TOP PAGEへ 第9章 重力と想像力 (2008年9月〜12月) ![]() 月日の流れを大切にしたいので「海亀日記」は新しい日付が下にくるようになっています。 080903 ふたたび引っ越しの準備に取りかかった。やっかいなのは、やはり書物である。仕事柄、かなりの量がある。かつて書物とは、精神の食べものだと感じていた。噛みしめ、消化すべきものであって、所有すべきものではない。知とは本棚に貯めこむものではない。脳に(あるいはタマシイに)かたちもなく刻むべきだ。本を貯めこむと心が沼になってしまう。 二十代のころ、本を所有しない、社交ダンスをしない、ゴルフをしないという誓いを立てていた。飢えて、むさぼり食うように乱読をつづけていたが、すべての本が一期一会であった。読み終えると、ためらうことなく古本屋に売って、次の一冊へ乗り移ってゆく。だから身辺には二十冊かそこらの本しかなかった。風通しがよく、実に涼しいものであった。 ところが物書きになってから、本が捨てられなくなってきた。書くときは胸のなかで小鳥をそっとにぎりつぶすように、知識を殺し、吹きさらしの中に立つ。それでも資料はやはり必要だから、とめどなく本が増えつづけていく。小説家としては、きわめて蔵書量が少ないほうだと思うけれど。 ある日、編集者が仕事部屋にやってきて「新刊書が少ないですね」と不思議そうにつぶやいた。言われてみると、たしかに身の回りの本は、ほとんどが黄ばんでいる。新刊書を読まないわけではない。だが住まいが狭いから、定期的に処分しなければならない。どの本を捨てるか迷うたびに、いわゆる旬の本から先に腐っていくことに気づかされる。 捨てて、捨てて、ぎりぎり絞りこんだ本だけを残しているつもりだが、それでも身辺は、浅ましいほど本だらけになってしまった。天井まで紙の崖がきりたっている。その一部を切りくずして段ボール箱に収めただけで、あっというまに五十箱を超えた。部屋にも、廊下にも、隣室にも、押入にも、まだまだ本の山がひかえている。最終的に何箱になるのか、さっぱり見当もつかない。 一つの長編を書き終えるたびに、関連書をまとめて処分する。ああ、やっと開放されるという喜びが湧いてくる。だが『焼身』を書き終えたときは、ベトナム戦争に関する資料をどうしても捨てることができなかった。あの戦争を、だれかが記憶していなければ……という思いがあった。だが、やはり捨てることに決めた。何年もかけて古書店を回り、こつこつ蒐(あつ)めた本だが、十数冊だけ残して、段ボール箱三つ分すべて処分した。 いつか書くべきことをすべて書き終えたら、もう資料も何も要らなくなって、身辺から本というものがきれいに消えてくれるのではないか。はたしてそんな日がやってくるだろうか……と夢想しながら、段ボール箱の谷間でせっせと荷造りをつづけている。 080906 仕事部屋から出るゴミは、99パーセントが紙である。よくもまあ、こんなに貯め込んでいたものだ。紙、紙、紙ばかりじゃないか。「世界の十字路」の切り抜きも出てきた。「Esquire 日本版」に連載して、350枚ぐらいで完結したけれど、出来映えに満足できず、まだ単行本にしていない。忘れかけていた。 押入の奥から、習作時代の手書き原稿もごっそりと出てきた。600枚ぐらいの小説が一つ、300枚ぐらいの小説が二つ、200枚ぐらいの小説が一つ、それから未完成の短編がぞろぞろ。 段ボール箱の谷間に坐りこみながら、あれこれ拾い読みして、がっくりきた。なんだあいつ、あまり才能ないな。こんな草稿など残して、死んでから笑われるのは勘弁してもらいたいから、やはり捨てることにした。 蔵書も整理することにした。近所の古本屋は、本の値打ちといったものがまるで分かっていない。断腸の思いで手放す決心をした著作集に、1冊10円という値をつけてくる。中身のない、カバーだけつるつるの新刊書はその20倍だ。いわゆる市場原理なのだろうが、こんな古本屋には渡したくないから、焚書するように、いつも自分の手で処分している。 書物の最期を見とどけるような思いで、このひと月、資源ゴミ置き場へせっせと運びつづけている。文庫本まで含めると、すでに1500冊ぐらい捨てたはずだ。身軽になりたいから、さらに捨てつづけるつもりだ。ぎっくり腰が再発しなければいいが。 080911 あれから七年過ぎた……と指を折って数えるようなことは、七回忌の今日で終りにしようと思う。この年月、わたしたちは <9.11以降の世界> といった文脈に封じ込まれていた。呪縛されていた。少なくとも自分はそうであった。そろそろここから出ていきたいが、出ていくべき外部があるわけではない。歴史も、時空も地つづきだ。深く、深く、もっと深く降りていくしかない。 080924 大量処分したおかげで、書物の山はどうにか段ボール箱200箱以内におさまったてくれた。もうこれ以上は増やさないようにしよう。衣類、靴といった自分の日用品は、全部で5箱にすぎなかった。