オレーナ
ご自分の娘さんをソ連の学校で学ばせたとある日本人のお母さんが「ここの教育はある意味で『天才を育てる』ためのものなのかもしれないわ」と仰っていたことを、Methaは時々思い出すことがあります。ソ連の教育システム、教育法は独特なものだったと言います。ソ連がなくなった今でも、ロシアやウクライナ、その他の旧ソ連の国々において多少の程度の差はあれどその影響は色濃く残っています。
「天才を育てる」教育とはどのようなものなのでしょう。聞けば、少人数のクラス編成で先生が全ての生徒に目を行き渡らせ、何らかの芽があると思われる子供がいれば、別課題を与えたり特別授業を行ったりして膨大な知識や思考方法を徹底的に叩き込むというのです。素質のある子には有り余るほど十分に機会を与え、時には無理矢理上から押しつけるほどに教育するのだそうです。
ただし、もちろんそれは決して普通の子あるいはあまり成績が良くなくて落ちこぼれた子を排除するという意味ではありません。もちろん勉強が余り好きでない子供にも「料理が得意」だの「本の朗読が上手い」、「手が器用」「かけっこが速い」などなど様々な面からの評価が与えられます。
ソ連が崩壊したあと、外国の専門家がどっとやって来てソ連時代の教育制度にイチャモンをつけはじめました。「実践的でない」「詰め込み教育」「生徒の自主性が育たない」などなど(どこかの国の教育への批判と似ているような気も・・・?)。
Methaは専門家ではないので、何が「良い教育」なのかは分かりません。彼らの言う通りソ連の教育法は欠陥も多く歪みもあったのかもしれません。しかしソ連時代、非常に優秀な学者、技術者、作家そして芸術家が多く育ったことはまぎれも無い事実ですし、いろんな意味で西側の「常識的で実践的」な学者達が「えっ!?」と首をかしげるような独創性のある研究や創作が行われていたことも確かです。ソ連時代の教育システムを知る人は、よくこう言います。「『西側』の子供達は、学校教育を『将来役に立つことを学ぶこと』と捉えている。しかしソ連の子供達は、知識を身につけること自体を楽しみ、情熱を傾ける」。ソ連の教育は、良くも悪くも常識に呪縛されない自由な発想を促す、ふところの深い教育だったのかもしれません。
オレーナはそんなソ連教育によって選ばれた「天才少女」でした。
オレーナはウクライナで育ったウクライナ人ですが、ウクライナ語がきちんとしゃべれません。幼い時からずっとロシア語で教育を受けてきたからです。当時の教育熱心な親達は、例え母国語がロシア語でなくてもロシア語の学校に子供を入れたがるのが普通だったのです。ウクライナの首都キエフでソ連式の英才教育を徹底的に詰め込まれたオレーナは、見事に難関をパスしソ連最高学府と呼ばれたモスクワ国立大学に入学しました。専攻はロケット工学です。
大学に入学した後もその勉強量はハンパではありません。当時はソ連国家の「計画」に従って経済社会の全てが動いていた時代です。教育ももちろん例外ではありません。例えば「五年後に必要なロケット工学の研究者はソ連全体で50人必要である」という具合に国が「計画」を立て、その計画に沿って各大学に入学できる人数枠が決められます。大学卒業後、その50人に選ばれなければ研究者としての人生は断たれてしまうような時代でした。しかし逆に言えば、選ばれたなら一生が保障され好きな研究をしながら国家に食べさせてもらえるのです。
オレーナは死にものぐるいで勉強しました。膨大な講議ノートを取ったせいで腱鞘炎にもなりました。最初の二年間は毎日の平均睡眠時間は三時間ぐらいだったと言います。
「でも勉強は好きなの〜。だから楽しかったの〜。みんなそうやってがんばってたしぃ〜」
