| 2008年4月26日(土)、藤沢産業会館にて、第5回灯台フォーラムが開催された。午後12時過ぎ、7歳から86歳までと、年齢層も様々な約60名の参加者で会場はほぼ満席となる。司会を務められたのは、元第六管区海上保安本部灯台部長であり、社団法人燈光会を退任された後もフリーとしてご活躍中の玉宮隆氏である。趣味のお能で鍛えられたという美声が会場に響き渡り、和やかな雰囲気の中でフォーラムが幕を開ける。
灯台グッズの店『ライトハウス・キーパー』のオーナーであり、フォーラムの主催者である山口氏が、灯台を愛する人の会『ライトハウス・ラバーズ』の昨年からの活動を報告する。1999年に始まり13回を超える国内外の灯台巡りツアーは、ライトハウス・ラバーズにとっては無くてはならない行事となっている。他では味わうことのできない貴重な体験ができることも、ツアーの魅力のようだ。2007年南伊豆の灯台巡りで船上から眺めた神子元島灯台は印象的な灯台として記憶に新しい。
「神子元島灯台」は、下田港南沖11kmにある神子元島に明治3年に建設された。その「神子元島灯台」を近代化遺産という観点からスポットを当てたビデオが上映される。明治時代は、西洋の技術を積極的に取り入れた時代である。近代化遺産と呼ばれる現代建築の多くは、この時代に建設されている。灯台の父と呼ばれる、イギリス人技術者であるブラントンが設計した神子元島灯台は、その近代化の第一歩を担う存在だったという。
今なお専門家や建築家から注目される明治時代の建築物は数多くあるが、この荒波に朽ちた白黒の灯台を近代化遺産として思い浮かべる人は稀なのではないだろうか…。
そんな想いを誰よりもリアルに感じているだろう人がいる。写真家の野口毅氏である。建築写真を中心に撮影活動を続けていた野口氏だが、灯台の建築物としての美しさに魅了され、数年前から仕事の合間に灯台の写真を撮り始めたそうだ。今回は、彼のプロジェクトである『明治時代の保存灯台66基』のうちの一部を、スライドショーにて紹介してくれた。
明治時代の灯台に趣があるのは、明治以降の灯台がコンクリートでできている一方で、石、レンガ、木で造られているためだという。ホルンが奏でるバッハの心地よいBGMに乗せて、美しい灯台とその周辺の風景が次々と映し出される。下から見上げた螺旋階段、巨大なレンズ、逆光に浮かび上がる迫力のある姿、点灯直後のレンズと空の色のコントラスト等、灯台の持つ意外な表情にハッとさせられる。要塞の跡や野原で戯れる馬など、灯台ある立地ならではの風景にも野口氏のこだわりが感じられる。会場は美しい写真の数々に息をのむかのように静まり返る。野口氏の口から淡々と語られる撮影時の裏話も興味深い。アクセスの悪い金華山灯台に折りたたみ自転車がボロボロになるほど苦戦して辿りついたこと、フレネルレンズが大きくてフレームに入りきらないこと等、生の体験談が目の前の写真をいっそうリアルなものにする。灯台がこれほど様々な表情を持っていたとは、知らなかった人も多いのではないだろうか。スライドショーが終わると、会場からは大きな拍手と感嘆の声が上がった。
野口氏と同様、明治時代の灯台に特別な想い入れのある方がいる。近代化遺産の一つである犬吠埼灯台の研究および保存活動を行う『犬吠埼ブラントン会』の代表幹事を勤める仲田博史氏である。今年、3月末に犬吠埼の霧笛が廃止になった。そのことを受けて、「Lost
Sound、百年の吹鳴ここにきわまる」というテーマで、音波信号である霧笛の歴史やメカニズムについて、ご自身の熱い想いを織り交ぜながらお話してくれた。犬吠埼の霧笛は、明治43年4月1日に設置され、98年間もの間、船の安全を守り続けた。日本最後のエアサイレンである霧笛が廃止された理由としては、技術の進歩、灯台の無人化によって手動の霧笛が鳴らせなくなったこと、そして、音達距離が短く、音の方向が確認しづらいという霧笛の持つ弱点が挙げられる。圧縮空気が吹鳴器を通ることによって音を発する霧笛。霧笛の音とは一体どんな音なのだろう?会場の期待に応えて、仲田氏が録音した霧笛の音を披露してくれた。牛の鳴き声によく似たその音は、むせび泣くような切ない余韻の残る音だった。霧笛の歴史を遡ると、鐘、銅鑼、爆発信号に始まり、実に様々な方式の音波信号が存在したことがわかる。発動機の歴史や戦前の霧笛機械など、仲田氏の研究は詳細に渡り、奥深い。当時の写真を投影しながら語る仲田氏からは、霧笛によせる情熱が伝わってくる。講演の最後には、「最後の霧笛によせる想い」と題してNHKが犬吠埼の霧笛と地元の人々の想いを紹介した番組のビデオが上映される。仲田氏を含む、銚子の人々が、鳴らし納めとなる霧笛の音を神妙な面持ちで聞いているシーンが印象に残る。地元の人々にとって、霧笛の音は生活の一部であり、様々な思い出と共にある存在だったに違いない。今後は、国の文化財として霧笛を現状のまま保存する試みを始め、移設保存、部分展示、音の録音など、様々な形で保存支援活動を続けてゆきたいという仲田氏。講演を締めくくる力強い言葉に、会場からは大きな拍手が起こった。