どうやら自分は本のほか、ほとんど何も所有していないようだ。だが家住者だから、家財道具がそれに加わる。トラックが出発したあと、ノートパソコンを入れたバッグを背負って、電車を乗りつぎ、転居先へ移動した。旅するときと同じ格好だ。 080928 最初の小包が届いた。開くと、植木雅俊訳の『法華経』上下二巻が入っていた。サンスクリット語原典からの新訳である。クァン・ドゥック師が焼身自殺する前夜に唱えていたという「薬王菩薩品」(新訳では「”薬の王”の過去との結びつき」を読んだ。 080930 日経新聞の中野さんが訪ねてきてくださった。「ブログで発信する作家たち」というテーマのインタビューだ。段ボール箱だらけの部屋で語りあい、終わってから一緒に近くの公園をぶらつき、タイ・ラーメンを食べた。 081002 自転車に乗って、運転免許の更新にいった。片道50分ほど走りつづけた。二十歳のころ中央線沿線をうろついていたせいか、このあたりに土地カンがあることに気づいた。自転車で車の免許更新にいくのは、なんだか嘘っぽくて妙な気分だった。旅に出たときレンタカーを借りるために持っている免許証だ。 母国で車を持つ気にはなれない。理由は、はっきりしている。車では国境を越えられないからだ。数年前、アリゾナの砂漠を南下して、メキシコの街でコーヒーを一杯飲んでもどってきたことがあった。そんなことを思い出しながら、新しく交付された免許証をバッグに入れた。750CCのバイクにも乗れる免許証だ。8トン車も運転できる。ふたたび自転車で走っていると、苗木屋を見つけ、ゆずの幼木を買った。まだ腰の高さぐらいなのに、鋭いトゲがぎっしり生えている。 081010 福岡にやってきた。昨夜、夜ふけまで仕事をしていたから、ホテルに到着するなり熱いシャワーを浴び、髭を剃り、頭を剃った。招いてくださった方々との懇親会にいかなければならない。もう時間がない。こんなときスキンヘッドは大変だ。大急ぎで剃っているうちに、ざくりと頭皮を切ってしまった。 頭から血を滴らせながら、夕暮れの街を歩いた。空襲で焼け野原になったあと都市計画を立てて再建された都市だから、道路もひろく、整然としている。東京よりも無機的な感じがする。アジアの玄関口といわれる街だから、チャイナ・タウンやコリアン・タウンがあればいいのになあ。ビルの谷間に屋台が多い。それだけが、かすかなアジアの香りだった。二次会へ移動して、九州大学の近くで麦焼酎を飲んだ。びっくりするほど魚が旨い。玄界灘の魚なのか。 081012 日本アメリカ文学会で「壊れゆく世界と、文学の役割」という講演をした。いろいろ理屈っぽいことを語ったあと、文学とはつまるところ狼やコヨーテが遠吠えする、あの声ようなものだと洩らしてしまった。そして夕闇の荒野で、おーい、自分はここにいるぞ、だれかそこにいるかと呼びかけるように、ウォーン、ウォーン、ウォーン、ウォーンと遠吠えの声を真似ると、笑いと拍手が湧いた。理屈よりも、コヨーテの声帯模写のほうが、何かが伝わったようだ。 講演のあと「惑星思考のアメリカ文学」というシンポジウムに出席した。琉球大学の山里勝己氏、慶応大学の巽孝之氏の話を聞いているうちにびっくりした。目を瞠(みひら)くという言葉があるが、耳を瞠くような時間だった。学会というアカデミックな枠を遙かに超えていた。アメリカ文学に、グローバリズムとは異質な、惑星的な影、planetarityといったものが現れつつあるという。長いこと、自分の主題が文壇的な世界とかみ合わず、ずっと孤立感にさいなまれていたが、初めて問題意識がぴたりと重なっていることに気づいてうれしかった。 081014 教え子のひとりが「新潮新人賞」を受賞した。逸材ではないかと期待していたが、まさかこれほど早く出てくるとは思っていなかった。作品はまだまだ荒削りで、あちこち強引さが目につくけれど、在学中からの主題を、ねばり強く追究しつづけていることが分かる。その内に秘めた芯の勁さ、骨太さによって、受賞に至ったように思われる。 もうひとりの教え子も、今年「群像新人賞」の最終候補になっている。ほかにも、いつ出てきても不思議ではない教え子たちが何人かいる。文芸復興の種をまいておきたいと思っていたが、ようやく芽吹きはじめてきたようだ。 081021 一昨日、岩波書店の樋口さんが唐十郎の芝居に招待してくださった。大吟醸をコップに注ぎ、ぐいと一息あおってから出かけていった。井の頭公園のはずれ「ジブリの森」に、伝説の紅テントが建っている。かつて新宿の花園神社に建っていた紅テントは、対抗文化のシンボルであったが、当時、私は日本にいなかったから唐十郎の芝居を見るのは初めてだ。 夕闇のジブリの森に、数百人がならんで開演を待っている。同世代の人びとだけでなく、若者たちも多い。世代が一つ変わったのだ。紅テントに入り、ゴザの上に坐った。演目は『ジャガーの眼』。寺山修司へのオマージュであるそうだ。路地の奥に「サンダル探偵社」と記された巨大なサンダルが入っていくところから一幕目が始まる。 