「あなたの負債」
その夏はイギリスには珍しく暑い暑い夏でした。春が過ぎようとする頃から雨が全く降らず、庭の芝生がすっかり枯れてしまうほどでした。
そんな夏、Methaはイギリスを一旦離れ、日本に帰ることになりました。そして当時Methaと同居していたエリカも、その夏からベルギーで仕事をすることになっていました。そこで二人はその借家を引き払うことになったのです。
Methaとエリカはその借家でテレビをレンタルしていました。
日本では余り耳にしないテレビのレンタルですが、イギリスでは割とよくあるサービスです。こちらでは家やフラットを借りるとほとんど家具が付いているのですが、その中にテレビが含まれていないことがままあります。メンテナンスが大変だから大家さんが嫌がる、という説明を不動産屋さんから聞いたことがあるのですが、イマイチ釈然としない理由です。しかしとにかくMethaとエリカがその家を借りたとき、そこにはテレビがありませんでした。なので二人でテレビをレンタルしたのです。
しかし今回フラットを引き払うにあたりそれを解約し、借りていたこのバカでかいテレビとテレビ台を引き取りに来てもらわなくてはなりません。
そこで引越しもあと数週間に迫ったある日、Methaはテレビをレンタルしている「ギャラクシー・テレビ・レンタル(仮名)」の顧客サービス窓口に電話をかけました。
「こちら『ギャラクシー・テレビ・レンタル』、担当のジョージです」
聞くからに面倒くさそうな感じで、若い声のオペレーターが出ました。
「あのう、解約をお願いしたいんですが」
「お客様番号をお願いします」
しばらくの沈黙の後、ジョージは更に面倒くさそうに言いました。
「Methaさま。ご解約ということでよろしいですね」
「はい。料金の口座引き落としをストップしていただくのと、あとテレビの引き取りのアレンジをお願いしたいんですが」
「わかりました」
しばらくしてジョージはあっさり言いました。
「ではお客様のテレビセットの引き取りは、来月の10日にアレンジ致しました。10日に当方の運送スタッフがうかがいます。長らくのご利用どうもありがとうございましたー」
ちょ、ちょ、ちょっと待ってよ!!Methaは慌てました。
「あのっ、来月の10日じゃ困るんですけど!!」
普通、商品の配送や引取りの日程を決めるときは顧客の都合をまず聞くのが常識過ぎる常識ではないのか?それなのにナンなんだ、そのあっさりしたサワヤカな応対はっ!
「私達、今月の25日にここを引っ越すんです。だからそれまでに引き取っていただきたいんですけど」
するとジョージはにわかに毅然としたマニュアル口調になりました。
「Methaさま、契約書をお読みいただいておりますでしょうか。解約は少なくともその一ヶ月前にお知らせいただくことになっております」
あちゃっ。これは失点です。
「す、すみません。でももう引越しの日取りも決まっているので、何とかお願いします」
ちょっぴり自分の非を認めたMethaは、泣き落とし戦法を取ることにしました。電話の向こうのジョージは「ふーっ」と大袈裟にため息をつきました。むかっ。しかしガマンガマン。「契約書にはこのように記載されております」というのはヤツらの常套句としてよく使われますが、実際はそんなに厳密なものではなく結構融通が利くものです。
ヤツらの仕事はとてつもなくいいかげんで頭に来ることばかりですが、時にはそのいいかげんさがこちらにとって都合が良かったりするものです。おほほ。
「あの、契約終了は来月の10日で構わないんです。代金もそれまでの分は支払います。でも引き取りはそれよりも早くお願いしたいんです」
「代金の問題ではないんですよ、お客様。引き取り業者の調整の方にちょっと時間がかかりますもので」
…引取りのアレンジに一ヶ月も要するというわけか…ほぉー、商売繁盛してるのねぇ〜。
「ちょっとお待ちください。もう一度引き取り担当の部署に聞いてみますから」
Methaの猫なで声が効いたのか(?)、ジョージは案外ケロっとしてとそう言い、またしばらく保留音楽が流れました。
かなーり長い間待たされた後(ちなみにフリーダイヤルではありませんでしたっ!)、ジョージの声が戻ってきました。
「お客様。では今月の25日に予約を入れました。それでよろしいですね?」
25日。引越しの当日です。Methaはちょっと躊躇しました。そう、ここはイギリス。何度も痛い目にあっているMethaの本能が体の奥底から激しく訴えかけています。もうちょっと余裕を持たせた方が良くはないか…。
しかしMethaは次の瞬間、言ってしまいました。
「はい。それで構いません」
社会の秩序を守るため、ルールと規範を遵守する生真面目な日本人、Metha。「一ヶ月前に解約告知をしておくべきところを、しなかった」という自分の小さなミスを一瞬でも認めてしまい、その生真面目さ、そして動揺ゆえにジョージの有無を言わさぬアレンジを承諾してしまったのです!
