イギリスでは、住居を借り入居する時に「インベントリー・チェック」というフシギな儀式が行われます。非常に大掛かりな儀式です。出席者の顔ぶれは基本的に、入居者、大家さん、仲介不動産屋などですが、Methaの場合そこにアパートメント全体を管理する業者のおじさん、そして「インベントリー・チェッカー」と呼ばれる謎のおじさんが加わり、実に盛大な儀式になりました。
ちなみにMethaの入居したフラットは「新築」で(奇跡です。イギリスで新築物件なんてほとんどありません)、大家さんは財テクのためだけにそれを購入したシンガポールの富豪。フラットのことは物件購入から内装まで全てロンドンに住む「代理人」(これもシンガポール人のおばさん)に任せっきリで、自分の目でそのフラットを見たこともないという人です。というわけで「インベントリー・チェック」の日にはその代理人のおばさんがやってきました。
さてこの儀式では何が行われるのでしょう。
Methaは「インベントリー・チェック=在庫調査=たなおろし?」などと連想してしまったのですが、住居の場合、これは要するに住居の状態を関係者全員で確認してまわって、後でモメごとを起こさないようにしましょうね、ということなのです。またその時に、入居者が大家さんに「このドアノブがはずれそうだから修理してちょうだい」などと注文することもできます。ここでクレームしておかないと、後になって騒いでも「どうせあんたが壊したんでしょ」ということで修理代は自己負担になってしまいます。
というわけでこの儀式は、とても、とても、とても大切なものなのです。そこで登場するのがチェックのプロ、「インベントリー・チェッカーおじさん」というわけなのです。
おじさんの商売道具はただ一つ。小さなボイス・レコーダーです。おじさんは部屋中をくまなく歩き回ってレコーダーに向かって早口で喋りつづけます。
「入り口。クリーム色の木製のドア、鍵二つ、ドア中央部に5センチほどの傷あり。入り口横の壁、白、上部にしみあり・・・」
「主寝室、キングサイズのベッドひとつ、白のシーツ、布団カバー、クリーム色ふち飾りつきのベッドカバー。壁には絵画2点・・・」
などなどと喋りながら、電気のスイッチをつけたりガスの栓をひねったり洗濯機のスイッチを入れてみたりと、設備がきちんと機能しているかどうかも全部調べてくれます。Methaは「ほぉ〜」と感嘆しながらおじさんの後をついて回り、ついでに管理業者のおじさんから様々な機械器具の使用方法の説明を受けました。
インベントリー・チェックは40分ぐらいかかりました。
「これは短い方なんですよ」
チェッカーおじさんは言いました。
「築年数が経った物件の場合は、色々とトラブルが多いですから通常1時間半ぐらいかかりますねぇ。Methaさんはこんな新しいフラットに住めて幸運ですよ。全てが新しいですからね。チェックも早いのです」
「ほぉ〜そうですかぁ〜」
チェッカーおじさんはチェックを終えると、Methaと大家さんに手書きのキタナイ紙を渡しました。そこにはチェックの際に見つかった修理個所が書いてあります。
「キッチンのドアの建付けが悪いので修理すること、シンクの下の板が割れているので交換すること、風呂場の電球が一つ切れているので新しくすること・・・」
他にもMethaが気づかなかったことが盛りだくさん指摘されていました。
中でも一番重要だったのは、「風呂桶の栓が無いから新しく付けること」という指摘でした!おおお!これは重要です。風呂桶の栓が無ければお風呂に入れないではありませんか!イギリス人ならそんなことどうでもいいでしょうが、日本人Methaにとっては死活の問題であります。Methaはチェッカーおじさんに深く深く感謝したのでありました。
何だ、イギリス人にもちゃんとプロ意識のある人がいるんじゃん!Methaは少しイギリス人に対する評価を改めました。こういう痒いところに手の届くようなをするイギリス人もいるのだね!
大家代理人のおばさんはとりあえず早急にお風呂の栓と新しい電球、それからキッチンとお風呂場のドアのためのストッパーを持ってくるように管理業者のおじさんに依頼してくれました。おじさんは愛想良く笑って「では明日にでも持って来ますよ。Methaさん、お仕事から帰られたらお電話下さい。すぐ持ってきますので」と言ってくれました。
最後にMethaと大家の代理人は一緒にチェッカーおじさんの書き出した項目を確認し、その紙にサインしました。続いて不動産屋の持ってきた契約書にサインし、めでたくMethaはこのフラットの住人となったのです。
「チェッカーおじさん、本当に本当にありがとう!
イギリス人とはとても思えないあなたのそのプロ意識、その職人技(?)、良心的な仕事ぶり。
Methaは一生忘れません・・・」
Methaは感謝の気持ち一杯でチェッカーおじさんの背中を見送りました(おじさんは時間制の路上駐車場がタイムオーバーになっちゃうと言って、Methaがうるうるしているのにも気づかずあたふたとフラットを出て行きました)。
ここまで読まれた皆さんは、「あれ?じゃあどうしてMethaはイギリスが嫌いなの?」と思われたことでしょう。確かにこのチェッカーおじさんにはMethaは全く不満はありません。
これはまだ話しのほんの始まりに過ぎないのです。嵐の前の静けさと言って良いでしょう。
冷静に考えれば単にきちんと仕事をしただけのチェッカーおじさん。これが日本であれば何も取りたてて褒めちぎることはないのです。しかし何故Methaはチェッカーおじさんに対してここまで好印象を持っているのでしょう。
それは、その後があまりにもひどすぎるからなのでした・・・。