うっすらと分かってきた。かつて寺山修司は「のぞき」をしたとして逮捕され、新聞に書きたてられたことがあった。時代の寵児である寺山修司を貶めようとする意図があからさまに透けていた。まるで女風呂を窃視したような記事であったが、私はそんなバカなことがあるものかと思っていた。女優さんたちがごろごろいる劇団を主宰するかれは、有名人で、男前で、女性たちにもてていたはずだ。わざわざ「のぞき」などするまでもない。 おそらく寺山修司は、異なるもの、たとえば故郷の路地にあったかもしれない原風景、生の光景に触れたくて(肝硬変という病を抱えながら)青いデニム地のサンダルを突っかけ、路地の営みを見つめていたのではないか。その眼は鋭く光り、いつくしむ思いもこもっていたかもしれない。だが、性的変質者のような事件としてあつかわれ、時代の寵児はたちまち恥辱の真っただ中へ突き落とされていった。 いや、路地の奥を見つめていたのは「ジャガーの眼」であると、唐十郎は一気に、魔術的に普遍化していく。一幕目は何がなんだかよく分からないが、とにかく面白かった。無性にわくわくした。二幕目に突入してから、混沌の霧が晴れ渡るように見えてきた。笑った。笑った。ゆさぶられながら笑いつづけた。人と時代の無意識を、水底からまるごと掬(すく)いあげていく現代詩のような言葉の奔流だった。ひたすら言葉の渦、激流でありながら、矢つぎばやの台詞、俳優たちの動きには一秒のゆるみもない。実存が立ちっぱなしだ。 終わってから、暗い森の紅テントのなかで車座になって酒を飲み、俳優や、唐十郎さんと語りあった。第二世代の層をふくらませていくこと、それが我々の務めではないかという思いが共通していた。大きなエネルギーをもらった。燃料タンクを満タンにしてもらった。大竹伸朗の大個展以来のことだ。 (次の公演は、10月24日、25日、26日。雑司ヶ谷の鬼子母神です) http://homepage3.nifty.com/shibai/ 081029 四十年ほどアメリカに住みつづけている旧友が、ひさしぶりに一時帰国してきた。二、三年後には故郷の奄美大島にもどって、ソシアル・セキュリティ(アメリカの年金)を受給しながら、海辺で暮らすつもりだという。夜ふけまで飲みつづけ、カフェに場所を変えながら語りあった。自慢の娘さんは東部の大学を卒業したあと、UCLAの映画学科に再入学して、ディレクターへの道を歩みだしたという。マイケル・ムーアのようなドキュメンタリー映画の監督になりたいそうだ。 かれら夫婦は長いこと移民として、汗みずくで働きずめだったが、これから亜熱帯の海辺で、静かに充実した日々が待っているように思われる。夫人は白髪となり、きよらかに歳をとりつつある。かれらが奄美に居を据えたら、加計呂麻島に空家をさがしてもらうことになるかもしれない。月一万円足らずで、一軒家が借りられるらしい。 つい一か月前に引っ越してきたばかりだが、沖縄か、奄美に、もう一つの拠点をもちたいという思いがある。それが自分なりの林住期かもしれない。そこで生涯の仕事(始祖鳥シリーズ)を完成させることができたらいいのだが……。自分たちが南島に拠点をもてば、ジェームズ・タレルもアリゾナの砂漠から移ってくるかもしれない。 081105 バラク・オバマが大統領に当選した。これは人類史的な事件ではないかと思われてならない。目をかがやかせながら、あるいは涙を浮かべながら演説を聴いている人びとの顔が印象的だった。かつて自分もそこにいた「青春のアメリカ」を、ひさしぶりに見たような気がする。差別のない世界への一歩となることを祈る。暗殺されないことを祈る。 081106 オバマの大統領受諾演説のなかで、シニシズムについて語られた部分に共感した。この十年、二十年……、いや、いつからなのか分からないけれど、シニシズムの濃霧が時代をおおっているように感じていた。私はシニシズムを嫌悪している。しかもシニカルな人にかぎって、自分のナルシシズムにまったく気づいていないことが多い。 演説のなかで、たしか二回ほどシニシズムについて触れた部分があったはずだ。スピーチの全文を読み返してみたいと思っていたところ、かつての教え子のブログにその紹介があった。 http://blog.livedoor.jp/bijoux_iris/archives/51134730.html 081107 集英社の高橋さんと、長谷川さんが訪ねてきてくれた。『焼身』を雑誌発表するとき、単行本化するとき、二人が担当してくださったのだ。あたらしい住まいを見てもらい、それからタイ料理を食べにいった。カフェに場所を移して、バラク・オバマのことなど夜ふけまで語りあった。 081108 夜、mixi経由で息子からメールがあった。オバマの演説のフルムービーを見つけて送ってくれたのだ。 http://cdn1.ustream.tv/swf/4/viewer.46.swf?vid=840418 「人類史上、かつてない規模で、憎しみと希望とを同時に背負う人物だと思います。