4.アルトゥール

 

Artur & Luzan & LilidMethaは一時期、旧ソ連の国々で知り合う人々に次から次へと「1991年にソ連が崩壊した時、あなたは何をしていましたか、どう思いましたか?」という質問をしていたことがあります。その頃のMethaの感覚では、「自分が属していた国や集団があっと言う間に無くなる」ということは人生の一大事のように思えたからです。しかも今までの社会や経済のシステムは全部無効になり、それまで信じてきたこと全てが過去のブラックホールの中に消えてしまうのです!もしそれがMethaの身に起こったら・・・とても想像できないことでした。

その質問に対する人々の答えは様々でした。ところが驚いたことに、ソ連崩壊の日のことを覚えていない人が大多数でした。「別に何も変わらなかったよ。まあ結局生活は随分苦しくなったけど、こうやって生きてるしなぁ」と彼らは不思議そうな顔をしてMethaの質問に答えるのです。

 

しかしアルトゥールは「とても不安になった」と答えた数少ない一人です。

アルトゥールはソ連時代、アルメニアの大学で建築を学びました。お父さんが大学教授だったこともあり、卒業後はお父さんのコネで大学に就職するつもりでいました。ところが大学を卒業した途端にソ連が崩壊したのです。混乱の中で、アルトゥールは人生の次のステップを踏むことができませんでした。

6年間アルトゥールはずっと無職でした。大学卒業直前に結婚したルザンとの間には二人の子供ができましたが、それでもずっと無職でした。お父さんは時々アルトゥールを自分の仕事の助手をさせたりしていましたが、それでも定職は見つかりません。生活費や子供の養育費は全部お父さんに面倒を見てもらっていました。しかし長い間仕事が無かったり、家族や親戚同士で援助したり助け合ったりするのはアルメニアでは全く特別なことではありません。結束が固くて狭いアルメニア社会では、皆そうやって生きているのです。

 

「6年間、どんな職探しをしてたの?」

「父がいろいろと知り合いに口をきいてくれたりしたんだけど…。やっぱり定職につくのはとても難しいんだ」

「お父さんを頼る以外に、自分では何かしてたの?」

「だって僕は知り合いもあまりいないし…」

「知り合いがいなくたって、いろいろ方法はあるでしょう。自分で会社を興すってこともできるわけだし。混乱の社会というのは逆にチャンスだってあるんじゃないの。そういうことは考えなかったの?」

「…」

 

7年目、アルトゥールはやっと友達の紹介でとある地方自治体の土木関係部署に設計士の職を得ました。例に漏れず給料はとても安く、それも3、4ヶ月もの遅配は当たり前です。それでも何もせずにぶらぶらしているよりは良いと、お父さんはとても喜びました。そして引き続きアルトゥール一家の生活費を出しつづけてくれました。なのでアルトゥールは自分の家の電気代や水道代がどれぐらいかかっているのかも全然知りません。

次の年、奥さんのルザンは一念発起し自分も働くことを決意しました。そしてアメリカに移住したお姉さん夫婦を頼って半年間の短期留学をし、そこで情報処理と英語の学校に通いました。帰国したルザンは、守備良く米国企業と取引のあるコンピューターソフト開発会社に職を得ました。そうしてお父さんからの援助は半分に減りました。

 

Methaのアルメニアの友達は、皆それはそれは逞しい人達です。国は非常な困難にありますが、人々は文句や不平を言いながらも驚くほどのパワーで日々を生き抜いています。奥さんのルザンも、物静かながら底に秘めた力強さがあります。

しかしアルトゥールにはその強さが感じられません。アルトゥールは優しくて少し現実離れしています。Methaよりも年上なのに、平和な社会でぬくぬくと育ってきたMethaよりも子供っぽく見えます。Methaはお節介と思いながらも、「こんなに弱くて世間知らずで、アルトゥールはこの難しい国で生き抜いていけるのだろうか」などといつも思っていました。

 

ある日の朝早く、アルトゥールはMethaのところに電話をかけてきました。

「あれ?明日会うっていう約束じゃなかった?」

「だめなんだ。今大変なんだ」

「どうしたの?」

「今朝、仕事をクビになった。もう僕のポストは不要だって言われた」

そして2時間後、うなだれたアルトゥールはMethaのところにやってきました。見るも気の毒なほど息消沈し、小さく背中を丸めて椅子に座りました。でも何も言いません。Methaはアルトゥールが自分から何かを言い出すまで待つことにしました。5分程の沈黙の後、やっとアルトゥールは口を開きました。

