世界の響きを聴け

    『<関係>の詩学』がネットワーカーに指し示すもの

       伊藤俊治+管啓次郎+宮内勝典


         



 エドゥワール・グリッサンという名前は知らなかった。カリブ海文学の大詩人と言われてもピンとこなかった。しかし、数頁読みすすむだけで、この本を贈ってくれた訳者の管啓次郎さんに感謝と驚きの意を伝えねばと思った。大袈裟かもしれないが、いまこの本に出会えた偶然は奇蹟に思えた。
 エドゥワール・グリッサン著『関係>の詩学』(管啓次郎・訳 河出書房新社)は、ネットワーク社会について考えようとするわれわれに多くの示唆を与えてくれる。しかも、その可能性を詩の言葉で豊かに開示してくれる。作家の宮内勝典さんと、美術史家の伊藤俊治さんも、この本への大きな賛辞を管さんの元に送られていたという。ならば、ということで、たちまち座談会が実現した。ネットワーカーの問題に踏み込むには、まず「関係の詩学」について語るところから始めなければならない。(編集者・記)


         01 関係の錯綜体を成す糸


 カリブ海域にわれわれはなぜ、これほどまでに関心を持つのか。それは、カリブ海の島々こそ、近代の最初の出発点として示すことのできる場所だからです。1492年、コロンブスのカリブ海到達以後の500年で、世界は資本主義によって完全に覆い尽くされ、ひとつの市場と化してしまったわけですが、カリブ海という場所は、本来的なものをすべて奪われたかたちで、この統一的な「世界史」のステージに登場します。まず、もともと島に住んでいたモンゴロイド系の先住民たちは、ヨーロッパ人の侵略によって大部分が滅亡させられてしまった。そこにプランテーションを経営するために、ヨーロッパ人はアフリカから黒人たちを奴隷として連れてきた。同時に、そのプランテーションでサトウキビの単一耕作を行なうために、島の自然景観はことごとく破壊されてしまった。たとえば熱帯の典型的な風景としてわれわれが思い浮かべるようなヤシの木だって、もともとカリブ海にあったものではない。パンの木、ブーゲンヴィリアやマンゴーやハイビスカス、火炎樹にヴァニラ、いま目にするカリブ海の風景というのは、こうして植生を見ても、人間の顔を見ても、まったく本来的なものではないわけですね。それは誰がつくったのかというと、ヨーロッパという、市場および貨幣の体現者がつくり出したものと言わざるをえない。
 ここで、商品としての砂糖の重要性をあげなくてはなりません。砂糖というのは最初の世界商品----世界じゅうのどこに持って行ってもそれを売ることができる商品----の1つです。ブドウ糖を大量に消費する巨大な脳を持ち甘いものを好むという、人間の生得的な嗜好に訴えるところが大きかったためでしょうか、砂糖の消費量は17世紀ごろから飛躍的に増えてゆきます。ひとたび砂糖の味に快感を覚えると、その嗜好はどんどんエスカレートしてとどまるところを知らない。まさに、ひたすら増殖をつづけようとする資本の運動のように。もともとは貴重な薬品扱いされていた砂糖が、供給すればいくらでも売れることがわかり、市場の野方図な拡大に従って、この単一耕作の地域はどんどん拡がっていった。カリブ海だけではなくブラジルがあり、ハワイがあり、いずれの地域も日本語を使用する労働力に無縁ではなかったことも注意しておいていい事実でしょう。またサトウキビというのは、その処理のプロセスに極めて組織的な労働が必要とされる作物です。つまり、収穫の後ごく短時間のうちに砂糖に精製しなくてはならないので、畑という生産の場に隣接した工場が必要になってくる。こうしてカリブ海域全体が、砂糖をつくり出すための巨大な資本主義的工場として現われてきたんですね。
 この工場をいわばエンジンとして、三角貿易による世界市場が成立し、地球規模の近代がはじまった。そんな出発点にあたる場所で、完全に根拠を奪い尽くされた奴隷の子孫たちが、自分たちを支配していた者の言葉に何か猛烈な変形を加えながら、独自の言語をつくり出す。カリブ海域の文学はこの20〜30年ほどの間に急速に注目を集めるようになりましたが、エドゥアール・グリッサンは、そのカリブ海文学の先駆者と言うべきエメ・セゼールという大詩人の直接の教え子でした。グリッサンはやがてマルティニクを離れフランスに留学しますが、それ以降20年にわたってフランスにとどまる中で、フランス象徴主義をひとつの頂点とするヨーロッパの文学伝統や思考の癖や価値観を、すべて自分の中で相対化することになる。ヨーロッパによってつくられた世界に強制的に引き込まれてしまった者たちの立場から、もう一度世界を書き直そうとする。そういう姿勢がグリッサンの作品や評論には一貫して見られます。

