潔い言葉 宮内勝典 ![]() copyright Shinro Ohtake その才能に、いつも嫉妬めいた思いが湧いてくる芸術家がいる。 大竹伸朗はその一人で、かれの作品を見るたびに、ああ、こんな才能豊かなやつが同業者でなくてよかったなあと、つい安堵のため息が出そうになる。 『既にそこにあるもの』(大竹伸朗著 新潮社)というエッセイ集を、いま読み終えたところだが、さいわい嫉妬には悩まされず、爽快な元気を与えられた。アーティストだけが与えてくれる、大胆で、デリケートな高揚感だ。勇気といってもいい。それは徹底的に自分の眼でものを見る姿勢から生まれるものだ。 ここで大竹伸朗が「既にあるもの」と言っているのは、マルセル・デュシャンの「レディー・メイド(既製品)」に通じるはずだ。だが、大竹伸朗は、自然や景色さえも「既製品」「既にあるもの」として見ているようだ。このような覚めた視線は、美術史のなかに初めて浮上してきたのではないか。 「自分の眼で見る」というと簡単なことに聞こえるけれど、それはたった一人、裸足のまま、刃の上を歩きつづけるようなことだと思う。ぼくたちの視線や思考は、つねに誘導されている。時代や文化のコードによって知らず知らず催眠術にかけられている。大竹伸朗の文章にはそんなふうに誘導された言葉が一つもない。鋭く、軽やかで、覚めきっている。 たとえばニューヨークの街を歩いていても、かれの視線は路上に散らばる印刷物の切れっぱしなど、意識にひっかかる細部に向けられている(翌日には、それがみごとなコラージュに生まれ変わるのだが)。またロンドンにある「アウトサイダーズ・アーカイヴ」という、精神を病んだ人々、世の中の法を犯した人々の創造物のみを常設している個人美術館に感動する。「そんな極限的にシンプルな衝動に僕はアートの核を感じる」と。 絵を描くときのひらめきは音と同じところからやってくるとしか思えないと記しているが、このエッセイ集も、そこからやってきた言葉だけで書かれている。だから痛快なほど自由で、繊細で、ユーモアがある。そして倫理的なぐらい、大竹伸朗の言葉は、潔い。 「どんなに反則技にたけた芸術理論武装隊や美術関係者に囲まれていようと、最終的にそれを突破するのは結局熱い思い≠ナあると僕は信じている。どんなに笑われようとそう信じているのだ」 その言葉は信じるに足る。ここに一人の畏友がいると、ぼくたちを勇気づけてくれる。 東京新聞 99年8月22日 |