2001年12月(イギリス・ロンドン 新しいMethaん家)
せっかく数年間かけて前のフラットを修理したのに、修理が完了した途端、引っ越すことになった。
引っ越してから一週間も経たないうちに、下のフラットの住人が訪ねてきた。引越しそばでもくれるのかしらんと思いながら(逆だろ)ドアを開けた。「僕のところのバスルームの隣の部屋の壁がはがれてきたんだ。キミのところのバスルームが原因じゃないのかと思って」ともじもじしながら言う。
「えー、そうなの?きっと床に溢れたお湯が原因じゃないのかなー(注:バスルームの床に排水口のないイギリスではこれは珍しくない)。ごめんねー。気をつけるー」と愛想をふりまき、彼が帰った後急いで自分のところのバスルームの隣の部屋を見たら、あらまあ、うちも壁がはがれていた。これはうちの問題じゃない。建物全体の問題だ。いやーん。
プラマー(鉛管工)を呼んだ。
約束の日。
プラマーは来なかった。
あいにく車が壊れて修理に出したから来れなくなったんだと。もうすぐクリスマスに入っちゃうから年明けてからでいいかだと。
絶対ウソだ。
はははははは…。
もういや、こんな国。
(参考文献:「怒りのイギリス生活・住居編」 「旅の空から2000年7月」「旅の空から2001年6月」その他いっぱい)
2001年12月(イギリス・ロンドン)
日本では何もかもが美味しかった。そのせいでヨシギュウとか大衆食堂の400円カレーとか駅前のたこ焼きとかコンビニのお握りとかそうい
うものばかりに手が出て、実は高級な日本食を食べる暇がなかった。
というわけで(?)わざわざここロンドンで何年ぶりかに寿司カウンターに座った(もちろん人のお金)。アジやらウニやらに舌鼓を打っていると、突然キョーレツな香水が鼻を突いた。ぎょっとして横を見ると、隣に中年の黒髪のラテン系女性が座っている。メニューを持ってきた店員さんにむかって、不自由そうな英語で「あとからもう一人来るので…」と待つように言っている。
やがて男性がやってきた。二十代そこそこの若ぁい美青年。二人はイタリア語で会話を始めた。「遅くなってごめんよ」「いいのよぉ、気にしてないわ」「今日は僕がご馳走するから。ここは僕の行きつけの店なんだ」「まあー、素敵。わたし、日本食ってあんまり食べたことないのよ」「注文は僕にまかせてよ。僕がいつも頼んでるやつでいいよね」「もちろんよ」(注:イタリア語は分からないので全くの推定)。そして青年は見栄を張ってか、メニューを見ずに店員に注文した。「ええと、彼女にサシミ。僕はスシね」「……」店員さん(もちろん日本人)は少しの沈黙の後、気を取り直して口を開いた。「ええと、お刺身は前菜としてお持ちしますか?」「え?ちがうよ。サシミだよ。ほら、生の魚が色々あるやつ!スシはね、魚が上にのっかってるアレね」「…はい」 結局、その彼女は刺身しか食べさせてもらえなかった。
ふと反対側を見ると、これまた女性連れのイギリス人男性がカウンター越しに板さんを呼んでいる。「シェフ、このサーモンの握りなんだけど、これ、このあいだ来た時のものと同じクオリティなのかなあ。味がずいぶん違うよ」「あっ、どうも申し訳ございません」板さんはすぐに冷蔵庫から別の切り身を取り出し、新しく握って彼に差し出した。「ああ、これだよ。こっちのほうがいい」彼はそれを見るなり満足そうにうなずいた。…って見ただけで分かるんか!すごいツウなんやな!
などと、くすくす笑いながら彼らの博識ぶりを観察していたMehtaだが、実はそのイギリス人男性が「僕達、こんなの頼んでないよ」と言ってつき返したハマチの手巻きを、板さんからタダでもらったことは誰にもナイショ。
2001年10月(故郷にて)
キーを差し込み、久しぶりの愛車にまたがる。もう何年も動かしていなかったから、ところどころ錆びたりしていて痛々しい。今日は風が強く
てちょっとスピードを出すと横風に煽られる。久しぶりの運転だから少し用心しながらゆっくりと慎重に走り続けた。一雨きそうな空模様だ。
用事をすませ家路を急ぐ途中、ノスタルジックなオレンジ色の風景が目に飛び込んできた。ああ、こんなところにもあのカフェができたんだ。なんて懐かしいんだろう。もうはるか昔、仕事が辛くてどうにも耐えきれなくなった時にはこのカフェに来てカウンターに座り、一生懸命歯を食いしばりながら溢れてくる涙がおさまるまで時間を潰していたりしたっけ。
懐かしさに吸い寄せられるようにして、中に入った。「すいません、並盛りひとつおねがいします。たまごとみそ汁つけてね」
何年ぶりのヨシギュウだろう。しかも生卵が心置きなく食べられるなんて。あ、そう言えば日本も狂牛病騒ぎで大変なんだっけ。そんな何万分の一の確率よりも目の前の確実な幸せを選ぶ、そんな私の人生は間違っているのだろうか。ううん、私は決して間違ってはいない。閑散とした店内のもう片隅では、トラックの運転手さんらしき二人が黙々とどんぶりを抱えている。彼らもきっと私と同じ人生哲学を持っているに違いないのだ。ふとこちらに向けられた彼らの眼差しを感じ、私達は無言で深く頷きあった。
膨れたお腹をかかえて店を出ると、雨がぽつぽつと降り出した。早く帰らなくては。再び愛車にまたがり、力強くペダルを踏み出す。ひー、満腹の後にこぐ自転車はキツイや。上り坂の「立ちこぎ」ももう無理なお年頃になってきたみたい。
日本って平和やな。
2001年10月(ロンドンにて)
夜、地下鉄の駅でベンチに座って電車が来るのを待っていた。
一本目はMethaの乗りたい行き先ではなかったので見送る。すると女の子がホームに駆け込んで来た。ぴたぴたのジーンズとシャツを着て濃いめのバッチリメークをしている。「すみません、さっきの電車はどこ行きだったですか?」「エッジウェア・ロード行きのディストリクト線でしたよ」「ああ、良かった。サークル線じゃなかったのね」そう言うと彼女はコツコツと高い靴音を立てながらいらいらとMethaの目の前を行ったり来たりし始めた。そして大きな溜め息をついてはMethaの方をちらちらと見る。目が会うとにっこり笑って「ごめんなさいね」と言った。Methaが黙っていると、彼女はいきなりMethaの隣の席に座ってぴったり寄り添ってきた。「サークル線、5分待ちですって。いつも中々来ないのよね」「た、たった5分じゃないですか…」「その5分も惜しいのよ。そう思わない?」「…まあ、そうっすね。時は金なり」「ところで、あなたどこから来たの?」「え、に、日本…」「…日本語で『アイラブユー』ってどう言うの?」「(!!??)ス、スキデス、かな…」「あら簡単ね。スキデス、スキデス」「はぁ…」…や、やばい。もしかしてワタシ、狙われてル?
妄想がMethaの頭を駆け巡っているうちに目指す電車が来た。彼女とMethaは揃って電車に乗り、当然のように隣同士の席に腰を下ろす。あ、あのう、離れてくんないかなぁ…。そう思っていると彼女は突然「頭が痛い」と言って顔を伏せ両手でこめかみを押しはじめた。「だ、大丈夫?」思わず心配して声をかけると、彼女は顔を上げて潤んだ瞳でにっこりと笑ってみせる。「ありがとう大丈夫。ちょっと緊張してるだけ…」もうその瞬間、Methaの頭の中にはどうやって逃げようか、そのことしか頭になかった。
と、突然彼女の携帯電話が鳴った。目にも止まらぬ早さで電話を取り上げると、彼女は叫んだ。「ハーイ、ごめんなさい、今地下鉄なの。2分で行くから…待ってて…お願い…」そして切れた受話器に向かってちゅーちゅーしながら「わたしのベイビーなの♪♪」と言った。「あっそう…」何故かとてもほっとするMetha。彼女は多分初デートか何かでとてもナーバスになっていて、誰かと話していないと落ち着かない状況だったのだ。それから例によって地下鉄は何度か途中で止まったりした。その間、Methaは何故だか日本語とタイ語の違いを説明してあげたり、彼女が大学に毎日遅刻するその理由についてわけ知り顔に相槌をうってあげたりした。彼女はとりとめも無く喋るけれど実は全然上の空。
