オレーグ2号

 

Methaにはもう一人、オレーグという名前のお友達がいます(本当のロシア語の発音は「アレェグ」が最も近いので、Methaはロンドンにいるオレーグ1号には「オレーグ」、このオレーグ2号には「アレェグ」と呼びかけて区別することにしています)。ただし友達だと思っているのはMethaの方だけです。オレーグ2号の方はMethaのことを、きっと「時々モスクワにやって来る何だか良く分からないけどちょっとウルサイ日本人」と思っていることでしょう。

オレーグ2号はMethaが知る限り、最も「ロシア人らしくないロシア人」です。

 

ロシア人らしくない、というのはどういうことでしょうか。

彼は「ニュー・ロシアン」と呼ばれる胡散臭いリッチでバブリーなロシア人とも、はたまた「伝統的ロシア人」− つまり泥臭くて大胆、極端から極端に走る、不敵にしぶといというタイプとも全く違うキャラクターです。Methaはオレーグ2号に会うたびに「ああ、オレーグみたいなロシア人ばっかりだったらこの世は平和なのに」などと思っちゃったりします。

オレーグは「日本人もびっくり仰天の几帳面、真面目、勤勉、仕事熱心、口数少なく、そしてこれ以上はないほどひかえめなロシア人」なのです!!

 

オレーグはモスクワにある外資系企業の駐在員に雇われるお抱え運転手をしています。駐在員は数年でどんどん交代していくのですが、オレーグを雇った外国人は例外なく彼の正直で真面目な仕事振りにいたく感激するので、必ず自分の後任の駐在員あるいは知り合いに口をきいて、彼を引き続き雇ってもらえるように取り計らってくれます。だからオレーグはこの仕事を始めてから一度も失業の憂き目に合ったことはありません。

オレーグの車への愛情もまた深く、細やかです。

爽やかな夏の午後であろうが、雪も凍りつく氷点下20度の冬の朝であろうが、時間さえあればおばさんの割烹着のような紺色の作業着とピンクのゴム手袋をして、車を洗ったり車内を掃除したりしています。だから毎日毎日モスクワの殺人的な交通事情の荒波に揉まれている小さな車(ちなみに日本車です!)も、中も外もいつもピカピカ、エンジンの状態も絶好調です。

 

ところで既に述べたように、オレーグはめちゃめちゃ無口です。そして恥ずかしがり屋なのです。オレーグが空港に迎えに来てくれた時はMethaいつも嬉しさ一杯で挨拶します。

「オレーグ!!!こんちわっ!!お元気ですか??」

するとオレーグは下を向いたまま、恥ずかしそうに口をもごもごさせ、

「こ、こんにち・・・」

と言いながらMethaのスーツケースをさりげなく取り上げ、くるっと背を向けてすたすたと車のほうに歩いていってしまうのでした。しかしMethaは知っているのです。そんなオレーグを背後から眺めると、彼の首の後ろと耳がいつも真っ赤になっているのを。

「ああ〜。ほんとにオレーグみたいなロシア人ばっかりだったらいいのにぃ・・・」Methaがため息をつくと、隣にいるオレーグの雇い主も深く深く頷くのでした。

 

ある真冬の日のことでした。その駐在員氏が昼の間は車を自由に使っていいと言ってくれたので、Methaはオレーグの運転でとある公園に散歩に行くことにしました。オレーグは運転しながら、いつものように遠慮がちにどもりながら口を開きました。

「・・・で、でもどうして、あんなところ、散歩したいのですか・・・」

「えっ?だって今日は雪が綺麗じゃない。私、あそこは夏しか行ったことないのよ。真冬はどんなのか見てみたいのっ!」

「・・・」

黙々とオレーグは運転を続け、車は目的地に到着しました。Methaは颯爽と車を降りようとしました。するとオレーグがおずおずと言ったのです。

「あ、あの、帽子かぶらないと・・・」

「帽子?持ってないもん」

「・・・せめてハンカチでも・・・」

「ハンカチ?ハンカチを頭にかぶるの?」

 

オレーグのおずおずとした進言にタダならぬモノを感じたMethaは、理由はさておき、持っていた花柄フェイスタオルを頭に乗せ、温泉にでも行くような格好で散歩しました。見てくれなんかどうでもよいのです(だってその時公園で散歩している人などいませんでしたし)。しかし車の外に出たMethaは1分もしないうちに全身が有刺鉄線でぐるぐるまきにされたような痛みを感じ、それでも根性で15分散歩した結果、帰りの車では口を聞くのもやっとの仮死状態でした。