殺されないでほしい」という言葉が添えられていた。 午前1時を過ぎてから、終電車でやってきた。4歳のときからニューヨークで育った息子は、差別されるとはどういうことか知っている。アメリカの良い面も知っている。ほぼ、バイリンガルである。仕事の合間、バラク・オバマの公式サイトでこのフルムービーを見つけ、耳を澄まし、トイレに駆け込んで涙を流したそうだ。 弱者や、先住民や、マイノリティーの哀しみを受けとめた上で、理想を語り、同時にバラク・オバマの眼はしかと坐っていた。醒めきっていた。差別も、悲哀も、理不尽さも、1秒後に銃弾が飛んでくるかもしれないことも、すべてを覚悟している眼にみえた。 アメリカ有数の頭脳にも思えた。だからイスラエル・ロビーと妥協することも、あえて辞さないのではないか。全米のメディアの動向をみれば、おおよその想像がつく。アルカイダや、オサマ・ビンラディンを徹底的に追いつめるかもしれない。おそらく理想主義者でありながら、クールなリアリストだろう。すべてを百も承知の上で、いつ銃弾を浴びるかもしれないアメリカ大統領という場に立とうとしたはずだ。だから、いまはシニシズムを捨てよう。 081110 季刊『東北学』が送られてきた。四方田犬彦氏と、赤坂憲雄氏が「在日をどう考えるか」という対談している。そのなかに興味深いところがあった。ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリ共著の『カフカ――マイナー文学のために』という一冊に述べられていることを、四方田氏が次のように語っている。 「カフカはチェコのプラハに住むユダヤ人作家ですが、ヘブライ語はできないし、イディッシュ語は抵抗感があり、チェコ語で作品を書けばローカルで終わってしまう。ですから自分を心理的に迫害するドイツ語で書くのですが、そのドイツ語はゲーテの優雅なそれではなく、ペラペラの貧しいドイツ語なんです。そのことが政治的な弱者の文学的なあり方であり、二十世紀の新しい文学だとドゥルーズたちは考えた」 そうだったのか。私はドイツ語ができないから、カフカの文章がぺらぺらの貧しいドイツ語で書かれているかもしれないことに、まったく気づかずにいた。あのシンプルで無味乾燥にも思えるシンタックスは、抽象性をきわだたせるための文体だろうと受けとめていたのだった。目から鱗が落ちた。 (追記) と記したところ、大学でドイツ語を教えている人から、異議が唱えられてきた。カフカの文章は、ヘルマン・ヘッセなどに比べても、あきらかに語彙(ごい)は少ないけれど、決して「ぺらぺらの貧しいドイツ語」ではないそうそうだ。 ドイツ語ができないから、カフカの文章については、まったく判断ができずにいる。プラハで暮らしているカフカは、チェコ語のほかに、ドイツ語も日常的に使っていたのだろうと思い込んでいた。複数の言語が併用されている国は、ほかにいくつもあるから。だが、カフカにとって、ドイツ語はやや距離のある他者的な言語であったことに気づかされた。 081111 「すばる」編集部の清田さんが訪ねてきてくださった。文芸誌でありながら、チェ・ゲバラや沖縄など、いつも意欲的な特集を組んでいる編集者だ。近くの居酒屋で語りあった。百人ぐらいが集うバラックの迷路のような、まさにアジア的な店だった。いつも前を通り過ぎるだけで、店内のすばらしさに気づかずにいた。世界の見方が通底しているから、清田さんとの対話はとても楽しかった。 081118 上野の美術館へ、ヴィルヘルム・ハンマースホイ展を見にいった。ほんとうは「上野藪そば」へいくのが目的で、ハンマースホイはついでのようなものであった。だが、うれしい誤算だった。だれもいな空っぽの部屋に、窓から光りが射し込んでいるだけの作品に魅かれた。まるで氷の中に光りが射しているような静けさだ。メタフィジックに凍りついた永遠。 エドワード・ホッパー(このページのトップにある絵 "Room by the Sea" を参照してください)、ジェームズ・タレルにも共通する世界だが、ハンマースホイは19世紀を生きていたはずだ。百年以上も前の世界にありながら、あのような空っぽの部屋、メタフィジックに凍りついた空間を描きつづけていたというのは、やはり瞠目すべきことだ。同時代の人気画家たちが忘れられてしまったあと、かれだけが生き残ったそうだ。一つのモティベーションを確信犯的に追いつめていく凄みがなければ、百年を持ちこたえることはできないと告げられているような気がした。 081119 沖縄から詩誌「KANA」が送られてきた。今福龍太さんの「口述(ディクテ)する舌」が刺激的だった。テレサ・ハッキョン・チャという韓国系アメリカ人女性の『ディクテ』という実験的なテキストについての文章だ。 チャの母親は満州に生まれた朝鮮の人で、政治的に日本語を強制されて育ったという。