[東アジア フォトインベントリー] INDEX

 1990年代初頭、勃興期にあった東アジアを肌で感じ、書き綴った旅の記録です。 建築総合雑誌 "at" 1990年5月号から1992年4月号まで二年間にわたって連載されたものを、雑誌社の好意によりWeb Magazineとして再録しました。その後の東アジアを「10年後記」で述べています。写真は北田英治氏 (Oct/30/02)


第1回 「漢字」 

・・・ 台湾北部の港都、基隆を訪れたことがある。日本の占領時代軍港だった町である。燈火管制で町中の民家が黒く塗りつぶされたと聞いていた。残念ながら今ではその面影はない。賑わいが途切れた町並みに木造2階建ての長屋をみつけた。戦前のものだ。雨と強い陽射しを避けるために一階は回廊になっている。一軒の住宅の玄関に風変りな掛貼(縁起をかつぐ貼紙)を目にした。”招進宝”(お金が入りますように)を一字に組み合わせたものだ。・・・ (at'90May)  ->こちら


第2回 「揚子江の南」 

・・・ 設計指導のため北京に滞在した折、I. M. ペイの香山飯店を見に行った。北京設計院の連中は南方形式(楊子江以南の地域の様式)を持ち込んだといって嫌っていた。白壁に灰色の瓦をあしらい、緩い傾斜地に馴染ませた配置は私的であり、おおらかでないという。しかもペイはただの瓦を外壁に貼るため、削り、隅を出し一枚十角のものを十倍の単価にしてしまった。しかし外国人である僕はかなり気にいっている。ちなみにペイは中国南部、広州の生まれである。比較的歴史が浅く、文化的土壌の異なる北方の人ではない。・・・ (at'90 June)  ->こちら


第3回 多言語な風景-「悲情城市」のなかの上海人
 

・・・ 建築の世界にも似たところがある。台湾の首都台北には、福建省に多く見られる騎楼(アーケード)を持った都市型連続住居、農・漁村に多い三合院住居、日本占領時代の帝冠様式の政府官庁建築、日式木造二軒長屋、中国北方様式の記念建造物等々、時代と地域を越えた建築様式がポストモダン建築と一緒に顔を並べている。地方的伝統と外来様式とが渾然一体となって併置されている。 ・・・ (at'90 July) ->こちら


第4回 「不確定な風景-香港一九八七」  

・・・ 自分の国籍を疑われることのない国民は幸せである。税金さえ払っていれば、憲法で保証された最低限の権利だけは守ってくれる。しかし、香港に居を構えようというなら、話は別である。七月一日の新聞のすべてが、新しい身分証の実施について第一面をさいた。十年後、おまえたちはどの国を選択するのかを問うている。新しい身分証は一九九七年以降、中華人民共和国香港特別行政区政府のものにとってかえられることになる。政治などクソくらえだと言っていた香港の人間も、今度ばかりは自分自身で自分の国を選択しなければならない。・・・ (at'90Aug.) ->こちら


第5回 「三十八度線の北-建築のない風景」 (韓国・束草) 

・・・ 見るべき建築があるわけでもなく、ただ荒涼とした風景が広がるのみの場所。見えるものは、北からの進入を防ぐため海ぎわに張られた、どこまでも続く鉄条網と、運河の傍らでひたすら三十八度線の北へ戻れる日を待ち望む人々の姿かもしれない。束草では、人が住み続けているにもかかわらず、建築のない風景がひろがっている。・・・ (at'90 Sept.)  ->こちら


第6回 「アジアを夢見る-上海1945」

・・・  昭和六年、日本植民地政策の最盛期に、少年小説作家の山中峯太郎は「亜細亜の曙」を発表する。本のなかで主人公の陸軍将校本郷義昭はインディー・ジョーンズばりの冒険活劇をみせてくれる。ジョーンズとのちがいは本郷が鉄の意志をもって「国家の危機」を救ってみせるところにある。アジアの開放を望む本郷は中国人に向かって号ぶ。 「聞け!支那人諸君!諸君は日本帝国の真精神をいまだ知らず、○国に従ってみだりに亜細亜の平和を破る。めざめよ中華国民!たって日本とともに亜細亜をまもれ!」
・・・ (at'90 Oct.)  ->こちら