宮内 僕はフランス語は詳しくないのですが、このテキストは純粋なフランス語で書かれているのでしょうか。

 ええ。少なくともその表層においては、正統な文学言語としてのフランス語ですね。

宮内 やっぱり。僕は管さんの脳で変換されてきた日本語でしか読んでいないのですが、ハイチなどで使われているクレオール語ではなく、完璧なフランス語だろうということは想像がつきました。パリの知識人たちも脱帽するような見事なフランス語にちがいないと。それは媚びているのではない。
 グリッサンは1928年生まれですね。その世代の、植民地で支配される側に生まれた知性としては、言語のヒエラルキーをひっくり返してやろうというぐらいの心意気があったはずです。カリブの内界を、きみたちよりも美しいフランス語で書いてみせようじゃないか。そんな複雑な誇りがあったにちがいないと思います。
 もう一つ、僕がグリッサンに関心をもったのは、ドゥルーズ=ガタリの「リゾーム」に言及していることです。単一の根として固定しているんじゃなくて、地下茎が網目状につながっているようなイメージ。それを踏まえて、グリッサンは「関係の詩学」と呼んでいる。
 とてもきれいな表現ですが、彼が書いているフランス語は、民族的な母語を奪われた上で、植民地支配によって強いられたものとしてあるわけですね。
 それで「詩学=poetique」という表現に込められたニュアンスは何だろうと考えていたんです。それはたぶん文脈の異なる、歴史、文化などがぶつかり合って、混淆し、いままさに新しい意味が生成しつつある現場、そこでの関係性、言語空間、生きる場、といったことでしょうね。

伊藤 『<関係>の詩学』を全体として見ると、はじめに声と身振りが生まれ、それが再び消滅していくときのパルスを共鳴しつつ受けとめていくというあり様をいろいろなかたちで指し示しながらグリッサンは流れていっているように感じます。彼の言葉で言えば「言霊」が飛び出してくるときの、意味生成の場が湧出してくるときのビジョンをすごく精緻に書きとめていると思うんですね。そのビジョンは,さまざまなかたちで僕らがこのネットワーク社会について考えていくときの手掛かりを与えてくれると思うんですが、その指し示し方がおもしろい。
管  世界じゅうのどんな小さな場所をとっても、そこには世界の他のすべての場所が響きわたっている。これはグリッサン自身の言葉というより、デレク・ウォルコットやジャメイカ・キンケイドといった他のカリブ海作家たちにも共通する精神に対する僕流の解釈なんですが、具体的なモノの流通をとってみても、それは端的な事実なのだということがわかります。たとえば、いま僕が着ているこのシャツ。ほんとうはこれはどこ製か知りませんけど、仮にバングラデシュだとしますね。バングラデシュ製と書かれていても、その原料になった綿花はインドから来たのかもしれない。あるいはその縫製のプロセスにかかわっているのはタイやマレーシアの人だったかもしれない。このようにあらゆる産物が、国籍を指定するなら極めて多国籍的に編まれた、それこそ「関係の錯綜体」になっている。 ところが、世界商品というものは、世界市場に出されることによって、いわばその起源の土地を消されてしまう、脱色されてしまうというプロセスを経ています。現に僕はこのシャツがどこでつくられたか知らない。あるいは自分が口にする食物の、起源の場所を知らない。この見えなくなっている関係の錯綜体を成す糸を1つひとつ解きほぐしていって、その元にあったものをもう一度探ろう。もともとの現場で響いていた音、そこで感じられた色合い、匂い、そういった感覚に訴えかけてくるものすべてを取り返そう。流通するモノに臨在するはずの記憶を、取り戻そう。自分自身はたしかにこの限定された1つの小さな場所で生きているにしても、つねに世界のどこか遠くの、さまざまな数え上げることすらできないぐらいたくさんの場所とつながっているんだ。そのことを意識しようじゃないかという呼びかけだと思うんですね、この本は。こういってもいいでしょう。貨幣による取り引きは、記憶を初期化する。けれどもモノには、痕跡が必ず残っている。その痕跡を見えるように、聞こえるようにしなくてはならない、と。