そしてチャ自身は釜山で生まれ、ハワイを経由してカリフォルニアに移住し、バークレーとパリで学び、たえず言語的越境をつづけてきたそうだ。 「一人の作者がもつ一枚の舌が、すでにあらかじめ幾重にも分裂した組成をはらみ、その舌=言語が織りなすテクストが必然的にかかえることばの重層性を著者が体現してしまうこと……」 そのような小説を書きたいと思いながら、職業作家だという、こざかしいプロ意識が邪魔してしまうのか、技法、技巧があからさまに透けてみえるような青くさいことはできないと思い直して、最終的には実験的な文章をばっさりと削り落としてしまう(いつも半分以上は削る)。そして何食わぬ顔で、商品として流通する破綻のない文章におさめてしまうことに、歯がゆさと、もどかしさを抱く。 もう長いこと逃れられずにいる自己矛盾だ。『ディクテ』はまだ読んでいないけれど、そんな自分に舌打ちしたくなる。もっと、もっと徹底することだ。確信犯になるしかない。昨日もヴィルヘルム・ハンマースホイの絵を眺めながら、そんなことを考えていたはずじゃないか。 081127 漢字さえろくに読めない首相ついて、いまさらなにも言いたくない。あいた口がふさがらない。ただ「定額給付金」という小銭のばらまきのあとにやってくるはずの「消費税アップ」について記したい。 資本主義そのものの国アメリカでも、食料には消費税がかからない(消費税に相当する税金は、たしか sales tax と呼ばれていたはずだ)。車や、電化製品、衣料品、日用品、レストランでの飲食などには、この sales tax が課せられる。だが人間の生命線である食料品は、完全に無税なのだ。 野菜も、魚も、肉も、卵も、牛乳も、ヨーグルトも、バターも、塩も、胡椒も、砂糖も、油も、ソイ・ソース(醤油)も、スパゲッティも、チャイナタウンの麺類も、豆腐も、納豆も、乾しそばも、食パンも、パン粉も、さまざまの香辛料も、リンゴも、オレンジも、葡萄も、コーヒーも、紅茶も、緑茶も、ハムも、ソーセージも、冷凍食品も、ペットボトルの水も、缶詰も、インスタント食品も、米も、小麦粉も、すべてが無税で買える。 ところが日本人であるわたしたちは、このようなどうしても必要な食料品を買うたび、それら一つ一つに5パーセントの消費税を払っている。酒やタバコなど嗜好品はしかたがないとしても、あきれるほど重税の国家である。わたしたちの生命線である食料にまで重税をかけてくる政府……、いや、もうこれ以上は語りたくない。 081128 インドで起こった大規模なテロについて、言葉を失いながら成りゆきを見守っている。イスラムとヒンドゥーの対立、印パ分裂、カシミールの領土権をめぐる確執などが根にあるのだろう。つまり、宗教、差別、ナショナリズム、民族のちがい、そして暴力といった永遠の問いが反復されている。表の経済がグローバル化していくのと反比例して、無数の亀裂が世界をずたずたに分断し、人は心的な帰属先をさらに狭くしていくようだ。 9.11以降、そのことについて語りつづけてきたけれど、つけ加えるべき言葉もない。絶句のなかに沈み込んでいる。いま書きつづけている長編Xで答えるしかない。むろん答えたところで世界は変わらないだろうが、松明の火種を消さないように努めるしかない。 081129 東京新聞の後藤さんが訪ねてきてくださった。落葉を踏みしめながら池のほとりを歩き、居酒屋にいった。つい先日、友人と飲んだ店だ。そのときは気づかなかったけれど、店の奥に階段があり、吹きぬけの手すりにそって、さらにいくつかの大部屋があった。もうもうと煙がたち込めるバラックの迷路を、二、三百人の老若男女が埋めつくし、飲み、食い、語り、笑いさざめいている。イラン人らしい客たちもいる。欧米人たちもいる。バンコクかどこかの裏町を思わせるいい店だ。久しぶりに、後藤さんとゆっくり語りあった。インドのテロ事件や、オバマのこと、チベットのこと、非暴力への展望、文学のことなど話は尽きなかった。 帰宅すると南米のブエノスアイレスからメールが届いていた。管啓次郎さんに招かれて明治大学で話をすることになり、つい数日前、「それでは、12月20日にしましょうか」と相談したばかりだった。どんなことを話すかまだ何も決めていないのに、南半球のブエノスアイレスまで、すでに風の便りが届いていたのだ。そのころ帰国する予定だから出席するという。ネットというのは凄いものだ。 ブエノスアイレスはいま夏の盛りで、ハカランダの花が咲き乱れているという。とても好きな樹木だ。初めて知ったのは、カリフォルニアにいたころだった。街路樹から、藤色よりもやや濃い紫の花がたわわに咲きこぼれていた。スペイン語の花の名を英語読みして「ジャカランダ」と呼ばれていた。メキシコでは、たしか「 ヤカランダ」と呼ばれていたような気がする。私の耳にはそう刷りこまれている。中米コスタリカの首都サンホセの通りも、いちめん紫の花に埋めつくされていた。満開の桜のように、花が樹木全体をおおっている。カリブ海を密航していく直前だったせいか、地上の見おさめのように美しかった。 