| TOP PAGEへ 第20章 22歳の7月13日 (2004年6月〜7月) ![]() Copyright Shinro Ohtake 「海亀日記」は新しい日付が下にくるようになっています。 04.06.02 城ヶ崎海岸を歩いた。海は、吸い込まれそうな深い青緑色だ。平らな岩の上に寝ころがって過ごした。この岩は何万年か前に噴きだしてきたマグマが、海になだれ込んで冷え固まったものだ。そんな永遠性にくらべると、歴史はやはりミームかもしれない。 ミームとは、物理的には実体がないけれど、私たちにとってはリアルなものだ。たとえば、ライターの火は実在する。さわれば火傷もする。けれど愛といったものに、物理的な実体はない。だが人はそのために自殺さえする。人にとってミームは実体にほかならない。 それぞれの正義も、宗教も、愛国心も、国家の威信も、すべてミームであることに変わりはない。そのミームによって私たちは血さえ流す。熔岩の上に寝ころびながら、社会的には存在していない、まだ私の脳の中にしかない小説をあれこれ想起している営みもまた、ミームなのだろう。長編Xの第四章が終わり、第五章にさしかかった。 04.06.09 二人の友人が、夏の参議院選挙に立候補することになった。民主党から、喜納昌吉。環境問題に取り組む新党「みどりの会議」から、小林一朗(立候補名は小林イチロウ)。かれは、アフガン空爆やイラク戦争のさ中に、ピース・ウォークを組織した友人だ。「非戦」のチームメイトでもある。二人とも、現実にコミットしようと決心しての立候補だ。 TUP編『世界は変えられる』(七つ森書館)を一気に読んだ。TUPとは、Tranlators United for Peace (平和をめざす翻訳者たち)の略で、イラク戦争が始まってから世界中のネットで流されている論考やニュースを翻訳して、無料配信しているグループだ。かつて私たちが『非戦』で試みたことを持続的につづけている独立系メディアだ。やはり「非戦」のチームメイトであった別の友人が、TUPの中心メンバーになっている。 最後のところに、アメリカの人類学者マーガレット・ミードの次のような言葉が引用されている。 「疑ってはいけない。思慮深い、献身的な市民たちのグループが、世界を変えられることを。実際、かつて世界を変えたものはそれしかなかったのだから」 世界的な反戦のうねりもむなしく、イラク戦争を止めることはできなかった。無力感に陥ったばかりの私たちには、このマーガレット・ミードの言葉は、あまりにも楽天的にひびく。だが、奴隷売買を廃止に追い込んだのも、やはりそうした市民グループだったそうだ(この本の最後の論考にくわしく述べられている)。 ベルリンの壁が崩壊した背景にも、ハンガリーやドイツの市民グループの活動があった。この『世界は変えられる』は、現実を知っている大人たちの粘り強い理想主義といったものを感じさせる。 友人たちが現実にコミットしようと身を乗りだしていくのに、私のほうは小説に集中するため、塹壕にじっと身をひそめるような日々がつづいている。ようやく長編Xの第五章が終わった。 04.06.11 ギリシャ悲劇のソポクレス篇『オイディプス王』を読了した。もう五、六回目だが、読むたびに、感嘆させられる。心底、まいった!と唸らされる。ここには物語性のすべてがある。余勢をかって、ソポクレス最晩年の悲劇『コロノスのオイディプス』も読んだ。いつか機会があったら『オイディプス王』について、きちんとしたエッセイを書こう。 夜、渋谷のシアター・コクーンへ「オイディプス王」(演出:蜷川幸雄、主演:野村萬斎)を観にいった。 今年の二月、世田谷パブリック・シアターに招かれて、能舞台の上で、野村萬斎さん、鎌田東二さんとトークをすることになったのだ。私は狂言についてまったく無知であったが、その日に観た「三番叟」に圧倒された。私はその感動を率直に語った。 そのとき、野村萬斎さんは「オイディプス王を演じることになっている」と語った。私はとっさに「あなたなら、できるよ!」と失礼なことを口走った。萬斎さんは不快がるどころか、それを喜んでくれた。 それが縁となって、国立能楽堂に招いてもらったりした。そして今回の「オイディプス王」を観るために、ソポクレスを読み返してきたのだった。意外なことに、蜷川演出は(現代語訳になっているが)ソポクレスの原作にほとんど忠実であった。それぞれの俳優が腹の底から声を発し、舞台に凄まじいエネルギーが渦巻いている。ぎりぎりのテンションが引き出されている。 