電子交差点



    パリからの手紙 1 


                    芳川泰久



 ようやく、文字化けせずに「海亀通信」が読めるようになりました。「ヨーロッパで極右勢力が台頭している」ようだという言葉を、こちらに来て今日で一ヶ月ですが、ひしひしと感じています。印象として、今回のルペンへの得票が示しているのは、民主主義の実行方法である選挙による代理=代表制によって政治が行われているはずなのに、じっさい選ばれている政治家・政治組織が代表=代理の役割を果たし得なくなっている、ということがはっきりした点だと思います。ナチの攻撃で壊滅した村の、当時6歳くらいの、現在の老人は、父や祖父がナチへの地下抵抗運動を行っているにもかかわらず、またそのことを誇りに思っているにもかかわらず、ルペンに投票した、というルポルタージュがテレビで今夜流れていました。この世代にとっては、移民政策を推進してきたこれまでの政権への不満が底流しています。かつてのフランスへの愛惜と失業や治安の悪化(いまはそんなに感じませんが)への嫌悪が、そうした短絡をもたらすのだろうと推測します。他方、若者は、大学を出ても失業率が高く、やはり人間関係の優先する国(コネの国です)への、また現状への不満があって、自分たちを代理=代表してくれる政治と政治家がいない、と感じて、棄権したように思われます。そしていま、まだ投票権をもたないリセの生徒たちがデモ(マニフェスト)をさかんに組織しています。たぶん、デモ=マニフェストするとは、代理機構が上手く行かなくなったときの、ほとんどそれに代わる手段で、このマニフェストを国民の半数(それ以下でも)が行うとき、無血の革命とも言うべき転回が起こるのだと、素朴に思っています。リセの生徒には、投票という代表をえらぶことさえ、いまできないという苛立ちがあるようです。たぶん、宮内さんが「ぼくたちの無知と無意識」と呼んだのは、この、代理=代表制の良さと悪さを意識していることへの自堕落な放棄だろうと思います。「政治」というと、それを色のついたもののように考え(させ)るのが、日本ではよく見られますが、複数の利益も文化も習慣も美意識も価値体系も思考方法もちがう存在が集まるとき、それを内的なもので結べないとき、やはり「政治」という契機が不可欠になります。その意味で、地域通貨の試みは、政治性を表明せずにある規模での「政治」に代わりうる交通の実験なのだと思います。こんなことを書く気になったのは、第一回投票の翌日(4月22日)、午後7時半を過ぎても明るく、散策からやや遅れて帰ってきて、バスチーユ広場からアパルトマンへまっすぐ通っているサンタントワーヌ通りとトゥルソー街の角で、広場のほうから、全斜線をとめてやってくるデモをみたからです。ずっと、その角に立っていました。40分ほど、片側3斜線の両側をデモ隊が思い思いの格好で歩いて行きました。その、熱気みたいなものの性質を肌でできるだけ感じとっておこうと思ったからでした。
 脈絡なく長くなりました。これも「海亀」にふれたからかもしれません。それではこのへんで。

                       (2002年4月26日)