081205 「すばる」の清田さんと、鶴見へいった。かくべつ用事があったわけではない。鶴見には南米や沖縄の料理店が多いというので、かねてから関心があったのだ。一つの店が、ブラジル料理、沖縄料理という看板をかかげている。なるほど、まさにクレオールではないか。 私たちが入った店は、ボリビア料理と沖縄料理をだしている。まわりから聞こえてくるのはスペイン語ばかりである。だが客たちの顔や姿は、こちらとなんら変わらない。沖縄から南米へ渡った人たちの、三世、四世たちが働くためにやってきて、この鶴見区に多く住みついているのだろう。おかんした日本酒を静かにすすりがら語りあっている。ポルトガル語も混じっているかもしれないが、私の耳にはそのちがいが聞きとれない。清田さんは、なんとスペイン語で料理を注文する。 私のスペイン語は、文法などきちんと学んだわけではなく耳や肌で覚えただけだから、もうすっかり錆ついている。鉄錆の粉のようにもろもろになって、脳からこぼれ落ちてしまった。こうして記憶は滅びてゆく。燃えあがり灰となったアレキサンドリアの図書館のように。 龍舌蘭のテキーラや、甘いけれど濃いブラジルの砂糖黍の酒など飲んだ。シークァーサー(沖縄のゆずのような柑橘類)のジュースを混ぜたビールが、びっくりするほど旨かった。アシチビティー、海ブドウ、サーターアンタギー、缶詰のポーク、シークァーサーのぽん酢などを買い込み、それから店を変えて、ひさしぶりに沖縄そばを堪能した。わたしたちのほかに客はいない。風邪をひいて声がでないという主人は、黙々と三線を弾く。雨あがりの澄みきった夜空に、シリウスが光っていた。 081212 引っ越してきてから三か月ほど過ぎたというのに、本を入れた段ボール箱がまだ50箱ぐらい山積みになっている。書架が足りないからだ。だが部屋がすっきりして気持ちいいから、当分このままにしておこう。もしかすると一、二年、このままになっているかもしれない。 それとはべつの、生活用品の段ボール箱を開けているとき、紛失したと思い込んでいたカセットテープが出てきた。スペインのギター奏者、パコ・デ・ルシアが二人のジャズ・ギタリストたちとの協奏した "SUPER GUITER TRIO LIVE" という曲だ。 大竹伸朗がダビング編集して、ニューヨークへ送ってくれたテープだった。最高の贈りもので、まさに私の宝ものであった。雪が降りしきる夜、地下室にこもり、音の繭(まゆ)に包まれるようにひたすら聴きつづけていた。いったい何百回、聴いたことだろう。頭上が凍りついている冬、熱風のような音のうねりに鼓舞されながら『ぼくは始祖鳥になりたい』を書きつづけた。 帰国するときも、そのテープだけはバッグに入れて持ち帰ってきた。西早稲田の仕事場でもそれを聴きながら、『ぼくは始祖鳥になりたい』の第二部『金色の虎』を書きついでいった。伊豆や、東北の田舎にこもるときも、かならず持っていった。ところがある時から、そのテープが見つからなくなった。もしかすると、カセットデッキが壊れたとき中にテープを入れたまま捨ててしまったのかもしれない。歯ぎしりすほど無念だった。 つい一か月前、たまらなくパコ・デ・ルシアを聴きたくなって、タワーレコードで探したけれど "SUPER GUITER TRIO LIVE" は見つけることができなかった。やむなく "PACO DE LUSIA GOLD" というベスト盤のCDを買ってきて聴いていた。そんなとき、紛失したと思い込んでいたテープがひょっこり出てきたのだ。飛びあがるほどうれしかった。夜ふけに延々とそれを聴きながら、長編Xを書きつづけている。 081213 ネット配信されるニュースで、意外なことが伝えられていた。今年、東宝が配給した映画の興行収入は、11月の時点ですでに700億円を突破したという。過去、最高の記録である。これまでの最高は、昨年の595億円だったそうだ。映画はかつて、斜陽産業の典型であった。友人の監督たちも資金不足で映画が撮れず、長いこと不遇な時代がつづいていた。 だが、いつのまにか映画は復興してきたようだ。むろん、テレビがらみの娯楽映画が主流だからクォリティーはかなり低い。これが映画かね、とつぶやきたくなるようなものがほとんどだ。それでも商業的に復興してきたのはうれしいことだ。娯楽としてなりたち、人びとが映画館に足を運んでくれる状況のなかから、いい映画も徐々に生まれてくるはずだから。 映画にくらべると、文芸の世界はまだ真冬の時代がつづいている。多くの作家たちが困窮に耐えつづけている。時勢に乗ってあからさまに文学を冷笑する声を聞き流しながら、黙々と書きつづけている。いつか、文芸復興の日がやってくることを祈る。言葉の力が再生してくることを祈る。 081214 つい先日、渋谷駅で乗りかえるとき、岡本太郎の「明日の神話」を初めて見たけれど、かくべつ、なにも感じなかった。あれをアートと呼べるのか。