野村萬斎のオイディプスは素晴らしかった。なによりも声がいい。修練を積んだ見事な声だ。低く、暗く、うめき、うねり、高まり、叫び、嘆き、静まり、ほとんど音楽を聞いているような陶酔をもたらす。この「オイディプス王」は高貴でなければならない。ひたすら真実を突きつめていこうとする高貴さがあって、初めて、父親殺し、近親相姦といったおぞましさが、逆光的に輝いてくる。 もしもオイディプスに、王権への執着、自己保身といったものがあれば、この悲劇は卑小なものになってしまう。オイディプスの高貴さがあるからこそ、運命の皮肉さ、神の残酷さといったものが鮮やかに浮かび上がってくる。 野村萬斎のオイディプス王は、その高貴さをそなえていた。そして鍛えぬかれた声が、恐ろしい神託(神の言葉)に対する人間の声として、うめき、高まり、叫び、嘆き、波のようにうねりつづけていく。それは神に奉納する声でもあった。 この『オイディプス王』は、2500年も昔に書かれたものだ。これまでに何度か、ギリシャ悲劇の一冊として活字で読んできたけれど、生身で演じられるの見るのは初めてだった。ここに記すのは恥ずかしいが、涙が出た。2500年も前に書かれたものに泣かされてしまった。 04.06.12 朝、ペリカン便でずっしりと重い小包が届いた。諏訪之瀬島からだ。一夜干しの飛び魚がぎっしり入っていた。冷凍庫に入りきれないぐらいだ。さっそく一尾を焼いて食べた。この一尾も、ナーガが黒潮のなかに舟を浮かべ、刺し網で獲ったものだ。そして包丁で開いて、塩をまぶし、日に干したのだ。ありがとう、ナーガ。 04.06.16 仕事に根をつめすぎたせいか、疲労がたまってきた。鞭打つように、アルコール燃料で走りつづけてきたのも良くなかったようだ。昨夜は飲みすぎて、ひとり床を転げ回って苦しんだ。持続的な睡眠もとれなくなっている。しばらくアルコールを断とう。 長編Xは、六章が終わった。いま七章に入っているが、ここはどう書くべきかわかっている。いちばんの難関は、次にひかえる第八章だ。この章の深度によって、作品全体の文学性が決定づけられるだろう。書くということは、本当にしんどい。そして酬われることは、きわめて少ない。 歴史への関心が深まっていく。これまで小説の描写は <私> が世界をどう感受するか、その感覚の特異性(?)に、重心が傾きがちであったが、いまは <私> のことなど、まったくどうでもいい。そんなものは、ガキのたわごとのように思われるようになってきた。 地上の人びと、死者たちをさらうようにうねりつづけていく歴史の波、<私> の意識さえ誘導し、関係づけ、このように在らしめている歴史性をとらえることに関心が移ってきたようだ。 ―――――――――以下、転送・転載歓迎します――――――――― 04.06.18 憲法改正について思うこと 宮内勝典(転送・転載歓迎します) http://pws.prserv.net/umigame/ 日本政府は、一方的に多国籍軍参加を表明して、それが決定事項になりつつある。こうして憲法9条は、なしくずしに骨抜きにされていく。私は、現在の憲法9条はあまりにもきれいごとすぎて、現実性がないと思っている。いずれは、憲法改正に着手すべきだろう。だが、それでも、いまは改正すべきではないと考えている。その理由を、簡単に記しておきたい。 先日、EUの規定書がどれほど厖大で、どれほど緻密であるかを知った。異なる国家、異なる言語・文化をもつヨーロッパ各国が、連帯するために互いに知恵を絞りあって、新しい共通規約をつくりだそうとしているのだ。冷静なロゴスによって、知によって、共有の理念をつくりだそうと考え抜き、懸命の努力をしている。その営みに、私は心を動かされた。 そのようにロゴスや知性によって、憲法改正に着手するのならいい。だが、現在、憲法改正を声高に主張する人たちが、EUのように冷静であるとは考えられない。かれらは、もともと武装に熱心な人たちだ。自衛隊をイラクへ派遣したがるような人たちだ。 かれらは日本という国を、おおっぴらに戦争ができる国にしたいと思っている。いま、かれらの思うとおりに憲法改正を行えば、おそらく「いつかきた道」へ引き返していくことになるだろう。それは戦争への道だ。すでに、なしくずしに、私たちはそこへ向かわされつつある。 第二次世界大戦で、私たちは2千万とも、3千万ともいわれる人びと(非日本人)を殺してきた。だがこの60年間、戦争では1人も殺していない。憲法9条はきれいごとすぎるけれど、それでも、戦争への歯止めとして、十分、機能してきたと思う。 