灯台を巡るノンフィクションに想いを馳せた後は、ガラリと雰囲気は変わって、フォーラムの舞台はフィクションの世界へ…。絵本『おばけ灯台』を製作した、きむらみほさん、奈浦なほさんの姉妹である。妹のきむらさんが絵を、姉の奈浦さんが文を担当している。灯台との出会いは、生まれ育った湘南に足を運んだ際、偶然訪れた江ノ島のライトハウスキーパーだったそうだ。『おばけ灯台』は、子供が不安と向き合い、やがて自分自身のありのままの姿を受け入れて進んでゆくというストーリー。おばけとは、自分の中のおばけ=他人とは異なる自我である。そして、灯台は、象徴的な存在として描かれる。孤立感を抱えた子供たちは、おばけの集まる灯台にたどり着き、やがて自分の中のおばけを受け入れて旅立って行く。灯台は、その道を照らす優しい理解者のような役割を果たしている。
きむらさんは、三浦半島の剣崎灯台をはじめとする数箇所の灯台に実際に足を運び、イメージを膨らませたそうだ。きむらさんが披露する原画には、暗闇に浮かび上がる白い灯台の圧迫感、下から見上げた螺旋階段が表す気の遠くなるような心情などが、実に効果的に描かれている。これまで、講演者の多くが、灯台を美的観点や文化的な観点から語ってきた。灯台の象徴的な側面にスポットを当てたのは、おそらくお二人が初めてだったのではないだろうか。灯台の魅力は実に幅広く、人の心を照らしだす象徴的な存在でもあることに、あらためて気付かされたような気がした。
フォーラムの最後を飾る講演者は、かつて、おばけ灯台から旅立った子供だったかもしれない。松田隆氏は、樺太(現在のサハリン)、知来岬灯台で生まれた。
元海上保安官であり、灯台守である父親は、恵山岬、宗谷岬、塩屋埼など、12箇所の灯台に勤務したという。そのうちの5箇所の灯台で、家族と共に生活したご自身の記憶と灯台守の仕事について、当時の写真を紹介しながら語ってくれた。冬場はマイナス20℃という過酷な環境で生まれた松田氏は、終戦後、家族とともに函館に移る。時代は、昭和18年〜20年。母親の記憶によると、昼間の発砲射撃を避けるために、ソ連軍に連れられて、夜の間に港へ向かったそうだ。函館からバスで一時間くらいの場所に、恵山岬灯台は位置する。松田氏の記憶に残る最も古い灯台である。当時の恵山岬灯台と現在の灯台がスクリーンに映し出される。当時の灯台には、霧笛室、事務所、そして官舎が立ち並び、建物の間には洗濯物が干されている。今では目にすることのない生活の営みの感じられる灯台の写真に、会場は釘づけになる。現在の恵山岬灯台からは、モノクロの写真にある灯台以外の建物は壊され、鉄塔と灯台のみが当時の面影をかろうじて残している。恵山岬灯台で生活する松田少年は、町のはずれの小学校まで片道一時間弱の道のりを毎日歩いて通っていたそうだ。日が暮れる中、熊や狐のいる林の中を不安な気持ちで延々と歩いてゆくと、やがて灯台の光が見えてくる。その光を見ると、ホッとして一目散に走って帰った。そう当時の様子を語る松田氏。灯台の生活を知らない現代人にとっては、まるで映画のワンシーンのように浮かんでくる長閑な光景だが、現実は映画のように生易しいものではなかったようだ。
次の赴任地であった利尻島の鴛泊灯台の生活がその厳しさを物語る。冬の間は、岩山に建つ鴛泊灯台から凍る道を、父親が先頭になって兄弟皆で四つん這いになって学校へ通い、そりで斜面を転落しそうになったこともあったという。スクリーンの写真からは、共同生活の賑やかな様子もうかがい知ることができる。お正月に着飾って撮った写真、おかっぱ頭の子供たち、そして、鴛泊から出発する連絡船で別れを惜しむ人々…。町から孤立した灯台での生活は、不自由なことも多く、我々の想像を超える厳しい生活だったに違いない。その反面、松田氏の紹介するエピソードや写真のどれをとっても、人と人とのふれあいや温もりが溢れている。昆布を干したり、レンズを磨いたりして親を手伝ったという灯台の子供たち。モノクロの写真の中の子供たちは、厳しさの中で助け合いながら生きることを自然に楽しんでいるように見える。人と人のつながりが希薄な現代を生きる子供達よりも、本当の意味で幸せなのではないかとさえ思える。
松田氏は、講演の最後に、『喜びも悲しみも幾年月』のラストシーンを映像で紹介してくれた。灯台に灯を入れて、船の安全を祈りながらお互いのことをいたわり合う夫婦の様子が、松田氏のエピソードと重なる。
船を守ることは、かつて灯台守に託されていた。今、現代人の私たちに託されているのは、灯台を守ること―壊れゆく古き良きものを残すこと、そして、人と人の間に存在した温もりを取り戻すことかもしれない。松田氏の講演は、そんなメッセージをフォーラムの最後に残してくれた。そして、松田氏同様、灯台守のご家族を持つ参加者からのコメントが、そのメッセージをより強いものとし、フォーラムは幕を閉じた。
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