英国医療事情1

 

「ゆりかごから墓場まで」。世界に誇る福祉大国イギリス。皆さんもきっと中学生の頃そう学習したことでしょう(今でもそう教えているのかしらん?ちょっと疑問です)。その代表例が「ナショナル・ヘルス・サービス(National Health Service : NHS)」であります。医療サービスに含まれるほぼ全てのコストが政府予算(つまり税金)で賄われ、この医療サービスは原則無料で提供されます。イギリスに住み税金を納める人たちは誰でも、このサービスを受ける権利があります。外国人でも同じです。

ああ、誰もが無料で医療サービスが受けられる!なんて安心、なんて素晴らしいシステムなのかしら!

 

…しかしこの世知辛い現代、そんなにウマイ話があるわけはありません。しかも舞台はイギリスです。もちろんこのシステムが考案され政策が実施された頃は誰もが素晴らしいシステムであると確信していたことでしょう。ところが現在のNHSときたら、問題山積みなのです。人を救うどころか逆に病気を悪化させて、悪くすれば死に至らしめてしまうこともあり、大きな問題となっています。

素人目にも、一見しただけでNHSのシステムが崩壊したのにはいくつもの理由があることが分かります。財源が限界にきていること、技術力のある医者や看護婦の数が絶対的に不足していること、病院経営がきちんと管理されていないこと、十分でない給与と過酷な労働による医療従事者のモラルの低下など、数え上げていったらきりがありません。テレビやラジオのニュースでもほぼ毎日と言って良いほどイギリスの医療サービスのあり方とその問題点、改善の方法などについて批判や論争が巻き起こっています。

 

ところで、幸か不幸かMethaは「異常」とも言える健康体で、長じてからはほとんど病気らしき病気をしたことがありません。なのでもちろんイギリスでも病院に行ったことが一度たりともないのです。ちょっとした風邪なら水をがぶ飲みしてコンジョーで治します。薬もほとんど飲みません。生まれてこの方一本も虫歯がないと言うのも、Methaの数少ない美点の一つです(あんまり関係ないか)。個人としてはこれほどラッキーなことはありませんが、しかしこの「怒りのイギリス生活」の執筆者としては少しクヤシイ思いもあります。だってイギリスの誇るこの「無料医療サービスシステム」の実態を、我が身を持って体験できないんですもの。

しかしだからと言ってわざと病気になったり故意にケガをしてみたりして、無理矢理病院に行ってみるという様な離れわざも、これまた恐くてできたものではありません。体当たり取材がウリのMethaと言えどもやはり命は惜しいのです。

 

…と言うわけで、イギリスに四年ほど住んでいた日本人のお友達トモコちゃんに、彼女が実際に体験した恐怖の病院物語を語って頂くことにしました。

以下はトモコちゃんが当時の恐怖を綴って知り合いにメールした文章をもとに、Methaが更に本人に直接事情聴取を行い(トモコちゃんご自身の身振り手ぶりつき。これは貴重な資料でした)まとめたものです。全て本当のお話です。ここにはイギリスのNHSの現状のありのままの姿が、そして否定しようもないその本質が白日の元に曝されています。

 

さあ、恐がらず、勇気を出して読んでみましょう。何事も真実を知るところから始まるのです…。

 

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その日、トモコちゃんは新しいフラットに引っ越して来たばかりでした。知り合いで車を持っている人に手伝ってもらい無事に荷物を運び終えたトモコちゃんは、その人を駐車場で見送りました。

「どうもありがとうございました」と頭を下げ、駐車場のゲートを閉めようとしたときのことです。…ゲートは鉄製で、電車の踏み切りと似たような形をしており、開閉は手動のものでした。トモコちゃんはそれを閉めようとして、その重い鉄製の踏み切り棒を思い切り倒しました。地面に垂直に立っていたゲートは勢いよく傾いてきます。

「あ、ちょっと勢いをつけすぎたかな」と思った瞬間、トモコちゃんは左手に衝撃を感じました。

「あっ!」

見ると中指から大量の血が流れています。

そう。トモコちゃんは左手中指の先を踏み切りバーの蝶番にはさんでしまったのです。ぱっと見ただけでも、中指がざくろのように割れて、本当に文字通り、指の先端が無くなっています。

 

うわー!!

 

パニックにならないようにトモコちゃんは全身の力を振り絞って気を奮い立たせ、急いで部屋に戻りました。しかし引っ越したばかりなのですから、当然電話はまだつながっていません。とりあえず携帯電話をつかみ、たった今帰路についたばかりの知り合いの携帯電話に電話し病院に連れて行ってくれるよう頼みました。それからあわてて財布とタオルといくつかの必需品を抱えて外に飛び出しました。その間も血はどくどくと流れています。

トモコちゃんは戻ってきてくれた知り合いの車に飛び乗り、近くの救急病院へと急ぎました。

 

救急病棟は土曜日の夕方ということもあり、かなり混雑しています。付き添ってくれた知り合いが人ごみをかき分けて主張してくれたおかげもあって、トモコちゃんのところにはすぐに看護婦さんが来てくれました。看護婦さんはトモコちゃんの指の状態をチェックしました。彼女はとりあえず止血して痛み止めを処方し、破傷風の予防接種の有無、血液型などの簡単な問診を行いました。なかなかスムーズな対応です。

ああ、やっぱり救急病院、いくらイギリスの病院がひどいとは言ってもさすがに救急医療はマトモなのねっ!