EUのように、知性によって、新しい理念を冷静に生みだそうという段階にくるまでは、憲法改正に着手すべきでない。急いではならない。日本の民意がEUのような段階にくるまで、憲法9条はしばらく凍結させておいたほうがいい、と私は思う。 ――――――――――転送・転載歓迎、ここまで――――――――― 04.06.20 今日は「難民の日」だという。「父の日」だとばかり思ってたが、このような「難民の日」があることは知らなかった。在日ビルマ人のキン・マウン・ラットさんのドキュメンタリー番組を見た。キンさんは、ビルマの民主化運動に関わっていたから、もしも軍事政権下の母国に強制送還されたら逮捕される。だが、35000人以上の署名が集まり「在留特別許可」が出ることになった。私も、35000人の署名者たちの一人だが、ほんとうによかった。 タイ人の友達、スッタシリ・クナポン(レック)が、いま入国管理局に収容されている。レックも、日本で生まれ育った子どもを抱えている。もしも強制送還されたら、家族はばらばらになる。友人たちが署名運動をつづけているところだが、レックにも「在留特別許可」が出ることを祈る。 夜明けまで仕事をつづけて、第七章が終わった。明日から、いよいよ難関にさしかかる。ここを乗りきることができたら、ゴールが見えてくるだろう。 04.06.21 中村哲・ペシャワール会編『空爆と復興』(石風社)を読んだ。空爆当時、あれほどアフガンは世界中の注目を集めていたが、もうだれも見ようとしない。語ろうともしない。そんな状況で中村哲さんは医療活動のかたわら、井戸を掘り、砂漠を農地にしようと、いまも灌漑用の水路をつくりつづけている。まったく頭が下がる。 この本は、中村哲さんの文章と、現地で共に活動しているスタッフたちのレポートで編まれている。農業計画担当の橋本康範さんが、日本に一時帰国したときの印象を綴った文章が心に残った。 「私は驚くほど快適で楽しい日本を満喫した。しかし、日本での一ヶ月の間、あらゆることに違和感を覚えながら過ごしたように思う。そして、"夢の国" に一ヶ月もいるとなんだか息切れがしてくるのだ。騙(だま)されているような気がしてならないのである。表面上はとても住みやすく、過ごしやすく大げさに飾ってはいるが、その実何だか悪夢が蔓延しているような気がしてならないのである」 その直観は鋭く的中していると思う。日本の自殺者の数は、5年連続で3万人を超えている。これはアフガン空爆や、イラク戦争の死者よりも、比較にならないぐらい、ずっと多い。これが "夢の国" の実体なのだ。私たちは身のまわりに、戦死者よりも遙かに多くの自殺者たちがさまよう、明るい「悪夢」のなかにいるのだ。 04.06.23 集英社の高橋至さんと、おいしい鮨をご馳走になりながら、久しぶりにゆっくり話をした。私が日の当たる場所にいるとき、ささやかながら注目されているとき、高橋さんは知らん顔で放っているけれど、つらいとき、苦しいとき、孤独なときは、いつもさりげなく手を差しのべてくれる。『ぼくは始祖鳥になりたい』も、高橋さんの粘り強い協力がなければ実現しなかっただろう。ありがとう、高橋さん。 04.06.29 イラクが大変なことになっている。主権移譲を目前に、連日、爆弾テロがつづいている。悲しいことに、犠牲者は米兵よりもイラク人のほうが圧倒的に多い。ガードが固く、武装している米軍ではなく、一般人を狙うやりかたに吐き気がする。これではアラブ社会の支持さえ失っていくだろう。ここにはもう「聖戦」というぎりぎりの倫理さえない。あるのはただ「敵の味方は敵」といった、どろどろの憎悪ばかりだ。 これからも、テロは延々とつづくだろう。主権移譲といった見せかけで収まるとは思えない。11月の大統領選挙でブッシュが落選することを祈るばかりだ。アメリカの市民たちに、ぎりぎりの良心、デモクラシーの底力を示してほしいものだ。それはブッシュを落選させること以外にない。 ブッシュ政権のおかげで、世界はこれほどの混乱に陥れられた。イラクが大量破壊兵器を隠してるという妄想から始まった戦争に、世界中が巻き込まれてしまった。かれらの妄想によって、多くの人たちが、なんの謂われもなく殺されてしまった。アメリカの市民たちは「妄想者」に世界最強の権力を与えてしまったのだ。 今度の選挙で、きちんと落とし前をつけてほしい。ブッシュを落選させることで、四年前の自分たちの失敗を償ってほしい。アフガンや、イラクの死者たちに、哀悼の意を示してほしい。