メキシコのホテル・オーナーに注文されて描いた、壁画ふうの、きわめて分かりやすいイラストのようなものではないか。 「痛ましい腕」など、初期の作品は素晴らしかった。縄文文化論、沖縄文化論などの著作も素晴らしかった。けれど有名人になって、テレビで目をつりあげ「芸術は爆発だ!」と叫んでいた岡本太郎は、すでに滑稽な道化ではなかったか。いつのまにか、なにかが形骸化してしまったのだ。長崎の「平和祈念像」はプロレスラーのような筋肉隆々の姿で、見るたびに、いたたまれない空々しさを覚える。「明日の神話」も、それに似た空々しさを感じさせる。 081216 あたらしい仕事の打ち合わせのため、新橋へ向かう途中、渋谷で乗りかえを急ぎ、考えごとをしながら歩いているとき、ふっと目に飛び込んできた色の渦があった。なにかしら元気にしてくれるような波動がくる。目に飛び込んできた赤い炎のようなものは「明日の神話」であった。 二日前の深夜、焼酎を飲みながら岡本太郎についてかなり辛辣(しんらつ)なことを書いたばかりだった。あの絵は、原爆とはなんの関係もない。痛みもなく《原爆の火》をただ造形的に使っただけではないか。だから空々しいと感じたのだが、批判するという行為はいつも忸怩(じくじ)たる思いをひきずってしまう。 にらみ返されているような気がして、立ちどまった。通路のへりへ退き、全体を見渡せる位置に立ち、あらためて壁画を見つめ返した。コンクリートや、鉄、ガラスばかりの無機的な空間で、色が踊り、笑っていた。 絵画としてすぐれているとは、どうしても思えない。色が浅い。思想性も浅い。空間に緊張がない。そうした思いは変わらないが、それでも生きることをはげまし、元気づけるエネルギーがある。生を鼓舞するような波動がくる。ああ、岡本太郎に対して無礼であったと壁画に黙礼してから、新橋へ急いだ。いよいよ修羅場のような仕事が始まる。 081220 明治大学の大学院で「特別講義」をするため、生田キャンパスへ出かけていった。《新領域創造専攻ディジタルコンテンツ系》という新しい大学院だ。理系と文系という二つの川が合流する領域ではないかと思われる。そこからなにが生まれてくるのか、私も関心があった。 管啓次郎さんに案内されて、まず図書館ギャラリーでひらかれている佐藤文則さんの写真展を見にいった。ハイチ中部にある《滝の聖地》に集まってくる巡礼たちの写真だった。トランスに入って恍惚とする黒人女性たちの美しさに息をのんだ。浅い川に身をゆだねて、水面から顔だけのぞかせながら漂っていく女性の美しさにも茫然となった。なんという至福だろう。 これが宗教性の頂点であり、あらゆる芸術がいきつく、奥の、奥の、至高点ではないかと思われる。そこから先は、言葉も、色も、音も、すべてが消滅してしまう。スパンコールをぎっしり縫いこんだ布の絵も素晴らしく、壁からはがして盗んでしまいたくなった。 ハイチの写真に圧倒されて、もとよりあやしげな「特別講義」はすっかり調子が狂ってしまった。もっともらしい顔をして、もっともらしいことを話すのが、なんだかはしたなく、気恥ずかしいような気持ちに囚われてしまったのだ。これで一時間半はもつだろうとメモしていったことを、わずか三十分で話し終えて、冷汗が出た。質疑応答に切りかえて、なんとか急場をしのいだ。 一般公示せず、ごく内輪の集まりだったが、田口ランディさんも来てくださった。つい先日『聖なる母と透明な僕』という本を読んだばかりだった。父親の指についての文章に、総毛立つようなリアリティを感じた。聡明な人であった。友人たちとも再会した。ブエノスアイレスから駆けつけてくれた女性もいた。 文化人類学者の蛭川立さんも来てくださった。蛭川さんとはずっと以前からメールを交わしあっていて、しかも転居したところはすぐ近所である。帰り道、私のところに寄ってもらって、シャーマニズムや先住民たちの意識の変容について、朝の五時まで語りあった。いくつもの川が合流しつつ、海へ向ってゆくような一日であった。 081222 管啓次郎さんの「重力がほどかれるとき」という文章を読んで、いろいろ考えさせられた。鈴木一誌氏がレヴィ=ストロースについて記した文章についての考察からはじまるのだが、引用と引用がからみあってテキストがあまりにも複雑だから、そこの部分を簡潔に要約してみよう。 ドキュメンタリーは、地球上のあらゆる生きものが甘受せざるをえない重力を写すものだ。どのようなテーマであれ、重力とともに生きるほかない存在としての生きるものを描きだす。だが、フィクションはこれを無視して進む。物語は、重力を無化する権限をもつからだ。フィクションのなかでも、エンターテインメントにおいて重力ははるかに自在である。それに比して、純文学では、身体や物体の重さが比較的、尊重されている(以上、要約)。そして、管さんは次のようにつづける。 「結局ぼくは、石が軽々しく飛行したり、打球があっさりと場外ホームランになったり、誰もがイカロスのごとく太陽にむかって飛べたりはしない世界に、すなわち地上に重力によって繋留されたこの世界の日々の見え方に、より大きく惹かれるところがあるのだろう」 ああ、そうかと腑に落ちるものがあった。