[東アジアは停看聴]   2001年10月26日

・タレント渡辺満里奈が紹介する台湾の風景 (Oct/26/01)

 ここ一月、JAA日本アジア航空のテレビコマーシャルをご存じでしょうか。タレントの渡辺満里奈、彼女は台湾通として知られているのですが、JAAでその気分を十分に発揮しています。

 バージョンが二つあり、一つは紙風船をとばすシーン。私は見たことも聞いたこともなかったので、最近流行始めたのかと思ってもいます。何かの節、たとえば清明節ーお墓を清める節のときなどかも知れません。

 もう一つが片田舎の村を訪れる風景。ここは見覚えがあります。北部の東海岸側、基隆という軍港を少し南に下った山間の村です。九分といい昔の炭坑がありました。台湾のこの辺りからは鉱物の産出が盛んだった。日本時代、金・錫・石炭などが基隆の港から日本に運び出されてきました。

 急斜面に民家がへばりつくようにあります。ちょうど地中海の村。いまでは石炭も掘り尽くされ、寂れる一方だったのを、候孝賢という映画監督がロケ地として二本の映画を撮りました。「恋恋風塵」と「悲情城市」。それ以降、まず芸術家が住み込みアトリエとして、そして観光客が訪れるようになります。

 この二本の映画のシーンがそのままJAAのコマーシャルにでてきます。秀逸なのは映像処理。普通台湾というと明るく賑やかな色彩が思い浮かばれますが、JAAではモノトーンでアンダーです。これが意外と九分を言い当てているのです。もしちょっと違った台湾を訪れてみたいという方がお出ででしたら、ぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか。

 なぜこの地を知っているかというと、日本時代の日本人村を取材したときに探し出したからです。九分の隣には、金の産地・金瓜石という場所があり、ここは完全に日本が統治、今でも山の中腹に鳥居が残されているのを見ることができます。ほんの十年前までは、不思議な場所が台湾にはありました。機会がありましたら、ここで紹介したいと思います。
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[東アジアは停看聴]   2001年10月15日

・「森坂」火災で貴重な風景を失う (Oct/15/01)

 第二の故郷として、余生を過ごしてもいいと思っていた台湾東部、林業の旧日本人村、森坂で火災が発生、檜でつくられた木造長屋の官舎の多くが焼失した。

 「再生森坂」の標語を掲げ、朽ち去ろうとしていた村の復興を目指していた矢先の出来事だった。観光客を受け入れ、官舎の一部を宿泊施設として解放したりしたことが裏目に出たのか。不審火で村の半分近くの棟を失ったそうだ。

 幸い、人には被害が及ばなかったものの、戦後建てられた台湾式木造建物の9棟33戸が消え去った。木造の家に永く住んできた私には、火の始末は身体の一部に染みついているが、コンクリートの家が増えたいまではそんな注意も薄れているのかも知れない。

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[東アジアは停看聴]   2001年10月1日

・「国のために死ねますか?」

 9月30日のテレビ番組で、合衆国同時多発テロを世界の若者たちがどう思っているかを取り上げていました。(8ch) 司会者が、「国のために死ねますか?」という質問。とても印象に残ったのがイスラエルの若者。死ねると答えた二人の若者の一人。

 答えは、「・・・私の国は他の国と事情が違います。戦わなければ国が無くなってしまうのですから。・・・・・・」。

 そうか、国が無くなってしまう。この意識の違いは大きすぎる。

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[東アジアは停看聴]   2001年6月23日

・瘋癲老人 協力者を失しなう (Jun/23/01)

 [東アジアー人と旅] は、多くの人たちとの出会いによって成り立ってきた。一緒に行動してくれた人たち、紹介していただいた人たち、偶然出会った人たち、短い旅を魅力的に過ごすことができたのは、そんな人たちとの出会いがあったから。

 ここ二年間、台湾を魅力的な旅にしてくれたのは一人のお嬢さん。私の、こんなものを見たい、あんな人に会いたい、どこそこに行ってみたい、という勝手気ままな要望は、彼女によって実現することができた。

 しかし同時に、この二年間の台湾経済は、急速に停滞していった二年でもあり、瘋癲老人とボランティア活動で人生を満喫する時勢ではなくなっていった。あれやこれやの紆余曲折、彼女は英国留学を選択する。きっと正しい判断でしょう。しかし、残された瘋癲老人は手足も頭脳の一部も失い、行動の自由を奪われることにあいなったのです。

(写真)台湾取材に協力してくれた陳さん、5月に英国留学に旅立った。右は竹棟梁の息子さん 彼と出会ったことで棟梁に会うことができました。

 二年前、台湾でリゾートホテルの仕事をした際のチームのスタッフだった陳さん、愛嬌のある笑顔と仕事熱心さで、みなから信頼されていた。彼女、この会社の総経理が大学で教えている学生。大学院の修士論文を総経理のもとで作成し、そのままここで働くことになった。

 その後、リゾートホテルの仕事が中断、チームのメンバーも一人二人と去り、私も日本に戻ってしまった。彼女は会社に留まり、プロジェクトの整理と再開に備えていた。私との連絡窓口もこなし、インターネットメールという新しい形の連絡方法が有効性を発揮していた。わたしは、日本側の作業を終えては台湾で連絡会議に参加、その都度彼女の協力を得ながら台湾の職人さん、残された日本人村を訪れてきました。

 彼女の能力は幅広い人脈。私の希望を実現するにはどこから押していけばいいかを見抜く能力。気後れしない人との折衝。私の不思議な中国語を理解してくれたのも彼女の努力あってのこと。取材のテープを起こしてくれたのも彼女。ただ、工学系の教育のためか、要点はしっかり押さえてくれるのだが、行間が見事に省かれてしまう。括弧付きの部分が紙の上から消えてしまい、味のある部分がわからない。台湾語での会話では特にそうだった。

 竹大工の棟梁も、鹿港の宮大工のじっちゃんも彼女には目を細めていた。私や周りの人たちは「師匠」と呼びかけるのに、彼女は「おじいちゃん!」とささやく。大学の研究者たちも、彼女からの要望、「これこれの日本人があれこれの話を聞きたいといっています」を断ることはなかったようだ。

 東海岸にある旧日本人村の営林署でシンポジウムが開催できたのも彼女のおかげ。担当者に連絡を入れて不在でも、彼女の名前、「瑾儀から電話があったと伝えてください」で済ませていた。誰も彼も彼女を友人か娘代わりにしてしまう。

 このようなキャラクターで彼女は取材に欠かせないパートナーとなった。しかし、世の道理でこんなうまい話はいつまでも続くわけはない。案の定、プロジェクトの長期中断で彼女は目標を別に置くことになった。外国への留学、合衆国にする予定は最終的にロンドン大学ITデザイン科を選択した。そして6月半ばの入学式を前に、一ヶ月の家族旅行を過ごしに出かけた。彼女の成長を願うことにして、私は次の選択を探ることになった。


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