だが肝心のイラク人や、私たち日本人は巻き込まれていながら、アメリカの大統領選挙に関わることができない。歯がゆいばかりだ。 ☆ 今日は、Nさんの命日だ。たしか去年の今頃だったなと、数日前から気にはなっていた。私はこうした日付に無頓着で、自分の誕生日もよく忘れている。母の命日も思いだせない。日付そのものは、かくべつ重要なことだと思っていない。 Nさんの香典返しとして送って頂いた置き時計を、毎日眺めている。透明なアーチ型のアクリル盤に、円い時計と、真珠が一つ、宙に浮かぶようにはめ込まれている。 私はこの時計をデスクに置いて、一年間、ただ意識しつづけてきた。地震がきたとき、目覚めたとき、小説を書いている途中、なんとなく、ふっと時計を見る。さきほど気になって、Nさんが自殺する直前まで書いていたホームページのコピーをひらいてみた。やはり、今日が命日だった。 04.07.03 「カラカラ」という沖縄の雑誌をいつも送って頂いている。いつか沖縄に移住したいと夢見ているから、毎号、とても楽しみにしている。今月号には、いい写真が載っていた。港の岸壁で、二人の漁師があぐらをかいて、さし向かいで泡盛を飲んでいる。二人のあいだには肴が置いてある。一人はランニングシャツ姿、もう一人は頭にタオルを巻いている。 日が沈みかかっている。海は金色だ。一人が三合瓶の泡盛を、相手のプラスティック・カップに注ぐ。その泡盛が透明に光っている。二人の男たちは黙々と飲む。ただそれだけの光景だが、なぜか、胸をゆさぶられる。ああ、人はこんなふうに生きることもできるのだなあ。 04.07.04 昨日は、不思議な一日だった。昼過ぎに目覚めると、留守電に、京都大学でひらかれる「アメリカ学会」のヴェトナム戦争終結30周年のシンポジウムで話をしてほしいという依頼がきていた。とても大切なことだから、喜んでひき受けることにした。 夕方、仕事の合間にネットに繋ぐと、ネルー大学でひらかれる「インドにおける東アジア文学の研究」という国際会議に正式招待したいというメールがきていた。私の小説を英訳してくれている教授からだ(まだ出版のめどは立っていないけれど)。 そして夜になってから、東京でひらかれる「国際宗教学宗教史学会」の国際会議にパネリストとして出席してほしいという正式依頼のメールがあった。 ネルー大学と「国際宗教学宗教史学会」のほうは、以前からそれとなく打診を受けていた。だが、それにしても一日に三件も重なってしまった。不思議なことがあるものだ。むろん、こんなことは初めてだ。いやそれどころか、私は学者ではなく小説家だから、これまで一度も、学会というものに参席したことさえない。ネルー大学の国際会議では、また冷汗ものの英語で講演しなければならないだろう。ああ、どうなることやら。 長編Xの完成を急がねばならない。いつも夜明けまで書きつづけているが、いちばんの難所、第八章でまだ足踏みしている。あがいている。ここは、実存と歴史が交わる十字路のようなやっかいなところだ。ここさえ乗り切れば、ゴールが見えてくるはずだ。だんだんエネルギーが切れてきた。飲み過ぎで胃も痛く、へろへろになってきた。だが走りぬくしかない。 04.07.05 大竹伸朗『UK77』(月曜社)が送られてきた。22歳でロンドンに渡った頃に撮った写真や、ドローイング、張り込み(コラージュ)などで成る、厚さ5センチぐらいの本だ。 北海道の農場で無給で働いていた18の頃、かれは昼間だけ、現金収入になる基礎工事の穴を堀りつづけていたという。その穴が、内的にはロンドンへ繋がっていったのだ。「ロンドンへの穴掘り」という、その文章がやるせない。 私が、東京の地下鉄工事現場で働いて金をつくり、片道切符だけでアメリカに渡ったのも同じ22のときだった。だから、この『UK77』は身に沁みる。写真をめくっていくうちに、自分の眼球がその光景を見ていたような錯覚さえ覚える。 ロンドンに着いたばかり夜、大竹伸朗がピカデリー・サーカスの安宿に泊まり、ホテル備えつけのボールペンで描いた自画像が、冒頭に掲げられている。たぶんそこにある鏡と向き合いながら描いたのだろう。線は鋭く、勁く、不安や、孤独、緊張感がみなぎっている。22歳の自分の自画像を見ているような気がしてならなかった。 大竹伸朗『UK77』(月曜社 7000円) 月曜社 〒182-0006 東京都調布市西つつじヶ丘4-47-3 TEL 0424-81-2511(営業) 0424-2557(編集) 04.07.08 暑いなあ。