その日、Methaは同居人エリカにコトの経緯を話し、25日に引き取りに来ることになった旨を伝えました。すると案の定エリカは顔を曇らせました。
「大丈夫なの?引越し当日なんて…。もうちょっと前にすれば良かったんじゃないかしら。せめて一週間ぐらい余裕を見ておいたほうが良かったかもしれない。連中が約束どおり来ることなんて滅多にないから…」
ああ、やっぱり…。エリカのその言葉に、Methaの心は自戒と反省で大きく沈みました。
引越しの準備でMethaもエリカもばたばたとした日々が続き、そしていよいよ魔の25日がやってきました。
実はその前日、慎重派のエリカはMethaに念を押していたのです。
「テレビの引き取り、何時に来るのか聞いた?」
「解約の手続きをした時は、まだ数週間先だから時間は分からないって言ってた。前日か当日に電話して確かめてくれって言われたのよ」
「じゃあ今日電話して確かめておいた方がいいわね」
「わかった」
そこでMethaはもう一度「ギャラクシー・テレビ・レンタル」に電話しました。電話に出たオペレーターはすんなりとMethaの予約を確認し、「明日の午後に予約が入っています」と教えてくれました。Methaはようやく安心しました。
引取りの予約はとにかく確実に入っている。日本みたいに「午後二時から四時の間」とかきめ細かな時間帯は指定できないけれど、そんな贅沢は言いません(そんなことが可能なのは日本だけだもの!)。とにかく「予約が入っていた」「引き取りは午後」という事実が判明しただけでもカナリの成果でした。
引越しの日、Methaとエリカは朝からそれぞれの荷物をまとめ、ゴミを捨て、掃除し、お茶を飲み、ビスケットを食べ、そして「最後だ」とばかりにテレビをつけてしょうもないお昼のクイズ番組まで見てしまいました。
…引取り業者はやってきませんでした。
時計は午後四時を過ぎています。
Methaはどきどきしながら「ギャラクシー・テレビ・レンタル」に電話しました。
「こちら『ギャラクシー・テレビ・レンタル』、担当のテレサです」
今度のオペレーターは声の太い年配風の女性でした。Methaは、こういう時にはいつも出す怒りを抑えた低い声で早口に事情を説明しました。
「午後に来ていただけるという約束だったので待っているんですが、まだ来ないんですッ」
そしてMethaが名前と顧客番号を言おうとすると、オペレーターのオバチャンはなんと、間髪入れずに言ったのです。
「とりあえず五時まで待っていただけますか」
ちょっと!!運送業者に確認を取るどころか、顧客の名前も聞かず、予約も確かめず、それで一体何故そんなに自信に満ち満ちて「五時まで待てば来る」みたいな言い方をするのかッ!それとも何かい、こんなことはアンタんとこでは日常茶飯事だから、そう対応するようにマニュアルでも出来ているのかー!!!(今となってはきっとそうに違いないと思っていますが)。
怒りで勢いのついたMethaは何か言いわけをしようとしているオバチャンの言葉をさえぎり、今度は大きな声の断定口調で言いきりました。
「予約がちゃんと入っているか調べて下さい。それから運送業者に電話して、今どのへんにいるのか、何時にこちらに来られるのか確認してください」
しばらくオバチャンは無言でしたが、やがて言いました。
「予約は確かに入っています。あと運送業者ですが、電話がずっと話中で通じないんですよぉ、困ったことに」
…そんなん知るか!!!!!
常日頃から思うことに、イギリス人にはつくづく「公と私」の区別がありません。いや、そんな高尚な言い方をするまでもありません。単に、社会人としての意識が無さすぎます。もちろんきちんと仕事に対する知識も常識もプライドもある人はいないではありません。しかしそういう人と、そうでない人の落差がひどすぎるのです。そしてもっと悪いことに、「そうでない人」の方が圧倒的多数なのです。これは老若男女関係ありません。彼らは仕事中にもかかわらず、最後まで「職業人」としての立場を貫くことができず、すぐに「素の個人」に戻ってしまうのです。
Methaはこのオバチャンと友達でも何でもなく顔すら知らないし、この先も未来永劫お友達になるつもりはありません。MethaはオバチャンがMethaを最後まで「顧客」として扱ってくれることを期待しているのです。そんな人に「困ったことに電話が通じないんですよねー」と相談されたって、こっちが困るのです!
「とにかく五時まで待って下さい。引取りのスケジュールは五時まで、というのはこちらの決まりなので、絶対五時までには来ますから…」
むきーっっ!!
Methaは受話器を叩きつけました。
絶対来ない!ヤツらは絶対来るもんか!