 

「ざ、ざぶいよ・・・オレーグ・・・」

「ええ・・・。この寒さだと・・・脳みそが、凍るんです・・・」

「え゜?」

「ハンカチだけでも頭にのせていると、安全です。脳みそ、凍りません・・・」

「えええええっ!!」

 

・・・オレーグはそんなMethaを黙って悲しそうに見ていました。

脳みそ凍るなんて、もっと早く言ってよ、オレーグ!!言ってくれたら散歩を思いとどまったのにっ。

ちなみに後でテレビで知ったところによると、その日はその冬で最も寒かった日で、日中でもマイナス27だったそうです。

 

オレーグの控えめさや口下手さは時として、あのハゲシすぎるロシア社会では気の毒なほど頼りなく見えます。オレーグはいつも何か口を開く時ちょっぴりどもったり言いよどんだりします。もしかしてそれはMethaが外国人だから気を使っているせいなのかもしれませんが、とにかくオレーグの口調はまさに「蚊の泣くような」感じです。「蚊の泣くような」ロシア語なんて、それ自体奇跡のように思えるぐらいなのですが、オレーグの場合は本当にカヨワく消え入りそうな感じなのです。また、オレーグの方からMethaに話しかけることは滅多にありません。

 

しかしある日のこと、どうしたわけか突然オレーグが妙に饒舌になったことがありました。

 

「Methaさんはどうしてこんなにたくさん仕事をしてるんですか?」

ある日オレーグは突然、車の中でぽつりと言いました。

Methaは少しびっくりしました。先にも言ったように、オレーグからMethaに何か口をきくことなんて、しかも個人的なことを質問するなんて、とても珍しいことだったからです。

「ええっ。うーん、どうしてだろう・・・?別にすごーく働きたいというわけでもないんだけれど・・・」

「結婚とか、しないんですか」

「ああ、そうねえ・・・。えーとね、難しいのよ、いろいろと。はっはっはっ(←あまり複雑なことはロシア語で説明できない)」

「でも、結婚は、あまり早くしない方がいいと思います・・・」

「え゜・・・」

 

控えめでシャイなオレーグとは対称的に、彼の奥さんは勝気で鼻っ柱の強い「典型的な」ロシア女性です。オレーグは18歳の時に奥さんと結婚しました。ソ連が崩壊して社会が不安定になってからはそうでもありませんが、オレーグの世代のロシアでは、男性でも178歳で結婚するのは普通のことでした。

な、何か結婚生活に危機でも生じたのか、とびびったMethaが黙っていると、オレーグは前を向いて運転しながらぼそぼそと喋り続けました。

「この仕事、本当に楽しいんです。●●さん(駐在員氏)には給料もよくしてもらっているし・・・。この仕事をはじめてからやっと妻も幸せになりました」

「・・・」

「前の仕事も僕は好きだったけれど、国がいろいろと大変なことになってからはお金が全然入らなかった。妻はいつも幸せじゃありませんでした」

 

オレーグは16歳で学校を卒業すると、自動車整備の専門学校に行きました。社会主義時代のソ連ですから、その学校に行けば余程のことがない限りどこかの自動車整備工場に自動的に就職できます。オレーグは割り当てられたモスクワ郊外の自動車整備工場に就職し、ソ連が崩壊してもしばらくはそこで働いていました。自動車をいじるのがひたすら大好きなオレーグはとても幸せでしたが、奥さんは不満があったようです。その不満は、ソ連が崩壊して国の経済が完全にマヒし、国営企業という国営企業が全て壊滅状態になってからは更に大きくなりました。何ヶ月も給料が出ないことなど当然です。オレーグは仕事もなく給料も出ない工場に毎日行き、適当に時間を潰す日々を過ごしました。奥さんはオレーグに何か他の仕事を見つけるように何度も頼みましたが、オレーグはあまり気乗りがしませんでした。

 

しかしそのうちひょんなことから、知り合いが起業したレンタカー会社に運転手として登録し、その紹介で今の仕事を手にすることができました。そしてその真面目な働きぶりが評価され引きぬかれて、雇い主と直接雇用契約を結ぶようになりました。

 