南極、北極の氷も、もうすっかり溶けてしまったんじゃないか。おいおい、まだ7月上旬だというのに、35度だよ、35度! 熊谷は37.6度だという。私の仕事部屋にはクーラーがない。長いこと扇風機だけで夏をしのいでいる。もしもクーラーをつけてしまえば、なにかがくずれ落ちてしまいそうな気がするから。今日も、保冷剤を布に包んで延髄のあたりを冷やしながら仕事をつづけている。第八章の山場を、いまどうにか越えつつある。 04.07.11 やはり、選挙に行こう! 04.07.12 選挙の結果が出た。自民党の敗北である。まだまだ、政権交代まではほど遠いけれど、友人の喜納昌吉が当選してうれしかった。沖縄の家で昼ごはんをごちそうになったとき、私が初めての料理をめずらしがっていると「これが、チャンプルーですよ」と、かれが言った。それから星空の下で、亀甲墓の上に坐って延々と語りあったことを思いだす。あれから、長い歳月が流れてきた。 04.07.13 7月13日。この日付だけは忘れない。22歳のとき、片道切符で日本から飛びだしていったのが、7月13日だった。ポケットには5万円相当のドルしかなかった。フライトを予約するとき、どの日を選ぶか考えあぐね、キリストが磔刑にされた日、13日の金曜日にしようと決めた。 その年の7月13日は、金曜日ではなかったと思う。だが不吉とされる13日をあえて選んだ。天よ、われに苦難を与えよ、という思いがあった。いまになって思うと、その青くさい決心が気恥ずかしいけれど。 だが、人はそのような決心をするときも必要なのだろう。そのころ、自分が何を考えていたか記憶はぼやけているが、あえて7月13日を選んだ思いだけは鮮明に覚えている。退路を断つつもりだった。なんの保証もないけれど、自分の才能だけを信じよう、それに賭けようと決心したのだ。もしも自分に才能がなければ、人生は失敗するだろう。破滅するだろう。 だが、それでもいい。もしも失敗するならば、それだけの人生だったということだ。(こんな言葉を笑って赦してもらいたいが)天才の世界へ行くつもりだった。無謀であることはわかっていたが、そうして退路を断った。大きな運命を生きたかった。 いわゆる世の常識、良識、人倫のすべてをふり切って(また笑って赦してほしいが)天才の世界へまっすぐ飛び込んでいった。それは、あえて悪を為すという覚悟もふくんでいた。22歳の7月13日。私は若い一匹の鬼であった。勇気、勇気、勇気、と胸でつぶやきつづけていた。それが私をアーティストにした。きれいごとを踏みにじって、魔の世界まで行くつもりだった。そのせいか、7月13日には、いまもよく不思議な夢を見る。 足どりがおぼつかないガンジーの左脇を支えながら歩いていく夢を見たことがある。広々とした庭園であった。かれを慕う群集が待ち受けていた。その群れから、一人の青年が現れてきた。ガンジーは祝福を与えようとした。そのとき、青年は至近距離から銃を向けてきた。引き金をひいた。ガンジーは倒れ、抱きかかえている私の腕のなかで息をひきとった。ぬるりとした血の感触が、いまもありありと手に残っている。 先日、ちくま新書から「ガンジー」という本を書いてほしいとう依頼があった。これまでも何社かの新書編集部から「海亀塾」や「教育」について書いてほしいという依頼を受けていたが、すべて辞退してきた。だが「ガンジー」だけは、どうしても譲れない。もし私が辞退すれば、ほかのだれかが書くことになるだろう。これだけは、ほかの人に譲りたくない。だから引き受けることにした。 来年の二月、ネルー大学の国際会議に出席するついでに、グジャラート州にあるガンジーの生家や、晩年を過ごした村、ガンジーの小屋を訪ねようと計画している。来年の二月まで、あと七か月半ある。それまでにかならず長編Xを完成させて、発表し、一冊の本として送りだそう。 04.07.16 猛暑のなか、筑摩書房の平賀孝男さんと、永田士郎さんが訪ねてきてくださった。ちくま新書で「ガンジー」を書くための打ち合わせだ。永田さんとは今日が初対面だが、学生時代に休学して、インドで半年暮らしたことがあるそうだ。カルカッタで知り合った日本人旅行者から、私の『ニカラグア密航計画』を借りて読んだことがあるという。 平賀さんには以前『ぼくらの知慧の果てるまで』という本を作っていただいたことがある。これまでは早稲田界隈の喫茶店で打ち合わせをするばかりだったが、今日は近くの蕎麦屋でゆっくり話をすることができた。平賀さんもインドを何回か訪ねていて、エローラや、アジャンタ、エレファント島、その他ほとんど人に知られていない石窟寺院を訪ね歩いたことがあるという。そうか、そういう縁があったのか。 二人とも、ガンジーを現代に甦らせてほしいという。9.11以降、戦争やテロがつづいて世界が混乱している今こそ、ガンジーの思想が必然的になってきた。だから、私に書いてほしいのだという。ありがたい言葉だ。長編Xが完成したら、すぐに取りかかろう。 04.07.17 中村哲さんのドキュメンタリー番組を見た。ほんとに凄い人がいるものだ。あんな小柄な、ひとりの人間の意志で、あれだけのことができるのか。つくづく頭がさがる。医師だから当然かもしれないけれど、ハンセン病の人たちの手をなにごともなく握り返し、力づけている。 インドで私もハンセン病の人を抱擁したことがあるけれど、それはあくまで意を決してそうしたのであって、あのような、さりげないものではなかった。あとで川に降りて、必死に手を洗ったのを覚えている。 一日の仕事を終えた中村哲さんが、床にあぐらをかいて、ご飯とインスタント・ラーメンだけの夕食を取っている姿を見たとき、茫然となって、思わず立ち上がってしまった。 いつも「ペシャワール会報」を送って頂いているので、水路づくりの経過や、600人ぐらいのアフガン人たちが働いていることなど知っていたけれど、日本人スタッフはわずか10人だけであることを初めて知り、愕然とした。もっと多くの若い人たちがボランティアとして参加していると思いこんでいたのだが……。 04.07.21 信じられないほど暑い日がつづいている。昨日の東京は、39.5度(新橋では40度をこえたという)。ついに史上最高を記録したそうだ。保冷剤をタオルで包み、頭に巻きつけ、延髄や額を冷やしつづけても、もうどうにもならず、この二日間、仕事はストップしたままだ。 地球温暖化は、確実に進んでいる。日本は集中豪雨が起こっているぐらいだから実感しにくいけれど、世界はいま深刻な水不足に直面している。「非戦」のチームメイト、枝廣淳子さんのメール・マガジンに恐ろしいことか記されていた。アースポリシー研究所のレスター・ブラウン氏が、次のように警告しているそうだ。 アメリカのコロラド川は、川の水が海にまで到達することは、もうほとんどなくなった。地下水の水位もさがりつづけている。 中国では、1985年以降、ほぼ毎年、黄河の水が黄海に到達しない日がやってくる。ときには山東省にさえ流れが届かないこともある。地下水面が低下したせいで多くの水源が涸れ、いくつかの川が完全に姿を消した。河北省だけでも、約1000の湖が消滅している。 パキスタンの生命線であるインダス川も、アラビア海に注ぐ頃には、川が途切れそうなほど水量が減っている。 アラル海に注ぐアムダリア川には、毎年、水のない時期が訪れる。アムダリア川から流れてくる水量が激減したため、アラル海は縮小し始めている。このままだと、アラル海はある日、完全に消滅することになりかねない。 イラン東部では、地下水位の低下により、多くの井戸が涸れてしまった。水を入手できなくなったために放棄された村もある(隣国アフガンも、多くの井戸が涸れている)。イランは <水難民> が発生する最初の国となるかもしれない。 ざっと箇条書きで引用させてもらったけれど、これらは、ごく一部に過ぎない。アフリカの水不足は目をおおわんばかりで、中央アフリカのチャド湖は消滅しかかっている。むろん、多くの井戸が涸れてしまった。地下深く、2キロメートルに及ぶボーリングをしても、もう一滴の水も湧いてこない地域があちこちにあるそうだ。水の循環がおかしくなっている。 アフガンで井戸を掘り、砂漠を農地にしようと水路を作りつづけている中村哲さんのことが脳裏に浮かんでくる。かれは単独で、このような状況と向き合っているのだ。 1980年代に、アフリカのエチオピアで、百数十万の餓死者が出たことがあった。東京で10人に1人が餓死したとイメージしてほしい。あなたが暮らしている地方都市の住人たちすべてが餓死した、と受けとめてほしい。それほどの飢餓であった。原因は、旱魃による水不足のせいだった。 当時、私はエチオピアに入り、すさまじい光景を見た。飢餓地帯の村々はすべて放棄されていた。家々の窓枠、戸板などは、きれいになくなっていた。難民となって村を去るとき、薪がわりに持っていったのだ。どこまでも、どこまでも、水の涸れたグランド・キャニオンのような褐色の世界がひろがっていた。からからに乾いた月面のようでもあった。 そして砂漠がゆるやかにうねり、そのまま紅海になだれ込んでいた。