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    第12章 フクロウ派になろうか

            (2003年1月〜2月)

         
           copyright Shinro Ohtake


   「海亀日記」は新しい日付が下にくるようになっています。


                       January 16,2003
 一昨日、小樽から帰ってきた。羽田からまっすぐ早稲田大学へ直行して、今年最初の授業をした。小樽では二十日間、海辺の小さな家で吹雪に埋もれながら、ひとり暮らしていた。その家で、あたらしい小説を書き始めた。二十年ぐらい温めていた念願の小説だ。まだ第一稿だが、およそ百枚分ぐらいを書くことができた。


                       January 24,2003
 ちょっと考えるところがあって、小樽ではずっと手書きをつづけていた。細字の万年筆で、原稿用紙の裏にびっしりと書き込んでいく。原稿四枚分ぐらいを視野に捉えながら小説を進めていくために。

 二十日間、パソコンに触れなかった。そのせいかアルファベット入力しながら書くことに、まだ違和感がある。どちらが人間の呼吸や息づかいに近いかというと、やはり手書きだろう。今度の小説は、三稿まで手で書こうと思っている。

 ぼくは携帯電話を持っていない。持ちたくないのだ。以前、営業マンたちが呼び出しのポッケットベルを持ち歩いていたものだが、あれは便利ではあるけれど、遠隔操作されているようで、心理的にはつらいだろうなと思っていた。携帯も、ポケットベルに似ているような気がする。逃げ場がなくなる。

 もの書きという仕事上、ぼくは携帯を必要としない。だから、このまま携帯なしで生きていこうと思っている。外は、荒野だ。荒野にいる者は、電波では捕まらない。

 昨年の夏、二か月半ぐらいパソコンを持たずに旅をしていた。小樽でもパソコンのない生活だった。海辺の家で吹雪に埋もれていたが、実に快適であった。ネットは仕事上では便利であるが、日々の実感としては、よけい忙しくなったような気がする。一日中、メールの返信を書くことに追われてしまう。だから最近は、なるべく葉書を書くようにしている。ぼく自身、メールをもらうよりも、葉書をもらったほうが嬉しいから。


                       January 25,2003
 二十数編の卒論をリュックに入れて、自宅に持ち帰り、ひたすら読みつづけていた。明日から「文芸専修」進級のための選考作品、155編を読む作業に入る。才能のある学生がいるといいが。若い未熟な作品を読みつづけるのは苦痛ではあるけれど、ここに火がつかなければ文芸復興は、夢のまた夢にすぎない。まだ打てば響く若い魂を相手にするのは楽しく、やりがいもある。いまは、ここが自分の持ち場なのだと思っている。

 いま一番忙しいシーズンだが、筆一本で暮らしていたときは、長編を抱え込んだまま、生活の資を得るために、エッセイばかり書かねばならなかった。二編のエッセイを書くと、もうそれだけで一週間が過ぎてしまう。

 二十年ぐらい、そうした雑文に追われつづけていた。冷蔵庫を空っぽにしないために。いまは食べるための雑文を書く必要はないから、まとまった時間をつくることができる。『金色の虎』も、おかげで完成させることができた。

 イラク戦争が起こるかもしれない。時局的な発言をひかえているけれど、無関心でいられるはずがない。この理不尽な戦争は、止めなければならない。ワシントンで大規模な反戦デモがひらかれている。日本の友人たちも活動をつづけている。それを知っていながら、あぶら汗をこらえるように沈黙をつづけている。小説を書きたいと思う。また路上に立つことになるかもしれないが、いましばらくは自分の持ち場に立っていよう。


                       January 26,2003
 いま、朝の5時10分。あたらしい小説の、四分の一まできた。こうして言葉をひたすら凝縮しようとしている時にも、戦争は近づいている。15万人とも言われるアメリカの兵力が、アラビア海や、ペルシャ湾へ集結しているそうだ。また、巡航ミサイルや劣化ウラン弾が降りそそぐのか。それを知りつつ、あぶら汗をこらえながら小説を書きつづけている。この営みには無気味な矛盾がひそんでいる。


                       January 27,2003
 春休みのがらんとした大学で、研究室にこもって学生たちの作品を読みつづけた。まだ一年生であるせいか、個々の経験や、生きてきた世界がのっぺりと均質化していること、読書量の乏しさなどがよくわかる。未熟でもいいから、烈しくいらだっている作品に出会いたいのだが。


                       January 28,2003
 詩誌「ミッドナイトプレス」の岡田幸文さん、詩人の山本かずこさんを招いて鍋を囲んだ。だれもが経済だけに目を奪われて、どこかにタマシイを置き忘れてしまったような時代に、資本的なバックもなく自力で詩誌を刊行しつづけるのは苦行に等しいことにちがいない。

 先日、文芸誌の編集者を招いて、ぼくのクラスで話してもらったのだが、こんなエピソードが記憶に残っている。秋山駿さんが「小説がだめになったのは、詩がだめになってきたからではないか」と語っておられたというのだ。はっとした。目から鱗が落ちるとは、このことだと思った。

 ぼくたちは文学の衰退を電子メディアとかに関連づけて考えがちであるが、詩と小説は同じ泉から湧いてくる。かつては思春期に詩を書く人が多かったけれど、そうした言葉の営みがなくなってきたこと、貧しくなってきたことが、小説の衰退につながっているのだろう。

「ミッドナイトプレス」は志のある編集者の献身によって、いまも奇跡的につづいている。健闘を祈る。詩が元気にならなければ、小説も元気にならないのだから。


                       January 29,2003
 夜遅くまで研究室にこもって、150編ぐらいをすべて読み終えた。ビルの中に残っているのは自分一人らしく、夜、気分転換に廊下を歩いていると、あたりは暗く、しんと静まり返っている。学校の幽霊を思いだした。お化けは出なかったけれど。

 学生たちの作品はひどい。未熟なのはどうでもいい。巧くなるのは、むずかしいことではないから。ひどいというのは、150編の作品のどこにも、この混乱の真っただ中にある世界の影ひとつさしていないことだ。9.11の影も、アフガン空爆の影もさしていない。なんの緊張感も、危機感もない。

 ただ一つ、神戸の少年Aのことを書こうとした、かなり質の高い作品があり、ほっとさせられた。その他は、コンビニと、携帯と、コンパと、お手軽なセックスばかり。

 これらの作品を、もしもパレスチナやイスラエルの青年たちが読んだら、きっと怒りだすことだろう。同じ先進国でも、アメリカの同世代の若者たちが読んだら、やはり憤慨するのではないか。