「僕、もっとお金を稼ぎたいんです。残業もたくさんしたい。●●さんは『休暇を取りなさい』といつも勧めてくれるけれど、今は僕は休むより働いてお金を稼ぎたいんです」

 

オレーグは切れ切れに、1時間近くもかけて話をしました。オレーグがこれだけよく喋ったのは、後にも先にもこの時だけでした。

 

ある日、ロンドンにいたMethaはオレーグの雇い主の駐在員氏からメールをもらいました。

「実は1週間ほど前、オレーグが暴漢に襲われました。現在彼は入院中です。幸い寸でのところで命は助かったのですが、かなり激しく殴打されたようで重症です。退院には2ヶ月かかると言われました。というわけで、今回は残念ながらオレーグは空港までお迎えに上がることができません。・・・オレーグは病院に見舞いに行った私に『すみません、すみません、仕事を休んでしまってすみません』と声をつまらせるばかりなのです・・・」

 

そのメールによると、オレーグは駐在員氏を家まで送りそのアパートの駐車場に車を留め、自分は地下鉄で帰宅するために駐車場を出たところで襲われたそうです。持っていたなけなしの現金はもちろん車の鍵も取り上げられ、車の中にあった書類やその他のちょっとしたものが盗まれました。それでも車は無事でしたし、盗難の被害は全く大したことはなかったのです。

しかしオレーグは氷点下20度の中、衣類をほとんど引き剥がされた状態で置き去りにされたのでした。

 

Methaは青ざめました。そしてロシアの社会を激しく呪いました。

ロシアの、特にモスクワの治安はこの数年で加速度的に悪化していると言われています。もちろん世界中のどの国も、大都市は犯罪は多く物騒です。しかしこの場合問題なのは、「悪化している」というプロセスの急激さです。たまにモスクワを訪れるだけのMethaが感じるぐらいなのですから、そこに暮らす人々はその治安の悪化の、その速度の凄まじさを手に取るように感じているでしょう。

日々、加速度的に悪くなっていく。それが人々の心や行動にどれほどの影響を与えるか、外部の人間には想像も及びません。

 

一体何故、オレーグが狙われなければならなかったのでしょう?オレーグは別に派手な身なりもしていないし、目立つ行動だってしていない。大金を持ち歩いているわけでもない。ごくごく普通の、いや普通よりずっと地味なロシア人です。何故あんないい人が、誰にも迷惑をかけず真面目に正直に慎ましく生きている人が、突然殴られて命を奪われる寸前までにならなければいけないのでしょうか?ロシア社会は一体いつの間に、そんなに無秩序で恐ろしい、正直者が理由もなく誰かの不満の捌け口になってしまうような場所になってしまったのでしょうか?

これは一体誰のせいなのか?誰が悪いのか?それとも誰も悪くはないのか、時代のせいなのか。

Methaはその怒りのやり場を見つけられずに、ただどうしようもなく苦しくてやりきれない気持ちでした。

 

それから1年の後、Methaはオレーグに再会しました。

オレーグはちゃんと復活していました。

顔を激しく殴られたせいでちょっとだけ人相が変わってしまったのを見るのがつらいですが、オレーグはまた以前のようにはにかんだ笑顔を見せました。

「Methaさん、こんにち・・・」

そしていつものようにくるっと背を向け、もくもくとスーツケースを転がしていきます。その後姿を見ながらMethaは思いました。いくらロシアが混乱した社会になったからといって、いくら弱肉強食の世界になったからといって、正直者が馬鹿を見る世の中になってはいけない。誰にも迷惑をかけずに静かに生きようとしている人が、そうでない少数の人に食い物にされる社会になってはいけないのだ、と。

 

・・・否定的なことや物騒なことをたくさん書いてしまいましたが、現在のロシア社会は、何も悪いことや理解不可能なことばかりが起こっているというわけではありません。混乱の中からも、力強い前向きな動きが多く芽生えていることも事実です。今まさに新しい社会が目の前で創られているという、躍動感と揺れ動く期待感に満ち溢れている時期でもあります。

 

「僕はもっとお金を稼ぎたいんです。幸せになりたいんです」と素直に真面目に思っている人が、きちんと声を上げることができて、そしてそれがきちんと報われる社会。多分いつか近い将来、ロシアはそんな社会を創ることができることでしょう。その頃にはオレーグの傷も、外からは分からないぐらいに癒えていると思います。

 

(オレーグ2号 おしまい)

 

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