人のことは絶対好きになる』と思ったのよ」
ある日、アンジェラは真顔でMethaにそう言ったことがあります。あまりにも真っ直ぐにそう言われたので、Methaはちょっとどぎまぎしました。
「不思議なの。いくら時間をかけても全然話が通じない人がこの世には山のようにいるのに、Methaとはどうしてこんな最小限の言葉で通じてしまうのかしら?」
こんなベタベタなこと、男性からだって言われたことはありません。Methaはすっかり照れてしまいました。3ヶ月経ちモルドヴァを離れた後もMethaは、そしておそらくアンジェラも、「二人はきっと近いうちにどこかでまた会えるだろう」と漠然と思っていました。
1998年の夏のある日、突然ロシアの通貨ルーブルが大暴落しました。
ロシア、そして世界の金融市場はしばらくパニックに陥りました。ロシアにある外国企業は一斉に資本を海外に逃避させ、ロシア人達は我先にと銀行に押しかけ預金を引き出し両替所に走って現金を安全なドルに交換しました。物価も跳ね上がりました。一時期は「すわ、ロシアはもうお終いか!この冬は餓死者や凍死者が山のように出るぞ!」とまで言わんばかりのパニックぶりでしたが、幸い大騒ぎしたほどの恐慌までには至らずその年の年末にはもうすっかり正常に戻っていました。金融市場の混乱なんて後で振りかえってみればだいたいそんなものです。
しかし、そのロシア金融危機の陰で実はモルドヴァが大打撃を受けていたという事実はほとんど誰も知りません。
知っていたとしてもその影響はあまりにも小さいので誰も気に留めていなかったでしょう。ロシア金融危機が発生するとほぼ同時に、モルドヴァも通貨危機に陥りました。モルドヴァの通貨レイもロシアのルーブルにつられて大暴落したのです。この「つられて大暴落」という現象は本当に理不尽ですが、金融市場では往々にして起こります。
モルドヴァ自身には何も問題になるようなことはしなかったのに(もちろん経済の構造的な問題は山積みですけれど)、むしろ経済を立て直そうと必死で改革努力をしているところだったのに、隣の大国の不始末(?)があっと言う間にそのモルドヴァの小さな努力を吹き飛ばしてしまったのです。
もともと雀の涙ほどしかなかった海外からの投資も一斉に引き上げて行きました。店に並ぶ様々な食料品はあっと言う間に倍の値段になりました。ウクライナから買っている電力も、もともと借金がある上に更にお金が払えなくなり、とうとう供給がストップされるようになりました。
「今年の冬は特に辛いです」
1999年の1月、アンジェラはそうメールに書いてきました。
「毎朝8時にオフィスに行くんだけど、暖房がないから部屋の気温は3度。どう、楽しいでしょう?電気は1日に4時間ぐらいしかないの。夜も真っ暗…。でも停電は悪いことばかりじゃないの。最近は夕御飯の時も電気がないから食卓にろうそくが欠かせないんだけど、これが結構ロマンチックなのよ。お蔭で家族の絆も深まりました。考えようによっては案外幸せな気分になれるものよ」
またある時はそんな冗談も言えないほど疲れていたりもしました。
「今日はボーイフレンドのヴァレリウの体調がいつになく悪かった。この寒さで悪化したみたい。ずいぶん体力が弱っていて心配です。言うこともすごく弱気で後ろ向きで、こっちまで憂鬱になる。弟もちっとも仕事が見つからない」
「とっても疲れています。お給料が全然出ないのに、なんでこんなに働かなくちゃいけないの?」
アンジェラの家族は事実上アンジェラの収入に全てを頼っています。お父さんは大学教授ですが給料はもちろんほとんどありません。お母さんはもう二十年も病気を患っていて、ちょっとした運動も医者に止められているような常態です。弟は大学の経営学部を卒業しましたが、モルドヴァで仕事がそう簡単に見つかるはずもなくもう何年もぶらぶらしています。
アンジェラの唯一の心のよりどころである恋人、ヴァレリウも慢性の肺の病気を持っていて、アンジェラはいつも心配して何かと彼の世話を焼いています。やはり研究者の彼は知的で物静かな優しいヴァレリウはしかし、研究以外のこと全てをやはりアンジェラに頼り切っているように見えました。
「でもね、私はみんなの面倒を見るのが好きなのよ」
アンジェラは最後にはいつもそう言っていました。
結局モルドヴァはロシア通貨危機の打撃から立ち直ることができず、経済は青息吐息、超低空飛行の状態を続けました。加えてほぼ毎年の夏の干ばつが容赦なく主用産業の農業を叩きのめします。
そしてとうとうモルドヴァは「ヨーロッパで一番貧しい国」の烙印を押されてしまいました。経済危機で不満が募ったモルドヴァの人々は、2000年の議会選挙で共産主義時代の古い政治家達を大量に復活させたのです。政府の仕事をしていたアンジェラの職場でもトップが変わり、同僚達も次々と解雇されていきました。仕事のやり方も大きく変えさせられてしました。
そしてアンジェラはついにモルドヴァを離れる決心をしました。
「もうモルドヴァには私のいる場所がない」
アンジェラはきっぱりとそう言って、モルドヴァを去りました。今までの仕事のつてを頼ってさっさとパリに仕事を見つけたのです。突然のことにMethaは驚きましたが、それでもアンジェラとしてはぎりぎりまで待った結果でした。一度決断したらあっと言う間に行動を起こす。それもアンジェラの秘めた強さなのです。
そんなわけでアンジェラは今、恋人と家族をモルドヴァに残しパリで一人で暮らしています。
しがらみの多いモルドヴァを離れた彼女は本当にパリでの生活をのびのびと楽しんでいますが、それでもヴァレリウには一日に二回も国際電話をかけ彼の体調を気遣い(「電話しすぎなんじゃないの?」というMethaのヒトコトは一蹴されました)、一緒にパリで暮らすように根気よく説得を続けます(現状を変えることに臆病なヴァレリウはなかなか首を縦に振りません)。相変わらず家族にせっせと仕送りを続け誰かの誕生日にはこまめに帰省したりしています。そしてモルドヴァからはMethaへのお土産を欠かさず持って帰ってきてくれます。
そんな献身的な彼女の姿には、偽善的な雰囲気はもとより自己犠牲のような痛々しさすらありません。アンジェラには、もっと自分を大切にしなければなどと言う俗っぽいお説教などまったく見当違いな言葉だと思わせるような、神々しさがあるのです。
「私はモルドヴァみたいにはならないわ。外からの力によって自分の運命を決められてしまうなんて」
そんなキツい冗談を言って静かにくすくす笑う彼女は、そういう時ですら神々しかったりします。
(アンジェラ・おしまい)
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