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第7回 「岩肌をよじ登る民家ー釜山の電柱」

・・・  釜山の傾斜地住宅では、1階の壁の延長が上にすむ住まいの壁へと続ながっていく。屋根は集落の共用の通路として利用され、時には子供達のかっこうな遊び場となり、キムチの壷置き場、洗濯物干し場として使い分けられる。複層した用途が空間にはり付いてくる。場があれば機能を誘発する。現代建築の、着せ換え人形のような物つくりでは、決して創り出せない空間を、釜山の山は教えてくれているかのようである。 ・・・ (at'90 Nov.)  ->こちら


第8回 「看海的日子ー風櫃の三合院住居」 (澎湖島・風櫃)
 

・・・  百余の島々からなる澎湖列島に、人影はその内の二十一島。台湾本島から四十五キロメートル、向かい合う福健省から百四十キロメートル、平均の海抜三十メートル、最高七十メートルを出ることはない。雨が極端に少なく、始終強い風が吹き、「風島」の異名を持つ。二つの要因は、この島の光景を決定づけている。珊瑚礁の地肌にはりつき、北西の季節風で押し曲げられた潅木。草も木も横へ横へと地をはっていく。日陰を求めるべくもなく、塩分を含んだ土地に手を加える女たちは全身を布で覆っている。 ・・・ (at'90 Dec.)  ->こちら


第9回 「深く青き夜」ー闇の中のソウル (韓国・ソウル)

・・・ 「アメリカには住みたくない、でも生きていくために行かざるを得ないんです・・・」。五年前のソウルの夜のことである。韓国系中国人の友人は、始めて自分自身の移民について話をしてくれた。韓国は東アジアの国々のうちで、アメリカ合衆国への移民が最も多いといわれている。もちろん日本人にも枠があるはずだが、いまどき移民しましたという話はついぞ聞いたことがない。移民という手段を必要としない日本で、この言葉の持つ意味を理解することはなかなか難しい。、・・・ (at'91 Jan.)   ->こちら


第10回 「二つの香港」ー英国の置きみやげ (香港・英領香港)

・・・ 香港はわずか一世紀あまりで、二つの風景をもつに至った。九龍サイドのスターフェリーの桟橋に接して建てられたペニュンシュラホテルと、香港島浅水湾の入江の波打ち際に立てられたリパルスベイホテルは、ともに一攫千金を目論む英国人の異国趣味を満足させるために造られた。ペニュンシュラは、今では香港の道化を演じるに過ぎず、「慕情」を演じたリパルスベイホテルは、一九八二年に取り壊されてしまった。、・・・ (at'91 Feb.)  ->こちら


第11回 「蘇る”旧体制”」ーサイゴンのホテル (ベトナム)

・・・ サイゴンを愛した人たちがその宿としたホテルには、二つの名称が記されていた。今では点灯されることのない、控えめな看板には「九龍」(クーロン)「独立」(ドクラップ)「ペンダン」の名が、それらを覆い隠すように「マジェスティック」「カラベル」「レックス」の大きくネオンサインで強調された名称が浮き彫りにされている。
、・・・ (at'91March)  ->
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第12回 「ベトナムは東アジアの匂いーサイゴンの中国人」

・・・ たしかに、ここには中国の匂いがある。メコンの街、カントーでは、英語を勉強中の、外国人というと話しかけてくる類の中国人女子学生に出会ったし、かつての日本人街もあったという中部の街ホイアンには、騎楼をもった中国南方様式の街屋が残されていた。サイゴンの中国人街チョンロン地区では、独自に中国語の新聞「解放日報」まで発行されており、ほかに外字新聞をもたないベトナムで、湾岸戦争の記事を入手できる数少ない媒体でもあった。・・・ (at'91April)   ->こちら

