続・イギリス鉄道物語
…一体どれぐらい経ったのでしょう。いつのまにかMethaは眠りに落ちてしまっていたようです。何かの気配を察してはっと目を覚ましました。ブライトンに着いたのかしらん?
ところでMethaが夢の世界にいる間に一体何人がMethaの前を通りすぎたのでしょうか…目の前にはうずたかくゴミが積まれています。サンドイッチのプラスチックケース、引き千切られたタブロイド紙、広告、パンくず、クリスプスのかけら、何だか得体の知れないぐにゃっとした食べ残し。おまけに一緒のシートに座っていた人達は誰もいなくなっており、まるでMetha一人がこれら全部を散らかしたかのような状態になっています。
しかし真の問題はそんなことではありませんでした。車内アナウンスがなにやらぼそぼそ呟いています。一生懸命耳を凝らさなければ聞き取れやしません。
「ええ〜ご乗車の皆様 … … 線路の状態にトラブルが発生したため … … であり … … なので … … この列車は迂回し… サウザンプトンに … … 従ってブライトンには … です。ご迷惑をおかけいたします。さんきゅっ!」
????ナンだナンだ、今のは?
とっても重要なアナウンスのような気がします。でもあんまり聞き取れませんでした。最後の「さんきゅっ♪」だけがやたらとカワイらしく元気です。
「あ、あのう、何が起こったのでしょうか?」
こんな時は誰彼かまわずに近くにいる人をとっつかまえて聞いてみましょう。
「さあね。線路のトラブルだって言ってますよ」CDウォークマンを聴いていた若いあんちゃんは肩をすくめて、何事もなかったようにまた音楽のボリュームをあげます。
「迂回してサウザンプトンに寄って、それからブライトンに行くんですって。ほんと、ひどいわねぇ。ひどいサービスだわ。全くひどいわ…ねえ、そうよねえ?」向かいの小柄なおばあちゃんは深刻そうな顔をして周囲の人に同意を求めます。周りの人は口の端をつりあげ目を宙に泳がせて黙っています。
ちょっと!!どうして誰も動揺しないんだよ!!…と不思議になることでしょう。誰か様子を見に行くとか(…何の?)、叫んでみるとか(…何で?)、暴れてみるとか(…?)、そういうことをしないのでしょうか?皆さんヒジョーに大人です。大人。こんなところで暴れようものなら冷たい目で見られて逆に自分が何か悪いことをしたような気になるので、やめましょう。
乗客達の為すすべなく列車は走りつづけ(「線路の状態が悪い」ため、一段とスピードが落ちたような気がします…時速40キロぐらい?)ある大きな駅に到着しました。
「Welcome
to Southampton」
窓の外を見ると確かにそう書いた標識が立っています。どんよりとした空にはカモメが舞っています。
ああ、生まれてこの方、人生の中で一度でもこの街をこの目で見ることになろうとは夢にも思いませんでした。これがキャンディがイギリスを離れて旅に出るテリィを追いかけて夜明けの街を馬車でひた走り、それでも間に合わなかった、あの涙の港町なのね…と偶然がもたらしてくれた思わぬ感動に涙を禁じえません(あれれ?それともあれはドーバーだったかしらん?キャンディ・キャンディをご存知ない方、ごめんなさい)。
結局列車はサウザンプトンに三十分ほど果てしなく無意味で非生産的な停車をしたあと、また音も無く動き出しました。今度はアナウンスもありません。本当にこの列車はブライトンに行くのかしらん。でももう何だかどうでもよくなってきました。別にいいや、到達できなくても。誰かに迷惑をかけることになっても「鉄道のトラブルだったんで、仕方ないんすよ」と言えば大抵のことは許してもらえるのです。イギリスでは、仕事に遅刻しようが約束をすっぽかそうが「やあ、鉄道がね」と言えば全てオッケーなのです。ふっふっふっ。
おや、とりあえず列車はブライトンに到着したようです。予定到着時間を既に四時間もオーバーしています(本来なら一時間の道のりのはずなのに、五時間かかったんですもの)。
では、このままきびすを返して帰りましょう。
当然です。街に出たり観光したり食事したりしている場合ではありません。何てったって四時間も予定がずれ込んでいるのですからねっ!それに帰りの電車だっていつなんどき遅れるか分からないではないですか。今日中にロンドンに帰るためには今すぐここを去らねばなりませんっ!そうでしょう?さあ、いざロンドンへ帰るのですっ!!
というわけで帰りの電車の時刻とプラットフォームの確認です。これは行きの列車でもやりましたからもう要領は分かりますね。まずコーヒースタンドで「掲示板のお供」コーヒーを買い、「非電光掲示板」の前に立ってぼーっと上を眺めましょう…。
おや?何やら辺りが騒がしいような気がします。向こうの方に人だかりができていますね。嫌〜な予感がしてきました。イギリスの鉄道駅で人だかりができていることほど不吉なサインはありません。
しかし勇気を振り絞って近付かなければなりません。問題を明らかにし早期に原因を究明し素早く対策手段を講じなければ大変なことになってしまいます。命を落とすかもしれません(?)。
案の定、人だかりの中心には青い制服を着た駅員さんがいました。何やらくり返しくり返し説明しているようです。
「ええ、ですから電気系統のトラブルで信号が作動しなくなっているものですから。ロンドン行きの列車はしばらく発車できません」「現在、原因の解明中です…」「復旧にかかる時間はまだ不明です」「代替の交通手段も現在手配しますからっ!!」「どうかっ!どうか皆さんお待ち下さいっ!お願いしますっっ!!」
忍耐強い彼の声はだんだん悲愴感を帯びてきました。だって彼が説明を終えてその場を離れようとするたびに人だかりの中から誰かが「で、何が原因なんです?」とか「復旧までどれぐらいかかるんですっ?」「私、今すぐロンドンに行かなくちゃならないんですよっ!どうしたらいいの?」とか好き勝手に尋ねるのですもの。
しかし駅員さんを責めたとて、事態は変わりません。じっと我慢して復旧を待つか、さもなければここから大分と離れたコーチステーション(長距離バスの駅)まで行ってロンドン行きのコーチに乗るしかありません。実際駅員さんは、コーチステーションへの行き方を何人かの人に説明しています。切羽詰まっている人は次々とコーチステーションへと旅立って行きました。
さてこんな時、あなたならどうしますか?