      02 人間と世界のコミュニケーション


 グリッサンが何度も繰り返して取り上げている単純な、けれども非常に重要な考え方に「不透明性」という言葉があります。ここで言う透明さ/不透明さというのは、たとえば次のようなことです。プランテーションで主人が奴隷に対して発する言語というのは完全に透明です。それは経営者としての自分の意図を通用させようとする言語です。奴隷はその命令の言葉をそのまま受けとめて、決められた労働にいそしまなくてはならない。ところが奴隷たちが労働の現場を離れてさまざまな民話を語るときの言葉、生活というか人生に内在する記憶を語る夜の言葉というのは、主人たちの側から見たら、まったく不透明なものなんですね。つまり、透明さ/不透明さの構図には、ひとつの力関係が反映され、大きな意図と小さなさまざまな記憶の対決がそこに浮上する。実は似たような状況はあらゆるところで起こっているはずです。いまの世界で言えば、アメリカが発するメッセージというのは、おそらくいろいろな場面で非常に透明なものとして受けとめられると思います。これを買え、これを着ろ、これを食え、この言葉を話せ、というように。それは、世界通貨(世界中どこでも交換を拒否されない通貨)アメリカドルの強さがあって、アメリカ国家と完全に重なるものではなくとも「アメリカ」と呼ぶしかない経済的な複合体が、現在の世界市場を事実上経営しているからです。それに対して、それぞれのローカルな言語、ローカルな文化というのは常に不透明なものとして現われ、みずからの不透明さを守ろうとしている。透明さと不透明さの戦いは世界じゅう至るところで起きていると思うんですけど、その不透明な小さなものを、われわれは自分自身強烈に意志するとともに、擁護しなくてはならない。不透明な地帯を、拡大してゆかなくてはならない。その抵抗と創造の決意がある地点だけが、いわばホットなスポットとして輝く。改めていうまでもなく、多くの人が気付いていることだと思いますけど。

伊藤 その場合、透明な均質なものが押し寄せてくるときに、澱とか瘤とか何か弛みみたいなものとして不透明性があちこちに存在し蠢いていて、それらが合流して別の新しい仕組みというか世界をつくり出すことができるということが、何か大事なビジョンとして見えてくると思うんですね。

宮内 植民地がなくなったいまでも、言語の階級性は、やはり消えてはいませんね。たとえばカリブの国々にいると、アメリカ合衆国が北というか、上のほうにありますね。ラジオを入れると、とたんにアメリカ音楽の洪水が空から降ってくる。
 カリブの島々でそれを聴いていると、アメリカ人の口臭が空から襲ってくるような感じです。臭いけれど、きわめて透明な言語です。欲望のわかりやすさ、と言うか。
 ジャマイカのラップ・ミュージックは、そうした透明性に抵抗しようとしている。アメリカの黒人たちも、そのラップを使って別なものと繋がろうとする。ヨーロッパでも日本でも、世界のいろんな都市で同じようなことが起こっていますね。