オレーナは当時を振り返って無邪気にそう言います。彼女はもう40歳近いのですが、Methaはオレーナほど悪意がなく天真爛漫で純粋な人を他に知りません。はじめて会った時「この人、大丈夫だろうか!?」と思わず心配してしまったぐらい、とても浮世離れしてふわふわした捕らえどころの無い感じなのです。その後オレーナの経歴や専門の話しを聞き、ああ、天才とはこういうものなのかしらん、と妙に納得したものです。
「ほらほら、見て見て。これ、その頃書いた私の論文。夫と共同で書いたの。最近英語に訳したの。今度、どこかの雑誌に発表しようと思って・・・」
ちんぷんかんぷんのサイエンスな話をされてどんよりした目をしているMethaに全く気付かない様子で、論文のページをめくっては奇妙な設計図のようなものを指差して熱心に解説してくれたりしましたっけ。
オレーナは大学在学中に、同じ専攻だったアンドリイというウクライナ人と学生結婚しました。大学での厳しい競争を互いに支えながら切り抜け、二人はそろってめでたく五年の課程を修了しました。その後、アンドリイは更に上の学位を目指し、大学院に進学しました。オレーナは、息子が生まれたこともあり、進学は考えませんでした。でも夫の研究を支えることができるし、時期が来れば共同研究だってできる。オレーナはこの選択に不満はありませんでした。
その後すぐアンドリイは奨学金を得て、日本に三年間研究留学できることになったのです。世間の波に余り揉まれてこなかった若き天才科学者夫妻は、まだ赤ちゃんの息子を連れて、不安と期待に押しつぶされそうになりながら日本にやってきました。
そして日本に来て二年の後、ソ連は消滅しました。
アンドリイはモスクワにもキエフにも帰らない決心をしました。ソ連全土に吹き荒れる想像を絶するような混乱を考えると、今帰ってもまともな研究ができるとは思えない、ましてや治安や生活環境が坂を転がり落ちるように悪化する中では小さな息子を育てるなんて考えられなかったからです。
三年間の奨学金が終わり、大学院を中退するかたちになったアンドリイは、そのまま知り合いのつてを頼って小さな翻訳会社に就職し、ロシア語、英語、日本語の翻訳の仕事をはじめました。本当は科学技術系の翻訳ができれば良いのですが、仕事はそんなものばかりではありません。またロシア語の翻訳自体、英語などに比べればあまり多くはありません。オレーナは家計を支えるために自分の家の近くのレストランで皿洗いのパートを始めました。ロシア語の教室を開こうとも考えましたが、生徒が集まらず断念せざるを得ませんでした。
そうして三年が経ち四年が経ち、息子は小学校に行く年齢になりました。
「息子に一生懸命ロシア語を教えてるんだけど、嫌いみたいなの。いつも日本語ばっかり喋るの。どうしようかしら・・・」
オレーナはあまり日本語が上手ではありません。
「でもロシア語よりも英語を習わせた方がいいわよね〜。きっと・・・ロシア語はもう役に立たないものね・・・」
オレーナは英語もあまり得意ではありません。
「夏休みとかにウクライナに帰らないの?日本に来てから一度も帰ってないんでしょ?」
「帰りたいんだけど・・・私のパスポート、まだソ連のやつなの〜。これ、大丈夫なのかしら?日本に戻って来られなくなるんじゃないかしら〜・・・」
「えっ!ここのウクライナ大使館に行ったら書き換えてもらえるって聞いたよ。はやく換えてもらった方がいいんじゃない?ウクライナのパスポートの交付が始まってからもう随分経ってるよ!アンドリイは何て言ってるの?」
「うん・・・でもぉ〜・・・大使館に行くのいやなの」
「なんで?」
「他のウクライナ人に会うの、いやなの・・・」
将来を嘱望された「ソ連の天才科学者」オレーナが、東京の片隅で皿洗いをして嫌がる息子にロシア語を教え、不自由な日本語をたどたどしく喋りながら、その一見天使のような無邪気な心の片隅で何を思い悩んでいるのかMethaには知ることができません。ただ痛いほど伝わってくるのは、「国家」という個人の力ではどうにもできない巨大な歯車に巻き込まれた人が、ここにも静かに暮らしているということだけです。