小説を書くとき、つねにそこに引っかかっているからだ。SFやエンターテインメントの想像力は、たしかに重力を無視して自在に飛びたっていける。重力が存在していることを、ほとんど意識していないのではないかと思われることもある。だが、重力によって繋留されていない想像力や思考には、どうしてもある種の空々しさがつきまとう。安易に飛びたつことはできない。そこがエンターテインメントと、いわゆる純文学(シリアス・ノベル)との境界だろう。 わたしたちの脳さえ重力に繋がれている。 すぐれた小説は、重力をふり切ろうと懸命にあがく。 重力と想像力がぎりぎりせめぎあい、引き裂かれ、 宙吊りになり、地上と往還しつつ、 そして小説は存在する。 081223 mixiの足跡を辿っていくと、その人の日記に「ナナオ」というタイトルがついていた。クリックすると、今日、詩人ナナオ・サカキが他界したと記されていた。ナナオの死を知らせるために、さりなく足跡を残してくださったのだろう。 ナナオに出逢ったのは、高校生のときだった。以来、自分の人生は急激に変わっていった。ナナオは、南九州の高校生にすぎない自分に、ジョイスの『ユリシーズ』を原書で読むことを強いてきた(むろん、きちんと読み通すことなど、できるわけがなかったけれど)。 ともに旅もした。真夜中、海辺に畳半分ぐらいの星座表をひろげ、懐中電灯で照らしながら、水平線すれすれの星空に目をこらして「南極老人星」を探したこともあった。緯度の上では、ぎりぎりで見えないはずであるが、暖まった大気の屈折で見えるかもしれないというのだ。その夜、私たちはついに「南極老人星」を見つけた。見つけたと、いまも思っている。そんな出逢いがきっかけで、大学へいかず、ドロップ・アウトする決心をした。旅に出ようと決めたのだ。最初の道案内者が、ナナオであった。 享年八十五歳。合掌。 深夜、日付を越えかかったころ、北海道に住む人の足跡を見つけた。雪原の足跡のように思えた。辿ってゆくと「長老ナナオ、星になる」というタイトルの日記に、死のさまが記されていた。 「詩人のナナオ・サカキさんが亡くなった。長野の大鹿村で、朝食の時間ふらり外へ出たきり帰らず、不審に思った家人が外へ出てみると、少し離れたところで倒れていたそうだ。その表情は笑顔で、まるで眠っているようだったという」 081224 航空便で、やや大きめの封書が送られてきた。切手は貼られておらず、ROYAL MAIL と印刷されている。紙質はかなり質素である。消印の代わりなのか、BUCKINGHAM PALACE(バッキンガム宮殿)という日付入りの赤いスタンプが押されている。 ある教え子からのクリスマス・カードだった。かれはオックスフォード大学に留学して、いま英国王室でリエゾン(外渉担当とでもいうべき職務)として働いている。中国で生まれ、日本で育った優秀な青年だ。中国・イギリス・日本の架け橋になろうとしているのだが、今年の三月、チベットの動乱が起こってから、ずっと連絡が途絶えていた。ブログも消えた。だれよりも深く心を痛めているはずだし、北京オリンピックなど、かれの複雑な立場がよく分かるから、あえてこちらからは連絡を取らずにいた。 人は黙っていたい時があるはずだ。自分も、雨戸を閉めきって、ふとんにもぐり込んで、ただひたすら黙りつづけている時がたびたびあった。 四川省で大地震が起こったとき、かれはロンドンから現地へ飛び、ボランティアをしていた。避難所のトイレ掃除など志願して、大量の糞の山と格闘していたのだった。チベットにも入っている。三月から対話を控えているいるけれど、かれのような青年がいることを、私はかすかな希望であると感じている。チベット問題について書くときも、ロンドンにいるかれが、この「海亀日記」を読んでいることを意識しつづけていた。 081228 NHKの窪田さんが訪ねてきてくださった。今日は仕事ではない。カスピ海のヨーグルトを分けてあげることになっていた。カスピ海付近の長寿村を調査した京都大学の研究者たちが、現地から持ち帰ってきたヨーグルトだ。それが札幌大学に渡り、当時そこで教鞭をとっていた今福龍太さんが私に分けてくださったのだ。 「カスピー君」と名づけている。もう十年ぐらい生きつづけている。旅に出るときも、冷蔵庫に入れておくだけで二か月ぐらいは平然と生きている。驚異のヨーグルトだ。夏になるとフローズン・ヨーグルトをつくり、蜂蜜をかけて食べる。まさに醍醐味である(醍醐とは、もともとヨーグルトのことを意味するそうだ)。窪田さんと、ガザの空爆のことなどいろいろ話し込み、それから枯葉の散る公園をぶらつき、トムヤムクン・ラーメンを食べにいった。 第10章へつづく xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx |