こわいこわいバスのお話(続編)

 

頼んでもないのにバスのお話続編ができてしまいました。

 

EU加盟国間の物流や人の移動の自由が進む中で、様々な財について品質や規格の統一が図られている事はご存知でしょう。その対象となる財は、肉や野菜から車輌や建物の建築基準まで、様々な分野に及びます。

ところがこのロンドン名物、オープンデッキで乗り降り自由のダブルデッカーは「EU標準」とは認められていないそうです。その理由は「危険だから」。きっとそのうちロンドンからこのタイプのバスは消えてしまう事でしょう。それはそれで寂しい気持ちもしますが、「危険だから」というEUの判断は正しいとMethaはその話を聞いたとき大爆笑しました。

やがて自分の身にふりかかる運命も知らずに。

 

それはMethaが旅先からロンドンに帰ってきた時のことです。

空港から市内の駅までたどり着いたMethaは少し考えました。さて、ここからどうやって帰ろうかな?いつもならMethaはタクシーを使います。旅のあとは身も心もぼろぼろに擦り切れてしまっている(?)上、でっかいスーツケース、背中にリュック、左肩にコンピューターのバッグ、そしてその他入りきらなかった書類を入れたりしているずだ袋などなどでよたよたしているのが普通だからです。

しかしその日はちょっと違いました。その旅は普段より短いものだったので、荷物はいつもより小さいスーツケース一つとコンピューター、そしてその他のものを入れた小さなビニール袋だけだったのです(それでもよたよただったことには変わりないのですが)。

「これならバスにも乗れるな。タクシー代、節約しよう」…ああ、そんなあさましい関西人根性を出したのが間違いのもとでした。

 

10分程待って、ようやくバスが来ました。もちろん「伝統的ダブルデッカー」、乗降口のドアが無くオープンデッキになったやつです。Methaはコンピューターを肩にかけなおしビニール袋を左手に持ち替え、そしてスーツケースを持ち上げバスに乗せようとしました。

「お、重いぃ…」

親切な車掌さんなら「お嬢さん、大丈夫ですか。ここに置いておきますからね、安心して前の方の座席に座って下さい」などと言って手伝ってくれて乗降口のすぐ奥にある荷物置き(普段はベビーカーなどをよく置いています)に入れてくれるのですが、そのバスのおっさんはじろっとMethaを横目で見ただけでさっさと他の乗客の検札に行ってしまいました。

スーツケースをバスに押し上げるだけで精一杯だったMethaは、更にスーツケースを荷物置きに持ち上げることができず、仕方なくその片隅にスーツケースを立てかけ、自分はその側に立ちました。両手はコンピューターとビニール袋でふさがっています。

そして、Methaが乗ってから1分も経たないうちに悲劇は起こったのです。

 

バスの運転手はとても乱暴でした。

バスがスピードを緩めずに角を曲がろうとした時、Methaのスーツケースは、バスの床をごろごろと、オープンデッキの方に向かって転がりだしたのです。

「ああ〜、スーツケースが落ちる〜!!」

Methaは思わずスーツケースの後を追いかけました。ところが次の瞬間、バスは何故だか急にスピードを落としたのです。

がくん。

スーツケースはかろうじて外には落ちず、脇の壁にぶつかって止まりました。しかしMethaは勢いで更に二、三歩前に踏み出しました。…二歩、三歩。

しかしバスの床は非情にも、二歩半分しかありませんでした。三歩目を踏み出したMethaは、次の瞬間宙を舞ったのです。

 

びった〜ん!!!

 

確かに文字通りこのような音がしました。

Methaはアスファルトの道路の上に、コンピュータとビニール袋を両手にしたまま、文字通りうつ伏せの大の字になって墜落したのです…。

バスはエンジンをふかしながら絶好調で走り去って行きました。勿論Methaのスーツケースを乗せたまま。

 

「うそだろー……」

Methaはうつ伏せになったまま声に出してつぶやきました。こんなに派手にこけたのは小学校以来かもしれません。自分の無様さがちょっと信じられませんでした。同時に頭の片隅では、「ほお、転んだときは本当に『びったーん』という音がするもんなんだ!」などと考えていました。

しかし次の瞬間、何とMethaはむっくり起き上がり、よろよろと走り出したのです!

「スーツケース!!!!」

それはほとんど無意識の行為でした。何とどうしたことか、Methaは自分の体よりもスーツケースを心配したのですっ!!!

 

Methaを振り落としたバスのテールランプが遠くかなたにかすかに見えます。次のバス停で止まっているようです。倒れた瞬間は感じなかった痛みが両肘と両膝を襲いました。それでもMethaは走りつづけたのです!「私のスーツケース!!あそこには、仕事の書類が…皆へのお土産が…友達に貰った大事なプレゼントが…!!(それに免税店で買いだめした化粧品も入ってるんだぞ!)待ってぇ〜!!」(その時のMethaはきっと、奉公に出されるおしんを雪の中で髪を振り乱して追いかける泉ピン子のような形相だったに違いありません)

 

しかし、そのうちに少し冷静さを取り戻したMethaは走りながらぐるぐると考えました。

「もしこのままバスが行ってしまったらスーツケースを取り戻すにはどうしたらいいのだろう。ロンドン・トランスポートの遺失物課か何かに電話するのか。そしてたらいまわしにされた挙句、『お探しのものは届いていません』などと冷たく言われるに違いない。バスの運ちゃんがガメちゃうかもしれないし。ああ、せめてバスのナンバープレートだけでもチェックしておかなければ。時間と場所も覚えておかなくちゃ。いや、でもあの状態だと終点に行くまでに振り落とされるかもしれない。だったら終点まで道をたどって探さなきゃいけないのかっ!!??やめてくれぇ〜!!」

 

…Methaの必死の追跡も虚しく(当たり前ですが)、バスはまたもやMethaを遠く後ろに置き去りにしたままバス停を出発してしまいました。Methaは息切れとじわじわと襲う打撲の痛みに屈し、とうとう足を止めて道路にへたり込んでしまいました。

「ああ…戻ってこなかったらどうしようぅ〜…」

 

すると!!!

向こうから四人の男性が何やら大声で叫びながら近づいて来ます。そしてそのうちの一人は何とMethaのスーツケースをごろごろと引きずっているではありませんかっっ!!!

「大丈夫ですか!!」

四人の男性は口々に言ってMethaを取り囲みました。アメリカ訛りの中年男性、ドイツか北欧訛りの若者、アラブ系の若者、そしてまだ10歳ぐらいのこれまたアラブ系の少年でした。スーツケースを引きずって来てくれたのは北欧の若者でした。

「ああ〜、スーツケース、救ってくれたんですね〜」Methaはそれだけで天にも昇る心地でした。

「ええ。でもそんなことよりも、体は大丈夫なんですか!?」

それは当然の質問です。Methaは慌てて痛がっているフリをしました(いや、本当に痛くなってきていたんですけれど)。

「どこを打ったんです?骨とかは大丈夫ですか?」アメリカ人のおじさんが覗き込んで聞いてくれます。

「酷いですよ、あなたが落ちた後、乗客は皆大声でどなったり運転席のガラスをたたいたりしたんですけど、バスを止めなかったんですよ!!車掌も何にも言わなかったしね!」アラブの若者が不自由そうな英語で憤慨しました。

「明日病院行きなよね、ちゃんと調べてもらった方がいいよ」少年も熱心に言ってくれました。

 

皆でわぁわぁ言いながら、Methaと四人はとりあえず次のバス停まで歩きました。

アラブの若者と少年はMethaと同じところまで行くことがわかり、目的地まで二人が送ってくれることになりました。「本当に大丈夫?じゃあ僕達はこれで。ちゃんと送っていってあげてね」アメリカ人男性と北欧の若者は反対方向に去っていきました。

それから「もうバスに乗るのはやめよう」という若者の提案で、彼はスーツケースを、そして少年はコンピューターを持ってくれ、Metha達は歩くことにしました。実は歩いても大した距離じゃなかったのです。

「もう少し先で落っこちればよかったのにね」

青年はそう言い、三人はげらげら笑いました。

 

それから20分ほど歩きながらぽつりぽつりと話をするうちに、若者はエジプト人、少年はクルド人であることがわかりました。そしてMethaはいつの間にやら中国人ということになっており、中国に一時帰省していてこれから中華料理屋にご飯を食べにいくところなのだということになっていました(茫然自失のMethaが適当に返事をしていた結果そうなった)。

今冷静になって考えると、彼らは落っこちたMethaを心配して自分が降りるバス停でもないのに降りて様子を見に来てくれたのです。Methaは本当に本当にこの二人、そしてスーツケースを引きずってきてくれた北欧青年とアメリカ人男性に感謝するのでした。ああ、世の中には親切な人がいるもんだ!

 

そしてMethaはまたまた様々なことを学んだのでありました。

ロンドンにだっていい人はいる(…その多くはイギリス人じゃなかったりするけれど)。

しかし、やっぱり旅の帰りにはタクシーを使うべし。バスは本当に危険な乗り物なのだ。

 

それから4日後、Methaは全身あざだらけのまま次の国へと再び旅立ったのでした。いてて。

 

(つづく)

 

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