 そうですね。先ほどカリブ海は近代500年の出発点だと言いましたけれども、いま現実に、カリブ海的なものは世界じゅうに飛び火し、飛び地をつくり出していますね。

伊藤 不透明性ということに関して言えば、そういう大国の支配という問題とは別に、コミュニケーションの問題というか、人と人はどうつながって、どういう関係性を持ちうるのか、といった基本的なスタイルの可能性といったものを、この本は指し示していると思うんですよ。単にわかり合うということではない、人間と人間の結ぼれ、結びつき合い方といったものが、ネットワーク社会を生きる僕らにはすごく切実なものとして響いてくる。相手を理解したとか、分かり合うとか,愛しているとかとか、これまで僕らが結んできたつもりになっていたそうしたさまざまな関係とは一体何だったのか。そういう本質的なコミュニケーションのあり様みたいなものに対して、この本は強烈に目を覚まさせてくれるところがあると思うんですよね。
 グリッサンが書いていることで特に印象的だったのは、コミュニケーションには2つの形式があるという話です。1つは「人間と人間」の間のもの、それからもう1つは「人間と世界」の間のもの。いまのネットワーク社会の状況を見ていると、携帯電話でもメールでも何でもそうですけど、人間と人間のコミュニケーションのシステムというのはすごい洗練されていて、技術的にもどんどん進化していると思うんですけど、その一方、人間と世界のコミュニケーションのほうは一体どこへ行ってしまったのかという大きな疑問があると思うんですね。でも、グリッサンの指し示している「関係の詩学」というのは、たぶん人間と世界のコミュニケーションをビジョンとして開示することによって、人間と人間のコミュニケーションのレベルを活性化して、それを人間と世界のコミュニケーションのレベルに押し流していくような、そういうあり様を縦横無尽に語るものだと思うんです。

宮内 マルティニク島の描写で、満ち潮のシーンがありますね。そこを読んでいると、単に潮が満ちてくるというだけではなく、何か世界が満ちてくるというか、世界の吃水線が迫ってくる。
 抽象的でありながら、人間がいとおしくなるような、見事な表現ですね。

 世界のどの1つの言語を取っても、そこには世界の他のすべての言語が響きわたっている、とグリッサンは言います。実感として日本語だって、接触したすべての文化の痕跡を受けて日々の変容を続けているわけですから、わりあいわかりやすい話だと思うんですけど、これをグリッサンの後続世代にあたる小説家のパトリック・シャモワゾーは「オムニフォン」という言葉で呼んでいます。まさに「すべての音」「すべての言語」という意味ですね。彼らカリブ海の作家たちが書いている言語というのは、それが一見したところ英語であれフランス語であれクレオール語であれスペイン語であれ、実はすべて、このオムニフォンの文学なんだというふうに僕は思っています。つまり1つの言語は、1つの国語(ナショナルランゲージ)として完結しているように見えても、それは実はもう穴がぼろぼろに空いた、あらゆる他の言語に侵蝕されたものであるというイメージですね。だからこそ彼らはナショナルランゲージのボーダーを超えて、他の島々とつながる可能性があるし、地理的な意味での島々だけではなくて、世界じゅうに散らばっているいろいろな大都市のネットワークにそのまま接続され中継されていく可能性を常に持っている。


       03 リゾームとユートピア


伊藤 最初に宮内さんがリゾームについて触れられていましたね。リゾームといえばドゥルーズ=ガタリということになっているけれど、その言葉はベイトソンが『ナーベン』というイアトルム族に関する調査記録論文の中で最初に提示したものなんですね。ベイトソンの認識論の原点である関係性という言葉を説明する際に、「根茎」(リゾーム)という言葉を持ち出して、あるものがまったく別のものと意外な関係の糸に結ばれているという状況をあわらす1つのキーワードとしたんです。グリッサンは直接にはベイトソンに言及していないけど、この本の根底にはやっぱりベイトソン的なものが色濃くあると思うんです。
 まずベイトソンは『ナーベン』の中で、「分裂生成/シスモゲネシス」という言葉を用いています.この言葉は「父と子」や「母と子」といった,2者間に分裂を生みやすくする相互作用のプロセスの類型を意味し、クライマックスとカタストロフィ−をもたらす人間関係を指し示しています。ベイトソンはその分裂生成の激しい部族としてイアトルム族をあげたのです.ところが、彼はニューギニアのイアトルムからバリに渡って大きな落差を見出すことになる。それが分裂生成的な人間関係と対照的なバリの「ステディステーツ=定常状態」です。まったく正反対の人間や社会の関係のあり方としてイアトルムとバリを捉えている。その定常状態とは何かというと、ある一定の強度がクライマックスやカタストロフィーを巧妙に回避しながら,人間と人間の間に張りめぐらされていて、それによって社会の安定が保たれている状態。バリでは社会的な関係が非常に安定したかたちで結ばれていて、社会そのものが一定のサイクルで循環しており、イアトルム族に見られるような分裂生成を回収していく仕組みがあるんだとベイトソンは言っている。相互に異なるコ−ドが、いずれも極限を回避しながら交替でシステムを支えあっているため、安定状態を保ちやすい。どんなに強いバイアスがかかっても、それがさらに大きい集合体の一部に還元されていく仕組みがバリの中にはあって、カタストロフィーが非常に起こりにくい全体構造が維持されていると。このあたりのベイトソンが実際に体験して理論化しようとしたことは、グリッサンを理解する上でも、このネットワーク社会における人間と人間のコミュニケーションのモードを考える上でも、すごく興味深いモデルになると思うんですね。