目的の駅に突き、彼女は出口へ、Methaは乗り換え口へ。「がんばってね!」と声をかけるMethaに彼女は少し興奮した様子で「ありがとう!!」と手を振った。恋する女の子はどこの国でもウイウイしいもんだなぁ〜。ほんの20分前は真剣に自分の身の危険を心配していたことなんか忘れて、遠い目をして見送るMethaであった。
2001年9月(ロンドンに向かう飛行機にて)
石油会社関係のエンジニアだという白人男性が隣の席だった。当然のようにアメリカでのテロのこと、そして予想される報復戦争の話題になる。「まるでSF映画だ。信じられない」大袈裟に悲壮な顔をして首をふる彼の表情と「映画」という言葉に、ふとある事を思い出した。
1999年の春、Methaはコソヴォ紛争へのNATOの軍事介入が終結した直後のバルカン半島にいた。コソヴォにはまだ地雷やしかけ爆弾などが大量に残存していたため、NATOの爆撃が終了してもすぐに現地に入ってはいけないと言われていた。「西側」から押し寄せた無数のジャーナリストや援助団体、物見遊山の政治家達は隣国のマケドニアで「待機」している。マケドニアの首都スコピエで仕事をしていたMethaは、ある日の夕方、会議に出席するためあるホテルに向かった。新しい豪華ホテル。入り口を入ると、ロビーの一角に設けられたバーやソファにはビールを片手にした「戦場ジャーナリスト」達がぎっしりとひしめきあっている。BBCやCNN、日本の大手放送局のクルーもいれば、フリーで単身乗り込んできたのもいる。誰もが目を輝かせて頬を薔薇色に紅潮させて話し込んでいる。場違いなほどいきいきした雰囲気。活気に満ちあふれている。彼らはきらきらした目で笑っていた。
一人の男性が目の前を通りかかりながらMethaに向かって興奮で真っ赤になった顔で叫んだ。「今日国境を越えてコソヴォに入ってきたんだ!メディアでは一番乗りだった!イエー!」
会議の帰り、Methaの車を運転してくれていたマケドニア人青年は途中で道の真中に落ちていた空のコーラのペットボトルをわざと車で跳ね飛ばした。「ひそかな復讐だ」彼は顔をひきつらせて笑った。小さな憎悪はふとしたところから少しずつそして確実に醸成されていく。ここでは誰が「敵」なのか。それは永遠に、正確なかたちで我々外部の人間に伝えられることはない。
「そんなこと考えもしなかった」。そのエンジニアは目を丸くした。この人にも永遠に分からないだろう。そう思いながら黙ってにっこりと笑った。
2001年9月(トビリシからバクーへ向かう汽車にて)
前回この鉄道に乗ったのはもう10数年前、まだソ連の時代。Methaもあの頃は恐いもの知らず、失うものは何も無かったので、もちろん一
番安い切符で旅をしていた(それでも相当高かったけれど)。当時、外国人が利用することが許されていたのは一番安くても4人用のコンパートメント。また同じ列車に同国籍の乗客がいれば、同じ部屋にまとめられてしまう。Methaは同室になった他の日本人旅行者や隣のコンパートメントのロシア人、ウズベク人、アゼリ人などと夜通しトランプの「大富豪」をやった。カタコトのロシア語でルールを説明するのは至難のわざだったが、みんな驚くほど理解が早くてあっと言う間に大熱戦となった。一ラウンド終わるごとにどこからか湧いて出てくるウォッカでカンパイ(ちなみにMethaは未成年)、フィルターのないソ連製の激烈タバコをふかして咳き込んでみたり(ちなみに未成年)、夜中に途中の駅で降りて去って行く二度と会えない友人達と記念撮影をし、泣きながら見送ったり(酔っ払っていたから)、愛と感動の体験をしたのであった。
今回、少しばかり(?)年を重ね、恐いものもたくさん知って失ったら困るものもたくさん抱えているMethaは、もちろん一等の個室で旅をする。一等の車輌はがらがら。隣から携帯電話で神経質そうなロシア語をしゃべる女性の声がひっきりなしに聞こえてくる。携帯電話かぁ〜…。あの時は三色蛍光ボールペンを持っているだけで車内中の人気者だったのに。
電気のスイッチと間違って係員呼び出しのボタンを押してしまったらしい。すぐに「マダム、どうかなさいましたか?(←英語)」と、係員の青年がやってくる。あの頃は英語なんか「サンキュー」すら通じなかったのに。あの頃はソ連全土にわたってボタンというボタン、スイッチというスイッチが壊れていて(あるいは最初からどこにもつながってやしなくて)、作動する方がおかしいぐらいだったのに。
この10数年のうちに何が起こったのだろう。彼等にも、そして自分にも。これからどっちの方向に向かうのだろう。「成長する」ということは何だかつまらないものだ、と少し思ってしまった。(ちょっと違うかしら?)