 

「というわけなんだ」

「というわけって?説明してくれないと全然分からないわ」

「事務所長が新しくなって組織変えがあったんだ。今朝上司に呼ばれてもう来なくていいって言われた。今日中に机を片付けなくちゃいけないんだ」

アルメニアでは別にこのようなことは珍しくありません。これが現実なのです。

「それであなたはどうしたいの?次の職探しをしなくちゃいけないんじゃないの?」

「うん…父が今、知り合いに聞いてみてくれてるんだけど…」

「またお父さんに頼るのもいいけど、自分でも何かやってみたら?ちゃんとした仕事が見つかるまでしばらくタクシーの運転手でも何でもやったっていいじゃない」

アルメニアでは通りを走っているタクシーはほとんどが「白タク」です。自家用車を持っている人達が生活費を稼ぐために「TAXI」のランプを屋根にのせて走っているのです。もと大学教授だって科学者だって工場長だって、皆そうやって生きているのです。

アルトゥールはますますうつむきました。そして小さな声でMethaに言いました。

「Metha、僕をイギリスで雇ってもらえないかな」

 

Methaは絶句しました。何と答えて良いか分かりませんでした。

「悪いけどアルトゥール、私にはあなたを雇う権限もお金もないわ」

「そうか…。いや、聞いてみただけなんだ。もしかしたらと思って」

 

Methaは考えに考えた末、アルトゥールに少しだけ仕事を頼むことにしました。Methaがイギリスに帰っている間、ある資料を探して英語に翻訳し、イギリスに送ってもらうという仕事でした。アルトゥールの専門とは全然関係無いし単発の仕事でしたが、とりあえずMethaにできることはこれが精一杯でした。Methaは資料を買うお金とビジネス・クーリエの送料、そして翻訳料をアルトゥールに渡し、イギリスに帰りました。

ところが2週間、1ヶ月待っても資料は送られてきません。特別急ぎでもなかったので、Methaはアルトゥールから何か言ってくるまで待つことにしました。しかしそのうちに2ヶ月が経ち、Methaはまたアルメニアを訪れることになりました。アルトゥールの家に電話をすると、彼はMethaのところにいそいそと資料と翻訳原稿を持ってきてくれました。

 

「どうしてすぐにビジネス便で送ってくれなかったの?」

Methaがそう言うと、アルトゥールはまた小さくなりました。

「友達が亡くなったんだ」

「?」

「すごく仲の良かった友達で…。家も近所で。だから葬式代を出してやろうと思って…」

「それで私の渡した送料を使ったの?」

「…あと、子供の稽古事の月謝もあったし…」

「アルトゥール、私はあなたに仕事を頼んだのよ。仕事の約束を守ることができなければ、信用はがた落ちになるということを知ってる?そうしたらもう二度とあなたはその相手と仕事ができなくなるのよ。私はあなたの苦しい状況を知っている。お友達が亡くなったことも大変だっただろうと思う。でも、それは私とあなたの仕事上の契約と全く関係の無いことでしょう。最低限の約束が守れないなら、しかも渡したお金を使い込んでしまうようなことをするなら、私はもうあなたを信用できない」

 

今でもMethaは、あの状況でアルトゥールにあんなきついことを言ってしまって良かったのかどうか確信が持てません。単なる高飛車で理解のない態度だったかもしれません。それでもここからアルトゥールが少しは何かを学んでくれはしなかっただろうかと思ってしまったのです。

そしてMethaも学びました。大切なのは、「混乱の中で何を思ったか」ではなくて、「混乱の中でどう生きたか」ということなのです。

 

その後アルトゥールは、アル中になってしまいました。

奥さんのルザンは「アメリカのお姉さんに子供が生まれたからその手伝いに」という名目で再びアメリカに呼び寄せられ、荷物をまとめてアルトゥールのもとから去っていってしまいました。彼女は時々アメリカからMethaにメールをよこしますが、アルメニアに残した子供達のことを思い悩みながらも、しかしアルトゥールのもとへ、そしてアルメニアへ帰る決心がまだつかないと言っています。アルトゥールがアル中のせいで子供達の面倒が見られないため、彼らはルザンの両親のもとに預けられることになりました。

そしてMethaは、見る影も無く痩せ衰えて顔色も悪くなってしまったアルトゥールが震える手でグラスを煽るのを前にして、もう彼にかける言葉が見つからないのです。

 

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