宮内 いまの話、すごくおもしろかった。リゾームという概念もベイトソンが起源だったんですね。それで思い出したことがあります。
 モルガンの『古代社会』という、アメリカ・インディアンの社会を研究した本がありますが、エンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』は、この『古代社会』の翻案というか、ほとんど焼き直しですね。マルクスも『古代社会ノート』を書いている。資本主義のあとに浮上してくるユートピアをイメージするとき、もしかしたらアメリカ・インディアンの社会を手がかりにしていたのかもしれない。
 僕がバリ島で感銘を受けたのは、ユートピアというとき、富が平等に分配されるとか経済的なシステムを、まず最初に考えますね。
 ところがバリの社会は、もっと深く、豊かに練り上げられているような気がします。
 バリの人たちは、朝早く田んぼに出て働いて、昼は休み、夕方から芸術家に変身して、踊りやガムランの練習をする。そして祭りのとき、日々磨いてきた技を披露する。近隣の村からも踊り手や演奏家たちがやってきて、祭りを盛り上げる。報酬は手土産に野菜を持たすぐらいだそうです。向こうの祭りの日は、こちらから応援にいく。
 つまり、歌舞の交換をやっているわけですね。そして祭りのクライマックスで、トランスに入って至高体験をする。
 すべての人たちが、それぞれ実存をまっとうする。それが理想的な社会なんだと考えているような気がするんですよ。

伊藤 トランスですね。定常状態の価値体系によって積み込まれて見えなかった層が、トランスをやったときに、そのステディな状態を突き破ってもがき出てくる。トランスというのは、いわば「地」みたいなもの。彼らの日常生活に裂け目を入れるものだと思うんですよね。だから破壊と戦慄を呼び起こすんだけれど、それと同時にトランスはものすごいクリエイティビティーと結びついているために、バリの人たちはそれなしでは生きていけない。非常に魅惑的なものでもあって、何よりそれは外の世界と常に結びついている。外の世界というのは無秩序な混沌なのではなく、ポシビリティーに満ちた可能性界というふうにベイトソンは考えたんですね。バリの人はいろいろな方法を選択しながら、日常生活に生じた裂け目から外を垣間見て、そこから新しい意味の水を汲み上げることができる。だから定常状態と言いながらも、そこには多孔質としてのトランスがいっぱい編まれていて、それが全体をうまく動かしていると。それはバリだけじゃなくて、かつては様々な文化の底に流れていて、今の世界にも確実に及んでいることだと考えます。さっきの管さんの言葉で言えば、ひとつの文化にすべての文化が折り畳まれている。そうした文化の持つ無意識的な痙攣みたいなものを自らの身体に浸潤させようという動きは、あらゆるところで高まりを見せていると思うし、僕が「関係の詩学」という言葉でダイレクトにイメージするのはそういうものじゃないかという気がしますね。


     04 受け手と「共与」できる広告


伊藤 グリッサンは「全体性」ということに関してすごい神経を使いながらいろいろな言い方をしています。対象とするもののまわりを回遊していきながら様々な光やフォーカスを当てていくというような、すごい特殊な文体を使っていると思うんですよ。でも、そんな極めてデリケートな言い回しの中から、生命圏全体を包み込んで思考する意識層みたいな、それがカオスの中から立ち現われてくるような、そういったイメージをすごく喚起させられるんですね。

