バレエの歴史


「バレエはイタリアに生まれ、フランスで育ち、ロシアで成人した」(三浦雅士)といわれるように、 バレエは国を超え、さまざまな振付家、ダンサー、作曲家のもとで発展を続け、今日に至っています。 ここでは、バレエの歴史を簡単にレビューしています。


バレエの誕生


 バレエを語る時、まず最初に確認事項としておさえておかなくてはならないのが、バレエは「ヨーロッパで生まれ、育った芸術である」ということです。バレエはルネッサンス期のイタリアで貴族の宴での踊りから始まり、フランスに渡ってルイ14世のもとで5つのポジションができるなど発展し、ロシアのプティパのもとでクラシックバレエとして完成しました。

 ルネサンス期のイタリアでは、富裕な貴族がしばしば豪勢な宴を催し、そこで貴族たち自身によって踊りが披露されました。これがバレエの原型です。ただし、このときは踊りだけでなく、劇のようにセリフや歌などもある出し物だったといわれます。当時のグリエルモ・エブレオという舞踊教師は、舞踊の単数形をバロ「Ballo」、複数形をバリ「Balli」と呼び、特別な内容をもった舞踊をバレット「Balletto」、その複数形をバレッティ「Balletti」と呼んでいます。想像できるように、これがバレエ「Ballet」という言葉の原型です。つまり、このころにはすでにこうした呼び名が存在していたということになります。

 こうした、今のイメージで言うと「バレエ的出し物」がフランスへ渡る契機となったのが、メディチ家の娘カタリーナのフランス王アンリと結婚です。カトリーヌ・ド・メディシスと呼ばれたカタリーナは、大好きなこのバレエ的出し物をフランスに持ち込み、おおいに流行らせました。この時期もっとも有名なものは、「王妃のバレエ・コミーク」であり、これはもっとも初期のバレエ作品であるといわれています。これの成功をうけてフランス宮廷ではこの種の娯楽が盛んに行われるようになったのです。ルイ14世の時代には、ルイ14世自身がダンサーとしてバレエを楽しみ、曙という役でバレエに出演したことから「太陽王ルイ」と呼ばれるようになったほどでした。ルイ14世の時代には、バレエの5つのポジションも確立され、基本が出来上がりました。

 王が年を取りバレエから離れると、貴族一般の娯楽から徐々に専門的要素が強くなり、1669年にオペラ座が建設され、1713年にはオペラ座バレエ学校も設立されます。このころには女性舞踊手も出てきていて、また、アン・ドゥオールもすでに重要な基礎となっていました。マリー・カマルゴなど人気ダンサーが出るようになり、バレエは曲芸的な技巧を披露する舞台になっていきましたが、18世紀後半、ノヴェールが「舞踊とバレエについての手紙」(1760)を発表してバレエという一ジャンルの確立を訴え、徐々にバレエは今日私たちがみている姿に近づいていきました。

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ロマンティック・バレエの誕生とポアント技術


 19世紀にはバレエが大いに発展し、技術も進歩し、ポアントの技術も発生しました。誰が最初にポワントで踊ったのかというのは諸説あるようですが、一番有名な説はマリー・タリオーニという有名なバレリーナが「ラ・シルフィード」で披露したというもの。しかし、現在は、もっと前からすでにポワントで踊られていたと研究者の間では言われているようです。そして、このポワントを効果的に使って、フィリッポ・タリオーニという振付家がロマンティック・バレエの一時代を築き上げました。

 ロマンティク・バレエとは、ロマン主義的バレエという意味で、特徴としては超自然的な存在である妖精や魔女などがよく登場することと異国の物語が流行ったということです。このロマンティック・バレエの先駆的公演はフィリッポ・タリオーニ振付の「悪魔のロベール」のバレエ場面で、主役は娘のマリー・タリオーニでした。その後、1832年に初演された「ラ・シルフィード」は今日にも伝わる有名なバレエですが、これは本格的なロマンティック・バレエ作品として歴史上その名をとどめています。やはりフィリッポ・タリオーニ振付で、主役シルフィードはマリー・タリオーニでした。このとき、風の精シルフィードの軽やかさを出すため、ポワントが本格的に使われたといいます。この公演の成功で、マリー・タリオーニは最初のロマンティック・バレリーナとして名声を確立しました。この時代には、マリーのほかにファニー・エルスラー、カルロッタ・グリジといった有名バレリーナがいました。特に、グリジは最初に「ジゼル」を踊ったバレリーナとして有名です。この「ジゼル」もロマンティック・バレエの代表作といわれています。

 これらのロマンティック・バレエの発展はすべてパリ・オペラ座を中心としていました。ラ・シルフィード、ジゼル、パ・ド・カトル、パキータといった今日でもよく上演される演目が創られましたが、、コッペリア(1870)以後は徐々にオペラ座の勢いは衰え、バレエの中心はロシアへと移って行きました。 

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クラシック・バレエの確立


 ロシアでは、フランスで宮廷バレエが盛んだった時代にすでにバレエが輸入され、17世紀には職業舞踊家が 出現していました。1738年には宮廷にバレエ学校が作られ、これが現在のワガノワ・バレエ学校のルーツ です。そしてロマンティック・バレエの時代には、フランスの有名バレリーナを招いて公演を行い、バレエが 人気の芸術として定着していきました。

 こうしたバレエ繁栄の中、現れたのが有名なマリウス・プティパです。彼はチャイコフスキーと組んで「眠りの 森の美女」(1890)を発表して大成功をおさめました。これはバレエ史上、最高傑作といわれており、今日も 世界各地で上演される人気演目であることは周知のとおりです。そして、「くるみ割り人形」「白鳥の湖」もプティ パの振付とチャイコフスキーの作曲によって完成しました(「白鳥の湖」はイワーノフとの共同振付)。

 一方、こうした演目の発展と同時に、衣装の面でも大きな変化がありました。ロマンティック・バレエの時代ま ではバレリーナの衣装は足首まである長いチュチュ(ロマンティック・チュチュ)でしたが、この時代にすそが 短くなってクラシック・チュチュ(白鳥の湖のオデットが着るような短いチュチュ)が生まれました。これによって 足の可動範囲が広がり、ポワントを含めたバレエ技術が大いに発展しました。白鳥の湖の第3幕で披露される 有名な「32回転」もこの時代にはじめて可能になったといわれています。こうした、プティパのもとで新しい発展 を遂げた19世紀のロシア・バレエを今日ではクラシック・バレエと呼んでいます。

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ディアギレフのバレエ・リュスと現代バレエ


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