砂と海水が、ひっそりと、不思議なほど軽やかに触れあっていた。そんな波打ち際が、どこまでも延々とつづいていく。無人の惑星のように。 04.07.25 コンピュータは、熱に弱い。何百台ものコンピュータがひしめくNASAの管制室などは、いつも冷房をがんがん効かしている。ガラスなど氷壁のようになっている。巨大なスーパー・コンピュータが宇宙から降りそそいでくる電波を解析しつづけている天文台の、そのコンピュータ室も、ふるえがきそうなぐらい寒い。 人の脳も、熱に弱い。たった1度か2度、体温が上がっただけで、もう思考力はよろけてくる。3度も上がると、朦朧となって、まったく使いものにならない。(NASAのコンピュータを例にあげてしまったので気がひけるけれど)私の脳も暑さに弱い。もともと夏は好きな季節で、旅をするときなど40度ぐらいの暑さは、それほど苦にならない。 だが小説を書くときは別だ。40度近い暑さのなかに浮かんでる脳が、まともに働いてくれるはずがない。保冷剤で冷やしても、冷やしても、ずっとダウンしたままだった。ぼうっとアホなことを妄想するばかりで、IQは下がりっぱなし。というわけで、ずっと小説が書けずにいたけれど、どうにか普通の夏らしい気温にもどり、長編Xの第9章を終えることができた。 04.07.27 長編Xの、第四稿・最終章に入った。ついに見えかかってきたゴールを目ざして、夜明けまで書きつづけた。神経が昂ぶって眠れない。マウンテン・バイクで朝の荒川土手を走った。川が光り、いちめんの葦が揺れていた。ゴッホの「星月夜」を思わせる糸杉が延々とつづく。夏の朝だというのに、ゴッホの目に見えた通りに見えてくる。少年時代の夏の <永遠> の感覚がなつかしく狂おしく甦ってくる。 昼まで走りつづけた。くたくたになって家にもどり、大きな沖縄ガラスの器で、冷やしそうめんを食べた。透きとおった薄緑のガラスで、直径30センチぐらいの大きな器である。沖縄の高校で講演したとき、校長先生から頂いたものだ。米軍基地のすぐ近くの高校だった。 話しているときも、米軍機の発着音がうるさく、何度も話を中断しなければならなかった。私はアメリカ先住民たちの歴史と闘いについて語りつづけた。高校生たちは、目をきらきらさせながら聞いてくれた。その質問は、真摯で、水準が高く、熱がこもっていた。深く記憶に残っている講演会だ。 その記念に贈られたガラス容器だが、ゆったりとした大らかな形で、ガラスそのものの重みを受けとめるように、全体がかすかにたわみ、群青色が散っている。薄緑のガラスの中に浮かぶ小さな気泡や、群青色は、まさに海だ。一目見たときから大好きになった。こんな素晴らしい器は見たことがない。 校長先生は、陶芸家の友人と一緒に地元のガラス工房を回って、この器を選んでもらったのだという。夏になると、この器でそうめんや冷やむぎを食べるのが一番の楽しみだ。沖縄の花のかわりにミニトマトなどを浮かべて、そうめんを啜りながら、いつも沖縄の人たちを思い出す。 それから眠りについた。ひたすら眠りつづけ、目覚めると、あたりが異様に暗い。もう夕方なのかと思いながら、電気をつけ、デスクの置き時計を見ると、なんと夜の12時だった。11時間ぐらい眠っていたようだ。こんなに眠ったのは何年ぶりだろうか。夢も覚えていない。ただひたすら、こんこんと眠りつづけていた。 04.07.29 もの書きの宿命だろうが、うかうかしてると身辺はたちまち本だらけになってしまう。もし大きな地震がきたら、本の下敷きになって圧死してしまいそうだ。いつも閉塞感があって、精神衛生によろしくない。そこでまた、数百冊をまとめて処分することにした。 ついでに資料棚を移動させると、部屋がすっきりして、窓も大きくひらいてきた。台風が過ぎたあとの澄みきった空がひろがっている。うれしくなって、夏空に湧きたつ積乱雲が淡いピンク色に染まるまで、ぼうっと眺めていた。 日が沈んでから、散乱する本を整理していたら、ガンジーの評伝が出てきた。ルイス・フィッシャー著の『ガンジー』という、二段組、600ページ近い大著である。もう一度、しっかり読もう。ロマン・ロランの『インド』という本も出てきた。1915年〜1943年の日記から、インドに関する部分だけを抜粋した一冊だけど、これも二段組、500ページに及んでいる。ガンジーと、ラーマクリシュナについての記述が多い。 まだ闘いの途上にあったガンジーは、1931年、ロンドンでひらかれた円卓会議の帰路、ロマン・ロランのスイスの家に5日間滞在して、じっくりと対話をつづけている。