宮内 バイオコンピュータというものが考えられているそうですが、グリッサンを読んでいると、世界にバイオのシステムを持ち込もうとしているような気がするんですよ。こんなに高度な知性でありながら、世界がドックン、ドックン、と脈打っている感じを確実に伝えてきますね。

伊藤 何かが運動したり炸裂したり、いろいろな形で多様に動いているこの混沌の海の中から、ある種の秩序が生まれたり消えたりするような、非常に生命的なビジョンを明確に示していると思えるんですね。

宮内 「関係の詩学」という言葉も、そのことを言っていると思うんですよ。

 情報テクノロジーが急速に進んできて、有機的・肉体的な接触がなくてもいろいろなかたちで人がつながることができるようになっているのは事実ですよね。非在の共同性とでもいったものが、たしかに生まれている。でも、だからこそもう一度、実際に会って同じ場所を共有して行なうようなコミュニケーションが非常に重要になってきているような気がしています。顔を見て、声を聞いて。抱擁しないまでも、せめて握手して。ヒトは百万年、それでやってきたんだから。これは別に文学や思想に関わっている人たちばかりが言っているんじゃなくて、おそらくビジネスの現場でも同様の反応が出てきているんじゃないでしょうか。実際に対面して対話することが与える圧倒的な、記述不可能な情報量、そこから生まれてくる、直接利益には結びつかない価値が、改めて見直されるようになっている。儲かるだけでは仕事をしていてもおもしろくない。当たり前のことですけれど。それよりも、おもしろい連結を探りたいと、みんな思っている。

伊藤 管さんの訳で言うと、「共与」というグリッサン特有の言葉がありますね。共取ではなく、共与。共に取り合うのではなくて、互いの間に生まれるものを与え合うということ。これは今後すごく大きい意味をもってくる言葉だと思う。そこには、何かあらかじめ語られるものがあるんじゃなくて、語ることによっていままでになかったものを生まれさせるという意味合いがある。

 グリッサンが言いたいのは、ほんとうに単純なことだと思います。関係というのは、それを見出し聞き取ろうという気持ちがなかったら、現れてくるものではない。ただし、一旦そういう態度を自分たちが身につけるようになれば、まさに至るところに「関係」が露出してきて、それによって世界の見え方、というよりも現実に自分が接続される「世界」が変わってくる

伊藤 要するに、語る人は聞き手の態度とか参加の仕方によって、自分のしゃべることが大きく変わっていく。そこに新しいものが生まれてくる可能性がある。対話ってそういうことだと思うんですね。

 たとえば、それを広告の問題にひきつけて考えてみてもいい。商品と貨幣の交換それ自体では完結することができなくて、商品が必ず言語によって語られつつ手渡されるのでなければ、送り手の側もそれを受け取る側も、どちらも十分にそれを豊かに使うことができなくなっているのではないでしょうか。商品や企業イメージの物語化はもちろんいつだって行なわれてきたことですが、その地平が拡大し、その先の接続可能性を訴える動きが出てきた。モノの作り手や売り手だって、消費者の側とおなじく、自分の人生をそのモノに込めようとするのは当然です。エコロジーも多文化主義も、いくらでも巧妙に利用される危険はありますが、単なる利潤追求とはちがう表現や意識をそこに忍び込ませる希望は、僕は肯定的に受けとめたい。それは人類がつくるフィクションが、全体として結びつき構成する惑星規模の対抗世界の1つの要素になる。
 いままでの広告のやり方というのは、どうしてもビジュアルが先行していました。ビジュアルイメージの本質は、瞬間的な把握にあります。静止画像ならまさに瞬時、動画なら15秒なり30秒というようなごく限定された時間で、モノとしての商品の背景にある記憶を消去し、しかも何度も何度も同じ表現を反復することによって、時間の流れを廃棄し歴史を抹消するように消費者を仕向けてきた。けれども言語によって、物語によって広告するということになると、言語には語りのための時間が必要ですから、どうしても全体的にスローダウンしていくと思うんです。同時に、こうしてかけられた時間はいやでも人に自省を強いるし、嘘を容赦なく暴くだけの余裕を与える。メッセージの送り手の側にも、受け手の側にも。ですから、いままでみたいにどんどん新製品が登場し循環するというんじゃなくて、むしろ時間をかけてつき合えるものがはるかに大きな価値を与えられるようになるだろうし、それを享受する時間が言葉によって引き延ばされ濃密になっていく、そういう方向性があるんじゃないかという気がします。モノを集めることはヒトの生活に欠かせない。これは否定できませんね。商品のアレンジメントはわれわれの運命です。では、そうして構成される個人の生活世界に、どのような広がりをもたせ、どのような響きをひびかせ、その先にどのような未来を探るのか。こうした「生活の詩学」が、誰にとっても大きな主題になる。
 カリブ海の生活の詩学、北欧の生活の詩学、オーストラリア先住民の生活の詩学、どれもが世界の響きであり、それに対する共鳴はまったくランダムに起こっていいと思います。