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第13回 「体育館の観客席」ーサイゴンの現代建築

・・・ 室内は暗く、目がなれるまで、僕たちはしばらく時間を要した。観客席は、斜めに立てかけられたコンクリート製のブラインドのように、プレキャスト版が斜梁にのせだだけのものであった。近づくと、空気の流れを感じて、はじめて外部と仕切のないのに気がついた。顔を上げると、向かいの観客席は、横長の剪り紙細工をみせている。昨日あった若い建築家が、このアイデアの発案者であることを話してくれた。ほかにも、随所にこの方法が取り込まれている。・・・ (at'91May)   ->こちら


第14回 「白衣民族」ー民族の色 (韓国)

・・・ 「白の似合う風土が韓国である。」韓民族はそう思っている。民族と気候と風土に、白が適しているという。太陽の神、天空神の子孫であると信じたために白を好んだという。日の丸の旗の太陽は赤だが、天中にある太陽は白である。かれらは朝夕の太陽を引用しようとはしなかった。もっとも勢いのある太陽の姿を模したのである。湿潤な日本の気候・風土とは異なり、乾いた空気の中では、常に太陽は真っ白に見え続ける。・・・  (at'91 June)  ->こちら


第15回 「陰陽五行の教え」ー型の民族 (中国・台湾)

・・・ 森羅万象の一切を、ことごとく陰陽の消長と五行の運行とで説明することができる。中国人はそう考え、国の未来から明日の我が身を陰陽五行の思想に委ねてきた。陰陽は気の二方向、人間呼吸の意味、生命の本源とした。五行は五星と関連づけ、五つの物質に方位、四季、色、音、数字、味覚をあてはめている。陽の原型文字は易である。易は日月二つの文字が重なって構成されたという伝えがあり、この日月の陰陽が変転して万物を消長させ、事物が変化をきたす。これが易であるという。・・・(at'91 July) ->こちら


第16回 「神々の尺度-陽宅と陰宅と」 (八重山諸島)

・・・ 中国文化圏には、宇宙の運行から導きだされた「尺」がある。自然界の、森羅万象の出会いのサイクルを解釈した、象学が生みだした尺度である。俗に「風水尺」と呼ばれている。波照間で写真家がみた定規はそれに違いないと思い、彼にお願いし、現地に問い合わせていただいた。返事には、「前略、沖縄では昔は使っていたそうですが、現在はほとんど見られなく、お年寄でもはっきりとはわからなくなっているそうです。「唐尺」と呼び、墓・仏壇をつくるときに使用していたことはわかっています。波照間で見かけたと言ったところ、沖縄の人も驚いていました。」と記されていた。「唐尺」と呼ばれていたことからも、中国で使われていた「風水尺」に間違いない。今度は、台湾に電話をしてみる。・・・(at'91 Aug.) ->こちら


第17回 「風景の吹き溜まり-深き欲望の果てに」(東シナ海・沖縄)

・・・ 沖縄が戦後、日本に帰属したのは、1972年のことである。日本政府は、沖縄本土の基盤整備と、新たな産業をになわせるために、沖縄海洋博覧会の開催を決定した。僕自身の沖縄は、博覧会施設の設計に参加することから始まった。限られた沖縄の知識の中から、異なる言語で話をする、日本の中の異国を理解しようとしていた。現地から「沖縄タイムズ」を取り寄せ、政治と暴力と米軍のニュースで毎日の話題が溢れる紙面を、驚異をもって眺めていた。 ・・・(at'91 Sept.) ->こちら


第18回 「昭和最後の日-記憶のなかの韓国」

・・・ 御徒町には焼肉屋が多い。店の裏に回ると、キムチを漬けている姿や、ときには地酒の匂いが漂ってくるのを目の当たりにすることもある。日本語に不自由な韓国の友人と、この当たりで食事をしたことがある。若い店員に、ハングルで話しかけたが、返事は日本語で、「ちょっと待ってください。父を呼んできます」であった。大阪の猪飼野はかなりちがっていた。猪飼野の夕暮れ、にぎわう町筋では、小さな子供も含めてハングルが飛び交っていた。・・・ (at'91 Oct.) ->こちら