 

しかしトモコちゃんの幸運はそこまででした。

 

…そして一時間が経過しました。

 

そのあいだトモコちゃんはどこにいたのでしょう?そう。待合の椅子にじっと座っていました。どくどくする指を見つめながら。

 

と、突然トモコちゃんの目の前に白衣を着た一人の先生が現れました。先生は手を不安そうに眺めた後、トモコちゃんにレントゲン室に行くように言いました。レントゲンを撮った後、更に三〇分くらい待ったところで先ほどの先生がまた登場し、おずおずと告げました。

「ええと、もしかしたら指を切断するかもしれません。とりあえず相談してきます」

先生はトモコちゃんにそう言い渡すと、ショックで押しつぶされそうになっているトモコちゃんを残し、いずこへともなく姿を消しました。

相談?相談って何やねん、誰にやねん!!しかも切断って、そんなに間単に言うな!!

      

・・・そして待つこと更に一時間。

 

おお、今度は手術服を着た背の高いのっぽの先生がやってくるではないですか!!

い、いきなり手術ですかい、切断ですかい!トモコちゃんは恐れおののきましたが、しかしすぐに、その先生は別の患者の手術中にトモコちゃんを診察しにやってきただけで別にトモコちゃんを手術するのではないらしいことが判明しました(…それにしてもその間、手術中の患者は一体どんな状態になってたんでしょう…考えないことにしましょう…)。

トモコちゃんの指をいじくりまわし、角度を変えて眺め、うなり、うなずき、そうして診察した後、のっぽ先生はヒトコト言いました。

「うーむ。これは面白い」

なぬ?面白いだと?

トモコちゃんはだんだん気が遠くなってきました。この時点で事故からすでに三時間は経過しているのです。今ではとりあえず血は止まったとは言え、出血量は相当なものです。痛み止めもそろそろ切れかけてきています…。

遠い目をしているトモコちゃんの手をとって、のっぽ先生は言いました。

「いいかい?落ち着いて聞いてね。なくなった肉片はどうしようもないから、その傷口に他の皮膚を移植する手術をするのがいいかもしれない。手術は今晩か明日の朝にしよう。心配しないで、一番いい方法を考えるよ。とりあえず今日は入院してもらおうかな。…あ、実は僕、今手術中なんだよねー。ここでちょっと待っててくれる?」

もはや呆然として反応もままならないトモコちゃんに向かって、のっぽ先生は右手の親指を立ててぐっと前に突き出しました。

「ドント・ウォーリー!!イェー!」

トモコちゃんはガタイの良い無駄に陽気な手術着の背中を、うつろな目で見送りました。

 

そして三〇分が経過しました。

 

今度はエメラルドグリーンの目をした美形の若い先生がやってきました。

「僕はさっきののっぽ先生の下で働いているんだ。彼から聞いたと思うけど、手術をするかもしれないので問診します。正確に答えてね」

美形の先生ということもあり、絶望の淵に立たされたトモコちゃんにとって彼はまるでトモコちゃんの命を必ずや救ってくれる運命の恋人のように見えました!!手術経験や麻酔アレルギーについてなどなど細かい問診をすると、しかし、彼は無情にもまたこう言ったのです。

「手術をいつするかは今相談してくるので、ちょっと待ってて」

ああ〜、行かないで〜、また一人にしないで〜!!

彼はさわやかな笑顔をキラリと向けると、

「大丈夫、僕を信じて!ふっ!」

と言い残し、白衣を翻して去っていきました。…あのヒトならきっと助けてくれる。トモコちゃんは白馬に乗った騎士を涙ながらに見送りました。

 

更に三〇分。

 

再びエメラルドグリーン先生が帰ってきました。そしてにっこり笑って当然のように言ったのです。

「あのね、入院はしなくていいです。今日は帰っていいですよ。月曜日に来てください。あ、そうだ、傷口を消毒するんだった。ちょっと待っててください」

くわぁ〜!!

トモコちゃんはもう為されるがままの仏像と成り果てていました。もういいの、手術の日取りや方法なんかどうだって。とにかくこの指を、包帯巻いてるだけのこの指を、とりあえず何とかして!!頼む!!

トモコちゃんがそのままぐったりと待合の椅子に座っていると、今度はのっぽとエメラルドグリーンが一緒にやって来ました。二人とも何だかとっても楽しそうです。

「朗報だ!手術方式を変えることにしたよ!キミのケースはとても面白いので、新しい手術を試してみようかと思うんだ!僕にまかせて!ドント・ウォーリー!!」

のっぽは誇らしげにトモコちゃんに宣言しました。彼の右手の親指ままたしてもトモコちゃんの方に向かってぐっと突き出されました。

「指の下の方から出来る限り肉を持ち上げてきて、元の指の形に近い形で復元させるものなんだ!早ければ火曜日の午前中にやるから、月曜日にまた来てね。今日は傷口を消毒したら帰ってよろしい。」

 

病院に飛び込んでから合計で五時間。

トモコちゃんはようやく麻酔の先生に指先を消毒してもらい、痛み止めと抗生物質をもらって釈放されたのです。しかもその日の成果(?)は痛み止め、レントゲン、消毒のみ。

その日トモコちゃんは昼も夜もろくにご飯を食べていませんでしたが、もちろん食欲がわくはずもなく、じんじんとする手をかばうようにしてベッドに入りました。

 

つづく

 

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