伊藤 世界というのはわれわれ自身が関わることによって浮かび上がってる。ならば、単なる手法としてのインタラクティブマーケティングということではなくて、もっと違うかたちで受け手と共与できる広告の可能性というのがあるのかもしれない。それはきっと生態学に通じていくものだと思うんですね。でも狭義のエコロジーじゃない、もっと大きい意味でのエコロジカルなシステムが考えられるべきでしょう。

宮内 以前お会いしたとき、管さんが言っておられたことなんですが、いつの間にか、つい自分の言葉のように人に喋っている言葉があるんですよ。
「いやいや、世界はまだまだ広くて、深い」と(笑)。
 一例ですが、ニューヨークに住んでいた頃、バリ音楽のカセットを買ってきたのです。聴いてみたら全然おもしろくない。子供が卓上ピアノかなにか弾いているようにしか聴こえなかった。
 ところが実際バリに行って聴くと、まったく違うんですね。鳴っているのは金属楽器じゃなくて、空間なんですね。空間が共鳴して、うねっている。その振動音に包まれたときトランスが起こる。
 そういう固有の場というものに、ちゃんと畏敬の念を持っていないと、世界というものに対してタカをくくってしまう。グリッサンを読んでいると、バリ音楽を初めて現場で聴いたときの驚きを思い出します。

伊藤 移動することは空間の質を変えることなんですね。いまのネットワーク社会というのは、あらゆる情報が1つのモニターから入ってくるという、そういう体制の中ですべてが回転しているように見えるんだけれど、あちこちを移動しながらそのコンピュータネットワークとつながっていることのほうが重要なんじゃないか。そういうことを植島啓司さんが言っていて(『聖地の創造力』)、何事かが行なわれて生まれる時間とか場所というのはあらゆる面においてかけがえのない大切なものであると彼は強調しているんですね。そういう聖地的なクリエイティビティーの問題。それをちゃんとネットワーカーが認識するということが切実に求められる時代になっていると思いますね。ここにいれば何でも情報が手に入るというのではない。もっとこことは違う次元をホリスティックに生きているんだということですね。

宮内 そう、そう。僕はこのグリッサンの本を1ヶ月ぐらいかけて、ゆっくり、ゆっくり読んでいったのです。部屋で読むのはやめて、電車の中や、乗りかえのホームや、クリニックの待合室などで、移動の感覚を呼び起こしながら読んでいったのです。
 なぜそうしたのか、いま思い当たります。植島啓司さんの『聖地の想像力』(集英社新書)にアボリジニの「チュリンガ※」のことが出てきますね。僕はたぶん、この『<関係>の詩学』という本を、「チュリンガ」としてバッグに入れて持ち歩いていたんですね。世界を喚起させてくれる地図のようなものとして。そうして東京の電車の中で、ずっと世界の響きを聴いていたのですね。




(※注)チュリンガはオーストラリア先住民の間で見出されたヴィジュアルな記憶装置。世界のリズムに感応しながら上下したり左右に揺れ動いたり味わったり触れたりする、そういう自己の運動が統合されて結晶化されるもの。1人でここにいながら、他のすべての「あそこ」とつながっているという感覚をもたらしてくれるもの。


              初出「広告」(2000年9+10月号)
              http://www.hakuhodo.co.jp/kohkoku