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第19回 「海峡の両岸-関釜フェリーの客」

・・・ 時間の経過が曖昧さをもたらした今、記憶をたぐってみると1989年のこの年、日本では天皇制に係わる最大級の催しが三度行われた。日本人にも理解できない日本語が多数登場し、新聞をはじめとする多くのマスメディアの、歴史から繙かれた解説が氾濫したが、結局僕の原稿は混乱し、正確さを失ってしまった。どちらにしても、呼称の如何にかかわらず僕たちは大喪の礼のその日、日本を離れることにして関釜フェリーの乗客になった。・・・ (at'91 Nov.) ->こちら


第20回 「東アジアのボディーランゲッジ」

・・・ 何気ない振る舞いの中で、中国人に限らず、韓国人も身振り手振りの入った会話をを繰り広げる。両手を伸ばし、手先をたぐり寄せながら相手を説得しようとする様。激しい言葉とともに、人差し指を突き出す仕草。それが様になっているのが何とも小憎らしい。欧米では当たり前だと思っていたことが、アジアの人々でもよく見受けられることに、いささか違和感を覚えたりする。別に欧米の立ち振る舞いをローカライズしたとも思えないが、やはり日本とは違う。・・・(at'91 Dec.) ->こちら


第21回 「技術の伝承・人の継承」

・・・ 街の中心では、海神・馬祖を祭った廟を訪れる在外中国人観光客で賑わっていた。寄進された壁面に書かれた漢字のわかるはずもない現地人、しかし彼らは遠い親戚であり、街に少なからずの潤いを与えてくれる賓客である。ほかの外国人が自分たちの故国へと去ったにもかかわらず、中国人だけがこの商都市に残り、街を支え、国外へ出た者たちも、成功の証として金と物と技術を持ち帰ってきた。街は寂れることなく、新しい材料と技術で再生される。おそらく、その行為は途切れることなく続いたであろう。技術の伝承はまた、人から人への継承でもある。・・・ (at'92 Jan.) ->こちら


第22回 「漢字-東アジアのマルチリンガル・スクリプト」

・・・ 現在漢字を使用している国は、中国、台湾、香港、日本、そして民間レベルで韓国である。かつてはベトナムでも使われていたが、韓国同様民族意識の高揚が漢字を捨て去るまでにいたった。ベトナムではローマン文字を、韓国では公用語にハングル文字だけが使われている。漢字にしても、台湾・香港では繁体字が、中国大陸では簡体字、日本ではその中間の字体と、結構複雑な様相を示している。さらに厄介なことに、日本語では漢字のほかに平仮名、片仮名までが入り込んでいる。・・・ (at'92 Feb.) ->こちら


第23回 「見果てぬ夢ー美国」

・・・ 中国語圏では美国を標準語でメイコウ、中国地域語の、例えば台湾語ではビコ、韓国では美国をミグクとよんでいる。日本でも「美国」の文字は、明治維新の文豪の作品のなかにも数多く探ることができる。おそらく亜美利可国を短縮したものとおもわれる。そしてその後、新大陸の、美しい国とよばれたアメリカ合州国は、第二次世界大戦を契機に世界のヒーローとしてその地位を確とした。・・・ (at'92 March) ->こちら


最終回 「鵲は国境線を知らない-北朝鮮」 

・・・・・・ 今年の冬、中国を経て朝鮮半島北部を旅し、国境線とよばれない国境線に足を踏みいれた。朝鮮半島を東西二百四十キロメートルに渡りつくられた幅およそ三十センチのコンクリート製境界線は、ただ一箇所途切れるところがある。板門店共同警備区域がそれである。外壁を金属版で貼られた木造の簡易建築が七棟、コンクリートの線を真ん中でまたいでいる。中央の水色の建物が軍事停戦委本会議場と呼ばれている。この建物だけが南北両側に扉をもっている。・・・ (at'92 April)  ->こちら

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