事態は限り無く不透明です。コーチだとロンドンまで二時間程かかります。もし鉄道が一時間以内に復旧したら鉄道の方が早くロンドンに到着するでしょう。また駅が手配する代替のバスがすぐに来て少し先の駅まで辿りつきそこから鉄道に乗ることができた場合も、コーチよりは早くロンドンに着くことができます。しかし確実なのはコーチであることは間違いありません。さあ、どうするべきか。あなたの脳裏をマーフィーの法則がぐるぐると渦巻くことでしょう。また同時に自分のこれまでの人生を振り返ることにもなるでしょう。これまで自分は運の良い人間だったか、それともいつも行動が裏目裏目に出てしまうタイプなのか。
そうやってあなたがこれまでの生きざまに思いを馳せ自分自身の人間としての資質と本質を自問している間にも、どんどんと時間は過ぎていきます。
おお、またも向こうの方に違う人だかりが出来ています。とにかく行ってみなければなりません。今度輪の中心にいるのは何やら赤いジャケットで赤い帽子を被り首から身分証明のカードのようなものを下げているおじさんです。
「はいはい、皆さん。ええ、御存知のようにロンドン行きの電車は動いておりませんよ。復旧にかかる時間は全くわかりません!ヘイ、カモン!ここは笑うところですよ、皆さん!元気出して下さい!!」
…誰やねん、これ。
当然誰も笑いません。おかしくないもの!
「さて、コーチステーションにいかれる方は、ここを出て左の坂を降りて下さい。15分ぐらいかかります。それが嫌な方は、現在、少し先のモールスコム駅まで行くバスを手配していますので、それをお待ち下さい。ええ、どちらでもいいんですよ、皆さん自身のお好みで決めて下さい!」
駅員さんかしらん?しかしそれにしてはファンキーな格好です。一応身分証明カードのようなものを首にぶら下げているので、怪しい人ではなさそうですが、どう見てもさっきの駅員さんと同じ立場の人には見えません。
そのうち「バスの様子を見に行ってきます」と言い残して去って行った彼は、少しして戻って来ると勝ち誇ったように叫びました。
「皆さん、朗報です。手配していたバスが来ました。まで行ってそこから列車に乗り継ぐという方は私について来てくださ〜い!」
赤ジャケットおじさんは今や最高潮に張りきっています。我々迷える子ヒツジは団体旅行の客が添乗員に引率されるように、いや催眠術にでもかけられたように、黙ってふらふらぞろぞろと駅の外に出ました。そして駅の前に停まっていた観光バスのような綺麗なバスに乗りこみます。
おや…?赤ジャケットおじさんも一番最後に乗りこんできました。…モールスコムの駅までついて来てくれるのかしらん?益々添乗員さんのようです。
それにしてもこのバスに乗っている迷える子ヒツジ達の一体何人が、このおじさんの正体を知っているのでしょう?誰もおじさんに向かって「あなた、誰ですか?」と聞いたりしません。もしかすると知らないのはMethaだけなのでしょうか。Methaはバスの中で何度隣に座っている女性に「ところで、あの人、誰なんです?」と聞きたい衝動に駆られたかわかりません。
結局赤ジャケットおじさんは駅についてからも
「二番プラットフォームですよー!みなさん、ロンドンへはプラットフォーム二番です!」
とか何とかはしゃぎながら皆を先導し、とうとう列車にまで乗ってきました。
…もしかして、ロンドンに帰るつもりのただの人だったのかしらん。ほれ、観光地とか大英博物館とかによくいる、ボランティアで(というか頼みもしないのに勝手に)道案内とかガイドとかしちゃうような地元の人。ナゾだ…。
しかし一旦列車に乗ってしまえば現金なもの、迷える子ヒツジ達は二度と赤ジャケットおじさんを振り返ろうとしませんでした。あんなにお世話になったのに…。誰にも相手にされなくなったおじさんは少し寂しそうに、しかし大いに満足そうに車輌の一番端の席で揺られていました。
帰りの列車はさしたるトラブルもなくめでたくロンドンに辿りつきました。ああ神様、有難う。
結局朝ロンドンを出発して合計7時間。Methaの大冒険は幕を閉じました。大旅行をしたような気分です。ユーロスターでドーバー海峡を越えフランスに行ってすぐ帰って来てもこれぐらいの時間になりますね。そうだ、フランスに行ったと思えばいいのです。ああ、楽しかった…。サウザンプトンも見られたし…。とほほ…。
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さて、冒頭にお断りしたように、この「英国鉄道の夢の旅:ブライトンに行って帰ってくるだけ」のお話は再構成されたフィクションです(もちろん個々のネタは全て事実ですが)。
安心して下さい。いくら泣く子も黙る天下の英国鉄道とは言え、一度の旅にこのようにハプニングがてんこ盛りになることは恐らくないでしょう。
多分ないと思います。
ないんじゃないかな。
ま、ちょと覚悟はしておけ。
(イギリス鉄道物語・おしまい)