 目取間俊さんの小説ではないが、だれもが魂(まぶい)を落としている。「魂込み(まぶいぐみ)」をしなければならない。ああ。 
 

                       January 30,2003
 高校時代からの友人・大重潤一郎の作品が、ベルリン国際映画祭に招待されることになった。今日は、その歓送会にいった。

 タキシードをどうしたらいいか心配していると、奥さんから「ベルリンにも貸衣装屋がある!」と一喝されたそうだ。もしも貸衣装屋を見つけられなかったら、どうしようかと、いまだに困惑ぎみの姿が楽しかった。「紋付き袴でいくのはどうか。民族衣装なんだからな」とぼくは笑いながら言った。

 かれが映画に関心を抱いたのは「今日、とてもいい映画を見た。ぜひ見たほうがいい」と、ぼくが薦めたことがきっかけだったという。高校生の頃のことだから、すっかり忘れていた。いったいどんな映画を薦めたのか訊ねると「禁じられた遊び」だったそうだ。ああ、恥ずかしい。

 友人は、NPOの「沖縄映像文化研究所」を立ち上げたばかりで、これから十二年がかりで「久高オデッセイ」という四部作を撮ろうとしている。すでに那覇と久高島に、拠点を確保したそうだ。ぼくもそこに泊まることができるという。長いこと久高島に魅せられているから、とても嬉しい。

「イザイホーの祭りを復活させよう」とぼくが言うと、「すでに滅びたのだから、その必要はない」という返事だった。「イザイホーは琉球王朝によって課せられた祭りにすぎないんだ。文化人類学者や、民俗学者たちは、イザイホーにばかりこだわるけれど、ほかにも久高島の祭りはたくさんあって、それはいまも綿々とつづいている。それさえあればいいんだよ」と友人は言った。まさに、その通りだ。また目から鱗が落ちた。

 友人はこれから十二年間、ライフワークとして「久高オデッセイ」四部作を撮りつづけるわけだが、資金の調達など、たいへんな困難がひかえている。ベルリン国際映画祭への招待が、追い風になってくれるといいが。


                       February 1,2003
『イラク戦争 ブッシュ政権が隠したい事実』(星川淳訳 合同出版)の著者、スコット・リッター氏は、湾岸戦争のときミサイル探知などの任務につき、その後、国連大量破壊兵器廃棄特別委員会のメンバーとして、七年間、イラクで廃棄作業を行っていた。「イラクに、もう大量破壊兵器はありえない」というリッター氏の証言と、ブッシュ政権の主張していることは、まったく食いちがっている。

 そのスコット・リッター氏を招聘することになった。「100人の村」基金から費用が出る。ぼくも賛同者のひとりになっている。詳しくは「海亀広場」(No.546)をご覧ください

 毎日新聞の中島みゆきさんから、今日、そのポスターが送られてきた。ごく普通の暮らしをしているイラクの人たち、子供たちの写真が、四枚掲げられている。「アレクセイの泉」の監督・本橋成一さんが撮った写真だ。

 DO YOU BOMB THEM?

 というキャッチ・コピーは、池澤夏樹さんの手になるものだそうだ。ポスターには二つのバージョンがあって、余白のところにメッセージを書いてほしいという。2月6日、午後6時、東大駒場キャンパス 900番教室でひらかれるリッター氏の講演・シンポジウムの会場に貼りだすのだという。イラクの人たちが平和に、ごく平凡に暮らしている写真の下に、ぼくは次のようにシンプルな言葉を記し、署名をした。


 この人たちが、血まみれの肉片となる姿を 思い浮かべよう。
 湾岸戦争のとき ニュースを眺めながら、降りそそぐ戦火を 花火のようだ、と言った日本人がいた。テレビ・ゲームのようだ、という声さえあった。「花火」の下には、このような子供たちがいて、母や 父がいて、ごくふつうに暮らしていたのだ。
 その頭上から、一発二億円以上のミサイルが降りそそぎ、みんな わけもわからず 逃げまどい、赤い血を流し、内臓を飛び散らしながら 死んでいった。
 その 無念な死を、想像しよう。
 再び、この人たちを 殺すのか?
 ぼくたちは イラク攻撃に 加担することはできない。


                       February 2,2003
 昨夜、コロンビアが空中分解した。緊急ニュースを知ったとき日本は夜であったが、映像は明るいコバルト・ブルーの青空だった。白煙が空をよぎっていく。さらに空中分解して、白煙の条がわかれていく。

 1986年、打ち上げ直後に爆発したチャレンジャーの機長に、ぼくはインタビューをしたことがあった。貧しい家に生まれ育ち、苦学しつつ、空軍のテスト・パイロットになり、憧れの宇宙飛行士への道を登りつめてきた人だった。

 その頃は、まだインタビュー慣れしていないのか、しきりに汗をかき、言葉に窮していた。哲学的な質問をすると、「自分はただのパイロットだから」と、愚直なほどシリアスに答えてくる。家族について訊ねると、子供たちのことや、妻とはブラインド・デート(だれかが未知の異性を連れてくるデート)で知り合ったと、急に明るく冗舌になった。

 かれは半生の夢を実現して、コマンダー(機長)としてチャレンジャーに搭乗し、離陸し、72秒後に空中爆発して死んでいった。火柱になった。

 青空に飛び散り、無数の白煙を曳きながら落下していく光景を眺めながら、ぼくは悲哀のようなものを感じていた。アメリカの夢を信じ、アメリカの夢に乗せられるように、機長として乗り込み、爆死していったのだと思われてならなかった。

 青空から降りつづけてくる破片や白煙を眺めながら、もしかすると、あの機長の脳の片隅にあったかもしれないぼくについての記憶も消えていったのだと、奇妙な思いにとらわれた。

 コロンビアの空中分解で、国際宇宙ステーションの実現はおくれることになるだろう。ぼくはその計画になんの幻想も抱いていない。実現したとしても、宇宙空間に浮かぶ南極観測基地のようなものにすぎないと思っている。

 たとえ十万人が暮らせる宇宙ステーションができたとしても、地球人口は一年間に一億人ぐらい増えつづけているのだから、人口過剰の解決にはならない。わずか八人の男女が人工の地球環境で暮らすことに失敗した、アリゾナの巨大温室「バイオスフェア2」を思えば、そのむずかしさも想像がつく。

 いま地球が抱えているさまざまな困難は、この惑星上で、地上で解決していくしかない。他の惑星に移住していくのは、まだ、夢のまた夢にすぎない。移住すべき他の惑星さえ見つかっていない。そこに辿りつく技術もない。

 だが、宇宙ステーションがあることによって、人類はもう一つの視点を得ることができる。ヒトは、いぜんとしてDNAに支配されるまま愚行をつづけているが、もう一つの視点がごくあたりまえのこととして定着すれば、遺伝子の呪縛をふりきって次の段階に向かうことができる。そのような過程として、宇宙基地は必要であると思っている。