それは人類の精神史にひそかに残るような出逢いであった。その1931年の対話に傍線がいっぱ引いてあるけれど、もうほとんど覚えていない。ちくま新書の「ガンジー」を書く前に、この本も再読しよう。それから『ラーマクリシュナの生涯』も。 ―――――――――以下、転送歓迎します――――――――― それぞれの「正義」 宮内勝典(転送歓迎します) http://pws.prserv.net/umigame/ 9・11以降、長い時間が過ぎていったような気がする。世界貿易センタービルが燃えあがり崩壊していったのが、わずか二年七カ月前であったことが信じられないぐらいだ。世界中にひろがる反戦のうねりもむなしく、私たちはアフガン空爆やイラク戦争を目撃することになった。自衛隊も送りだした。テロはやむ気配がない。それぞれが「正義」であると信じることをやっている結果、いま世界は混乱の真っただ中だ。 ファルージャの戦闘や、イラク兵虐待を見つめながら、あの親切な良きアメリカ人たちが、集団・国家になると、なぜこれほどまでに残酷になるのか不思議でならなかった。石油や、国益、覇権といったことだけでは説明がつかない。アメリカは自分たちの善意を疑うことなく、なぜこれほど執拗に「デモクラシー」を他国に押しつけようとするのか。その不可解な情熱はいったいどこから湧いてくるのか? その謎は、私なりにどうにか解くことができたと思う。二千年に及ぶキリスト教の伝統、つまり「布教=ミッション」であると仮定すれば、さまざまなことが腑に落ちてくる。かつて「未開」の国々へまっさきに踏み込んでいった「布教」活動は、先住民たちを虐殺する結果になった。その歴史が、今もくり返されているのかもしれない。むろんイラクの民主化は建前であろうが、そのような「正義」を信じるから人は戦場へ向える。良きアメリカ人を突き動かしている無意識の動力源に「ミッション」があるからこそ、身勝手にデモクラシーを押しつけ、全世界、地の果てまでグローバリゼーションを押し進めようとする。だから自分たちの善意を疑うことなく、他民族、他文化に対して、これほどまでに鈍感・残酷になれるのかもしれない。 だが他国の「正義」を批判するばかりではすまない。私たち日本人もまた、根っこのところに奇妙な「正義」を抱えている。それが露わになったのは、今回の人質事件だった。囚われた同胞に対して、日本人から激しいバッシングが加えられた。アメリカ人の無意識にある「ミッション」と同じように、これもまた尋常ではない。「村八分」という言葉がまだ死語ではないことを、まざまざと思い知らされる。広辞苑をひらくと「江戸時代以降、村民に規約違反などの行為があった時、全村が申合せにより、その家との交際や取引などを断つ私的制裁」とある。ゆるやかなリンチなのだ。だが規約は明文化されておらず、「ミッション」と同じように、農耕文化の基層、無意識のなかに隠れている。 魚の群れは、ある瞬間、いっせいに向きを変える。「日本人はその魚群そっくりに見える」とアメリカ人の友達から聞かされたことがある。そのときはさすがに私もむっときたが、今回のバッシングはそう言われてもしかたがないと思わされる現象だった。 国益のために動いていると信じていながら、実のところ、私たちはもっと不可解な動機に突き動かされているのではないか。政府筋から流された「自己責任」云々は、鮮やかなほどの世論誘導であったと私は思う。だがその誘導に、なぜこれほどやすやすと乗せられてしまったのか。私たち日本人のメンタリティーに合致したからだ。魚群から外れていく者たちは「自己責任」で村八分される。いじめに通じる陰湿さもある。それを恥じなくてすむのは、アメリカ人の「ミッション」のように暗黙の「正義」があるからだ。それを信じるからこそ、イスラムの若者たちは自爆テロさえする。かれらの聖戦も、イスラエルのシオニズムも同じ泉から湧いてくる。 この血みどろの戦争に、もしも教訓があるとすれば、もっとも恐ろしくやっかいなのは、それぞれの「正義」にほかならないということだろう。国連の重要性も、あらためて認識されつつある。暴力の歯止めはそこにしかない。そして国連や私たちが次に知恵をしぼるべきことは、それぞれの村の「正義」をどうやって疑い、自問し、相対化させていくかということだろう。アメリカ村も、日本村も、イスラム村も、まったく同罪だから。 中日新聞 04年5月6日 東京新聞 04年5月27日 ――――――――――転送歓迎、ここまで――――――――― 第21章へつづく |