 コロンビアの空中分解によって、イラク攻撃は延期されるかもしれない。いま戦争を始めれば、ブッシュ大統領は、アメリカ人の支持さえ失うことになりかねない。

 七人の宇宙飛行士への哀悼の深さを、アメリカ合衆国によって殺されたアフガン人にも、イラク人にも抱いてほしい。第二次大戦後、二〇回を越える空爆によって殺されていった他民族へも、同じような哀悼を捧げてほしい。それが真のグローバリゼーションであるはずだ。グローバルとは、本来、惑星的という意味であるはずだから。

 
                       February 6,2003
「文學界」三月号に『金色の虎』の書評が出ていた。筆者は島田裕巳。小説はどのように読んでもかまわない。人それぞれ、好き嫌いがある。解釈も自由だ。それが原則だと思っている。だから自作を批判されて反論したことは、この二十四年間、一度もない。

 党派性をむきだしにしている批評は無数にあった。読まずに書いていることが明白な批評もあった。ラストシーンはこうだが、とスペースシャトルを勝手に爆発させている、とんでもない批評もあった。主人公の名前を完全にまちがっている批評もあった。飲み屋での口論の腹いせをしてくる批評もあった。

 だが、どんなときも沈黙を通してきた。侮蔑で、自分の顔が醜くゆがむのを感じながら。批評とは他者の小説をだしにして、自我について語るものだと了解したからだ。だが今回は、あまりにもひどすぎる。

「『金色の虎』は一度死んだ小説である」という一行から始まっているが、小説は死んなどいない。現実の事件に耐えうる「作品」にしようと、長い推敲をつづけていたのだ。

 しかも、その間に、オウムの教義をきちんと批判する必要があると感じて『善悪の彼岸へ』の連載を二年以上つづけていた。これは本来、宗教学者たちがやるべき仕事であったはずだ。その義務があったはずだ。肝心の教義について、だれも追究しようとしないので、小説家であるこちらがやらねばならなかった。
 その連載について、島田氏が知らないはずはない。

 かたわら、1800枚近い長編小説の推敲をつづけていた。そうした文学の息の長い営みを「空白」とみなして、「死んだ」というのは、傲慢すぎるのではないか。

 これはオウム事件で、学者として「死んだ」自分自身のことを語っているつもりなのか。氏の経験はあまりにも痛ましいから、このような揶揄(やゆ)などしたくはないが、自己責任を棚上げして、まあ、よく言えるものだ。

 作品の解釈は自由であるけれど、ここには明白な事実誤認もある。

「連載は三部構成になっていたが、ちょうどオウムの騒動が起こっていた時期に掲載された三部の後半はばっさり切り捨てられている。
 その意味は大きい。というのも、切り捨てられた部分では、『奇妙な聖地』という題名が示唆するタヒチの聖地での物語が展開されていたからである」

 と島田氏は書いているが、どこをどう読めば「タヒチ」という地名が出てくるのか。モデルとなっている場所は、だれがどう読んでも、タヒチではない。モンスーン型熱帯地方の描写が、くり返し出てくるのを、ちゃんと読んでいるのだろうか。いったい、どこがタヒチなのだ。十度海峡という地名さえ示されているのに<タヒチだって!

 きちんと読みもせずに書評を書いてる。読みもせずに批判しているのだ。これは作品にそった批評などではなく「ためにする」言説の典型である。ジェラシーなのか? 島田氏は、オウム事件でたしかに深手を負った。それに比べて、まったく無傷な立場から『善悪の彼岸へ』などを書いた小説家への一方的な私怨なのか?

「主人公のジローには、セックスの暴力性を自ら体験した上で、グルを乗り越え、田島を乗り越えていってほしかった。そうならなければ、一度死んだ小説は再生を果たすことができないのではないだろうか」

 と、読みもせずに偉そうに他者を裁く口ぶりの無神経さ、杜撰(ずさん)さに、まったく呆れてしまう。なんという破廉恥さだろう!

 こんな調子だから、オウムのサリン製造工場に案内されて、シヴァ神を祀るところだと、ころりと騙(だま)されてしまったのだろう。


                       February 7,2003
 昨日、島田裕巳氏への反論を記した。内容について訂正することは何もない。書いてしまったことは、撤回できない。

 島田氏が『オウム なぜ宗教はテロリズムを生んだか』を刊行したときも、まっさきに読んだ。サリン製造工場を、シヴァ神を祀るところだとメディアで主張した誤りについて、その自省がきちんと書かれていたならば、ぼくはひそかに島田氏の復権を願っただろう。

 だが、そのようなことは、どこにも書かれていなかった。いっさい、口をぬぐったままであった。

 オウムに関わったとされる学者に対する弾劾の声に、ぼくはこれまで一度も加担したことがない。そのような発言をしたこともない。書いたこともない。『善悪の彼岸へ』を読んでもらえば、すぐに確かめられるはずだ。

 オウムが台頭してきた当時、ぼくは外国で暮らしていた。おかげで、幸い、無傷のままであった。もしも事件以前に日本に住んでいたら、
「麻原彰晃と対談してほしい」
 という依頼が、どこかの雑誌からあったかもしれない。

 その場合、おそらく作家としての関心から、ぼくは対談依頼をひき受けたにちがいない。犯罪者だらけのスラム街で長く暮らしてきたから、麻原という人間の本質は見抜けたと思う。そのくらいの免疫はある。

 実際、オウムのNY支部に入会してしまった若い友人を、麻原の著作を読みながら、どこがおかしいか説得して、脱会させたこともあった。

 だが、もしも対談をひき受けてしまえば、多少のリップ・サービスぐらいはしたかもしれない。その場の雰囲気で、あるいは熊本・波野村のコミューンが強制立ち退きされたことへの同情などもあって、つい同調するようなことも、少しばかり口走ったかもしれない。

 そうなる可能性は、あったと思う。そうして、ぼく自身、指弾される側に立つことになったかもしれない。そんな思いがあるから、オウムに関わって深手を負った人を、無傷な立場から批判することはできないと考えていた。


                       February 8,2003
 岸田秀さんの家に招かれて、手作りのペルー料理をごちそうになった。岸田さん夫妻と共に会うのは、ニューヨーク以来のことだ。イースト・ヴィレッジの、いまにも崩れそうな煉瓦アパートに訪ねてきてくださり、一緒にチャイナタウンや、グリニッジ・ヴィレッジを歩き、いろんなことを語り合った。あの日以来の楽しい時間だった。

『ものぐさ精神分析』の頃から、ぼくはずっと岸田さんの仕事を畏敬している。ほとんど、すべての著作を読みつづけてきた。横文字を縦にするだけの知識人が多いなかで、ものごとを自分の頭で考えぬこうとする稀有な人だと思っている。

 夫人は何度もペルーを訪ね、インディオの村々に学校を建てるボランティア活動をつづけ、すでに十を越える小学校を建設してこられた。

 今回は、アルベルト・フジモリ元大統領に関して、ぼくが書いたことの誤りについて、しかと話を伺うのが目的だった。作家は、言い放しでは許されない。書いた言葉、発言したことに責任を取らなければならない。フジモリ元大統領については、いずれ日を改めてきちんと述べたいと思う。


                       February 9,2003
 デイヴィッド・バーサミアン著『帝国との対決――イクバール・アフマド発言集』(太田出版)を読んだ。とてもいい本だった。イクバール・アフマドという思想家については、まったく何も知らなかった。

 かれ自身、生年を正確に知らされていないそうだが、おそらく1934年頃、インド・ビハール州に生まれ、インドとパキスタンの分離独立のとき、強制移住させられている。パキスタンの大学を卒業したのち、アメリカに渡ってプリンストン大学で学び、北アフリカに住み、アルジェリアで思想形成をなしている。

 フランツ・ファノンや、マルコムX、エドワード・サイード、ノーム・チョムスキーたちと親しかった。アメリカのハンプシャー・カレッジで教鞭を執り、晩年はパキスタンで暮らし、1999年に没した。

 非西欧世界にこれほどの思想家がいたのかと、心底、驚いた。第一部「テロリズム――彼らの、そして、わたしたちの」を読むと、三年後に起こった9.11テロ事件について警告しているとしか思えない。かれはオサマ・ビンラディンにも、アラファト議長にも出会っている。

 だが、かれはイスラム原理主義の台頭に警鐘を鳴らしつづけ、暴力やテロリズムを回避しつつ、第三世界や、階級の問題について考えぬこうとしている。そして、リスクを負う。その粘り強さ、公正さ、寛大さに感嘆させられる。

 訳者の大橋洋一氏も書いているように、「帝国の、あるいはそれと共犯関係にあるナショナリズムの、軽薄で偏狭な虚偽のレトリックに騙されること」は決してない。

 かれは、ぎりぎりの <中道> を行こうとする。<中道> という古めかしい言葉を、これほどリアルに、現代的に感じたのは初めてのことだ。これは現実的で、新しい「非戦」の思想家もしれない。

 ガンディーさえ、ナショナリズムと宗教を混同させてしまったと厳しく批判される。タゴールも、ガンディーの、ある種の感情を煽るようなナショナリズムを諫めつづけていた。

『帝国との対決』には、次のような一節もある。インドのイスラム宗教学者層、すなわち <ウラマー> の立場からすると、ナショナリズムは、反イスラム的なイデオロギーだ。ナショナリズムは、国境なき信仰であるイスラム世界に国境を設けてしまうからだというのだ。

 あらゆるナショナリズム、民族主義に、かれは批判的だ。解決策は、多文化主義、二民族主義、市民権の平等以外にないと語る。まったく同感だ。

 もう一つ感銘を受けたのは、イクバール・アフマドの思想が現実的でありながら、現状を分析するだけでなく、常に希望を手さぐりしつつ、きわめて謙虚に、我々になんらかの指針を与えようとしていることだ。

 その姿勢の、ゆるぎなさに打たれた。チョムスキーがかれを畏敬し、サイードがかれを師と仰いでいる理由がよくわかった。


                       February 11,2003
 国連に飾ってあるピカソ「ゲルニカ」のレプリカが、布で隠されてしまったそうだ。ニューヨーク大学・大学院でアートを学んでいる人が、知らせてくれたのだ。

 ゲルニカ攻撃の知らせを聞いたとき、ピカソは万博に出展するため、その大作に取りかかった。ゲルニカで虐殺された群像を描いたのだ。死んだ子を抱いて泣き叫ぶ母。鋭く舌を突きだす瀕死(ひんし)の馬。

 その「ゲルニカ」がニューヨーク現代美術館に預けられていたころ、ぼくはよく絵の前に立っていた。造形的にも、母国で起こった虐殺への怒り、反戦の意志といった <意味> においても、まぎれもない傑作である。だからこそ、国連の理念として、平和へのねがいとして壁面に飾られたはずだ。

 ところが、イラク戦争が近づいているこの時期、テレビ報道などに「ゲルニカ」が映ってはまずいということで、パウエル国務長官が布で隠すよう指示したのだという。はたして本当だろうか?

 もしも事実だとすれば、まったく理不尽なことだ。指示するアメリカ政府は、完全に国連をなめきっている。そして命じられるまま「ゲルニカ」を隠してしまった側も、国連がすでにUSAに私物化されていることを露呈している。いったい、こんなことがあり得るのか?

 ぼくのクラスには、国連で働くつもりで猛勉強を始めた青年もいる。このニュースを聞いたら、いったいどう思うだろうか。「ゲルニカ」が布で隠されていないことを願うしかない。


                       February 12,2003
「ゲルニカ」について、未知の人が掲示板で知らせてくださった。

 http://sf.indymedia.org/news/2003/02/1570680.php
            (一番下の写真を、ご覧下さい)

 やはり「ゲルニカ」は青い布で隠されていた。ただパウエル国務長官の演説や、その後の会見の間だけであって、恒久的に隠されてしまったわけではなさそうだ。パウエルの指示であったかどうかは、明らかではない。いずれにせよ、反戦のシンボルである「ゲルニカ」を、国連側が、アメリカの言いなりになって一時的に布で隠してしまったという情けない事実だけは残る。

 英国デイリー・ミラー紙(10日付)によると、イタリアのレナート・マルティーノ大司教(平和と正義教皇評議会委員長)は、米国が、イタリア・シチリア島のシゴネッラ基地に、遺体袋10万人分と、棺6000個を、10日前に秘かに送っていたことを明らかにしたそうだ。

 シゴネッラ基地は、米海軍の飛行場があり、海軍、海兵隊あわせて3000人が駐留する、地中海での米軍の中枢だという。

 遺体袋10万人分、棺6000個。
 それが「ゲルニカ」を隠した青い布の裏にあるものだ。

 時局的な発言は慎もうと思っているのに、やむにやまれず、つい書き記してしまった。こうして言葉は、霧のようにとめどなく拡散していく。
 いま新作に取りかかり言葉を凝縮しようとしていながら、逆に、薄めてばかりいる。ネット上での発言は(ネットだからこそ)公正であろうとして、つい知らず知らず、毒にも薬にもならない言葉だらけになってしまう。

 文学の言葉は、本来、矛盾や多義性をはらんでいる。暴力や、悪や、エロスをはらんでいる。猛毒もふくんでいる。人間のおぞましさ、醜悪さから、哄笑や、きよらかなてっぺんの光りまで、存在のグラデーション全体を捉えようとする。毒を薬に変えつつ、生を鼓舞しようとする。

 そうした矛盾だらけの営みが、ネット上では薄っぺらな「優等生」のような言葉ばかりになってしまう。イラクの子供たちが殺されていくのを黙って見過ごすことはできない。けれど安全圏から時局的な発言をするのではなく、いまは小説を書くことが務めではないかと自己嫌悪がつのってくる。沈黙すべきなのか。


                       February 13,2003
 池澤夏樹さん、本橋成一さんたちと、東中野で飲んだ。毎日新聞の中島みゆきさんが声をかけてくださったのだ。『百年の愚行』をプロデュースした小崎哲哉さんが、おくれて駆けつけてくれた。

 池澤さんとは十年ぐらい前に「文藝」で対談したことがある。それ以来、ずっと会ってはいないけれど、アフガン空爆のころ積極的に発言していたことを互いによく知っていた。あのとき、なにかを賭けて発言した文学者は、ほかに辺見庸さんしか思い浮かばない。文学者たちの発言がきわめて少なかったことに、ぼくは失望していた。だから久しぶりの再会がうれしかった。


                       February 15,2003
 子どもの頃、季節ごとにトラックでやってくる養蜂家がいた。噴火湾の外の、花畑のあたりにテントを張っていた。蜂の群れが、春の青空で渦巻く。
 いちめんの菜の花や、金盞花が、蜂の羽音と共にふるえていた。そしていつの間にか、花を追いかけ、どこかへ立ち去っていく。ジプシー(ロマ)のように神秘的で、まったく別の世界の住人に見えた。子どものぼくはかなり長いこと、養蜂家になりたいと思っていた。

『蜜蜂職人』(マクサンス・フェルミーヌ著 田中倫郎訳 角川書店)という小説を読んだ。若いフランス人が書いたものだが、びっくりするような仕掛けが隠されている。

 南仏で養蜂にとり憑かれている青年が、アルルの路上で、ゴッホと思われる無名の画家と出会い、さらにアフリカへの旅の途中に、ランボーだとしか思えない武器商人としばらく同行する(これは、ランボーのハラルへの最後の旅と正確に符合している)。

 ゴッホとランボーは、まったく同時代の人間だったのだ。没した年も、わずか一年のずれしかない。偶然、二人に出会うことは可能だったのだ。分野が異なるだけで、その二人が同時代に生きていたことに気づかずにいた。二人の生きた世界が、そこに同時にあったことが、なにかしら奇跡のように思われてくる。

 昨日、クローン羊ドリーが死んだ。ウイルス性の肺がんにかかっていたので安楽死させたという。羊はふつう11〜12歳まで生きるそうだが、寿命はその半分だった。

 これは偶然なのか。やはり短くなった染色体は、リセットされないままなのか。4年の命しか与えられていない「ブレードランナー」のレプリカントたちを思いだす。


                       February 16,2003
 イラク攻撃反対のデモが、世界各地で起こっている。60か国、1000万人がデモに参加したと報じられている。ベトナム戦争のときを、遙かに越える規模だという。国連査察をつづけて、戦争を回避すべきだという理性の声が聴こえてくる。それだけではない。アメリカの一極支配も、グローバリゼーションも、経済・金融システムだけの <世界> もつまらない、もう、うんざりだという人間の叫びが聴こえてくる。

 
                       February 20,2003
 イラク戦争や、北朝鮮のことなどが切迫しているとき、遠いペルーの出来事について、長々と記さなければならない。これは果たさねばならない、ぼくの義務だから、どうか勘弁してください。

 2000年11月17日の「海亀日記」で、ペルーの日本大使公邸占領事件とフジモリ元大統領について、ぼくは次のように書いた。

「テレビを見て気づいた人もいると思うが、政府側はフジモリ大統領以外、スペイン系の白人だらけだった。政府軍の下っ端の兵士たちは、メソティーソ(混血者)が多かった。人種や、混血のグラデーションが、そのまま階級になっていた。悲しいけれど、それが現実なのだ。
(中略)
 どうか、思いだしてほしい。ペルーの特殊部隊が日本大使館に突入して、ゲリラを殲滅(せんめつ)したとき、ゲリラ兵士たちはそうしようと思えばできたはずなのに、人質を一人も殺さなかった。最後の混乱のさなかに、女性のゲリラ兵士が銃を突きつけてきたけれど、彼女は撃たなかった、と人質たちも証言している。
 ゲリラ兵士たちが人質を殺そうとせずに死んでいったことに、ぼくは救いを感じていた。そのことの深さにくらべて、得意満面で勝ち誇るフジモリ大統領の浅薄さに失望した。施政者として当然の選択であろうが、その結果に、もう少し深いニュアンスが欲しかった」
             (『裸の王様、アメリカ』に収録。64頁)

 テレビに釘付けになって事件の推移を見守り、ついに決着がついたとき、フジモリ大統領の勝利宣言を聞きながら、そのように感じたのだ。せめて殺されていったゲリラたちに対して、かれらもまた犠牲者なのだという一言ぐらいほしかった。そして、2000年11月25日の「海亀日記」に、つづけてこのように書いた。

「つい七日前に、フジモリ大統領について記したばかりだが、罷免されて、いま東京にいるそうだ。日本に亡命するらしい。ペルーと日本の二重国籍の可能性もあるという。引きぎわを誤った権力者は、みじめなものだ。
 ペルーのアンデス山脈を歩いていたとき、先住民たちの貧しさに胸のつぶれそうな思いをした。一人のインディオが、四角な石にラジカセの絵を描き、SONYと書き込み、その石を持ち歩いているのを見たとき、涙が出そうになった。そんな先住民たちがフジモリ大統領にどんな夢を託していたか想像がつく。
 岸田秀氏はフランスのストラスブール大学に留学しているとき、若いフジモリ氏と寮で一緒だったそうだ。フジモリ氏は、インディオたちがどれほど差別され、貧困に苦しんでいるか、いつも熱っぽく岸田さんに語りつづけていたという。そんなフジモリ大統領に、ぼくも期待していたのだが……。
 吉田兼好は「徒然草」に、こんな意味のことを記している。
『人の志も頼むべからず。かならず変ず』」
                       (同書 70〜71頁)

 フジモリ氏が大統領に立候補したとき、「インディオの夢」という小文を「東京タイムズ」に書いて、フジモリ氏支持を表明した。「東京タイムズ」は廃刊になってしまったが、その小文はエッセイ集『この惑星こそが楽園なのだ』(講談社 1991年)に収録されている。日本語で、日本の新聞に書いても、遠いペルーの大統領選挙には何の影響もないとわかっていながら、そうせざるを得ない気持ちだった。

 人種がそのまま階級となっているペルー社会の現実を見ていたからだ。先住民のインディオたちは、差別され、目をおおわんばかりの貧困のなかにうち捨てられている。読み書きを学ぶ機会さえなく、海抜4000メートル近い高地に見捨てられているのだ。日系人のフジモリ氏なら、先住民にシンパシーを抱いて、手をさしのべてくれるのではないかという期待があったからだ。

 そのような経緯があったせいか、フジモリ大統領が日本大使公邸占拠事件のとき、ゲリラたちを殲滅して、得意満面で勝ち誇る姿を見てがっかりしてしまったのだ。あのゲリラたちが先住民の血を濃くひいている人たちであることは明らかだった。さらにフジモリ氏が「公金を横領した」という理由で大統領を罷免されたとき、さらに深い失望感を抱いた。

 それまで、ペルーに詳しいジャーナリストから「フジモリ大統領は独裁的ではあるけれど、クリーンだよ。クリーンな独裁者なんだ」と聞かされていた。

 だから報道を鵜呑みにしていいかどうか迷いはあった。だが、もしも潔白ならば、すぐペルーへ飛んで帰って、法廷闘争をやるべきではないか。暗殺される恐れがあるだろうが、身の潔白を証すためには、リスクを冒すべきではないか。日本にとどまっているのは、やはり報道されていることが事実なのだろうと思わざるを得なかった。そうして、前述のような感想を日記に書いたのだった。

 ところが単行本『裸の王様、アメリカ』に収録されているその部分について、岸田秀さんから抗議の手紙があった。新聞報道を鵜呑みにしすぎている、という厳しい叱責の手紙だった。温厚で、いつもユーモアに満ちている岸田さんが、怒っておられる。初めてのことだ。

 ぼくは急いで『アルベルト・フジモリ、テロと闘う』(アルベルト・フジモリ著 岸田秀訳 中公新書ラクレ)を読み始めた。

「共産主義の思想家や地政学者は、ゲリラ戦とか、またはそれなりの民主的なやり方とかを通じて、まず最初の戦略として民主主義の土台を揺るがし、不安定にする。ラテン・アメリカにおいて、その最初の実験を行ったのはチェ・ゲバラであった。さらに、「人民戦争」は、ペルーなど多くのラテン・アメリカ諸国であらゆる社会不安の要素を素材として『燎原の火』のように広がったのであった。
 テロリズムは何の下地もないところで突如発生するものではない」
        (『アルベルト・フジモリ、テロと闘う』20〜21頁)

 以前は、ここまで読みかけて本を閉じてしまったのだ。為政者の目には、チェ・ゲバラでさえ、ただのテロリストと見なされてしまうのかと苦い思いが湧いてきたからだった。それにぼく自身、ニカラグアのゲリラ兵士たちと、熱帯雨林の戦場で共に暮らした経験があった。あの貧困のなかで独立を求めるインディオたちの闘いさえ、為政者にはテロリズムと見なされてしまうのかと憤慨してしまったのだ。

 9.11以来、権力にあらがう者たちに「テロリスト」というレッテルが貼られていく風潮を苦々しく思っていたことも一因だった。だが読みつづけていくと、南米のテロがどれほど無慈悲、残酷なものであるか、おぼろげながら実状が浮かんできた。

 テロリスト・グループと目される「センデロ・ルミノソ」や、MRTAは、ぼくたちがチェ・ゲバラから連想する革命集団とは、まったく異質であるようだ。十五年間に、二万五千人の命が奪われている。その死者たちのなかには、先住民インディオも多くふくまれている。先住民の村々を支配・蹂躙していたのだ。村人たちは竹槍のようなもので自警団をつくり、政府から銃を借り受けて「テロ集団」に抵抗していたと記されている。

 ニカラグアでは、ゲリラ兵士たちは密林の村々で手厚くもてなされていた。ゲリラが武装しているから嫌々従っている、とは思えなかった。先住民の意志を代表して戦っている集団だとみなされていた。掛け値なしに、そう見えた。事実、そうした村々で志願兵はいくらでもいた。だが持たせる銃がなかった。木を削っただけの、むろん弾など出やしない銃をかついで参加してくる若者さえいた。14歳の志願兵もいた。17歳の女子高生もいた。

 だから、アンデスの先住民たちも「センデロ・ルミノソ」やMRTAを支持しているのではないかと思っていたが、それはぼくの思いちがいだったようだ。

「センデロ・ルミノソ」やMRTAは、弱者の側に立とうしているのではなく、麻薬(コカイン)の利権にからむ武装集団といった面が濃かったようだ。タイとビルマの国境、「黄金の三角地帯」と呼ばれるケシの一大産地を支配していた武装集団のようなものと考えるのが、実体に近いようだ。

「熱帯雨林の戦場は複雑で困難な地域である。あるところに先住民の村があって、四万人の先住民がいたが、二万人に減ってしまった。センデロ・ルミノソが支配し、住民を搾取し、奴隷のように扱っていた。(中略)テロリストは先住民社会に食糧と女の調達を強要していた」
                       (前掲書 155頁 )

 ケチュア語を母語とするアンデスの先住民たちが、フジモリ氏に語ったことも記されている。「センデロ・ルミノソ」の一隊は何人かの農民たちを殺害し、斬り落とした生首をボールにして、村の広場でサッカーをして遊んだというのだ。かれらはマオイスト(毛沢東主義者)のグループであるが、チェ・ゲバラのような高潔さも、虐げられた民への共感も乏しかったように思われる。コカインという莫大な利権がからんでいたせいだろうか。

 ペルーでは学生たちまで武装して、自動小銃を携え、大学の構内を闊歩していたそうだ。80年代の末期には、ほとんどの国立大学がテロリストたちの塹壕のようになっていたと記されている。

 そのような危険な状況で、テロ撲滅を掲げて立候補したフジモリ氏にとっては、「センデロ・ルミノソ」MRTAと闘うことこそが、使命だったのだろう。日本大使公邸を占拠したMRTAを殲滅したあと、フジモリ氏があれほど勝ち誇っていたのは理由があったのだ。

 為政者としてのフジモリ氏に、ぼくはいくつか違和感を抱いていた。政治手法が独裁的であったこと、憲法を改正してまで大統領の三選を行ったことなど、共感することができなかった。

 だが日本大使公邸を占拠したMRTA党員13人を殲滅して、高らかに勝ち誇るフジモリ氏を「浅薄」だと決めつけたことは、ぼくの誤りであった。ペルーの実情をよく認識しないまま、感情的な言葉を記したぼくこそ浅薄であった。フジモリ氏の名誉のために、そのことを明記しておく義務があると思う。

 先日、岸田秀さんの家に招かれて、手作りのペルー料理をご馳走になりながら、フジモリ氏についていろいろ話を伺った。ぼくが知りたかったことは、フジモリ氏が本当に公金を横領したかどうかという一点だった。もしも潔白ならば、日本に留まらず、ペルーに帰って法廷闘争などで濡れ衣を晴らせばいいではないか。それをしようとしないのは、やはり、疚(やま)しいことがあると考えざるを得ないではないか。十年も権力の座にいると、やはり腐敗するのか?

 もし自分の判断が誤っていたら、訂正し、きちんと詫びる義務がある。作家は、自分の吐いた言葉、書いた言葉に、責任を負わなければならない。言い放しでいることは許されない。

「フジモリ氏は、いまどうやって生活しているのですか?」
 と、ぼくは露骨な質問した。スイス銀行に蓄えた金で優雅に暮らしているのかもしれないと思っていたからだ。岸田さんは、
「フジモリ氏はいまお金に困っていて、支援者たちから援助を受けて暮らしているようです」
 と答えられた。フジモリ氏は、部下に権限をゆだね、その部下が公金を横領したことについては、不明を恥じているという。ペルーに帰らないのは、やはり暗殺される恐れがあるからだそうだ。

 岸田夫人は、何度もペルーを訪ね、アンデスの村々に学校を建てるボランティアをつづけてこられた方だ。すでに十を越える学校が建設されている。フジモリ氏が先住民に手をさしのべてきたのは、まぎれもない事実だという。いまでもインディオのことを話すとき、フジモリ氏は目にうっすらと涙を浮かべるそうだ。

 歴代のペルー大統領も、カソリック教会も、アンデスの先住民たちを本気で救おうとしたことはなかったという。それは、ぼくも自分の目で確かめている。フジモリ氏がインディオために尽力してきたのは、まぎれもない事実であると思われる。

 フジモリ氏が公金を横領したかどうか、そのことは、ぼくにはまったく判断がつかない。ただフジモリ氏の失脚には、アメリカの意向が絡んでいるらしい。岸田さんは『アルベルト・フジモリ、テロと闘う』のあとがきに、こう記しておられる。かなり長い引用になるけれど、重要なところだから、どうか読んでいただきたい。

「フジモリ氏はその政治活動によってアメリカに不安を抱かせ、アメリカの機嫌を損じたため、ペルーの大統領の地位を追われたと、わたしは考えている。
(中略)
 アメリカ(そしてペルーの新政権)は、彼の辞任にアメリカ(そして、アメリカに協力するペルーのある階層)が一枚噛んでいることを隠蔽するためにいろいろな間違った情報、根も葉もない情報、本当のことの間に嘘を混ぜた情報を流している。彼のやり方があまりにも独裁的だったので、民衆の反発を買って追放されたのだとか、どこかの銀行に大金を預けているとか、人権侵害や虐殺の事件を起こして隠しているとか、など。アメリカなどに駐在している日本の新聞記者の特派員は、外国の新聞に報道されているその種の情報を読んで、その信憑性を自分で確かめもせず、誰かが何らかの意図で流した情報ではないかと疑いもせず、そのまま日本に送り、それが日本の新聞記事になり、これまたあまり疑うということをしない日本の読者に受け入れられるということになって、いつの間にか、一部の日本人が、あれほど言われるのだから、やはりフジモリはいくらかは不正の金を持ち出したのだろうと信じていたり、やはり独裁者というものは民衆に追放される運命にあることを示す典型的な例としてフジモリを挙げたり、ペルー国民が求めているのだから、逃げ隠れしないで祖国に帰り、裁判を受けて男らしく堂々と自分の立場を主張すればいいのに……とフジモリを批判するようになっている」

 ここに書かれている「一部の日本人」と同じように、ぼくも考えていたのだった。フジモリ氏を「浅薄」であると決めつけたことは、明らかにぼくの判断ミスであった。

 フジモリ氏が公金を持ち出していないことを、ぼくは願う。だが自分の目で確かめることはできない。ただ、岸田さんが述べておられることは、しかと心に刻まなければならないと思っている。メディアの情報に関しては、ぼくにも苦い経験がある。

 いま初めて明かすことであるが、ニカラグアへ密航を試みたとき、ぼくはアメリカ・インディアンの指導者たちと行動を共にしていた。資金もかなりぼくが出した。そして冬のカリブ海を、手造りの大型カヌーで密航したのだが、エンジン・トラブルや、ハリケーンにぶつかったりして、二回、密航に失敗してコスタリカに引き返さなねばならなかった。

 ところが、インディアンの指導者たちは、コスタリカで記者会見を開いた。当時、世界の注目を集めていたニカラグアに潜入したという内容だった。まだニカラグアの地を踏んでもいなかったのに。ぼくはその記者会見の片隅に立っていた。「嘘だ!」と叫びたい気持ちを必死にこらえながら。

 その後、ぼくは三度目の密航で、ようやくニカラグアに潜入することができた。ニカラグア亡命者たちの組織のリーダーが、お前だけは送り込んでやる、と主張してくれたからだ。雨の降りしきりる密林の戦場をさまよい、ふたたび夜の海を渡り、どうにか無事にコスタリカに帰ってきた。

 それからNYに戻ったとき「ニューヨーク・タイムズ」の切り抜きを見せられた。アメリカ・インディアンの指導者がニカラグアに潜入したという大きな記事であった。むろん、誤報である。

「ニューヨーク・タイムズ」でさえ、偽りの記者会見を鵜呑みにして、誤報を出したのだ。これまで、そのことについて書いたことは一度もない。弱者の立場であるインディアンを貶(おとし)めるようなことはしたくなかったからだ。むろん、すべてのインディアンがそうだというのではない。一部の指導者たちが、自分たちの存在をアピールしようとして、メディアを利用したのだった。活動資金を集めるために。

 いま、ここで初めて明かすのは「ニューヨーク・タイムズ」でさえ誤報を出したということ、その偽りの記者会見の場に、ぼく自身が居合わせたという苦い一例を示すためだ。

 フジモリ氏がなぜアメリカの機嫌を損じたのか訊ねると、ペルーにアメリカ軍の基地をつくる計画があったのだが、フジモリ氏がそれを拒否したために、アメリカと、アメリカに協力する階層の逆鱗に触れたのではないかという。

 陰謀論のようであるが、決してあり得ないことではない。アフガニスタンを例にすれば、すぐにわかる。9.11につづいて、アフガン空爆が始まり、タリバンが倒れたあと政権についたのは、カルザイ氏であった。かれは、アメリカの石油会社の顧問をしていた人物である。そのような例は枚挙にいとまがない。そしてフジモリ氏が失脚して、政権が変わると、ペルーにアメリカ軍の基地ができたそうだ。

 フジモリ氏の失脚には、なにか裏があるのかもしれない。フジモリ氏の部下が公金を横領したのはほぼ事実であり、その人物にはCIAの息がかかっていたと言われている。ぼくなどには窺い知れぬ、複雑な背景や、政治力学が絡んでいるのかもしれない。

 フジモリ氏は「南アメリカ連邦」のようなものを構想していたそうだ。それが最終的な夢であったのだろう。

「引きぎわを誤った権力者は、みじめなものだ」「人の志も頼むべからず。かならず変ず」と書いたけれど、フジモリ氏の身の潔白が証明されたならば、ぼくはきちんと謝罪しなければならないと考えている。そうであって欲しい。潔白であって欲しい。

 日本大使公邸の事件に関して、フジモリ氏のことを「浅薄」だと決めつけたことは、ここで訂正し、謝罪しなければならない。ペルーの実情をよく知らないまま、ぼくはあまりにも一面的であった。


                       February 22,2003
 小説家は、つねに批評にさらされる。きちんとした作品評ではなく、「ためにする」悪意に満ちた言葉を浴びせられることもたびたびある。そのような醜い(卑しい)言葉を投げつける者は、言い放しで、決して謝罪などしない。

 なによりも耐えがたいのは、たとえば「浅薄である」といったふうに人間性そのものを揶揄(やゆ)するような言葉だ。それは毒を塗った棘のように突き刺さり、深みで、化膿する。

 そうした痛みは、安易に批判する者には、決してわからないだろう。ところがフジモリ氏が罷免されたとき、ぼくはペルーの現実をよく知らないまま、同じような言葉を吐いてしまった。だから、きちんと詫びる義務があった。その2月20日の「海亀日記」に対して、次のような投稿があった。

「疑り深い私の感想は、宮内さんは人が良すぎるんじゃないかという事なのです。私はやはり、暗殺の恐れがあるからといっても納得できないです。失礼を承知で言えば、逆に岸田さんの話の鵜呑みじゃないのと思ってしまいました。日本大使館の事件を含めて、フジモリ氏の功罪はいまだに明確にはなっていないと思います。現在の時点で宮内さんが謝罪される事で、その謝罪が、単に謝罪としてではなく、ある特別のメッセージを持ってひとり歩きをしてしまうのではないかと、危惧しています」
 
 この投稿者の気持ちは、よく理解できる。「暗殺される恐れがあるから」という理由だけで日本に留まっているのは、やはり釈然としない。それは、ぼくも同じだ。これまでのフジモリ氏の姿勢からして、もしも潔白ならば、リスクを冒してでも法廷闘争を始めるべきではないかという思いは、どうしても拭いきれない。
 
 ぼくが謝罪しているのは、日本大使公邸の占拠事件に関して、フジモリ氏を「浅薄」であると決めつけたことだけだ。公金を横領したかどうか、それはわからない。判断のしようがないというのが実情だ。投稿にもあるように、フジモリ氏の功罪はまだ明確になっていない。

 凄まじい貧困のなかにうち捨てられている先住民インディオたちに、救いの手をさしのべようとしたことには、共感する。それは歴代ペルー大統領のだれ一人やろうとしなかったことだから。だが独裁的であったこと、憲法を改正してまで三選を果たしたことなどは、やはり共感できない。

 ただフジモリ氏が失脚した背景は複雑で、公金を横領したという弾劾が冤罪である可能性も、決して否定はできない、ということだけは留意しておくべきだと思っている。ぼくは「黒」だろうと決めつけていたのだから。フジモリ氏が潔白であるかどうか、それはまだ判断を保留している。


                       February 23,2003
 あたらしい小説の第一稿が、半分ぐらいまで進んだ。ここまでは流れに乗って書きつづけてきたが、そろそろ難所にさしかかる。目をつぶってでも、とにかく走りぬけていこう。それから、ゆっくり再考すればいい。これまでの経験からすると、一稿目はひたすら苦しく、書くべきことがはっきり見えてくる二稿目からわくわくしてくるはずだから。

 小説の構造といったものが固まって、文章やエクリチュールに集中し始めるとき、ようやく書くことが楽しくなってくる。それまでは、ただ苦痛あるのみ。ストーリーは、言葉や内的エネルギーの <動態> を生みだすための、一種の方便なのだ。いや、乗りものというべきか。


                       February 28,2003
 もしも北朝鮮からミサイルが飛んできて、東京の高層ビルが二つ燃えあがり、跡形もなく崩壊したとする。そして、数千人が亡くなったと仮定する。そんな場合、どうなるだろう?

 9.11の直後、アメリカ市民の80パーセント以上がアフガン空爆を支持したように、北朝鮮と戦争を始めるべきだという声が一気に高まるだろう。これは自衛ための戦いであると「解釈」して、憲法九条はなしくずしに空洞化してしまうかもしれない。

 そんなとき、アフガン空爆のときと同じように「非戦」の声を上げられるか? そのような声を発すれば、おそらく「非国民」「売国奴」といった罵声を浴びることになるだろう。アメリカの作家たちと同じように複雑なジレンマに陥って、沈黙せざるを得ないのか。

 アフガン空爆に対して、友人たちと共に「非戦」の声を上げるとき、ぼくはこう考えていた。

 戦争と平和の天秤は、つねに揺れつづけている。その支点のところに現実政治があるのだろう。その時、その時の状況に応じて、支点はたえずぶれつづける。これまで非暴力の社会が実現したことなど、一度もない。それは、よくわかっている。それでも自分たちのやるべきことは、天秤が戦争のほうに傾かないように、支点が一方にぶれないように、たとえ非現実的とみなされようと、あえて非暴力の声を上げつづけることではないか。

 だが上のようなケースの場合、どう対応すべきなのか。だから核武装すべきだ、迎撃ミサイルを配置すべきだというのでは何の解決にならない。だが東京の高層ビルが二つ崩壊しただけで、非暴力の声など、たわいもなくかき消されるだろう。わかりきったハト派的な言説も、一挙に無効となるはずだ。そして、ぼくたちは苦い沈黙を強いられるのか。

 先日「フクロウ派」という言葉が、朝日新聞の「天声人語」で紹介されていた。タカ派ではなく、硬直したハト派でもなく、冷静に、柔軟に、現実と向きあう姿勢という意味だろうか。「フクロウ派」というのは、いい言葉かもしれない。

 ぼくは明らかに <タカ> ではないけれど、白く美しい平和のシンボルである <ハト> と自分を同一視するのは、嘘っぽくて、気恥ずかしい。どうもしっくりこない。<タカ> でもなく、<ハト> でもなく、実際のところぼくは極端な夜型人間で、いつもフクロウのように深夜ひとり仕事をしている。こうして書き綴る言葉もフクロウのつぶやきに近い。

 ミネルバのフクロウは、夜の知恵、哲学の象徴らしいけれど、肉食の鳥であることに変わりはない。ぼく自身は、ほとんど菜食主義者に等しいけれど、魚は好きだ。グレイ・ゾーンを生きる矛盾が好きだ。



            第13章へつづく